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2010 年 9 月 22 日(水)に、日仏会館において「アメリカの葬儀と墓地 『アメリカ的な死の 在り方』」を考えるというテーマで講演を行いまいした。50名を越える多くの方々にご出席を いただき、このようなテーマにご関心ある方々が多くいらっしゃることに驚きました。お忙し いところ、わざわざお出かけいただいた方々に感謝申し上げます。時間的制限もあってアメリ カの墓地の話が中心となり、葬儀について十分に話すことができませんでしたので、その分も 加えた講演内容をホームページにて以下掲載することにしました。ご意見・ご質問がありまし たら、こちら にご連絡下さい。 アメリカの葬儀と墓地 「アメリカ的な死の在り方」を考える 黒沢眞里子 専修大学 アメリカの墓地の過去と現在 アメリカの葬儀の過去と現在 墓園を描いた3つの絵 みなさん、こんにちは。本日はアメリカの葬儀・墓地の話にご参加いただきありがとう ございます。私は講師の黒沢真里子と申します。本日は、このような機会をいただき、 フネラジー会に、とくに会長のナターシャ・アヴリンヌ教授に感謝申し上げます。 私の専門はアメリカ研究で、とくにアメリカ人の死生観、墓地の歴史について研究を しております。最初はアメリカの風景画と風景美学について研究をしていましたが、そ の後アメリカの墓地の研究へと移りました。風景画と墓地とどのような関係があるのか と思われるかもしれませんが、実は多いに関係がありまして、そのお話は後ほどさせて いただきます。アメリカの墓地の研究はかれこれ10年以上も続けております。2000 年からアメリカの墓地学会――正確には墓石研究学会と言いますが――の会員になり まして、毎年6月に行われる年大会にこれまで7回くらい出席し、アメリカ北東部を中 心に、ジョージアやカリフォルニアまで開催地に足を運び、あちこちの墓地を見てまい りました。そのときの体験や墓地学会の活動についても少しお話できたらと思っていま す。 フネラジー会は、日本・アジアの葬儀についてご研究されている本日ご出席いただい ております嶋根克己先生のご紹介で、これまで開かれたシンポジウムや講演会、研究会 に何回か参加させていただきました。現在日本では葬儀や墓のあり方が多くの人々の関 心事となり、『千の風になって』の歌のヒットから最近ではベストセラーとなっている
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アメリカの葬儀と墓地 ̶ 「アメリカ的な死の在り方」を考えるthb0622/nichifutsu.pdf2010年9月22日(水)に、日仏会館において「アメリカの葬儀と墓地

Oct 02, 2020

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2010 年 9 月 22 日(水)に、日仏会館において「アメリカの葬儀と墓地 ̶ 『アメリカ的な死の在り方』」を考えるというテーマで講演を行いまいした。50 名を越える多くの方々にご出席をいただき、このようなテーマにご関心ある方々が多くいらっしゃることに驚きました。お忙しいところ、わざわざお出かけいただいた方々に感謝申し上げます。時間的制限もあってアメリカの墓地の話が中心となり、葬儀について十分に話すことができませんでしたので、その分も加えた講演内容をホームページにて以下掲載することにしました。ご意見・ご質問がありましたら、こちらにご連絡下さい。 アメリカの葬儀と墓地 ̶ 「アメリカ的な死の在り方」を考える

黒沢眞里子 専修大学 アメリカの墓地の過去と現在 アメリカの葬儀の過去と現在 墓園を描いた3つの絵 みなさん、こんにちは。本日はアメリカの葬儀・墓地の話にご参加いただきありがとうございます。私は講師の黒沢真里子と申します。本日は、このような機会をいただき、フネラジー会に、とくに会長のナターシャ・アヴリンヌ教授に感謝申し上げます。 私の専門はアメリカ研究で、とくにアメリカ人の死生観、墓地の歴史について研究をしております。最初はアメリカの風景画と風景美学について研究をしていましたが、その後アメリカの墓地の研究へと移りました。風景画と墓地とどのような関係があるのかと思われるかもしれませんが、実は多いに関係がありまして、そのお話は後ほどさせていただきます。アメリカの墓地の研究はかれこれ10年以上も続けております。2000年からアメリカの墓地学会――正確には墓石研究学会と言いますが――の会員になりまして、毎年6月に行われる年大会にこれまで7回くらい出席し、アメリカ北東部を中心に、ジョージアやカリフォルニアまで開催地に足を運び、あちこちの墓地を見てまいりました。そのときの体験や墓地学会の活動についても少しお話できたらと思っています。 フネラジー会は、日本・アジアの葬儀についてご研究されている本日ご出席いただいております嶋根克己先生のご紹介で、これまで開かれたシンポジウムや講演会、研究会に何回か参加させていただきました。現在日本では葬儀や墓のあり方が多くの人々の関心事となり、『千の風になって』の歌のヒットから最近ではベストセラーとなっている

