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Page 1: 思弁哲学 - 株式会社ケーブルテレビ富山ww3.ctt.ne.jp/~irie/De_Speculativa_Philosophia/De...思弁哲学・和訳-v.1--p.1 思弁哲学 ゲラルドウス・ドルネウス(訳:入江良平)

思弁哲学・和訳-v.1--p.1

思弁哲学ゲラルドウス・ドルネウス(訳:入江良平)

ver.1: 2019年1月31日

好意ある読者に̶̶著者の序言

「化学哲学の鍵」を、各々の章が個別的な扱いを必要とするような仕方で編纂した後、私は、これらの最初の諸章にをこの論文の最初の部分を仕上げた後̶、この最初の章の説明を、この哲学の勤勉なる愛好者たちに提供しないわけにはいかなくなった。それは、我々の仕事がどのように受け入れられたかを検証するためである。もしこれらの著作が歓迎され受け入れられるであろうと見えたなら、彼らは、いつの日にか、私の夜なべ仕事

からこれまで生み出されたことどもより大いなるものを見ることが許されるであろう。そうでないなら、私は他の者たちに、ここでこの問題において自分の才能を検証すべく委ねよう。もし彼らがより有用で優れた者であることを示したいと望むなら、そうすればいい。私自身としては、「鍵」を世に出し、諸段階を示すことによって、すべての人々に道を開いたということで、自分としては十分に成し遂げたのだと考えよう。私が十分に知っていることだが、自分の考え、少なくとも自分ですでに知っていること、あるいは大学で聞い

たこと以外には何も認めないのを常とする人々の大多数は、自然の、より深遠な神秘を探求する人々に対して牙を研ぐものである。実際、私はそのことに驚かない。長い間の労苦と少なからぬ費用をかけて勉学を終え、白髪にもなってから、

自分にとって新しい何か、聞いたことがないわけではないとしても、ほとんどあるいは全く理解できないようなこと、しかも彼らのよりはるかに優れているようなことが世に現れてくるというのを人々は苦々しく思うものだということを見てきたからだ。おまけにそれが最も古く権威ある人々によっても、最近の経験によっても、また健全な判断力を持つ人々からも認められていて、いかなる議論によっても揺るがされることがないとされているのである。老齢になって教わるのは恥ずかしいものだ。とりわけ、他人を教えることを常としていた者たちはそうだ。そ

れも、単純な名誉心というより、哲学的な名誉心によって動かされている場合にはそうである。我々が歳月と労働と金とを大学に浪費してしまったなどということがありえようか?しかし、我々はいわばより確固たるものに立脚しているのだから、より小さなものから身を引くことをはばか

らない。それゆえ我々は(彼らが我々に対してするように)大学で教えられていることを嘲弄したり、そんなものは何

も存在しないかのように、その全てを拒否したりしない。我々が言うのはただ、我々は、講義に頻繁に出席するより、経験からはるかに多くを学んだということであ

る。事柄そのものを理解できず、これを論破する能力はないのだが、しかし論文の中の粗雑な言葉とか構成の不備

〔をあげつらう〕最小の機会をも探し求め、それに噛み付く人々が、将来、たくさん現れるであろうことを、私は疑わない。この二種類の人々のどちらにも同じように答えよう。たしかに、このことに最も強く動機づけられている人々

は、事物の無用の諸事情には最小の注意も払わない、と〔だから細部の不備はあるだろうが、それは本質的ではない〕。これを真に認識するには人間の最長の寿命でも足りず、そしてまた真理の告知においては、衣装でごまかす余地はなく、そして真なることは優雅な言葉によっても饒舌によっても彩色されるものではない。〔上記の二つの批判には〕こうしたことを見るがよい〔と私は答える〕。私が、私の「鍵」の中で提示された諸原理の中の物理的な諸原理から、道徳哲学に転じてしまったなどと思わ

れることがないように、学識ある人々にその秘密を明かそう。物理的と見えるものは、常にではないにしても、哲学者にとっては時に道徳的なのである。̶̶他の人にはこ

の上なく隠されたものに思えるものが、隠されたものを読む人には、この上なく顕在的なものであるように。彼らは、このようなやり方で、自分の才覚だけで達成できないこと全てを嘲弄する人々に対し術を隠してきた

のである。

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ここから、私も同じことをしていると君は考えるかもしれない。というのも、術とその鍵を手渡した後、それから直ちに、それによって君たちの研究が段階的により高いところに進んでいくべき、媒介としての諸段階を私は提唱しようとしているのだから。いかに博識の、あるいは学識ある人であれ、道徳的に、あるいは少なくとも物理的に̶̶両方ともの方が良い

のだが̶̶これらすべての哲学的段階を通じて移行しているのでなければ、この自然の最も秘密の術に到達し得るなどということはありえない。哲学者たちをトートロジーないし冗長な反復だと言って厚かましくも非難するという連中にも不足することは

ないだろうと思う。彼らはこのようにして自分の無知を明らかにしているのである。というのも、この哲学においては、後で詳しく説明することの周囲を最初にざっとまわっておき、またその

[詳しい説明のその周囲の]後、再説によってある程度繰り返すというのが固有のやり方であるからだ。このようにして、頻繁な接触により、読者の精神はそれを確信するようになる。粗雑な強制によって無理やり押し付けられたことが、饒舌によって信じさせられるというのとは違うのだ。’すべての哲学者たちは、ある熱心な愛によって術に到達した。彼らはこれ[愛]をまた他の者にも勧めるが、

強制することはしない。君たちが予想するように、そこに黄金の山が隠れているというわけでもない。また、散々語られてきたかの賢

者の石、すべての劣った金属を(ある人々が言うところでは)鋳造者の黄金に変成する能力を持つ賢者の石があるのでもない。そうではなく、私は君に物理的な石を探求するよう提案する。それによって人間的な物質の、より不完全な金属(病気のことである)が、形而上的な、最も完全な金属に変成されうる。それらはエレイシリアと呼ばれ、すべての治療薬の中で最も単純なものである。’’ここですべての哲学者に、どれほど多くがこの研究に向かっていたとしても、哲学者たちの著作を文字通りに

取るのではなく、むしろ比喩的に解釈するように、と勧告しておきたい。古代人は精神と体の健康に最大の富を帰した。ここから明らかになるのは、ライムンドゥス・ルリウスのよう

に、この術を我々に伝えた人々の大多数は、自分からもっとも厳格なる貧困を守ったということだ。あるいは、他のものはヘルメス・トリスメギストスのように中くらいの生活をするか、あるいは豪勢な富を

持っていた。それはこの術から得たのではなく、親から受け継いだものだ。最も裕福なアラブの王だったアラブ人ゲベルがそうで、彼は先祖の事業のおかげで極めて豊かだった。それがどうであれ、私は知っている̶̶私がこの術の小さな弟子だった頃、私は他の人々と同様この大いなる

業によって豊かになりたいと願い、多大な労働と、悪臭と、健康を損なう有毒な気体の吸入と、そして少なからぬ金を費やした後、自分が時間と労力を無駄にした、ということを[知っている]。とはいえ、そのことが私の心を哲学のこの部分から引き離すことはできなかった。というより、一方では、

私は多くの人々の重要な勧告を読み、他方では、実験しつつ驚異的な自然の操作を目撃していたので、それによって私は船首を別な方向に向けるように説得されたのである。そして、私は金属を変成するためではなく、染色と解明のために金属的医療に関心を向けたので、こういう結

論に達した。すなわち哲学者たちは哲学的な染色剤の術について書いたのだ、と判断したのである。私も同様に、人間の体に適用できるような染色剤を実験したいと思った。その大きな理由は、私がかつて、これではなく別な(彼らが言うところの)知力によって医術に従事していたからである。最後に私は、アウレオルス・テオフラストウス・パラケルススの教説によって教えられ、いかなる医学的結果

を欲するとしても、それは神的な助けによって生じうるということを知った。私は錬金術的手段による人間の体の治癒についてもはや疑いを持たない。熱心な読者よ、これらが、私の労働から君に約束できることだ。実際、これは君の知的能力をおおいに研ぎ澄

まし、それによって君は、変成の術について哲学者たちによって書かれてきたことを理解するに至るだろう。もし君が、この研究からはもっと多くを望めると考えるなら、才能のより優れた人々から得ようとすることが

できよう。善き人よ、さしあたりは、私が熱心な人々のお役に立てるように提供したものにじっくり思いを巡らしたまえ。では、さらばだ。!

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第一章 思弁哲学について

思弁哲学とは、よく構成された精神(bene composita mens)の、体からの、自発的な引き離し(voluntaria distractio)を言う。それによって、真理についての認識に従事することがより容易になる。良くかつ真に思弁するためには、体の良い態勢(bona corporis dispositio)が求められる。それは精神を妨害し

ないような態勢である。これは二つの仕方で獲得されうる。すなわち自然的な仕方と術的な仕方である。自然的な態勢は術によって助

けられる。実際、自然によって否定されているような部分であっても、術によって獲得されうる。とりわけ、理性の行使によって、最終的には節度ある生活態度によって、そして哲学的医薬によって̶̶その一つ、あるいは同時に全部の利用によって。実に、これらすべての規定的な術語について、その意味するところをよりよく理解するには、[この本の]最後まで到達していなければならない。精神がよく構成されていると言われるのは、体の欲望を制御できるような絆(vinculus)によってアニムスがア

ニマと結びつけられている時である。体の態勢が良いというのは、体がその堕落した欲望に隷属することが極めて少ないことと理解されよう。そして最適であるのは、その構成部分が卓越した割合を獲得するに至ったときである。その時、体はそれ自身に属するものを追求することが少なくなり、精神に対してより従順になる。体が欲するものは全て堕落している。実際、体は、アニマの諸能力によらずしては何も欲することができな

い。アニマがその動力である。アニマは、善と悪の概念なしに単純に動く。体はまたこの種の運動に関与するが、その堕落した性質によって悪に従うことを欲する。アニムスがそれに抵抗する。アニムスは、善より他に何も勧めないのである。それゆえアニマは善と悪の中間に位置している。善についての意見は善から、悪についての意見は悪から得るのである。これは善が許容しているからだが(それ以外ではなく)、それは体に引かれたアニマが、善により動かされるアニムスの牽引に対して行う絶えざる抵抗のためである。この抵抗は、すべて善きものを勧める霊に対する、悪の強情と言うのが適切である。これをより良く理解するには、人間が三つの主要な部分、すなわちアニムス、アニマ、そして体からなってい

ることを知るべきである。アニムスは生命の空気孔と言われる。アニマはアニムスすなわち霊の器官である̶̶ちょうど体がアニマの器官であるように。アニマは体の命であり、アニムスと体とを媒介する実体である。もしアニマが体よりアニムスに執着するなら、精神ないし内なる人が立ち現れる。もし反対に霊より体に執着

するなら、精神ではなく、外なる人、および闇の深淵が現れる。アニムスは三つのものを喜ぶ。すなわち理性、知性、そして記憶である。理性は思弁の像を知性に示す。知性

は、この像を保存するために、秘密の記憶に提示する。第一の理性は、永遠の精神の、永続的にして不可侵の秩序である。人は神の賜物によってそこに参与している。知性もまたこれと同様である。知性は理性の理解力(rationis apprehensio)である。記憶も同様で、これは両者の保存庫だと言われうる。アニマは二つのものからなる。すなわち情動と感覚である。情動は自然的でも、また偶有的でもある。しか

し、これについては我々の「鍵」で論じたので、ここでは飛ばす。感覚は、視覚的か、味覚的か、嗅覚的か、あるいは触覚的なものの知覚である。われわれは、それによって感覚がアニマに知覚されるところの肢体をそれぞれの感覚器官と呼ぶ。感覚の知覚は、過去の事物の知識を、現在の表象によって、記憶の中に喚起する。野生動物もこれを人間と共有している。なぜなら、野生動物は現在のものが提示されている限りにおいての

み、その同じことを感覚によって反芻するからである。しかしその他に極度に優れた記憶の根がある。それはいかなる中間的表象によってでもなく、決して怠惰にならない霊の不断の活動によってのみ現れた記憶(dicta memoria)を培い、それを永続的に生き生きとさせる。この記憶の連続は、理性の育成を促進し、人間にのみ起こる。であるから、感覚は動物と共通であるが、理性は知的なものに固有である。なぜなら、獣は、現在の感覚を通

じてしか知らないからである。理性的動物は、理性的に動かされ、感覚される知性および感覚を通じて、その後で、あるいはそれを媒介として[知る]。再び(言う)、アニムスと体はその理性において相反的な反対物である。それらは、敵対する両者ともに参与

するアニマの媒介なくしては決して結合されることができない。しかし両極の一方は完全で他方は不完全であるから、運動が完全な側で起きると、媒介を通じて、不完全なものの完成へと移行する。そして逆も同様である。こういうわけで、神は万物を、三から一ができるように、創造した。すなわち神は平和と合一の創造者なの

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である。二と一は敵対的である。二つ組は拒否されねばならない。それは三つ組が一の中にまとまることができるようになるためである。このことは鍵で詳しく書いた。だからくだくだと繰り返すことはしない。アニムスは万人に共通である。しかし精神は万人に共通ではない。アニムスと結合したアニマを持つ者は極め

て少ない。多少とも精神に参与する者は多い。アニマの中で体を培う者、そしてアニマを体の中で培う者は、アニムスを知らず、これらの者にあっては、精神はなく、ただ狂気のみがそこにとどまる。それゆえ、精神が良く受容されているのは、アニムスとアニマが同時に到来し、体に受容される時である。な

ぜなら、これらの三つのものから調和的かつ不可分の一が形成されるからである。しかしこの友情は、分離に寄らねば決して起こりえない。それなしに形而上的結合は起こらない。一者は単独である。そして、もしそれが単独にとどまるなら、他のものと結合されえない。しかし、それが他

のものと結合されるべきであるならば、その他のものはその一者から分離されることが必要である。というのも、その一者以外には何もないであろうから。そしてこの一の諸部分はその象徴的な意味を引き出す、あるいは共感を持ち、容易に一へと集まる。しかし、それはそれらが一から間隔によって隔てられることが少なければ少ないほど、より容易に起こる。そういうわけで、体からの精神の引き離しが必要なのである。それは、かのものと他のものの合一がなされる

ためである。しかし、統一は完成を要求するので、完全な極から(先に述べたように)媒介を通じて不完全なものへと移行がなされる。それはこれを完全にするためである。一つに結びついたアニマとアニムスは、精神の体からのこの種の引き離しを通じて(これを自発的な死と呼ぶ

者もある)、体の中での権能と支配を獲得する。これはかつてはアニムス単独では持っていなかったものである。というのも、それによって自然的移行がなされるべき媒介の抵抗のゆえに[持てなかったのである]。なぜなら敵対しているものは、不和の部分からの中立的撤退と、双方の和解の部分からの参与なくしては、一つに集まらないからである。この最後の点において占星術の議論は揺らぐ。このことは、星々の配置が[ある方向への]傾斜を与えるとし

ても、しかし強制するわけではないということを教える。というのも、星々は人間の精神に比べるとはるかに劣っており、同様にほとんど、あるいは全く無知のものが、それ自身の奥深くでより高貴だということはありえないからである。確かに、もし人間の体がアニマを打ち負かし、それを堕落した体に隷属させたとすれば、私はそのことを否定しない。なぜなら、その時には、星々の体は人間の体より高貴になり、これらの星の体が、類似した体を備えているので、それらの情念を人間の体に押し付けることができるからである。簡潔に言えば、賢者は星々を支配するが、愚者はこれらに従属するというか、より劣ったものおよび苦境に従属するのである。精神に到達した賢者はそれ[精神]を涵養する。愚者とは、アニマの中で体を、あるいは体の中でアニマを愛

し、アニムスを無視する者である。このことはまた神の言葉によっても裏づけられている。アニマ(体の中のと理解せよ)を享受する者はそれを失い、それ(同上)を憎む者はそれを永遠に保つ、と。人が自分の体の悪しき欲望を実行するとき、彼は体の中でアニマを愛すると言われる。これに対し、実行はせ

ず、虚しい思惟を享受する者はアニマの中で体を愛するとされる。体の欲望を抑制する者は、体の中のアニマを憎み、また虚しい思惟に抵抗する者はアニマの中の体を憎む。このことを付け加える目的は、極めて高名な著者たち、とりわけ神学者たちの間でも、アニマが霊の代わりを

し、霊がアニマの代わりをしていて、無差別に受け入れられているからである。ここから、霊とアニマが、精神の構成の前から同一だと考えるべきではない。しかし、その後は、そしてこの点では哲学者たちと神学者たちは一致する。なぜなら、この精神を霊と呼んでも、アニマと呼んでも詰まる所は同じである。一つの呼び名が他方を排除することはない。すでに合一がなされているからである。合一は、不可分でなかったら真のものとは言われない。しかしながら、その完全な効果を実現しない合一の始

まりも投げ捨てらることはできない。これによって精神は生成しない̶̶むしろ、精神は今なお多かれ少なかれ不完全と呼ばれる。完全な精神に到達した者は極めて少ない。その始まりにいる人は多い。もっとも多いのは全く無縁な人である。さて、体の解剖学のところに来たわけだが(上述のように)私は言う、体のよき態勢は、真の思弁のために必

要だ、と。なぜなら(疑いもなく)体はその堕落した本性によってアニマをもっとも引き下げ、妨害しており、その分、霊の作用が知覚されることを妨げている。

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ある者は他の者より生来この分離の課題を遂行するのにより適している̶̶これらの人々においては、その有機体にすでに存在している自然的堕落に加えて偶有的に加えられた堕落が皆無かあるいは極めて少ないのである。適性のより少ない人たちは、原初の、および追加された堕落の他に、軽薄さ、ひどく自堕落な生活によって理性の働きを妨害している。世俗的な気遣いに振り回されている者たちと同様、彼らは世俗の外にある永遠的な事柄は無視し、自然が必要に応じてのみ与えるものを過剰に利用している。さて、何かが何かの増大によって妨げられているのなら、そのものの除去によってこれを助けることができ

