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八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

Sep 28, 2020

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月  揃

 

 

作者

は柳亭種彦

「好色

本目録」

によれば、京都東

の僭

、貞享

四年

「好色破邪顯正

」を出

して好色本

の流行を難

じた人で、井原西鶴

の門人

の励號を白眼居

士と

いふ北條團水

とは全く別人で

あるが、後

に書肆

のさ

かしらで團冰作

入木した書

まであると

いふ。

 こ

の書は貴

人から庶人

に至

るまで

、當時

の正月

の風

俗脅慣

をみ、更

に正月

の意味をび

いてそ

の始

め起原來由を和漢

の古典を引用して書

いたも

ので

、當時

の風俗脅慣を傳

ふるよりも、その滑革

を敍す

ることに力を入れてゐる。併し公

、武家、僧侶、諸職

、商

人、百姓等

に關す

るも

の三十

五種、そ

の被

服、調度

、持物等

に至

るまで仔

細に檢す

れば

風俗研鑚

の助

とな

るも

のが多

い。

 錦

 寶

永.三

錦文

洗は西澤

一風

、都

の錦

、月尋堂

、北條

團水等

と共

に、西鶴

の各方面をそれみ\

に傳

へて.江島其磧

の代表する

八交字屋本

への時期を繋

いだ作者

一人で、大阪座摩

の邊

に佳

み、俳諧を西鶴

に學び錦

頂子と

ふ。「風洗今条

好」

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「棠

大門屋敷

」っ當

世乙女織

」「好色手柄咄し等

の小設

を作り、また淨瑠璃

「本海道虎石し等數種あ

つて、櫻塚西

吟、西

一風

と共に淨瑠璃

三傑

と呼ばれた。

未だそ

の傳記

の詳

しきを得な

い。

 ・熊

谷女編笠しはそ

の序

いふ如く

、寶永

三年六月七日京都立賣堀

にあ

つた女

の敵討

一件

に趣向をとり

、秋に至

つて

出版した際物

小設で、卑

猥な文字

は弄しながらも

その教訓

ぷり

はやΣ眞面目らしく見え、淨瑠璃

の手法

を以

て、寫實

を離れ屡

々陳套な七五調を用

ひ、「堀江川

のほたる狩りし(卷之

二、第三)

に鬘

をかけて女

に化

けた男があ

る夜取

り違

て婆

の鬘

をかけた爲

めに見現はされる條等

の如く.如

何にも低級な讃者

の笑を求

めた。

 只西

鶴を繼承した淨世草

に新機軸

を出さう

とした苦

心は、巷談を潤色

して

一編

を通

じた趣向を立

てさ

せ、こ

ゝに

太平

の世に珍

らし

い女

の敵討を脚色し

てその始末を詳しく書

のであ

つたQ又

この事件

を扱

つたも

のに、これと時を

同じくし

て出

た森本東烏

「京縫鎖帷子

」があり、「熊谷女編笠

」にもよ

つた跡

の見

える近松

の淨瑠璃

「堀河波鼓

」が

るQ

 こ

の書寛政

九年再版

された。

夜  船

 

  正

二年

 作者北條團水

一に鳳城團粹

と亀書く。また平元子、橘堂

、滑稽堂

と號し、薙髮

して白眼居

士と稱

した。京都

一條

堀川

の人、元來俳諧

を以

て立ち

、西鶴

を師

とし、椎本才麿

にも從

つた。元隷

六年八月西鶴

の歿後

、兩替町通

一一條

上ル

の居

を移

して、浪花な

る西鶴

の草庵を守り西鶴菴

と稱し、居るこ

と七年京都

に歸

つて東洞院

に住み、寶永

八年正月

四日四十

九歳

にて歿

した。「俳諧家譜

「一生涯清貧

之人也」

とある。著

はす

ところ、俳書

に「團袋

」「特牛」「彌之

一2一

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助」「秋津島し「塗笠し等があり,叉西

鶴の「武道傳來記し「日本永代藏

」を踏襲

した

「新武道傳來記」「日本新永代藏

」及び

「聲夜用心記」等があ

る。「誹家大系岡

」にこの

「一夜船しを

「團水ノ名ア

レト

モ別入ナリ」

とあるが、今遽

に從

ひが

い。

 

「一夜船しは奇事異聞

の集録で

、か

」る奇異を設

き妖怪

を語

るも

のは、既

に寛

文六年支那

「剪燈新話」を拔粹飜

案した

「伽婢子」が、淺井了意

によ

つて平易暢逹な文章

とな

つて世

に流行

して以來正徳享保に至

るまで、こ

の作

に倣

.