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『葬儀はいらない』、それに続いて『葬式は必要!』、『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』など、次々と関連書籍が出版されています。どうも、日本でもこれまでの伝統的葬儀のあり方が問われ、変化が起こりつつあるのではと思われる時期に、フネラジー会が連続してシンポジウムなどを企画されたことは大変意義深いことだと思います。私もいくつか出席させていただいて、フランス、日本、アジアの国々の葬儀の現状と変化について学ばせていただきました。そして、最後に思いましたことが、それぞれの国の葬儀には時代とともに変化する部分と変化しない部分とがあるわけですが、将来、あるいは現在起こりつつある変化を考えた場合、どのような方向性が考えられるのか。現在グローバリゼーションが進行するなかで、葬儀というもっとも伝統的な儀式もその影響を受け、それぞれの地域や文化を超えた形式をもつ可能性はあるのか。マクドナルドに端的に見られるようにグローバリゼーションはアメリカナイゼーションとも言われるわけですが、ある意味で近代的なビジネスモデルを確立したアメリカの葬儀や墓地が他国に影響を与えることはあるのか。ピラミッドを眺めながらマクドナルドのハンバーガーを食べ、ハリウッド映画を楽しむといったアメリカ式生活様式 (American Way of Life) が世界に広がっている現在、アメリカ式死に方 (American Way of Death) は果たして広がらないのか。広がらないとすればそれはどうしてなのか。そのような疑問がわいたわけです。 そこで、フランスとアジアを中心としたフネラジー会の最後の研究会として、アメリカ式死のあり方についてお話しすることも、皆さんのご関心にあながち沿わないことでもないのではないかと思いました。本日は、アメリカ式死のあり方とはどのようなものなのか、墓地と葬儀を通じてご理解いただこうというのが趣旨です。私のお話はだいたい1時間半を予定しておりますが、最後に皆さんの活発なご意見をいただければと思います。 本日の話の流れについて簡単にご説明します。まず、アメリカ式死のあり方をご理解いただくために、私の専門は墓地史なものですから、アメリカの墓地の特徴について、歴史的展開を景観の変化を中心に見ていきたいと思います。私が大学でアメリカの墓地について講義をしますと、学生たちは墓地に歴史があるということにまず驚きます。確かに墓地は歴史的に変化してきました!墓地の変化の背景には、都市化などの物理的側面から死生観の変化などさまざまな要因があるのですが、変化を景観からヴィジュアルに見ていきますと、その変化がとてもよく理解できます。次にアメリカの葬儀についてその特徴と歴史的展開と現在の問題点について見ていきます。墓地と葬儀と二つの観点から、アメリカ式死のあり方がどのように形成されてきたのかその経緯と同時に、その変化の核にあるアメリカ人の死に対する態度とはどのようなものか、そして現在何が問題になっているのかお話ししていきたいと思います。

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ではさっそく次の図版を見ていただけますか。この絵はいったい何の絵か分りますか?いつ頃描かれたものでしょうか。何が描かれているでしょうか。どのようなイメージをもたれたか、おっしゃって頂ける方はいますか?

図版1オハイオ州シンシナティのスプリング・グローヴ霊園の池の景観

が優雅に泳いでいます。遠景には、汽車が走っていますが、そのそばには馬車も走っています。左右には爽やかな木立が描かれています。どこかの公園か、庭園で休日を楽しんでいる人々を描いた絵ではないかと想像されますね。 実は、この絵は墓地のガイドブックからとったものなのです。時代は、19世紀半ば、場所は中西部オハイオ州のシンシナティのスプリング・グローヴという墓地です。墓地だと分るものは何もないように見えますが、何かそれらしいものを発見できますか? ひとつ指摘できるものがあります。右に描かれている柳の木です。英語では weeping

絵の真ん中に池のような水辺が描かれていますね。そこに、女性二人と、それから男性一人と女性二名が向き合って何か会話をしています。そのそばには子供が遊んでします。おそらく、家族でここに来ているのでしょう。池の中には、女性の像が瓶のような容器を抱えそこから水が流れています。池には白鳥

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willow と言いまして、死と再生のシンボリズムとしてとくに19世紀には墓石や追悼画と言われる故人を偲ぶ絵や刺繍によく描かれ、また実際に墓地に植えられました。柳の木は西欧の近代的墓地景観・死生観を形成するうえでとても重要な役割を担った植物です。(柳の木の文化誌はとくに興味深いテーマなのですが、2011 年度コロンビア大学客員研究員として 1 年間アメリカに滞在する際の研究テーマの一つとしてさらに追究してくる予定です。) 墓地の宣伝なのに、墓地が描かれていないこの絵はいったいどのようなメッセージを発しているのでしょうか。まず、白鳥ですが、これは当時のアメリカではまだ珍しいエキゾチキックな鳥でして、白鳥がいるということは、とてもロマンチックで、高級な場所であることを示しています。おそらくここに集う人々は、鉄道に乗って都会から気軽にやってきて――子供もいますから簡単に来られたのでしょう――この美しい庭園で楽しい余暇の時間を過ごしている裕福な人々だということが分ります。 次に二つ続けて図版をご覧下さい。

図版2 ペンシルヴァニア州フィラデルフィアのローレル・ヒル霊園

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この二つの銅板画には墓らしいものが描かれていますから、墓地であることは分りますね。これも最初のものは当時人気の女性向けファッション雑誌からとったもので、後の図は墓地のガイドブックからとったものです。先ほどの絵も含めて、3点の絵は、墓地景観の変化を良く表しているのですが、どの景観からどの景観に変化したのか、古いもの、中間のもの、新しいものと順番をつけられますか? まず、一つの絵には墓石がなく、他の二つにはありますから、この一つが古いか、新しいかどちらかになりますが、墓石がない状態から墓石がでてくるのは考えづらいですから、この絵がもっとも新しい墓地で、残りの二つがそれより前につくられたものと考えるのがもっとも自然です。 この3つの墓地は、19 世紀にアメリカに誕生した田園墓地と呼ばれる墓地で、私がとくに研究対象としている墓地です。本日の話はまず19世紀のこの田園墓地,あるいは庭園墓地と呼ばれる墓地の話から始めたいと思います。

図版3 マサチューセッツ州ボストンのマウント・オーバーン霊園

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アメリカの墓地の歴史 アメリカの墓地についてご理解いただくために、アメリカの墓地が歴史的にどのような変化をしてきたのか、簡単にご紹介します。アメリカの墓地は、きわめて大おおざっぱに言って、3、あるいは4段階を経て進化してきました。まず、植民地時代の墓石だけの簡素な墓地、1830 年代の墓地改革によって登場した田園あるいは庭園墓地、1850年代、田園墓地が東海岸から西海岸へと伝播するなかで、地形的な影響等から、芝のオープンスペースが特徴の公園型墓地へと進化し、最後は20世紀に誕生したメモリアル・パーク型の墓地です。この流れを見ていただいただけで、アメリカ人の死生観がどのように変化したか見て取れます。

植民地時代の墓地 1830 年代の田園墓地 1850 年代からの公園墓地 20 世紀のメモリアル・パーク

墓地の名称の変化だけ見ていただいても、死生観の変化がよく分ります。植民地時代の墓地は、graveyard と呼ばれ、文字通り死体遺棄場でしたが、墓地改革で登場した田園墓地は、rural cemetery と呼ばれますが、眠る部屋 sleeping chamber (Gk. koimeterion "sleeping place, dormitory,")を意味するcemeteryという言葉が初めて墓地を指す一般語として使われるようになります。それが20世紀になりますと、墓地を示す言葉がまったく欠落したmemorial park という呼び名が登場し、この流れを見ますと、死に対しての厳しい態度から、ソフトなものへ、そして最後には死が隠蔽化されていくプロセスを見ることができるかもしれません。それぞれの墓地景観を見て頂くとその変化がさらによくご理解いただけます。 それぞれのタイプを代表する墓地を紹介します。まず植民地時代の墓地です。 植民地時代の墓地