る。かくして、他のどれより優れた術である錬金術によって調製された哲学的医薬がある。それ[その医薬]は、自分自身の体から離れていても、自然の作用力̶̶それらが自分の体の中に持っていて、その病気の部分を取り外した後にも保持している作用力̶̶によって、同じことを異なる体の中でも執行できる。それも、自然によって自分の体の中で遂行すべくそれらに与えられているより良く[執行できる]。その性質の中に形相と質料を持つものは何であれ、それ自身の種において完成されることを欲する。この自然

的欲望は万物の完成の最強の原因である。自然はまた自分と似たものとの結合を喜び、またそれを愛するので、精神が優勢になると、自分と似た医薬に助けられて、体は同じ性質へと落ち込むことを強いられる。それはちょうど、以前、かつて体が優勢だった時、アニマが、自分自身と類似した堕落によって強化された体に従うことを強いられていたのと同じである。これを不条理と思う人がいるかもしれないので、一言付け加えておきたい。栄養物は何であれ、血液の中で、

それ自身と同じ本性の栄養に変化させられるのである。自然は、獰猛な動物の肉を絶えず食べている人が極めて獰猛になるということの中に、その例を与えている。より精妙なもの以外のなにものも自然によって受け入れられることはない。粗雑で無価値なものは排泄物の中

に出され、また自然はすべての余計なものを、孔を通じてから汗として、屁あるいは涙を通じて、排泄する。これが我らが師テオフラストゥス・パラケルススをしてこう言わしめた̶̶何であれ体の肢体は固有の胃を

持っており、その中で栄養物が煮られる、そしてその中で必要なものから余剰なものが分離される、と。もしこれらの肢体の胃のどれかの脆弱性のために、消化障害から、こうした余分なものが分離されないと、これが余分な栄養物ないし肉を、このような肢体の中で、腐敗した膨張̶̶膿瘍と呼ばれる̶̶へと発達する、あるいは骨を自然に反して膨張させるよう強いる。その例を私はたくさん見た。そこでは、一方の側に沿った肢体がこの理由のために自然の秩序を超えて膨張し、かくして、苦痛に加えて、肩甲骨の下の隆起を作り出している。膿瘍の中の余分なものが、骨の硬さのために浄化できず、それ故にそれは膨れ上がり、浄化のない余計なものとなった、そしてそれはもはや圧縮されないので、苦痛なのである。しかし、哲学的医薬においては、粗雑ないかなるものも残らない。余分なものも残らない。この理由から、不

朽の自然がその医薬の全体を取り込み、それを、分離することなしに、自らと類似した自然に変化させる。すなわち余分さのないものに変化させるのである。不朽の自然は「自然的なバルサム」と呼ばれる。一度それが、体̶̶どのような種類であれ̶̶に植え付けら

れたなら、このような体の自然の色と体液もまた、可能な限り、堕落から保護される。このバルサムの欠乏を通じて、人体は癩病的になる、他方、増加によって、それはより強くなる、そして同じバルサムの不足によって今腐敗しているものは排泄される。この点で、哲学的医薬は物質的医薬と異なる。というのも、後者は、体と一緒に、胃へと運ばれるからであ

る。食物が三つの種類の栄養と二つの種類の排泄物に分けられるように、哲学的医薬はバルサム、メルクリウス、ヴルカーヌスとして運ばれる。なぜなら、物理的な体のこれらの三つの主要部分̶̶血液、塩、そして硫黄̶̶は、それ自身と似たものによって培われるべきだからである。そういうわけで、我々の日々の食物と飲み物はそれらの体とともに吸収されるのである。なぜなら、全ての元

素は一つの元素によって維持されるが、全ては同時に到来し、組み合わせにおいて、エーテルによって保持される。我々はこのエーテルに我々のバルサムを返し、バルサムを(そして、我々に出来る限りにおいて、類似したものを)結びつける。人体には、エーテルと似たある種の実質があり、それが体の中の残りの元素的部分を保存し、その力に応じて存続するのを助けるのである。かくして、哲学的医薬の霊は、アニマと結合し、それ自身の体から分離されて、精神的部分を、それ自身に似

た実質に変成し、それによって物質的身体を腐敗から守り、全ての腐敗した部分を癒すのである。我々は、我々の医薬が形而上的な体を持ちうることを否定しない。すなわち、その体が霊的にされ、霊がその体を着るとき

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に[そうなる]。それゆえ哲学者たちは「揮発性のものが固定され、最終的に、固定されたものが揮発化される」と言うのである。確かに、物質的な体は、形而上的な体より卓越したものによって癒されることはありえない。また人間の精神

が形而上的な態勢(dispositio)より以上に良いものによって構成されることはありえない̶̶神的恩寵によるのでなければ。この全てから我々は、思弁哲学が、精神的合一による体の分離からなる、と結論する。しかしこの第一の合一(unio)はそれ自身では未だ賢者を作らず、ただ精神的な知恵の弟子を作るだけである。精神の体との第二の[合一]が賢者をもたらす̶̶最初の単一性(unitas)との完全で祝福された第三の合一を希望し、期待する賢者を。全能の神は次のようになされた̶̶我々がこれら全てのものをもたらし、かくて一が万物の中にあるように、

その助けによって我々は今や、このもっとも幸いな哲学の、真理の第一段階に到達する。研究は、これが最も真摯な哲学者たちによって確証されたことを示した。しかし、まず、再説によって、先に議論されたことを、より明瞭に説明しよう。

第一章の再説

精神は、信仰と同様に、そしてすべての徳〔効力〕がそうであるように、真に神の無償の賜物である。しかし、そこから、ある人々が考えるように、これらを得るために何らの労働も必要ないということは導かれない。というのも、神は怠惰でだらしない人々を顧みず、反対に、彼らの祈りを冒涜に等しいとして退けたまうからである。耕しも種まきもしようとせず神にパンを乞うのは確かに大いなる狂気である。同じく、そのための勤勉を何ら

実践せずに、精神を望み、期待することも、それに劣らぬ狂気である。しかし最大の狂気は、前もって神の好意を乞うことなしに、労働だけでこれを獲得できると考えるほどに無知

であることだ。神は、勤勉なる者たちが健全なるものを願い求める時、彼らをその祝福で満たす。そして怠慢な者は、たとえ願い求めたとしても無視し、その願いに耳を傾けないのである。人が口だけでなく、心で、そして情動とともにそれを求めるとき、本当に願い求めると言われる。それゆえ、

哲学の第一段階に進む前に、弟子たちに勧告すべきだと私は思った̶̶神の助けを願い求めること、次いで、最大の細心をもって、そのような恩寵を受けいれるべく自分自身の態勢を整えるように、と。この態勢についてこの論文では詳しく述べておこう。恩寵は上から、光の与え手、至善至高なる神から求めるべきである。私が上で精神を定義した、などと誰も思わないでほしい。パウロもまた同じ言葉で、信仰は、自分の努力によるのでもなく、神以外のいかなる他のところからでもなく、神のみから求められねばならないと言ったが、それと同じである。術的[人為的]な態勢(artificiata despositio)の最強の部分は三つである。すなわち、それぞれ自然学的、道

徳的、形而上的部分である。この論文では、あらゆる箇所で、この三重の仕方で進むことが必要である。そのことは読者には後で明瞭になるだろう。知恵の息子たちのために隠されてきたこの宝庫を、悪しき生活を送ってきた人間が所有することはありえな

い。また狂気の人間が、それを探求すること、ましてや発見することに適しているということもありえない。我々が、形而上学的医薬によって修正されるべき道徳的堕落、および物質的堕落について語る理由はここにある。人間の体内には、ある種の形而上的実体が隠れている。それはほとんど知られておらず、内面にいかなる医薬

も必要とせず、それ自身が不朽の医薬である。それは自然的な体の堕落によって覆い隠され、妨げられており、その分、作用を行使できなくなっている。哲学者たちはある種の神的な霊感によって、この徳〔効力〕と天上的な活力とをその枷から解放できるということを知った。それも、自然的医学が教えるように、反対物によってではなく、それに類似したものによってである。この物質と似たものは人間の内部にもその外部にも見出され、似たものは似たものによって強化される̶̶す

なわち戦いによるより、平和によって強化され、反対のものは反対のものによって排斥される̶̶賢者たちはそう結論したのである。ここから、可変的なものの医薬が三つの部分からなるのは明らかである。すなわち、形而上的、物質的、そし

てまた道徳的部分である。物質的な体の態勢を人為的[術的]に作るために、我々は形而上的医薬を用いる。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.7

それによって堕落を自然的な消化と排泄だけに制限するのである。これは自然が自らに固有の仕方で、しかも強化された仕方で行う。これが我々の形而上的仕方でなされた物質的な体の準備である。これによって、我々は堕落による妨げなしに、より容易に分離に到達する。ここから注意深い読者は、形而上的なものから錬金術を経て物質へと、哲学的操作をしつつ移行がなされねばならない、と結論するだろう。というのも、術は̶̶大学で聞かれるのであれ、私的に読まれるのであれ̶̶、潜在性から顕在性へ引き出さ

れるのでなかったら、人間にとって、彼の鸚鵡の「やあ、ご機嫌いかが?」以上に有用であろうか。確実にゼロである。というのも、経験によって試されていない全ての知識は、ぜんぜん術ではなく、しかしてまた強情な無知だからである。今や、我々は意欲的な分離に進もう。それは道徳哲学によって達成される。体の準備が完成すると、それは容

易に残りの部分から分離される、というのも、アニマにより、哲学的必要を超えて何が欲せられるとしても、それはアニムスないし霊の説得により否定されるだろうからである。哲学的必要が何であるかは後で述べられるだろう。この分離から、第一の合一が結果する。すなわち、道徳哲学の絶えざる研究による霊とアニマの合一である。

これらのことを最初に研究者たちに提示する必要があったのは、彼らに次のことを理解させるためであった。すなわち、いかなる理由で私がここで、形而上学的なものを物質的なものと道徳的なものと一緒にしたのか、そして時には道徳的なものに形而上学的なものを混ぜたか、そして後者が前者および物質的なものと比較されねばならないか、〔を理解させるためだった〕。迷宮にとどまっている人々に対して、私が把握されるべきものへの入口を阻止しているように(大多数が通常そうであるように)読者に見えるといけないので[ここで付言しておく]。

第二章 哲学的研究 第一段階について

哲学者たちの研究は真なるもの及び必要なものの勤勉な探求である。真なるものとは、何も欠けておらず、なにものもそれを 助けることができず、ましてや害することができない

ものである。必要なものとは、我々が欠くことのできないものである。それゆえ真理は最高の徳〔効力〕である。難攻不落の城砦、ごくわずかな友軍がいるだけで、無数の敵に囲ま

れており、今はほとんど世界全体から見えないが、しかしそれを持つものにとっては、不可侵の保護である。この城塞には、真の、疑いのない哲学者たちの石が含まれている。それは虫にも食われず、泥棒にも盗まれ

ず、永遠に存続する̶̶他のすべてのものが溶解するときにも̶̶、多くの者には廃墟とされ、他の者には安全なところとされる。これは卑俗な者には最も安っぽいものであり、最もひどく軽べつされ、憎まれるが、しかし、哲学者たちに

は、憎悪されず、宝石や純化された黄金(aurum obrizon)より愛され、貴重とされる。万物を愛し、ほとんどすべてのものに敵対的で、どこででも見出され、かつ極めて稀にしか、否、ほとんど誰

にも見出されず、街路で叫んでいる。「すべての探求する者たちよ、私のもとに来れ、そうすれば私はあなたたちを真なる道に導くであろう」と。これは、真の哲学者たちにかくも賞賛されたあのものである。それはすべてに打ち勝ち、何ものにも打ち負か

されない。すべての硬く、強固な体と心に浸透し、さらにすべての柔らかいものを堅固にし、またすべての硬いものに対する抵抗を強化する。我らすべてに自らを現すが、我々はそれを見ない。それは声高に呼ばわっている。「私は真理の道である。私

を通って移行せよ。なぜなら他には生への移行はないのだから」と。だが我々はそれを聞こうとしない。それは甘い香りを放つ、だが我々はそれを知覚しない。それは毎日、気前よく、我々に供儀の食物として自らを提供する。しかし我々はそれを食べようとしない。それは愛想よく我々を引き寄せる。しかし我々はその魅力に抵抗し、感じようとしない。それは我々が石のように作られているからだ。目を持ちながら見ることをせず、耳を持ちながら、聞こうとし

ない。鼻を持ちながら、嗅ごうとせず、口と舌を備えていても味わおうとも、話そうともしない。手と足を備えていても、操作することも歩くこともしない。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.8

おお、憐れむべき人間種族よ。なぜなら、君たちは石より以上に優れていない。実際、石よりはるかに劣っている。石はそうでないのに、君らの行動には理性が与えられているのだから。変成されるがよい(とそれは言う)、死せる石からいける哲学的な石へと変成されるがよい。私は医薬、もはやそうではないものを、堕落の前にそうであったものへと回復し、変成させる。さらに、そう

でないものを、そうであるべきものに回復し、変成させる。見よ、私は君たちの良心の扉の前にいて、夜も昼もノックしている。しかし君たちは私のためにドアを開けな

い。それでも私は穏やかに待っている。怒って君たちのところから去ることもせず、辛抱強く君たちの不正に耐えている。君たちをそれに導くことを願いつつ、辛抱強く勧告している。もう一度言おう、私のもとに来たれ。何度でも言おう、私のもとに来たれ。君たち、知恵を求める者たちよ。

金や銀によって、あるいは自分の労働であがなうのではなく、自発的に君たちに差し出されるものを、無償で受け取れ。それは大きく響く、哲学する者の耳には甘美で、心地よい声だ。おお、真理と義に渇く者たちのための尽きることなき富の泉よ!おお、不完全性に遺棄された者たちの慰め

よ!不安な死すべき者たちよ、それ以上の何を求めるのか?なぜ君たちの心〔アニムス〕を際限のない気苦労でかき乱すのか?私は問う、君のいかなる狂気が君を盲目にしているのか̶̶というのも、君たちが自分の元でなく、自分の外で探している全てのものは、君たちの外ではなく、君たちのうちにあるのだから。これは卑俗な者たちが常とする悪徳である。つまり、自分自身のものを見下し、異国のものをつねに欲しがる

のだ。しかし、ここでは我々も、これを我々にとって適切とする。実際、善の中で我々自身から出たものは何もなく、善の中で我々が持つものは、ただひとり彼のみが善であるところの神から受け取ったものだけである。反対に、我々の持つ悪しきものは、異国の悪から、不服従を通じて我がものとしたものである。

第一段階および第二章の再説

哲学者たちは、真理の探求における彼らの研究を、理性と調和的な意見を通じて、感覚には捉えられないものにおいて行う(dirigo)。さらに、化学者の研究は、感官的なものの中の非感覚的な真理(insensuale veritatis in sensualibus)をその足枷から解放することである。それ〔非感覚的な真理〕を通じて天の効力は、精妙な技量をもって、探求される。誰であれ化学の術を学びたいと望む者は哲学を、それもアリストテレスのではなく真理を教える哲学を学ばね

ばならない。アリストテレスの弟子なら「お前はアリストテレスを嘘つきに仕立てるのか?」と言うだろう。私ではなく、彼自らが自分をそのようにする〔自らを嘘つきにする〕のだ。というのも、彼の全教説は両義性からできているが、これは嘘つきに最も適した外套なのである。彼自身、プラトンおよびその他を非難したが、それはただ名声を求めるためのことである。批判のために用いられる道具としては、両義性より以上に適切なものは見出せなかった。これはすなわち、自分の著作を左から攻撃する者には対しては、右側の避難所によって防御し、その反対には〔反対の避難所によって防御する〕この種の詭弁は彼のすべての著作に見られる。ることができる。どんな凡庸な学者でも、それを二つの仕方のどちらかで解釈できるのである。ソフィストたちは、すでに彼らに打ち負かされているが、その虚偽を隠すことのできる策略を弄することに常に専心している。それは驢馬〔愚か者〕の盾として、危機に瀕した者たちが逃げ込む聖なる最終避難手段である。原理の否定に対してはいかなる議論もない(と彼らは言う)。彼らがこの防御を構築したのは、理由のないこ

とではなかった。というのも、彼らの術はそもそもの初めから虚偽の原理でできているからである。ソフィストたちに対抗するには、諸原理が虚偽であるかどうかを極度に注意深く吟味するより良い方法はない。この罠によって(??hoc retilitio??)、彼らは誰であれ不用心な人々を捉えようと試みるのである。しかし、今はこれに関わることはやめておこう。これを著作において吟味し論駁するときがくるまでは脇にお

いて、我々の化学研究に戻ろう。化学における真理は、手による実践と火の占いを通じてなされる、全体からの部分の分離を手段として探求される。それが錬金術師たちの研究なのである。

第三章 認識と呼ばれる、哲学者たちの第二の段階について

認識とは、何らかの概念の真理性についての意見の、経験による、確実かつ疑いのない決定(レソルチオ)である。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.9

真理についての意見は、アニムスに刻印された、しかし疑わしくもある、先入見である。経験は真理の明白な証明である。そしてレソルティオとは疑念の除去である。疑いを解いて確実性に達するには、経験による以外に道はなく、それには、われわれ自身の内部以上に良い場

所はない。であるから、真理について先に語られたことを、我々自身から初めて検証しよう。われわれは前に、敬虔は自己認識に存すると言った。それゆえわれわれは哲学的認識をそこから[ab ipsa =

自分自身の認識から]始めよう。誰も、自分自身を真に認識できない̶̶自分自身が何(誰ではなく)であるか、何に依存するか、あるいは誰

のものか(なぜなら、真理の法によれば、誰も独立してはいないから)、いかなる目的のために作られたかを知らない限りは。これらのことが知られて、敬虔さは始まる。それは二つのことに関わる。すなわち、創造者と、彼に似た被造物である。被造物が自分から自分自身を知ることは不可能である̶̶彼の創造者が知られるのでなければ。それゆえ、誰が自分自身の原因について確信できる以前に、自分自身の結果について確信できるだろうか。全ての始まりはその中間、および終わりに先行するのではないか?あるいは、物事の終わりから着手する人がいるだろうか?神は始まりも終わりもなく、それ自身により存在し、全き栄光に満ちているが、しかし彼の純粋な好意によっ