つて書名

を擬

するも

の十餘種

、貞享

ご年

「宗祗諸國物語」、井原西鶴

のっ近年諸國咄、大下馬

」、元祿

四年

に淺井

了意

「狗張子」、同五年に俳林子

「諸國新百物語」、同十

一年

に羅山子

「怪談全書」、寶

永三年に青木鷺水

「御伽百物

語」等を續

出せしめ、藝苑

に怪異

談の

一系統

をみるに至

つた。「一夜船

しの作者が

この怪異談に筆

を取

つた

のも、かう

した當代

の交藝

の向

ふところに影響

され

てゐる

と同時

に、時代

の好尚に投

じたも

のと見られ

る。

しかもそ

の師西

鶴が

既にこ

一般

の風尚

に從

つて、『大下馬」「近代艶隱者」「懐硯」等を著はしてゐることも見逃

してはならな

い。團水が

の寄

事異聞

を蒐集

して冊子

となす

に至

った過程

には、彼が最も親炙

した西鶴

「大下馬

」の影響

が著しか

つた。「大

下馬

」は

一人族

して諸國

の怪異談を聞く形式

のも

の.て、こ

の形式

のも

ので

は、天文年間

に出來た

とされる江州

々木

屋形

の幕

下中村豐前守某

の撰す

「奇異難談」、これ

につ黛いて

「宗祗諸國物語

」が早か

つた。,

 

「一夜船

」も

の序

いへる如

く、京

より大阪

への乘合船…の申

にて關東

關西

の乘合

の見聞

にふるゝ咄を書付

けたとい

ふ形式で

、享保十

一年

「怪談諸國物語

しと改題

された如

く、放を背景

とし諸國物

の形式

を追

つたも

のである。併

怪談

とあ

つても全部が

いふところ

の怪談

てはな

い。五卷二十七話

の中怪談とみるべきも

のは僅

か四話

のみで

、他

は巷

談であ

る。尤も前者

は超自然分子を作者

の想像

に任

せて、幾分強烈なも

のとし讀者

の感興をそ

丶る如く描かれてゐる

のを

のみ

いふので

、後者

にあ

つても奇怪な妖惑

の光を描き出さう

と七てゐるも

のも交

?てゐ

る。巷談

とするも

のゝ

一3

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6

多くば全く道路

の噂で從來

のも

のに散見す

るところのも

ので

はあるが、幾分人間

の丙的生活

と關係を持

たしぬ、「鬼

詐到

まちく

」に心

の鬼

にさ

いな

まる

Σ話等

は、心理的迷妄を巳然

に取扱

つてゐ

るし、更

に洒落た筆法で淨世草紙

世界

の好話柄

として感興深く讀ま

る」佳什

「月夜

の高坊主」等

もみち

れる。

 怪談

の方面

に於

いてもそ

の取材は、矢

張り從來

のものから餘り距

つてゐな

い。そして非現實的傾向

のものをも誠

しやかに傳

へんとして、支那

の典籍

を索

め引

いたり、「詞

をかはせし磔女

の亡魂

の話

の條

に幽靈論をなしたりしてゐ

るが、肝腎

の修辭的用意を若干欠

いてゐ

るために、文字

から享

ける印象は陰森な情

趣をそぐものがあ

る。只

この種

○.て錯覺幻覺

を巧

に描

いて悽愴昧

のあ

ふれ

てゐ

るも

のは、「梅田香之助發

心の事」

}篇であ

らう。

 