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この写真で一番始めに気がつくことは、墓石が薄い板のようなものでできていて、ほとんどの墓石が同じ方向を向いているということではないでしょうか。墓石はスレートと言われる薄くはがれる粘板岩でできています。植民地時代の墓地によく見かける墓石です。 墓石が同じ方向を向いているのは、キリストが再臨するときに死者もいっしょに目覚めるというキリスト教の信仰によるもので、キリストが現れる東を向いて死者を埋葬する習慣があったからです。これは、マサチューセッツ州ボストンから車で30分くらい北上した海岸沿いにあるマーブルヘッドという古い町にある植民地時代の墓地です。当時の墓地は基本的に植栽されることはなく、墓地を取り囲む塀もありません。生者の生活圏の中、教会や教会の役割をしたミーティングハウスの近くに(必ずしも同一管轄下にあるという訳でもなく、とくにピューリタンは墓地とミーティングハウスを制度上分離していました)墓地が置かれ、ミーティングハウスで会合などがあるときに、会合の前に集う場所であるなど、日常生活の一部だったようです。とくに、神聖な場所ではありませんでした。ところで、このスレートの墓石をよく見てみると、とても興味深い図像や墓碑銘が彫られていることがわかります。

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これは、ボストンのマウント・オーバーン霊園のエジプト様式の門です。田園墓地はこのように立派な門が造られ墓地が塀で囲まれました。

これは、同霊園内に造られたチャペルです。宗派を問わない霊園であるため、チャーチよりもより広い礼拝所の意味のチャペルという言葉が使われています。

植民地時代、とくにニューイングランドの墓地・墓石に関する研究は数多く行われており、それに興味のある方は、ここをクリックしてください。このような植民地時代からの墓地の形式はアメリカ独立後、1830 年代になるまで続きました。 アメリカの墓地改革:田園墓地の誕生 アメリカ独立後半世紀を経て、アメリカの墓地に大転換期が訪れます。殺風景な植民地時代の墓地に代わって、美しく植栽されたまるで庭園のような田園墓地 (rural cemetery) あるいは庭園墓地 (garden cemetery)と呼ばれる墓地が登場するからです。イギリスの植民地であった17世紀、18世紀を経て200年以上続いた墓地の形式がここでまったく新しいものになり、現代の墓地はそのヴァリエーションとも言えます。この新たな田園墓地は大成功をおさめて全米に広がり墓地ブームすら引き起こしました。そして近代墓地のひとつのモデルを築くことになります。田園墓地のどのような要素が成功の要因になったのか考えてみることは、アメリカ人の死や墓地に対する態度の核心にあるものを理解する助けになると思います。 田園墓地の写真をいくつかご紹介します。

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同霊園内の池とそれを取り囲

む自然風のランドスケープ。

奥に見えるモニュメントはク

リスチャン・サイエンスの創

設者、メリー・ベーカー・エ

ディの墓です。購入資金に恵

まれた彼女は周りの区画も買

い占め、大変美しい景観を作

り上げました。

同霊園の立派なモニュメント

です。周りを囲む鉄柵は、時

代の嗜好の変化と共にとり払

われほとんどが失われてしま

いましたが、現在ではそのデ

ザインの美しさが再び注目さ

れ、残されたものを保存しよ

うとしています。さびないよ

うにペンキを塗るなど維持が

大変だそうです。

同霊園のガイドブックに掲載

された銅板画です。森のよう

な木立の中の墓は、ロマンチ

ックでメランコリーな雰囲気

を漂わせ、当時の田園墓地の

特徴をよく伝えています。父

親が幼い子供二人を伴ってい

るので、妻の墓なのでしょう。

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次の写真は、ニューヨークのブ

ルックリンにあるグリーン・ウ

ッド霊園です。

ゴシックスタイルの堂々とした

門です。田園墓地のひとつの特

徴は、墓地が塀で囲まれ、この

ように立派な門が造られたこと

です。

同霊園のガイドブックの銅板

画です。広大な敷地が公園の

ように広がっています。

ペンシルヴァニア州フィラ

デルフィアのローレル・ヒ

ル霊園の銅板画です。マウ

ント・オーバーン,グリー

ン・ウッドと共に3大田園

墓地と言われる程良く知れ

渡り、大勢の人々が訪れま

した。門 新古典主義は 様式

です。

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園内では、このように美しい

モニュメントの脇で、ガイド

ブックを見たり、読書をして

瞑想したりする人を見かけた

ことでしょう。墓地は人生を、

死を想い、そのようなロマン

チックな感傷に浸る場所でし

た。これは 19世紀のステレオ

ヴュー(立体写真)です。

同霊園の航空写真です。遠く

に見えるのはフィラデルフィ

アの町で、当時の人々は写真

に映っているスクルキル川を

船で霊園までやってくること

もできました。馬車を使うに

せよ、船で行くにせよ、市街

地からかなり距離が離れてい

ることが分ります。

これは同霊園のガイドブックの銅

板画で、当時船で霊園までやって

来る様子が、ロマンチックな夕日

を背景に描かれています。ところ

で、大富豪が理想の庭園を造ると

いうエドガー・アラン・ポーの「ア

ルンハイムの地所」は、このロー

レル・ヒル霊園をモデルとしたの

では、と私は考えているのですが、

関心ある方は、ここをクリックし

てください。

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霊園内では、このような彫刻を

あちこちに見ることができま

す。まるで、彫刻の森美術館の

ようです。墓地を歩くのが好き

だと言うアメリカ人は結構いる

のですが、このような「美術」

作品を身近に鑑賞できる場所と

して墓地を見ているのです。田

園墓地は、深い悲しみ(grief)

の表象に満ち満ちています。

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写真や銅板画を見ていただくと、田園墓地が植民地時代の墓地といかに異なる景観をつくり出したかご理解いただけたと想います。 田園墓地の特徴についてまとめてみると以下のようになります。