て、それを自分一人で所有することを望まず、その栄光に、彼の像にかたどって創造したところのかの者たちを参与させることを望む。これは彼の気前の良さの最初の、かつ神秘的な型である。それゆえ、我々が、真理から[真理の知識を得てなおかつ]、この賛嘆すべきアルカーヌムを知らずにいるなどということがどうしてあるだろうか。兄弟たちよ、聞いてくれ、ちょうど我々が最も貴重な物によって最も卑しいものから造られたように、我々が

造られた質料のために、我々は、我々を卑しいものから、彼の次に最も貴重な物へと作ったその方より、あらゆる卑しいものへの傾向がある。実際、もし我々がかくのごとき尊厳の段階にとどまっていたならば、天使よりも良いものであったろう。君た

ちは賛美するがよい̶̶惨めな死すべき者たちがどれくらい私と共にあるとしても̶̶事物の至上の創造者が、地の泥の最も卑しいものを手で扱い、そこから最も貴重な被造物を立ち上げようと望んだことを。それが必要もないのになされたと考えてはならない。その目的は、自分は何であるかを知り、高揚の傲慢に陥らないようにすることさから我々自身を抑制するためである。そのようにしないなら我々の中の誰一人として、神が選んだ貧者を憎むことはないだろう。というのも、彼〔貧者〕もまた我々すべてがそれからつくられた同じ塊から成り立っているのだから。であるから、神は人を分け隔てなさらず(使徒, 10:34)、貧困と謙虚を愛し、そして高慢の高ぶりを憎まれる。

作者は作品によって知られる。誰も創造者をその作品によって知るよりよく認識することはできない。それゆえ、最も卑賤なものから最も貴重なものを生じさせることのできるのは誰であるかを考えよう。それはその両方を創造した者より他にはない。献酌侍従がどうやってもワインを水に変えることはできない。しかし水とワインを創造した者はそれができ

る。だが地を生きたアニマに変えた時、彼はそれ以上のことをしたのである。そして最大のことは、祝福の至高なる賜物、すなわち彼自身の像と類似性を 付与した(imagine similitudineque suis dotavit)ことである。これら〔eas=像と類似性〕を通じて全ての者̶̶この賜物を受け入れる全ての者̶̶が救われる。しかし、これを無償で受けようとしない者は何を与えられるだろうか?確かに、何もない。それゆえ、彼らは自分のもの、彼らのためにとっておかれる裁きの場所を持つことになろ

う。彼ら各々の持分は、始めから選ばれているその所有物、すなわち地獄行き(damnatio)である。感謝の行為をもって受ける者たちには、永遠の救いの賜物は無償である。我々は高価であり、また安価でもあるので、我々の中の誰でもそのどちらを選ぶべきかは自ずから極めて明瞭であり、それについての詳しい説明は不要である。我々は自分が卑しいものであること、そしてそこから最も高貴なものになったことを知っている。この点にお

いて、いかにして、あるいはいかなる目的のために、我々が作られたかについて考えることが残っている。万能の神は最初の人間アダムを彼の像と似姿にかたどって創造した。それは、彼が神自身の栄光のために存在

し、不死で、不安もなく、欠乏もなく、常に神において喜び、地上の情念に従属することがないようにするためであった。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.10

しかし人間は、かくも大きな賜物をきちんと認識していなかった。神から出て作られ、完全で、知る者であったから、知ってはいた。だが、その認識に留まらなかったのである。それゆえ我々は、神の贈り物と言葉の認識がどれほどの善を、そしてその軽視がどれほどの悪をもたらしたか

について考察しよう。というのも、それらは永続的な不死の者を死すべき者に変えたのだから。なぜなら実際、このような人間は永遠に死んでおり、常に死の苦しみの中に生き続けて、決して死ぬことをやめない。それゆえ、これは永遠の死と言われることになる。ちょうど、神とともに生きる生を永遠の生と言うのと同じである。とはいえ、我々はこの生を生きることを決して自分に許さない。最初の親が我々すべてを彼と一緒に全能の神に対する反逆者・敵対者にしたので、平和の作り手である彼は、

憐れみに動かされ、頑なになった我々と平和を結ぶことを望んだのである。この神の善意の神秘を心で熟考して、しかも彼の敵と――たとえ、彼から損害を受けたとしても――和解しないほどに石のようなものがいるだろうか。それゆえ、死すべき者の間の敵たちのどちらも――攻撃する者も、また攻撃される者も――和解のために相手

に近づこうとしない、などということがあるのだろうか。そんなことがあるとすれば、それはたしかに、自分自身を認識しておらず、その結果神も、自分と極めてよく

似た被造物も認識していないからだという理由以外ではありえない。それゆえ、平和を知らない者は、平和を抱擁しないと結論できる。なぜなら平和は慈悲の根であるから。そして平和を持たない者は、慈悲を行わず、平和を持つ前には、慈悲を理解することもない。我々はここで平和と慈悲を混同してはいけない。なぜなら、平和は慈悲の原因で̶̶敬虔が平和の原因である

ように̶̶だからである。それゆえ、もし敬虔の認識によって神と平和を持ったならば、同じく、隣人とも̶̶敵であれ、友であれ̶̶

必然的に平和を持つことになろう。とりわけ、かの至高の創造者が、虫けらにして悪魔の奴隷に対し、彼の平和の抱擁を通じて、憐れみを示す時

には。おお、惨めな死すべき者たちよ、我々はいかほどの慈悲を神から期待するのか̶̶我々は、その面前で、自ら

の惨めさを、口によってと同様、行為によっても認めない。私は尋ねたい。心の後悔による、改変においてなされる惨めさの告白以外のどこから来るのか?しかしもし、最終的に我々のそして我々の同胞の惨めさを無視しないとするならば、この世の富において豊か

になって、それに見合った補償をするとしても、我々はそれによって自分が永遠の富において、世俗的富を全く欠いた人々より豊かになったと考えてはならない。死すべき者たちの中でこれを真に熟考する者は、この世で、自分に委託されただけの財の共有によって、窮乏

せる兄弟を慰めないであろうか?これを熟考する者が与えられるなら、私は直ちに、この神的な秘密を知るものを示そう。この全てにおいて、至高の神は我々に対する愛をそれまでは十分に示すことをお望みにならなかった。実際、彼は彼の義̶̶そこからは何一つ減ずることができない̶̶によって我々を告発しつつ、ご自身の息子

よりも、むしろ我々を大切にされた。この息子の中で、平和と正義が相互に抱擁しあっていたのである。だとすれば、なぜ我々は、キリストにおいて作られた兄弟たちとして、互いに抱擁しないのか。というのも、

至高の創造者が、我々惨めな虫けらを、彼の一人息子において、自らの悪のために最も卑しくされたものから、最も優れた被造物とされたのだから。息子において神を認識し、同じく、聖霊を通じて(聖霊には抵抗できない)、父において息子を認識する者た

ちがどれほど多数であるとしても、その者たちはまた〔他の人間を〕他の種類の誰かではなく、同胞として認識するのである。これらは真の哲学の真にして疑い得ない基礎である。しかし、これらは、たとえ多数に聞かれているとしても、いまだ万人に認識されてはいない。今なお、その他

の、よく心が決まっていない人々のアニムスには、今述べたことの想像が、我々のうちに真理への愛を呼び起こす能力を持つかどうかについての疑惑が残っていることがありうる。こういう人々にとって作業の持つ価値は、自分自身による、そして自分自身における経験をなすことによっ

て、この両義性を、以下のような仕方で除去するということである。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.11

各人が上で述べられ、味合われたことを注意深く考察し、真摯なアニムスによって反芻せよ。そうすれば、少しずつ、幾つかの火花が、彼の精神の目によって、徐々に、日に日に、光を放つのを知覚するであろう。それから、連続して、反芻の持続によってかくも大きな光へと成長するのを知覚するであろう。その結果、彼に必要であろうところのものが次から次へと知られるであろう。彼はもはや何であれ真理のことで途方にくれることはないであろう。〔彼は〕先に述べられたような儀式とやり方で、徐々に、敬虔および正義の実践に馴染んでゆき、アニムスの

静穏さを感じるだろう。そのようにして、〔彼は〕最終的に〔アニムスに〕誘い込まれ、その中に、体の中におけるより大きな喜びがあることを理解するであろう。なぜなら真の認識が始まるのは、永遠的なものと儚いものの比較、一方の命と他方の死の比較によってアニマ

がアニムスと結合することを選んだ̶̶こちらの喜びが、体のそれより大きいとみなして̶̶のちになってようやくのことであるからだ。この認識から、精神が立ち現れ、そして自発的な体の分離が始まる。一方では、アニマが体のおぞましさと滅

亡を、他方では、永遠のアニムスの卓越と至福を回顧しつつ、このものと(このように命じる神的な息吹により)結ばれることを欲し、他方は完全に無視し、その結果、神によって、その栄光と彼の救済のために囲い込まれたと彼が見るもののみを欲望するようになる。そしてついに体が、結合された二つのものの合一に身を委ねるよう強いられる。これこそ賢者らがわれわれに語り伝えている、体の霊への、霊の体への、あの奇跡的な哲学的変容である。す

なわち賢者らは言っている、「固体を揮発性のものに、揮発性のものを固体にせよ。それは君が我らの大いなる業を得るためである」と。(こう理解せよ。)惰性的な体を柔軟なものにせよ。そうすればアニマと調和しているアニムスの卓越性を通じて、あらゆる試練に耐える、極めて揺るぎない体が生ずるであろう、と。なぜなら黄金は火の試煉に耐え、それによって黄金でないものは全て拒否されるから。おお、最も卓越せる、哲学者たちの黄金よ!智恵の息子たちは、欲求された黄金ではなく、その〔哲学者たち

の〕黄金によって豊かにされる。歩み寄れ、君ら、かくも多様な試みをもって哲学者たちの宝庫を探し求める者たちよ、それが何かを探求に出

る前に、「投げ棄てられたのち隅のかしら石となった石」を認識せよ。誰かが自分の知らないものを求めるとはあらゆる驚異を超える驚異である。確かに、その真理を知らない調査者たちによって探求されるということは愚かしく見える。なぜなら、そこに

は何ら希望が残っていないからだ。それゆえ私は誰であれ熱心に探求する者に勧告する。君たちが探し求めるものの真の実在を、探求する前に

知っておくように、と。このようにすれば、彼らが仕事によって欺かれることはないだろう。賢者は、彼が愛するものを探し求める。しかし、彼は知らないものを愛することができない。そうでなけれ

ば、彼は愚者であろう。なぜなら、全ての愛は認識から生まれる。それはあらゆる真の哲学者たちの中で栄える唯一の真理である。

第二段階の再説私がここで神学を論じようとしているなどと考えてはならない。そうではなく、〔私が論じようとするのは〕

農夫にも子供にも隠されてあるべきではないような事柄なのだ。しかし君たちはそこから、著作が文字通りに意味するより高いことがらを引き出す。知恵の息子たちは、そこからすべての物事において̶̶天の物事においても俗の物事においても̶̶知識と術を汲み出すのである。君たち、隠された自然の秘密を探求する者たちは、別な道を歩み、地上的なものの諸徳〔効力〕を地上的なも

のを通じて発見しようと試みる時、無駄な苦労をしているのである。それゆえ、地を通じてではなく、天を通じて天を、天の諸徳〔効力〕を通じて地の諸徳〔効力〕を認識することを学べ。なぜなら、誰であれ天(君たちが探し求めない天)から降りてきた者が彼を照明しない限り、彼が君たちの探し求める天に昇ることはない。君たちは、不朽の治療薬を求めている。それは、体を堕落[の状態]から真実の割合へと変容させるだけでな

く、その割合を最高度に維持するような治療薬である。このような薬は天以外のどこでも見出すことができな

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思弁哲学・和訳-v.1--p.12

いだろう。天は、その徳〔効力〕により、あらゆるところから地の中心に集まる不可視の光線を通じ、すべての元素およびそれらの元素から構成されたもののに浸透し、全てのものを産み、育てるのである。誰も自分自身の中で生み出すことはできない。そうでなく、自分から出た、自分に似たものの中で生み出すこ

とができるのである。同様に、普通の胎児も両方の親の性質をこのように自分のうちに保持している。その結果、その中には、どちらの親も潜在性においてかつ現実性において見出される。哲学的産出の中にラピスがあるのでなかったら、一体誰がそこに止まり続けるだろうか。親愛なる読者よ、もしこれまでの認識が、また、我々の「鍵」で与えられたものとともに、君にとって十分で

ないのなら、これ以上君とともに行動するのをやめよう。しかし私が君にとって苦情の種であり続けることのないように、さらに述べておこう。何であれ天の中、地の中にあるものを、君自身の中から理解することを学べ。それは君が全てにおいて知恵あ

る者となるためである。君は知らないのか̶̶天と諸元素は最初一つであり、そして君と他のすべてのものを産出するために、神的な術によって互いに分離されたのだ。君がこのことさえ知っていれば、他を逸することは決してない。でなければ、君はすべての才能を欠いているのだ。さらに、すべての産出において、同じ仕方の分離が必要なのである。先に述べたように、真の哲学の研究へと

帆をあげる前に、このようなものが君から生成しなければならない。まず君自身が一にならなければ、君の求めている一なるものを、君は他のいかなるものからもつくれない。それについては以下でもっと詳しく述べよう。さて、神の御意志は以下の通りである̶̶敬虔なものたちが、彼らの求める敬虔な作業を追求すること、そし

て完全なものたちが、彼らがそれに熱心であるところの他のものを完全にすること。意図の悪しき人間は、自分が蒔いた種のほかには収穫できない。反対に、そしてこの方が重要なのだが、きわ

めてしばしば善き種が悪意のために毒麦に変わってしまう。それゆえ、君の求めるオプスがこうであって欲しいと君が望むような、そういうものに君自身がなるようにせよ。

第四章 第三の哲学的段階について

哲学的愛とは、一から分離されたものが、平和を通じて再び一になる合一のことである。平和とは、まさに、諸部分の合一によってもたらされる全体の中の調和である。合一(unio)を神はこよなく嘉する。なぜなら彼は一であり、創造したすべてを合一のもとに含めた(conclusit)からである。完成されたすべてのものは、不限定の一を通じて作られた限定的な一から出て来る。そして今度は逆に、ある

種の自然的本能によって、自らの一を目指す傾向がある。この道から外れたものは、個別的な二つ組(binarius)の中に含まれており、それらは三つ組(ternarius)を通じて合一(unio)にもたらされねばならない、と哲学者たちは考えた。神は天と地、およびその中にあるすべてのものを創造された。それらは同時に、隠微的には統一されており、

顕在的には分離されている。地という呼称には諸元素が含まれている(concluduntur)。それら〔諸元素〕は天により保持さ

れ(continentur)、他のものの間ではまず見られないような友情の絆によって互いに抱擁し合っている(se complectuntur)。つがいで最も神的な秩序にもとづき、真摯な絆によって結合するのを我々が見る野生動物の各々は、空飛ぶ被造物のような、かなり純粋な純粋な諸元素から構成されている。他方、それ以外のものは、純度の低い質料の寄せ集めからできていて、適合度は劣る。それでも、雑然としているとはいえ、やはり結合している。最低のものから創造された最高のもの、すなわち人間に進もう。神は彼を地の土から創造した。それ自身で動

く動物であり、これを神は直ちに理性的な霊と(spiritu rationali)一つにした。それが動かされる機会のみによっても、それはアニマを持つ他のものより不規則であること、それに気付けぬものがいるだろうか。彼が真で理性的に創造された限りにおいて、神の作品の中でこれ以上に卓越したものはありえない。すなわち、この人間から̶̶転落の前(ante lapsum)、彼がいまだ最も高貴な状態だった時、神は、その骨か

ら骨を、肉から肉を分け、女を分離した。その結果、彼ら〔男と女〕は他の生きたものより堅固に合一されることになった。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.13

最初に一から分離されていなかったとすれば、合一されるとは言われず、ただ結合されると言われるのみだったろう。人間はそれ自身の中で生み出されることができなかったために、その他のところで生み出されることが必要だったのである。この理由のために、人間の産出は、他の何よりも尊敬さるべきものなのだ。というのも、それは最初は一であり神聖なる婚姻によって再び一にされた二の間で起こるからである。聖書が証言している。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」 妻の夫と夫の妻はそれゆえ互いの体の不可分の部分とみなすべきである。彼らが異なった風に振る舞っているのを見るならば、我々は彼らを合一されたものとしてではなく、単に結合されたものとして判断する。それも真の愛によってではなく、醜い貪欲によって、あるいはむしろ不正な欲望を消すための原因によって結合されたものとする。このような火が冷えた時、他のすべても同時に冷却する。哲学的愛はこのようなものではない。というのも、

消えない火による点火は消されえないし、なんであれ霊により合一されたものは霊の合一のうちにとどまる。実に、体によって結ばれた体は容易に解かれるのである。子供たちに対する親の愛、および子供たちの両親に対する愛̶̶それらはなんら哲学的な愛と比較しえない。なぜなら、親は子供のたちのために犠牲を被ることを望まず、兄弟姉妹のために兄弟姉妹が犠牲を被ることはさらに望まず、あるいは、なんらかの友人のために、ましてや社交上付き合いのある人々のために犠牲を被ることはなおのこと望まないからである。誰が、たとえ自分自身のためであろうと進んで死に赴くであろうか。ましてや他人のためならなおさらである。最終的にどこを探すべきであろうか?確かに、そこから愛が出てきたところ以外にはない。このように神は世

を(人間をと解する)愛された̶̶自らの息子が人間として生れることを望むほどに愛されたのだ。その息子は、人間のために死に、その死によって、義に対し、我々がそれによって罰せられるべき死を贖うことができたのである。神の息子は死ぬことができないので、人間とされた。そして完全な人の子、正しい人が義を充足したのである。おお、人間に対する、驚嘆すべき神の愛よ!かくも幸いなる波がやってくるのは、アリストテレスの間抜けな

哲学からではなく、世界のその他の賢者たちの哲学からでもない。それらを(それが虚しい研究によって、我々の関心を捕える間は)捨ておこう。おお憐れむべき仲間たちよ。かの神的な愛が我らのアニムスを呼ぶのは他の哲学に向けてである。

