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日本型近代家族と住まいの変遷 - ritsumei.ac.jp · 日本型近代家族と住まいの変遷 27 である。 1-2.近代家族の定義...

Sep 06, 2019

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日本型近代家族と住まいの変遷

西川祐子

目次

はじめに

L戦後家族論の二つの誤認

2.近代家族の定義

3.日本型近代家族のキー・ワードと住まいのモデル

4.こつの仮説一二重家族制度と1975年の転換

5.資料と方法

「家」/「家庭」の二重家族制度

明治の新語であった「家」と「家庭」

明治初期の日本列島の大きな家,小さな家,中程度の家

都市の流民の住まい-長屋,寄宿舎,炭鉱の納屋

都市の新しい住民の住まい,郊外住宅,植民地住宅一家族の折'11

「いろ})端のある家」/「茶の間のある家」の二重榊造と不況・戦争

Ⅱ●c0●●

GU0▲(》/】向く品〉’勺扣で。Fへ.〉

「家庭」/「部屋」の新二重家族制度

1945年8月15日を生き延びた「家庭」

新憲法,改正民法,家族計画

焼け跡の戦後住宅論

公団住宅の標鎚設計一3LDK型の完成と1975年の転機

「リビングのあるnLDKの家」/「ワンルーム」の二重構造と個人の析出

DC●●●

も一Ⅱ凸(叩〃]の缶)△扣一串。Pu「)

Ⅳおわりに

1.「家庭」ということばの規範性

2.「部屋」の価値の逆転

3.空洞化とイデオロギー教育の強化

4.日本型近代家族の特徴

5.ポスト・モダン状況について

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26特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

Iはじめに

1-1.戦後家族論の二つの誤認

戦後の家族論は次の二つの事実誤認から出発していた。まず戦後恕想のイデオロー

グたちは楽観的な調子で「近代的で氏iヨ主義的な家庭」の建設をよびかけた川。「近

代的で民主的な家庭」の対応物は言うまでもなく「封建的で抑圧的な家制度」であっ

た。つまり事実誤認の第一は,[1本の「家」制度を封建遺制ととらえ,国民であるそ

れぞれの家長と天皇の関係は子の親にたいする従属関係に等しいとする,いわゆる日

本家族国家論はn本に特有の封建性の現れであるから,これを清算しさえすれば日本

の近代化とさらには女性解放が達成されるとしたことであった。第二の誤認は,それ

にたいして西欧先進国の近代家族は平等家族であるという幻想であった。

だが,近代的Tlj氏法典のほとんどは,強い夫椎と妻の法的無能力という夫と妻の役

割,権利,義務の不平等を前提として出発している。たとえばフランスのいわゆるナ

ポレオン法典(1804年)の213条は「夫はその妾の保護義務を負い,妻はその夫に服

従義務を負う」と定めていた。この条項はその後,夫婦平等に達するまでに,1938

年,42年,65年,70年,85年の改正というさまざまな段階と長い時間を経なければな

らなかったど's家族の情緒的結合を国民の統合に利用したのは,戦前日本の家族国家

論だけではなかった。いまだに国家元首が国民の前で理想的な家族生活を演出してみ

せ,配偶者を伴って公式の会合に出席するところをみても,むしろすべての国民国家

は家族国家だといえるほどである。

私たちが思い込まされていたのとは逆に,すでに存在した欧米の近代国民国家がそ

れぞれのニュアンスを持つ家族|通1家であったからこそ,遅れて世界の国民国家体制に

割り込まなければならなかった明治政府もまた,これに対抗して日本的家族国家とい

う虚構を築く必要があったのである。家族単位で国民を把握する努力は戦後もつづけ

られた。日本の近代家族を考えるときには1945年の敗戦あるいは'947年の改正民法で

切断するのでなく,むしろ戦前家族と戦後家族の変化を貫く持続性を問題にする必要

がある。

日本型近代家族はまずモデルとして構想され,モデルが受け入れられて現実となる

過程において変化していったのであった。モデルは目にみえない強制力をもつ,ある

いはモデルはイデオロギーであると言うことができるであろう。私が問題にしたいの

は外圧と内圧をうけて日本型近代家族モデルがモデルチェンジする経過と,個人がモ

デルを積極的に,あるいはモデルに反逆しながらも,これを受入れ内面化してゆく様

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日本型近代家族と住まいの変遷 27

である。

1-2.近代家族の定義

近代家族の定義は,家族社会学,人類学,歴史学,法制史などの各学問分野によっ

てさまざまである。私は形態に基づいて分類するよりもむしろ,近代家族とは近代国

民国家の基礎単位とみなされた家族のことであるという簡単な作業仮説から出発する

のが良いと思いはじめている。小山静子さんの.メントのように,これに「家内性」

という特徴を加えることに異議はない。|三野千鶴子さんのように3条件に整理しても

よいと思う。だが何よりもまず近代家族とは近代国民国家の基礎単位となる家族と定

義することによってはじめて,超歴史的な存在であるかのように扱われやすい家族を

国民国家の時代の政治の問題として捉えることができるのであり,そのことがとくに

重要だと私は考える。じっさい家族の実態は一つの社会の中でもさまざまであるにも

かかわらず,しばしば国家間で家族の比較が行われているが,それが何故であるかが

問われることは少ない。家族はむろん近代以前から存在し,近世にも近代的な家族は

存在する。だが近代は改めて家族を発見し家族を国家の基礎単位としたのであった。

近代はなぜかくも家族の時代であったのか。ある近代家族モデルはその国の資本主義

経済の発展段階に直接に対応するというよりも,むしろ世界の国民国家体制の中にお

けるその国家と他の国家との力関係が家族政策に反映したものに他ならないのではな

いか。また各国は絶えず他の国々との関係において戦略を変え,家族モデルの微調整

を続けている。だから近代家族モデルは一定ではなく,変遷するものであると考えら

れるであろう。モデルは実態ではないが,現実に働きかける力をもっている。モデル

のもつこの強制力について考えることが,家族を政治の問題として考えることになる

であろう3)。

1-3.日本型近代家族のキー・ワードと住まいのモデル

本論ではまず「家」「家庭」「部屋」という,いずれも人間の生活の容器ではある

が,規範性の強い,抽象的な空間を指す三つの日本語の単語を手掛かりにして,日本

型近代家族のモデル・チェンジについて考えたい。

ついでこれらの抽象的な空間を具体化する住まいモデルを取り出してみたい。近代

の住まいの歴史を調べれば調べるほど,私は住宅は単に住むための機械装置ではない

と考えるようになった。住まいにも「いろり端のある家」「茶の間のある家」「リビン

グのある家」「ワンルーム」などのモデルがあり,モデルの強制力は強い。「住宅とは

空間化された家族の規範である‘)」と言った建築家があるが,具体的空間である住宅

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28特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

もまた言語と同じく家族のあり方を表現し,さらには規定するのである。

ここで扱うのは,家族の容器としての抽象的空間と具体的空間の両方であり,また

その相互の関係である5!。

1-4.二つの仮説一二重家族制度と1975年の転換

日本型近代家族を容れる抽象的空間と具体的空間の変容から,私は次の二つの仮説

をたてた。第一に,日本型近代家族の特徴は,二重家族制度による巧みな微調整であ

るとする仮説である。かつて「家」制度/「家庭」制度の二重家族制度があったとす

れば,現在すでに「家庭」制度/「部屋」制度という目にみえない新しい二重家族制

度が成立しているのではないか。二種の二重家族制度の中心にあって,両者をつない

でいるのは言うまでもなく「家庭」である。従来,明治以後の日本の家族を論じると

きのキー・ワードは「家」であるとされてきたが,私はむしろ「家庭」ではないかと

考えはじめている。

第二は,「家庭」のモデルと現実が一致したかのようにみえる瞬間が1975年前後に

あって,それが日本型近代家族の完成の瞬間であり,同時に変貌のはじまる瞬間でも

あったという仮説である。

1-5.資料と方法

本論は家族の抽象的容器を指すことばと,具体的容器である住空間モデルを記号と

して読む試みであるから,資料としては法律,公文書,新聞雑誌,論文,小説などあ

らゆる文献,それから建築関係の文献,設計図,広告などを用いることになる。方法

の基本は比較にあって,モデルと諸現実の比較,日本型モデルと西欧先進諸国モデ

ル,あるいは日本型モデルと発展途上国型モデルの比較をおこなわなければならな

い。中部大学の国際地域研究所の共同研究であった「ことばに表れた家族と家」にお

いて家族と住居に関する日英,独,仏語の語葉群の比較をおこなうために用いた対

照言語学の方法にはとくに助けられた釦。

Ⅱ「家」/「家庭」の二重家族制度

Ⅱ-1.明治の新語であった「家」と「家庭」

一般に「家」制度の「家」ということばは古くからあり,「家庭」ということばは

新しいとおもわれている。ところが二つのことばが時代語あるいは流行語として浮上

する時期は明治のいわゆる民法論争の時期であって,「家庭」は最初から,「家」の対

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日本型近代家族と住まいの変遷 29

語であった。

「いえ」あるいは「イエ」は古代から現代までを貫いて日本的社会の特殊性の根幹

をなす,という説がある。しかし,「家」制度の「家」は明治民法によって他のさま

ざまな「いえ」とはちがう新しい意味をこめられて新語に生まれかわったことばであ

る。明治民法第788条は「妻ハ婚姻二因リテ夫ノ家二人ル,入夫及ビ婿養子ハ妻ノ家

二入ル」,同733条は「子ハ父ノ家二人ル」としている。庶子は父の「家」に入るのが

原則であり,父の知れない子は母の「家」に入り,両親の知れない子は「家」を創設

した。こうして国民は一人のこらずいずれかの「家」に入るのが原則となった。第

746条には「戸主及ビ家族ハ某家ノ氏ヲ称ス」とある。つまり氏は「家」の名称で

あった。

すべての国民がいずれかの「家」に必ず入ると定めたこと,すべての個人に氏名を

与えたこと,また明治民法以前はむしろ所生の氏に属していた妻の氏を「夫ノ氏ヲ称

ス」としたことは近代の「家」と近世のrいえ」の大きく異なるところであろう〒IC

また,リj治民法の「家」i,j,,度の「家」の上位集団は,共同体や職能集団のような中間集

団ではなく,はっきりと国家とな}),「家」は戸籍を構成して明治政府の構想する国

民国家の基礎単位となったのであった。

「家」に入るのは戸主の妻子だけでなく戸主の親兄弟さらにはその妻子であったか

ら,「家」は拡大家族の容器であった。この家族構成員のあいだでは長幼と男女の差

による序列関係があった。また明治民法987条には「系譜,祭具及上墳墓ノ所有権ハ

家督相続ノ特権二属ス」とある。祭祀は戸主の特権というよりむしろ義務であった。

「家」は祖先祭祀の継承により時間軸につながっていた。

他方,「家庭」は夫婦子供よりなる都市型小家族の容器であるところが,拡大家族

の容器である「家」とは違っている。『女学雑誌』の巌本善治はキリスト教的な一夫

一婦永続婚の夫婦が協力して築く「ホーム」を推奨している6)。そこでは夫と妻は性

別役割分担の関係にある。『女学雑誌」では英語の「ホーム」は「室家」とも訳され

たが,,,やがて「家庭」という訳語が定着した。もっとも「家庭」は明治の新造語で

は決してなく,語源は中国の古典にさかのぼるといわれ,日本では近世に了家庭指

南』,`))という小冊子が発行されている。ところが意外なことに,明治にこの語の爆発

的な流行がおこるまでは,この小冊子の題名以外には用例がほとんど無い''1。

「家」ということばはその後,教育勅語や修身の教科書によってひろめられた。

「家庭」は新聞雑誌に頻繁に用いられてひろまっていった。

明治期に数多く刊行された「家庭」を題名に冠した雑誌のなかでは徳富蘇峰の『家

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30特集総合プロジェクト研究「線末・IリIifi期の外1K|文化`野i:」