町の中から郊外に移動 英国のランドスケープ・ガーデン(風景庭園)で景観をデザイン 市民の有志による宗派を問わない民間の墓地(市営の墓地もあるが) 家族を単位として区画を販売⇨家族のモニュメント・彫刻が墓地を飾る

アメリカの墓地改革は、広くはヨーロッパの墓地改革の影響を受けて始まったものですが、都市の過密化による墓地問題は当然ヨーロッパやイギリスの方が深刻だった訳です。しかし、古い伝統が支配する旧大陸では墓地改革はそう簡単には進まなかったのですが、古いしがらみのないアメリカ社会では、急速に改革が進められました。 田園墓地は、フランス、パリの墓地改革から生まれたペールラシェーズ墓地をモデルとして造られます。その第一号は、ボストン郊外ケンブリッジにあるマウント・オーバーン霊園です。田園墓地の特徴は、アメリカの墓地史で初めて墓地が、生活に密着した市街地から都市の外れの郊外に移動し、英国式風景庭園、landscape garden にデザインされ(初めて植栽がなされます)、自然風景観のなかの美しい庭園墓地となったことです。現代アメリカ生活の大きな特徴のひとつは郊外生活でありますが、墓地が生者の町に先駆けて最初に郊外に進出いたしました。都市が過密化して市街地の墓地が満杯になってきたことが直接の動機となって田園墓地が造られるのですが、アメリカの場合は都市問題や衛生問題だけが墓地改革を押し進めた訳ではありませんでした。というのも、田園墓地が大成功をおさめて、全米各地の都市がボストンのマウント・オーバーンをまねた田園墓地を造るのですが、当時の人口が1500 人のナイアガラ・フォールズという町でさえ田園墓地を造る訳です。そして地方の田園墓地は声高らかに自分たちの霊園はマウント・オーバーンに勝ると宣言するのです。立派な墓地を造ることが、一つのお国自慢となるのですね。文明化された町だということの印になるわけです。 田園墓地の特徴をもう一度繰り返せば、郊外に造られたこと、周りを塀で囲い、霊園のケアをする墓地監督者を置いたこと、街の有力者が中心となり共同出資をした主に非営利の組合が運営すること、宗派に関わらない墓地としたこと、造園家を雇って園内を英国風景庭園にデザインしたこと、家族の区画が生前に販売され、そのために墓を記念碑や彫刻で飾るようになったことなどです。つまり、埋葬の必要が生じる前の購入、pre-use の販売がここから始まります。それによって、とても重要なことなのですが、

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墓地に所有の概念が持ち込まれます。墓地改革の当初の意図は、墓地が教会や町の運営であると、町の発展とともに移動させられてしまうことが多々あり、それを防ぐ大変巧妙な方法として墓地の私有化が考えられたのです。つまり、共有地であると公共のニーズが優先されて、学校や商業施設の建設のために、墓地がつぶされることが起こる訳ですが、墓地所有者から成る私有地であれば、その心配がないと言う訳です。しかし、それが原因でその後の墓地が投機の対象となり、墓地の商業化へと道を開いてしまうことにもなります。 さて、この新しい庭園墓地はたちまちのうちに評判となり、観光名所として大勢の人々が押し寄せるようになり、ガイドブックも発売されました。先ほどお見せした銅板画はそのようなガイドブックからとったものです。 こうして墓地が一大ブームとなります。なぜ、田園墓地がこのように成功したかと言いますと、当時の人々の文化的関心を巧みに反映した空間であったということが上げられます。マウント.オーバーンはもともと当時のもうひとつのブームであった園芸協会との共同事業として設立され、協会の実験庭園も兼ねていました。設立者が全員園芸協会の会員だったのです。ですので、園内に植えられた植物には名札がつけられます。今では植物に名札がつけられている光景は植物園や公園などでよく見かけますが、マウント・オーバーンはそのようなもっとも初期の試みのひとつでした。また、地元の植物や木が積極的に植えられました。当時、植物学への関心が広まりつつあったこともその理由のひとつです。植物学は、素人でも比較的簡単に始められる学問で、散歩やピクニックなどの野外活動に関心を持ち始めた中産階級の人々の趣味にもよくあいました。こうして、田園墓地は、都市公園、彫刻の森美術館、植物園、森林公園などの役割を、それらが実際に都市にできる前に担った重要な公共空間となっていきます。当時台頭しつつあった中産階級の人々を中心として、上流階級も含めた大勢の人々に楽しみを与える多機能空間だったことが、田園墓地を文化的にも、商業的にも成功させた原因でした。 ここで指摘したい重要なことは、このような公共施設が成功を収めるためには、上流階級も含め、社会的に影響力のあるエリート層の支持を得ることが鍵であったことです。田園墓地は、そのような町の有志によって造られた墓地ですから、彼らの趣味にあった墓園となりました。しかし、ニューヨーク市の場合は、田園墓地の成功にあやかって市自らが墓地改革を行うのですが、結局上流階級の支持を得られず(彼らへの販売が思わしくなく)成功しませんでした(詳しくは、拙著『アメリカ田園墓地の研究』をご覧下さい)。 では、彼らの趣味にあった墓園を造るには何が必要かと言えば、園内を高い美の基準をもって本格的にデザインすることでした。有名な田園墓地では、設計案を募集してもっとも優れた案を採用するなどデザインを重視しその設計者の名前もきちんと記録されています。当代随一の設計家・造園家が墓地のデザインをしているのです。遺体を納

