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Title 顏師古の『漢書』注 Author(s) 吉川, 忠夫 Citation 東方學報 (1979), 51: 223-319 Issue Date 1979-03-15 URL https://doi.org/10.14989/66563 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University
98

Title 顏師古の『漢書』注 東方學報 (1979), 51: 223-319 Issue Date … · 顔師古の『漢書』注 結田内的(pq)(=)(i)h 吉 ノ 夫忠...

Sep 26, 2020

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Title 顏師古の『漢書』注

Author(s) 吉川, 忠夫

Citation 東方學報 (1979), 51: 223-319

Issue Date 1979-03-15

URL https://doi.org/10.14989/66563

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

Page 2: Title 顏師古の『漢書』注 東方學報 (1979), 51: 223-319 Issue Date … · 顔師古の『漢書』注 結田内的(pq)(=)(i)h 吉 ノ 夫忠 眺察注と師古注テキストづくり家撃としての師古注師古庄の成立-顔師古と南撃-若干の杜合史的考

の『漢

書』注

日H

顔師舌以前における漢書の挙

漢書の成立とその受容

FJl:刑政の書としての漢書

奮住家たちの時代

江南における漢書研究

華北における漢書研究

顔師青の漢書の寧

テキストと表記法

(1)

『漢書』は王先謙

『漢書補注』(略択

HP.)を用いへその

通巻教と実数オモテ

・ウラ

(略戟

a,b)を示す。たとえばt

HP165.23aは'奄六五㌧東方朔俸

'二三薬オモテ.巻

一高帝

紀のごと-上'下に分かれる場合は、HP.1A}HP.1B

と表

記し'巻二七五行志のごと-上'中之上'中

下へ下之上'下

之下に分かれる場合は、

HP.27A,HP.27Ba,HP.27Bb,

HP.27Ca,HP.27Cbと表記する.また巻二八地

理志のごと

-'

'下巻を王先証本がさらに上

上二、上三へ下

一'下

の『漢

書』注

結 田 内 的 (pq)(=)(I)H

師古庄の成立

家撃としての師古注

テキストづくり

眺察注と師古注

-顔師古と南撃-

若干の杜合史的考察

師古庄の基本的性格

古代世界との遼遠

び二と分ける場合はtHP.28A1,HP.28A

2,

HP.28A

3,H

P.

28B1.HP.28B2と表記

る。なお

へ補

注の

従がって

をあらた

た場

合があるが'煩をいとっていちいち注記しな

い。また

(

)によってそれが注であることを明らかにする。

(2)

『史記』は瀧川魚太郎

『史記脅注考謹』

(略貌

SH.)

用い'その道巻数と頁教を示す。

(

3)

『史記』と

『漢書』をのぞ-正史は、中華書局版鮎校本を

用いへその通巻数と通真数を示す。

(4)

『顔氏家訓』は周法高

『顔氏家訓嚢注』を用い、その真数

二二三

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オモチ・ウラを示す。

(5

)

『文選』は胡刻

『文選』を用い、その巻数と菓教オモア・

ウラを示す。

二二四

(1)

趨巽の指摘するところによると'唐初の蘇撃は、三縫、漢書、文選の一二着であ

ったという。

三薩の撃と文選の撃のことはし

ばらくおき'漢書の撃はたしかに唐初の蘇撃のひとつであ

った。顔師古の

『漢書』注が唐初に生まれたことは、そのなにより

の謬左である。ただし'唐初における漢書の翠は、いうまでもな-前代の遺産の聴承のうえにたつものであ

って'漢書の撃は

六朝末から隔'唐初にかけての蘇撃のひとつであ

った、とするのがよりただしいであろう。師古注もやはり六朝末の漢書の撃

に淵源している。

六朝末の情況はのちにとりあげることとして、隔、唐初における漢書の撃の隆盛は、趨巽の文章についてあらましを知るこ

とができるであろう。そしてまたうその潜時へ

「漢書畢」ないし

「漢書聾者」なる語の存した事案によってうかがうことがで

きるであろう。たとえば包恒。

「王仲通から史記と漢書を授かり、とりわけ精通徹底していると稀せられた。大業年間に園子

ヽヽヽヽ

助教となった。常時'漢書学者たちは蒲該と包恒の二人を宗匠とした。生徒をあつめて教授し'著錬されたものは数千人にの

った(社主仲通受史記漢書、尤栴精究、大業中'馬国子助致'千時漢書聾者'以東包二人馬宗匠'衆徒教授'著録老数千人)」(障害儒林包悼俸

75,)716)0

王仲通のことはほかに知るてがかりをもたない。また秦景通。

「弟の泰時とともにとりわけ漢書に精通した。普時、漢書を習

うものはみんな宗匠としてかれらに師事し'日ごろ秦景通を大秦君、泰時を小秦君とよんだ。もしかれら兄弟の指導教授を経

ヽヽヽ

ないと、師匠を経ていないのだからとりあげるには足らぬ、といった。・・・・・・漢書撃をなすものにさらに劉納言があ-'やはり

(2)

常時の宗匠であ

った。納言は乾封年間に都水監主簿を歴任、漢書を柿王賢に授けた(輿弟略尤精漢書、普時習漢書老皆宗帥之'常栴景通

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馬太秦君、曙為小秦君'若不経其兄弟指授'則謂之不経師匠、無足探也'・・・・・・薦漢書学者'又有劉訴言'亦馬常時宗匠'訊言'乾封中歴都水監主簿'以漢書

授柿王賢)」(馨唐書儒撃秦景通俸1

89A,4955-6).そして顔師古も

『漢書』東方朔侍の質'「後世好事者、困取奇言怪語'附著之朔、

故詳錬荒」をパラフレーズするなかで、

「漢書撃」の語を使用している。

「師古日-'つまりこの東方朔博が朔の言葉を詳し

-記錬するわけは、俗人がとか-奇異のことがらをむやみに朔に-つつけたがるからである。博に記さないことはすべて事案

ヽヽヽ

ではないことをあきらかにしようとしたのである。しかるに今日の漢書撃をなすものは'さらに他書の雄説をとって東方朔の

事績に候託し'異聞をひろめようとしている。まことに歎かわしいことだ

(師古日'言此停所以詳録朔之解語者'番俗人多以奇異妄附於朔

散耳'欲明博所不記、皆非其賓也、而今之薦漢書聾者、猶更取他書雑説'慣合東方朔之事、以博異聞'艮可歎桑)」(HP.65,23a)。師古のこの慨嘆は

記憶にとどめておいていただきたい。いずれ詳説する横合があるようにへ

「他書の確認を取り」、「異聞を博め」ること'ひと

り東方朔侍にとどまらず、師古住全鰹を通じてしりぞけられる態度なのであ

って'いわば師古住の基本的態度がここに表明さ

れているとおもわれるからである。

師古庄は六朝末の漢書の撃に起源を有している、とさきほどのべた。より-わし-いえば'南朝末期へ江南の漢書の撃に起

源を有している。だが

一方でそこには'南撃と対立する側面を顕著によみとることができる。漠'魂、音の奮注にかえること

こそが師古住の立場なのであ-、そこから啓注を完好なかたちで保存しきたった華北の学問、いわゆる北学を、むしろ商学よ

りもよしとする主張がうまれたと考えられるのである。か-直接の起源を南朝末江南の漢書の撃に有しながら、香住にかえる

ことを主張とする師古注を'

『漢書』成立以後の漢書の撃の俸銃のなかにただし-位置づけるべ-'本稿では、顔師古以前に

『漢書』がどのように讃みつがれてきたか、またどのように注樺が書きつがれてきたか、そのことを第

Ⅰ部であっかいたい。

顧師古以前において'

『漢書』の注樺はすでに大量に存在していた。司馬貞は

『史記』との比較のもとにつぎのようにいう。

「およそ大更公の記事は、上は軒榛黄帝氏にはじまり、下は漠の武帝の天漠時代にいたる。古文および俸記'諸子を博探し'

その間の残閑はけだし多いので、あるいはかたわら異聞を捜

って説を成しているがtLかしそのひと太史公は奇を好んで言辞

師古

の『漢書』注

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二二六

は省約㌧そのためことがらは核心をつきながらも文章は隠微である。そこで後世の学者には究明できないところが多い。班氏

の漢書は後湊代に完成された。班彪は司馬遷の後をついで酪連したのであるから執筆の細目はいっそうあきらかであり'しか

もそのうえ衆賢の意見をあわせ採用してもろもろの義理は具備されているOゆえにその趣旨はゆたかであり'その言厭にはあ

やがある。そこで近代の聾者たちはそろって研鎖し尊重し'その訓話注樺も多門にわたっている。束管の秦譲が漢書集解をつ

-

ったとき'すでに二十四家の説が存在していた。それゆえ文章のうえで滞るところはな-'義理のうえで遺失するところは

ない。ところが太史公の書物は'上は肝捧黄帝氏のことを寂し、なかごろは戦国のことをのべ'あるいは名山や壊宅のなかに

資料を得'あるいは奮俗や風謡に取材しているため'その残閑した文章やこまざれの文句は徹底的にはつまびらかにLがたい。

されば古往今来'注解をつ-るものはきわめてとぼし-、音義もまたす-ないのである

(夫太史公紀事へ上始軒嬢、下記天漠'錐博宋

古文及億記諸子'其間残関蓋多'或穿捜異聞、以成其説、然英人好奇而詞省、故事薮而文数'是以後之尊者多所未兜、其班氏之書、成於後漢'彪既後遊而述'

所以候流更明、且叉乗采衆賢'群埋草備'故其旨富'其詞文'是以近代詩儒共所薦仰、其訓話蓋亦多門'葉誤集解之時'己有二十四家之説'所以於文無所滞'

於理無所遺'而太史公之書'既上序軒黄'中速戦国、或得之於名山壊宅'或取之以奮俗夙謡へ故其残文断句'難究詳兵、然古今馬注解老絶省、音義亦希)」

(史記索陰後序)。

『史記』と

『漢書』とはならび稀せられるのが

l般であ

って'事案'「史漠」.な-

「三史」な-の語ははや-≡

(3)

園時代からおこなわれていた。それにもかかわらず、史記の撃の貧困'漢書の撃の隆盛は'時代を通じての現象であ

ったので

ある。

本稿はついで第

Ⅱ部として師古庄そのものをあつかうが'そのさい'師古庄を通じての唐初における商学と北撃の問題にも

ふれるであろう。本稿はまたおよそ二十年前の拙稿'

「顧之推小論」(東洋史研究二〇~四)の績篇となることをも意固している.

ことわるまでもな-'顧師古は顔之椎の孫である。かつての拙稿の末尾に、顕之椎の文化樫承者としての側面を閑却したこと

を反省し、つぎのようにのべておいた。

「その側面は書経篇、音節篇

(いずれも

『顕氏家訓』の篇名)などの検討を加えるこ

とによって明らかにされるであろうLtそうすることは同時に'之推の孫である師古

へと'彼の学問方法がいかに鰹承されそ

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して護展されていったかを考えるうえにも興味のある問題である」。

顔師古以前における漢書の畢

漢書の成立とその受容

前浜十二代へ二百三十年の行事をのせる

『漢書』は、

班園が後漠明帝の永卒中

(五八-七五)に詔をうけてより'

二十飴年を

ついやして建初中

(七六1八三)に完成された。

それは班固

一人の名を冠してよばれるのを通例とはするけれども'

周知のよう

に、班氏

一家のひとたちおよびその周過のひとたち共同の述作とよぶのがふさわしい。そもそもは班固の父班彪が

『史記』の

(4)

績篇として書きついだ

『後俸』ないし

『後篇』数十篇を基礎としている。もっとも'

『漢書』が前漢

一代の断代史として完成

されたことは、班彪があ-まで

『史記』のあとをつぐことを目的としたのとおおき-ことなるが'今日においてもへ班彪の執

(5)

筆にかかることをあきらかにしうる部分が

『漢書』には存在す

そして八表ならびに天文志は'班園の妹の班昭へすなわち

(6)

曹大家の執筆にのこされた。しかしそれでもまだかけた部分があったため、馬融の兄の馬練に命じて績纂させたという。か-

して、

『漢書』のうちのどれだけの部分がいったい班国の執筆になるものなのか'疑問税するむきもす-な-はない。司馬遷

にあま-班固にきびしい鄭樵のごときは、班固自身の筆になるのは古今人表

一篇のみ'表の本義からはずれた古今人表

l篇の

(7)

み、と酷評するしまつである。あるいはまた班国が父班彪の文章を剰覇しているという非難がすでに顕師古の時代にも存在し

たらし-、

「司徒の操なる班彪日-」ではじまる葦賢俸質の注につぎのごと-いう。

「師古日-'漢書の諸質はすべて班園が

書いた。叔皮

(班彪)がさきだって論述していたものは'班固もはっきりそのことをあきらかにして後人に示している。とこ

ろがなかに班閲が父の名をこっそり盗んでいるというものがあるが、これを見れば汚名はほれよう

(師盲目'漢書話磐、皆同所馬、

師古

の『漢書』注

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共有叔皮先論述考

間亦具顧以示後人'而或老謂固鏑盗父名、観此可以免粂)」∴HP・73,21

a)。

(8)

さてともかく

『興奮』は成立とともにひろ-世におこなわれたのだ

が、

そのはじめからすでに難語'難句がす-な-なか

(9)

った。そのため朝廷は馬融に命じて、したし-班昭から讃法をうけさせたとい

か-して

『嘆書』の侍授軽かんするいささ

か特異な方法がはや-にしてうまれノたのであろう。

『史通』古今正史簾が

『漢書』について説-ところでは、

「後漢末にはじ

まって陳代にいたるまで、その注解をつ-

ったものはおよそ二十五家..

専門に業を授けるやりかたは-'五経と雁行した(始自漢

末、迄乎陳世'馬共注解老'凡二十五家'至於専門受業'輿五経相聖」。

つまり

『漢書』は経書に擬して

「専門受業」の方法によって俸承

されたという

のであ-'隔意史部正史額ではそのことを

「師法もて相い俸えられた」と表現している。すなわち'

「--ひと

ヽヽ

り史記と漢書とのみは師

法をも

って俸えられ'いずれにも樺解が存をする。三園志と指揮の後漢書には音注が存在するが'近

世の作物だから'どちらも読めばわかる。梁代には漢書にあかるかったもめとして劉蘇'葦稜があり'陳代には挑察があ-、

晴代には包橿'蒲該があ-'そろって

一家をかまえた。史記は俸えるものがめっきりす-ない(唯史記漢書'師法相倦、並有解秤へ三

国志及指嘩後漠'錐有音注'既近世之作'並讃之可知'梁時明漢書有劉顕葦稜'陳時有眺察、晴代有包燈斎該'並為名家'史記侍者甚徴)

」(33,957).さ

きほどの引用にみられたように'晴の帝該や包檀'あるいは唐の劉詞言が

「宗匠」とよばれへまた唐

の秦景通兄弟が

「師匠」

とよばれたのも'

『漢書』に特有

の俸授のあ-かたとかかわるのではないか。

「宗匠」ないし

「師匠」の語が'漢書学者以外

について用いられた例をほかには知らない。す-な-とも、いわゆる外典のなかで用いられた例を、寡聞にしてほかには知ら

(10)

ない。『漢

書』

の師法をうかがわしめる簡単だが貴重な記事が

『三国志』呉書孫登侍にみえている。黄初二年

(二二1)'孫権

の長

子の孫登が太子にたてられると'

諸慕情、張休'

顧諾'

陳表がと-に賓友に選ばれて入侍することとなった。さて

「孫権は

ヽヽ

孫登が漢書を讃んで近代のことがらを熟知して-れるようねがった。

(張休の父)張昭が師法をそなえていたが、面倒をかけ

るのもはばかられヽそこで張休をして張昭について議法を受けさせ、もどって-るとそれを孫登に授けさせた(植欲登讃漢書、習

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知近代之事'以張昭有師法'重煩努之'乃令休従昭受講'還以授登)」

(59,1363)。

そして同張休博の襲注が引-

『呉書』に'「休の進授する

や、文義を指摘し、事物を分別し、並びに章候あり」(52,)225)

というのこそ、

『漢書』の師法なるものの内容をつたえたもの

であろう。章句を-ぎ

っての文義の指摘と、そこにあらわれる事物の解樺を主としたのであろうが'ところでこの孫登侍の記

事は'

『漢書』の師法をつたえるとともに'『漢

の受容のありかたにかんしても興味ぶかい問題を示唆してはいないであ

ろうか。すなわちt

H

孫権が孫登に

『漢書』を讃ませたのは'

「近代の事」を学習させるのが目的であった。三国人にとって漢代はまだなお

近代の領域に属したわけだが'そのことはともか-'

『漢書』がなんらかの賓際の刑政に役だたせしめる書物として'いわば

蜜用の書物として蔑まれる場合のあったことを想像させる。事賓'それはしばしば為政者や権力者の愛読書となり'帝王学の

書ともなった。

『漢書』の抄銀がつ-られ'またときとして改編がおこなわれたのは、もっぱらこの鮎にかかわっていると考

えられる。

師法はほんらい経書俸投の方法であ

ってpそれが

『漢書』にも用いられたことは'

『漢書』が三園のころすでに経書と

ならぶ位置を獲得していたことをものがたっている。やは-三園呉のひと、華窮の上疏のl節にも'

「漠時の司馬遷へ班国は

とも

威な命世の大才へ撰する所は精妙にして六経と供に停わる」(奥書帝綜俸5

3,

12

56)とある。いわば

『漢書』は知識人共通の古典

となったのであって'大量の注樺が書かれたのはもっぱらかかる受容の側面に封雁するであろう。

『漢書』の受容にみられるこれら二様のありかたは、もとより裁然と区別されるはずのものではなく

たがいに緊密に開達

しぁ

っていたと考える''(きであるが'いまはかりに日、臼のごと-にわかって考察をすすめることとする.