庭雑誌』(1892-98イ|皇)と堺利彦の『家庭雑誌」(1903-09年)および羽仁吉一・もと

子の『家庭の友』(1903年一「婦人の友」と改題して現在にいたる)の果たした啓蒙

的役割が大きい。徳富蘇峰は「家」ではなく「家庭」を国民国家の基礎単位とするこ

とを主張して,市民的な家庭教育の必要を説いた'割。堺利彦は社会主義者であったが

「家庭の''1よりして漸々と社会主義を発達せしめて行かねばならぬ」l融とした。羽仁

もと子は専業主婦の「家庭」内での地位の|イリ上,主婦主導による生活管理,「家庭」

の団簗,主婦が行う家事の合理化科学的な育児を説いた'Ⅲ。これらの啓蒙的な雑誌

に共通するのは,祖先崇拝と親子|lL1係重視の「家」IMI度の「家」に対抗して夫婦関係

重視の「家庭」の建設をji帳したところであった。

こういった啓蒙的な雑誌が予定していた読者は都iIrの新しいタイプの俸給生活者で

ある男性と,その配偶者となって都市型の小家族を形成するべき女性であった。現実

には女学校を卒業し啓蒙的な雑誌を読み,「家庭」を経営する女性の数は当時まだ少

なかった。「家庭」ということばは現実に先行して雑誌の中,活字の世界で理念が先

に成立したことばであったと言えるであろう。

「家庭」ということばが大衆化したのは,むしろ次にくる商業的な婦人雑誌の時代

であった。1916年に創刊された『j糺婦の友』はその年のうちに2万部,1923年には30

万部,1932年には80万部と発行部数を伸ばしていった。『主婦の友辺を代表とする商

業的な婦人雑誌は「家庭」を消費と再生産の場と位置づけており,「家庭」の主婦に

家事育児のための実用的な記事を提供し,とくに家計簿をつけることを奨励した。雑

誌にはしばしば読者から募集した家計簿の公開と評論家による批評が載っているl5io

しかし実際に記事を読むと小学校教師,警官のつつましい月給のやりくり,夫婦共稼

ぎ,妻の内職,遜話交換手の母子家庭の家計簿など,読者の生活は中流の下といった

ところである。雑誌は現実には内職もしなければならない生活をおくりながら,女中

を使うこともできる専業主婦のいるれっきとした中流の生活に到達し,楽しい団樂の

ある家庭生活を築きたいと望む層を読者として捉えたのであった。地味な実用記事と

はうってかわって華やかな有名人の恋愛,結婚,の報道記事や,グラヴィアの写真入

りで皇族家族の家庭生活の紹介も救っている.「家庭」の理念とイメージはここでも,

現実よりも先に,記事や写真によって形づくられていったのであった。

ところがこのような商業的婦人雑誌によってひんぱんに「家庭」という語が使われ

るにつれて「家庭」は「家」との対立をしだいに暖昧にしていった。夫婦関係中心の

「家庭」であったはずだのに,雑誌の身の上相談に11ifる家庭婦人の般大の悩みは姑と

の葛藤であった。身の上相談の回答は親に孝行,家門大切,祖先崇拝を説いている。

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U本邸近代家族と住まいの変遷 31

じっきい都市の俸給生ii1i「者の「家庭」に夫婦とその子供たちだけでなく夫の両親また

は片親の同居があることはまれではなかった。|司居がない場合でも,嫁は大の両親に

仕える義務があった。

1920年に始まる国勢調査をもとに日本社会の家族構成を算出しようとした戸田貞三

は「現代わが国には稀に二十人以上の員数を持つ家族もあるであろうが,大部分の家

族の員数はそれより遥かに少なく,五人以内の貝数より成る家族が最も多く,殊に大

都TIjに於いてその傾向が強いやうである」と述べている肌;'。当時,長男は故郷の家に

両親と同居し,次男三男は都iljあるいは植民地において小家族を構成することが多

かった。だが都市で結嫉して「家庭」を築いた次男三男も分家をしないかぎりは戸籍

の上では「家」に属し,長兄が住む故郷の家にたいする帰属意識を抱きつづけてい

た。長男が弟たち姉妹あるいはその家族までを扶養する,あるいは給料生活者となっ

た次リj二男が11分の妻子を養うだけでなく故郷の「家」のために仕送りを続けること

がまれではなかった。対立概念であるべき「家」と「家庭」の混同の背後には「家」

制度と「家庭」制度を二重に生きていた人々の現実の生活があった。同居のあるなし

にかかわらずあった姑嫁の葛藤は,嫁は「家庭」だけでなく「家」に属し「家」を優

先させて姑に仕えなければならないとする二重家族制度から生まれた問題であった。

Ⅱ-2.明治初期の日本列島の大きな家,小さな家,中程度の家

日本型近代家族のモデルが成立する以1iiiのn本社会の人々はじっさいにどのような

住まいに住んで生活を営んでいたのだろうか。後には民俗学という学問が成立するの

であるが,あまりにあたりまえの日常生活の細部が,その生活の当事者によって記録

されることは少ない。近世の面影をとどめる明治初期の日本列島の民家の様子とその

中の生活はむしろこの時期に外国からやってきた観察者によって描き残されている。

アメリカからやってきた博物学者エドワード.S・モースは了日本のすまい-内と

外』(1886年)の中で,「一方でおおきな茅ぶきの屋根と主屋の周囲に数おおくの戯,

離れ屋をしたがえて,その富と生活の鰹かさをしめす'快適な住居があるとおもえば他

方には,たんなるシェルターにすぎない住居が何百とある」「たいていの家は,いう

にいわれぬほどちさい」という興味深い証言を残している1節・

日本の民俗学者である柳田國男も後の『明治大正史世相編』(1931年)に「最初に

誰でもすぐ,し、つくことには,家には二通りの種類がはやくからあって,それが日本で

は入り交じっているという事実である。一方は通伊I大きくて念入り、他方は粗末なも

のであった」'脚と書いた。柳田は小さな家を「こや」と呼び,「こや」はもともと渡る

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32特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

図1農村の「大きな家:と「小さな家」の例

簔篝議讓田■た皿

瀞1劇ロ 、

洛中洛外図屏嵐・百姓家

串■■

■■■._。。

艶iiiifi雲11|艦江戸時代の磯村支配Mの大邸宅/安永一夫明IDIの

大正UBL河内,M1野次の11Iえ.下人の住む小国のほかに長田がある

出典:西山卯三『すまい考今学一現代日本住宅史」

ためだけの目的の空間であって,食べることは竃やいろり端のある大きな家に依存し

ていた,小さな家に竃がついて農民が所帯をもつようになったのは比較的最近のこと

であったと考えている。また「こや」が大きな家の中に入って「へや」と呼ばれると

する。

モースは大きな家と小さな家の二種類の家しかない農村とはちがって,日本にも都

市には大きな家と小さな家のほかに中程度の家,つまり中流住宅の伝統があるとみて

いる。モースが観察した都市の大きな家は通路からはるかに後退して広い庭の後ろに

建てられた豪壮な屋敷であり,都市の小さな家とは表通りから入る路地の両脇になら

ぶ裏長屋であるが,中程度の家は道路に面して門あるいは玄関があって家の側面と裏

に庭があった。庭に面した廊下にそって並ぶ座敷は仕切りを取ると大きな接客空間と

なる。二畳の女中部屋には数人が寝起きしたとおもわれる。モースが図面を残した家

はおそらく元士族,当時の勤め人の,職住が分離した住まい専用の住宅であって,生

産活動から切り離されて消費の場となる現代の都市生活者の住宅の原型であった。

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日本型近代家族と住まいの変遷

図2モースの観察した都市の住宅,三つの型

33

中程度の家 小さな家大きな家

中程度の家を庭からながめた図

!~=

中程度の家の平面図

Ⅷ脚Ⅲ:

UI9if

出典:エドワード.S・モースrH本のすまい-内と外』

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34時雄総合プロジェクト研究「聯求・Iリ]ifiMの外「Uil文化受容」