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める墓地の機能を第一優先として墓地全体のデザインには注意を払わない日本の墓地とはだいぶ状況が違います。 田園墓地が誕生した背景には、アメリカ社会の急激な変化がありました。田園墓地が急速に広がった時代は、産業社会の出現によって崩れつつ合った伝統的な家族の形に代わるさまざまな形態が模索された時代でした。例えば神秘主義的セクトのシェーカーは独身主義、モルモン教は一夫多妻、ユートピア的宗教団体であるオナイダのパーフェクショニストは「共有婚」を取入れました。田園墓地も変化する社会のなかで、新しい家族の絆を強化する試みと見ることもできます。田園墓地の設立者の多くは、ニューイングランドの田舎から両親や兄弟を故郷に残し、ボストンなどの大都会にやってきた人たちです。彼らは、希薄になった家族の絆を、墓地を通じてもう一度強化することができたのです。父親が、故郷にいる両親も、未婚の姉妹さえ埋葬できるような広い墓地を家族のため、子孫のために買い、そこに家族の記念碑まで立てることができたら、父親の威信は大いに高められたのではないでしょうか。田園墓地を買った家族は変化する社会のなかでここだけは理想の家族の姿がそのまま変化せずに保たれることを願ったのです。 そのような訳で、田園墓地にはきわめて新しい側面と、古い側面とが混在して存在しているのです。墓地が死体だけでなく、古き良き時代の価値観、社会から急速に消えつつあった精神を温存する場所だったのです。それはディズニーランドの成功にも共通することで、ディズニーランドには古きよきアメリカの姿が永久保存され、それがアメリカ人の心をとらえているのです。墓地も遊園地も、本来の機能・役割を越えた価値を有しているのです。

亡くなった妻のために夫が造らせた墓。仕事に

行く夫を見送る妻の日常風景が彫られている。

ニューヨーク、グリーン・ウッド霊園

孫娘といっしょにダンスをする彫刻。

ニューヨーク、グリーン・ウッド霊園

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上の写真は、左下の写真を除いてすべてマウント・オーバーン霊園で撮影したものです。左上の写真は、

門から入ってすぐの右手にありました。自動車で園内を回ろうとしたときに、土の中から少女の胴体がで

ているのに気づきました。右上の写真は、ガラスケースの中に入った犬の彫刻で、家族の飼い犬だったの

でしょう。これは、マウント・オーバーンでは有名な彫刻で、広い園内の中で捜すのに苦労します。右下

は、ゆりかごの彫刻で、そこに眠っているべき赤ちゃんが不在であることが、悲しみをさらに深いものに

しています。枕にはくぼみも再現され、今そこに眠っていたかのような雰囲気を表現しています。このよ

うな空の家具(empty furniture)は、メモリアル彫刻によく見られ、不在が強調されています。左下は、

シンシナティのスプリング・グローヴ霊園で園内散策中にたまたま出会った、薮から顔を出す男の子の彫

刻です。ここに来れば失った我が子に会えるという願いが込められているのでしょうか。日本人には果た

して、このようなセンチメントは理解できるでしょうか。

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田園墓地の普及:東海岸 → 中西部 → 西海岸 新しい墓地モデルが東から西へと移動するなかで、庭園墓地から公園墓地へと変

化していきます。 1830 年代に東部に始まった墓地の改革・美化運動であった田園墓地はナショナルモデルとして、東海岸から西に広がっていきます。東から西へと移動する中で、景観が変化し、木のうっそうと茂ったメランコリーな風景から、明るい、開放空間が特徴の公園墓地へと変化していきます。それは、地形的な変化によるものと、時代ととともに人々の嗜好が変化する時間的経過と両方の原因があると思われます。ゲリー・ウィルズというアメリカの有名な著述家、歴史家は彼の著作『リンカーンの3分間』の中で1章を19 世紀の死の文化に当てていますが、彼はこの変化を単に平坦な西部という地形的なものが原因であって、本質的なものではないと見ていますが、私はその変化はより大きな文化的・社会的文脈のなかで生じたものと考えています。それを明らかにするために、スプリング・グローヴの革新的な発想として3つの要素に注目しました。沼地の処理、墓地を囲むフェンスの除去と墓石の高さ制限、風景を統一するオーガナイザーとしての芝です。沼もフェンスも芝もそれぞれが物理的存在以上に象徴的な意味をもっていることが重要です。 まず、沼地の問題から見ていきたいと思います。スプリング・グローヴ霊園は1845年に中西部のオハイオ州シンシナティ市に設立されますが、当時シンシナティは全米で第6位の大都市として急成長を遂げていました。シンシナティは文化都市を目指す際に東部のボストンを模範としました。スプリング・グローヴ霊園もボストンのマウント・オーバーン霊園を直接のモデルとして設立されました。しかし、スプリング・グローヴの問題は、敷地の三分の一を沼地が占めていることでした。この沼地は設計を依頼された東部の有名な田園墓地設計家も、地元の造園家もデザインに取り込むことができませんでした。これを成功させたのはヨーロッパで造園の修行を積んだプロシア出身のランドスケープ・デザイナー、アドルフ・ストラウフ(1822-83)でした。ストラウフはアメリカへ見聞旅行に訪れた折にたまたまシンシナティに立ち寄ったことが縁で、スプリング・グローヴ霊園の監督となり、28 年間さまざまな改良を行い、現代墓地のプロトタイプとなるような画期的なプランを実行しました。まず彼は、それまで家畜の放牧地となっていた沼地から家畜を追放し、そこに複数の池をつくりました。小さな島や深い入り江など目の錯角を利用した効果的な景観設計を行い、噴水や水鳥などで水の浄化を狙った科学的なアプローチなど斬新な手法を駆使し、醜い沼地を「霊園のなかでもっとも美しい場所」に変貌させたのです。しかも、美しい景観の創出によって、池の周りの墓地区画の土地が値上がりし、高い値段で売却されたために、財政的にも大成功を収めま

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した。 次に、ストラウフが取り組んだことは、墓地を取り囲む塀と個人の墓地の周りに設置

されたフェンスの改革でした。田園墓地において墓地を取り囲む塀やフェンスは重要な意味があります。そもそも墓地を郊外に移動させると死体泥棒などに荒らされる心配を払拭するために、田園墓地では、それまでの墓地とは異なり周りを柵で囲み、墓地の管理人を常駐させることにしたのです。柵は、安全で管理が行き届いた田園墓地のシンボルであり、そのなかでピクチャレスクな景観を展開させる枠組みの役割も果たしました。 また、田園墓地は先ほども申し上げたように墓園として永久に存続できるように、

墓地を個人が所有する方法を採用しました。墓地はまず囲まれ聖化されました。柵は、墓地に所有の概念が持ち込まれたことの象徴でもあったのです。墓地を所有する個々の家族も自分達の墓地区画のまわりに鉄柵を設けるようになり、二重の柵が象徴的に存在するようになります。 ストラウフがまず行ったことは、霊園を取り囲むこのような「醜い」柵や塀を取り