臼刑政の書としての漢書

永元四年

(九二)のこと'

後漢の和帝は'

父章帝の皇后でありいまや皇太后として臨朝する賓太后、

その弟の大賂軍窒憲を

『漢

書』注

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二三〇

除かんものと'清河王慶をしてひそかに千乗王侯のところから

『漢書』外戚博を入手せしめるとともに'さらに慶から中常侍

鄭衆に俸語のうえ'故事を求索させた。李賢注によると'漢の文帝が母滞姫の弟なる薄昭を課した故事'また武帝が文帝賓皇お

后の従昆弟なる窒嬰を課した故事をたずねさせたのだという(後漢書滑河孝王慶侍55,

1

80))。

『漢書』外戚侍は'その質に

「漠興

りてより孝平に終るまで外戚後庭の色寵もて著聞せるもの二十有飴人を序す。然れどもその位を保ち家を全うせる者は、唯だ

文、景、武帝の太后及び邦成后の四人のみ」

(HP.97B,

24a)というごと-、後宮をめぐる陰惨な政争の記銀によってうずめら

れるが、それがいまや外戚寮憲を除-ための故事をもとめるべ-用いられたのであった。やがて和帝が勝利すると'窒憲は迫

(ll)

られて自害し'そのさい賓憲涯の

一人物であった班国も獄死をとげる。あたかもみずから設けたところの過酷な法網におちい

った商軟を街梯させな-もない、歴史の皮肉であったというべきであろうか。

(12)

これは成善後まもない時期に

『漢書』がきわめてなまなましい現賓の用に供されたひとつの事例であるが'おなじ後漢時代

には、鷹奉によって

『漢書後序』が著わされ、李賢注が引-裏山松

『後漢書』によると、かれはまた

『史記』『漢書』『東観漠

記』をけずって'漠の創業から鷹奉の時代にいたるまで三百六十飴年のことを十七億にまとめへ『漠事』と名づけたという

(後

漢書鷹奉博

4

8,)607-8).

鷹奉の子が奮住家の

1人である鷹勧であるが'

その

『漢書』注については次章にゆずり、いまさしづ

めここでとりあげるべきは鷹勘の

「駁議」のことであろう。

すなわち'

建安元年

(一九大)'律令を剛足して成った

『漠儀』を

たてまつる鷹勘の上奏文によると'律本章句'尚書善事'廷尉板令'決事比例、司徒都目'五曹詔書、春秋断獄を編集したほ

か、

「駁議」三十篇を集め、類をもってあい従え'すべて八十二事'その内評は

「其の漢書に見えるもの二十五'漠記

(東観

漢記)は四'--其の二十六は博-古今の頓韓の士'文章は焼柄'徳義は観るべきものを探り'其の二十七は臣の創造する所」

(13)

(同艦勅博

48,)612-3)であるという。けだし判決例の不常を駁したものであったらし-'『後漢書』にはその一事が引かれてい

る。残念なのは

『漢書』にみえるものではなく

『漢記』にみえるものにたいする駁議であるらしいことだが、そこに班国の

言葉が引かれているのは注目されてよい。事件は安帝時代のことであって'河間の野次と顕川の史玉が殺人の罪に問われて死

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罪に常てられることとなった。だが、声次の兄の初と史玉の母の軍がそれぞれ身代りとなることを官府に依顕して'

どちら

綻死してはてた。伺書の陳忠は

「罪の疑わしきは軽きに従がう」の立場から野次と史玉の罪を免じた。この判決について、無

罪の初と軍を殺し、普死の次と玉を活かした非を駁する磨劫は'その一節につぎのごと-いう。

「初と軍は片意地をはってみ

くひ

だりに自殺したのである。そのかみ'轡の召忽は公子糾の難に殉じたがへそのことを孔子は'溝演に経れて人これを知るなし、

と評している。愚錆の父は錆の刻峻ぶりを非難しtか-てみずから生命をたつということをやってのけたが、そのことを班国

も、趨母

(蓮括の母)の括を指して以てその宗を全うせLに如かず勺と評している。また侍には'僕妾の感慨して死を致す者

あら

は能-義勇なるには

'顧

だ慮なきのみ、という

(初軍愚洞'裏白投柴、昔召忽親死子糾之難、而孔子日'経於溝漬、人英之知'朝氏之父非

錯刻峻'途純白隈其命、班固亦云、不如趨母指括以全英宗、博日、僕妾感慨而致死者'非能義勇、顧無慮耳)」(同

48,1

61))b孔子の言葉は

『論語』

苦悶篇、班国の言葉は

『漢書』短錯俸賛'侍の言葉は

『史記』舜布列俸賓にみえているが、か-成書のときからおよそ

一世紀

にして、『論語』『史記』とともに

『漢書』の言葉がひとつの規範として引かれていることは'それにたいする許債がはや-確

立した事案として注目されるであろう。

麿勘の同時代人である苛悦の

『漢紀』は、隔年膿のスタイルをとるけれどもへそもそもはあ-まで

『漢書』を藍本としたの

であり、

『漢書』が大部にすぎて都議に便ならざるため'戯帝の命によって編纂しなおされたのであった。その奄

lの冒頭に

ヽヽ

いわく

「謹しんで善書を約摸し'通じて之を叙べ、総べて帝紀と為す。其の年月を列し、其の時事を比Lt要を撮-凡を挙

ヽヽ

げ、其の大膿を存す。旨は紋-る所少なきも'務めて省約に従がい'以て本書に副たらしめ、以て要紀と為す」。「善書」とい

い、

「本書」というのが

『漢書』をさしていること'いうまでもない。か-葡悦は

『漢書』の要紀をつ-るとともに、ことが

らに即しての論評に力をそそいでいるが'これまた

『漢書』を寅際の用に供さんことを主眼とした改編であったためだと考え

られる。そのほか桓範の

『世要論』は'

『漢書』のもろもろの薙事を抄撮したうえ、みずからの意をもって掛酌したものであ

ったとったえられるが'その書名からしてすでに

『摸書』が刑政の賓際に役だたしめる書物として蔑まれる場合のあったこと

『漢

書』注

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(1.~」

を'端的にものがたっているであろ

さてさきに

『漢書』が為政者や権力者の愛護書となり、あるいは帝王学の書ともな

ったとのべたのは'以下の事賓をふまえ(15

)

てのことであった。たとえば司馬乾の父'司馬防は

『漠書』の名臣列侍を愛好Lt数十寓言をそらんずることができたという。

孫権が太子の孫登に

『漢書』の講書をすすめたことはさきにのべたとおりだが、おなじ孫権はまたあるとき将軍の呂蒙と蒋欲

にむかって学問の必要を力説Lへ呂蒙がその時問がないとこたえると、つぎのようにさとした。

「ぼ-はきみが経書を治めて

博士となることをねがうだろうか。ただ渉猟して過去のことがらをみて-れさえすればそれでよいのだ。きみは多忙だという

が、このぼ-に-らべてどうかねOぼ-はわかいころ詩、書、薩記、左俸'国語に目をとおし'周易を読まなかっただけだ。

ヽヽ

政治を据普することにな

って以後'≡史や諸家の兵書をしらべているが'おおいに稗益するところがあると考えている。きみ

たち二人はあたまがすばらし-よい.草間すればき

っとものになる。やらない道理はない.さっそ-孫子'六轟'左俸'国語'

ヽヽ

それに三史を読みたまえ--(孤崖欲卿治経番博士邪'但常令渉猟見往事耳'卿言多務'執若孤'孤少時歴詩書薩記左侍園語'惟不讃易七重統事以来'

省三史諸家兵書'自以為大有所益'如卿二人、意性朗倍'撃必得之'寧嘗不薦乎'宜急讃孫子六翁左停国語及三史)」(三闘志奥書呂蒙停注引江表俸54,)274

-5)。

か-て呂蒙はおおいに登奮し、奮儒も顧まけの学者とな

ったというのだが、ここではさしあたり'三史が兵書となら''(

あげられていることに注目したい。兵書というのは'具鰹的には

『孫子』であ-'

『太公六鶴』であるだろう。か-≡史、ひ

いては

『漢書』は、また軍謀智略を教えて-れる書物として読まれることがあ

ったのではないか。葛の先主劉備がその遺詔に

ヽヽ

おいて後主にすすめた書物の-ストにも'やはり

『漢書』があげられ'

『六鶴』があげられている。

「漢書や薩記を読むがよ

ヽヽ

い。ひまひまに諸子や六鶴、商君書にざ

っと目をとおせば'あたまのプラスになるだろう(可讃漢書艦記、間暇歴観諸子及六窟商君雷'

急人意智)」(三国志萄書先主停注引諸夢見集32,89))。

『漢書』

が兵書とならんで軍謀智略を教えて-れる書物として読まれる場合が

ったのではないかというこの推測'注

(14)にあげた桓範

『世要論』についての属国翰の解題に、

「書中多-兵を行

ること

を論ず。蓋し三園割接し、日・~に千曳を尋ぬ。・故に世を論ずる者詳びらかにこれを究めしならん」とのべているのはひとつの

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参考となるであろう。そしてこの推測をよりいっそうささえて-れる記銀は、

『三国志』にす-な-はないのである。すなわ

ち'夏侯淵の第三子夏侯稀について'従孫の夏侯港がその序をつ-つていう。

「稀、字は叔確。幼童のこ

ろから腕白蓮をあつ

めてその大将となるのが好きだった。遊びといえばきまって散華ごっこ。もし規律にそむ-ものがあるとそのたびに鞭で厳罰

ヽヽヽ

ヽヽ

を-わえ'だれもさからおうとするものはいない。父の淵はひそかにみどころがあると考え、項羽俸および兵書を講ませよう

としたが'いうことをきかず、やれることは自分でやるだけさ、ひとのまねなんてまっぴらだ、といった(栴字叔植'自孫子而好合柴

童鬼、馬之装飾'戯必為軍旗戦陳之事'有達者軌巌以鞭睡'衆莫敢逆'淵陰寄之'便意頂ハ羽俸及兵書'不昔日'能則白馬耳、安能畢人)」(親書夏侯淵博注

9,

27

3)。

「項羽本紀」といわずに

「項羽俸」といっているのだから、夏侯淵はまちがいな-

『漢書』を課本として用いようと

したのである。また菊の王平。

「卒は軍隊のなかで成長し、文字が書けず'わかるのはせいぜい十字にすぎなかったが、

口述

ヽヽ

筆記させ'いつもいわんとするところが僕理だっていた。またひとに史湊のもろもろの本紀、列俺を読ませて耳をかたむけ'

その大義をつぶさに知り'しばしば論評をおこなってその本指を失することがなかった

(平生長戎旋'手不能書'其所識不遇十字へ而

口授作書'皆有意理'使人讃史漠諸紀俸'浩之'備知其大義'往往論説'不失共指)」(軍書王平俸

4

3

,

)050)。

そして呉の留薯の場合はとりわけ

ヽヽ

ヽヽ

蘇著である。

「はげしい気性で、兵書と三史を愛漬した。古の名渚の戦闘の場面になると'いつも書物にむかってひとり嘆息

し、そして親近のものをよんでこういうのであった。いまや天下は乱れに乱れ'英雄豪傑がならびたっている。前代をながめ

わたしてみると、富貴となるのはだれときまっているわけではない・・・・・・(性烈'好讃兵書及三史、毎覚古良賂戟攻之勢、軌封書猫歎、因呼

諸近親謂日、今天下擾乱、英豪並起'歴観前世、富貴非有常人)」(呉書孫峻倦注引呉書6

4,

144

5

)。

(16)

時代が-だって五胡諸政権の君主たちのなかにも、

『漢書』の愛好者はす-な-なかった。劉元海しかり'石動しかり。こ

とに石助のことは

『世説』識堂篤にのせられて有名である。

「石勘は文盲であ

った。ひとに漢書を読ませて'鄭食共が戟図六

観の後南を封建するよう進言Lt印璽を刻んでいよいよかれらに授けようとする-だりになると、たいそう驚き'こんなやり

かたではきっと失敗する'どうして天下を保ちおおせたのだろうtといった。やがて留侯張良が諌める-だ-になると'

いっ

師古

の『漢書』注

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二三四

((i)

た。これがあったおかげだったの

(

石勘不知書'使人菌漢書、聞郵食其勘立六国後、刻印賂授之、大驚日'此法曹失'云何得途有天下'至留候諌'

連日へ旗有此耳)」。

ここにも

『漢書』から政治の智慧をひきだそうとする態度がはっ普-うかがわれるLt

北魂の大観道武帝の

『漢書』にたいする接しかたにもあいにたものがある。すなわち、道武帝は崖淵'字は玄伯をまねいて

『漢書』を講ぜしめた

(18)

が'婁敬が魯元公主を旬奴に降嫁させることをすすめる-だりになると'嵯欺することしばし、か-して公主たちはすべて賓

附の園に降嫁させることとなり'朝臣の子弟たちはいかなる名族美彦であろうともいっさい公主に伺することができな-なっ

たという(親書雀玄伯停24.

62))

替住家たちの時代

前章では'後漠'三園'さら疋五胡十六閥の時代tも

っ凄

ら為政者たちのあいだで'

『漢書』が刑政の寛際上の智慧をひき

だすべき書物として'あるいは軍謀智略をおしえて-れる書物として読まれる側面をもったことを指摘した。しかしその一方

では'はや-も後漢時代から'

『漢書』の注樺が書きはじめられていたのである。漠'貌'晋の

『漢書』注のあらましは'萌

師古の

「前漢書叙例」'それはおよそ十傑にわかれるのだが'その第二候に-わしい。そしてその末尾の第十候には'漢'魂'

晋を中心とする

『漢書』注家あわせて二十三人の名氏と昏里のリストもそえられている。それは師古注が名をあげて引-とこ

ろの'いわゆる香住に屠するひとたちのリストにはかならない。いま

「叙例」第二候にそいつつ漢'魂'晋の

『漢書』注につ

いて略速することにしよう。

「漢書にはがんらい注解がなかった。ただ服度'麿勧たちがそれぞれ音義をつ--、個別におこなわれた

(漢書奮無注解'唯服

虚底劫等'各為音義、自別施行)」。

服虚の椿はもちろん去後漢書』儒林俺にそなわっているが'『春秋左氏俸解』のことのみをいい、『漢書』注のことはいわな

い。情志に

「漢書音訓

一巻'服度撰」を著銀する。鷹勘の

「駁議」についてはさきにふれたが'

『後漢書』本俸には著書のひ

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とつとして

『集解漢書』をあげる(48,)614)。ただし陪志が

「漢書

一百

一十五奄'漠護軍班固撰'大山太守鷹勧集解」、「漢書集

解音義二十四奄'鷹勧撰」として著銀するものは、

「叙例」が後文で指摘し'また眺振宗が指摘しているようにへ前者は寮謹

撰、後者は臣墳撰とあらためるべきである。さてところで、服度、麿勧以前にも

『漢書』注がまった-存在しなかったわけで

はない。鷹勘の

『集解漢書』には'その書名からも想像されるように'先人の注樺が集められていたものと考えられる。おな

ヽヽヽヽ

ぅる

じ鷹劫の

『風俗通義』奄六聾音篇に'

「謹しんで漢書香住を按ずるに'菰は吹鞭な-。菰なる者は傑なり。其の節'威儀を憶

ヽヽヽ

わし-するを言う」'「謹しんで漢書注を按ずるに'荻は笛なり。其の聾音荻荻として'名白のずから定まるを言うなり」とあ

るほか'『史記』高租本紀

「其以柿馬朕場味邑」の集解にやはり

『風俗通義』を引いて'「風俗通義に日-'漢書注に、潤人の

語初の硬聾'

皆な其

ch'iと言う。

其なる者は楚言なり。

高組の始めて帝位に登るや'

教令に英と言い、後以って常と馬すの

み」(SH・8,81)

とあるのなどは'そのことをものがたっている。さらにまた

『漢書』文帝紀後六年夏四月'大草にあたりへ「倉

ひら

にぎ

灰を

て以て民を振

」したが'そこの師古住に引かれた麿勧説に、

「鷹初日く'水槽の倉を庚と日う。胡公日く'邑に在

るを倉と日い'野に在るを灰と日う」

(HP・4,)8b)とある。

師古注の鰹例から推して、

胡公の説はすでに鷹勧注に引かれてい

(a)

たものであるにちがいな

胡公は

『漠官解詰』の著者'胡虞であろうと推測される。

「¶ご

ともかく

後漢人の注樺としてはや-服度と鷹劫のものがそれぞれ畢猶に行なわれてお

'

それらをひとつに集めたのが'

西晋の育灼であり'また臣撃であった。

「叙例」につづけていう。

「司馬氏の西育時代になって音灼があらわれ、集めて

一部'凡そ十四巻とした。さらにいささか意をもって埼益Ltときに

は先人の薗否を耕じ'漢書集注と科した。たまたま永嘉の喪乳で晋室が流離達従すると、この書物はのこりはしたが'江南に

はつたわらなかった。か-して束音から梁へ陳にいたるまでへ南方の学者はだれも目にしていない

(至典午中朝、宴有菅灼、実篤一

部'凡十四雀、又頗以意増益、暗室的入歯否、坑日漢書集注'属永嘉喪乱'金行播遣、

此書経存.不至江左、是以宴自乗晋、迄干梁陳、

南方学者、皆弗之

鬼)」。

『漢

書』注

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晋杓は河南のひと。晋の尚書郎

(リスト参照)。

隅志に

「漢書集注十三奄'

菅灼撰」を著錬する。育灼注は江南にはつたわ

らなかったが、しかし五胡十六囲をへて華北にはつたわったわけで'この

一段には'南朝の学者が目晒しえなかった古い注樺

(21)

をわが師古住は利用しえているという自負がこめられているごと-に感ぜられる。つまり南撃に封立するひとつの立場を表明

したものと考えられるのであ

って'この鮎についてはあらためてと-あげる機合があるだろう。

「また臣項なるものがいるが'姓族はわからない。その時代を考えてみると、やはり晋初のひとである。かれはさらに諸家

の音義を維集したうえ、いささか自分の意見をそのおわりにつけ-わえて前説を攻撃し、またしきりに竹書を引用して解明で

きたとおもいこんでいるが、見営ちがいがないではない。凡そ二十四懸、二峡にわけられている。今日の集解音義がつまりこ

の書物である。ところが後世のひとはそれを目にして臣境

の著作であるとは知らず'腐勧たちの集解であると考えているしま

つだ。王俊の七志'院孝緒の七線いずれもそのように標題しているが'これはわかっていないのだ。学者たちはさらに嘆の姓

を掛酌し、あちらに-つつけこちらに-つつけして'なかには樽氏の

1族だというものがいる。だが明文がないからには'信

(22)