モースとはほとんど入れちがいに日本へやってきたアリス・ベーコンは,H本の最

初の女子1W学生であった津|Ⅱ梅子と大山捨松のアメリカにおける幼友達であった。二

人の推薦によって華族女学校の教師となり,後には津田英学熟で教えた人である。彼

女は最初の約一年の日本滞在と旅行のあいだの兄'111にもとづいてr日本の女性』

(1891年)を書いた1,:。ベーコンはちょうどモースが観察したような都市の中程度の

家における家族生活に関心を抱いて記録を残した。このような家の娘たちがベーコン

の生徒となるはずであり,ベーコンには中流階級の育成がこの国の将来を決めるとい

う強い信念があった。

ベーコンはまず中程度の家に車夫,馬丁,門番,下男,上女中,下女中など数多く

の召使がいて煩雑な家事を担当していることに驚いている。彼らの勤勉,仕事をやり

とげる能力,とくに,召使の忠誠`し、,主従の一体感に注目した。都市の中程度の家に

召使を供給していたのは農村の小さな家であった。都市の「'1程度の家は,農村の大き

な家と同じく,家長が全体を支配する空間であった。アメリカの中産階級出身のベー

コンから見れば,夫の脱いだ着物をたたみ,食事はいっしょにはとらないで給仕のみ

をし,重要な決定については夫の相談をうけることの全くない妻は,せいぜい召使頭

としか見えない。彼女は「今日の日本の女性は巨大な召使階層をなしている」と書い

ている。

ベーコンは日本の家族が親子関係中心であって,妻の地位は低いが家長の母として

の姑の地位は高いことにも気付いている。両性の合意に基づいて成立し,永続する一

夫一婦婚から生まれる核家族を原則としていた北米社会からやってきたベーコンは,

日本の結婚の特色は「永久`性の欠如」薮〕)であると考えた。男女ともに離婚,再婚,

1W:々婚が多いこと,多妻の傾向が強いことに注目している。ベーコンは,当時準備さ

れていた法律改正によって皇室においても,正妻である皇后の子以外は世継ぎになれ

なくなるが「この法律は皇后の子ではない現世継ぎのハル皇太子にだけは適応されな

い。彼はこの法の実施以前に法的な養子縁組をした」2】)と説明している。外国人によ

る日本論のほとんどが日本語に翻訳されているのに,この本が現在にいたるまで日本

では出版されていない理由はこういった皇峯記事に原因があるのかもしれない。なお

鹸近,天皇の肖像の変化や皇后像の研究がなされているが,皇室の家族の肖像の変化

をたどれば,それが次第に近代家族的に演出されてゆく経過がみられるのではないだ

ろうか。

しかしアリス・ベーコンも,津[}|梅子も,日本にアメリカ的な近代家族のモデルが

実現することや夫婦間にかぎった男女平等を目指したのではなかった。ベーコンは家

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11本劇近代家族と住まいの変遷 35

つき娘や女戸主の存在に注'二}し,日本では西欧のように生物学的性差を根拠にした女

性鑑別の傾向は少ないとみている。したがって相続権と経済能力の獲得さえあれば,

女性の独立がありうるとしたベーコンの考えは,津l}|梅子と共通していたであろう。

ベーコンは中程度の家の妻には期待をもたなかったが,次代の娘たちに,遠い未来の

夢をかけたのであった。

Ⅱ-3.都市流民の住まい-長屋,寄宿舎,炭鉱の納屋

東京をはじめとする大都Iliの人口は1880年代から後,増えつづける。好景気が労働

力を農村から都Tl『へと引き出すだけでなく,不紫気もまた都市の中に小さな家がひし

めくスラム街を出現させていった。

岐初の経済恐慌と大風水害の重なった1896-97年には全国的な飢鰹が発生して都市

のスラムの人口が膨張し,大きな社会問題となった。新聞雑誌にはいわゆる細民窟,

貧民窟の探訪記事が数多く香かれた。横lll源之助は『日本の下層社会』(1899年)に

おいて都市の木賃宿,棟割り長屋の生活のルポルタージュを書き,樋L|一葉は小説

r大つどもり」(1894年)や「にごりえ」(1895年)で同じく長屋に追い詰められた家

族のさらなる離散のざまを描写した。これらの極小住宅の住民は地方から都市へやっ

てきて人足,車リ|きその他日雇い仕事に従事するもの,近世からあった職人社会の解

体によって食い詰めたものなどざまざまであった。横山は「九尺二間の勉屋,広きは

六鼬大抵四畳の一小廓に,夫婦・子供,同居者を加えて五,六人の人数住めり。こ

れを一の家庭とし言えば一の家庭に相違なけれど,徹かに四畳六畳の間に二,三の家

庭を含む。婆あり,’、気盛りの若者あI),三十を出でたる女あ')寄留者多きはけだし

貧民窟の一現象なるべし。しかして一家夫婦なりと称する者を見るに,正式の媒介者

を得て夫婦になりたるは極めて少なし」型)としている。家賃はしばしば日掛けであっ

た。この文章では「家庭」は夫婦子供よりなる小家族そのものの意{床に使われている

ようであるが,この家族はさらに追い詰められると,「にごりえ」で職人の妻が子の

手をリ|いて長屋を出てゆくように,母子の組み合わせとなる。

他方,炭鉱や鉱山の労働者のための住宅は「納屋」とl呼ばれた。一戸分の間口九尺

奥行き二|Niが四撤半の部屋と土間であるところは,都『|丁の棟割り長屋とほぼ同じであ

る。炭鉱には男女の坑夫の共働きがあった。だが1890年代から日本の近代産業を支え

ることになる製糸紡績工場では女子工員のために「寄宿舎」の大部屋が用意された。

なお女工の大々的な募集があったために都市では「女中の払底」が生じた。1893年の

『国民新聞』の探訪記によれば工場の寄宿舎は「室の大きさは各々二十畳許I),室毎

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特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

図3都市の流民の住まい

36

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(注)CD棟割長屋②普通長屋③共liil長屋

出典東京市社会局「東京Tl丁内の細民に関する調礎」(1920年調査,1921年刊,「戦前の社会事業調査」勁11〔,!『房く1989年〉に収録)

炭坑の納屋住宅図4

① ②

▲ ▲

▲レンジマド

(注l)

(注2)

出典

建具と壁との区別は原図から推定し

て書きおこした。

①麻生太吉氏のマヤK坑棟割十戸,②三井山野抗(棟割でない,③三菱

森崎和江箸,山本作兵衛画『まっく

ら皇(現代思潮社,1970年.]68頁)

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日本型近代家族と住まいの変遷 37

に二十人許,一畳一枚一人の割合なりき・最も大なる部屋は儲の数六,七十枚も敷き

ありて,其の中には七,八十の女工,すしを押し詰めたる如く重なI)合はい許りに眠

り居たり」231というあ}〕さまであった二1人分は畳1枚であるが,昼夜2交代制勤務

であるから,その畳1枚に2人が昼夜交代で眠るのであった。

内務省がいわゆるボ'11民調査をはじめるのは,横'11源之助や樋口一葉の仕事の約10年

後であった瓢'・細民とはrポバテイライン」ぎりぎりのところにいて辛うじて自己の

収入によって生計をたてている層とされている。1911年に第1回,翌1912年に第2

回1921年に第3回調査が行われている。第1回調査結果に基づいて最低住宅の1人

あたりの空間の算出を試みた建築家の片岡安は,東京では1戸に平均3.4人,二階

建て長屋のある大阪では6人強であるが,l人当たりの専有空間はともに畳1枚であ

るとしている。明治期最後の10年のあいだ極限生活の条件はあまり変わっていない。

さらにその10年の後になされた第3回調査は第一次世界大戦後,社会階層の格差が

ひろがった時期の下屑の生活を把握しようとしている。世帯単位で家計を重視して行

われ,級密化された調査の方法自体が,下層民を家族として捉え,家族として保護し

ようとする意図を表している。調査によると家賃は10年前の約2倍となり,日掛けの

支払いは減ってノ]払いが噸えている。だが1人あたりの専有空間はやはり平均畳1枚

であって生活水準が上がったかどうかの判断はむずかしい。『日本の下層社会』にお

いて,この調査の分析を行った中川清璽'は都市下層は大正のはじめから重工業を中心

とする労働者の給与の上昇を背景に家族として世帯を形成しはじめているが,都市に

定着する諸費用の負担のためにかえって食費をきりつめていると指摘している。世帯

を形成して子供の数が増え,妻の就業率が減ったことも家計を苦しくしたのであっ

た。

横山源之助は旧本の下層社会皇の10年後に,この本と対になるような『明治富豪

史』(1910年)を書き,「都市地主」の章を設けて「肢も多いのは,地所の騰賀に依っ

て巨富となった者であろう」韮と述べている。貸家建設と宅地開発は儲けの大きな事

業であった。新聞雑誌の記事を追うと都内の貸家建設ブームと空き家が増えて不用心

という記事が交代にあらわれて,景気の上がり下がりをそのまま反映している。鮫低

住宅としての棟割り長屋の建設はつづくのであるが,1923年の関東大震災の後には,

それまで10戸20戸と連続する形式であったものが2戸から最大8戸までの連続に減

り,土間にあった台所が奥に入る,便所が各戸に設けられるなど形をととのえだした

家族の収容を前提とする変化がおこった。長屋の1戸分と広さはほとんど変わらない

が-軒建ての貸家が増えるのも震災後である。同時に同潤会のアパートなど独身者用

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38特集総合プロジェクト研究「雑木・Iリ]治期の外|釦文化受容」

ib含む新しい形の集合住宅の建設もはじまった。

震災後の貸家群の膨張とそこにひきよせられた地方出身の若者たちは新しい風俗と

文化を生み{[)した。日本近代文学の主流をなす,いわゆる私小説の主人公たちはこう

いった借家にたむろする男女の政治11『年,文学ff年たちが多く,住まいを転々と変え

ながら新しい生活の形を模索していた271。

図5大正・昭和期の東京下町住宅

大正・昭和期の東京下町住宅

佃所

出典桐敬貞次郎ほか「江戸・東京の都市史および都市

計画史的研究(1)」r東京郁立大学都市研究報告24』(1974年,中lllii1ir日本の都市下層」290頁に再録)。

Ⅱ-4.都市の新しい住民の住まい,郊外住宅,植民地住宅一家族の析出

戦前から長く続いている「建築と社会』(1917年一)割のような雑誌を通読すると,

建築家にとっては膨張する都市が関`し、の的であり,一方では都市のスラムの問題,他

方では郊外住宅の問題がたえずとりあげられていることがわかる。この雑誌の600号

記念特集(1972年)は,この雑誌の草創期の社会的;iuf景には第一次世界大戦中にはじ

まった産業の飛躍的発展があるとしている2''・都117人口の総人口にたいする割合は

1908年には15%であったが,1920年に18%,1925年には22%に達した。1922年の平和

博覧会には住宅の実物展示があり,中流住宅の見本が14戸出展されていた。関東大震

災の後には私鉄沿線に郊外宅地が開発されることが多く,それまで邸宅建築ばかりを

手掛けていた建築家に大衆化した商品としての都市の新しい中程度の家を設計する可

能性がでてきたのであった。建築史上名商い「中廊下型住宅様式」もその一つであっ

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Ⅱ木型近代家族と住まいの変遷

図6「中廊下と茶の間のある家」

39

出典:『住萢誌主催住宅競技設計(l9l7イI§)-謙入選,剣持初次郎案,

30.5坪(太111博太郎「住宅近代史」雄llllMl〈l969flH〉126頁に収録)。

た。

雑誌『住宅』が1917年に行った設計コンペの条件は「1.一家五人(夫婦子供二人,

女中)但し新家庭にして子供は当然生まるべきものとして予定す。2.造作付見積価格

千五百円以内」であった。一等入選作は後にしばしば中廊下型住宅の典型としてとり

あげられる鋤)。モースが観察した明治前半の東京の中程度の家とくらべると発想の違

いがわかる。モースが見た家にはしばしば庭に面した廊下にそって接客目的のつづき

座敷があり,他の部屋を通るのでなければたどりつけない部屋があった。ところが'1’

廊下型住宅はまず玄関横の書斎兼客間で外からの来客をくいとめている。書斎兼客間

は夫の胖権的な空間でもある。ついで中廊下によって女中部屋が隔離され,各部屋の

独立性が保証される。残る「茶の間」と「居間」が家族の団簗の空間,夜には就寝の

ための空間となった。Ili廊下型住宅は家族を社会から区別してはっきり析出し,しか

も外から区切られた広くない空間に夫にとっての私生活と家族の団簗を保証し,外で

働いて収入を得る夫と家事育児に専心する妻の役割を分けることに成功したのであっ

た。なお台所はt間から板張I〕になって床の高さが上がった。割諾着をつけて台所に

立つ専業主婦の地位向上をあらわすかのようにI1iIiれがまし〈,地方では板張りの台所

を「東京式炊事場」と呼んでいた。

同じ頃『主婦之友』(1916年)は建坪二十坪で僅かに五百円の「安価に建てた便利

な家」’1'を紹介しているが,敷地と価格の違いにもかかわらず,部屋数は同じであり

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40特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外腫|文化受容」