併しか

ゝる妖怪談

を以

てその集

の本領

としたも

ので

はな

い。彼

は只

この世

の奇事異聞

を珍ら

しい話として傳

へれ

ぽ足りるとした。

その意味

に於

いてまた彼獨得

の妙昧を認

めることが出來る。

傾城色

三味線

五 冊

其積

元祿十五年刊

 「傾

城色

三昧線」

には奥附

「ふ

や町

せいくはんじ下

ル町

八文字屋八左衞門板」とのみあ

つて、作者

の暑名

はな

いが

正徳

ご年板

.野傾族葛籠

し、同四年板

「役者

目利講

」に於

いて、其磧自ら

その作であ

ることを吹聽し

てみる。八文字屋

八左衞門

、其磧

は所謂八文字屋本

の代表者で、八文字屋八左衞門

は自笑

と稱し、京都麩屋町

に書肆

を營み。其磧を

て役者詐判記

、淨世草紙等を著

はさしめ、自分

の名で出版してゐた。自笑

にも相當

な創作

の才はあ

つたやう

に思はれ

るけれども、其磧

が主な

る作者であ

つた。

、其殯

は通稱江島屋市郎左衞門、先祀より京極

通誓願寺前

に大佛餅を商

ひ富裕であ

つたが、後業

を轉じ誓願寺通柳馬

『4

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に移

った。若

年の頃放蕩

をつくし産を傾け、文章

の才ある

にまか

せ其

の友自笑

に囑せられ

、元祿十ご年

「役者

ロ三

昧線」

を出版

し、頗

る好評を得

て八文字屋專

の作者

にな

つたが、未だそ

の名を掲げなかつた。

そし

「傾

城色

三昧

」「風

流曲

三味線

丶傾城禁短氣

」等を著

はし漸く入文字屋本

の盛行をみるや、そ

の待遇

に不滿を懐奇、、自笑

と紛

爭し

て八文字屋

と分離す

るに至

った。それは作者とし

て其積

の名を署

せしめよと

いふ

のであ

るが、實は利釜問題

が主な

由.てあ

つたらし

い。そ

こで其磧はそ

の子

に書肆江島屋

を開業

させ、互

に反駁競爭

したが八文字屋

の肚會

に得

てゐた本

とし

ての信用には對立

が出來ず、叉自笑

その爭

の不利なるを悟

つた

の.て、享保四年正月には邃

に和解

がな

つて、

「役者金化粧」を蓮名を以

て出した。それ以後は其磧

の作

品も自笑

、其磧

の逋名

になつてゐる◎蓮署

には作者

目笑

、作

者其磧

とな

つてゐ

るも

のもあり、或は前後

てゐるも

のもあり、何れが本

の作者

か到定が

つかぬが、其磧

一人

の著

に成

つたも

のが隨分

多からう

と思

はれる。

とにかく

一時

は不和

にな

つたがよく提携した彼等

は、元文元年六月七十

にて其磧先

づ世を去り

、自笑

は延享

二年十

剛月十

一日八十餘歳で歿

した。自笑

のあとは子

の其笑

、孫

の瑞笑が繼

で、

八文字屋

は三代

に亘

つて書肆

の主

と淨世草紙

の作者とを兼

ね、淨世草紙

の世界

に西鶴本

に對立す

る八文字屋本

をのこした。

.「色

三昧線

は美

濃版牛截

の横本

、俗に枕本

いふ體裁

で、西川風

の豊を挿

んだ。

三卷

に京之卷五話

.

大阪之卷

六話

,江戸之卷

五話

、四卷

に鄙

之卷

四話

、五卷

に湊之卷

四話皆短篇を纂

め、各卷頭

に遊女

の惣名寄

、位附

、揚代から

の名等

まで、明細

に廓中

一切の諸式を附

してゐるのであ

る。

それは役者詐到記

の形式で、遡

れば古く

から行はれ

てゐる

ので

あるが、既

に西鶴

や團水も筆を染

め、其磧

一度試

みた藝詐

を主とするもので

、其殯

の著

はした

「役者

三昧線」に於

いては、藝

の外

に開

口と稱す

るも

のを附す

ることによ

つて、從來

の諸形式

に特色

をみせた。こ

の開口

は問答體を

とつて囈評

に移

る序をなしてゐ

るの,てあるが、これと

ても既

に古文

に繰

り返

へされ

てゐるも

のであ

る。こ

 

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'