用するわけにいかな

(

有臣頓着'英知氏族'考其時代'亦在晋初'叉絶集諸家音義'粕以己之所見'横風其末'撃駁前説'菩引竹書、自謂戟明'非無

差爽、凡二十四巻七分薦南幌、今之集解音義、則是其書'而後人見老'不知臣嘩所作、乃謂之鷹勘等集解、王氏七志'院氏七線、並題云然、斯不審耳、学

者叉掛酌嘩姓'附著安施、或云博族へ既無明文'未足取盾)」。

(23)

汲家竹書の襲兄は西晋武帝の威寧五年

(二七九)ないしは翌年の大鹿元年'あ/h@いはさらに翌年の太康二年の事案であ

のことからも臣項を西晋時代のひととするのは愛普な見解であろう。新出の汲家竹書をつかっての史書研究は、営時の流行で

(24)

ったおもむきがある。ともか-臣項注が竹書をさかんに利用することへ以下に列記するとおりである。と-にその㈲㈲廟に

この

おも

ついて、顔師古が

「喜んで竹書を引き'自ら甑明せりと

いLも'差爽な-んばあらず」とのべる意味をも同時にくみとって

いただきたい。

資料Ⅰ

臣墳住所引の竹書

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高帝紀

「魂人周市略地豊柿、使人謂薙歯日'豊'故梁徒也

へ文穎日'晋大夫畢寓封貌'今河東河北牒是也、其後為秦所逼徒都'今魂

郡魂儒是也'至文侯孫恵三、畏秦'復徒都大梁'今漢儀螺大梁亭是也、故世或言魂恵三'或言梁意王、至孫慣馬秦所滅'韓東従於豊、

ヽヽ

ヽヽヽヽ

故日豊故梁徒也、臣項目'史記及世本、畢寓居魂'昭子徒安邑、文侯亦居之'汲郡古文云'恵王之六年'自安邑遷於大梁、師古日'魂

不常都於魂郡読解'喫説是也'其他則如文氏之樺)」(HP・tA,tta)

榊武帝紀元鼎四年

「詔日'条地巽州、陪望河洛、巡省濠州'観干周室'逸而無把、諭間者老'廼得華子嘉'其封嘉馬周子南君

人臣項目'

ヽヽヽヽ

汲家古文謂衛洛軍文子馬子南滴牟'其後有子南固子南勤'紀年'勤朝子魂、後悪成王如衛'命子南為侯'秦井六園、衛最後亡'疑嘉是

ヽヽ

衛後'故氏子南而稗君也へ初元五年為周承休侯'元始四年馬鄭公、建武十lll年封干瓢為衛公、師古日'子南'其封邑之競、以薦局後~

故紙言周子南君'墳説非也'例不先言姓而後栴君'且自嘉己下'皆姓姫氏'著在史俸Vt以奉周把」(HP・6,)9a~b)

ヽヽ

地理志

「右扶風・・・-杓邑

有幽郷、詩幽囲'公劉所都

(鷹初日'左氏俸日、畢原鄭俳、文之昭也、郁侯賀伯伐育、是也'臣項目'汲

郡古文'育武公滅苛以賜大夫原氏霜'是烏有叔'又云'文公城苛へ然別苛皆在晋之境内、不得在扶風界也、今河東有葛城へ舌苛図㌧師

古日'喫説是也'此杓議輿帯同'自別邑耳'非伐晋者)」(HP・28At,3

5

a)

「河東郡・・-・北屈

南京壷口山在東南、茶目駅北

八鹿初日'有南故栴北'臣頃日、汲郡古文へ窄章救鄭'次於南屈、師古日、屈音

居勿反、即育公子夷吾所屠)」(HP

1

2

8AL,5

(a)

「河南郡・・・・・・開封

逢池在東北へ或日'宋之逢滞也

へ臣項目'汲郡古文'梁悪玉護逢忌之薮以賜民、今漢儀有逢陵忌揮'是也)」

(HP.28At,73a~b)

「穎川郡--・陽覆

夏南国、周末、韓景侯自新邸従此、戸四高

一千六百五十'口十寓九千'茶目適用

(底初日'夏南都也、臣項目'

ヽヽ

世本'商都陽城'汲郡古文亦云居之'不居陽笹也'師古日、陽笹'本両所受封也、魔境之説皆非)」(HP.28At,86a~b)

「頴川郡--・父城

歴郷、故国'周武王弟所封

八鹿初日'韓詩外俸'周成王輿弟戯以桐葉番圭、吾以此封汝'周公日'天子無戯言'

ヽヽ

王廠時而封'故日鷹侯郷'是也'臣皆目'呂氏春秋日、成王以戯授桐葉番圭'以封叔虞へ非鷹侯也'汲郡古文'殿時己自有国、非成王

ヽヽ

之所造也'師古日'武王之弟へ自封麿囲、非桐圭之事也、庶民之説'蓋失之蔦'又接左氏俸云'邪音感韓へ武之穆也'是則鷹侯武王之

子'又興志説不同)」

(HP・

2

8At,90

a)

『漢

書』注

二三七

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二三八

ヽヽ

「北海郡--至欝八鹿初日,青空等、南後'今梯城是也'臣楽日'掛尋在河南、不在此也'汲郡古文云'大康居望苛'昇亦居之、

発赤居之、尚書序云、大鹿失邦、昆弟五人須干洛酌'此郎大鹿所居薦近洛也'文典起封貌武侯日'昔夏寛之居'左河済'右太華'伊閑

在英南、羊腸在英北,河南城馬値之、又周書度邑篇日'武王問大公日'吾勝因有夏之居、南望過千三塗'北陪望干有河、有夏之屠'郎

河南是也'師古日'癒説止云聖等本是南後耳へ何濠夏園之都乎'磯説非也'轟音掛)」(HP・2

8Al,83a)

あらためて

「叙例」の記述にもどろう。

「寮譲は臣喫注

一部すべてをとって漢書本文のなかにばらまいた。これ以後、はじめて注本があらわれたのである。だがか

んがえは浮薄、しごとは軽桃であ

って'慎重な鮎槍を-わえず、編纂は破綻を示し、錯乱のところはまことに多い。ときには

本文をきり離して鮮句を

へだててしまっているしまつだ。穿茎の説がみだ-におこってきたのは'まった-も

ってこのせいで

って'注を施さぬ以前とまるで面目がかわってしまった。茶漠みずから旦

三ヶ所に意見を-わえているが'学者にはま

ヽヽ

ったくや-にたたない(察蔑全取臣嘩l部、散人漢書'自此以来'始看江本'但意浮功洩'不加隠括、属輯蔀舛、錯乱賓多'或遭離析本文、隔其節句'

穿整妄起、職此之由'興未注之前'大不同奏、謀亦有雨三虚錯意'然於畢者'菟無弘益)」。

素読(二八一⊥二五六)'字は道明、は束管初の重臣の

一人。

『晋書』に健がそなわり'「麿勧以来の班固漢書に注せし者を総べ'

つく

これが集解を為る」(77.204))という。

「譲亦た爾三虞'意を錯

-有り」とは、けだしっぎの諸侯をさすのであろう。とくにそ

の制に注目していただきたい。

資料Ⅱ

師古住にみえる葉漠説

賓誼俸

「高皇帝以明聖威武郎天子位へ割膏朕之地以王諸公'多者百飴城、少者乃三四十願、甚至涯也へ然其後十年之間'反者九起'

陛下之輿諸公'非親角材而臣之也'又非身封王之也、日高皇帝不能以是

一歳馬安'故臣知陛下之不能也、然固有可讃考

日疏

(孟康日'

讃'累也、以疏馬具、言不以図也'葉訣日'讃者託也'尚可託言信越等以疏故反、故其下旬日、臣請試言其親者、親者亦侍壇為乱'明

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信等不以疏也、師古日、察説是也、讃音女瑞反)、臣請試言其親者」(HP・48,22

a

~b)

ヽヽ

葦賢停

「郷魯諺日'遺子黄金満篇'不如

一躍

(如淳日、麓、竹器、受三四斗、今陳留俗有此器'葉菜日'隔意者、言其多耳'非署名

也、若論陳留之俗'則我陳

〔留〕人也'不問有此器'師盲目、許憶説文解字云'旗'答也'揚雄方言云'陳楚宋魂之間'謂管為麓、然

別笹寵之屠是也、今書本意字或作盈、又是盈漏之義、蓋雨通也)」(HP

・73,4b~5

a)

貨殖俸

「昔尊王句践困於禽稽之上、適用花森計然

(孟康日、姓計名然'越臣也'察課目'計然者、滝泰所著書篇名耳、非人也、謂之

計然者、所計而然也'群書所稀句践之賢佐'種轟馬首'豊聞復有姓計名然老乎、若有此人'越但用牛策'便以致覇'是功重於花森、轟

之師也、蔦有如此而越園不記其事、書籍不見其名へ史遷不述其俸乎、師古日へ察説謬奏、接古今人表、計然列在第四等'山豆是花森蓄篇

乎'計然

l窮計研'改案戯日'研桑心計於無根、即謂此耳、計然者、漠上人也、博学無所不通'尤善計算、嘗南藩越、花森卑身事之、

其書則有寓物録へ著五万所出、皆直述之、事見皇覚及晋中経縛'又呉越春秋及越経書並作計侃'此則侃研及然'聾皆相近'薫

一人耳、

何云書籍不見哉)」(HP・9),3b~4a)

薬蓑以前の

『漢書』注はすべて畢注本のかたちでおこなわれていたのだが'ここにおいてはじめて注本が出現した。薬叢注

はほぼ全面的に臣喫注を踏襲しっつ'それを本文のなかに散人したのである。だが本文が割裂されたために、そしてしばしば

不普な割裂がおこなわれたために'後人のあいだにさまざまの穿蓋の説を生ぜしめる端緒をひらいた、と顔師古は非難してい

る。育灼注が華北につたわったのにたいLt薬譲注本こそ江南につたわった

『漢書』注の租本であったことをおもうと'それ

について顔師古がきわめて批判的な態度を持していることは'これまた記憶にとどめておくべきことがらのひとつであろうと

考えられる。

「叙例」の第二候は以上でおわるのだが'そこにのべられている関係を簡単に固示すればおよそつぎのようになるであろう。

馴撃

晋的-臣苧

-

ところでいわゆる奮注はこの五家にとどまるわけではない。

「叙例」第十傑のリス-には'これら五家のほかさらに十八家

『漢

書』注

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の名があげられている。煩をいとわずにいまそれをここにうつLtかつ必要に鷹じていささかの解説を-わえることとする。

「萄悦'字は仲濠。頴川の人。後漢の秘書監」。

先述したとおり

『漢紀』の撰者である。師古住はもっぱら本紀の注とし

て、

「高租

(萄悦日も

講は邦'字は季'邦の字を国と日う)」(高帝紀上

HPL

A,Lb)'「孝武皇帝

(葡悦日も

講は徹之'

字を通と日う)」(武帝紀

HP1

6.ta)のごと-'天子の謀を示すために苛悦の説を引用する.葡悦に

『漢書』の注があったわ

けではない。がんらい

『漠紀』に天子の講と避諸にかんする執筆例がそなわっていたのからの引用かと想像される。

「伏蕨'字は景宏。攻邪の人」。

「劉徳。北海の人」。

すなわ

「鄭氏。晋灼音義序に云-'其の名を知らずtと.而るに臣喫集解は

鄭徳と云う。欧に擦る所なければ'今は晋灼に

依り'但だ鄭氏と稀するのみ」。

菅灼の意見が尊重され'素読注本がもとづ-ところの臣喫集解の意見がしりぞけられてい

ることは'やは-注目にあたいする。

「李輩。出ずる所の郡鯨を詳びらかにせず」。

「李奇。南陽の人」。

「部展。南陽の人。魂

(まさに漢とあらたむべし。以下おなじ)の建安中'育成将軍と為り'高架郷侯に封ぜらる」。『三

国志』親書文帝紀注に引かれる曹基の

『典論』自叙に、あるとき管玉が酒のいきおいにまかせて'食膳の芋庶をとって郡展

と撃剣の手あわせをした話がみえている

(2,

90)。

「文穎'字は叔良。南陽の人。後漠末の剤州従事。魂

(漢)の建安中'甘陵府丞と為る」。

「張揖'字は椎誤。清河の人。魂の大和中'

博士と為る」。

余靖は

「1に河間の人と云う」と

「叙例」に注し'また

「た

だ司馬相如俸

一巻を解するのみ」と注している。

『庚雅』の著者である。

「蘇林'字は孝友。陳留外黄の人。魂の給車中'領秘書監'散騎常侍'永安衛尉'大中大夫。黄初中'博士に選り'安成

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亭侯に封ぜらる」。事績は

『≡闘志』親書高堂隆俸

(25,7)7)'劉勧俸注引魂略(2),62))

にみえ、古今の字指にあかるい経学

者。王粛俸注(13,

420)によると'

『魂略』は蘇林等七人を儒宗侍に列していた。

「張鼻'字は子博。中山の人」。

「如淳.満開の人.魂の陳郡丞」。

「孟康、字は公休。安平麿宗の人。魂の散騎常侍'弘農太守'領典農校尉'勃海太守'給事中へ散騎侍郎'中書令。後に

韓じて監と為り、麿陵亭侯に封ぜらる」。陪志に

「梁に漢書孟康音九奄あり」という。

い=.,

「項昭。何

の郡麻の人なるやを詳びらかにせず」。

挑振宗は隔志に

「漢書叙俸五巻へ項岱撰」とあるそのひとか'音詩

を避けて昭を岱とあらためたかtと疑がっている。そして項昭の説がただ叙侍の注にのみ引かれていることを注意する。

「葦昭'字は弘嗣。呉郡雲陽の人。呉朝の筒吾郎'太史令'中書郎'博士'祭酒、中書僕射。高陵亭侯に封ぜらる」。

なわち

『三闘志』呉書に博のそなわる葦曜である。情志に

「漢書音義七雀、葦昭撰」を著錦する。

「劉賓'字は道具。高卒の人。晋の中書郎'河内太守'御史中丞'太子中庶子'更部郎'安北播軍」。

余靖は

「皇太子に

侍して漢書を講じ'別に駁議あり」と注している。晴志に

「漢書駁議二雀、育安北婿軍劉寮撰」を著蘇する。

「郭瑛'字は景純。河東の人。晋の勝弘農太守」。余靖は

「ただ相如俸序および藩猟の詩賦に注するのみ」といっている。

郭嘆はもちろん

『青書』に侍がそなわる。

「崖浩-」。これのみは例外的に北魂のひと。考察はのちにゆずる。

ではこれら十八家とさきにあげた五家との関係はどうなるのか。王鳴盛にしたがえば'晋灼注には'服度、麿勅のほか'伏

備'劉徳、鄭氏'李斐'李奇、部展'文穎'張揖'蘇林'張畳'如淳'孟康、項昭'寿昭あわせて十四家の説が'そして臣喫

注にはさらに劉賓の説がとりいれられた。薬謹注本が臣喫注を全面的に襲うものであったことは先述したとおりであって、の

(25)

こる三家'すなわち苛悦'郭瑛'崖浩の説を師古注があらたに埼盈した、ということにな

『漢

書』注

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ともかくへ右の-ストを通覧すれば'観音の時代が

『漢書』注樺のひとつのピークをなしたことはあきらかであろう。いわ

ゆる奮注の時代でありtか-も多数の

『漢書』住家の出現は、

『漢書』がひろ-蔑まれ'常時のひとびとの教養の形成にあず

かったことに照麿する現象であった。

「史漠」は論談家たちの講書のひとつでもあって、

1日'名士たちが洛水に遊んだとき

のたのしさを'王術は栗鹿にこうかたっている。

「袈僕射

(装顧)は善-名理を談じ'混混として雅致あり。張茂先

(張華)

ヽヽ

は史漠を論じ'廉廉として聴-可し。我は王安豊

(王戎)と延陵と子房を説き'亦た超超として玄著す」(世璽墓相篇)。そして

そこの劉孝標注に引かれた

『晋陽秋』には'

「世租武帝があるとき漢のことについてたずね'建章千門寓戸のことにおよぶと'

張華は地面に園を葺きあげ'その鷹封ぶりは流れるごと-'張安世も顔まけするほどであった(世粗嘗問漠事'及建章千門寓戸、華墓

地成固'廠封如流'張安世不能過也)」といっている。あるいはまた鄭獣は'

皇后の父の楊駿からその女を息子の妹におしっけられる

ヽヽヽ

と、

「わたしはいつも喬不疑俸を恵み'日ごろからその人物をしたってお-ます。槽貴をおそれ遠ざけるのは'わが家代々の

俸銃であ-ます(吾毎讃篤不疑俸'常想英人へ畏速椎貴'契世所守)」(晋書溝)25

2

)と鮮過したLt華欝は晋の武帝にたいする封策文にお

なつ

つか

いて、

「西北に未だ

ざるの窺あり'殊漠に朝せざるの虜ありと経も'これを征すれば則ち師を努らせ'これを得るも則ち

ヽヽ

やしな

益なし。故に班固云-'其の地を有するも桝やして食らう可からず'其の人を得るも臣として

可からず。爽たれば則ち懲

らしめてこれを禦ぎ'去れば則ち備えてこれを守る、と(旬奴博質)。蓋し連を安んずるの術なり」と主張し

(同5

2,)450)'左恩

(.=

i)

は賓詮に請われて

『漢書』を講じ(同92,

2377

)'富洪には

『漢書抄』三十雀があ

(

隔志)等々'

『漢書』にかんする記事は鷹

接にいとまがないのである。そして

「名士優劣論」の一章に司馬遷と班国の優劣をとりあげた張輔が、その文章を

「世人は司

馬遷、班園を論じて'多-国を以て勝ると為すも'余は以て矢と為す」と書きだしているのは'けだし常時の

『史記』と

『漢

書』にたいする評債のおちつ-ところを示すものであろう。

「名士優劣論」の他の二章'すなわち嘗操と劉備、禁教と詩篇孔

明の比較論いずれも世人の常識を-つがえすところに張輔のねらいがあった。

「世人は司馬遷と班園を論評して'おおむね班

国の方がまさっていると考えているが'余はまちがいだとおもう。司馬遷は三千年のことを叙述するのに五十寓言'班園は二

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百年のことを叙述するのに八十寓言をついやしていて'班園は簡潔さでかなわない。およばざる第