去り、暗く陰気であった入り口からのドライヴウェイを明るい雰囲気にしました。アメリカの墓地はヨーロッパと異なり、周りに高い柵を設けないのが特徴となっていますが、これは、住宅地においても同様であり、オープンな空間演出を好む伝統と言ってもよいでしょう。 園内の埋葬地にも問題がありました。レイアウトは計画的でなく数千人もの墓地所

有者たちがそれぞれ思い思いの好みで墓を飾っていたましたので、「醜い」生け垣や鉄の柵が溢れ、多くの記念碑が林立するようになりました。このような自由放任からくる雑然とした状態からいかに調和を得るか、それが、ストラウフが取り組んだ一番の課題だったのです。まず、園内の鉄柵や生け垣などを一切禁じました。家族の区画は記念碑を一つとし、それ以外の墓石は芝刈りの邪魔にならないように地面より数インチの高さとしました。墓地の装飾・美化のすべてを墓地監督者の管理下に置き監督者の許可なくしていかなる記念碑も建てられないことにしました。このように景観の視覚的統一を達成するために墓地区画の私有財産にまで干渉するシステムをつくりあげたのです。このようにしてスプリング・グローヴは霊園を囲む柵に改善を加える一方、個々の墓地の鉄柵を取り払い近代的な墓地のモデルとなりました。アメリカでは、個人の住宅地であってもさまざまな工夫をして景観等の規制を設けていますが、墓地の場合は、死人に口無しということもあり、所有者の抵抗はあったものの、大胆な実験ができたのではないでしょうか。 さて、19 世紀のハドソン・リヴァー派と呼ばれるピクチャレスクな風景絵画においても、雑多な細部を統合し「全体的効果」を生みだすことが重要でありその役割を担ったのが光と大気でした(拙訳『自然と文化̶アメリカの風景と絵画1825-1875』をご参照下さい)。ストラウフの景観で全体を統一する重要な要素は何だったのでしょうか。

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それは、20世紀アメリカの景観のもっとも特徴的な要素となる芝生であると私は考えています。ストラウフが行った墓地景観の革命は、記念碑や墓石やその他の障害 景(物観設計にとっての)を可能な限り取り除き、広々とした明るい開放空間を設けることでしたが、そのために不可欠だったものが広々とした芝生でした。芝生は雑然とした景観に統一感を与えることに貢献したからです。ストラウフ自身も、これを「景観芝生プラン」と呼んでいます。スプリング・グローヴ以後、景観芝生プランは近代的な墓地景観のモデルとして広く普及していきます。 19 世紀後半はアメリカの裕福な住宅のまわりに芝生が現れ、これが 20 世紀になる

とフロント・ロ-ンと呼ばれる芝生の前庭をもった中産階級の典型的な住宅形式となりますが、芝生がアメリカ文化の重要な要素として裕福な家に登場したのがこの時期でした。芝生は富と趣味のよさを誇示するための媒体となっていきます。芝は元来家畜の餌として植えられていたものですから、家畜が勝手に出入りしないように柵が必要だったわけです。芝生から柵を取り外したことは、家畜を飼うためでなく、非実利的な目的のために芝生が使われ始めたことを示しています。この変化を端的に示しているのがまさにスプリング・グローヴであり、前述したように沼地の草地から家畜を追い出し、柵も取り除かれ、柵のない広々とした芝生を造りあげました。このような芝生の処理こそが、富と洗練された文明を表す記号となったと解釈できます。 このように文化的意味を付加された芝生は、気候的に不適切な乾燥したカリフォル

ニアにも、文化の証として無条件で移植されていきます。そのような芝生への強い執着が設計上の大きな障害となり、後述するように、カリフォルニアの景観の設計依頼をされたフレデリック・ロー・オルムステッド(セントラル・パークを設計した著名な設計家)と依頼主との間の大きな争点となりました。(この点に関心のある方は、拙論をご覧下さい) スプリング・グローヴ霊園に話を戻しますと、造園監督シュトラフが目指したことは、墓地が墓地として永遠に存続するためには、そこを壊すことがはばかれるような類い稀な美を創造しなくてはならない、ということでした。墓地を野外美術館に、というのがこの霊園のスローガンとなりました。そのお陰で、現在でも園内は大変美しい景観が維持されています。スプリング・グローヴは、1900 年のパリ国際博覧会 (Paris International Exposition) でアメリカのもっとも優れた景観デザインとして金賞を受賞します。19 世紀後半を通じてスプリング・グローヴは墓園、都市公園、郊外住宅地の模範となります。アメリカの公共空間を考える上でこの霊園の重要性は、園内を美しく保つためのシステムを作ったということにあります。芝生は何センチ以上生やさない、作業員には制服を着せる、作業は決められた時間内に行い、いつも作業中である印象をもたせないなど、ディズニーランドにつながるような、徹底した維持・管理システムを造り上げました。

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では,以下スプリング・グローヴの写真を見ていただこうと思います。まずは、古い図版と写真を二枚。上の写真は、まるで自然の風景と一体化しているような景観です。下の写真は、当時の人々がまるで公園を訪れているように、景色を楽しみながらそぞろ歩く様子がよくとらえられています。

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次に現在の様子を見ていただきましょう。 まず、正面の門から園内に入った所の景観です。上の写真のトンネルは、その上をかつて鉄道が走っていた名残りです。鉄道によって市街地からアクセスしやすくなりましたが、その姿は隠すような工夫がなされています。そこのトンネルまで、墓石は何も見えません。その下の写真は、トンネルを越えて目の前に開けた景観ですが、モニュメントがぽつりぽつりと立っているだけで、まるで公園のような景観が広がっています。