の開口を轉じて小設的構造を進めたものが

「色三昧線しに於ける附録の小説であり、その細見はかの藝許に當るもの

とみられる。蓋し役者詐到記の藝評も古くは宛も…遊女の細見の如き役目のために野郎の容姿の褒貶が專らであつた。

 さて其磧が

「色三昧線」に附鑠とした短篇は、八文字屋の最初の淨世草紙で、西鶴を繼承したものであつた。そこ

には當時の花柳界を背景とした好色生活が書かれてゐる。その好色生活といふのは、男女の性的關係もあるが、肚交

から享ける豐富な情趣を昧ひ、瓧交の興昧に身を浸して行くを主とした生活で、か」る生活は一般の趾會には性的關

係の自由がある爲に存在を許されないので、遊里といふもの」發逹を來し,貞操から解放された女性即ち遊女が瓧交

婦人として活動した。かゝる意昧の好色生活の爲に遊里に特有の慣例習慣或は禮儀作法等が出來た。跏ち西鶴以來の

好色本は斯ういふ生活を取扱つたもので、本書も亦その一つであるが、既に行詰つた淨世草紙の單調に倦きた讃者に獨

して、新機軸を出さねばならなかつた時機に、「野傾族葛籠」に於いて彼自らが云ふ如く、西鶴に倣つて作つたもので

あり、精細を加へた描寫は却つて力を弱くし通俗化したが、よく舊殻を脱し新粧を凝らした形式と構想とは、入文字

屋の麗價を擧げしむるに十分.てあつた。それは叉所謂入文字屋の七三昧線と稱せらる丶、この形式や趣向を眞似たも

のを績出させ、八文字屋の淨世草紙として最も見るべき傾城物の濫觴をなした。

濶役者片氣

珊  江島

  正徳

 自笑と紛爭して分離した其殯は、氣質物と呼ばれるものを創めたが、これも亦概して西鶴を踏襲したもので、その

筆致を摸倣し剽竊を敢てしても、西鶴が鋭利な觀察と邇逕な文章とに到底及ぱなかつた彼は、人々に有り勝な弱點、

特殊な性癖、趣味,嗜好を寫し出して各階級の特殊性を明にするたあに複雜な趣向を欝へ、その筆致を誇張させねば

}⑪一

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ならなか

つた。從

ってそれら

に現はれ

てゐ

る滑稽

は、西鶴

にあ

つては觀察膜から來

たところのも

のであるが、彼

にあ

つてはそ

の筆先を學

んだだけで

、人聞性情

を穿

つことが薄

つた。只

その趣向

の構

によ

つて滑稽を巧

に描

いてゐる

のがあ

つたo

  

