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テロリスト
伊藤博文の葬式と墓は朝鮮式であった。彼のアイデンティティは”朝鮮人” 明治以降の日本は”朝鮮国”である 佐藤 荘太郎 2017.0614 (朝鮮という概念の整理:ここでの”朝鮮”は、主に、共通の文化的基盤を持った集団という意味で使っている。地理的には幕末時点での李氏朝鮮の支配領域となる。朝鮮半島は大陸とは白長山脈に阻まれて、大陸との交流が隔てられている。日本列島では弥生時代にはいり先住の縄文の人々を押し分けるように朝鮮半島から人口が流入してきた。現在の日本列島の住人の先祖は朝鮮半島から渡ってきた人たちである可能性が最も大きい。この段階からすでに日本は”朝鮮人”の国なのである。7世紀、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済、任那に分かれ、さらに倭国(日本)も一帯となり交流と抗争を繰り返していた。この地域は中国の強大な国家(隋、唐)との対抗上、まとまる必用もあった。このように日本と朝鮮半島とでは言語の違いがあっても、日本を朝鮮文化圏の一部とすることには無理がない)
2,3 年前だが、インターネットの放送番組で、「伊藤博文の葬式は朝鮮式だった」ということを聞いて、非常に関心が引かれた。
図1.は、明治 42
年の伊藤博文の葬式の写真である。江戸時代末期の将軍の伝統的な葬儀がどのようなものであった知る由がないが、明治の末期に首都東京で、堂々と朝鮮式の葬儀が行われたことは特筆すべきである。
伊藤博文は現在の山口県光市あたりに生まれ、8歳の時、萩に移った。長州藩(萩藩)には特異な事情があった。
(特に、平安時代頃に渡来してきた大内氏は、周防・長門を中心に支配領域を広げ、百済の琳聖太子の末裔と称した。。。。足利氏に仕えながら高麗王にも秋波を送っていた大内氏は、ややもすれば分国・独立の意気を示したので、国体危機の前兆を感じさせた。室町幕府にとっては、この地の高麗系住民をヤマト文化に同化させることが最も重要な課題だった。http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html)
長州藩の人たちは、日本にいながら、自らのルーツ、アイデンティティを”高句麗系朝鮮人”と考えていたのだった(図3)。現在、高句麗の流れをくむのは北朝鮮である。好戦的言動が目立つ国である。
伊藤博文は、幕末の孝明天皇とその子の睦仁親王を弑殺し、山口の田布施にいた南朝の皇統とされる大室寅之祐を睦仁親王のなりすましにして、ついに明治天皇にデッチ上げた。明治維新は伊藤博文ら”朝鮮人”による日本での政権の奪取、クーデターである。
伊藤博文は大日本帝国憲法(明治憲法)を制定し、天皇に絶対の権威を付与し、かつ不可侵の国家元首とすることで、天皇デッチアゲに触れさせないようにした。さらに、天皇というシンボルをあやつり、日本列島の人間を精神的に支配する体制を作り上げた。これは一種の宗教体制である。(腐ったイワシのアタマを崇め奉るよう仕組まれた)
墓の形はその人物の文化的ルーツを表す。”伊藤博文”、”墓”をキーワードに検索したとき、2種の画像が上がってくる(図6、図7)。初め混乱したが、よく見ると、2つの墓は少し違う。伊藤博文の墓と、妻梅子の墓なのである。つまり夫婦別墓なのである。
更に墓の前には鳥居が設置されている。この鳥居は、笠木(上の段の横の棒)と貫(下の段の横の棒)とも反りがなく、貫は柱を突き抜けない。神明鳥居(しんめいとりい)と言われるものである。(靖国神社、伊勢神宮の鳥居も神明鳥居である)
明治天皇以降の天皇の墓(図)8,9,10)も丸いドーム状で、夫婦別墓である。墳墓の前に神明鳥居があるのも同じである。このような形式の墳墓は江戸時代の天皇の墓には無い。この丸いドーム状の墓は朝鮮式の墓である。
現在の日本の支配層と朝鮮との関係について、今上(昭仁)天皇は、2001年、自らの出自について、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じます」と述べている。(この発言は重要である。萩藩の伊藤博文らは高句麗系といっているので)
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現在の首相である安倍晋三氏の父親、故安倍晋太郎氏は日頃から「私は朝鮮人だ」と言っていたという。
このように、天皇から首相から、日本の支配層は、自らのアイデンティティを”朝鮮人”とする人たちによって占められている。だったら、日本国は”朝鮮国”というべきなのである。
明治維新後の新政府は、”大朝鮮帝国”、と宣言するのが適当だったのである。
朝鮮半島に居る人たちから見れば、明治維新は、少し離れた島国日本の中国文化の教養を持った人たちの支配層が、自らのアイデンティティとルーツが朝鮮人とする人たちにとって替わられた、ということである。日本列島の朝鮮化である。「日本列島はわれら朝鮮人の支配する国になった