一鮎である。良史の記事た

るや'善は勧奨とするにたりへ悪は堂戒とするにたるものだ。人の世のよしなしごと、あ-きた-の小事などをすみずみまで

普-必要はない。およばざる第二鮎である。晃錯をこきおろして忠臣の道を傷つけた。およばざる第一二鮎である。司馬遷は創

造であるうえ班固はそれによ-かかっているのだから、難易はますますおなじではない。しかも司馬遷は蘇秦'張儀'謂堆、

薬津のために博を書いて流麗な才筆を自由にあやつり'その鮎でもかれの大才は十分にあきらかである。これぞまことに良史

たるゆえんであ

(世人論司馬遷班固'多以固薦勝、余以馬失'造型

二千年事、五十寓言、固叙二百年事、八十萄言'固煩省不敵、不和

一也、良史述事'

善足以奨勘、悪足以蟹誠、人道之常、中流小事、無取皆書、不如二也、蟹敗晃錯'傷忠臣之道'不如三也'遷既造創'国文因循、難易益不同臭'叉遣馬蘇泰

張儀苗雄察揮作博、遥詞流離'亦足以明其大才、此虞所以薦艮史也)」(重文頬東壁

㌧人部品藻)。

以上にあげたひとたちは'蔦浜が束管初期

まで生存したのをのぞけば、すべて西晋時代に活躍した。

江南における漢書研究

さしもたかまりをみせた

『漢書』の注樺も'育室の南遷以後およそ百五十年ほどにわたってしばらく跡をたったごとくであ

る。束管の素読注本がいちおうの標準的なテキストと注樺を提供したからであろう。

『奮唐書』経籍志は

「漢書決疑十二巻、

顔延年撰」なるものを著銀するが'宋の萌延年、すなわち顔延之に

『漢書』注があったとは考えられない。

『新居書』重文志

が、顔遊秦撰とするのにまさにしたがうべきであろう。顔師古の叔父にあたる頚遊秦の

『漢書決疑』のことは第Ⅱ部でとりあ

げる。

さて注樺が妖落したおよそ百五十年間においていささか注目にあたいするのは、刑死を目前にひかえた(,e陣が獄中から甥姪

たちにお-った書簡であろう。

「がんらい史書にはかかわりがなく

ただただいつもわからないものだと感ずるばかりであっ

た。それが後漢書を書いてからというもの'しだいにてがかりがつかめるようになった。古今の君達や評論を子細に検討して

『漢

書』注

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二四四

ヽヽ

みるのに'感心できるものはほとんどない。班固はも

っとも高名であるが'ゆきあた-ば

ったりで鰹例がないから'順序だて

て論評できない。巻末の賛

(叙俸)は理窟からいっておよそ得るところがな-'ただ志の部分が推奨できるだけだ。そのひろ

-ゆたかなことはおよびもつかないLtきちんとととのったところはなかなかのものだ-・-

(ぼ-は後漢書に)あまね-諸志

を設けて'前漢書にあるかぎりのものはことごと-備えたい抱負をも

っていた。

(そこに記すことがらは)かならずLもそう

多-はなかろうが'ひとまず現在の文章で完了したものとする(本未開史書'政恒壁其不可解耳、既造漢書'特待統緒'詳観古今著述及評論'

殆少可意者'班氏最有高名'既任情無例、不可甲乙排'後賛於理近無所得'唯志可推耳、博賠不可及之'整理未必悦也'--欲偏作諸志'前漠所有者悉令備'

維事不必多、且使見文得壷)」(宋書

薫)830-))。

『後漢書』の撰者指揮の念頭をかたときも離れなかったのは'班園の

『漢書』のこ

とであ

ったのである。志の部分はともか-として、+,e陣にとって

『漢書』は否定される''(き封象ではあ

ったけれども'その存

在が

『後漢書』執筆の意欲をおおいにかきたてたのであ

った。かれは

『漢書』よりもむしろ

『史記』にならおうとした。『

漢書』班彪班固俸論はその多-を華帰におっているらしいが'司馬遷と班園の比較論に終始してまことに雄梓である。『漢書』

いえ

の謹厳整斉ぶりをおとしめ'『史記』のますらおぶりを顕彰して泥棒はつぎのごと-いう。「彪と園は蓬を競

って以馬ら-'是

もと

しりぞ

いな

非は頗ぶる聖人に謬る、と。然れども其の論議は常に節に死せるものを

'正直を

み'而して身を殺して仁を成すことの

はなは

美たるを叙べざるは、則ち仁義を軽んじ'守節を賎しむこと愈だしきなり」(40B.)386)0これら指揮の史論にかんしては、拙稿

「謂陣と劉知幾」(東海史単四)を参照していただければ幸わいである.

しばらく跡をたっていた

『漢書』の注樺であ

ったが'南斉にいたってようや-陸燈のものが出現する。隔志に

「漢書注

一巻'

斉金紫光禄大夫陸澄撰」、

また

「梁有--陸澄注漢書

l百二奄」と著錬されるものである。

その残閑すら今日には停わらない

が'幸わいにも

『史通』補注篇によってその艦載の大要を知ることができる。

「--さてつぎに好事家で異聞をひろめようと

おもいながら'才能力量が不足し'自分の力では成就できないものは、先人の機尾に付し'千里の駒として衆人にぬきんでよ

ぅとする。かくてさまざまの史書のことなった記銀をつづりあわせ'先人の著作のかけたところをおぎなおうとするのである。

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ヽヽ

襲松之の三国志注'陸澄'劉昭の南漢書注'劉形の晋紀注、劉孝標の世読注の類がそれだ

(次有好事之子'思虞異聞'而才短力微'不

能白蓮、庶漁機尾、千里絶群、逐乃援衆史之異断つ補前書之所関、苦衷桧之三国志陸澄劉昭雨漢書劉形育紀劉孝標世説之類是也)」。

「陸燈の漢書注は

大部分が史記の引用であ

ってtもしこちらが

一言をかき'あちらが半句を埼しておれば'すべてそれを摘みあげて注樺としへ

異説だと標模しているが、耳目をごまかすだけであ

って披閲にたえるしろものではない

(陸曹所注班史、多引司馬遷之書'若此紋1言、

彼櫓牛旬、皆採摘成注、標馬異説'有昏耳目'難馬披覚)」。

つまり

『漢書』そのものに即しての注樺ではな-して、も

っぱら

『史記』と

の異同をひろい'それを異聞として集めた注樺であ

ったことを知る。

そのほか南斉の時代には'注鐸こそ著わすにはいたらなかったけれどもへ

『漢書』に精通した人物として崖慰組があ

った。

「学問を愛し'その緊書は寓巻にのぼ

った。‥-・建武中、詔をも

って士人を推挙させたとき'従兄の崖慧景は慰組と平原の劉

孝標の二人を碩学として推零した。明帝は騒令にこころみようとしたが'慰租は節過して就かなかった。園子祭酒の沈約㌧更

部郎の謝挑たちが'ある日'吏部の役所で賓友あいつどったとき'それぞれ慰租に漢書地理志の不明の箇所十飴事について質

問した。慰租はども-であ

ったため採否さわやかというわけにはいかなかったが、こたえの毛とづ-ところは精確をきわめへ

同席した面々ははめちぎ

った。謝廓は'たとい班固、司馬遷が生きかえ

ったとしてもPこれ以上にはゆ-まいtと感心した。

--死をひかえて従弟の崖緑にあたえた書簡につぎのようにのべている。日ごろから司馬遷、班国の二史にあらためて注樺を

普-つもりで、史記、

漢書が遺漏している二百飴事を採

って手文庫にしまってある。検討書寓して大意を存するがよい--

(好学'柴書至薦巷、・・・-建武中、詔撃士'従兄慧景撃慰組及平原劉孝標並碩学'帝欲試以百里'慰租節不就、国子祭酒沈約、吏部郎謝跳'嘗於吏部省中賓友

倶集、各悶慰租地理中所不悉十能事'慰組口吃'無華酢、而酬授精悉、l座構服之'跳歎日、慣使班馬復生'無以過此'・・・・‥臨卒p輿従弟経書云、常欲更注

遷固二史、探史漢所漏二百飴事、在厨盤'可検寓之'以存大意)」(南哲書文撃侍

52,90㌢2)。

崖慰組が意固したところも、

「史漢漏らす所の

二百飴事を探

って」というのだから'やはり異聞を集めんことをねらいとした注樺であ

ったことはあきらかである。やがて説

かれるように'梁代になるとにわかに大量の

『漢書』注が出現するのだがへそれらについてうかがえるひとつの特色は、陸澄

師青

の『漢

書』注

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二四六

や崖慰租によって先鞭をつけられたところの傾向'すなわち異聞を集めるという鮎に存した。顧師古は

「叙例」の第九候に、

「近代の史注は該博を競い'どっさり雄視を引いてきては本文を攻撃している(近代注史、競馬該博'多引雅説、攻撃本文)」とのべて

いる。これはあきらかに江南の

『漢書』注を意識して吐かれた言葉なのであるが、江南の

『漢書』注が異聞を集めることをひ

とつの特色としていたと考えてこそ理解しやすいものとなるであろう。そして顔師古がいみじ-も

「競

って該博を為す」と喝

破した近代の史注の性格は'それはそのままうつして江南'とりわけ斉梁時代の精神的風土とすることができるのではあるま

いか。とすれば'江南の

『漢書』注はやはりかかる精神的風土の所産たることをまのがれなかった。いましばら-本題をはな

れてその方面についての概観をこころみょう。

賓梁の士大夫たちは、奇をてらい'他人の意表をつき、知識をひけらかすことに生きがいをみいだしたごと-に感ぜられる。

そうすることがかれらの知的プライドを保護し'滞足させて-れたのであ

った。かかる精神の夜露は、なによ-もこの時代に

おける類書盛行の現象にみとめられるであろう。革書は撰者自身の知識のひけらかしであるとともに'知識のひけらかしを必

要とした士大夫

一般の需要にこたえるものでもあ

った。類書のなかでもとりわけ梁の劉孝標の

『紫苑』と梁の武帝勅撰の

『華

(節)

林遍略』であ-、肩書の成立にかんしては出入をともなった諸記銀が

『梁書』『南史』に散見する

'

唐の杜賓の

『大業雄記』

は両書の関係をかたってまことに興味ぶかい。

「秘書監柳顧言の言にいわ-'梁主は隠士の劉孝標が類苑百二十巻を撰透して'

天下のことはすべてこの書物につ-されており、

一物として遺漏はないと自慢したため'梁武は内心承服できず、さっそ-華

林囲撃士七百除名に勅命して、

一人ごとに

一巻を撰逮させた。その事類-項目別事例-は紫苑にまさること数倍であ

った

(秘

書監柳顧言日'梁圭以隠士劉孝標撰頼苑1百二十巻'日吉天下之事、畢轟此書、無l物遺漏'梁武心不伏'郎赦華林園畢士七百鉄人、人撰1番ー其事類数倍

多子類苑)」。

このように'

一人の隠士と天子とすらが博識をきそってたがいに張りあわなければならなかったのである。そして

詩文についても'ひとの知らないめずらしい典故の頻用がめだった。「宋の孝武帝の大明年間'贋帝の泰始年間には、文章は書

物の抜きがき同然とな

った。最近の任妨'王融たちは'言葉の新鮮さはそっちのけで'競

って目あたらしい故事を使用し、そ

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れ以来、そのことが作家たちのあいだではしだいに流行現象となっている(大明黍始中、文章殆同書砂'近任肪王元長等、詞不意寄、競須

(28)

新事'爾来作者、辱以成俗)」(詩品総論)。

そもそも類書がなによりも詩文制作の需要にこたえるものであ

ったこと、いうまでもな

い。

またあらたな材料を博捜すべ-釆書もさかんにおこなわれたが'そのさいにも、部数の多きことをほこるのもさることながら'

このんで異本の蒐集につとめられる傾向があ

った。

「王債務は書籍を愛好Ltその末書は

l寓奄あまりにものぼ

ったo大多数

ヽヽ

が異本であ

って、沈約、任肪の蔵書に匹敵した。わかいときからとても

エネルギッシュで'目にしない書物はないというあり

さま。その文章は光彩陸離として'ひとがみたこともない目あたらしい故事を多用LF世間ではその豊かさをめでた

(滑稽好頃

籍'界托墨寓絵巻、率多異本'輿沈約任坊家書相埼'少篤志精力'於書無所不晴へ英文麗逸'多用新事入所未見者'世重其富)」(梁書

33,474)。

「文才

をも

って認められ'時人は、任坊の散文に沈約の詩'とよんだ。任坊はそのことを耳にしてたいそう気に病み、晩年にはしだ

いに詩作をこのんだ。こうして沈約をだしぬいてやろうと考えたのだが、典故使用過多のために表現がなめらかにゆかない。

以後、都人士がそれをしたったためいっそう穿峯にかたむきtか-して才がすりきれてしまったとの評判がたった。博学であ

ヽヽ

って典籍で目にしないものはな-、家は貧しかったが緊書は

〓尾篭あまりにのぼり'大多数が異本であ

った。かれの死後、梁

の武帝は学士の賀縦に命じて沈約とともにその書目を調査させ'官府にない書物をかれの家からめしあげた

(既以文才見知'時人

云任筆洗詩、坊間甚以馬病'晩節轄好著詩'欲以傾沈'用事過多、属節不得流便、自爾都下土子慕之、韓馬穿整、於是有才義之談桑'博学'於書無所不見'

家雅貧'異書至寓絵巻へ率多異本へ及卒後、武帝使学士賀縦共沈約勘其書目'官無者就其家取之)」(南史

59,)455)。

そしてゆきつ-ところ'知識

(29)

のひけらかしはついにひとつの遊戯とまで化したのである。

両帝の王俊がはじめたとったえられる隷事がそれであ

って、隷事

とは'和語にうつせばさしづめ

「ものはづ-し」。「物を類してこれを隷す」と定義されるように、あるひとつの物名が出題さ

れると、それに関連する古人の詩文をい-つ列挙しうるかで勝敗をきそった。そして注目されるのはへその題と答とが額書の

項目と項目のもとに列挙される事例とにそのまま封鷹することである。

『紫苑』の撰者劉孝標も'

『華林遁略』を勅撰させた

(30)

梁武も'常然のことながらいずれおとらぬ隷事のマニアであ

-

'

さらにまた

『漢書』注を著わした両帝の陸樫もやはり隷事の

『漢

書』注

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名手であ

ったことを'このさいと-にいいそえておかなければなるまい。

「王俊は備蓄省で衣裳箱や机のなかのこまごました

服飾品をとりだして'学士たちに隷事をやらせ'列畢したことがらの多いものに-れてや

った。めいめいそれぞれひとつかふ

たつのものをせしめたが'おくれてや

ってきた陸燈は'面

々のだれもが知らないことがらをさらにそれぞれ教候づつあげると'

品物をす

っかりかっさら

って出ていった(倹在荷書省'出巾箱机案薙服飾、令畢士隷事'事多者興之'人人各得一雨物へ澄後来、更出講入所不知事'

復各数候'井奪物婿去)」(南弊害

39,685)。

本題にもどろう。南斉の陸燈にひきつづいて'梁'陳の時代には蜜におびただしいばかりの

『漢書』注が出現した。後漢末、

魂'音の時代に

『漢書』注の第

一次のピークが存したとすれば、この時代こそその第二次のピークであ

ったということができ

る。それら語注樺のご-

一部をのぞいて

一片の残間断文すらのこされていない今日では'もはやその内容な-性格なりを的確

に把握することはむつかしいが'俸統的な訓話の注樺にまじって、珍奇な材料を集めて注輝としたものがやはりす-なくなか

ったのではあるまいか。隔志に著錬されるものを以下に摘み、若干の解説をほどこそう。

「漢書音二奄'梁の尋陽太守劉蘇撰」。劉鰐(梁吾

40,570以下'南史5

0,)239以下'四八l-五四三)の

『漢書』にかんする記事が

『顔氏家訓』書謹篇につぎのごと-みえている。

「田有賀上tの漢書の

一文

(高帝紀下

H

P

.

L

B,

8a)、江南のテキストはすべて

ヽ膏の字に作

っていた。挿図の劉顕は経籍を博覧し'とりわけ班園の漢書に精通しており'梁の時代'漠聖とよばれたが'顕の

子の劉頚は家業をおとすことなく

漢書を読んださい田宮とよんだ。梁の元帝があるときそのわけをたずねると'こう答えた。

なぜそうなのかはわかりませぬが'ただ臣の家に古-からつたわるテキス-は雌黄で智を宵とあらためております。

元帝は文

句のつけようがなかった。わたし

(顔之推)が江北にや

ってきて'テキストをみたところ官とな

っていた(漢書田官賀上,江南本皆作

育字'挿図劉顕博覚経籍、偏精班漠'梁代謂之漢聖、顕子療不墜家業、讃班史呼薦田官'梁元帝嘗問之'答日、此無義可求'但臣家書本,以雌黄改有馬官,

元帝無以難之'吾至江北'見本薦官)」

(loo且)。漢書の嬰は寛に挿図の劉氏の家撃であ

ったのであり、やがてのちに劉頭(障害文学停

7

6

.