「寛濶役者片氣

」は色

三昧線作者

と署名

して江島屋市郎左衞門板行で

つた。

かの八文字屋と分離し

てゐた正徳年

に書

かれた所

謂江島屋本で

、「野傾族葛籠」

に於

いて、自笑を攻撃

し從來八文

字屋本

と稱す

るも

のは皆自分

の作.てあ

'ることを吹聽し、

ゝに亦色

三昧線

作者

と署したのであ

つた。

これ

は氣質物最

の作

とされるも

のであるが、内容は

未だ氣質物

の體裁を備

ふるに至らず,上卷に轡汞

六年十

一月朔

日に死

んだ、傾城買濡事

の開山

として有名な坂田藤十

、下卷

にその前

に故人とな

つた江戸

の荒

事師市

川團十郎

、和事師中村七三郎

のことを主

として、邂女たちから妾

後家

、比丘尼等

の好色沙汰を寫

したも

ので、それら

の趣

向が餘

に世間

に顯著な噂であり馴染

の深

いものであ

つたか

らして、誇張

はあり乍らもな

ほ事贊ら

しさを失はず、且

つそ

の強調から來

る滑稽があ

つた。併

しまた下之卷第

「市

川が心底引

つて見

る木挽町

の手管娘

」、第三

「女道衆道

の堺町遊

はちが

ひくぎ

ぬき」を讀むも

のは、西

鶴が

「好色

代男

」卷四

「替

つた物

は男傾城

し、「好色

五人女

」卷五

「戀

の山源

五兵衞物

語」

「情

はあ

ちら

こちら

の逹ひ」の趣向

踏襲

されてゐ

る痕

をも認

めなければな

らぬであ

らう。氣質物流行

の享保五年

「好色

五人女

」が

「當世女容

氣」と改

題され

て出た

のもうなつかれる。只西鶴

を學

んだ其磧

も觀察

の眼界を廣く構想を複

にしたことは.讀者

の思想

の推

移を物語

つて

ゐるも

のではあ

るが

、矢張り幾分

の進歩

とみ

るべき.てあらうか。

諸國武

道容氣

五 册  作

不 詳

7

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 八文字屋

の氣質外題

は.寛濶役者片氣

」が最初であるが、氣質物

と總稱

され

るも

ゝ俑をなし流行を來

した

のは、正

徳王年出版

.世間

子息氣質

し、そ

の翌

年出版さ

れた

.世間娘氣質しであ

つた。「諸國武道容氣」はこれに次

いで出たも

ので、「小読年表しには自笑作

とあ

れど署名

はな

い。

この出版はなほ其磧自笑

の分離

してゐた時.て、卷宋

.野傾族葛

」等其礦

の著作を廣告し

てゐるところを見ると、自笑作

とす

ることはどうか。或

はその商略

てあ

るかもしれな

いが、

作者

は詳

かでな

い。

 「子息氣質

」.娘氣質」が町人氣質をあら

はす爲

に、町人

の生活朕態

を寫

した

のに對し

て、これは武

士氣質を現

はす

めに、武家生活

の基調をなす發理

の精

紳を狹

く限

定した敵討

によ

つて武

士の典型を描かうとしたらし

いが

、常識

な瞰討物語であ

る。併

しそこに現

はれ

てゐ

る武

士は町人と接

近し交際

を持

つたも

のであり

.從

つて多く

の點

に於

いて

れた武

の感

化を受

けてその生活を向上

した町人

は、平和な時

世に適

し難

い武家生活

を浸潤

してゐ

るあとがみられ

る。印

ち卷之

二の

「京

の噂

」に於

ける町人

に苦

しめら

れる武

士の窮迫、鼓打

の内儀が夫

の敵討

に武士にもおとらぬ精

と澂養

があら

はれ

、卷之

.阿州

の咄

しに於ける武

士は、

一町人

にそ

』のかされ

て利

に傾き悪事

に加擔す

る。そ

他武

士の遊惰

と放縱及

びそれから生ず

る罪悪等

を敍

してゐる。

それは又當世

の武士氣質

とも云

へる

のであ

る。

一代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  猷夊島孛渥㌔徽作

  享保十

九年刊

 西鷭の傳統を引いた入文字屋本は、其磧に依つてその一面を踏襲する傾城物、氣質物を創めたが、叉淨瑠璃歌舞伎

から趣向の複雑を借りて淨世草紙の本領を沒却する傾向を生じた。それは八文字屋本の大多數を占めてゐる傳奇的の

物語で、内容としては狹義の義理物語に外ならないのであるが、從來の淨世草紙の寫實的なのに比して、》」れは餘程

寫實を離れた筌想に遊ぶといふやうな物語.て、】面假名草紙や實録物の脈を受けると共に、淨瑠璃と密接な關係を

一 

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つてゐる。しかも室想的な乃至夢幻的な淨瑠璃

の時

代物

に餘

程近

いも

ので

、か

ふるも

のがこ

の時代

に盛

んに淨世草

の中

に流行

した

ことは.内面的

には矢張り淨瑠璃

の塞想的夢幻的な時代物

を産み出した精紳

と同じ精紳が

、.あ

奇物

を産み出したと

いふ關

係でなければなら

い。

叉外面的

にも密接な關係があ

つて、近松

.國性爺合戰もが大成

功を博す

ると

、淨世草紙

の方でも

「國性爺

御前

軍談」と

いふ僅

に淨瑠

璃を幾ら

か俗衆

に解

り易

く書

き直したも

のが

たり

、更

一暦多く

の者

に解

せようと

いふ意昧で

、「國性爺明朝太平記」が出たり、竹

田出雲

の「大内裏

大友眞鳥」

いふ淨瑠璃

が、八文字屋から其磧

によ

つて同じ名

の淨世草紙

として出

たりした。

のやうな流行

の勢

は、其磧等を

「本朝會稽山

」「奥州軍記」「義經倭

軍記し等釜

々多

くの作

を書く

に至らし

めた。

 

「梅

若丸

】代記

」も

亦その

一つであ

る。

その結構

は淨瑠璃

の時代物と同じく、善人と悪入

とが鬪

つて幾多の紛雫

に善人

の椦利

に臨

すると

いふ

ので、こ

の題材

の骨子をなすも

のは近松

「雙生隅田川し

の筋

であ

つた。それは古く

謠曲

「斑女し「隅田川」

にそ

の傳説が諷はれ、明暦

二年の

「角

田川物語

」と

いふ假名草紙

に基

いて作

られた。これが竹

本座

の勾欄

にか

ゝつた

のは享保五年入月で

、後

十四年にして

「梅

若丸

一代

記」が出

た。既

に淨瑠璃

に題材を選

ぷこと

を知

つてから二十年近くも過ぎた。最早

h明朝太平記

」「大俘眞鳥

の如

く淨瑠璃

の踏襲そ

のも

の.てはな

い。作者は實

録物

を參照

した

お家騒動

とか、淺草寺

一つ家

の傳読等を取り入れる技巧を怠らなか

つた。それは單調に倦

かれた淨

世草紙

一回轉

を試

みよう

とし、結構

の複雜

と趣向

の珍奇

とを以

て新昧を出したも

ので

はあ

つたけれども、その價値

は少

く今

日で

は八交字屋本

とし

ては忘れられよう

としてゐる。

 

の書天明八年

「都鳥妻

戀笛」と改題

再版

された。

鎌倉諸藝袖日記

五 册

彫葦

屋姦

"三

一司罵

Page 11: 八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

 

其磧が歿

してからなほ十年も生き永ら

へた自笑

は,嘗

て八文字屋

と對立

した時

に代筆を依頼した多田南嶺

をして其

のあ

との代作を

させた

.