図7r主婦之友」の「安価で建てた便利な家」

階下階上

床のllnl押入凶坐日本18115

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戸棚タタキナガシ

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(玄関兼応接間)

タタキ 抑入化粧室

湯殿

便所

(注)2階の西洋間が6畳となっているが,これは明らかに間違いと思われる。

また原図では1階の階段が不明瞭である。推定で入れるとプランの根本的な変Euが必要となるため,原図のままとした。

出リlL:?主蜘i}之友』第1巻第1号,1916年

中廊下による女中部屋の分離,接客空間の独立などの発想は同じである。「中廊下型

住宅」の発想の中心は家庭の団簗であるのだから,中心となるのは茶の間であり,こ

れを「茶の間のある家」と呼ぶこともできるであろう。空間をさらに節約すると女中

部屋や応接室は省かれ,居間と茶の間は一つになる。図5の「大正・昭和期の東京下

町住宅」3鋤の典型として紹介される長屋の一戸分あるいは小さな貸家住宅の平面図の

ごとき極小住宅にも,「茶の間のある家」のコンセプトは実現されている。r家庭_,と

いう抽象空間がついに「茶の間のある家」という具体空間に実現されたのであった。

「茶の間のある家」の内容である家族は夫婦と子供の他に夫の両親あるいは片親を

含み得た。部屋数がふえれば,それは隠居部屋あるいは地方からくる親戚縁者を泊め

るための部屋として用意されていた。故郷の「いろり端のある家」もまた都市に住む

親族をうけいれた。現実には都市で夫婦とこどもだけの小家族として「家庭」生活を

送りながらも戸籍の上ではひきいる家族ごと「家」に属し,故郷の親兄弟たちのため

に仕送りを続けることはまれではなかった。

なお農村の「家」を出た次男三男たちは都市で「家庭」を築くだけでなく,より遠

い植民地で花嫁を迎え「家庭」を持った。植民地には内地では得にくい高い所得を確

保し,内地では払底している使用人を家事に使って,中流の生活を営むことができた

のであった。日本社会の新中間層の育成には経済発展がどこまでも続くことが必要で

あったのであり,植民地収奪あっての「家庭」の成立であったことは忘れてはならな

いであろう。植民地には日本式の「茶の間のある家」が数多く建てられた。植民地時

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H木型近代家族と住まいの変遷 41

代の官舎がそのまま使われて障子や畳のあるF茶の間のある家」が公務員住宅として

残った例は,鹸近の台湾の映画の回想場iiiにおいて垣間見ることができる郷)。中野茂

樹『植民地朝鮮の残影を撮る」を参照すると,朝鮮半島に「敵産家屋」と呼ばれるこ

とのある|日植民地時代の日本家屋が数多く残っているところを見ることができる'1℃

Ⅱ-5.「いろり端のある家」/「茶の間のある家」の二重構造と不況・戦争

家族の抽象的な容器である「家」/「家庭」,あるいは具体的容器である住まいの

「いろ})端のある家」/「茶の間のある家」の二重榊造にあらわれているような日本

型近代家族のとった二重家族制度には,遅れて11上界の近代国民国家体制に参入し,資

本主義競争において追いつき追い越すことを必要とした日本にとって次のような利点

があった。まず家督と財産の長子単独相続によって椛刀と資膿の散逸を防ぐことがで

きた。強力な戸主権を戸主に与えることによって戸主をとおして国民の監督や統制を

行った。その上,戸主に集中した財産は逆に家産ではなく個人財産とな}),戸主個人

の裁量で処分が可能になり盗本としての投資が可能となった。「家」への依存が前提

となって次男三男は安価な労働力と位置づけられた。と}〕わけ娘の労働力は本人では

なく親と雇い主とのあいだの契約,年季奉公という親にたいする前払いの形で搾取さ

れた。こういった安い労働力のおかげで|]本製の商品は|玉|際競争に勝ち抜くことがで

きたのである。次男三男には都市あるいは植民地における「家庭」の建設が可能で

あったから,経済成長に比例して,産業を支え艦業の拡大にみあった家内領域の順調

な成長がつづいた。だが家産の相続なしに出発する「家庭」の基醗は弱く,不況のた

びに壊れるのであるが,壊れた「家庭」の成員は「家」を頓I),じっさいにしばしば

都市の「茶の間のある家」を放棄して故郷の「いろり端のある家」へ帰った。二重家

族制度によって政府は社会保障の費用を節約することができたのである。なお昭和大

恐・慌の時には工場閉鎖によって失業した女子工員が故郷の農村に帰るが,そこからふ

たたび「家」のために身売りをして都市の歓楽街へ流れ,都市と農村のあいだに大量

の娘群の還流現象がみられた:`,)。

産業だけでなく戦争もまた「家庭」に支えられていたことを忘れてはならないであ

ろう。戦時下の国民精神文化研究所から出版された河村只雄「親子中心の家族と社会

秩序ょ(1939年)31;'は過去の家父長制的大家族のもっていた諸機能は本来,国家の機能

に属すのであるとし,優秀な'五|民の再生産装置としての小家族制度をむしろ積極的に

支持している。同じく戦争中の家族国家論のイデオローグの一人であった新見吉治の

「家族主義の教育』(1937年)は当時の家族制度を「家庭制度」とみなし,「家庭制度

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42特集総合プロジェクト研究「聯末・Iリ]治期の外国文化受容」

は国体と矛盾せず」と言うほどであつだ71.

戦時体制の末端組織であった隣組は戸籍」この家族の容器である「家」ではなく,実

際の生活が営まれている「家庭」であった。「家庭隣組」という用語もあって回覧板

による上意下達の`情報の伝達,相互監視,諸物資の配給,防火避難訓練,出征兵士の

見送りと遺骨の出迎えを受け持っていた。内閣総理大臣東条英機は大日本婦人会の総

会で「此秋二当リマシテ私ハ,日本ノ最モ強ミデアル家庭ヲモトトシテ,弥ガ上ニモ

戦争遂行ノJヲ増強スルノ必要ヲ泌ト感ジテ1苫ルモノデアリマス」3s'と演説して家庭婦

人に戦争協力を求めている。伝統を11にしながら東条は,今戦っている戦争が近代の

国民国家同士の戦争であり,だからこそ「家庭」が基盤の戦争であることをよく知っ

ていたのである。

だが戦争は,’五1家と資本主義によって「茶の間のある家」の中に育成された私有性

や家内性,そこに蓄えられていた主婦の時間とエネルギーを労働奉仕に駆り出して使

い尽くしてしまう。戦時中に大政翼賛会協賛で開かれた「女性と住生活」という博覧

会は「住生活の個々性より共同性へ」を標語に個別家族本位であった住宅政策を共同

施設をもつ隣組住宅計画に転化させようという「五人組住宅」案を発表している:''1。

戦時共同住宅案が実現する時間もないまま主な都市は空襲によって焼け野原となっ

た。疎開や罹災,植民地からの引き揚げによって住まいを失い,戦死,被爆で家族を

失った大勢の人M1がふたたび故郷の「家」をたよった。「いろり端のある家」にはい

りきれないほどの人達が農村にあふれた。「家」/「家庭」の二重家族制度は,これ

を鮫後に,かろうじて,救済の機能を果たしたのであった。

Ⅲ「家庭」/「部屋」の新二重家族制度

Ⅲ-1.1945年8月15日を生き延びた「家庭」

「家庭」は,太平洋戦争の敗戦後,あたかも新語であるかのように,ふたたび流行

語となった。家馴裁判)リ『が「家庭」裁判所となり,中学校の教科に「家庭」科が設け

られた。新聞には「家庭」欄のページができた。

私は1945年8月15日の前と後のr主婦の友』を通読して衝繋をうけた。敗戦の直前

まで「家庭隣組」「家庭愛国」と「家庭」という語を含む標語をくりかえし,「家庭」

単位の戦争協力の組織をつくることを熱烈に呼びかけていた同じ雑誌が,敗戦後の第

1号であった1945年11月号の表紙に「平和と家庭建設」と,「家庭」を用いた新しい

標語を刷りこんでいたからである。同じ号の表題には,“TheLadies」Oumalof

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11本卿近代家族と住まいの変遷 43

Housekeeping、.と英文タイトルが添えられていた。巻頭言には「戦争中の家庭婦人の

責任は重かった。とぼしい国力であれだけ戦ひつづけたのは鈩家庭があらんかぎりの

力で戦争生活をつづけたからだ。平和日本の建設にも家庭婦人のもつ役割は大きい」

とある柳))。

戦争[11,兵」ごたちは天皇の赤fとして死に,「遺族の家」の標識が門に貼られた。

「家」も「家庭」も戦争に協力した。そして「家」は敗戦により断罪されたが,「家

庭」の罹災や受難は言われこそすれ,「家庭」の戦争責任は問われることがなかった

のである。

Ⅲ-2.新憲法,改正民法,家族計画

戦後の新憲法(1946年)の第24条「蛸姻は両性の合意のみに基づいて成立し,夫婦

が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければなら

ない。配偶者の選択,財産権,相続,住咋'十の選定,離婚ならびに幡姻及び家族に関す

るその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制

定されなければならない」は,民法の「家」制度の批判となっている。「家」制度で

は「戸主」は,家族の居所を指定する椛利と婚姻・養子縁組についての同葱権を有し

ていた。また「家督相続」は,リ}`性長子による単独相続であり,男子は女・子にたいす

る優越的地位を保障されていたからである。新懸法にあわせて大幅に書き直された

1947年の改正民法ではり]治民法の第4編第2章「戸主および家族」(第732条から764

条まで)が削除され,民法から「家」という語が消えた`川。

当時の新聞雑誌に,かつてあれだけ大きな存在であった「家」の廃止にたいする抵

抗の論調がが少ないのは意外である。その一つの理由は当時,日本が占領下にあって

言論の自由にilill限があったからであろう。だが,もう一つの理由は,多くの人達がす

でに「家」は戸籍上の架空的家族集団であって,生活の実態とはかけ離れていると感

じていたことにあった。たとえば「戸籍謄本をみたら,僕は伯父の家の一員として生

まれ,後に父が分家したときそれについて父の家に入ったことになっていた。僕の上

に生後百日ほどで死んでしまった女の子があった筈だが,その姉の名は僕の戸籍謄本

にはなかった。それは彼の女は父が分家しないうちに死んでしまったからだというこ

とだった。・・・実際には伯父の家とは全く違う家に生まれ,そこで育った僕が法律

上は長い間この伯父の家の一員であったということは,いまでは別に不思議ともなん

ともおもはないが,法律を習いたての頃はどうも少しおかしく、思れた」42)という文章

を引用して「家」の架空性に言及した評論がある。引用された文章は「家」/「家

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44特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外lEI文化受容」