1731以下、北史文苑停

83,2809以下、五二七-九八)もやはり漠聖の異名をとることとなる。そして

「義の求むるべきなきも」とい

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う劉頭のかた-ぶりは'劉氏がいかにもいわゆる師法の俸承者であったことをによわせてはいないであろうか。萌氏の漢書の

(31)

嬰は'顔之推以来'この劉氏とふかいつながりがあったのではないかとわたしは想像してい

(32)

「漢書音二巻'夏侯詠撰」。夏侯詠の名も

『周易』萄才注との関連で

『家訓』書讃篇にみえている。

「漢書績訓三巻'梁平北諮議参軍葦稜撰」。

京兆の毒氏が江南王朝に仕えたのはかなり時代がお-れる。

葦稜の骨組父にあ

たる葦玄は終南山に隠棲Lt後秦王朝の征服に成功した劉裕の群召にも慮じなかった。そして大伯父の葦組征へ組父の葦租蹄

がようや-宋末に出仕した。父の葦叡は寓石君ならびに陸票のひととなりをしたい'二人の像を壁に蓋いてたのしむ漢代主義

者であったが'その健につづけていう。

「そのころ年老いてはいたが'それでも関目には子供たちに学問を課した。第三千の

稜はとりわけ経史にあかる-、世間ではその博識をたたえた。叡はいつも稜を坐らせて書物について説明させたが、かれの婆

明指摘するところは稜とても足もとにおよばなかった。--稜、字は威直。--漢書讃訓三雀を著わした

(時雄老、暇日猶課諸兄

以撃'第三子稜尤明経史'世栴英治聞、叡毎坐稜使説書'其所草地、稜猶弗之達也、・--稜字威直'・-・・著漢書績訓三巻)」

(梁書

)2,225-6)。そして

葦稜の姪'葦我の侍には'叔父の葦稜につれられて劉寂を訪問した記事がある。

「十二歳のとき'叔父の稜のあとについて苗

圃の劉顕と面合した。劉顕が漢書中の十事について質問したところ、我はすらすらと鷹答し、なんらよどむところがなかった

(年十二、随叔父稜見浦図割顕、顕問漢書十事'載随問鷹答、骨無疑滞)」

(陳書

18,24

9

)。

葦氏もおそら-

『漢書』を家撃とした家であった

だろう。おそ-南朝に仕えた葦氏には、華北系統の

『漢書』のテキストないし注樺がつたえられていたはずである。それは江

南人にとっては異本であったにちがいな-、おおいに歓迎されたことであろう。想像をた-まし-すれば、潤図の劉氏のテキ

ストが

「田膏」を

「田宮」とあらためていたのも'あるいは葦氏からえた知識にもとづいたものかも知れない。

「梁有・・・・・・劉孝標注漢書

一百四十雀'亡」。

事案の博捜につとめる

『世説』注ならびに

『紫苑』の撰者であり'

隷事の名手

でもあった劉孝標の

『漢書』注は'おもうにおおいに異聞を採集した注樺であったろうか。

「梁有・・・・・・梁元帝注

一首

1十五奄'亡」。

『梁書』本紀

(5,)36)'

『金槙子』著書簾にも同様につたえ'また兄の簡文帝から

『漢

書』注

二四九

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二五.〇

寄せられた書簡の

一節にいう。

「漢書注樺のしごとはしだいに目鼻がついたことだろう。その書物をみたいとおもうこと'飢

えにたいするおそれよりはげしいものがある

(珪藻功夫'特有次第'思見此書'有甚飢蕗)」(慶弘明集撃

l七

大正蔵奄五二㌧304C)。

「漢書訓纂三十奄'陳吏部尚書桃察撰Lt「漢書集解

一巻へ桃察撰」'「定漢書疑二奄'桃察撰」。眺察、字は伯審(陳書2

7,348

以下'南史

69,)689以下、五三三I六〇六)。陳

一代を代表する学者でありP陳の滅亡後は晴に仕えた。陳の大建

(五六九-八二

)

のは

じめ、陳王朝の使節として北周の国都長安をおとずれた桃察はへ普地において'劉顕の子の劉頭と面合した。そしてあいてか

『漢書』中の疑事をたずねられた。劉頚は五五四年の梁の元帝政催崩壊以後、しばら-後梁王朝に仕え'さらに北周王朝に

仕える身となっていたのである。

「江南の長老たちではや-から閲中に移り住んでいたものたちは'いっせいに期待の日をむ

けた。潤園の劉頭はこっそ-公館で漠書中の疑事十飴候について質問したが、すべてにわたって解析してみせ'いずれもたし

かなよりどころがあ

った

(江左巻奮先在関右者、成相慣慕う浦闘劉療病於公館訪漢書疑事十飴候、並馬剖析'皆有経嬢)」(陳書

27,348-9)。

『定

漢書疑』は'その書名から推して、あるいはこのときの問答の記銀であろうか。桃氏も

『漢書』を家業とし、挑察の子の眺思

廉'さらに-だっては曾孫の眺挺にまでつたえられた。それらのこと'ならびに眺寮の

『漢書』注の内容と性格については、

師古住との因縁があさ-ないので、第

Ⅱ部においてあらためてとりあげることとする。さしあたってここでは'陳滅亡以前に

江南の漢書の撃がすでに到頭によって華北につたえられたこと'また華北に遭

った劉頭が'そのごの江南における

『漢書』注

樺の成果を吸収することに熱心であ

ったことを指摘するにとどめておこう。

梁、陳時代に撰逃された

『漢書』注はあらまし以上のごと-であるが、

『漢書』研究の隆盛と軌を

一にし

て'

の時代に

『漢書』がひろ-読まれたことを澄する記銀は'やはりどの時代よりもtかの貌晋の時代にもまして'めAJつて多いのである。

すなわち'

「一度蔑んだものはかならず口に詞することができた。あるときひとから漢書を借り、五行志四巻をなくした。そ

ヽヽ

こでそらで筆寓してかえしたところ'ほぼ脱漏はなかった(所璽

遍'必詞於口、嘗偉人漢書'失五行志四巻、乃暗寓遠之,略無遺脱)」(梁書

陸値停

27,401)。「そのころ西北追境外に自題と滑図なる二園があ-、使者を遣わして嶋山道から入貢してきた。この二国は歴

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代案附したことがな-、その出自がわからなかった。葉子野はいった。漢の寂陰侯潅嬰は胡の自題の将軍

一人を斬

ったとあり'

(33)

そこの服虚注に、自題は胡の名なり、という。また後漢の定速侯班勇は虜を撃

って八滑が従

ったとあるが、これはその後南で

あろうか。

時人はその博識に感心した

(是時西北倣外有白題及滑国'遣使由眠山道入貢'此二圃歴代弗賓'英知所出へ子野日'漠穎陰侯斬朝日題

賂一人'確度注云、自題胡名也、叉漠定遠侯撃虜、八滑従之'此其後乎、時人服其博識)」(同葉子野停

30,

443)。

「諸子範はわか-して弟の子蘇'

子雲と才能名聾ともにほぼ匹敵したが'風釆容止の鮎でひげをとり、そのため官途に優劣が生じた。漢書に、杜緩兄弟五人は

(34)

そろって大官にのぼ

ったなかで'ひとり中の弟の欽だけはたいして出世しなかったにもかかわらずも

っとも有名であっ

'

あるのを読むたびに、いつもそれを吟話してわが身になぞらえた(子範少輿弟子顕子雲才名略相比、

而風采容止不達'故官途有優劣、毎讃漢

書'杜緩兄弟五人至大官'唯中弟欽官不至而最知名'常吟誠之'以況己也)」(同茄子範俸

35,

5)0

)。

「-・・・こんどはまた周桧が劉杏にたずねた。

ヽヽ

尚書の役人が紫荷嚢を身につけることを'あいつたえて撃嚢といっているのはいったいなににもとづ-のか。香はこたえた。

つか

漢書張安世俺に'葉を持し筆を暫して孝武皇帝に害えること数十年tとあり、そこの童昭'張曇の注にそろって、嚢は襲なり'

(35)

近臣は筆を替して以て顧問に待つ、

とあります(周捨叉問杏'尚書官署紫荷変へ相俸云警察、菟何所出'香答日へ張安世俸日p持変哲筆'事孝武

皇帝教十年'葦昭張委任並云、莞薬包'近臣替筆以待顧問)」(同文撃劉香停50

,

716)。

あるいは謝僑

一家が

一日の食事代にもことかいて子

ヽヽ

供たちが

『漢書』を質にいれてはと提案したとき、億は

「むしろ餓死しても'これをめし代にあてることができるものか(寧餓

死、豊可以此充食乎)」(南史謝弘徽停

20,

56

5)とつっぱねた。梁の武帝もやはり

『漢書』を謹んだ。南鄭に出陣して勝利をおさめな

がら、讃言のため位階をすすめられなかった劉之亨の俸にいう。

「やがて帝は漢書陳湯侍を謹み、陳湯が絶域に戦功をたてな

がら文更によって罪にあてられたことを残念がった。そのとき官者の張恰胤がいった。うわさに聞きますと'世評ではひそか

に劉之亨の立場がよ-似てるといっているそうです。帝ははっと気づき'そこで臨江子の爵位をあたえた

(久之帝讃陳湯嘩

恨共

立功絶域而馬文吏所抵、怪者張倍胤日、外聞論者'鏑謂劉之亨似之'帝感情、乃対馬臨江子)」(南史劉臥俸50,

)2

52)。

また陳代のこととして'「

に陳賓麿は閲中に割接し'虞寄を輩下におさめることができて非常によろこんだ。--やがて賛腔が留異と縁組をむすび'ひ

師古

の『漢書』注

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二五二

そかに逆謀をいだ-におよんで、かれの考えに感づいた虞寄はう談論するさい、いつも逆順の道理をのべてはそれとな-遠ま

わしに諌めたが'賢慮はきまってほかのことに話題を梅じてよせつけぬ。また

一日、寮鷹は左右のものに漢書を讃ませながら'

rlへ

療ころがってそれをきいていたが'刺通が韓信にむかって'君の背を

るに貴きこと言う可からず、と説--だ-になると'

賓麿はがばと起きあがり、智士というべきだtとさけんだ。虞寄は色をただしていった。鄭食共を-つがえLt韓信をおごら

(36)

せ'とても智と稀するにはあたらぬ。班彪の王命論が帝展すべきところをよ-わきまえているのとは-らべものにはならぬ。

‥・・・・(時陳賓鷹接有閑中、得寄甚菩'--及賓鷹結婚留異'潜有逆謀、寄故知其意'言説之際'毎陳逆順之埋'徽以瓶諌'賓麿凱引説他事以拒之'又嘗令左

右詞漢書'臥而聴之'至刺通説韓信日相君之背'貴不可言、賓鷹政然起日'可謂智士、寄正色目'覆鄭硫韓'末足稀智'豊著班彪王命識所蹄乎)」

(陳書虞義

)9,

258

-

9

)。そのほか梁の威厳や陸雲公たちは

『漢書』をほぼ詩論できたとつたえられるし(梁書

50,7)9および724)'江子

「黄圏及び班園の九品」'すなわち

『三輔貴国』と

『漢書』古今人表を績纂し(同

4

3,609)'

衷峻は

『史記』と

『漢書』の抄

銀各二十巻をつ-った

(同49,

689)。

さいごにいい忘れてならないのは'北乗の衛によって江南にもたらされた班固の

『漢書』民本なるもののことである。それ

はやはり梁代のできごとであ

って'ことのいきさつは

『梁書』帯環俸(26,

397)

と劉之速俸(40,572)

とにみえている。はじめ薄

紫が宣城太守であ

ったときのこと'爾塵をたずさえてやってきた

1北衆の僧が、そのなかに

『漢書』序侍をしのばせていた。

健のふれこみでは'三輔の古老たちが班固の異本であるといいつたえているしろものであり'帯環はさっそ-それを購いもと

めた。

「その書物は今本との異同が多-、しかも紙も墨も古びておりP文字はおおむね龍がはねる形

(?)であって隷書でも

纂書でもなかった

(其吾多有異今者'而紙墨亦古、文字多如龍畢之例、非隷非寡)」のを蒲環は秘蔵していたが、天監九年(五一〇)、江夏太

守に赴任するにあたって'都陽王蒲範にゆずりわたし、蒲範からさらに東宮に戯上された。ときの東宮は昭明太子である。太

子は

「班固たてまつる所の漢書民本」と今本との異同の校勘を'劉之速ほか張贋、到概'陸裏たちに命じ'その結果

「異状十

事」'記録にとどめられているのは八事tが報告された。

H

古本漢書には

「永平十六年五月二十

l日己酉'郎の班固たてまつ

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る」と稀するが'今本には

『漢書』をたてまつった年月日をかいている。⇔古本では叙俸を中簾と親し、今本では叙侍と稀し

ている。臼今本の叙侍には班彪の事績を記載しているが'古本では

「彪は椎を生む。白のずから俸あり」とある。幽今本では

紀、表'志'列博をひとつに合していないが'古本ではひとつに合して順序づけ'あわせて三十八雀を成す。飼今本では外戚

侍を西域侍の後にお-が'古本では外戚健が帝紀のつぎに位置する。銅今本では高五子俸'文三王停'景十三王俸'武五子俸'

宜元六王健は諸博の幌中にばらばらにおかれているが'古本では譜王健はすべて外戚博のつぎに位置し'陳勝項籍俺の前にお

(節)

かれている。田今本

(叙俸)には韓彰英慮呉速に

「信惟餓隷、布賓蘇徒'越亦狗盗'丙声江湖'雲起請壌'化馬侯王」という

のを'古本の速には

「漁陰毅毅、杖創周章、邦之傑子p棄惟彰英'化馬侯王'雲起請鷹」という。㈹古本の第三十七巻は音義

を解樺して訓話をたすけるが'今本にはこの巻をかいている。

古本とよばれているのがいわゆる

『漢書』異本'今本とよばれているのが梁代通行のテキストであって'いわゆる今本はま

(38)

た鱒をのぞけば今日われわれが目にするところのものとほぼ挙りはないのだ

'

いわゆる

『漢書』異本なるものの素性につい

ては疑がうべき鮎があまりにも多すぎる。そもそも蒲深博ではあ-まで

『漢書』序侍にしかすぎなかったはずのものが'劉之

選健ではいつしか

『漢書』

一部全鰹にふ-らんでいるのからしておかしい。けだし江南人の

『漢書』愛好熱、わけても異本愛

(39)

好癖につけこんだ好事の徒の手になる贋物tとみるのが愛常な見解ではあるまい

昭明太子が劉之蓮たちの報告にもとづい

ていかなる判定を-だしたかは知るよしもないのだが'す-な-とも太子編纂の

『文選』のとるところとはなっていない。そ

の奄五〇に

「史速賛三首'班孟堅」として

『漢書』赦俺から三首とるうちの

一首は'ほかならぬ

「速韓英彰慮呉俸第四」なの

であって'その文章はいわゆる今本のそれと完全に

一致している。そしてもちろん顔師古のとるところとはならず'今日の

『漢書』叙樽と

『文選』の両者も

一致している。ただしちなみにいえば、顔師古は昭明太子とことなり、

「史逮」とか

「漢書

速」とかよぶことには反封であった。そこにも南撃にたいするひとつの態度表明をよみとることができるのではないかとおも

おお

われるのだが'叙俸下

「英銀日」に注して顔師古はつぎのごと-いう。

「師古日も

皇臭漠租-

いなるかな漢租-以下の譜

『漢

書』注

二五三

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鼓は'すべて班園が漢書撰述の意圏をみずから論じたものであ

って'これも史記(太史公自序)の叙目にならったのである。司馬

遷は某事のために某本紀'其列侍を作るといっているが'班国は謙遜してそうはいわず'あらためて述べるといったのだ。け

だし'作者これを聖と謂う'というのを避けて、逮老これを明と謂-(艦記柴記)'というのをとったのであろう。ところが後世

の聾者にはこのことがのみこめず'漢書の叙目にげんに速の字があるため'それでこの文章は漢書にのべたことがらを迫逃し

(瓜)

たのだと考えて漢書速とよんだりしているが'まちがいもはなはだしい。撃虞ですらこの誤りをおかしている。ほかのものな

らなんら不思議ではないだろう(師古日'自皇臭漢租以下諸穀、皆班固自論撰漠善意'此亦依放史記之赦日耳、史遷則云馬某事作某本紀某列俸'法固

託不言然'而改言述、蓋避作者之謂聖'而取適者之謂明也'但後之尊者不暁此'馬漢書叙目見有連字、困謂此文追述漢書之事'乃呼薦漢書述'失之速粂'聾

虞固有此惑'其絵馬足怪乎)」(HP

100B)tb

)。

華北における漢書研究

五胡十六図から北朝にかけて'華北の

『漢書』研究は'江南におけるがごとき盛況を経験することな-しておわった。そこ

ではついに

一篇の

『漢書』注すら書かれなかったのである。顔師古は

「叙例」の-ストに北魂の崖浩の名をあげ'師古住は崖

浩の説を引用している。しかし'崖浩が著わしたのは

『漢書』注ではな-'葡悦

『漠紀』の音義であった。江南にはあまたの

『漢書』住家が輩出したにもかかわらず'かれらを完全に獣殺し'反封に

『漢書』注家ならざる北魂の崖浩を優遇する顔師古

の態度は、やはり軽々にみすごすべきではないであろう。

崖浩T字は伯淵(親書

35,807以下、北史2),

772以下'p-四五〇)は清河のひと。遥武帝、明元帝'大武帝の三代に仕えた北貌

王朝草創期の大官である。遥武帝のために

『漢書』を講じた先述の襟玄伯はその父であ

って'裡玄伯は曹魂の司空崖林からか

ぞえて六世の孫にあたるから、蕃族の雀氏にはあるいは漠'魂へ晋の倦統ある

『漢書』の師法がつたえられていたのかも知れ

ない。ともかく

新奇な説やテキス-をおいもとめ'そのためにとか-新注が奮注を駆逐しがちであ

ったろう江南の情況とは

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ことなり、胡族政櫓下で生活することを飴儀な-された華北の漢人士大夫たちのあいだでは'中図の斯文にたいする態度にも

おのずからことなったものがあ

ったのではなかったか。新注を生産するよりも'むしろ俸統ある奮注をたいせつに保存し、そ

(41)

れを後世につたえることにつとめたのではなかったか。六朝軽挙史上、江南では周易は王弼注'尚書は孔安国注'左侍は杜預

注がおこなわれたのにたいLt華北では周易と尚書は鄭玄注'左侍は服度注と'いずれも漢人のより奮い注がおこなわれたこ

(42)