 南

嶺名

は義

俊、宇

は政中

、逋稱

を兵部

といふ。泙井鶴翕

の門

に入り國學を修め、叉俳諧

を牛時庵淡

々に學

んで男齡

と號

した。好

んで戯作

をなしたけれども自

ら名を揚げず

、南嶺

の作

とせら

れるこ

「諸藝袖

日記

」の如

きも、その序

に八文字屋自笑

、同其笑作

とのみあ

る。

.「諸囈袖

日記」は其磧

の作

を襲

つた氣質物で

、その序

「往昔

の淨瑠璃

に鎌倉日記とかやおも

ひ出で

の風

を」書

き分けたとある。

「鎌倉袖

日記」

は松本治太夫

の正本で、

おそくも元祿初年迄

の、もの、寶暦七年板

「外題

年鑑

「井

上氏の日向景清を松本治

太夫方

てほ鎌倉袖日詑

と替」

へたとある如

く、井

上播摩掾

「日向景清」

外題替

へであ

つた。

これと

「諸藝袖日記し

との關係

「國性爺明朝太平記」「梅

若丸

一代記」等

とは全

つたも

、只

「鎌倉袖

日記

」が鶴

ケ岡

八幡

の肚參

に頼朝

の無禮講

の遊興から、そ

の趣向

がす

丶められ

てゐると同

じやう

に、

「諸藝袖

日記」で

は頼朝

の御前に於

いて諸

大名が

一興

ある物語

をなすと

いふ形式

の近似

と、古代

の事をもす

べて現代

化してゐると

いふ共通點

を認

める位で

、やはり氣質物

に共通な失敗を可笑

しく描

き、只

笑ひ草

にt

ようとす

る趣

向で

の態度

には

いくらか其磧

の面影

が窺

はれ

るo

風流誹人氣質

五 册

兵作堂龜友作  竇暦十三年刊

 多田南嶺にょつて僅かに其磧のあとを襲はしめた八文字屋は、寛延三年南嶺の歿後釜々袤蓮に傾き、明和四年書肄

八文字屋は亡びたけれども、その作風の餘勢は龜友等をして、何々氣質と稱する活氣も奇警も失はれた平凡な小設を

 ゆ【

Page 12: 八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

多く作

るに至らしめた。只其磧

が親仁

とか娘

とかを扱

つた

のに野

して、俳人と

か茶人とかを職業

の方からみて、そこ

に新材料を出さう

とした。

 

「風洗誹人氣質し

は月並宗匠を主題

にし

て、それに附隨

した色

とか慾

とかを描

いたも

ので、形式内容

の上からみれ

ば、八文字屋

の餘喘

を保

つたも

ので

はあ

るが、冗漫

な常識的

なも

のであ

る。

諸道聽耳世間猿

 

 

 

作者和譯

太郎

は上田秋成

の名

を以

て廣く知られ

てゐる。秋成通稱を東作

いひ、余齋、休西

、無膓

、鶉居、剪枝畸

人等皆

の號で

ある。浪花

の娼家

の私生兒

とし

て生れ、富商

上田某に養

はれたと傳

へる。若

い頃

は放蕩な生活をし

ゐたが天性

の才子で

、俳諧を儿圭

に學び

、加藤宇萬

に國學

を修

むると共

に、都

賀庭鐘

に儒學を學び、和歌、俳句

蠻、茶事何

れも

これを能

くした。

年三十

八の時

、火災

に罹

つて家産を失

ひ、

一時

醫を業

としたこともあ

つたが、性

介峭直

人と交らず

いふ風で

、晩年

は京都

の南禪寺胖

に隱れ

て寒酸な生活を

おくり、七十

六歳

の文化六年六月二十

七日、豺倉信美

の家

に歿

した。

その文學上

の作物

には種類が多く、「藤簍

册子」「癇癖談」等

から、こ

の書

と共に八文

.宇屋

の系統を

いた「世間妾形氣

」、後

の讀本

作者

の典範

をな

した

「雨月物語

」「春雨物語し等

の作が顯はれ

てゐるが、

「冠辭考續貂

」「萬葉集見安補註」「古今集打聽校補

」等

の國學上

の著書

もあ

る。

 