庭」の二重構造をよく表している。引用された文章を書いた人物の父親は次男か三男

であって,独立した「家庭」を営んでいたが,戸籍上は自分の妻子ともども長兄の

「家」に所属していた,その後,分家して初代の家長となったのであった。彼は戸籍

上の「家」家族にはアイデンティティを抱くことができなかった,自分のじっさいの

家族は一緒に暮らしていた小家族であったと言いたいのである。

改正民法が想定している,男女の合意にもとづいて成立した婚姻から発生する夫婦

関係中心の家族は,戦前からあった「家庭」家族の観念に近い。だが,改正民法には

依然として戸籍と氏が残された。1人1戸締ではなく,同氏の夫婦と同じ氏の子とい

う家族集団が戸籍の単位である。家族の上に絶対的な権力をふるう戸主はいないが戸

籍には筆頭者があり,そのほとんどが夫,錐頭者が妻の場合は夫が婿養子のようにみ

える点において,「家」制度の残存が感じられる。二重家族制度であった日本型近代

家族は「家」を切り捨てて生き延びただけでなく,さらには「家」の観念の一部を

「家庭」が吸収して生き延びたと言えるであろう。

「家」を切り離したのちの「家庭」家族は夫婦とその子供で構成されるだけでな

く,子供の数の平均化がはじまった。戦後には,戦前には「堕胎」と呼ばれて禁止さ

れていた妊娠中絶を含む産児制限の解放があった。破壊され疲弊した国土の上に戦地

や植民地から帰還した人々をかかえた国家の人口政策の実施が「家族計画」の名で呼

ばれ,夫婦の自主性にゆだねられるからくりは汁住まいの変化からも読みとることが

できる。

Ⅲ-3.焼け跡の戦後住宅論

住まいを持つことによって「家庭」の理念を現実に実現させたいという願いは,敗

戦後の住宅不足の中ではとくに切実であった。戦災による家屋の破壊,焼失による家

屋不足の上に植民地からの引き揚げ者を収容する必要が生じ,絶対的な住宅不足がつ

づいた。敗戦直後の不足数は450万戸と発表された樋1.1959年の経済白書が「もはや

戦後ではない」と総括したのにたいし,建設白書は「住宅は戦後にとどまっている」

と反論した棚)。住宅数が世帯数を上まわるまでに至るには,1965年を待たねばならな

かった。それまで応急処置として劣悪な住宅が大量に建てられてゆく一方,人々が住

まいにたいして抱く.憧れは強く,数多くの住宅論が出版され,読まれた。

西山卯三『これからの住まい ̄住様式の話』(相模書房,1947年)と浜口ミホr日

本住宅の封建性』(相模書房,1949年)は敗戦直後の焼け跡の戦後住宅論の代表作品

であった。両者は過去の日本住宅を強く批判し,現在は生活様式の変革期であるとす

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日本型近代家族と住まいの変遷 45

る点で共通していた。

西'11卯三はr人民大衆の狭い家では無論のこと,そうでないユッタリとした住まい

をいとなむ人々の場合でも「家」の中で個人の私生滴をくりひろげる空間を求めるこ

とはfII来なかった。住宅は家長的封建的なイエの営みを入れる器であって,それは家

を代表し,家を支配した家長の統くる空'111であ}),家族は家長の営む家生活に,奉仕

するために,その家の中で寝起きしていたにすぎない」I:と書いている。

同じく浜田ミホは「『家』という観念を中心として,人間がその下で身をちじめ,

息ををひそめて生きてきたのが,家長的な封建社会の生活であった。そしてその

了家』の物体的表現が住宅であった。つまり住宅は住む人間自身のためというよ})は

『家』のためのものであった。そのような住宅では玄関・座敷・床の間といった『家』

の格式的・装飾的要素が大きく重く現れてきて,居間・渡室・台所・便所といった住

む人間自身に必要な機能的要素はあわれに小さくおし潰されていた。したがって,こ

のような住宅を運営して,γ家」の格式を保ち家長たる夫の体面を維持しつつ,家事

や育児に努めねばならぬ妾には,特に過重な負担がかけられていた」;剛と述べてい

る。

いわば浜口ミホは女`性の立場から,西111卯三は人民大衆の立場から格式主義の日本

家屋の「封建性」を批判したのであった。その場合,r封建」の反対は「近代」であ

り,「格式」の反対は「機能主義」であって,近代的な住宅は住むための機能を重視

し,一種の機能的な美を理想としていた。

そこから西山卯三の「住空間の機能分化」の考え,とくに「寝食分離の必要」と

「分離就寝の必要」がひきだされた。浜口ミホは床の間の廃止,玄関という名の変更

を説いた。また茶の間と台所を融合してダイニング・キッチンに,さらに茶の間,居

間,応接間の仕切りを取り除いたリビング・ダイニング・キッチンを提唱した。西11」

と浜口は後に公団住宅の標準設計に理論を提供することになる。もっとも西111夘三の

最小限住宅の研究は戦前からのものであった。戦後の,特に標準設計時代の公団住宅

とは,ある水準以上の住宅をつくらないという意味での一種徹底した平等性と余分を

切り詰めた合理性が共通している。

Ⅲ-4.公団住宅標準設計一3LDK型の完成と1975年の転換

1950年に住宅金融公庫法が,1951イドには公営住宅法が制定きれた。日本住宅公団は

1955年に設立され,その後,都市住宅整備公団となって現在にいたっている。住宅問

題が政策の'191に本格的に組み込まれたのは,鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が最初で

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`16特典総合プロジェクト研究「幕イミ・Iリ11h期の外腰|文化受容」

あった。池}H内閣は10年IiHに1000万)Tの建設,‐.|世jllIf一戸を公約した。「11流以上の人

に家を建てるための資金を貸す11§宅金融公庫法が真先に発足したことからもわかるよ

うに,戦後の政府の住宅政策の基本は持ち家主義であった。これに民間のマイ.ホー

ム獲得願望が11乎応して,相互に(1ミ宅建築ブームをあおったのであった。その結果,宅

地開発業,住宅産業の繁栄があった。

だが公団住宅の大量建設が戦後日本の住宅問題の解決に貢献したことは否めない。

人口と住宅の割合が戦前の統計の数字をはるかに上|、lるまでになったのも公団住宅が

イ|昌々,団地建設を続けたからであった。公団発足当時は公団住宅は設計と設備の先進

、性を誇っており,その設計のコンセプトは民間の住宅産業の設計をも変えていった。

住宅公団からみた公lijl住宅の位|通づけ図が示すように171,’三1本の公団住宅はたとえば

フランスのILL.M、などとはちがい,低家賃住宅として出発したのではなかっ

た。公営住宅に入るには収入がilI5すぎるが,持ち家を建てるには資産が不足する中間

屑のための償貸し住宅として始められたのであり,入居者の流入と流出が絶えずあ

る。大勢の人が,家族・サイクルのある段階で一度は住んだことのある,という体験

の影響は大きい。

図8住宅市場(公団住宅から見た)

F~豆~雨。

|]I

<公団賃貸〉

マンシ団ン市場

賃貸住宅市場

111典?11本公[Ⅱ住宅史』

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日本型近代家族と住まいの変遷 47

公団住宅の標準設計の変化をたどることによ}),111身の家族の変容を知ることがで

きる。公団住宅は規格化された空間に家族を入れ,家族の規模を制限し,国民のライ

フ・スタイルを変化させたのであった網'・

公団住宅30年史は1955-64年を模索の第1期,1965年-74年を発展の第2期そして

'975年以降を転換の第3期と考えることができる。

第1期に全|玉|共通の標準設計の原則が出来上がった。五階建て壁式構造の工法とス

テンレス流し,ホーロー浴槽,スチールサッシ,洋風水洗で男女共用の便器,エレ

ベーターなどの住宅部品の工場での大量生産システムの完成などである。家賃が高額

にならないように建築費をおさえながらの設計の苦心の数々がみられる。狭いながら

1,K,2,K,3K,3DI(がつくられた.とくに2DKがこの時期の代表的な標

準設計であって,DKにより「食寝分離」が,2寝室によって夫婦と子供のあいだの

「分離就寝」の原則をなんとか実現する工夫がなされている。南側におかれたDKは

台所の地位向上と家庭団築の演11}を可能にした。1戸1つの水洗便所,浴室の実現は

当時の住宅の水準から抜きんでていた。だが,この間取りには夫婦の親を収容する余

裕はなく,また子供の数も制限される。それにもかかわらず公団住宅の人気は高く,

1958年には公団住宅は33万戸に達し,平均三人家族であった「ダンチ族」は百万人を

数えたI,)。

発展期とされる第2期の途中で総数においてH本の住宅数が世帯数を上回った。そ

れまで均質な住宅の大量供給を第一目的としていた住宅公団は質向」この検討をはじめ

ている。団地誘致が無条件で歓迎されていた第1期とちがって開発に条件がつけられ

ることも多くなった。「地域と融和した団地づくり」という標語がつくられる。同地

住宅の設計はDKからLDKへとすすむ。無論,住宅規模の拡大はH本の高度経済成

長の後を追うものであった。部屋数はふえて第2期の終わりに標準設計としては究極

の大きさである3LDKにまで達した。

だがこういった努力にもかかわらず1976年におこった新築の公団住宅に応募者がな

いという「空き家現象」によって,公団は大きな転換期を迎えることになった。団地

は家賃が高く,狭く,住民にとっては通勤がしだいに遠距離になるという批判の声が

高まっていった。住宅公団は住環境の最低条件を満たすだけでなく,質の向上とニー

ズにあわせた多様,性の追求に方向転換を強いられる。それまで立地条件や同一・建物内

での各階各011の条件の違いを無視する標準設計であったものが,それぞれの条件を生

かす変化のある設計に変わりはじめた。現在では公団の分譲の場合はとくに,民間の

住宅産業の建てるマンションに劣らぬ豪華な設備と多様な設計がみられる。5L、

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48特集総合プロジェクト研究「聯末・Iリl治期の外国文化受容」

図9公団住宅の標準設計平面図より,3LDKまで出現まで

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57

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57-4N-3DK-2

57-4N-2DK

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バルコニー

公一74-5PC-3LDK(A-20)