アニムスがそれによってアニマと肉体を自分に引き寄せようとするところの対話。話者は、霊(S.)、アニマ(A.)、体(C.)、愛の哲学(Ph.)。

霊:さあ行こう。我がアニマよ、そして我が肉体も。今や出立して、君たちのアニムスの後についてゆくがいい。そして向こう側にある高い山に登ろうではないか。その頂上から、私は君たちに二股に分かれた道を見せるだろう。それは、雲を通して、照明なしにだが、ピタゴラスも語っていた道だ。我々の目は開かれて、今や信仰と義の太陽が前方を照らしている。それ〔信仰と義の太陽〕に導かれた我々が真理の道から逸れることはありえない。まずは目を右側に向けよう̶̶知〔サピエンチア〕を知覚する前に、虚栄を見ることがないように。君たちには、あの光り輝く、そして難攻不落の城砦が見えないかね?アニマと体:見えるよ。霊:その中に、哲学的な愛がいる。その泉からは生きた水が流れている。それを一度味わったものは、もはや

虚なるものに渇くことがない。かくも魅力的にして甘美な場所から、まっすぐな道が、それ以上に魅力的な場所へと伸びている。そこには智恵〔ソフィア〕が休らっている。そこから、最初のものよりはるかに幸いな水が湧き出ている。敵であってもそれを飲んだ者は和解せざるを得なくなる。そこに到達した者の大多数は、さらに高みへと向かうのが普通だが、その全てが望んだものに達するわけではない。上に述べた場所を超える場所がある。そこに近づくことは、死すべき者にはほとんど許されない̶̶神的な

ヌーメンにより不死の段階に達したのでなければ。彼らは、そこに導き入れられる前に、世界を脱ぎ捨てることを強いられる̶̶虚しい生の皮が引き止めようとするのだが。そこに到達すれば彼らはもはや死を恐れることがなく、反対に、日を追うごとにそれを抱擁するようになる̶̶世の中にあって、かつて甘美にして、抱擁されるに値すると判断されたどのものより甘美なものとして。この三つを超えて進む者は、人間たちの目からは消えてしまう。第二と第三の場所を見ることは喜ばしいが、さらに高みへと登ろう。見よ、最初のクリスタルの城塞の向こう

に、君たちは銀の城塞を見る。その向こうにはダイヤモンドの第三の城塞がある。そして第四の城塞もあるが、

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思弁哲学・和訳-v.1--p.14

これは第三のものの彼方に到達するまで感覚には捉えられない。これは永遠の至福の、黄金の場所である。心配もなく、永遠の喜びに満たされている。次は左に目を向けよう。見よ、君たちは快楽と富に満ちた世界を見る。その中では何ものも、空虚な目を不快

にすることはできない。しかし、その旅の出口を見よう。煤のような霧の立ち込める暗い谷、君たちはそれを地平線の下にはっきりと見分ける。アニマと体:確かに見える。霊:広い道を進む者がここに到達すると、その慰安は苦悶に変わる。それに終わりはない。もっと耳をすませ

ば、ここからでも呻き声を知覚できる̶̶彼ら自身の破滅へと急ぐ者たちの喜びの声に妨げられなければだが。アニマと体:確かに聞こえる。しかしなぜ彼らは引き返さないのだろう?霊:それはこの悲惨の谷が見えないからだ̶̶悔い改めの道を通り過ぎるまでは〔見えない〕、そしてその後

にはもう戻れない。アニマと体:それでは、この深刻な危険を回避できるような他の道はないのか?霊:ない。ただ二つの並行した道があるだけだ。ここの右側は、君たちが見るように、我々のところに続いて

いる。他方、改悛する者が、君たちが見ているものを見るには、我々がいるこの場所から、最初の城塞を通って移行しなければならない。アニマと体:彼らがその前に悲惨の谷を見なかったのは驚きだ。霊:驚きではない。なぜなら、その道は平坦で歩きやすく快適で、人間を魅力で誘惑するからだ。そして平原

にいるとき地平線は短い。もし、我々のように登って来れば、二つの道の出口を知覚しているだろう。アニマと体:それらはなんと呼ばれるのか?霊:広い道は迷いの道、並行している道の最初は病気の道、後の方は貧困の道、そして我々がいるのが真理の

道と呼ばれる。その出口にも主の天使がいる。それは神的な霊の牽引力(tractus divini spiritus)という名前である。この天使は、最初の段階では、すべての者を引き寄せる。憐れむべき死すべき者がそれに抵抗すれば、そうした強情者に対して手綱は緩められる。迷いの道に進んだ者もここまでは主は見守っておられる。だが、やがて、この世の快楽に消耗し、自らのふしだらを通じて、それも自業自得だが、体̶̶そもそもこの体を通じて彼は迷いに引き込まれたのだが̶̶の病気に落ち込む。自らの迷いを認識するに至ったごくわずかの者が、前の改悛の道(resipiscentiae via)を通じて、この場所に戻

る。 残りの者̶̶大多数だが̶̶は、最初に改悛しなかった者とともに、強情にもさらに進んでいく。病により処罰されることを望まぬ者たち、およびそもそも処罰されない者たちは、自分自身の原因によって貧困に陥ることを許され、そのごく僅かの者が後に悔い改めの道に入る。実際、大多数は盲目で迷いの中を進みゆき、ついには穴に落ちる。そこから出ることは許されない。アニマと体:悔い改めの道に戻るものはわずかだな。霊:体が妨げるのだ。体:しかし、私には、広い道を終わりまで進むより、死ぬほうが百倍もましだ。霊:君は見たからそう言うのだ。しかし、後になってもこのことを記憶しているようにしたまえ。体:君たちがどこに行くとしても、私は喜んでついて行くよ。だが、ここを離れる前に、どうして私たちが広

い道に入らなかったのかを教えてくれ。霊:主の最初の牽引力を受けるという賜物にあずかった者たちは、その功績を自分自身ではなく、神に帰すべ

きである。体:しかし全ての者が惹かれる。霊:たしかにそうだが、みんなが牽引力を受け入れるわけではない。体:一体何故なんだろうか?霊:なぜなら、彼らが二俣の道に現れる時、彼らはその目を、右側の活きた水の流れより、左側の虚栄の方に

向けるからだ。その[活きた水の]流れは驚嘆すべき技巧を持って、私たちがすでにいるところの山の頂上から下方へと流れるのだが。体:その山と川の名前はなんと言うか?霊:両方とも主の最初の牽引力という。体:君が述べた三つとは別な牽引力もあるのではないかね?

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霊:大多数は、万人が自分の良心の中で感じるところのものの中にある。だが、先述のように、それを受け入れたがらない者によって軽視される。体:この川にどんな驚くべきことがあるのかね?霊:君、あるいは誰でも、これほど高い場所からこれほど大量の水が、おそるべき轟音もなしに流れ落ちるの

を見たことがあるかね。世界の全ての力を凌駕する滝が、どれほど大胆な人間であれ、あるいは地上のマルス自身であれ(彼が存在するとして)、音と風の騒乱によって恐れさせる̶̶多くの場所で見られるように̶̶ということを君は知らないのだろうか。体:確かに、ある種の丘で私はひどく怖くなったものだ̶̶遠くの橋から流れ落ちる水が誰であれ通行人を打

ち倒すことができて、どれほど強い者たちであれ、極度に怯え、風によって興奮させられており、もし、全き努力によって、人間の意志力を再結集して胆力を据えなければ、移行はしなかっただろう。霊:この場所の最初の牽引力は川への賛嘆だ。それに水を味わいたいという欲望が、それからその源を求めた

いという最大の愛が続く。この愛は、それを味わう者を、彼が事物の識別とは何かを理解するように、磁石のごとく優しく誘う。体:私が自分でそんなことを考えるなんてことはなかっただろうね̶̶たとえ、より低い場所でその反対のこ

とが起こるのを見たとしても。霊:君の目は肉的であって、この世を超えるものを知覚できない。それは物事を表面的に、あるいは表に現れ

たものから見て、そして事物の中には、感覚されるものの他にも何かがあるとは考えないのだ。彼らの数がどれほど多くても、山と川の驚嘆すべき観照から、そして特別な賜物から、主の霊の牽引力を感じ、受け容れないかぎり、彼らがここまで到達することはない。体:ここから出発する前に一つだけ君に聞きたいことがある。この甘美きわまる場所に入るのが、どうしてこ

れほど難しいのだろうか。それを困難にしているのは、その道の厳しさと狭さだけではなく、それが、また川が、伸ばした糸でもこれほどまっすぐではないほどにまっすぐであることではないだろうか。霊:我が体よ、君は、ここでの滞在を引き伸ばして、それだけ長く、この世の、色とりどりの幽霊で目を養え

るようにしたいようだね。君はよりしばしば目を左に向ける(たとえ君が度々右から探そうとするとしても)。それは君がこれらのことを尋ねるのは知識への熱心な欲望からではなく、君が、ここを離れたら、この世の眺めを奪われてしまうと思っているからではないかという疑惑のきっかけを私に与える。体:そんなことはいいから、答えてくれ給え。霊:その困難については、納得するために、まずこのことを理解したまえ̶̶栄光に至るには十字架を通じて

の道しかないのと同様、すべて困難な課題をたこのことを理解したまえ。君が、これらの場所がなぜこれほど到達し難いのかを理解するためには、まず第一に、栄光に至る道は十字架しかないように、そして困難なことに到達するには、最大の労働によって以外に到達され得ない。それで、容易に得られたものの低く評価し、苦労して得たものを高く評価される。柔らかさは辛辣さの終わりなのだ̶̶ちょうど、生命が死の終わりであり、充満が乏しさの終わりであるよう

に。真理の小道に導くものは全てまっすぐで、紆余曲折のないものでなければならない。今や、君は望むものを全て得た。これ以上、止まることはない。私たちに付いてきたまえ。体:これで終わりにしよう。霊:今や君は必要なことは全て聞いた。これ以上、遅らせないよ。体:アニマよ、君だけでも私と一緒にいてくれ。アニマ:あなたも霊も見捨てたくはない。しかし二人の主張を聞いてしまうまで、私は黙っていた。霊が語る

ことは好ましい。あなたの言うことは、私の耳には妨害しかもたらさない。体:私は惨めな生活を送るのだということがわかったよ。霊:本当に惨めな生活をね。私たちに付いてきたまえ、私たちとともに幸せになるように。体:本当に。しかし私だけが二人に反対しているのか?霊:黙りなさい、数日すると、君は一対一でやりあうことになるだろう。体:これは異な事を言うね。たまたま私たちのリーダーになった君が私たちを本当に道なき荒野に放り出すの

かい?霊:そんなことはない。君がそこにいる間は君と一緒にいるだろう。体:それなら、その謎が何を意味するかを明らかにしてくれ給え。

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霊:目と同じく、知性もまた、そして君が持つすべては肉的だ。体:私が理解できるようにしてくれ。霊:もし君が目の前にあるものを知覚できないなら、私が言ったとして

も、君が見ないものを知覚するだろうか。体:この石ころだらけの、窮屈な、そして棘だらけの道が、様々な惨めな仕方で私を苦しめることに加えて、

君は、君自身の言葉によって、それ自身でも重いこの塊を余計重くする。霊:私はただ軽くしようと試みているだけだ。体:確かに君はそうはしていない。霊:君は何をして欲しいのか?体:明快に語られることを。霊:君が何を言いたいのか、まだわからないね。体:ひとりだけでは、私は君と共にはなにもできないようだ。ねえ、常に愛おしい私のアニマよ、私に話しか

けてくれないか。君の最も忠実な友人を助けないのか。アニマ:私はあなたたちの間で動揺している。両方の部分を等しく担っているから。体:それでも私より霊の方に喜んで従うね。アニマ:あなたはどうかしているわよ。体:二又の道にとどまっていればよかった。アニマ:そうかもしれないわね。体:君なしではそうはできなかった。君なしでは私は何もできないから。アニマ:私も霊なしでは一段も登れない。彼がいなかったら、あなたともいられないでしょう。体:そんな短い間に謎で語ることを学んだのかい?霊:単純なこと以外はいらない、と?しかし、この弁論は簡明だよ。君が闇に包まれているから、曖昧で寓意

的に見えるのだ。体:君たちと一緒では私は何もできないだろう。私は黙る。少し前に君自身がそうだった̶̶あとで私にこう

いうことを言うためにね。アニマ:私が言ったのは、良いことだけよ。体:霊が君を迷わせたのだ。霊:全然そうではない。私が彼女と君をここで安全に導くのだ。体:君はそういう。霊:君は見るまでは信じない。体:あるいは、君は盲目の私を導くのか?霊:大変良い。君がこれ以上、真実に語ったことはなかった。体:おお、なんたる災い。君は私の目なしで済ますよう説得するのかい?霊:反対だ。私は導こうとしている。体:私は聞くよ、頼むよ。霊:君は我々が主の魅力の山の麓で愛の泉の流れから飲んでいるのを見たか?体:いいや。君たちは飲んだのか?霊:ほら、すでに君は自分の盲目性を認めたね。体:なぜ、私に君たちと一緒に飲むように命じなかったのか?霊:なぜなら、私たちとともに見るまでは、君にはそれができないだろうからだ。体:で、最終的にそうなるのはいつかね?霊:君が私たち̶̶合一されるべき私たち̶̶と一つになる時。体:でもいつ?霊:我々がダイヤモンドの真理の城塞に同時に到達した時。体:それでは急ごう̶̶長い間見ていて、盲目と言われないように。

〔霊:〕見よ、第一の城塞に到着したぞ。私がノックしよう。体:どうしたんだろう、門には扉がない。

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霊:異国の旅人が、まず許可を求めることなくして、門に入るのはよろしくない。ここの担当の方、私たちに入るよう命じてください。愛の哲学:客人は極めて稀だが、誰が呼んでいるのかな。霊:三人の哲学学徒です。哲学:何が望みかな?霊:哲学を学ぶことを。哲学:すでに君たちが学んだことを、再び学ぶのはなぜか?霊:これまで私たちはあざみを食べていました。もっと良いもの、フダンソウを熱望しています。哲学:腹をフダンソウで満たしたいのかな?霊:何であれ前よりマシな食べ物で。というのも、我々は草を食べていました。ある時は左、すぐ後は右とつ

まんでいました。歯の間に苦いトゲが残ります。こう言う食事は私たちに吐き気を催させます。哲学:君たちは我々の学校が教えるより、初歩的なものを教えられたということがわかる。しかし、我々は、

いくら多くとも我々のところに来る者を拒否する習わしはない。入りたまえ。しかし、門の前に角を置いてからだよ。霊:我々はあなたの命令に従う準備があります。哲学:我々のところでは、最近の弟子たちを試験するのが習わしだ。霊:どうぞ。哲学:哲学とは何か?霊:叡智(Sophia)への愛です。哲学:叡智とは何か。霊:万物の真理の至高の知(sapientia)です。哲学:愛とは何か?霊:真理の認識(veritatis cognita)の飽くことなき欲求です。哲学:君はこれらをどこから得るか?霊:主の牽引力からです。哲学:誰を通じて?霊:それ[主の牽引力]が、他の者たちを教えられるように、はじめに教えた人々を通じて。哲学:大学では何を聞いたか?霊:アリストテレスの哲学です。哲学:それは何を教えるか?霊:激しく言い争うこと、プロとコントラについて執拗に議論することです。哲学:プロとコントラとは、いかなる獰猛なキマイラか?霊:それがどういう詭弁か私は知りません。ある時は右に、またある時は左にという具合に、蝋の鼻を持った

人間の像を歪めることが許されています。たまたま大きな鼻の人物によってそれはなされました。彼はこの罠を使って他の人たちを不当にも拘束したのですが、それは他の人たちの活動に煩わされずに、あれこれ考え出すためでした。哲学:それは何の役に立つのかな?霊:教理を見せびらかすためです。哲学:そうすると教理は誤りなのかな?霊:少なくとも、次のことを聞いています。それを大いに教えられたものは知において劣る、と。哲学:知覚されうることどもに心を煩わされることの少ない者こそ最もよく知る者だと、君はよく心得てい

る。さて、ここに入る前に、我々の学校のアルバムに君たちの名を書かねばならない。霊:私の名は霊あるいはアニムス、こちらはアニマ、三番目は体です。哲学:よろしい。君たちは親戚か?霊:一緒に生まれた兄弟です。哲学:まず真の光が召喚されたら、私と共に言いなさい。「おお、全能の父よ、永遠の神、天と地にあるもの

すべての創造者、我らをあなにかたどり、あなたに似せて創造した方̶̶我らを無に帰するためでなく、あなたの栄光のために存在するために̶̶、我らにあなたの聖霊の恩寵を与え給え、それによって我らがあなたの

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意志があるところを理解できるように、その結果、あなたの助けによって、我々がそれを実行し、我々があなたの照明の中に光を見るように、そして真の愛に随行する真理を探究するように。アーメン今や、君たちは神の栄光、そして君たちの救いへと、哲学的な愛の門、そしてその中で永遠の愛が教えられる

ところの学校に歩み入りたまえ。各々がその飲み物と食べ物によって回復されるように、饗宴に加わりたまえ。まずは神に祈ろう。「主よ、万人の目はあなたに希望をかけています。そしてあなたは私たちの必要な時に糧

を与え、あなたの手を開き、生きるものすべてを祝福で満たします。」人はパンのみにて生きるにあらず、主の口から出るすべての言葉によって生きる。体よ、君に適した身体的な

ものを食べて飲みたまえ。君の仲間たちは食物を口でではなく、耳から汲み入れる。今、私は彼らの世話をしよう。霊とアニマよ、よく話に耳を傾けなさい。君たちが、主の第一の牽引力から、彼の天使を通じて、哲学的な研

究および認識の効果を聞いたということを、私は疑うわけではないが、その時は、体の重みが、来たるべき時よりも大きかったので、その全体を担うことは君たちにはほとんどできなかった。だから、君たちが愛の泉に着くまでに、ここで見ておかれる必要のある事柄をざっと復習するのは、骨折りがいのあることだろう。アダムの堕落の前には左の広い道も、悲惨の谷もなく、ただ至る所で、誰でもかの至福の地に入ることが許さ