。よくやった」とみるのが普通でないだろうか。明治の初期の激しい廃仏毀釈は、レジームチェンジに勝った側の人々による、従来の宗教文化(寺)に対する破壊活動と考えられる。
(日本のおける宗教について、中国文化は佛教と寺、朝鮮文化は国家神道と神社と、2項対立的に捉えられる)
(日韓併合について、図3を見れば、伊藤博文にとっては「日韓併合なんて必要ないさ」と考えていたように思う。明治維新とは、日本の支配権が朝鮮人に奪われたことであるから、朝鮮半島から日本列島への移動がし易くなったはずである。さらに、朝鮮人によって日本の富が奪われることになった。江戸城に朝鮮人天皇が住んでいることでもわかる。日本に移住してきた朝鮮人が企業を起こした。さらに、なぜ韓国〜北朝鮮系のパチンコ業者が野放しなのか簡単に理解されるとおもう
。「明治維新とは日本列島においての朝鮮人による支配権の獲得であった」ということを、今日でも日本の朝鮮人支配層の共有の秘密になっていると思われる)
【幕末まで、日本は中国文化の国だった】
古代、日本列島は朝鮮文化圏の一部であった。それが大化の改新、壬申の乱をあたりから、中国の制度、文物を一所懸命学んできた。
江戸時代、日本の文化の底流となっていたものは、漢字、佛教、論語、朱子学である。中国文化のものばかりである
。仏教と寺はセットであり、庶民の教育は寺子屋で行われた。
中国文化の強さというのは、一つの文明を形成したことにある。まず漢字を発明し、論語、孫氏、荘子というような哲学や論理学を生んだ。佛教は中国文明が生んだものではないが、パーリー語、サンスクリット語から漢籍に翻訳され、中国分化に組み込まれた。佛教は精神世界を豊かにするとともに、論理的思考が鍛えられた。
朝鮮文化は如何なるものを産んだか。哲学、文学は聞かない。歴史的には日本の文化の基層として朝鮮文化が有るはずなのだが、現代ではあまり感じられない。
【日本の朝鮮文化化が起こるか】
上に述べた日本が受け入れてきた中国文化のなかで、漢字は大きい。日本に定着した朝鮮文化として提示できるものは、天皇教国家神道と神社だけである。漢字をハングルに変えることは出来ない。佛教を神道で塗り替えることは出来ない。
できることは、日本文化を破壊することである。廃仏毀釈がいい例である。戦後、日本政府が日本語のローマ字化を本気で考えていた。
朝鮮文化の国々見られるの文化的欠点は、論理性の欠如である。現在の日本の政治が、三権分立のカケラすら見えないこと、国会の議論が成り立たないことでもわかる。また財政もメチャメチャで破綻に近い状態である。
さらに困惑することは、朝鮮文化の人々は攻撃的で、戦争をしたがることである。敵対するものを排除しようとする、殺そうとすることである。これはどこの文化圏、国にもみられることであろうが、明治維新のあとの日本国は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争とずっと戦争の時代が続いた。国内でも明治維新の過程で、戊辰戦争、會津戦争がおこされた。
日中戦争は、中国文化と朝鮮文化の対立と考えるとわかりやすい。安倍政権のやたら中国と戦争
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しようとする姿勢も、朝鮮文化から生じるものと考えられる。朝鮮文化の哲学を持たない、思想の貧しさから生まれるものである。(かつて、稲田朋美防衛大臣は「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と言った。この発言の論理性と、歴史的な意味を考えてみるといい。)。
自民党の復古的な憲法改正、ならびに警察活動を戦前の特高警察、思想警察を復活しようとする共謀罪は、支配層の本質を隠蔽し、政権への批判を許さないためのツールとしては極めて有用なものである。実際の運用ではまず人権への配慮はないだろう。独裁体制と秘密警察は常にセットなのである。
共謀罪は国連の人権委員会から懸念を述べられるほど異常なものである。また、国会の委員会の議論では、政府側の答弁はまったく体をなしていなかった。日本の”朝鮮人”政権の、精神の貧しさを示すものである。
図1. 伊藤博文の葬列(1909年)
図3. 伊藤博文 朝鮮総督のとき
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図2. 朝鮮の葬列 前列左から 2 人目 妻 梅子
図4.宣陵 (韓国) 図5.韓国にある李(梨本)方子(1901〜1989)の墓
図7.伊藤博文の妻 梅子の墓 伊藤博文の墓の右側、離れたところにあり
図6.伊藤博文(1841〜1909)の墓。 東京都品川区大井町の伊藤博文の屋敷にあり
図9.明治天皇の陵墓
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図8.昭和天皇の陵墓
図 10.昭和天皇、香淳皇后の陵墓 週刊新潮2017年5月18日号より