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左の上下二つの写真は、入り口近

くの池の風景です。沼地が改良さ

れて美しい水辺が造られました。

最初にお見せしたガイドブックの

池は、この池です。池の中の小島

のひとつに、この霊園の設計者、

アドルフ・ストラウフが埋葬され

ています。

園内を進んでいくと、このよ

うな景観が現れます。モニュ

メントだけで墓石があまり見

えません。まるで、公園のよ

うです。園内はとても広いの

で自動車でないと回りきれま

せんし、道が蛇行しているの

で自動車でも迷子になりやす

いです。

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このように、スプリング・グローヴ霊園の景観は、都市公園や郊外住宅地などの近代的公共空間のモデルとなっていきます。実際に、墓地が郊外住宅地の原型となったのではないかと推測している研究者もいます。 ジョン・F・シアーズ(John F. Sears)によると、田園墓地は家族の区画のまわりを縁石で囲って前面には家族の名前が表示され、それがアヴェニューと呼ばれる園路に面しているのですが、そのようなアレンジが何とも当時のエレガントな郊外住宅を思い起こさせるというのですね。アヴェニューの名前も、ウィロー・アヴェニューとか、マグノリア・アヴェニュー、サイプロス・アヴェニューなど、植物の名前がつけられ、何か洗練された雰囲気になっています。通りにその

こちらの写真のような景観とよく

似ていませんか?これは、シカゴ

郊外のリバーサイドと呼ばれる郊

外住宅地で、19 世紀後半にオルム

ステッドが設計した有名な郊外住

宅地です。

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ような名前を付けることは新しい習慣で、このような命名はその後郊外住宅地に多く採用されていきます。 では、いままでの話の流れをまとめてみたいと思います。

墓地の商業化への流れ 19 世紀後半ともなりますと、人々の墓地への関心が薄れ、郊外の広大な敷地の田園墓地も市街地の発展にさらされるようなり、墓石が乱立して当初の景観とは大分異なる醜い姿をさらし始めます。最初は郊外であったものが、拡大する市街地に取り込まれてしまい、墓地がさらに遠くの地に移動させられることもたびたび起こるようになりました。墓地がますますビジネスの対象としてとらえられるようになり、投機対象の墓地が多く造られ始めます。墓地が文化的な価値を失い、墓地の商業化が押し進められる時代の始まりです。

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田園墓地はさらに西に進んでカリフォルニアに到達します。上の写真を見てください。これは、田園墓地の西漸運動の終着点を大変よく象徴していると思います。これは、海岸に捨てられた墓石なのです。サンフランシスコの市街地にあったローレル・ヒル霊園が街の発展によって、死者の街コーマに引越を余儀なくされるのですが、その時にすべてが掘り起こされ、墓石は壊されてサンフランシスコのビーチに捨てられました。美しいマウント・オーバーン霊園から何という変貌ぶりでしょうか。こうして、サンフランシスコでは、19 世紀のゴールドラッシュから始まったすべての墓地が 20 世紀前半に市街地から一掃させられてしまいます。人類史上まれに見る大規模な死者の大移動といえるでしょう。 大潮になると、潮が引いたサンフランシスコの海岸に捨てられた墓石が現れると言います。何とも、おぞましい風景ではないかと思います。そのような墓地の運命に共感したからでしょうか、破壊されたモニュメントや霊廟の一部を集めて、小さな記念公園が造られていました。サンフランシスコのヨットハーバーから海に突き出た細い道をたどっていくと、先端に古代の廃墟と思われるような場所が突如現れます。「波のオルガン」(Wave Organ)と名づけられた公園で、私が訪れたときは他に誰もいませんでした。

(SW LaBounty (Christine Slinkey); San

Francisco Daily News (Cemeteries in the

1930s); Courtesy of the San Francisco

Public Library, (monuments dumped at

Ocean Beach 1944).

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これで、田園墓地から始まった墓地と人々との親密な関係も劇的に終わりを告げるわけです。つぎに登場するのが、ここカリフォルニアで生まれたきわめてユニークなフォレスト・ローン・メモリアル・パークです。この墓地の説明をする前に、これまでの墓地の変化についてまとめておきたいと思います。

1830 年台に登場した田園墓地はアメリカの墓地史上重要な墓地であると申し上げました。その理由を上にまとめました。田園墓地がアメリカの墓地史にもたらした大きな変化は、墓地設立の動機を拡大したことにあります。どういうことかと申しますと、墓地は必要性から造られるもので、死者がでたときに、遺体を何らかの形で処理する必要性がその動機と成っています。この必要性に、二つの新たな動機が加わりました。ひとつは、審美的なもの、つまり美しい景観をつくりたいという欲求,もうひとつは、利益をあげたいという金銭的な動機です。美しい景観をつくることが強い動機であったことはすでに見てきました。19世紀後半ともなりますと、成功した墓地の「競争相手」が次々に生まれてきます。都市公園や森林公園、コミュニティーガーデンなどです。これも田園墓地が忘れられていく原因となります。そして、もうひとつの動機である、墓地の商業化が進んでいきます。新しいタイプの墓地は,もっとも効率的、合理的に設計され、規模も田園墓地に比べると、小さくなっていきます。小さければ、アクセスもよくなりますから、利用者は利用しやすくなるからです。景観はより公園風になっていきます。墓地の経営陣がビジネス界から移ってくるようになります。不動産と保険業界です。彼らは広告を使って墓地販売を宣伝するようになります。

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このような墓地の商業化で大成功を収めたのが、ロサンゼルス郊外に設立されたフォレスト・ローン・メモリアル・パークです。この墓地は、1917 年にロバート・イートンという鉱山の仕事に関わっていた人物が責任者となって、破綻寸前であった墓地を再建します。 墓地の西漸運動の最終地カリフォルニアで誕生したこの大変ユニークな墓地は、アメリカの墓地史上重要な3番目の墓地のタイプとなります。フォレスト・ローン・メモリアル・パークでは、死 せさ想連を るものをすべて取払い、死体や遺体と言わずに、

.rM「 誰々」と言い、亡くなったと言わずに、「He is taking a leave」(休暇 とを、るいてっ 死んだと言う意味にも使われている)などと言うことをセールス・トークのし底徹で中 ます。墓石はもはや芝刈りの邪魔とはならず、芝の中に埋め込むプレート方まりなに式 した。

では、初めにフォレスト・ローン・メモリアル・パークの写真を見ていただきましょう。

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車で園内に入ると、このような景観が広がっています。墓地とわかるようなものはまったく見当たりません。でも、よく注意してみると、芝の中にプレートが埋まっているのがわかるでしょう。