れていた。人間の最初の不服従の後、主はこの最も広い道を制限して、石だらけの狭く困難な道となし(君たちが見るように)、その入り口には天使ケルビルムを配置した。それはこの天使がもろ刃の剣を手に持って、この至福の祖国に入ろうとする者すべてを阻むようにであった。アダムの息子たちは、最初の親の罪のために、ここから逸れて、自分たちのために左の広い道を作った。それ

は君たちが避けた道だ。そのずっと後、至善至高なる神は、彼の秘中の秘に入られた。その中で、憐れむ愛によって、そしてまた義の

告発によって、怒りの剣を天使の手からとり去ることにした。そして剣にかえて金の三叉の鉤針をおき、剣は木に吊るした。このようにして、義が保持されつつ、怒りの神は愛に変わった。これが起こる前、いまあるような川は一つに

集まってはいなかった。そうでなく、転落の前は、地の全体に露のようなものが均等に広がっていた。そのあと、それは出てきたところに帰った。最終的に、平和と義が互いに抱擁し、恩寵の水が高みから降りてきて、より豊かに流れ、全世界を潤している。左の部分に迷い込んだ者たちは、一部分は木に吊るされた剣を見て、その歴史を知らずに、あまりにも世に植

え付けられているために、その傍らを通り過ぎる。ある者たちは、見るけれど、その効験(efficacia)を深く探求しようとしない。他の者たちは全く見ないし、見ようとしない。彼らはみんなその道行をまっすぐ谷へと向ける̶̶気づきの、あるいは悔い改めの鈎によって、シオン山へと引き戻される幾人かを除いては。我々の時代(それは恩寵の時代である)では、剣は我々の救済者キリストに変えられている。キリストは我ら

の罪のために十字架の木に登った。これらすべてのことは、自然的な、そして神的な法を、そして恩寵の時代を指し示している。さて次は、迷いの道の状態がどのようであるかを聞け。

世界の工房愛の哲学:転落の後、神はアダムに言った。お前は顔に汗を流してパンを得る。そしてお前の妻は苦しんで子

を産む。そして彼は人間のゆえに地を呪い、それを不毛にした。それは最初は、何ら耕されなくても、天の豊かさを持ってかくのごとく豊富な果実を産出した。しかし、今や人間の労働によって働きかけられても、アザミとイバラしか生み出せないように見えた。この時から人間は真理を脱ぎ捨てた。衣服と食物を探さねばならなかったので、まさにこの必要が彼を不安に

した。この必要は研究の母にして、最初の技術̶̶農業、また牧畜のような̶̶の発明者でもあった。そしてまた、最初の真摯な人間たちが、欠くことのできないものの探求を始めた。しかし、不純な者たちは、

これらだけでなく̶̶正しくであれ、不正であれ̶̶、力において彼らより劣るすべてのものを簒奪した。裸であることは、最初の人間に裸の肉を木の葉で覆うことを教えた。勤勉は必要のために少しずつ(通常そう

であるように)増大し、最終的に、動物の革を使うことを(教えた)。空腹はすぐに、掘ること、種を蒔くこと、その時期に収穫を集めること、群れ、家畜の集団、羊、牧草地の世話をし、家族を養い、慣習と自然の法

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によって平和を教えて維持し、雨と時の損傷から家と屋根によって自分自身と家畜の群れを守る(ことを教えた)。このすべては一次的必要についての不安であった。これらの術によって、最初の親たちは、平和の時に、幸せで楽しい時代を生きた。地が満たされたのち、誰も

が自分の取り分を持つということはできなかった。そしてみんなが農夫であり、また牧人であることはできなかった。しかし、誰かが、様々な仕方で、持たざる他者の世話をするというのは適切なことであった。好奇心が衣服および制作物の様々な種類を産出した。裁縫師、靴作り、鍛冶屋̶̶針とハンマーがcomprehendoするところの̶̶はそこから始まったのだ。それらの労働によりもたらされた富は、ある者たちに怠惰をもたらした。そして、このような人々がより多く

の土地を得るに従い、彼らに食物と衣服を供給し、その他の人口を養うことが可能になった。彼らは、ある場所でのものの不足と別な場所での豊富を考えて、商業を実践した。ここから運搬人と荷物運びの動物を操る者が現れた。また、生活の糧の不足もなかった。なぜなら、彼らは、旅行者を助けるために、粉屋、パン焼、肉屋、コック、ワイン商人を考案したからである。この始まりののち、しばらくは、すべてが良き信仰をもって管理された̶̶自己利益と同胞間の敵意が勃発す

るまで。その時以来、人間の性質は変化した。彼らは飢えれば飢えるほど、富への愛が増大し、ついには全ての人が誰一人、自分自身さえ信じなくなり始める日がやってきた。みんな自分の利益のため家を壮麗な館に変えた。それらは増大してついには村に、町に、城塞に、都市に、国

に、そして郊外地になった。しかしそれらは憎悪を免れておらず、そのあと、時代の不正が怠惰な人間たち、自分の労働によってではなく他者の労働によって生活することを欲する人間たちを生み出した。そして同時に、隣人たちの間に最も激しい戦争をも生み出した。このことはまた損害への防御のため、濠、城壁、保塁、砦をもたらした。他方、あらゆる悪徳の練り粉̶̶それは怠惰であることが知られている̶̶は、より劣った人間たちからの呪

わしく悪魔的な集中攻撃と苦悩をもたらす。それによって、人間の種族全体の社会が̶̶もし神的な助けによって保全されなかったら̶̶崩壊するだろう。これ[社会]はまさに新しい技術の最終的なもので、世界の工房を締めくくるものである。この世を愛する者たちは、言われたことの多様さのために世界を美しいと呼ぶ。しかし聴衆諸君、君たちが判

断してくれ̶̶もし、それが豊かになればなるほど、静謐でなくなり、不安になるようなもの、そのようなものの美しさとは一体何なのかを。君たちが聞いたように、この世に関わる事どもは、すべて移ろいゆく。金持ちであれ、貧乏人であれ、そのわ

ずかなものを死後に持っていく事はない。それゆえ、見たまえ̶̶憐れむべき死すべき者たちが、いかなるものに希望を託すかを、そして、これほどの

不安をもってしても彼らが何も得ないということを、それが自分の運命に満足しようとしない者たちを滅ぼすということを[見たまえ]。今度は、この移ろう世の旅について聞け。

世界の道行き̶̶私たちはこれを迷いの道と呼ぶ彼らが21番目の年を終えると、大多数の者には選択の二又道が近づいてくる。その行路は、主の牽引力の天

使によって(per angelum Domini tractus)、彼の鈎を用いて阻まれる。実際、その多くがその下に這いこみ、他の者はその上を超え、大多数は̶̶引かれるのはわずかだ̶̶鈎と道への入り口の間に飛び出す。みんな救済から逃げる。この牽引力を免れようと試みた者はみな、いかなる手綱もなしに世に入る。その最大の部分は、この世の快楽と欲望を用い尽くして、我らの主たる憐れみの神によって貧困に陥るがまま

に放置される。それによって、再び最初の改悛の道(resipiscentiae via)に再び引き戻される。しかし全く役立たずの人間という種族は、神に逆らうのが本性になっていて、自らの試みによって、神が彼らのために設置した罠を免れる方策を探し求めることをやめない。神に助けを求めることをしない。彼からのみ、すべての憐れみの賜物は由来するというのに。そこでこうなった̶̶彼らは道の左側に大きな工房を建てた。その中では、あらゆる種類の職業のあれこれが

なされている。この家にとっては、勤勉が一番なのであり、それは、無知な者および怠惰な者以外のあらゆる人々を受け入れる。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.20

これらのスタジオの一部分には文書の仕事場が置かれている。自らの文書を無関心のゆえに放置してきた人々がそこに受け入れられる。一般にこれらの人々は、反対側にある手工業のワークショップに集まる。そこで彼らは、より賢い人々によってかつて書物に託された事柄を実験する。昔のように、このような事柄に未経験な人々が文献のみによって誤った意見に導かれることがないようにである。他の者たち、商売をして損失を被った者、あるいは手の術のみによって貧困に陥った者たちは、全く新しいも

の、新しい形を夜も昼も考え出して、それを商人はいたるところで商人に、技術者は技術者に、報酬を得るためにそれを示して、その結果、極貧の者も財政的損失を埋め合わせて、より大きな富を得られるようになる。それを達成したのち、彼らは勤勉から身を引いて、世界の第二の領域に進む。病の橋を通って移行するが、そ

の前に、主の第二の牽引力(secundus Domini tractus)が、失われた羊を真の牧舎へ連れ戻そうと試みる。その他の者たちは強情に橋を渡り、勤勉によって得たものを、以前より気前よく使う。しかし、善なる神は彼

らを引き戻したいと欲するので、彼らの中の病気が優勢になることを許す。そして再び、以前のように、その治癒を求めて、彼らは旅館に集まる。それは左側に建築された巨大なもので、医術を担当している。多数の薬剤師、外科医、そして内科医がいる。それぞれが自分の職務を果たしている。彼らは健康を回復しているが、先に述べたような、豊かになった者たちとは違って富は減少している。彼らの

最大の部分は、主の牽引力に召喚されて、老齢の橋を渡る。その一人か二人だけがかろうじて悔い改めと呼ばれる最後の道へと進む。世界の第三の領域に到達すると、見えるものといっては、老人たちの曲がった背中、シワの寄った顔、びっこ

を引いた人、嘆き、ため息ばかりである。また残りの者たちから聞かれるのは嫌悪の塊より他にはない。それが彼らの運命であり続け、最終的に死の宿泊所に到達する。そこでは、峻厳きわまる宿の主人が、吝嗇な手をもって、死をもたらす弓をひき、アニマから体を分離する矢を放つ。それから起こることは私は知らない。裁きは神に託す。(裁きは神のもの)世の工房および世の旅について学んだ。次は、真理の道の終わりに何があるかを見ることにしよう。それは、

対立物の比較によって、迷いの道と真理の道の何が救いの道であるかを知るためである。

真理の道哲学:以前に君達は、最初の牽引力の天使の剣が河岸の上の木に掛かっていたということを聞いた。そしてそ

の場所に(今の恩寵の時代には)我々の眼の前には神と神の息子、人間種族の回復者キリストが吊るされている。彼は、いかなる像によっても隠されていない、明らかな愛によって、磁石が鉄を惹きつけるより効果的に、通

りかかる者たちを惹きつける̶̶世界の滓とニンニクが強力に妨害しないかぎりは。誰であれ、遠くに現れる川(そう言われているように)への讃嘆およびすぐ近くで差し出される尽きることな

き愛の模範によって惹きつけられた者たちは、君たちのように、我々のところに集まってきた。そして我々が真理に仕える者であるかぎり、我々は、教育されるべき者たちを喜んで受け入れる。これについては後からもっと詳しく述べよう。しかし、その前に、食べ物と飲み物がある、我々にとって必要なものすべてを与えてくださった神に感謝しよ

う。我々はあなた、父なる神に、とこしえの感謝を捧げます。なぜなら、あなたは私たちをあなたの言葉によっ

て、そしてあなたの被造物によって養い、それから私たちを、より良き生への希望の中で、この場所まで導いてくださいました。あなたの御心が実現しますように、それによって私たちの中で、あなたのみによって始められたことが完成されますように。アーメンさあ、愛の泉に行こう。それは君たちがそこから飲むためだ。君たちの渇きを消すがよい。君たちはもはやア

ニムスあるいは霊とも、アニマとも、その二つの連名で呼ばれることもなく、一つの精神と呼ばれるだろう。その結果、君はより強くなり、敵対する体に抵抗できるだろう。そして体は君と激しく闘うことになるだろう̶̶それ自身が自然の行路を完成して、君からの分離が実現されるまで。その後、体は同じものでありながら、しかしより純粋かつより精錬されて、神的な神秘により、再び君と結合

すべきものとなり、全てを創造した方の栄光を讃える̶̶君はその希望を持つようになるだろう。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.21

君と闘うのがいったい誰なのか̶̶君はそれを後の第四段階、すなわち孜々汲々〔フレクエンティア〕の所で聞くだろう。しかし、私が君たちに同行するのは最初の里程標までだ。それまでの道すがら、君たちに真理の道の全体の行路をざっと描写してあげよう。教えを受けて孜々汲々〔フレクエンティア〕の元を辞した君たちは、智恵〔ソフィア〕の陣営に到達するだろ

う。そこに受け入れられると、食べ物によって、前よりずっと元気になるだろう。今まで君たちはミルクしか味わっていない。というのも、(君たちがもっと強くなって、より強いものに耐え

られるようになるまでは)、君たちは子供なのだから(Cor. I, 1:1-2)。徳〔効力〕は教えるだろう̶̶真の愛の果実がいかに偉大であるか、そして体の屈服が精神にどれほどの喜び

をもたらすかを。それは賞と敵に対する勝利を得ようと努力している兵士に劣らない喜びだ。後に、君たちは「能力〔ポテンチア〕」すなわち第六段階に移行するだろう。そこから君たちは徳〔効力〕の

実践を学ぶだろう。すなわち、その認識だけでなく、それらをいかに実行するかを学ぶだろう。それ〔haec=能力〕は君たちを哲学段階の第七の最後の段階、すなわち奇蹟に導くだろう。そこでは世の殉

教も喜びになるだろう。簡単に言えば、この道の終りは永遠の命と永続的な喜びの始まりなのだ。その後、全能にして慈悲深い神が君

たちをそこに導くだろう。それまでは声が君たちを導いていた。そこから後は神が道連れとなる。それでは良い旅を。兄弟たちよ、さようなら。

精神と体の対話体:おや、今度は誰が私の道連れになったのかな、私のアニマはどこにいる?精神:ほら、私はここにいる。私に何が望みかね?体:私には見えない精神:前と同じく、再び、自分が盲目だと白状したね。 体:では、霊はどこにいる?精神:君は私に自己紹介せよというのかい?体:おやまあ、君たち、さっきは一つの口で、今は二つの口で語る。精神:何を驚くことがある?それとも君はまえに私が言ったことを忘れたのか̶̶「二人を相手にせねばなら

ない」と君が苦情を言った時、君は一つのものの相手をすることになるだろう〔と私は言った〕?体:私は何を聞いているのか、君は私の目に魔法をかけたのか?精神:私にそんな力はない。実際、我々は一緒に愛の泉から飲み、そうして一つになったのだ。その結果、君

はもはや二人と戦うのではなく、一つの精神と戦うと思いたまえ。 体:mensは多くの語の頭に来ている。mensa(食卓、食事)、 mensura(測定、度合い)、menses(暦の

月)といった具合に。精神:君が食卓の測定を学んで、自分の月の終わりがやがて来るであろうことを思い起こしさえすれば良いの

だが。体:君は異な事を言うね。食物がなければ、私が生きることはできないと知っているだろう。精神:そしてまた他のことも知っている。人はパンのみにて生きるにあらずということは知らないのかい? 体:ところで君は何を食べて生きているのかね。君が食べているのを見たことがない。精神:再び、君は自分の盲目を公衆の前にさらしたね。体:ではどうやって? 精神:私は、主の口から出た全ての言葉によって生きる。体:私もそんな風に生きられればいいのだが。精神:後になれば、君にも(といっても死んでからだが)許されるさ。体:君は本当に嫌なことを思い出させる。精神:楽しいことしか〔言ってない〕。体:君は死を愉快なことだと言うのか?精神:それを知った人にとっては実際、そうだよ。 体:君は知ったのか?精神:最大限に知ったね。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.22

体:なぜそれが万人に恐るべきことと見えているのかを説明してもらいたい。精神:この点については、喜んで君の意向に添いたい。しかし、君以外の誰もそれを怖がってはいない。 体:君は怖くないのか? 精神:これより怖くないものはない。体:かくも偉大な知恵を前にしてこれ以上話すことは狂気の沙汰だな。 精神:〔狂っているのは〕君だよ。体:しかし万人がそれを恐れることを私は知っている。精神:考えてみたまえ! 体:理解されるように話したまえ。精神:よろしい、君がわかるように話そう。人間の精神は不死だ。その理由によって、それは死を恐れず、実

際、それを雄々しく克服する。体はその全体が死に従属する。それゆえ、死を極度に恐れるのだ。体:精神が死に従属していないと、どうして君は知っているのか?精神:それはこのことから知られる。すなわち、すべて、死に由来するものは可死的である。しかし生からそ

の始まりが派生するものは、死ぬことがなく、生と死の間にあって生に付着しているものでもない。体:君はひどく曖昧なことを言う。 精神:明快なこと以外には言わないよ。 体:生とは何か?精神:それは体の魂(corporis anima)だ。体:では死と何か? 精神:生の欠如(vitae privatio)だ。体:この点で私は前より利口になったとは言えない〔君の話を聞いた後も、自分がより賢くなったとは思えな

い〕。 精神:聞きたまえ。君が死と考えるものは、私にとっては永遠の命の端緒なのであり、それ以上に楽しいもの

は我々には起こりえない。また、それが君を苦しめるべきものでもないのだ。実際、君がそれを嫌悪するのは、それが君から世俗の快楽を奪うと知っているからだ。しかし、君は、これらの快楽と永遠の喜びの間の一致と類似性は、君がかつて味わったことがあるに違いない胆汁とハチミツの間のそれよりも小さい〔これらの快楽と永遠の喜びの間には、胆汁と蜂蜜の間にあるよりもっと大きな隔たりがある〕ということを知らない。最後に、この違いをよりよく認識するには、君が知っていることを考えるのが良い。君のところに到来しうる世の快楽のすべての連続は、倦怠(私はむしろこう呼びたいが)、嘔吐、そしてさらに悪いこと、病気と時には死をもたらすということを〔考えるのが良い〕。もし君が、何度か腹を満たした後で、食べ物を欲しているなら、君は他のものを求めているのだ。君がそれに満足した時、更にまた他の物を求め、この世で探し求めるのをやめることはない、というのも、君の祈りを満足させるものを決して見出さないだろうから。飲み物についてはどうか?それが食道を通る間は、楽しませる。これがそれ以上は入れないところまでくる

と、それは大来な苦しみになる。そして〔自分を〕殺すものを自制することもできないのだ。それでも君は、君がもたらしている死を恐れる。おお、憐れむべき、飽くことのない体よ、それは自分を害するものから自分を守ることを知らない。そして自分自身であるものを恐れる。それゆえ人間の体は、その精神と違って、野生のものより不幸なのだということがわかるだろう。なぜなら、非理性的なものは彼らに必要なものしか欲しないのだから。実際、理性的なものは自分に適切なものを求めること少なく、自分を殺すものを求めることが多い。 次に我々が取り上げるのは、体が使用するのだが、体の外側で求められるようなもの、あらゆる種類の富のよ