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出典:「日本公団住宅史』

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11本JM近代家族と住まいの変遷 49

K’6LDKがあるし,三世代同居型を標傍する設計や少数ながら老人専lU住宅,障

害者W1住宅も用意されている。

公|y|住宅の歴史を辿るだけでなく,人|]動態や各種年表の比較をあわせ行うと,究

極の標準設計であった3LDK設問↑の出現と,そのifl:後'二総営ブブ針の転換がつづく

1975年前後が,住宅公団にとってだけではなく,日本社会全体の家族と住まいの転換

期であったことがわかる。

たとえば1975年の家族計画世論調査の結果は「子は理想としても現実としても二

人」が定消したと告げていた''1M。サラリーマンと専業=i三婦の組み合わせの夫婦と二人

の]2.供によって構成される4人家族は3LDK波計において)ドうじて夫婦の寝室と各

子供の個室そして家庭団樂のためのリビング・ダイニング・キッチンという共迦空間

の確保を果たしたのであった。つまり,それまで常にモデルが先行して実態が遅れを

とるのが常であった家族と住まいであったのに,この瞬間には,家族の抽象的容器で

あるr家庭」と具体的容器としての住まいモデル「3LDKリビングのある家」が実

態ともほぼ一致したのであった。

これも逆にいえば,3LDK設計の特徴は入卜!;家族に平均的家族像の実現を強いる

規範性の強さだと言うことができる。公団住宅の入居資格は次のようであったsUo

l)日本の国籍を有する勤労者で,住宅に困窮している者であること。

2)同居親族があること(単身住宅については単身であること)。

3)家賃の支払いが確実な者であること。

4)連帯保証人が立てられる者であること。

5)団地内において入居者全体が円満な共同生活を営むもとができること。

第1の条件によって外国人は入居できなかった。第2の条件で単身者は家族Ilt帯と

区別されて家族住宅の棟には入居できない。第3条件により一定以上の収入の1111い者

も入居を拒否された。標準設計によってそれぞれサイズと質が|司じ空間に入れられる

だけでなく、団地住民の生活水準はほぼ同じになった。入居、住み替えにも共通性が

あって、住民のライフ・サイクル、ライフ・スタイルが似通っていることがわかる。

公団住宅はこうして国民の平均的家族の入れ物、健全な「家庭」を実現させる器と

なった。家庭科の教科響には共同住宅の平面図の例として3LDKの図が載せられて

いる随)。

ところがこの厳しい公団住宅入居資格基準がやはり1975年前後から変わりはじめた

のである。親族ネットワークの存在を当てにしなければならないような連帯保証人制

度のかわりに信用保険や抵当権の設置がなされるようになった。76年の空き家現象以

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50緋IIL総合プロジェクト研究「JME末.'!」治期の外国文化受容」

図10家庭科の教科書に載った3LDK平面図

1500 ]0 00

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×I和|童×I和|童 洋室

vw吟」

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計洋室

霧居間・食事童・台所

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〆Iターボツクユ

: 毛討「‘ログh■』●

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2000 14000 1200

|Ⅱ典:新版r家庭一般」実教出版、(1988)pJl()

後,もともと家族用であった住居に単身者の入居を認めはじめた。80年から永住権を

もつ外国人の入lil;が可能になった。勤労者の範囲が引退した年金生活者を含むよう拡

大された。賃貸し分譲の対象が個人だけなく事業者にも認められた,などである。

こういった入居資格の緩和は経済成長によ})経済力をつけた消費者に対し,住居を

提供する公団側が譲歩せざるを得なくなっただけではなかった。このころから新しい

変化が徐々に姿を現しはじめた。その変化は新lillの見出しには「平均世帯員の減少」

「高齢家族の増大」「独り暮らし激ili」「離婚数,過去岐高」r結婚年齢上昇」「出産率

低下」「合計特殊|{}産率最低記録を更新」「高齢化社会」などと繰り返し表現される。

結局は核家族の一般化の傍らでしだいに単独世帯が増加する傾向である耐'。むろん単

独111t帯の内容は孤老からシングルfir族までさまざまである。だがいずれにしろ夫婦と

子供のそろった「家庭」の傍らで「家庭」外での生活をする人々が増えているのであ

る。

家族が住む3LDKあるいはnLDKの内部にも1975年を境に変化が生じている。

1975年が専業主婦がもっとも専業主婦であI)得た瞬間であった。小山静子さんがコメ

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日本jI1近代家族と住まいの変遷 51

ン卜で補強してくださったように,1975年は女子の労働就業率が鹸低であった年で

あった。

その後は電化製品や車の獲得,何よりも持ち家獲得と子供の教育費のために収入を

図11徹底的平等家族住宅

I’

1席平衡凶

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2尼平再興.

、冒雨テT〒T=I

納戸

納戸

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回五工。

出リU:『ニューサーティの生活デザインブック③「もの」コミュニケーション」(築英社,

l983LI〕、45

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52特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

図12井上家の建設当時の住宅の平面図と改善経過

明治以前紺拉かやぶき&根

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、債適時の住田全景

鶴箭,Hug鵬'。:灘職編

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井上家の住宅平面図(昭和56年7月)=4LDK+客間

Ill典中国四国農家住宅研究会

『農家のすまいとくらしウオツチングー生活改善現場からの報告(1988)」

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日本剛近代家族と住まいの変遷 53

越えてしまう支出を補うために主婦もパート労働の労働者として働きに出る。高度経

済成長のあいだ夫の勤務時間は延びる一方であった。子供たちは夜も塾へ行く.家族

のための住まいが完成したその瞬間から逆に家族がその住まいに滞在する時間が減り

始めたのであったうり'。「リビングのある家」ではそれぞれが(Mil室をもつからこそ,リ

ビングという共同空間が生じたのであった。nLDKという設計上のコンセプトは農

村住宅の改造にも適N]された。個室噸重が極まると,玄関の代})に各個室が外への出

入口をもつ「徹底的平等家族住宅」といった発想も生まれる。だが一つの屋根の下に

あった個室がさらに遠い空間に分散すると,それはワンルームマンションのⅡ'現とな

る。

Ⅲ-5.「リビングのあるnLDKの家」/「ワンルーム」の二重構造と個人の析出

1976年に東京のアパート管理専門会社「マルコー」が新しいタイプのマンションを

つくった。一室の平均15-16乎米と狭いがバス・トイレとコンパクトなキチネットつ

きワンルームのマンションである。一室ごとに個人投資家に売り,それを別の個人に

貸して維持,管理,家賃の徴収はすべて会社が請け負うという新しい方式であった。

家賃は当時,月額4万円で高かったが人気が出て,以後,都il7にふえつづけ,若者の

生活様式を変えたといわれる。

ワンルーム・マンションの多くは郁市の交通機関の駅の近く,一戸建て住宅の跡地

に庭や空き地なしの規制ぎりぎりに建てられて,日照権,騒音,ゴミの置場をめぐっ

て近隣の住民とトラブルをおこした。近隣には流入と流出の交代がはげしく,定住型

ではないワンルーム居住者にたいする轡戒心が根強い。行政がワンルームの規制規則

を敷くことも多く,その建設数は頭打ちにはなってはいるものの,利用者は減らず,

現在でも住宅情報雑誌には数多くの物件が紹介されている。

ワンルーム入居者の年齢は21歳から25歳がもっとも多い露!。つまりnLDKの「リ

ビングのある家」で育ったこどもたちは就職あるいは大学入学のためしばしば親の家

のあるところから離れた都市に住み,学生の場合はなおも親から仕送りをうけながら

「ワンルーム」の生活をはじめるということである。ワンルームにも格差ができつつ

あり,余裕のある家族,あるいは地価高騰により持ち家をあきらめた家族がワンルー

ム式のセカンド・ハウスを求めることもある。住宅産業はマルチ・ハビテーションと

いった用語をつくってこれに応じている。

現在この「ワンルーム」と「リビングのある家」とは電話と仕送りによってつな

がっている。「ワンルーム」に住む若者たちは男女をとわずしばしば親の住む「リビ

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54特集総合プロジェクト研究「藤木・lUI治期の外'五|文化受容」

ングのある家」を「実家」と呼ぶ。かつては「実家」とは,嫁入りをした女が里のこ

とを言うことばであった。現在は特い男性もこのことばを使う。心理学者の小此木啓

香は『家庭のない家族の時代』(1983年)の到来を告げた称'。しかし現在の若者が

「ワンルーム」を仮の住まい,「リビングのある家」をr実家」と意識しているとした

ら,かつて「家」/「家庭」の二重家族制度があったように,このたびは「家庭」/

「部屋」という新しい二重家族制度がつくられつつあると言えるのではなかろうか。

図13「nLDKのリビングのある家」/「ワンルーム」

-戸建て,またはマンションnLDKワンルームマンション

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H1リ!:1993年の新聞折込広告よ')

Ⅳ-おわりに

Ⅳ-1.「家庭」ということばの規範性

「家庭」は英語の「ホーム」の翻訳語であったことはたしかであるが,その後官民

が協力してしだいに強く意1床の充填をおこなってきたことばである。今では他の言語

の中に対応語をさがすことの困難な,日本語の譜棄のなかでも他の言語の一つの単語

に翻訳することのもっとも難しいことばの一つとなっている57'。

「家庭」という語についてのアンケート調査は,この語の特殊性を明らかにしてく

れる。「家庭で食べる,寝る,死ぬ」は「|本譜の文章としてはおかしい,と感じる回

答者が多いことから,「家庭」は具体的な行為を表す動詞と共に使うことはできない

ことがわかる。「家庭」は抽象的な空間なのである。「家庭」ということばの使用例を

蝋面

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Ⅱ本型近代家族と(}ミまいの変遷 55

収集てみると,新聞の「家庭柵」の他に,役)リ『の文i'『,学校が父兄にたいして出す諸

迦知に多く使われている語であることがわかる。「家庭」は「学校」または「企業」

と対概念をなしており,一種の法人のような人格をljえられている。

アンート調査の回答は単身('三活者が「家庭」を経営しているとは認めない。夫婦だ

けで子供がいない場合,アンケート調在は「家庭」が成立するかどうかの境界にある

ことを示す。片親であると「鰍子家庭」「父]'・家庭」あるいは「欠損家庭」という差

別的な呼称を与える。11}生産を終えてf供たちが独立すると「老人家庭」と呼ぶ。つ

まり「家庭」の形成には夫婦とこどもの揃った家族であることが要求される。r夫が

家庭をかえ})みない」と言われるのと妾が同じ表現で非難される場合とでは指す内容

が違うことからわかるように,性別役iIiI分担のある空間である。

しかも「家庭」はしばしばr幸福な」「楽しい」「良い」「健全な」といったほめこ

とば的な連体修飾語と共に使われる。つまI),あるべき「家庭」のイメージは強く,

「家庭」の果たすべき役判がある。「家庭」はこのように規範性の強いことばなのであ

る。「茶の間のある家」の「茶の間」と,「リビングのある家」の「リビング」は「健

全な家庭の楽しい団樂」を空間に実現しようとする設計であった。

「家を継ぐ」と言うが「家庭を継ぐ」とは言わないところから,「家庭」は一代か

ぎりのものであることがわかる。「家庭」そのものには親孝行や祖先崇拝のような直

系家族のイデオロギーはなく,逆に「・供中心であって,「家庭」家族のイデオロギー

はむしろ親から子への一方的な養育投資を強いる傾向がある。だが結婚式は「両家」

の結婚を表示し,披露要では「幸福な家庭」の建設という祝辞が必ず!噛られるよう

に,r家」と「家庭」は別の家族関係を表すものであるのにもかかわらず,両立がゆ

るされている。旧二重iIill度はいまも続いてお}),その'2に新二重制度が重るのである。

Ⅳ-2.「部屋」の価値の逆転

「部屋」ということばは,近代になって価値が逆転したことばである。柳田国男が

rlリ)治大][史'1M:11編』を書いたときには,「部屋」はあきらかにけなしことばであっ

た、釘。柳11]はそのことを大きな家に依存している「小屋」が大きな家の屋根の下に入

れられると「部屋」になると説明した。伝統的民家の歴史を参照すると,地方によっ

て「納戸」と呼ばれたり「部屋」と呼ばれた})する空間はたいていI÷I当たりの悪い北

側におかれ,しばしば三方が職の薄暗い一室である。若い夫婦の寝室になることも多

いが,使ハ]人,病人と<に精ネ''1を病む人を隔離する空間となった。妻妾同居の家にお

いて妾のために)U意された空'111を指すこともあり,「お部屋さま」と呼ばれた例もあ

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56特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