「諸道聽

耳世間猿し

一時流行を極

めた八文字屋

の氣質物

の系統を

ひいたも

ので

、そ

の趣向

とす

るところは、彼が

遊蕩時代

の見聞

を材料

として色

々の失敗を滑稽的

に描

いてゐるのであ

るが、自笑

、其磧

の作に比

するに,人事

の微

を描寫す

る乏

いふ之とよりも世聞を皮肉な眼で觀察し、そ

の弱點を諷刺

てゐる。併

し思想

や學才

の優れ

てゐる彼

{H一

/

Page 13: 八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

文章

,其磧

と同様な

碎けた文體で

.西

鶴さながら

の筆致

をさ

へ見せてゐる。

赤烏帽子都氣質            

五 班  永井堂龜友作  安

 作者龜友は兵作堂,後永井堂と號す。その傳記を得ない。明和安永頃

「風流茶人氣質し「世聞姑氣質」「小兒養育氣

質」「世聞旦那氣質」「風流仲人氣質」等、其磧の氣質物の筆意を模したものを出したが、いつれも多く言ふに足らな

いものであつた。

 

「赤烏帽子都氣質」は趣昧や嗜好や境遇等に附隨する自慢、それを誇張してそこに失敗を描いたり、滑稽な現象を

寫したりしてゐると共に、その序にもいへる如く其殯以來標榜した教訓的文字をして、實際の意昧を現はしてゐる。

西

物 語

 

綾足

  明和

五年

 建部綾足

一名英龍

、字は孟喬、初

め凉

袋と號

し後凉

岱と改

む。ま

た吸露庵

、寒葉齋等

の號

があ

る。弘前藩

の家老

格喜多村校尉

の二男

に生

れ幼名を金吾

と云

つた。若

い頃故

つて亡命

し、その姻戚

の姓建部

を稱

し、京都東臈寺

の坊

にな

つたり、長

へ行

つて繪

を習

つたり

、還俗し

て江戸

に出

て俳諧

とな

つたり

、賀茂眞淵

について古學

を修

め、

歌を唱

へたり等

したが、

一向

世にむ

へら

れず

、且

つ狷

狂無行

一世を玩弄すると

いふ衒氣

と爭氣

の強かつた爲

か、江戸

にも京都

にも居

つかず

田舍

まはり

となり、安永三年三月十八日武州熊谷

にて五十六歳で歿した。併

し多囈多

の畸人で

、當時國學

の盛行

により眞淵

に就

いイ、養

はれた彼

の衒學的倚古癖は、古

を重し

とし、今を輕

しとし、用語

一12一

Page 14: 八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

にすら古を倚び、邃に片歌道守

と稱

して片歌を主張し.中古

の文體を綴り

、上中下三册を中古

の物

語風

に卷を名づ

て十卷

とし、且

つそ

の出

典と註釋を

へ加

へた「西山物語しを作

るに至ら

しめた。もとより片歌

の挽回は行

はれなかつ

たが

。讚本

の先驅とし

て文化文政

の小読界

に影響

した

ことが頗

る顯著であ

つた

 