うなものである。こうした富のために、精神に従わない、人間の体は日毎驚くべく多様な仕方で苦しめられる。それらの野蛮な心情(non humana pactora)は、何も成就せず、危険に向かって突き進む。それら〔危険〕によってアニマを滅びに導き、そして憐れむべき体をアニムスから引き離す。その原因は、自らの体を偶像にしてしまうということより他にはない。紫ないし緋色に染めた亜麻布を身に纏い、首飾りや腕輪で飾り立て、これを密かに神以上に崇拝することを憚らないのである。自分自身の偶像崇拝は、他者の偶像崇拝より大きいということを、あるいは死がこれらすべての終わりだとい

うことを、誰が否定するだろう。おお無知な体よ、自分自身以外には何も恐れるな。なぜなら、死がやってくるのは、君から、欲望を通じてであるから。また、君は自分自身に由来するもの、すなわち君が恐れる死を導く堕落以外の何物をも欲しない。だから、いかに君が自分自身と一致していないかを見たまえ。そして君は君自身

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2に抵抗できないから、他者にも十分に抵抗できないのだ。お願いだ。まだ君に可能である間に、改悛してくれ。私たちから離れないように、そして過度に欲しないようにしてくれ。今や我々は孜々汲々〔フレクンティア〕の庭にやってきた。そこでこのことについてより多くを聞くことが君

に許されるだろう。

第四章および第三段階の再説兄弟たちよ、これまで言われたすべて、そしてこれから言われるであろうすべては、錬金術的調製についての

こととしても理解されうると知れ。すなわち、思弁哲学による人間の諸部分の分離について我々が述べたことは、火による残滓部分の分離についても同様に理解されるべきである。そしてもしこのような分離がなされなかったなら、あらゆる病気を等しく癒しうる普遍的な医薬を求めて作業する錬金術師たちの労働も無駄となる。この書物の中で人間について言われたことのすべては、最も勤勉に考察されねばならない。なぜなら、その中

には、ただの一語といえども、化学の術を指しておらず、その説明のために述べられていないものはないからである。哲学的な愛および憎しみが無生物の諸部分の間にあるように、それは人間の諸部分の中にもある。実際、前者

〔無生物の諸部分〕でも、後者〔人間の諸部分〕に劣らず、もし結合(coniunctio)の前に、述べられた部分の堕落(corruptio)が除去されていなかったら真の合一(unio)はなされえない。したがって、敵同士の間の和平(pax inter inimicos)こそ、君が作るべきものである。それは友人たちが一の中で集まるため(ut amici conveniant in unum)である。すべての不完全な体の中に、そして究極的な完成にはまだ至らないものの中には、友情と敵対(amicitia &

inimicitia)の両方が同時に内在している。もし後者〔haec=inimicitia〕が人間の技量ないし勤勉によって(hominis ingenio vel industria)除去されるべきであるなら、術によって他方の部分をその究極の完成にまで回復させることが必要である。その完成は、すでに述べたように、人間の合一の中にある。それゆえ、各々の体から、その諸部分を火によって分離し、不純な諸部分を浄化せよ(impuras mundifica)。

すでに純粋なものは浄化(mundatio)を要しない。純粋なものを純粋なものと混合せよ。ただし、その前に、より重いものをより軽いものによって昇華せよ。か

くして、先に述べた所の「固定された揮発性もの」(fixum volatile)、体的にして霊的なものが生成するであろう。これまで我々は物理的錬金術との比較について述べてきた。それゆえここでは、形而上学的錬金術において

残っているものを叙述し終えるまで、それ〔物理的錬金術〕についての議論は省略しよう。しかしここで読者には、これまで述べてきたことを、それぞれ別個に理解するよう助言するのがよかろう。さもないと混乱するのは必然である。それゆえ、疑義が起こりうる事柄の間の相違を説明しておくことは無駄ではあるまい。私が以下で無生物(inanimātum)に言及する時、それは植物と鉱物を指していると理解してもらいたい。これ

らが植物的なアニマを持っているとしても、やはり感覚を有するものたち(sensibilia)のそれとは区別すべきである。先に私は無生物の体について語った。しかし、私が、全ての自然的存在に、それぞれに見合った様式の霊、アニマ、そして体を付与する錬金術師たちに異を唱えようとしているなどと考えてはならない。。実際彼らはこれに反対する者たちに対し、このことを必要に応じて幾度でも、その眼前で実証できるのだ。同様に、私は感覚するもの(sensitiva)を非理性的な動物(bruta irrationalia)であると主張する。それを理性的なものとも考えない。それらは理性的なアニマと共に感覚するアニマも持つが、私はその意義において、より重要なもの、すなわち理性的なものを受け入れるだろう。最後に、上で述べたことについてだが、理性的な分離は二通りあることを知らねばならない。すなわち、自発

的な分離と自然的な分離である。自発的な分離についてはこれまで述べてきた。自然的な分離は化学者の領分ではない。感覚するものと無生物〔の分離〕もまた二重である。すなわち、自然的分離と人為的分離であって、この後者が化学者に関わる。自発的分離は、諸部分が完全に保存されている状態で起こる。自然的、および術的な分離ではそうではない。

自発的分離の道具は霊と生命の空気孔(spiraculum vitae)である。自然的分離の道具は死である。術的分離の道具は火である。

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今や、理性的なものの錬金術を、感覚するものおよび無生物の分離と合一から生起しうるものと同じとみなすことに何の妨げもないであろう。私が理性的錬金術を誤って上位に置いたのと考えてはならない。なぜなら、もし君が理性的錬金術も自然的錬

金術も理解していなかったとすれば、必然的に術的錬金術についても無知たらざるを得ないからである。しかし、私が自然的錬金術から手を引いたなどと思わないでほしい。それについては、君がその残りを理解するのに十分なだけのことを述べた。そして分離についてはこれで終わりにしたい。君も知る通り、人間は自然によって定められた期間が終わった後、三つの部分(我々はそれらが、霊、アニ

マ、そして体だと言った)に分解される。これは死の、作用する堕落によってなされる。自然的な火が消えることによって根源的な液が欠如すると、霊とアニマは体の残りから離れる。それは再びその元素的諸部分へと分離される。それは地の中で、腐敗によりなされる。これによってすべての元素はそれ自身のものへと回帰し、地は地的なものを、水は水的なものを吸収する。他の元素についても同様である。霊とアニマはそれ自身が出てきたところに帰る。それは、体といつまでも分離されているためではなく、神的

な術により(artificio divino)、よりよき構成においてそれらが結合されるためである。その後、それらはもはや分離されることはない。これが不可分の合一の最大の徳〔効力〕であり、諸部分の一への接合(compactio)である。他方、理性的な体

〔複数〕は、その諸元素が諸元素によって培われていない限り、霊とアニマを保持することができない。胃の中に投入された食物と飲み物は消化において煮られる(さもなければ、体の部分の分離は、堕落によるか腐敗による以外にはなされえない)。そして自然の術によって、純粋なものが不純なものから分離される。その結果、地と水と気と火のより良い食物と飲み物によって、人間の体の地、水、気、そして火が、培われ、食べ物と飲み物の、地と水と気と火のより不純な質料が、大便あるいはその他の排泄器官を通じて排泄される。他方、この粗雑な物質のすべての部分は(すでに述べたように)自分の元素(suum elementum)を求める。人

間の中の火は貪欲な元素であり、残りのより純粋な元素を消尽する。それゆえ、栄養物が必要なのだ。さもないと、人間は自分自身を消尽するだろう。栄養物が使い尽くされると、その場所はアニマにも霊にも残されることはない。このような火は火であり、そして他の元素の合一ないしアニマである。これなしではいかなる元素も構成されず、かえって分離される。諸元素の中には哲学的な愛がある。もし君が物理的科学者あるいは自然的哲学者になりたいのなら、この愛の

みを抱いていたまえ。さもなければ、君は物理的科学者では全くなく、むしろ自然の破壊者となるだろう。

第五章 哲学の七段階孜々汲々〔フレクエンチア〕について。 そこでは精神、体、および孜々汲々〔フレクエンチア〕が対話する。

精神:今日は、孜々汲々〔フレクエンチア〕!孜々汲々〔フレクエンチア〕:君たちに最も暖かい挨拶ともてなしを。それでどこから来たのかな?精神:愛の哲学(amoris philosophia)から、徳〔効力〕の城へと旅しています。孜々汲々〔フレクエンチア〕:私のところでゆっくりして、旅の疲れが取れるまで休息されよ。精神:それについては喜んであなたのお申し出に従いましょう。孜々汲々〔フレクエンチア〕:勤勉に手入れされた庭に入って、君たちのためにそこにあるものを自由に楽し

まれるがよい。精神:心から感謝します。孜々汲々〔フレクエンチア〕:私にでなく、その全てが所属している方、つまり神に感謝されよ。卓につきな

さい。君たちを接待できるものが用意されている。神に祈ろう。全能の父なる神よ、あなたが我らをあなたの祝福に値するものとなされますように、アーメン。体よ、自分の世話をしなさい。その間に、私は精神に糧を与えよう。精神よ、聞きなさい。孜々汲々〔フレク

エンチア〕とは真理の愛に関わる堅忍(perseverantia)のことである。それは、不断の努力(assiduitas)を通じて徳〔効力〕に接近することに他ならない。ここにはいかなる休息もない。それゆえ、ここに怠惰のための場所を探しても、何一つ建てられているものは見られない。屋外では、諸々の徳〔効力〕の庭々が注意深い農夫たちを求めている。おわかりか、この地は、それが作り出す甘さの花と草のために不断に浄化されないなら、アザミとイラクサの他にはなにもとれなくなってしまうだろう。

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もし君が怠惰になるならば、それ〔この地〕は君がいつも連れ回っている体と同じになってしまうだろう。ちょうどこれらの庭が夜も昼も世話をするべく私に託されているように、それ〔体〕は君に植民地として与えられている。なんであれその上に生えた雑草を取り除くのは君の務めである。これに打ち勝つには酩酊を遠ざけるのがいちばんである。疑いもなく、それこそ眠気と怠惰を引き込むものなのだから。無為(otium)も取り除くとよい。それは諸々の悪徳の最強の根が滅びるようにである。体にとって必要なもの以外には何ものも許容しないようにせよ。なんであれ、過剰なものは、成長して悪徳になってしまうだろう。先に、君たちは、体に必要なものは何かを聞いた。今度は、君の健康に良いものは何かを聞くがよい。これま

で体を無視していたのなら、それを修正するのは君にとって困難だろうし、また体にとっても〔困難だろう〕。というのも、君の理性はできているが、体の理性はできておらず、それ〔体〕は理性を拒否している。君は自分には神の認識が委ねられていると考えている(実際そうなのだ)。だから、体は君とって言い訳にならない。君はいわば彼の教師なのだから。また君が体にとっての言い訳になることもない。体は以前には自由だったのに自らを奴隷にしたのだから。それゆえ、私が庭についてしていることを見なさい。私は二つの仕方で世話をしている。すなわち草取りと潅

水である。前者によって、私は雑草を根もとから引き抜く。それらが増大して良い草を圧倒しないためである。君の体にも同様にしなさい。悪しき考えと敵意をあらかじめ君から追い払い、体があらゆる悪しき業に関わらぬよう制限するのだ。あることを教えて、それから別な[それに反する]ことをするのはよろしくない。実際、君が体に罪の機会を与えたとすれば、どうして、その現場を押さえるなどということをするのか。体は何も思弁〔吟味〕しない。想像という沈黙の作業を行うのはアニムスである。これを体が最終的に実行し

ようと試みる。構想(conceptio)は精神に、実行(executio)は体に属する。もし私が雑草を引き抜いて、その間に毒麦の種を蒔いたとすれば、私が正しているのは私自身が行ったことよ

り他の何であるというのか〔私は自分の行いを自分で修正しているだけとなろう〕?それゆえ、体にそれができるより以上のことを帰さないようにしなさい〔体にできないことを体のせいにしてはいけない〕。体は、良いことよりむしろ間違った考えを行動に移しやすい。それは本当だ。しかし、もし君がすべての悪しき思いを放逐し、それらを良きもので置き換えたならば、君の体は良いことしかできなくなるか、あるいはすべての悪から離れていることができるだろう。これが体に打ち勝つ一つの方法である。あと一つはこれから話そう。もし私がただ自分の庭を無用のものから守るだけだったら、確実に、私はほとんど何も成し遂げたことにはな

らないだろう。なぜなら、蒔かれたものに対しては、他の、もっと必要な世話がなされねばならないからだ。すなわち潅水である。これは全ての植物の栄養の、もう一つの部分であり、これなしにそれらは育つことができない。このように君たちもまた体に生ける水、すなわち神の言葉を注ぎなさい。このことを昼も夜も瞑想しなさい。そしてこれだけを〔しなさい〕̶̶体がこれ以外の何も言ったり、したりできないように。今や、君には、畑あるいは庭を体と比較することが適切だということがわかる。我々が福音書の中で読むよう

に、我らの救い主キリストもこのことをされている。良く耕された土地に落ちた良い種は(と彼は言う)良い実りをもたらす。同じように、柔らかい心に落ちる神の言葉は、その心が改悛し謙虚となった者の体を養うであろう。確かなことだが、最初の転落の時から、人間の心は石のようにかたくなになった。そして神の言葉によって柔らかくされなければ、それらは永遠にかたくななままに止まるだろう。ファラオの心は母の胎内の時から(他のすべての心と同じく)かたくなだった。しかし、神の言葉によって柔らかくされなかったので、かたくなにされたままにとどまった。我々は全て神への反逆者かつ敵対者として生まれた。そして至高の庭師[農夫=神]により敵意が根絶される

までは、そうであり続ける。精神よ、君はその庭師の使用人であれ。君は種、土地、そして水を持っている。絶えざる熱心な労働の他には、欠けているものは何もない。決してやむことなく、今聞いたこと、そして聞くであろうことについて熟考せねばならない。さもないと、君の中断によって、君は敵に介入の余地を与えるだろう。これらが、君の女主人である徳〔効力〕から、君に教えるべく託されたことである。彼女からは君はより多く

を教わるだろう。我々は神に大きな感謝を捧げます。神は我々の心が彼の光で照らすにふさわしいとされ、彼の言葉によって柔

らかくされます。アーメン。兄弟たち、つつがなく旅をし、そして徳〔効力〕を求めなさい。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.26

第五章および第四段階の再説いかなる職人も、孜々汲々〔フレクエンチア〕と熱心さを通じて仕事の習慣を形成しなければ(operis

habitum sibi contrahat)、その技術において卓越し優れることはできない。パン製造人が、パン製造人の働いているところを見たとして、どれほど頻繁に見たとしても、それが何の益があるか̶̶手を練り粉に入れ、熟練したパン職人として他人を教えられるほどになるように、それを繰り返すのでなければ〔何の利益があるか〕。これは化学の術を学ぼうとする人々においても良くあることだ。ある人々は、読書だけで目標達成できると考

える。他の者は、ごくわずかの操作によって〔達成できると考える〕。しかし、これは、自然が与えた術の中で最も困難なものであり、最も少なく知られているものである。それは確かにヘラクレスの仕事である。人間の精神、体、そして寿命を克服することなのだ。百万に一人〔という特別な者〕でなければ、これに勝利を収める、すなわち、術の目的を全うすることはできないだろう。ある人たちは、最上の研究と労働によって、たくさんの自然の秘密を明るみに出すことができる。これは、医

術の領域でよくなされうる̶̶医術以外でこれまで見出されてきた他のどの領域よりも〔よくなされうる〕。しかし、上で述べた普遍的医薬を発見するに至った者は、これまでのところ、極めて少ない。 それは、憐れみ深い神の恩寵により、彼らが選ぶところのものにあらかじめ帰ることができた者、すなわち、自らの体の汚れを再び浄化し、また自然的な体の雲を除去した者たちにのみ起こったのである。この術の探求者には誰であれ、熱心に神に祈ることを、熱心に研究し作業することを私は勧める。イエスの名

において光の担い手に祈念しないなら、彼らは目標に到達しないであろう。しかしまず、息子の中に父を求めるとはどういうことかを、彼らは考えねばならない。 それは確かに、父な

る神と息子の栄光のためにあるもののみを要求すること以外の何物でもない。多くの者は、彼らに有用に見えるものを選ぶことを習わしとしている。しかし、真に有用であるものでなければ、神からは求められない。多くの短い著作の中で私が言ったように、

神は勤勉かつ孜々汲々たる試みを助け、怠慢な者を蔑むのである。我々は善を選ぶ。それは悪を望むことがないようにするためである。

精神と体の対話精神:孜々汲々〔フレクエンチア〕の話を聞いたかね。体:確かに、聞いた。精神:面白かったかね?体:完全にではない。精神:どうして?体:私について言われたことのすべて。その目的が何かわからない。精神:それは君のため、君の幸せのためだ。体:神がそれをもたらさんことを。精神:言ってくれ、君はこの生の後に、別な未来の生があることを知っているかね?体:知っているよ、実際。精神:また、死後は、体の死が永続的であることも知っているかね?体:いいや、それは知らない。精神:君はこの世で生きなければならない。それは永遠に生きることができるようにするためだ。体:私が他に何をしているというのかね?精神:君はむしろ日ごとに死んでいるのだ。体:君の頭はおかしいよ。精神:聞きたまえ、この世で生きるのは、死に、そしてキリストにおいて生きる者なのだ。体:誰がこれを理解するのだろう?精神:君は福音書で聞かなかったのか̶̶一粒の種が地に落ちて死ななかったら、それは一粒のままだろう、

と。体:それがこのこととどう関係するのかね?精神:君が地に落ちた穀粒なのだ。なぜなら、君は地以外の何ものでもないのだから。体:しかし私は、孜々汲々〔フレクエンチア〕が、福音書の中の一粒の麦とは神の言葉だと言うのを聞いた。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.27