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左の写真は、アメリカ独立宣言書に署名をする場面を描いたジョン・トランブル作の有名な絵のレプリカ。下の建物は、ワシントンが住み、最後を迎えたヴァージニア州アレキサンドリアのマウント・ヴァーノンの家を模したもの。これらの二つの写真を撮影した、ハリウッドヒルに新たに設立されたフォレスト・ローンではアメリカの建国の歴史がひとつのテーマになっています。

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メインの霊園グランデールに

は、ダビデ像のコピーがあり、

立派な博物館もあります。そ

の中に、最後の晩餐のステン

ドグラスがあります。下のピ

エタ像のように、ミケランジ

ェロの有名な作品のコピーが

館内に置かれています。これ

らすべて、莫大な費用をかけ

て、イタリアで制作させたも

のです。

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フォレスト・ローン・メモリアル・パークがアメリカの墓地史上重要であるのは、田園墓地が打ち立てた墓地は陰気な場所ではないという考え方を再度20世紀になって強調したことにあります。19 世紀よりさらに徹底して墓地を明るい場所にしただけではありません。ビジネスとして非常に大きな成功を収めるのですが、それは葬儀サーヴィスや花屋などこれまで墓地販売とは切り離されていたものをすべて取り込んだ総合サーヴィスを展開して大きな利益を得ることに成功したからです。葬儀関係団体との訴訟を繰り返しながら、様々な困難を克服して一本化を果たしました。墓地のディズニーランドと言われるようなテーマ化された、ちょっと派手な墓地です。イギリス人の小説家イヴリン・ウォーによって、死をもビジネスにするアメリカ人を皮肉ったブラックユーモア小説『The Loved One』のモデルとなった霊園です。さまざまな評価がありますが、葬儀産業においてひとつのビジネスモデルを確立したことには間違いありません。 フォレスト・ローン・メモリアル・パークが求めた墓地のあり方で指摘しておきたいことがあります。一つは、単に遺体を納める墓地の存在を超えて文化施設となることを目指したことです。墓地は放っておくと消えてしまうわけでなく、醜い姿を曝して人々に不快感を与える施設になります。そうならないように、立派な文化的資産となるべきであるという考え方の元、園内にはダビデ像などの彫刻があり、実際に立派なミュージアムもあって、そこには有名なミケランジェロのピエタの像やダビンチの最後の晩餐がステンドグラスになっています。いずれも、当然のことながらコピーしたものですが、単なる模造品ではなく莫大な費用をかけてイタリアで制作されたことがパンフレット等で強調されています。海外に行かずとも、ここにくれば、イタリアの傑作が見られるというのが設立当時のうたい文句でした。やや極端な展開のように思われるかもしれませんが、墓地を野外美術館にしよとしたスプリング・グローヴの考え方につながるものであることを心に留めてください。 もう一つ指摘しておきたいことは、墓地を共同体に奉仕する施設として、田園墓地以来再度位置づけようとしていることです。イースターやクリスマスの催しなどで、近隣の家族がやってきて楽しむための場にしたいという意図が設立の背後にあるのです。フォレスト・ローンは、ある意味奇抜なアイディアで人を驚かせるところのある墓地ですが、このような保守的な価値観を柱にたてているのです。100 年前のマウント・オーバーンや、フォレスト・ローンからさらに30年経って誕生するディズニーランドにも言えることなのですが、私設の公共空間の中に伝統的な家族の絆など保守的なイデオロギー、あるいはそうありたいという願い・夢が訴求され、それが商業的に大成功を収めるひとつの要因となっているのです。 今まで、3つの重要な墓地を見てきましたが、どれにも共通して言えることは、成功した要因として、当時の人々の社会的・文化的ニーズを旨く取り入れていること、斬新なアイディアとともに、家族や共同体の古い価値観を温存する場であること、単なる墓

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地を超えた文化的施設を目指した多元的、多機能な空間だったということが言えると思います。墓地であるにもかかわらず、結婚式すら行われる場所になったことに多機能空間としてのアメリカの墓地の特徴がよく現れていると思います。フォレスト・ローンでは、今まで7万組以上の結婚式が執り行われたと HP では宣伝されています。

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今から 180 年前の墓地改革で誕生した新しいタイプの田園墓地によって新たにもたらされ、現在に継続されているアメリカの墓地の特徴はとても単純な二つの言葉に要約できると思います。

まず、墓地が市街地から郊外へと移動するときに、自然の豊かな地が選ばれ、自然をもっともよく生かした風景庭園でデザインされたことがあげられます。最初は、木のうっそうと茂ったメランコリーな森のような景観が好まれましたが、徐々により明るい開放空間が好まれるようになったことを見てきました。その過程で、自然はより扱いやすい芝生と水に抽象化されましたが、その伝統は墓地ばかりでなく、アメリカ式生活様式に特徴的な景観としてずっと引き継がれています。 アメリカ人が自然環境を好むことは、アメリカ人の圧倒的多数が郊外住宅地に住んでいることや、原生自然をそのまま保護する国立公園を世界に先駆けて「発明」した事実にはっきりと現れています。より注意をして見れば、思いもかけないところに、アメリカ人の自然志向を見ることができます。たとえば、建築雑誌を広げてみると、広々としたオープンスペースの大きなヴューウィンドウの外に大自然が広がっていることが多々あることに気づくでしょう。

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ゼミ生が冷蔵庫の広告分析をしたときに読んだアメリカ人建築史家が書いた論文に、アメリカの台所の窓の外には大自然が広がっているという文章がありました。確かに、気をつけて見ると、住宅のモデルプランや、広告にそのような例を多く見つけることができます。 多機能空間ということでは、墓地が野外博物館、美術館、植物園、森林公園などさまざまな機能を付加されて、墓地を超えた存在であったことを見てきました。 最後に、田園墓地から現代のパーク型墓地がもたらしたひとつの問題点をあげて、アメリカの墓地の問題を終了して、葬儀の話に移りたいと思います。それは、田園墓地の墓地改革により、墓地に所有の概念が持ち込まれ、共同墓地が満杯になれば、墓をリサイクルして使う究極の人間リサイクル文化から、死者の数だけ墓が水平方向に無限に広

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がる自己の不滅化文化への移行であります。これが今日の、葬儀、墓地のあり方の根底にある問題であります。この点については、葬儀のお話の最後に再び取りあげたいと思います。