る。中廊下型住宅において廊下によって岐初に隔離されたのは「女'1.部屋」であっ

た。「部屋」のつく熟語には「部屋住み」「大部屋俳優」など,けなしことばのニュア

ンスのある語が多い。全体が家長の支配する空間であったころの住まいには家長以外

の個人は姿を現してはならず,「部屋」はむしろ差別される人間を隔離して隠す空lHj

であった。

だが住まいの中に女中部屋だけでなく子供部屋,書斎がつくられてゆくにつれて

「部屋」の価値はしだいに上昇をはじめる。「ワンルーム」だけではなく,公団住宅や

マンションなど集合住宅の一戸分を「部屋」と呼ぶことも多くなった。最近ではr美

しい部屋』『私の部屋」といったタイトルの雑誌が発行されて,個人の部屋を美しく

飾ることを奨励している。こうなると「部屋」のけなしことば的なニュアンスは消え

る。さらに「部屋」が「ルーム」と片仮名表記されると〆価値の逆転は完成する。

「リビングのある家」から空間的に分離し,独立した「ワンルーム」は家族ではな

く個人の生活の容器である。だが現在は「ワンルームで暮らす」とは言うが「ワン

ルームに住む」と言えるかどうか,多くのワンルームの使用者が迷っている。アン

ケートによると「ホテルに住む」という文章には多くの人が違和感を抱く。ホテルの

部屋やワンルームに十年間も暮らしながら一時滞在のつもりでいる人がいる。

Ⅳ-3.空洞化とイデオロギー教育の強化

縦の親子関係を重視し,序列をまもる「家」と,夫婦関係を重視すると同時に性別

役割分担のある「家庭」とは,家族の関係のあり方の基本を違えながら,二重構造を

とった。「家庭」と「部屋」という二つの容器の間にも,中身の人間関係に基本的な

ちがいがある。性別役割分担の原則のある「家庭」を空間化した住まいは,男の家で

あった「茶の間のある家」にしろ,女の家となりやすい「リビングのある家」にし

ろ,ジェンダーがつきまとっている。個人の容器である「部屋」はそれだけでは人間

関係が不在であるから,原則として性別のない空間である。具体的空間である「ワン

ルーム」を男の部屋として演出することも,女の部屋として飾りつけることも可能で

あるが,「ワンルーム」は本質的には性別の無い空間である。

このように「家」/「家庭」,「家庭」/「部屋」の二組の二重家族制度は中身の人

間関係が異なる二つの容器を組み合わせたものであった。二重構造は時間の経過とと

もに一方の空洞化が目立つようになる。するとイデオロギー教育の強化が行われる。

かつて「家」制度が家族生活の実態からはずれて形骸化していることが明らかになれ

ばなるほど,忠孝を唱える修身教育の強化がなされた。このたびも1975年前後からは

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日本型近代家族と住まいの変遷 57

じまった「家庭」制庇の動揺を察知した政府は,「家庭基盤充実柵想推進連絡会議」

をつくり,1980年にはr家庭基盤充実のための避本的施策のとりまとめ」を公表し

た。1984年には経済企画庁国民生活局編r家庭機能とその施策の充実の方向に関する

報告書』がだされている。報告の根拠となったのは有識者にたいするアンケートで

あって,家庭機能の弱体化を防止するための施策について賛否がllIIわれている。施策

案は次の六つであった。

「1.国民の祝日の一つとして「家庭の日」を設ける。2.「家庭省」のような家庭専

門の省庁を設ける。3.各Tl丁町村に「家庭問題相談所」(公立または私立)をおく。

4.結婚する男女には必ず「婚前教育」を受けさせるようにする。5.協議離蛎の際に

は,公的機関で両者の意志と条件を確認させるようにする。6.家庭生活の安定を中傷

し,損なうようなマスコミ表現に対し,警告.告発する機関をおく」弱’

アンケート調査項目にすぎないとはいえ,政府の意図は明らかに「家庭」を制度と

して認め,その強化を目指そうとするものである。国民に婚前教育を受け「させる」,

マスコミ表現にたいする「警告●告発」という表現からわかるように,政府の指導と

介入が当然のこととされている。有識者とみなされた人々の回答は必ずしも否定的で

はなかったが’結局この六つの案は一つも実現には至らなかった。このような直接的

な介入はさすがに回避されて今日にいたっている。

しかしながら,このような露骨な案が通らなければ,もっと間接的なイメージ作戦

がとられる。歴代のアメリカ大統領の就任演説には必ず家族と家の比嚥が用いられて

いる。国家を家族になぞらえて,.情緒的に国民統合を訴えるためである。大統領候補

がどのような家族イメージをうちだすかが選挙戦の鍵をにぎる。先の選挙ではブッ

シュ候補夫人は大家族の信頼すべき祖母のイメージを,クリントン候補夫人はキャリ

アー.ウーマンである妻というイメージを強調した。日本の場合は首相夫人のイメー

ジはさほど重要ではない。皇室が家族モデルの提示という政治的役割をひきうけてい

るからである成り○明治,大正,昭和,平成の皇室アルバムを参照すれば,その家族の

写真に,日本型近代家族モデルが微調整されて変化した経過をたどることができよ

う。

Ⅳ-4.日木型近代家族の特徴

先に述べたように,日本型近代家族は第’に,「家」/r家庭」家族,「家庭」/

「部屋」家族と,くりかえし二重家族制度をとった。このような家族理念に対応する

住まいのモデルもまた,「いろり端のある家」/「茶の間のある家」,「nLDKのり

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58特集総合プロジェクト研究「幕末・1ⅡI治期の外'五|文化受容」

ビングのある家」/「ワンルーム」のように二重構造をとった。二重制度はモデル

チェンジに際して先のモデルを全否定して新しいモデルが成立するのでなく,先のモ

デルを新しいモデルが吸収して巧みな微調盤をつづけることを表す。二重モデルとい

う表現は一種の比嶮であって,現実には三重,四重があり得る。つまり二重とは,モ

デルは固定しておらず変化を常態とすることを表す。

日本型近代家族の第2の特徴は,家族モデルが学校やジャーナリズムという国民教

育装置によって急速かつ徹底的に浸透したことである。国民はモデルチェンジを積極

的にうけいれ,そのたびにモデルを現実に実現しようとして血の出るような努力を繰

り返したのであった。潅本的には政府主導でモデルを強制するのであるが,住宅政策

や家族計画の政策にみられるように,実施は国民の自主性にまかせる形がとられた。

そして国民は期待を越える熱意をもってモデルを追いかけたのであった。結婚率の間

さ,子供の数の平均化は短|Uj間でほとんどIIL界に類をみないほどの数値に達した。

日本型の第3の特徴は,他の問題とも共通して近代的価値の定着期間が短いことで

あろう。同'11代のほとんどの人llI1が結婚し,ほとんどすべての夫婦が1人か2人の子

供を持つという驚くべき状況の出現の直後に,1975年の転機がおとづれる。欧米では

少なくとも1世紀は続いたとおもわれる一夫一婦永続婚のイデオロギーの支配は,日

本社会ではわずか111t代あったかどうかの期間しか続かなかったのではなかろうか。

国家が家族を社会の基礎単位とするのであれば,その単位の一定の安定と持続を要求

するであろう。永続婿が根づく基盤が弱いとすれば,その代償に親子関係の永続性が

求められる。万世一系もまた国家の持続のためのイデオロギーに他ならない。

以上のような日本型近代家族の特徴は,日本列島の上でだけ実現可能なのではな

く,条件さえととのえば移植可能,あるいはそこからさまざまなヴァージョンをつく

りだすことができるであろう。これらの特徴には,1号|本が遅れて世界の国民国家シス

テムに参入するためにとられた戦略が含まれているのだから,同じ状況に置かれた社

会が同様の峨略を取ることが予想される。

その裏づけの一つとして,私は「家庭」という熟語はむしろ,近代日本の和製漢語

の一つとして漢字文化圏へ逆輸出されたのではないかと考えはじめている61)。中国や

台湾では印刷物や垂れ幕に「家庭計画」(家族計画のこと)あるいは「家庭団1M」(家

庭団簗のこと)といった表現をしばしば見かけた。ベトナム語は漢字を使用しなく

なっているが,漢字の「家庭」を表音表記したことばがあり,家族政策に関する文諜

の中でよく使われるH1譜となっているという。韓国では「家門」/「家庭」がちょう

ど日本語の「家」/「家庭」の組み合わせにあたるようである。漢字文化圏における

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Ⅱ本邸近代家族と住まいの変遷 59

「家庭」という譜の伝播の経過と,それぞれの社会でどのような新しい意味を充填さ

れていったかという意味の重なりとずれを追求すれば比較史を考える手掛かりとなる

であろう。

その他にまだ解けない疑問の一つに,近代11本が戸籍という国民を把握するための

独特の単位を採用したのはイlリ故であったかという問題が残っている。古代籍帳からの

伝統,あるいは近世の人別改帳の継承という説1リ]だけで十分だろうか。戦後の改正民

法にも家族単位の戸籍簿が残り,欧米のような個人の身分登録簿とはならなかった。

現在,日本の他には韓'五|と台湾が〕T籍を)Ⅱいている。これを律令制の影響I圏に共通す

る現象と解釈するのか,それとも近代における1]本の植民地支配の名残,その再利用

と考えるべきなのか。

Ⅳ-5.ポスト・モダン状況について

女性史にとっては,近代家族の始ま}〕と終わりを捉えることが重要である。なぜな

ら,女性の個は近代家族の析出の後に,さらにその家族の内側から姿を現すからであ

る。ここではライフサイクルの変化家族サイクルの変化を含む人l」動態の年表,住

宅問題の年表,女子労働の変化についての年表を突き合わせて,1975年を日本型近代

家族の完成と同時に変貌のはじまる瞬間とした。

1975年から「家庭」の中から女性を含む個人が姿を現すだけでなく,家族の多様化

がはじまった。国際結婚についての法律改正,夫婦別姓についての判例,男女雇用均

等法成立などには,政府の側の一定の譲歩があった。一見したところ男女役割分担に

もとづくr家庭」制度の持続には固執しない方針をとったかのようにみえる。その一

方で政府は国民年金制度や税法上の主婦の優遇など,「家庭」への回帰の道を用意し

た。総合職を続けることが困難なら,降りる自ll1もあるというわけである。個となっ

た女・性にとって,選択の責任はますます個人的なものとなり,その重圧は大きい。研

究会の当日,コメントの中で牟田和恵さんが用いた「苦い勝利」という表現には,以

前の|吐代が抱えていた|l{]題とは別のlMj題に出会っている世代の実感が彦み出ていた。

日本社会には其の意味での近代が成立しなかったのだから,そこでポスト・モダン

を言うことは必ずlMi近代へのllll帰を望む時代錯誤に陥るという暴論がある。しかし私

は'二1本型近代家族が成立したことからもわかるように,日本的近代はたとえ短期間で

あっても成立し,私たちはそこを経過して先へ進むのであって逆行はあり得ないと考

えている。大衆社会は女性を含む側からなっている。大衆社会の佃は,家族と財産を

擁していた近代的個性がもっていた威厳には欠けるが,各自が対等な他者と認め合う

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60特集総合プロジェクト研究「嫌末・明治期の外国文化受容」