精神:今、それを聞いて、君が注意を払っていたことがわかった。体:もちろん。精神:君は良い神学者ではない。体:君が私のために神学者になってくれたまえ。精神:「精神:穀粒を神の言葉と解するならば、「もし死ぬならば」という言葉は能動的な意義、すなわち

「それ〔神の言葉〕が殺すならば」という意義を持つ。その意味は「神の言葉が人間の心の中に落ちて、そこで[心を]殺すのでなければ」となるだろう。それは受動的にも理解されうる̶̶大地に蒔かれた(すなわち、地上的にされた)人間の体と心が、殺され、死んだものとなって、神の言葉という穀粒を受けとらない限り、そしてまた、効用と建設あるいはむしろ増殖へと転換されない限り、それはそのままにとどまるだけで、実をもたらさない、と〔理解されうる〕。あるいは、よりキリスト教的に言えば、麦の粒が合一を通じて死んだ体と結合されない限り、両方ともが分離されたままとどまり、実を結ばない、と〔理解されうる〕。体:君は文法に蝋の鼻をつけてやる〔文法を好き勝手に歪める〕のだな。精神:体よ、君はいまだに反抗的だ。徳〔効力〕へと急がせねばならないようだ。しかし、丁度よく、我々は

すでに到着した。

第六章 徳〔効力〕 哲学の第五段階について 

精神:おお、聖なる者よ、あなたの門が開かれるよう命じてください。徳:我々のところに来たいという君はだれか?精神:二人の哲学初心者です。徳:何が望みか?精神:徳を学ぶことです。徳:君たちは正しいものを求めている。君たちにそれが拒まれるなどということがあってはならない。君たちの前の教師は誰であったか?精神:哲学的な愛と孜々汲々〔フレクエンチア〕です。徳:このような者たちが君たちに基礎を伝授したことを喜ばしく思う。君たちをその研究に向かわせたものは

何か?精神:真理の認識への欲求です。徳:真理の認識は、神が作られたものすべての根にして母である。しかし、君たちがその認識を求める目的は

何か?精神:それを実践するに値する者となるためです。徳:何に対して?精神:神と隣人です。徳:良い意図である。神がそれに対して幸いな結果を与えたもうように私は祈る。君たちの名前は何か?精神:私は精神、こちらの名前は体です。徳:その名前を誰から得たのか?精神:私は哲学的愛にそう呼ばれました。他方、体は俗人によって与えられました。徳:体とともにある精神には何が〔いかなる名前が〕適切か?精神:全然ありません。我々にある全てが言い争いですから。徳:それはどういう意味かな?精神:体はこの世を離れることを嫌がるのです。徳:すべてのものは一度この世を着ると、救いを忌避し、最大限の労働によってでなければ、そこから身を振

りほどくことができない。兄弟たちよ、入りなさい。そして、何であれ私が君に提供できるものを、どうか、よく、そして均等の部分で受け入れなさい。体よ、卓について、お腹の世話をしなさい。精神の食事は私が供しましょう。万物を作られた天の父よ、あなたの真理の言葉で私たちを永遠の命において養うに値する者とされますよう

に。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.28

精神よ、聞きなさい。物の徳は、それぞれの物の真理である。そして真理は経験によって知られる効能である。そして効能は天上的な流入である。何であれ天から来たのでないものは、徳とは言われない。その偽りの類似品である。かつては哲学者たちが我々に徳について叙述していた。彼らは神を知らなかった。というのも、彼らは、その中で神のあらゆる徳が作られたところの神の息子を理解していなかったからである。より最近の者たちは、徳を神学と倫理学に分割するのが習わしである。学ある人々の間で論じられている事柄の中でこれ以上に馬鹿げたことはない。全ての徳は神に由来する。したがって神学的なものである。倫理的と呼ばれるものも、それが神から来たのでない限り、徳であることはできない。敵を前にしてローマ人が示す剛毅と堅忍、寛大さと誇り、慎重と狡知と欺瞞、禁欲と名誉欲(そしてその他のことども)は、徳というより悪徳であった。というのも、それは神の栄光のためではなく、人間および自分自身のためのものだからである。キリスト教的哲学者が徳として持つのは真理のみである。彼らはこれを信仰、希望、愛に分ける。この三つか

ら、そしてその中に、真理全体が存する。そして、それらの中に見出されないものは、理性的なものおよび感覚するものであれ、無生物であれ、同じく偽物である。なぜなら、これらのものの信仰とは、見られたことではなく、聞かれたことの確信だからだ。この理由から、信仰は聞くことにより始まると言われる。というのも、見られるものは信仰ではなく、目の提示による確実な知識だからである。聖書がこのことを証言している。見ないのに信じる人は、幸いである。自然のものの中にはある種の真理がある、外的な目には見えず、精神によってのみ知覚できる真理である。哲

学者たちはそれを経験し、その徳が奇跡を起こすようなものであることを確実に知った。であるから、人間が信仰によって奇跡を行えるというのは賛嘆すべきことなのだ。そして、無生物もまた、彼らに徳が割り当てられるならそれを成就できるのである。その〔真理の〕中に術の全体がある。それはそうした枷から霊を解放するためである。すでに述べられたように、精神が体から解放されなければならないのだ。それゆえ体は牢獄である。体によって、アニマの徳は妨げられ、自然的事物の霊もまた、その力を行使するこ

とができない。このような無生物の、効能の霊がその基体の理性によっているように、人間における信仰においてもそれが同様であることは疑いがない。それゆえ、人間の徳は真の信仰である。他方、すべての他のものの徳は、効能の真理である。例を挙げよう。自然の事物の経験が不足した自然学者(physicus)は信じようとしないが、なんであれ有毒な動

物の死体は、たとえカラカラに干からびていても、毒に侵された傷口、悪性の腫瘍の上に乗せると、内奥の毒物を自らに引き寄せる。これは、自然の徳の化学的な探求者にはよく知られており、彼らが自然の磁的な力から確認していることである。彼ら〔経験不足の自然学者たち〕は、これが自然に可能なことを凌駕できることを信じない。それゆえその徳にふさわしくなくて、その自然の宝箱から最小の秘密といえども獲得するに値しないのである。もし彼らが別な種類の別な実験を見たとしても、彼らはこのようなことが起こる理由をそれ以上探求せず、実験で満足して、ただそれを使うだけだろう。この大いなる無知の中にあって、自然学者の大部分は無知のままにとどまる。「これを得た」と言い、そこからその由来を探求しようという好奇心を持つこともない。しかし自然的化学者は実験だけでは満足しない、また天から与えられるものだけでも満足しない。それが天の

どの部分から来るのかを詳しく探求し(perquirit)、大いなる被造物の解剖学を、小宇宙から生成しうるものと比較するのである。これを彼は四つの仕方および道具によって実現しようとする。すなわち、土占い、水占い、火占い、天文学である。土占いは自然物の中の土の解剖学の探求、水占いは、水の解剖学の、火占いは火の解剖学の、天文学は天的な徳の解剖学の探求である。術者は、哲学的な愛に駆り立てられ、喜び勇んで、そしてそれらの探求に取り組む。彼らはものの真理に到達するという希望に支えられ(また、それによって育てられ(alitur))ている。彼らには生来この真理への信仰が据えられているのである。それゆえ希望が信仰の刺激、あるいは未来の真理の確実さであるということは、明らかである。自分が追求しているものを獲得する仕方を確実に知っている者でなければ、それにおける試みは不振に終わる

だろう。しかし、彼が信仰によって自分の意見を強化し、そして疑いもなく孜々汲々〔フレクエンチア〕と才能によって助けられている場合には、何も得ないなどということはない。誠に、ここで、信仰が慈愛によって確証されるということを知っておかねばならない。それはちょうど、良い動機は良い働きを、あるいは悪い動機は悪い働きを持ちうるのと同じである。それゆえ慈愛とは行動によって完成された信仰である。誰が真の信仰について、自ら信仰であるところのかの方が教えたのと違った風に判断できるだろうか̶̶それは、信仰は働きから認識すべきだという教えである。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.29

このことを理解している人々のある者たちは、慈愛は自分自身から始まるべきだと言う。このことは次のように理解すべきだ、と私は考える̶̶キリスト教的人間は、それを他者に行動によって及ぼす前に、まず孜々汲々〔フレクエンチア〕を通じて自ら徳の習慣を身につけねばならない、と。それゆえ、精神よ、自分の体の中で慈愛を行使することを学べ。その虚しい欲望を制御せよ。そうすれば、それ〔体〕はあらゆることにおいて君に従うようになるだろう。これが成就するように、私は、体が君と一緒に徳の泉から飲むように取り計らおう。それによって二人が一人になり、合一の中で和平を持つようになるだろう。体よ、この泉に来たれ。そして君の精神とともに満足するまで飲め。その後には、もはや虚栄に渇くことはな

いであろう。おお、泉の驚嘆すべき効能よ、それは二つを一つにし、敵対するものたちの間に和平をもたらす!愛の泉は霊とアニマを精神にできる。しかしここでは精神と体をから一人の人間が実現する(efficit)。祈ろう。父よ、あなたの息子たちが諸徳の尽きざる泉に参与することをよしとされたことに感謝します。今や、君は分別ある人とされた。権能〔ポテンチア〕のところへゆけ。そこで彼から君は堅忍不抜[コンスタ

ンチア]を学ぶであろう。では、さらばだ。

第六章および第五段階の再説

各々のものに、その徳〔効力〕と天の影響が宿る。しかしそれは外的な目にはほとんど見えない。ただその効果は見られる。我々は磁石から鉄に及ぼされる引力を見るが、その中に潜在している磁的な力は見ることができない。なぜなら、それは霊であって、感覚に捉えられないからである。他の事柄においてもこれと同様である。ワインはそれ自身で多様な力を有している。それらは化学の術の実験によって、それぞれ分離された形で哲学

者たちに認識された。その霊は暖め、乾燥させる。しかし体は全くその反対のことをする。なぜなら、それは冷気とともに湿らせるからである。その経験は、その水(燃える〔水〕と呼ばれる)および酢において見られうる。これらの能力は、分離によって正反対になる。その前はこれほど多様ではなかった。なぜなら、その時には、自然的合一による混合の方により多く関与しているからである。全ての他の自然的な体において、このような徳〔効力〕が、多かれ少なかれ内在しているということを、誰が

(狂っているのでなければ)否定するだろうか。パンあるいは果実が、ワインのものに劣らない霊を、それ自身の中に持っていることを否定する者は哲学者ではないだろう。もっとも、パンの中には、ワインの中ほど大量にはない。しかし、同じ量なら同じ効能を持つ。もしパンおよびワインからの霊のこのような分離が人為的になされうるならば、人間においてなら、このよう

な分離はどれほどより自然に起こるだろうか。これらのことから哲学的変成は理解されうる。我々は、パンとワインの両方の、より純粋な実体が肉と血に変成されること、そして植物の不可視の形相から動物の可視的な形相が生成されることを知らないであろうか。それ故、変えられるのは、事物の外観ではなく、形相なのである。ここまでくれば、哲学的な変成が術によって、人間の中でなされうるということ、自然自身がパンとワインの

変成を通じて成し得るよりずっと良くなされうるということを、誰が疑うであろうか。というのも、事物の本性の中には、より大きな自然的な徳〔効力〕と天的な影響を持つ、他の体があって、そこから、ちょうどワインとパンからなされるように、霊が分離され、人間の実体すなわち肉と血に̶̶術によって、自然がなしうるよりも卓越した仕方で̶̶変成されうるからである。しかし哲学者たちには光より明瞭なことを、私はなぜこれほどしばしば繰り返すのだろう。信仰に頼ることを

望まない者は、化学の術を通じて実験すればよい。そしてもし未だ無知であれば、実験する前に学べばよい。というのも、通常の蒸留技術を手段としてこのようなものを達成しようと試みるなら、彼は単に時間と労力を浪費するだけとなるであろうから。自分にとって都合の良いことなら強制されなくてもいい。しかし、もし彼がこの忠告を軽視するなら、損失を

被るのは、この忠告を与えた者ではなく、自分自身なのだから、警告される必要があるのである。

第七章 権能〔ポテンチア〕について

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思弁哲学・和訳-v.1--p.30

権能〔ポテンチア〕と人間の対話人間:神的なる権能〔ポテンチア〕よ、開けてください。権能:入ることを望む者はだれか?人間:人間です。権能:君はどこから来たのか?人間:徳〔効力〕が、私を来させました。権能:いかなる目的で?人間:真理の侍女から受けた徳〔効力〕の堅固化(confirmatio)のためです。権能:それは正しい。しかし、それが可能となるのはいかなる理由によってだと信じるか?人間:権能〔ポテンチア〕です。権能:つまるところ、何の権能〔ポテンチア〕か?人間:真理の権能〔ポテンチア〕です。権能:真理は何の中にあると考えるか人間:至高の唯一なるものの徳〔効力〕の中にすべての真理が位置していることを、私は疑いません。権能:今や君は自分が堅固化に値することを示した。それゆえ、私が君に提示するであろうことに心を向け

よ。権能:権能〔ポテンチア〕とは主に由来する、受容された徳〔効力〕の堅忍不抜〔コンスタンチア〕である。

徳〔効力〕の最小の閃光であっても、それが神以外のところから得られると誰がか考えるとすれば、それは間違いである。誰かが自分から、あるいはここで述べたもの以外から〔徳を〕求めるとすれば、彼は徳〔効力〕の代わりに悪徳を得て、自ら破滅するだろう。かくして、その昔、異教徒たちが英雄的な行為(そう彼らは呼んだのだが)によって徳〔効力〕を得ようとした理由は、他でもない、自らについての後世の名声を残すためであった。こんなものを彼らは̶̶哀れにも̶̶最高善および至福としたのだった。実際、彼らに従った者は誰であれ、このような「記憶すべきもの」の行き着く先がなにかを、我々にあからさまに教えている。彼らの王国は岩の上ではなく砂の上に建てられているので、その崩壊は必然であり、廃墟として残ったものは、その愚かさ̶̶子孫たちには明白な愚かさ̶̶だけであった。もし異教徒たちが真理の岩の上に建てていたら、彼らの王国は永続的であったろう。(aedificavissent, fuisset 接続法過去完了)人間の足跡を追うべきではなく、真理の足跡を追うべきである、そこではすべてが永続的である。兄弟よ、君は徳〔効力〕によってより以上によく堅固化される(confirmari)ことはない。それは真理に他ならないのである。もし君が君の全ての行為と言葉においてそれを〔hanc=徳を〕尊重するよう全力で試みていたならば、それは〔ipsa=徳は〕君を日毎に堅固化して、ますます権能〔ポテンチア〕を強め、ついには戦いにおいてライオンのごとくになし、この世の全ての力(mundi vires omnes)に打ち勝つことができるようになる。君は死を恐れず、悪魔的圧政も君に邪なことを企むことができなくなるだろう。ちょうど純粋な金が、常に、火の中で、減衰することなく、より純粋に、輝かしく、きわめて長いあいだにわたって歓喜するように、真理を宣べ伝える者も全ての殉教の中で堅固化されて喜ぶ̶̶それについては以下でより詳しく述べよう。しかし次のことは述べておくに値する̶̶あらゆる術と業の様式と手際よさが与えられるのは、孜々汲々〔フ

レクエンチア〕から、そして為されたことと言われたことにおける、真理の熱心な遵守からのみである、と。徳〔効力〕の堅忍不抜〔コンスタンチア〕は、天から、権能〔ポテンチア〕へと注ぎ込まれる。それは最終的には、遵守によって、絶える事なく、奇跡へと移行する。君は今やそれを熱望している。そこへ赴きなさい。では、さらばだ。

第七章および第六段階の再説自然的な体から、無生物からも、徳〔効力〕は抽出される(上述のごとく)とはいえ、その後、術によってそ

の権能〔ポテンチア〕の極限にまで導かれないならば、それらは何らかの卓越せる業に適さない。しかし、それらが、勤勉な化学的遵守(observatio)によって、純化され、精妙化されればされるほど、その初めの天上的な影響にますます近づき、その結果、より効果的に浸透し、作用するようになる。その作業は奇跡と考えられるべきものである。なぜなら、あらゆる病の治療に効能があるからである。

第八章 第七の、奇跡的で、究極の哲学的段階 

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思弁哲学・和訳-v.1--p.31

奇跡は堅忍不抜の真理の効果である。これを解き明かすために、一つの例を用いよう。これによって奇跡はくまなく明らかになるだろう。ある哲学者が、真理を伝えたために専制的な皇帝によって捕縛され、殉教させられた。それも生きたまま、鉄製のすりこぎによって、砕いた石の中で、押しつぶされることになった。彼は言った。「暴君よ、あなたはこのちっぽけな体を破壊するがよい。しかし私の精神を破壊することは決してできない。」これが皇帝を煩わせ、これ以上、哲学者が真理を語らないように̶̶彼はそれを聞いていられなかった̶̶、彼は拷問者に哲学者の舌を切り取るように命じた。しかし哲学者は舌を自分の歯で噛み切り、ぐちゃぐちゃに潰される前に、皇帝の顔に吐き出した。おお、賛嘆すべきこの人物の堅忍不抜よ、彼は、かような殉教も恐れることなく、最大の歓びをもって死を耐

え、この世の圧政に勝利したのではないか?