とはよ-知られた事賓である

それと平行の現象が

『漢書』注についてもみられたのではなかったか。顔師古がと-に崖浩

を重税した背景にはこれらのことが考えられねばなるまい。かつまた華北では、

『漢書』は'それが知的興味の封象としてあ

っかわれがちであ

った江南とはことことなり'そこから蜜際の刑政に役だつなにものかをひきだすべき書物として読まれたよ

うにおもわれる。つまりかの三園以来の俸統が依然として息づいていたかにおもわれる。北貌遥武帝が公主たちを賓附の属国

に降嫁させることに決定したのは'崖玄伯が進講した

『漢書』婁敬侍がそのヒントとなったことは先述した。

て崖浩の

『漢書』にたいする接しかたにも同様の態度がうかがえるようである。

泰常三年(四一八)'埜星が現われたときのこと、人事の異愛の前兆かとおびえる明元帝を崖浩はつぎのようにさとした。「古

(中編)の言に'

そもそも災異が生ずるのは人間に原因があ

っておこるのであ

って'人間に罪過がなければ妖はかってにお

こるものでないとあります

(左博荘公十四年)。

それゆえ人間が地上であやまちを犯すと異準が天にあらわれるのは、天文の普遍

の現象であり'百代不易のことなのです。漢書に王葬の纂奪にさきだっての聾星の出入を記藤すること、まった-今日と同様

です。わが国家は君臣の尊卑のけじめはたち、上下の秩序はととのって'異心をいだいている民はおりません。ただ暦偽の束

管はやせ細って、君櫓は弱ま-臣下が力をまし'何代にもわたって-だり坂の状況です。そのため桓玄が帝位を奪いとり'ま

た劉裕が健力を握りました。聾星は悪気が生ずるものであ

って'これは倍音がやがて滅びようとし、劉裕が某奪しようとして

いるしるLです

(古人有言、夫災異之生'由人而起.人無費蔦、妖不自作'故人失於下、則襲見於上'天事恒象、百代不易'漢書戟王弄纂位之前、撃星

出入、正典今岡、国家生母臣卑'上下有序'民無異望、唯倍音卑削'圭弱臣慮、累世陵遅'故桓玄逼奪'劉裕棄権'聾学者意気之所生、是馬暦菅賂滅'劉裕

師古

の『漢書』注

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纂之之庶也)」(親書

35,8tt-

2)

。また太武帝の紳療二年(四二九)'前年の大夏征服にひきつづいて嬬嬬征服戦が計量されると、大

夏出身の太史である張淵、徐痔たちは'そろってつぎのように異議をとなえた。

「嬬婿は塞外の無用の存在である。その土地

を獲得したところで耕やして食べるわけにはゆかず'その民を獲得したところで臣として使うわけにはゆかない。やつらは剰

垂で恒常心な-'とても駅しきれぬ。なにも汲々として戦士兵馬をつからせることはあるまいに

(嬬嬬荒外無用之物、得其地不可耕

而食'得其民不可臣而使、軽疾無常、難得而制、有何汲汲而苦労士馬也)」(同

8)6)。

しかるに崖浩はそれは

「漠世の巷説常談」'今日の事宜

にはあわぬtと痛棒を-らわせたのであ

った。

「漠世の巷説常談」とはけだし

『漢書』が記銀するところの韓安国'主父催'

巌尤たちの封旬奴消極政策をさしていうのであろう。太延五年

(四三九)には、またまた河西に覇をとなえる北涼阻渠牧鍵の征

服計蓋のため'北魂国内は賛否両論の議論に沸騰した.弘農王葵斤たち反射涯の主張は'つまるところへ河西が斥歯の地であ

って水草にとぼし-'経営にあたいしないというのであ

ったが'そのときにも崖浩は

『漢書』をひきあいにだして自説を開陳

(ri=)

した。

「漢書地理志に、涼州の畜は天下の鏡たり、と稀してい

もし水と牧草がなければ、どうやって牧畜をやるのだろう

か。かつまた漠代人が居住区をつ-るにあたって'水と牧草のない土地に城郭を築き郡解をたてたためしはけっしてなかった

のだ--(漢書地理志稀'涼州之畜'焦天下焼'若無水草'何以畜牧'叉漢人寓居'終不於無水革之地築城郭立郡鯨也)」(同

823

).やがて涼州が征

服されると、はたして水草のゆたかなること、埋浩の言葉どおりであ

ったという。か-

『漢書』は崖浩によって、あるときに

は議論のあいてを論破すべ-、またあるときには自説をかためるべ-縦横に利用された。いわばたえず現賓との照麿のもとに

(3)

利用され'理解されたのであ

ではかかる態度は'かれの

『漠紀音義』にどのように反映されているだろうか。師古注がその名を明記して引用する裡浩説

は'管見のおよぶかぎりではわずか三保にしかすぎず'そこからと-たてて特長とよべるほどのものをひきだすことはできな

い。しかしながら'

『史記索隠』に比較的おお-引かれている崖浩説を歴観してみると'上乗のべきたった崖浩の態度をいく

らか街沸させて-れるようにおもわれる。すなわちかれの興味がとりわけ漢制や漠律、あるいはまた旬奴関係の記事にむけら

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れていたのではなかったかと推測されるのであってtもしこの推測がただしければ'そこにはやはり時代の要請が、諸民族と

しのぎをけずりつつ園づ-りをすすめていた北魂王朝草創期における時代の要請がへはたらいていたと考えるべきであろう。

資料Ⅲ

師古注および

『史記索隠』にみえる崖浩説

地理志上

「平原郡-‥‥龍額

侯園、弄日活郷

(師古日'今書本領字或作額、而寛治云'有龍額村、作額老非VL(HP・2

8A2,696r

~70a)

1建元以来侯者年表

「龍額

(地理志、豚名、屈平原、劉氏音額、崖浩音洛、又云'今河間有龍街村、輿弓高相近)」(SH・20,1

2)

番唐俸

「帝聾過、問唐日'父老何日篤郎'家安在

(師古日'言年己老兵、何乃白馬郎也'崖浩以薦自従也'

徒何篤郎、

此説非也)

(H

P

50

,

5

b)1漏唐列俸

「-・・・(案崖浩云、白、徒也、帝諭唐、何徒馬郎、又小顔云'年老兵、乃白馬郎'怪之也)」(SH・102,12)

陳湯俸

「於是

(甘)延毒湯上疏日'--陪陳克敵、斬郵支首'及名主以下、宜牒頭重衝撃夷邸間

(晋灼日へ英国、在長安城門内、師

古日'喪街、街名'壁夷邸在此街也、邸若今鴻瞳客館也、崖浩以馬秦営為棄'棄街郎銅既街也'此説失之へ銅陀街在維陽'西京無也VL

(HP170,tOa~b)

索始皇本紀

「艮格勤考へ守要害之虞'信臣精卒、陳利兵而誰何

へ崖浩云'何或馬珂'漢奮儀、宿衛郎官分五夜誰何、何夜行者誰也、

何何字同)」

(SH・6,

97)

文本紀

「乃下詔日へ

-今法有肉刑三、而姦不止

(葦昭云、断祉軒別之属、崖浩漠律序云、文帝除肉刑、而官不易、張斐注云'以

(45)

淫乱人族序'故不易之也)」(SH・)0,29)

外戚世家

「姪何秩比中二千石

へ按崖浩云、中猶満也'湊制丸剤己上'秩

一歳満二千斜、又漠官儀云'中二千石'俸月百八十酎)」

(SH.49,27)

留侯世家

「留侯日'--兵

閲中左散函、右陳局へ沃野千里、南有巴萄之嘩

北有胡苑之利

(荏浩云'苑、馬牧'外接胡地、馬生於胡'

故云胡苑之利)」(SH・55,20-

21)

廉頗蘭相如列俸

「李牧者'趨之北遠艮格也、常居代層門備旬奴'以便宜置更'市税皆輸入莫府、薦士卒費

(按注如淳解莫大云云

(隻

解、如淳日、賂軍征行無常虞'所在馬治'放言莫府、英、大也)、又崖浩云'古老出征馬将帥、軍還則罷、

理無常虞'以幕亦m馬府署'

の『漢

書』注

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二五八

故日英府'則莫普作幕'字之靴耳)」(SH・81,20-

2))'

また漏唐列俸

「終日力戦、斬首捕虜'上功莫府

(按莫訓大也'又崖浩云'古老

出征無常虞、以幕為府合、故云莫府、英常番茶、古宇少耳)」(SH・

)02,)6)

張樺之列俸

「上行出中洞橋、有

一人徒橋下走出、乗輿馬驚、於是使騎捕、層之延尉.樺之治問、日、願入来、聞躍'匿橋下'久之以

篤行己過、即出、見爽輿串騎、郎走耳'廷尉奏嘗p

一人犯躍'皆罰金

(案襟浩云'常謂虞其罪也'案百官志云、廷尉平刑罰、奏首'所

麿郡閲謝疑罪'皆虞嘗以報之也)」(SH・)02,

8)

漏唐列俸

「-・・・是以北遂草子'破東胡

へ案崖浩云'烏丸之先也、囲在旬奴之東、故云東胡也)」(SH・102,15)

旬奴列俸

「歳正月p諸長小倉軍手庭耐'五月、大食蔀城'祭其先天地鬼神

(漢書'龍城作龍城'亦作寵字、寛治云、西方胡皆事龍紳'

改名大倉庭番龍城'後漢書云、旬奴俗'歳有三龍両'祭天神)」(SHL

t0,23)

「漠孝文皇帝十四年'旬奴畢千十四寓騎入朝郡粛閲'--候騎至薙甘泉

(荏浩云、候、遊騎)」(SH・LL0,37)

「其明年春'漠便牒騎賂軍去病、格寓騎出陳西'過蔦支山千飴里'撃旬奴'得胡首虜騎寓八千飴級'

破得体屠王祭天金人

八寒昭云'

作金人以馬祭天主'崖浩云'胡祭以金人為主、今浮囲金人足也へ又漢書音義栴'金人祭天、本在雲陽甘泉山下'秦奪其地へ徒之於休磨

王石地、散休屠有祭天金人'象祭天人也、事恐不然、案得体屠金人'後置之於甘泉也)」(SH・1)0,49)

衛賂軍牒騎列俸

「--絶梓領'梁北河'討蒲泥、破符離

(管灼云'二王暁'崖浩云'浜北塞名)」(SH.)ll,7

-8)

「天子日'牒騎将軍率戎士'稔烏盤'討蓮濃'渉狐奴

(蓮膿音速卜二者'雀浩云'旬奴部落名'案下有逝磯王'是国名也VL

(SH.

111,)7)

「封狼居常山'碍於姑術'登臨翰海

(按雀浩云'北海名'群鳥之所解羽'故云翰海'虞異志云'在沙漠北VL(SH・)1),28)

「牒騎将軍自四年軍後三年'元狩六年而卒'天子悼之'護属国玄甲軍、陳自長安至茂陵へ馬家'象郁連山

(案崖浩云'去病破昆邪

於此山、故令馬家象之以旗功也'眺氏案'家在茂陵東北'輿衛青家並'西老是青'東者是去病'家上有竪石'前有石馬相対'又有石人

也)」(SH・tE

,32)

椎南衡山列俸

「公卿治者日'准南王安擁閑奮撃旬奴者霜被等'厳格明詔'常弄市

へ崖浩云'詔書募撃旬奴へ而塗通底募者'漠律所謂

魔格、案如淳注梁孝王停云'鼓閣不行也'音各也VL(SH・tt

8,)8-9)

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(.-=T/

五胡十六図から北朝にかけての華北においてはひとつの

『漢書』注も書かれなかったのだが'ところがその最末期にいたっ

て事情はにわかに

一撃する。江南の

『漢書』研究が華北に流入し'ついに

「漢書畢」ないし

「漢書学者」なる語がうまれるほ

どの活況を星するにいたったのである。江南の

『漢書』研究の成果を華北にもたらしたのは'劉頭や背該たちであり'ま

師古の租父顔之推もその

一人であったろう。顔之椎のことは後にゆずるが'

『漢書』を家撃とした梁の劉頭がやがてのちに北

周に仕え、長安において挑察と

『漢書』についての質疑をおこなったことなどは先述したとお-であって'弘農の楊江はやは

り江南出身の沈墓から鰻撃を、そしてこの到頭から

『漢書』を授かったのであった

(隔書

56,)393)。北周時代のことである。

また蘭陵の蒲該は梁の都陽王斎恢の孫。といえばいわゆる

『漢書』異本といささかのかかわりをもった都陽王蒲範とは伯姪の

関係である。梁の元帝政標崩壊後'長安に遷り、詩'書、春秋'鰻記のほかとりわけ

『漢書』に精通して貴蓮の尊敬をうけた

(同

75,)715)。倫林の閣枇'すなわち閣立徳'立木兄弟の父が蒲該から

『漢書』を授かったのも'やはり北周時代のことであ

る(同68,

)594

)

。晴志に

「漢書音義十二巻、国子博士苛該撰」として著銀されるものの伏文が'清の滅鏑によって三篭に輯め

(47)

られている。また晴の開皇年間'陸法言の

『切韻』の編纂に顔之推'劉頭たちといっしょに参董したほか'

『顔氏家訓』書謬

(48)

第にはその名がみえてい

かれらが江南から華北に遭った学者たちのグループを形成していたことをうかがわしめる。

『漢

書』の解樺にかんしても、かれらのあいだでたがいに啓蒙しあうところがあったであろう。劉頭や苛該たちはど偉記はつまび

らかではないが'東海の包恒もやはり江南の出身者としてよいのではなかろうか。晴代に'蒲該とならんで包恒が

「漢書畢」

「宗匠」とあおがれたことはさいしょにふれた。著錬されたその門弟数千人のなかの逸足は、情末の群雄の

一人として名を

(49)

あげる李密であったという。包恒の説はときとして

『史記索隠』に引かれている。そのほか隔代には'

干仲文によって

『漢書

刊繁』三十巻が(障害

60,)455)'また張沖によって

『前漢音義』十二雀が

(同75,

)72

4

)'

それぞれ撰述された.干仲文は万恒

(50)

子氏を本来の姓とする北魂以来の鮮卑系勅臣であるらしい

'

張沖は呉郡の出身であり'がんらいは陳朝に仕えた人物であっ

『漢

書』注

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た。

二六〇

H

顔師古の漢書の畢

H

師古庄

の成

『漢書』の成立から晴代にいたるまで、

『漢書』がどのように読みつがれてきたか、また

『漢書』の注樺がどのように書き

つがれてきたかを論じた第

Ⅰ部においても'おりにふれて顔師古の立場に開設することがあったが、いまやいよいよ師古住を

正面からとりあつかうべきときがきた。師古住はいわば顕師古以前の

『漢書』注の集成であり'六朝末期から晴'唐初におけ

(51)

「漢書撃」の水準とその締結鮎をしめすものである。時人は'

「班孟堅の忠臣」、なる異名を顔師古にたてまつったという。

師古住は唐の太宗の貞翫十五年

(六四一)'

ときの皇太子であった李承乾の命をうけて撰透された。その間の事情は爾唐書の

本俸

(奮唐書

73,2594以下'新居吉備畢停

)98.564)以下)にももちろんみえているが'「叙例」の第

一候がそのことをかたってより

詳細である。

「皇太子殿下は君主となるにふさわしい容姿をおそなえになり'国家宗廟を守るべき重き位にあたられ'三つのすぐれた徳

(鮭記文王世子)をさし示すとともに'九流の撃を博綜しておられる。さて'漢王朝の飴風を観察して

一代の終始をきわめ'班園

の述作を美としてその博宏ぶ-を嘉せられたが'服虚や癒劫の巷説にはなお疏漏素乳がめだち'蘇林や晋灼たちには問題の解

決がけだしす-なく

寮漠の編集はとりわけ矛盾をきたしておりへそれ以後のものはとりたてて云々するにた-ないと考えら

れた。前代の注樺が完全でないのを恨みとし'将来のまよい多からんことを懸れみたもうた結果、世に埋れたものを召しかか

えて非才をつ-きしめ'意味のずれたところをただし、またかた-むすばれたところを賛明しようとされたのである。こうし

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て国子撃の公卿子弟たちをあまね-教育することから'全図に速-及ぼして'学者たちにひろ-俸えへ畢生たちを指導しよう

というのである。このりっぱな計量をおおせつかり'めでたき幸せをじきじきに頂戴して、はれがまし-も面目をほどこし'

評判をたかめ名聾を流すこととなったが'凡愚の才のわた-Lは'力のかぎりをつ-そうとただいたずらに思うばかりであっ

てへこの鴛馬塞旗の足をもってしては遠-足跡をのばすことはついにむつかしい。歳星は重光'すなわち辛の位置にやどり、

律は大呂、すなわち丑にあたって添月とよばれる十二月'この書物はようや-完成した。狂簡をも恥じずにご報告申上げる次

であ

る(儲君股上暫之委'贋守器之重、傭降三善、博綜九流、観炎漢之飴風'究其終始'菰孟堅之述作、嘉其宏喝

以馬服麿暴説、疏素尚多、蘇晋衆家、

割断蓋抄'察氏纂集、尤馬抵悟、自責以降'蔑足有云'帳前代之未周'放心賂来之多感'顧召幽灰'倖鴻翁責、匡正際達'激揚欝滞、賂以博愉胃薗'遠等全国'

弘敷錦帯、啓導青衿'曲裏宏規'備蒙嘉意、槍柴改観、重慣流撃'斗智之材'徒思蕃力'駕寛之足'終暫遠致'歳在重光、

律中大呂'是謂涼月'其書姶就、

不恥狂働、帆用上聞)」。

かのと

この前後'辛にあたる年は貞観辛丑'すなわち貞観十五年をおいてほかにはない。ときに皇太子承乾が厳される二年前であ

って、顔師古は秘書少監の位にあった。師古住が出現するや'ひとびとはただちにそれをたよりとして

『漢書』を読むにいた

ヽヽヽ

ったようである。房玄齢は

「顔師古住する所の漢書」が大部にすぎ

るため、敬播にその機要をとって四十雀とさせているし

ヽヽヽヽ

(奮唐書儒学博

189A,4954)'

また楊桐の

「王勃集序」には'

「君、名は勃'字は子安'-九歳にして顔氏漢書を謹み、指張十巻

を摸す」(楊盈川集巻二1)と王勃の夙窓ぶりがたたえられている。王勃(六四八-七五)九歳といえば、師古住の完成からわずか十五

年しかたっていない。か-して高宗の蘇慶三年

(六五八)に成った

『文選』李善注には'もちろんここかしこに師古住が引用さ

れている。

『漢書』注の最高の構成としての師古住の地位は'はや-にして確立されたのであった。

家撃としての師古住

顔師古の名は箱'もっぱら字の師古をもって有名である。その名も字もかたくるしくいかにも古代主義者をおもわせるこの

『漢

書』注

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二六二

人物は'あたかも隔王朝が創業された開皇元年

(五八こ'

顔之椎を租父とし'之推の長子顧思魯を父として生まれた。没年は

(52)

唐の貞観十九年

(六四五)'

六五歳。

『漢書』注はもはや晩年に層する六十

二威のときの事業である。規邪臨折をそもそもの本

貫とする窮民の家風を

三日でいいあらわすならば'畢門を家業とした家であ

ったとい-ことになるであろ-。顔氏には'顔之

推からかぞえて九世の租にあたる束管の顔合が

一家のわかものたちをさとしたことばがったわ

っていた。

「おまえたち

一家は

ヽヽヽヽ

書生門戸であ

って'代々富貴とな

ったものはいない。今後、仕官しては二千石をこえてはならない。結婚のあいてには構勢家

を欲ぼらぬように

.(汝家書生門戸'世無音貴'自今仕官不可過二千石'婚姻勿負勢家)」。そして顔之椎はこの言葉を終身服鷹しているむね

『家訓』止足篇

(77a)に書きとめている。梁、西魂'北斉、北周さらに晴と'さながら韓蓬のごと-に仕える王朝をあらた

め'東西南北の人とよぶのこそいかにもふさわしい

一生をお-

った顔之椎にとって、たよるべきものは

「書生門戸」なる自覚

以外になにひとつとしてなかったであろう。かれには故郷もなければ'田産もなかった。そしてこの自覚された顔氏の俸統は'

顔之椎からさらにまたその子孫たちにもつたえられたのであ

った。

『家訓』勉学篇にはまた、北斉から北周に遷

った直後の顔

氏の-らしむきをつたえる下記の

一俵がある.