ささやかな尊厳をもつはずである。とくに強くもなく弱くもない個人がその尊厳を死

ぬまで維持するための,相互援助の関係が必要である。

シンポジュウムの会場から,ではどうすればいいの,という質問があのように壇上

めがけて殺到するとは思っていなかった。私は自分が生まれ育った近代という時代が

何であったかがを知りたかったのであって,知るにつれて自分自身があれほどとらわ

れていた価値観から少しづつ自由になることに関心があった。未来は不可知であるか

ら面白い。部屋に分かれ住んだ私たちは,これからどうするかを考えている時期にい

るのだと思う。いったん部屋をもった私たちがふたたび家長が支配する間仕切りの無

い大きな家に入るという選択をすることはないであろう。こんど一緒に生きると決め

る時には,どのようにすれば互いの私的空間とそれぞれの選択を尊重し,支援するこ

とができるかが問題になる。同じ屋根の下にふたたび部屋を集合し,再編制するか,

それとも部屋と部屋をつなぐ緊密なネットワークをつくるのか。婚姻と血縁にかぎら

ない親しいネットワークは可能か。長くなった人生のライフサイクルのどこで誰と組

むのか組まないのか、などが考えはじめられている。人生の選択の中でも重要になる

のは、いかに生きるかと同じく,いかに死ぬかであろう。部屋群の再編成は現在は実

験小説など主として観念の中で試みられているが、シルバーハウスだけはいくつか実

行に移されている。

人の生と死を視界にいれて未来を考えるとき、あらためて比較史の視点を欠かすこ

とができない。各国の家族政策の違いは世界の国民国家システムに参入した時期の時

間差と関連したが、この時間差は植民地支配を受けた地域ではさらに広がった。西欧

においても日本においても、近代家族の成立と新中間廟の出現は植民地収奪による富

の絶えざる増大と、植民地への人材進出の余地があって可能になったのであった。

1975年以後の個人の析出もまた、日本経済の高度成長がなければありえなかった。家

事の商品化はその経済力によって間接的に支えられているし、もっと直接的にはこれ

からの病人や老人の介護、育児労働が外国からの労働力を当てにすることも予想され

る。先進諸国と発展途上国のライフサイクルや家族サイクルの比較は、富の収奪だけ

でなく生命の収奪があることを明らかにするであろう。ある社会で個が個として成立

する条件は、他の社会に支えられていることを忘れることはできない。

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日本型近代家族と住まいの変遷 6]

たとえば雑誌r婦人の|阯紀』(実業之日本社)は創刊号(1947年)において「「家族制

度と婦人の位腿」という特』Lを組んで,改正民法に期待を寄せている。

林瑞枝編著『いま女性の権利は」(学陽書房,1989年),I).p、93~120

西川祐子「近代国家と家族モデルル『ユテイテイア』第2号(ミネルヴァilI:房.1991

年),p,p,113~125

上野千鶴子・山本融顕「対談一住宅,そして家族とは」『新建築住宅勝集』(新建築

社,1993年1月).p,129

西川祐子「住まいの変遷とr家庭』の成立上女性史総合研究会編「日本女性生活史』

第四巻(東京大学出版会,1990年),p、p、1~50

cfiWIlI祐子,佐藤ブゴ代,吉川寛J1」'11仲IU1水野班「ことばに表れた家族と家」その1

~その4.『国際研究』(I:|動部大学国際地域研究所,l986flスー89‘|罰)

久武綾子r氏と戸繍の女性史一わが|劃における変遷と諸外国との比較』(世界思剋社,

1988年),p、p,90-105

巌本糠治「婚姻論上rIU]治文学全集32」(筑摩i1P房,l973fi三)p、p、31-40

「主婦なるものは,第一に,室家を楽しくしやうといふ甑を常に心掛けておらねばな

らぬと存じます」(「主婦の秘訣-則),r女学雑誌』1892イ|:110ノ]

綾部斎『家庭指南』(17M年)。原本は家政学院大学蔵。力Ⅱ藤秀俊『家庭の本質』(放

送大学教育振興会,1986年),I〕.p・'24-135に収められている。

新村lllr家庭という語」1.日本語漫談,語源鍵談2』(教育出版,1976年)

半村洋子「家睦小『識座・I]本誌の語彙9」(明治111:院.1983年)

徳富蘇峰「新日本の地盤其一新家庭」『家庭雑誌」第二号(l892fl且)

堺利彦r我鍜の根本思想」堺のr家庭雑誌」創刊号(1903年)

Cf.「羽仁もと子著作集」全21巻(婦人之友社.1963年)

たとえば1917イi二9月号には「物lil1i鵬i1t難に処する安価生活の実例」が111例iIiRってい

る。その他各号に家計紹介がある。『主婦の(之)友」バックヅーンバーはお茶の水図書

館蔵。また『二ii婦の友の五十年』(主婦の友社.1967イ|エ)がある。

戸田貞三r家族と蛎姻」(頤'1文鮪諜店.1934年).r「家族・鯖jlllJ研究文献選集第7

巻』(クレス出版,1989年)Ⅲp、285

エドワード.s・モース著上[、篇,加藤晃規,柳美代子訳『[1本のすまい・内と外』

(腿胤lM版会,]979年).69p、

柳田国男「明治大]ilH史世相編」「柳田国リ)全集』第二十四巻(筑麟書房.1970年),

pl89

Bacon’八・M゜:」&'1)ancseGirIsandWo1l1cn,(TheRiversidePress・Cambridge,1891)

ibid..p,66

ibid.,p,113

横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫.1949年),p、57

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11

23

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89

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22)

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62特集総合プロジェクト研究「幕末・明治期の外国文化受容」

ヱー.シビル「麺淵紡績会社」『国民新聞』第986号.(1894年4)116日),y明治文化全

集』第15巻社会縞(日本評i満社,1957年)、p、292

c「・社会福祉調査研究会綱『戦前日本社会事業調査資料集成1,2,3』(勁草書房.1989

年)

中川満r日本の都市下層」(勁取書房,1985年)p、p、97~145

横11」源之助r明治富豪史」(現代教養文IlliJ989年)p,p,l19-l29

cf、西川祐子「借家の文学史」r変貌する家ji萢第三巻(岩波醤店,199]年)

1917年に「関西建築協会雑誌』として発行,1920年『建築と社会」と改題,現在にい

たる。バックナンバーはル(都大学工学部建築科図脅室蔵。

ibid.,

太田博大郎了住宅近代史」(雄山閲.1969年)p・l26

r主婦の友」第一巻第一号(主婦之友社.1916年)

桐数頁次郎ほか「江戸・東京の都市史および都市計画史的研究(1)『東京都立大学都

市研究報告24」中川満『日本の都市下屑」p、290に再録。

Cl・映画「逝年往時」

中野茂樹「植民地朝鮮の残影を撮る」(岩波ブックレット1990年)

西川祐子「高群逸枝と『婦人戦線』の人々」r思想』(岩波森店,1975年3月号)

河村只雄『親子中心の家族と社会秩序』(国民精神文化研究所,1942年)

新見吉治r家族主義の教育』(育芳社,1937年).復刻版は「家族・婚姻研究ノート戦前

編』(クレス出版ロ1990年)

「日本婦人」(1943年1月号)

五人組住宅については今和次郎「戦時下の住居観」「今和次郎集第4巻,住居論』(ド

メス出版,1971年)

『主婦之友』第二十九巻第十号(主婦之友社,1945年11月),p、3

「婦人の世紀」(実業之日本社,1947年)

門上千恵子「民法改正と婦人」に宮沢俊義「法律の家と常識」から引用,r婦人の世

紀」第一巻第一号(実業之日本社,1947年)

塩田丸里『住まいの戦後史』(サイマル出版会.1975年)p、p、9-10

住宅問題研究会『住宅'11]題事典』(東洋経済,1993年),p」97

西山卯三「これからのすまい一往様式の話」(相模書房,1948年Lp、65

浜ロミホ「日本住宅の封建性」(相模轡房,1949年),p、160

r日本住宅公団二十年史』(日本住宅公団発行.1975年)

「標準設計平面図」r日本住宅公団二十年史』(日本住宅公団発行,1975年叩.p、332~

344

r住まいの戦後史」、p233

井上輝子,江原由美子編r女性のデータブック」(有斐閣、1991年巾.249

[1本住宅公団二十年史刊行委員会編『日本住宅公団史』(日本住宅公団発行.1981年),

268p、

23)

24)

25)

26)

27)

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29)

30)

31)

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45)

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49)

50)

51)

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日本型近代家族と住まいの変遷 63

52)たとえば『家庭一般』(実教出版.1988年),p,140

53)Cf・井上輝子,江原由美子編r女性のデータプック」(有斐|別,1991年).p、71iZI「普通世

帯の構造の変化1

54)c[、日本放送協会放送文化調査研究所編「国民生活時間調査虫

55)「特集・ワンルームマンション」首都圏総合計画研究所編『まちつくり研究』19841|乱

夏号,7,

56)小此木啓吾r家庭のない家族の時代」(集英社文庫,1985年)

57)「家庭」という語の対照言語学による調迩については西川祐子,佐藤方代,吉川寛,

山1m伸明,水野豊「ことばに表れた家族と家」その四,r国際研究』第六号(中部大学

国際地域研究所,l989fl4)p,p、59-74

58)柳田国男ibid、

59)経済企画庁国民生活局了家庭機能とその施策の充実の方向に関する調杢報告響』(大

蔵省印刷局J984flき),p、p’45-53

60)Cf・西川祐子「近代国家と家族モデル」『ユスティティア』第二号(ミネルヴァ諜房,

p・pJ13~125

61)Cf,西川祐子「比較史の可能性と'19題点」『女性史学』第3号(1993年)p,p、26-36