第七段階、第八章の再説、これまでの作業全体の結論それを通じて精神の最高位への入口が開くところの七つの哲学的段階と同じく、化学の操作も七つであり、術

者はそれを通じてかの医術の最高の秘密(arcanum)に到達することができる。化学的腐敗は、哲学者たちの研究に比較される。なぜなら、哲学者たちが研究を通じて認識へと態勢づけられ

る(ad cognitionem disponuntur)ように、自然的なものは腐敗を通じて溶解(solutio)に態勢づけられるからである。哲学的認識はこの溶解に比べられる。溶解によって体が溶かされる(solvuntur)ように、認識によって哲学者たちの疑いが解消される(resolvuntur)からである。哲学的な愛からのみ孜々汲々たる研究(studiorum frequentatio)がもたらされるように、化学者たちの氷結か

ら(ex congelatione chemistarum)、熱心さと操作の反復を通じて、第一の合一が生起する。ちょうど、哲学者たちの天賦の才能が孜々汲々によって鋭くされるように、化学の洗浄(ablutio)によって、体

の諸部分が精妙化される(subtiliantur)。ちょうど哲学者たちが徳〔効力〕を通じて合一される(uniuntur)ように、諸元素は、構成を通じ(per compositionem)、最小のものによって構成される。徳〔効力〕が哲学的能力を通じて堅固化されるように、霊は固定(fixio)を通じてそれ自身の体の中に固められ(in suis corporibus figuntur)、もはや逃げ出すことがなくなる。哲学的な業がその徳〔効力〕を示すのは奇跡を通じてのみである。それと同様に、化学者の医薬の完成は、そ

の投入(projectio)をつうじて明らかになる。さて、最も優れた読者よ、今や我らの業の企ての全体は、君の所有するところとなった。そこから、君が真の

形而上学的哲学および自然的・化学的哲学において何ら前進しなかったとしても、私に文句を言うべきではない。なぜなら、何であれ他の人々が不明瞭にしておいたことを、私は最も明瞭に君に説明したのだから。それではご機嫌よう。そして、何であれ、この小さな書物に含まれる良きことを熟慮したまえ。

哲学的染色剤

ここで終わりにしてもよかったのだが、研究者たちに対する哲学的な愛が私を引き止めて、我らがテオフラストゥス・パラケルススの哲学的染色剤を付け加えるように勧めた。これによって内的な治療も外的な治療も、血の更新を通じてなされうるのである。これらは、全ての錬金術を通じて作られるものの中で最も単純かつ強力な医薬である。その調製の仕方を、実

施法とともに、パラケルススの「大外科学」から記述した。それは哲学的医学について先に述べられたことがより容易に理解されるためである。

太陽すなわち黄金の染色剤について

太陽の染色剤が抽出されると、その体は白いままにとどまる。染色剤はきわめて純粋であり、不純なものから、すなわち、それ自身の体から分離される。この分離は必須で

ある。染色剤は、その段階において透明化(clarificari)、あるいは高揚されねばならない。それは5回二重化され、2

4までにされる。それ以上高くは進まない。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.32

そうすると、誰に対しても、血液を原初の状態に更新するために投与できる。投与法(administratio)に言われている通りである。

抽出

体はハンマーで叩き、塩水につけて腐敗堕落させ、それ自身の金属的自然から引き離さねばならない。最後に残ったものは、甘い水によって洗浄されるべきである。そのあと、ワインの霊を通じて染色剤が抽出される。最後に、それは染色剤から引き上げられ、ついで沈殿物として残る。

塩の水の抽出

塩の水は塩から作られる。塩は、その本性からして、最も清浄で、最も白いものであり、煮沸も人為的な準備もなしに作られるのを常とする。それはある程度の段階を経て液状化され、次いで、粉末にされ、ラディッシュの根の汁と混ぜられ、その中で攪拌される。それが溶解したのち、蒸留する。そして色が緑の血の色になったら、均等の部分に混合し、全てを五回蒸留する。そして、この液体の中に太陽のシートがアンチモンによって浄化されたら、粉末にして溶かす。その蒸留物を純粋な水によって精妙に、塩辛さがなくなるまで洗浄する。なぜなら、塩は自らが洗浄されることを許し、深みにおいて実質と混合されることはないが、分離はされるからである。

ワインの霊は次のように作られる。

最上の純粋な、混ぜられていない、赤ないし白のワイン適量を、最適に洗浄された円環状の容器に入れて封をし、それからマリアの浴槽の中に、ワインの深さまで沈め、十の自然の日の間、煮る。最後に、冷えたものを、冷たいコップないしお椀に滴下せよ。それから霊が上昇し、真の印が現れたら、直ちに滴下をやめる。というのも、そのあとに続くものは生きた水であって、霊ではないからである。このワインの霊をそれ自身の残滓(それはアルコールのようである)に注いで、それが6インチほど浮くようにせよ。最適に洗浄された容器を暖かい浴槽の中におき、その中に一ヶ月止めておけ。それから霊の中に太陽の染色剤が昇ってくるであろう。そして白い粉が容器の底に残る。それからこの二つを分けねばならない。粉末を液状にせよ。そしてそこから白い金属ができるであろう。術が指示するように(ut artis est)霊が蒸発するがままにせよ。汁は液のように底にとどまるであろう。これを、液を入れるに十分な大きさのレトルトに入れて、五回graduareせよ。このようなgraduatioは、ただ高揚によってのみなされるべきである。それは質料を精妙化するが、第五本質以上に、すなわち、2.4.0以上に精妙になることを許してはならない。さもないと、それはその後の手順によって燃えてしまうであろう。

投与法

この一ドラクマを、ヴェニスのテリアカ一オンスと混ぜたものを、任意の時に、一スクループル、空の胃に与えよ。その後、患者はベッドで覆われなければならない。そうすると発汗するだろう。それを十日から十二日続けよ。

サンゴの中には血液の浄化に最適のチンキがある。

その体はアルコールの中で精妙に擦られ、そのチンキは、ワインの霊を通じて、金からのように抽出される。それらは同時に、十回、それから6回上昇し、その後、蒸留を通じて分離される。上昇は、全く(prorsus)直火によってのみなされねばならない。それから液汁はマリアの浴槽の中で6回分離されねばならない。そしてまた、堆肥の上におかれねばならない。この油は、テリアカの水とともに処理され、確かに、一スクループルの油と、一ドラクマの水とともに飲まれるべきである。

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テリアカの水は、5オンスのワインの霊で作られる。二オンス半のテリアカ、一オンス2ドラクマのローマ・ミルラ、オリエンタル・サフラン。この全てが混ぜられ、蒸留される。同時に、一度だけ、述べられたように処理される。

投与する分量

その一オンス二ドラクマを十オンスのチコリ水、あるいはガマンドラと混ぜよ。そしてその混合物の二ドラクマを朝と夕方に与える。患者は、それを摂取した後、五時間の間、食を断たねばならない。それから夕食のあとも同じ時間、食を断つ。このルーチンを六ないし七日続ける。地の煙あるいはチコリ水ないし類似のものから蒸留した水もまた与えられるべきである。

バルサムの染色剤

一オンスのバルサムと二十オンスのワインの霊をとり、同時にペリカンあるいは二重の容器に入れて、太陽の中で一ヶ月のあいだ循環させよ。これがなされると、それらを同時に霊とともにアレンビクで蒸留することが可能になる。この場合、その蒸留は、レトルトによるものより良い。このようにしてこの混合物は一つの構成の中に同時にとどまる。これにさらに半オンスのバルサムを加える。密閉した容器を次のようになるようにせよ̶̶加えられたバルサムが他のものと完全に混合され、その体から出たものが完成されるように。というのも、なんであれgraduareされるべきものはその実体が一つの体になって終わらねばならないからである。そしてこれが、上述のように、揮発性にされた時、再び半オンスの他のバルサムを加えるがよい。そしてこれを、前と同じように、加え、graduareすることにより、二オンスになるまで高揚させよ。これがバルサムの最強の調製法である。それは、他の調製法がなし得なかった全てを更新し治療する。その保存のおかげで、それはこの効力〔徳〕を、他のどれよりも上の、天から獲得したのである。

投与法

このバルサムが自ずから調製された後、五ポンドの大麦に古い白ワインを一日に二回、血液が改善するまで与えよ。

アンチモンの染色剤

この世界の中では、アンチモニウムより以上によく金を浄化するものはないということがわかっている。それゆえに、それは飲み物として調製されるなら、人間の中でも同じことを遂行しうる。しかも〔人間の中では〕よりよくなされる。また学識ある人々(literati)は、我らの師がこの比較をしたことに驚くことはない。判断する前に、彼らがに偉大な始原の被造物の解剖を、最初に理解し比較することを学ばせよ。星々の間の太陽のように、および金属の間の金のように、同じように、人間は動物たちの間で、首位を獲得している。その完全性のおかげで、形而上的にこの全ては一つに集まる。それゆえ、ちょうどアンチモンが金を完全に浄化して、そのほかの金属を消尽するように、同じく、人間を、

すでに述べた理由によって、内臓を空にするのでなく、根源的な浄化によって、再洗浄する。これは霊的にあらゆる余剰物を根絶する。これは最も卓越したアルカーヌムで、その構造は以下の通りである。アルコールの中で作られた最適なアンチモンを取れ。これを密封した反射炉の中で一ヶ月のあいだ撹拌する。これにより、それは揮発性となる。最初は白、ついで黄色、その後、赤あるいは淡いサフラン色になる。これを、霊を通じて百合から抽出せよ。そしてそれが二十インチ浮かび上がるようにし、密封したまま色が着くまで放置せよ。君も知るように、これは百合の至高の調製であり、人間を内的にも外的にも根源的に浄化する。

投与法

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九月あるいは十月、新しいワインの樽の中に、この染色剤半オンスを常に二十尺度まで入れよ。そして同時に、両方共が消化され、浄化されるようにせよ。患者たちは三週間か四週間の間、ほかの全ての飲み物の前に、あるいは、ほかのものなしに、あるいはより長くこれを飲むべきである。

哲学的な塩の染色剤

金の塩、アンチモンの塩、香油の塩の半オンス、そして純粋な普通の岩塩を八オンス取り、それらを一緒に混ぜて、一切れのパンに塗れ。これは空腹の時に食べられるのがよい。我々が金の塩、アンチモンの塩と述べたことに驚いてはならない。これらは卑俗な塩ではなく、哲学的な塩である。一度、君が、この術において君の知るべきことを知ったなら、もはや驚くことはないであろう。

別の哲学的な塩

ガマンドレアの塩、チコリの塩、ヴァレリアンの塩をそれぞれ一オンス、苦よもぎの塩を半オンス、硫酸塩を一ドラクム、純粋な普通の岩塩を一ローマポンドとり、それらを一緒に混合せよ。これは上述のようにして、食されるがよい。

上記のことを説明するアルカーヌム

天と地は人間から人間を生む。それは彼らの息子であり、娘であり、その子孫である。人間は天により知性、地により体を持つ。地から由来するので、その体の中にあり、体へと帰る。しかし、それ自身の中の天からのものは、大空に由来する。それゆえ実際のところ、少なくとも、神の賜物に由来する一つのものを所有しており、それによって諸々の星に支配されることがありうる。というのも、彼はそれを神から学んだからである。天と地は同時的に存在する。同じく天と人間も同時的である。しかし、人間は地に由来するので、その理性は

地に従っており、地から認識されねばならない。しかし、天からのものであるかぎりで、天からも判断されるべきである。それゆえ人間、天、地は一つである。気と水も同様である。もし人間が大宇宙のものを変成する(塩において全てのものを〔変成するように〕)すべを知っているのであ

れば、彼が自分の外でできることを、小宇宙すなわち自分自身の中で行うのは、なおのことよりよく知るだろう̶̶人間にとって、自分自身の外ではなく、人間の中に、最大の宝物庫が存在していることを知っているならば。自分自身から内面へと進み(媒介によってではあるが)、それを通じて、目で見るものが外的に遂行される。それゆえ、精神的に盲目でないならば、彼は見るだろう(すなわち)理解するだろう̶̶彼が内的には何であり、どのようなものであるかを。そして自然の光によって、自分自身を外なるものを通じて認識するだろう。確かなことだが、人間の血液から、その体の自然的なバルサムたる塩が産出される。これはそれ自身で、腐敗

堕落と腐敗堕落への防御を持っている。というのも、ものの本性には、それ自身で悪と同じだけの善を含んでいないものはないからだ。同じく骨と肉から自然的な硫黄が産出される。これは自然的な液体の乾燥のために発火し、時には体全体および自分自身を焼き尽くす。その発火の原因は、人間が始めは硫黄だったということである。これが肉と血液に変成されたのだ。これらは人間の中間的質料であり、これを第一の本性あるいは第一の質料が極度に憎悪し、それを自分自身に還元しようと試みる。これがなされると、地と灰が結果する。人間の第一質料の残滓、最終的基体である。人間は堕落腐敗の中で産出されるので、彼自身の固有の実体が憎悪とともに彼を追跡するのである。ここから

次のようになる。人間の自然的硫黄は、中間の創造物から第一の創造物へと撤退し、そこに近づくと、その本性を身に帯びて、元素的操作に移行する。それは実際、元素的な火の腐敗堕落の原因である。各々は不可視の太陽̶̶大多数の人には知られていない̶̶によって点火される。それは哲学者たちの太陽である。人間の中の諸々の徳(効力)は極めて強いので、腐敗堕落の能力によって液体を干上がらせることができる。

そしてこれを人間の塩によって(via salia hominis)を自然的石灰に還元する。それを通じて体は硫黄的存在となる。こうして体は第一質料に還元される。それは次に、火̶̶彼の第一の本質を腐敗堕落させる火̶̶の受容に

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思弁哲学・和訳-v.1--p.35

適したものとする。ちょうど、他の創造物で、地あるいは山で見るように。体は同一ではないとしても、しかし操作は同一である。偶有性においては同じ火ではないが、しかし実質においては同じである。太陽は人間たちの中で不可視である。地では目に見える。しかし両方とも同じ一つの太陽から由来する。人間

はまことに食物である。その中では、砥石つまりメルクリウスと天のカリブスを通じ、そのような火から発せられた諸閃光が罨法を受けて、その諸々の効力を明らかにする。アルケウスは人間の中で自然的に化学の術を行使する。ちょうど、化学者が彼の工房の中で鉱物の腐敗堕落者

であるように。彼は三つのものを、すなわち化学的な鶏冠石と金を鉱石から分離する。それらは非常に長い間一緒にいたので、そのどれも自分だけではいかなる力も持たないが、分離されると、各々が人間の中で活動する力を示す。それはそれ自身のオリゾンの中ではこれほどだが、力の中ではそうではなく、完全な創造の中ではそうである。それゆえ自然の術は小宇宙の中でも活動する。雷がそれ自身で作用して、人間が金に分離されるように。その代わり、それは化学者を鉱滓に、鶏冠石を煙、蒸気あるいは昇華された体へと分離する。これを上述のアルケウスは、ヴルカーヌス的術によって人間の中で完成させる̶̶彼の最終質料へと完全に導くまで。なぜなら、これはものの最終質料であり、それはその高揚の中で歓喜する̶̶ちょうど他の二つのものから分離された金が火の中で歓喜するように。そしてまたガラスがそうであるように。また私は沈黙していることはできない̶̶それは、我らの師であるテオフラストゥス・パラケルススが、地の

太陽のアルカーヌムについてさらに詳しく書いたこと、すなわち金の第五本質〔クインタ・エセンチア〕、飲用金、およびその油の違いについて書いたことだ。すなわち太陽の第五本質〔クインタ・エセンチア〕は、ワインの精(霊)によって抽出された̶̶上に述べたような仕方で̶̶チンキである。金は、それが他の精(霊)あるいは液体と一緒に溶かされて飲み物になった時に飲むことができる。しかし金の油は、金それ自身の実質そのものからのみ純粋な油にされる時を言う。

飲用黄金の記述

一オンスの金箔ないし粉末にした金をとり、これを液汁へと溶解せよ。それから、蒸留された酢を十分なだけ加え、蒸留して、互いに分離するようにせよ。これを、いかなる石鹸の付加物も無くなるまで繰り返せ。次に、その全体を五オンスの生ける水の中に沈め、ペリカンの中で一ヶ月消化せよ。

生きた水の記述

燃えるワインを1ローマポンド、バラ、メリッサ、ローズマリー・アントス、ケイリ、両方のヘレボルム、オリガルム・マジョラナを一握り、そしてシナモムム・アロマティクム、ミュリスティカ・フラグランス、ヌックス・モスカータ、カリオフィルラタ、グラナ・パラディシ、全粒胡椒とピペルクベバをそれぞれ二オンス、ケリドニウム・マユス、ケリドニウム・グランディフォルムとメリッサの液汁をそれぞれ6オンス、アーティチョークの灰を五オンスをとれ。それからそれらを一つに混合して、十二日の間、ペリカンを通じて消化せよ。最後にそれらを分離し、残りを上述のように使用せよ。

太陽の油の記述

上述のように、金が酢を通じて液汁に還元された後、それは十五日の間、それに続く消化の中で発酵される(bulliat、泡だてられる)。そのあと、揮発性のマリアの浴槽で分離される。金の固定された純粋な油が底に残るだろう。

消化の体

一ローマポンドのケリドニア液汁、等量、あるいはもう少し多くの循環する生ける水をとれ。これらを霊に溶かし、そこに三オンスの金を混ぜ、それから上述のように進め。

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思弁哲学・和訳-v.1--p.36

哲学的な鍵の結び

先に『鍵』を公開して、次は、その鍵の使用法とその〔それが開く〕金庫̶̶それを開き、その内容から哲学的分離を達成する仕方̶̶を秘密の箱の勤勉な探求者たちにを公開することに、私はわずかたりとも躊躇しない。彼らにこれを、私の他の仕事は別として、ある種の超自然的な仕方で、鍵の説明によって、これまで自分のためというより、彼らのために生きてきた。そのことは、この仕事が示すだろうし、私を知る人の全てが証してくれるだろう。それゆえ、最終的に、我々の職業の誰か、荷物を軽くする他の誰かがやってくるまで、私が一時的に休息を求

めることは公正であろう。それを放棄するのではなく、むしろ、力を回復するために休みを取ろうというのだ̶̶パラケルススが公に知らせた自然的な真理を打ち倒そうと試みる(とはいえ、そんなことをしても無駄なのだが)者たちと戦うためにである。私が安逸をむさぼるわけにはいかないだろう。というのも、大いなる敵たちの将軍が近づいているからだ。そ

れゆえ立ち上がらねばならない。というのも、両面から、武器の音が響いているのだから。しかしすでに石と投石器が用意されている。だから、この巨人には私が小人に見えるとしても、私は彼を前に尻込みしない。なぜなら、真理は、嘘つき、野心家、傲慢な者に対して、その味方を武装させる̶̶彼らは、雄弁の外套の下に隠れていて、飾られた墓の中に隠されていたものが、悪徳でしかないことが明らかにならないように、単純な言葉と共に裸で光の中に進むことは決してしない。それゆえ私は真理の効力のもとに集う。君たちは、君たちにできることを頑張りたまえ。

徳〔効力〕の破られざる防壁は聖なるものであり続ける。

終わり


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