「郭が平定されると

(五七七)、

徒されて開中に入った。そのころのある日のこ

とであるが'思魯がわたしにいったものだ。朝廷に俸緑位階をも

っているわけではなし、家に財産があるわけでもあ-ません。

肉鰹労働にはげんで生活をたすけるのが薗然です。それがいつもきびしい教育をうけ'軽挙、史学の草間に汗水たらしており

ます。いったい子供たるぼ-が腰をおちつけていてよいのでしょうか。わたしはこうしかりつけてや

った。子は孝養にこころ

がける''(きものであり'父は草間を教育とすべきものだ。たといおまえが草間をなげだして金もうけにうつつをぬかし'わし

の衣食をたらえて-れたとしても'それを食べたところでおいしいはずはなし'それを着たところで暖かいはずはない。もし

あかぎ

先王の遥にっとめ'わが

一家代

々の家業をついで-れるなら'薮

スープや古根のぬのこだ

ってすすんで欲するところだ

(郭

午之後、見徒入関、思魯嘗謂吾日'朝無線位'家無稽財'皆韓筋力'以申供養'毎被課篤'動静経史'未知弟子可得安乎、吾命之日'子嘗以養鶏心、父曽以

畢番数'使汝棄草殉財'盟吾衣食'食之安得甘'衣之安得暖、若務先王之道1

紹家世之業'輩糞紐褐'我自欲之)」(45b)。

ひとだれもが知るかの顧

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尾脚は師古の第三第なる顔勤薩の曾孫にあたるのだが'かれもまたその

「顔氏家廟碑」に顧氏の先組を追憶しっつ'思魯'患

楚'遊秦の顕氏三兄弟を、つまり師古の父と二人の叔父たちを湿氏の大雅'彦博'彦渚の三兄弟と比較してつぎのようにの.'(

ている。「国史の稀するところでは'湿大雅は情の時代に思魯とともに東宮に出仕Lt彦博は慾楚とともに内史省に直し'彦婿

は遊秦とともに典校秘閣となり'両家の兄弟はそれぞれ常時の人物のエリートであ

った。わかいときの学業は顔氏の方がまさ

(53)

り'そのごの官職位階は温氏の方がさかんであ

った。温氏譜にもこのことを記載している

(国史稀、温大雅在隅輿思魯同事東宮、彦博

輿政窟疋向直内史省'彦賂興遊秦同典校秘関、二家兄弟、各馬1時人物之選'少時学業、顔氏馬優'其後職位'温氏馬盛'温氏譜亦我意)」(金石奉編巻1〇一)0

顔氏略世系表

-思

1

-遊

=…

細長

-勤

-

昭甫-惟

貞-尾

-育

わか

-わ

かかる家庭に生をうけた顔師古は'さだめられたごと-にして「少

-して家業を停え'群書を博賢しへ尤も話訓に精し-'

つづ

善く文を

る」(啓唐書本俸)ことができた。兄弟もそろって好学であり'次弟の顔相時がいわゆる秦府十八学士の

1人に名をつ

(54)

たく

らねたのをはじめ'第三弟の顔勧鮭は

「寡箱に工みにして尤も請訓に精し-、褐を校書郎に解き'南兄の師古、相時と時を同

じ-して宏文、崇賢学士と為り」'末弟の顔育徳は

「司経

(局)に於て経史を校定し」'普代の柴督はかれら兄弟に蹄したとい

(顔氏家廟碑)。なかでも師古は'唐の太宗の貞観時代'王朝によ

って立案され、つぎ

つぎに寛行にうつされた文化事業のかず

かずになんらかのかたちで関係したといってよい。経籍の蒐集と校定、とりわけ五経本文の校定'つまり五経正義の定本づ-

(55)

り'五経の修定、五史のひとつである

『障害』の撰述、明堂の制度についての考論'等

々。それらのことはさておいて、いま

ここでぜひとも指摘したいのは'漢書撃が窮民に停わる

「家業」のひとつであ

ったことである。

『北賛書』文苑顔之推博には、

の『漢

書』注

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顧氏の

「家業」は周鎧と左侍であ

ったとつたえるが

(45,617)'

それにいまひとつ

『漢書』を-わえてもさしつかえはないとお

もわれる。す-な-とも顔之推以後においてはそうであ

った。『顔氏家訓』'とりわけその勉畢篇と書鐙篇には顔之推の『漢書』

にかんする言及がい-つかみられるのだが'それら

一族

一俵を該者する師古住と比較対照してみると'両者のあいだに緊暫な

(56)

連絡の存することを看取できるのである。顔師古の幼兄期から少年期にかけて'顔之椎は健在であ

った。顔師古が租父からし

たし-学問のてほどきをうけたと想像してもなんらおかし-はない。

『顔氏家訓』とそれに関連する師古庄の両者を、訓読も

現代語講もほどこさずにあえて原文のまま以下に記す。原文のままのほうがかえ

って文章構造や措辞にいたるまで'両者の関

係を看取するのに便利だとおもうからである。

資料Ⅳ

『顔氏家訓』と師古注

勉学篇

「江南有

l権貴'講談本局都既往'解除賠芋也'乃為羊字'人鱗羊肉'答吾云'損恵粋鴫、撃朝驚骸'不解事義'久後尋迩'

方知如此」(46b)

貨殖俸

「秦破題、遷卓氏之萄'夫妻推馨行'諸遷虜少有飴財、事典吏求近虞、廃酸萌'唯卓氏日'此地腹蒔'吾聞崎山之下扶壁'下有

按鰻、垂死不飢

(孟康日'扱者縛'水郷多鵡'其山下有沃野濯概、師古日'孟説非也'蹟塊、謂芋也、其根可食以充糧、散無飢年'華

陽闘志日'牧山郡都安願有大芋'如伶鵡也)」(HP・9),8b)

「漢書王弄賛云'紫色銚聾'鉄分閏位'謂以偏執虞耳'昔吾嘗共人談書'言及王弄形状へ有

一俊士'自許史学'名慣甚高、乃云'

重罪非直嬉目虎物、亦紫色蛙聾」(47a)'

また書謬篇

「漢書王弄質云'紫色規整、飴分閏位、蓋謂非玄黄之色'不中律呂之音也、近有

壁士'名聞甚高'途云'王葬非直鳶騎虎鋭'而復紫色鈍聾'亦為誤臭」()00a)

王弄俸

「質日'-・・・紫色端整へ飴分間位

八鹿勧日'紫、間色'鈍、邪音也'服度日、言弄不得正王之命'如歳月之飴分篤閏也'師古日、

施者柴之軽輩'非正曲也'近之学者'便謂規之鳴'己失其義'又欲改此賛規準薦蝿聾、引詩匪離別鳴蒼蝿之聾、尤穿墓英VL(HP・99B,

29b~30a)'また叙侍

(答案戯)「夫願事投曲'感耳之聾、合之律度'浬雄而不可故老'非解夏之柴也

(李奇日'蝿、不正之音也'師古

日、噺護、秋秋小聾而車也'投曲、趣合屈曲也へ感耳'動麿衆庶之耳也、然而不合律度へ君子所不聴也'浬鈍'非正之聾也'不謂地租

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之鳴也'軟音子由反)」(HP・100A,2ta~

b)

勉学篇

「又鮭栗志云'給大官桐属酒、李奇注'以馬乳馬酒也'撞桐乃成、二字並徒手'種摘'此謂撞接挺桐之'今為酪酒亦然'向撃

士又以薦種桐時、大官醸馬酒乃熟、其孤睡蓮至於此」(47a)

薩柴志

「師撃百四十二人、其七十二人給大官桐鳥酒

(李奇日、以馬乳馬漕、撞摘乃成也、師古日、摘音動'馬酷味如酒'而飲之亦可醇'

散呼馬酒也)」(HP,22,36b)

「夫文字者'墳籍根本'世之学徒、多不暁字'讃五経者、是徐遷而非許憤'習賦誼者、信稽詮而忽呂恢--」(48b)

(57)

司馬相如停巻首

「(師古日、近代之讃相加賦者多夫'皆改易文字'競馬音説'致失本員へ徐贋郷誕生諸詮之陳武之属是也'今依班書奮

文薦正へ於彼教家'並無取蔦-‥・VL(HP・57A,La)

「怒楚友樗葦如同従河州来、得

1青島'馴義愛翫、馨俗呼之馬鶴、吾日、払出上賞、教官見之、色並黄窯、無駁薙也'故陳思王窮

賦云'揚玄黄之勤羽'試検認文、鳩雀似鶴而青'出義中へ韻集音介'此疑頓揮」(5ta~b)

循吏黄覇停

「五鳳三年、代印普馬丞相'・・・・・・時京兆戸張敵舎鶴雀飛集丞相府

へ蘇林日、今度責所著鶴也'師古日、蘇説非也へ此鶴音介'

字或作嫡'此通用耳'偲雀大而色青'出義中'非武貴所著也、武責鶴色黒'出上薬、以共闘死不止'故用其尾飾武臣首云'今時俗人所

謂鶴発着也'音易'非此鳩雀也)、覇以為所雀」(HP・89)6a~7

a)

㈲書記篇

「薩云'定猪預'決嫌疑'離騒日'心猶濠而狐疑、先儒朱有樺者'案戸子日'五尺犬馬猶、説文云'隈西謂犬子馬猶へ吾以番

人購犬行、犬好漁在人前'待人不得、又来迎侯'如此往還、至於終日、斯乃漁之所以馬未定也'政柄猶預、或以爾雅日、猶如魔、善生

木'猶'獣名也'既閑人聾'乃預緑木'如此上下、故栴猶漁、狐之鳥獣、又多清疑'故聴河水無流水聾、然後敢渡、今俗云狐疑虎卜'

則其義也」(95b~96a)

高后紀

「大尉勃興丞相平謀'以曲周侯鄭商子寄興

(呂)練善'使人劫商、令寄給説縁日--・'穐然其計'佳人報

(呂)産及諸昌老人へ

或以薦不便'計猶濠

(師古日、猶'獣名也'爾雅日'猶如贋'善登木'此獣性多尿慮'常居山中、忽聞有聾tai,口恐有人且来害之、毎凍

上樹、久之無人'然後敢下'須輿又上、如此非

lt故不決着'栴猶濠蔦'

一日'陳西俗謂犬子馬猶、犬随入行'毎譲在前、待人不得'

(58)

又来迎侯'故云猶濠也'歴青凡Vt未有所決」(HP.3

,5b~6a)

『漢

書』注

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「藻草

H'中外薩福'字昔徒示、薩'安也'音匙七之匙'義兄蒼雅方言'河北畢士皆云如此'而江南書本多誤徒手、属文者封柄、

並為授章之意'恐馬誤也」()03a~b)

司馬柑如俸

(難萄父老)「退避

1鰹'中外縫頑'不亦康乎

八軒古日'縫'安也、康'柴也'薩音止支反)」(HP・57B,9a)

㈲同

「或問へ漢書注'軍刀后父名禁へ改禁中薦省中'何故以省代禁、答日、案周薩、宵正掌王宮之戎令乱禁、鄭注云'乱猪割也、察也'

李肇雪

省'察也、張揖云、省、今省驚也、然別小井所領二反'並得訓察、其虞既常有禁衛省察'故以省代禁'奮'古察字也」()03b)

昭帝紀

「戊辰'太子郎皇帝位'謁高廟'帝姉郡邑公主'益湯泳邑馬長公主'共養省中

(伏候日、葉塾tr

本番禁中'門間有禁'非侍御

之臣不得妄入'行道豹尾中亦薦禁中'孝冗皇后父名禁'避之'故日省中、師台目'省'察也'言入此中皆昔察税不可妄也'共讃日供'

音居用反'養音4]亮反'他皆類此)」(HP・7,1a

~b)

「又相加封縛書目'導

1垂六穂於庖'犠讐解共抵之獣、此導訓揮'光武詔云'非徒有線養導揮之努'是也'--」(LL4a)

司馬相如俸

「--

(鄭氏日'導、揮也'

1室六億㌧謂嘉禾之米'於庖厨以供祭柁也)」(HP・57B,22a)

「河間邪芳語吾云、質誼俸云'日中必裳'注襲暴也、骨見入解云'此是暴疾之意'正言日中不須奥'卒然便呉耳、此揮馬首乎'吾

謂邪日'此語本出大公六編'案字書'古老塁暖字'輿暴疾字相似'唯下少異'後人専軌加傍目耳、言日中時必須桑暖'不爾者'失共時

也'菅灼己有詳樺'芳笑服而退」(tt7

a

-b)

貿誼俸

「黄帝日へ日中必襲'操刀必割

へ孟康日'宋音衛'日中盛者必桑葉也'臣磯日'大公日'日中不襲'是謂失時'操刀不割'失利

之期'言普及時也'師肯日'此語見六轟'襲謂桑暖之也'暖音所智反'又音所願反)」(HP.48,ttb)

顔之推説の師古住

への投影はあらまし右のごと-である。師古注全鰹からみれば'それらはもとより九牛の

一毛にしかすぎ

ない。師古住にはほかにも之推説がふ-まれているかも知れず'いなむしろそのように考えるべきだとおもうのだが'今日で

はもはや検琵するすべは失なわれてしまった。しかし右のとぼしい事例をとおしても、租から孫

への俸承の関係は顕著である。

佃、伺'佃'佃等においてとりわけ蘇著である。師古は

『漢書』に少しでも関係のあることなら'

『家訓』にみえるかぎりの

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ものをなにがしかのかたちで吸収しょうとつとめたのではなかったろうか。顔師古は

「家業」を鮭承することにおいてまこと

に患賓であ

ったといわねばならない。

ところで顔師古の周過には寅は

『漢書』の専注を書いた人物が存在した。顧之推の第三子にして顔師古の叔父にあたる顔遊

秦である。かれは師古住にさきだって

『漢書決疑』十二雀を著わし'それゆえ顔師古を小顔とよぶのにたいして大顔とよばれ

。『漢書』顔師古住と

『漢書決疑』とのふかい関係ははや-から気づかれていたらしく

たとえば

『奮唐書』顔師古侍はそ

の末尾に顔遊秦の停記を附して'

「漢書決疑十二巻を摸し'

学者の稀する所と為る。

後ち師古の漢書に注するも'

亦た多く

其の義を取るのみ」(73,2596)と指摘している。

か-して後世'

師古注は叔父の名をか-して

『漢書決疑』を満んだにすぎな

(59)

いtと非難する論者すらす-な-はない。

『漢書決疑』はすでに失なわれてしまったが'幸いなことに

『史記索陰』にあわせ

て十八候の顔遊秦課が引かれている。いまそれらを拾いだしたうえ関連の師古住と比較してみると'およそ十五保についてな

にがしかの符合を兄いだすことができるのであ

って'顔師古が多-叔父の義を取

ったことはなるほどたしかなようにおもわれ

。資料Ⅴ

『史記索隠』にみえる顔遊秦説と師古注

孝文本紀

「後六年冬'旬奴三高人入上郡へ三寓人入雲中、以中大夫令勉

(襲梱按表、景帝改衛尉爵中大夫令

(集解、徐庚日'衛尉改

名也'楢葉漢書百官表'景帝初改衛尉馬車大夫令、非此年也)、則中大夫令是官既'勉英名'彼此官改為光線勅、虞世南以此栴中大夫

令、是史家迫書耳、顔遊秦以令是姓、勉是名、為中大夫'援風俗通、令姓'令声子文之後也)馬車騎賂軍'軍飛狐」(

SH,10,36)

文帝紀

「--以中大夫令兎馬車騎賂軍、屯飛狐

(如淳日へ在代郡'師古日'中大夫'官名、英人姓令名究耳'此諸膳軍下垂徐贋、

皆書

姓'而徐虞以霧中大夫令是官名'此説非也、嬢百官表'景帝初'改衛尉馬車大夫令、文帝時無此官、而中大夫是郎中令属官'秩比二千

石)」(HP・4,)7

b~18a)