この物語

は綾足

が明和四年京都

に遊

んで

、西

八條村

にあ

つた巷談

に基

いて作

つたも

のだと

いはれる。然

るにそ

の趣

に就

いて、

上田秋成が文化三年卯月十七日

「西山物語

の主人公大森

七郎

のモデ

ルである渡邊

源太といふ者

に邂逅

して、

その物語

の事實譚

を作

つて「西山物語

しを「よき人をあやま

ついたづら文」なり

とし、「是もはやく

に亡ぶべき數

るも

のと罵倒し

てゐ

るが、綾足が小読として

の結構

を事實

に關

のな

いところ

のも

のをあ

しら

つたこと

の非難で、

その古典趣昧

に捕

はれ

て人情を寫し趣

を盡すこと

の出來

なか

つた小説

としての批難で

はなく,叉

古今

を混同

した鵺

の文章

のそれでもなく、畢竟

「西山物語」

の小説

とし

ての批許

には當らなか

つた。併

し綾足

の讀本作者

としての位置

を相當認

めた曲亭馬琴

「本朝水滸傳を讀む並批詐

に於

ける擬古體

の雅文

に對す

る批難

は、かな

り手傷

い,も

のであ

つた。

そして綾足

「水滸傳」

「源氏物語

」が現

の現代語で書

かれた

ことを知らなか

つた

のであると

いひ、更

「綾足を

して倚世

にあらしめば、ま

のあたりにこのことわりを

しかみ\

と、解

して蒙

霧を啓

せまほしく思

ふかし、」と

つてゐる。

これはまさ

しく綾足

の急所を

ついたも

のであ

つた。併

し金龍敬雄老杜多撰

の序

に、從學

の士をして古

を以

て今

を御

し、俗

に印

いて雅

となす

の術を曉

らしめんと欲

し、乃

ち時事を記し

て三卷となす

とあ

るを

みれば、作者

の意志

また別途

にあ

るを知

るべきであらう。

五 册

六樹園飯盛作

13

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/

/

 上方

の文學

が漸く衰

へた明和

、安永

、天明

の頃は、恰も

江戸

に小説

の萠芽

した時代であ

るが

、それ

とても元祿前後

江戸

に行

はれ

てゐた文學

の流れとみるよりも、寧ろ上方文學

が東に移

つて、江戸

にその繼

承者を出したとみるべきも

ので

、馬琴

によ

つて大

に發展

した讚本

は、か

の支那文學から脱化

した物語

を繼承

したも

のであり、村田春海

や六樹園

等が雅文で

小説

を著

はした

のも

、矢張

り綾足

「西山物語

」を承蹤

したも

のであ

つた。

 

この書

の作者六樹園

は、豊家石川豐信

の子、名

は雅望、字

は子

相、通稱

を糠屋七兵衞

、後五郎兵衞

いふ。江戸小

傳馬町三丁目

に住

み、その地も

と六本木と稱

せし

により六樹園と號し、また宿屋

を營

んでゐたた

め狂名

を宿屋飯盛

いひ唐衣橘州

。大田南畝

に狂歌を學び、遨

に家業を廢

めて儒を古

屋昔陽

、國學

を津村淙庵に受け、.源注餘滴

」「雅畧

集覽」等

の著書をなし、江戸國學者

の雄であ

つた。そ

の戲

作は餘

技ではあるが、交政十三年三月二十四日七十

八歳で

沒す

るまで

..都

の手

ぷり」「北里

の十

二時」「東なまりし「飛彈匠物語」「しみ

のすみか物語

」等名高

いも

のが多

く、狂

歌師

としても作者

とし

ても顯

はれ

てゐる。

 

「近江縣物

語」は北尾重政

の豊

を挿

んで行

はれた謾本で

、そ

の序

に近江

の閑居

にて

一老人

の語

れるま

』を記録ぜる

のとあ

れど、夙興亭

高行

の跋に

「既物語

せる翕

のさまけしうはあ

らさりき

さためてりふをうなと

いへる人

の身

をか

へてうまれ出たる

にやとうし

のかたられた

る」とあ

るが如く、そ

の結

構は李

笠翕

「十種曲」申

「巧團圓傳

奇」を飜

し、藤原保輔、同齋光と

いふ張盜

に配するに、佳

人薗生

、才子梅丸

、或

はその戀仇常人等

を以

てせる

一篇

の物語で

に京阪

の作者がなした手法を以てしたも

ので

つたが、寧

ろ原作

の面影

をと

黛めてゐるも

のが多

かつたQしかしそ

の文章

「西山物語」等

に比

し迥に平明典雅なも

のであ

る。 

  

 

  

 

  

  

 

  

ー解

終1

14

Page 16: 八 正 作 の 者 は の 柳亭 種 彦 る の 「好 い 者 月 百 ま の 人 ......正 解 月 揃 題 藤 村 六 册 白 眼 居 士 作 貞 享 五 年 刊 作 作 者

 

 

 

赤烏

西

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卩iー~馬    r-F

        

昭和

三年+二且

+

日印

 

 舗八回配糊

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

【非

品】

        

昭和三年+二月+吾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●            、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京

日本

僑區

三丁

六番端

          帝

)

 

 

醂戯

          國痛

本・ 

 

軸叢

・大

          

文 

 

 全編 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 '

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京市小石川區久堅町百。八鑑

h

 

 

 

 

 潔

}

} 

 

 

 

 

 

 

石町三百

+六番地

 

 

版所 

共同印刷株式蘊

發行肌

盤博駄

嬲,