桝封縛書

「後四十八年、

周太史億見秦献公日'秦始輿周合、合而離'五百歳普復合

(案大顔歴許諸家而云'周平王封裏公薦諸侯'至昭

王五十二年西周君献邑凡五百l十六年烏合、亦撃全数Vt合十七年而覇王出蔦」(SH・28)17)

師古

の『漢書』注

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二六八

郊柁志

「・・三・日'周姶輿秦囲合而別、別五首載普復合

(癒勧日、秦、伯緊之後也'始周孝王封非子薦附庸'邑諸秦'卒玉東違洛邑'裏

公以兵衛之へ嘉其動力、列馬侯伯'輿周別五百我粂'昭王時'西周君自蹄受罪'森厳其邑三十六城、此復合也'孟康日'謂周封泰盛別'

秦井周烏合'此塞王為覇'始皇盛王也'葦昭日'周封秦為始別'謂秦伸也'五百歳、謂徒秦仲至孝公彊大'覇王致伯'輿之親合也'師

古日、諸家之説皆非也'自非子至西周戯邑'凡六百五十三歳'自仲至蘇王二十六年孝公構伯'止有四百二十六歳'皆不合五首之敏也'

案史記秦本紀及年表並云'周平王封寒公、始列為諸侯'於是始興諸侯通、又周本紀及奥哲音盤諸系家'皆言幽王為犬戎所殺、秦始列為

諸侯、正典此志符合'是乃為別、至昭袈王五十二年西周君自蹄戯邑'凡五百

一十六年、是為合也'言五百着'馨共成数也)、合七十年

而伯王出蔦」(HP・25

A,8b)

(60)

平準書

「醇得至楽卿

(按此言武功置静'惟得至於楽卿也'臣墳所引茂陵書'蓋後人誼其爵失次耳'今庄構十爵至十八庶長鳥柴卿'十

九至二十為栗公

(集解'徐虞日へ柴卿'欝名也'欄案漢書音義日'十昏左庶長以上至十八欝為大庶長也'名栗卿'柴卿者'朝位従九卿'

加契者'別正卿'又十九爵為栗公'食公卿緑而無職也)、乃以菌二十爵樺武功辞'蓋亦臆説'非也'大顔亦以為然Vt以顧軍功」(SH30,

-

∽)食貨志

「--

(師古日'柴卿者'武功爵第八等也'言男爵唯得至第八也、此文止論武功醇級'而作注者乃以巷二十等爵解之へ失其本意'

故剛而不取)」

LHP・24B,9a)

除渉世家「

臓月

人臣瑛云'

建丑之月也'顔遊秦云'按史記表'二世二年十月'諌篇嬰'十

1月'周文死'十二月'陳渉死'是也、宗

懐剤楚記云、膿節在十二月'故因是謂之臓月也Vt陳王之汝陰'遺至下城父'其御荘票数以降秦、陳勝葬横、温日陰王」(SH

48,)5-6)

陳勝俸

「・・・-

(張量目、秦之臓月'夏之九月'臣墳日'建丑之月也'師台目'史記云'胡亥二年十月'訣葛嬰'十

一月、周文死'十二

月'陳渉死'項説是也)」(

HP・3),6b~7

a)

緯侯周勃世家

「勃不好文畢'毎召諸生説士'東郷坐而真之、趣薦我語'其椎少文如此

八大顔云、俗謂愚薦鈍椎'音直迫反'今按椎如

字讃之'謂勃召説士へ東向而坐'貴之云'趣馬我語'其質撲之性'以斯推之'其少文皆如此)」(SH.57,)0-tL)

周勃俸

「--

(服度日'謂詞鈍也'底効目'今俗名拙語馬椎儲'師古日'椎謂模鈍如椎也'書直推反)」(HP.40,23a)

「候侯

(周亜父)子爵父買工官何方甲楯五首被可以葬者'取庸苦之'不予鎮'庸知其盗買願官器'怒而上襲告子'事連汗使侯'書

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既聞上、上下吏、吏簿責候侯'候侯不対'景帝罵之日'吾不用也

へ孟康如淳己備雨解

(集解、孟康日、不用汝封'欲殺之也、如韓日'

恐獄吏畏其復用事'不敢折辱)へ大顔以孟説馬得'而眺察又別

l解云、帝京此吏不得亜美直節'以為不足任用'

故召亜夫、別詣延尉使

責問)へ召詣廷尉」(SH.57,22-

3)

「-・-(孟康日、言不用汝封、欲殺之也'如淳日、恐獄吏畏其復用事、不敢折辱也、師古日、孟説是也、

〓tr

帝京此吏云、不勝其

任、吾不用汝、故召重夫'令詣延尉也)」(HP,40,28b)

郭陽列俸

「・~-何則衆口鎌金'積穀鏑骨也

八大顔云、歳入積久漕穀'則父兄伯叔自相諌致、骨肉馬之消滅也)」(SH・83,25)

鄭陽俸

「・・・・・・(師古日'芙金見穀、衆共疑之'数被膜錬'以至舗鎌、護伝之人、韓其詐巧、離散骨肉'而不覚知)」(HP・51,)6

a)

李将軍列俸

「莫府省約文書籍事

へ案大顔云'凡賂軍謂之莫府者、蓋兵行合於惟帳'故稲美府へ古宇通用'造作莫耳、小爾雅訓美馬大'

非也)」(SH・)09,7)

李康博

「莫府省文書

ヘ音灼日'賂軍職在征行'無常虞、所在馬治、故言莫府也、莫'大也'或日へ衛青征旬奴'絶大莫'大克獲'帝就

?,

葬大格軍於真申府'故日英府'莫府之名、始於此也、師古日、二説皆非也'莫府者、以軍幕為義'古宇通軍用耳'軍旗無常居止、故以

(61)

帳重言之'廉頗李牧'市税皆入幕府、此則非困衛青始有其窮'又莫訓大'於義元臭'省'少也'音所領反)」

(HP.54,3a

)

「屠無何へ

(李)敢従上乗'至甘泉官猟

(劉氏音荷'天顔云'薙地形高、故云上)」(SH.log))8)

「--

(師盲目'無何'謂末多時也、薙之所在'地形標高、故云上也、上音時掌反、他皆類此)」(HP154,9a)

旬奴列俸

「其後官有除歳、周西伯昌伐映夷氏

(葦昭云'春秋以番犬戒、按吠音犬'大顔云'郎昆夷也'山海経云'黄帝生苗龍、苗龍

生融吾、融吾生井明'井明生白犬'白犬有二牡、是番犬戒、説文云'赤秋本犬種'字従犬'又山海経云'有人面獣身'名目犬夷、貿蓮

云、犬夷、戎之別種也)」(SH.tt0,5)

旬奴俸

「--・・(師古日'西伯昌即文王也、妖音工犬反、映夷即映戎也、又日昆夷'昆字或作梶へ又作梶、二字並音工本反'昆撮映聾相

近耳へ亦日犬戎也、山海経云、黄帝生首龍、曹龍生融吾'融吾生弄明'弄明生白犬'白犬有二牝牡'是番犬戒、許氏諌文解宇目、赤秋

本犬種也'故字従犬)」(HP.94Av2a)

衛賂軍牒騎列俸

「是歳也、大将軍姉子震去病、年十八、幸馬天子侍中'善騎射、再従大将軍'受詔、輿壮士周到跳校尉

(上音匹造反'

『漢

書』注

二六九

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下音造'大顔案萄快漢紀作票鶴'票鶴'勤疾之貌也'上音頻妙反'下音4]召反)」(SH・111,

14)

ヽヽ

審去病俸

「去病以皇后姉子、年十八馬侍中'善騎射、再従大将軍'大勝軍受詔'予壮士為栗眺校尉

(服度日'音開港'師古日'票音頻

妙反'眺音羊召反'票桃、

勤疾之貌也、苛焼漠紀作票鶴字へ去病後馬票騎賂軍'間取票眺之字耳'今読者音瓢造'則不嘗其義也)」

(HP.55,7

a)

司馬相如列俸

「賦奏'天子以馬郎、無是公言天子上林虞大、山谷水泉寓物'及子虚言楚雲夢所有甚衆'俸廉過英資、且非義理所筒'

故剛取其要'蹄正道而論之

八大顔云、不取英等奪摩麗之論'唯取終篇蹄於正道耳'小顔云'拙要'非謂創除其詞'而祝着謂此賦己経史

家刊劉'失之也)」(SH・tt7,

59)

司馬相如俸

「--

(師古日'言不備共修勝之論へ但取終篇蹄於正道耳'非謂例除其僻也'而説者便謂此賦己経史家刊劉'失其意失)」

(HP.57

A

,

5))

(封秤

文)

「意者泰山梁父'設壇場望宰'蓋競以況柴

へ案文穎日、蓋'合也'言考合前代之君、携共栄而相比況而為栗也'大顔云'

蓋'語鮮也'言蓋欲紀功立親、受天之況賜柴名也'於義弟憾、然其文云蓋'詞義典質'又上輿幸字達文'致令有華蓋之謬也)」

(SHLt7,

9

7)

「-・・・・(孟康日、意者言大山梁父設壇場'望聖帝往封秤記競以表柴名也'師台目'辛、臨幸也'蓋、豪語軒也)」(HP・

57B}23b)

掴貨殖列停

「汚轟--襲名易姓'通弊為鵡夷子皮

八大顔日'若盛酒者療養也'用之則多所容約、不用則可巻而懐之へ不件於物也、案韓

子云'嬉夷子皮事田成子、成子去哲之燕、子皮乃徒之也'蓋花森也VL(SH・129,)0)

貨殖俸

「-・・・(師盲目'自親鵡夷者'言若盛酒之鵡夷'多所容受'而可巻懐'輿時張弛也'鵡夷へ皮之所為'故日子皮)」(HP.9),4a)

「楊布皮革千石

(答布'往昔吐合反

(集解へ徐廉日、楊音吐倉反'関案漢書音義日、楊布'白塵也)'

大顔音吐孟反'案以馬鹿厚

之布、輿皮革同以石而秤'非自塵布也'呉線云'有九虞郡布、名目白墨、磨志云'塵'毛織也)」(SH.)29,34-5)

「答布皮革千石

(孟康日、答布'自塵也へ師古日'虚厚之布也、其憤慨、故輿皮革同其畳耳'非自塵也'苓老重厚之貌'而講者妄為

楊音'非也)」(HP19),7b)

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か-のごと-、顔師古が顔遊秦の説をだまって借用していることはだれの目にもあきらかである。近代人の潔癖性はそれを

剰瀦とよびもするだろうが、しかし古人は先人の説を用いることにしか-それほど神経質であ

ったであろうか。われわれを拘

束している倫理感が'かれらをも同様に拘束したであろうか。蓮巽は班彪と班固'顔遊秦と顔師古の関係をあわせ論じてつぎ

のようにいっている。

「案ずるに古人の著述には'さいしょに創作したものが名を得ることな-、それらを集成したものがか

えってのさばりでて'そのまま名をほしいままにしている場合が往々にしてあるのであって'なにもこの二書

(漢書と師古注)に

かぎ

ったことではない(按古人著述'往往有先創者不得名、而集之者反出其上'遂因以檀名者、固不特此二苔也)」(隊飴叢考巻五「班書顔註皆有所本」)。

しかもそもそも漢書撃は顔氏の家撃であ

った。顔之推と師古住とのあいだにたどれる緊密な脈絡についてはすでに指摘したが、

顔遊秦も父顔之推の説をうけついでいたにちがいな-'それがさらに師古注に流れこんだと考えるのがただしいであろう。想

像をた-まし-すれば、

『漢書決疑』の撰述を顔師古もてつだったかも知れない。家嬰とは、ながい時間をかけて堆積された

一家の共同研究の成果ともいうべきものであろう。それはだれか

一人の個人名に蹄しえぬ部分をす-なからずふ-むであろう。

師古注が家撃の集成であったことは、顔師古の姪の顔昭甫が師古住の制作をたすげたと推測されることによっていっそう確認

(62)

しうるのであ

テキストづ--

書物の注樺作業には'依撰すべきテキストづ--'すなわち本文の校定作業が先行しなければならない。貞観時代の中書侍

郡として、また秘書少監さらには秘書監として、公人としての顔師古の主たるしごとは経籍の蒐集ならびに五経の校定をはじ

(63)

めとする校定作業であり'水をえた魚のように存分に糞力を護揮することがで

きた。

『漢書』の注樺とそれに先行する校定作

業においても'かれは秘府に蒐められた古今の固書を披見する便宜にめぐまれたであろうし、また日ごろの経験を生かすこと

ができたであろう。しからば

『漢書』のテキストづ-りはいかなる原則のもとにおこなわれたのであろうか。

「叙例」第三保

師古

の『漢書』注

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にいう。

「漠書の馨文には多-青陵字が存するが'注樺が-わえられるにいたってしばしば書きあらためられ、後世のものは習慣的

な蔑みぐせから意をもって創った-改めた-している。俸寓が--かえされればされるほどますます邸俗になった。いまは古

いテキストをつぶさに調.I(て県正なすがたに蹄Lt

一読しただけではわからない文字について'すべてひとつひとつ解樺する

ことと

(漢書奮文'多有古宇、解説之後'産経遣易、後人習読、以意刊改'博霧既多'禰更浅俗'今則曲霧古本'蹄其虞正'

一往難識者'皆従而揮

之)」。

すなわち顕師古の基本的態度は'古本を渉猟のうえ

『漢書』をその本来の面目にかえすことにあった。本来の面目を失なっ

(64)

たあたらしいテキスト'

「今善本」は、しばしばいささかの軽蔑の意をこめて

「流俗書本」ともよばれている。したがって'

たとえば

『史記』による

『漢書』本文の書きかえも絶封にゆるされない。い-つかの寮例を示そう。

陳勝項籍俸質

(賓誼過秦論)

「常以十倍之地'育苗之軍'仰閲而攻秦

へ師古日わ-'秦の地形はたか-'諸侯の兵が閲

ヽヽ

中を攻めようとする場合'いつも見あげるかっこうになる。だから仰開というのだ。今日の流俗書水が'仰の字を叩に作るの

はまちが

い(師古日'秦之地形高'而諸侯之兵欲攻開中老p皆仰響'故云仰閑也'今流俗書本'仰字作叩'非也))」

(HP

.

3),26a)。

『史記』秦始皇

ヽヽ

本紀薯に引かれる

「過秦論」は叩関に作っている(SH.6,95)。

すぐつづいて'

「秦入関開延敵'九闘之師'遁巡而不敢進

入師古日-、遁巡とは疑催してしりごみすること.遁の音は

千句の反。流俗書本は'巡の字を誤まって逃に作る.読者はそのために遁逃の意味だと考えている。播岳の西征賊に、逃遁以

奔窺tという。これまた誤まりである

(師台目'遁巡謂疑慣而却退也'遁音千句反、流俗書本'巡字誤作逃'讃者因之而為遁逃之義、播岳西征賦

云逃遁以奔窺'斯亦誤粂))」(HP・3),26a~b)。

『史記』は

「遮巡遁逃而不敢進」に作る(SH.6,95)。

季布奨布田叔俸質

「以項羽之気'而季布以勇蘇名楚、身履軍肇旗者教条

八部展日も

履軍とは戦に勝

ってふみしだ-こ

と。李奇日も

肇とは故である。孟康日も

撃とは斬取である。駒台目も

敵に勝

って旗を抜き取ることをいう。郡展、李奇

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の二説いずれもただしい。肇の音は案。今日の流俗書本が履を屡と改ため、さらに典の字を-わえて、身屡典軍'というのは

まちがい

(郡展日、履軍'戦勝贋履之、李奇日'寒'抜也'孟康日'宰'斬取也'師古日'謂勝敵抜取旗也、郡李二説皆是、宰音蕎'今流俗書本改履謂屡、

而加典字'云身屡典軍'非也))」(HP.37,

6

a

~b)。

『史記』季布奨布列俸質はまさし-そのように作

っている

(SH.)00,

ll)0

帝何俸

「上目'夫猟迫殺獣者狗也、而車綻指示獣庭老人也

八軒古日-、襲縦とは綱を解いて放つことをいう。指示とは

手で指示すること。今日俗間では放狗という。縦の音は子用の反。それなのに読者が釈暁の朕とするのはまちがい。テキスト

あと

はいずれも蹄の字に作

っていない。駅

をつける犬はほかにちゃんと存在し、人が解きはなつまでもない(師古日へ葦縦謂解推而放之

也'指示者'以手指示之'今俗言放狗'縦音子用反、璽読者乃馬躍蹟之耽'非也'雲本皆不馬躍字'自有逐縦之狗'不待人登也))」(HP.39,3b)。

『漢

書』テキス-のなかに縦を蹄に作ったものはなかった。しかるに躍鏡の距の意に解するものがあったのは'

『史記』

蒲相図世

ヽ家が

「築躍」に作る

(SH.53,6)のにひきずられてのことであったろう。

伍被俸

「漠婿

l日遇成果者四十飴人'今我令緩先要成泉之口

(寿昭日-'涯南王の臣の名である。師古日く'綾は名で

ある。その姓をいわない。今日の流俗書本が綾のうえにみだりに槙の字をくわえるのはまちがい

(葦昭日'准南臣名也'師古日'緩

ヽヽ

著名也'不言其姓へ今流俗書本'於緩上妄加模字、非也))」(HP.45,7

b)。

『史記』港南衡山列健は棲嬢に作

っている

(SH.)18,30)。

し襲胴の

『史記集解』はすでにそのあやまりに気づいて'

「漢書にはただ綾とのみあって槙の字がない。櫨纏は戦国時代の人。

疑うら-は後人がつけたしたのであろう

(漢書直云緩、無榛字、榛緩乃六園時人'疑此後人所益也)」と指摘している。とすれば槙の

一字

がつけ-わえられた

『漢書』テキストは'劉宋以後のものであ

った。

司馬相知停

(子虚妹)

「其東則有意圃'衡蘭正若--

(--師古日も

蘭は今日の津蘭である。今日の流俗書本'韮若

ヽヽ

の下に射千の字があるのはみだりに-わえたのである(師古日'蘭即今揮蘭也、今流俗書本、正若下有射干字'妄噌之也))

」(HPI57A,6a)。

ヽヽ

『史記』には射千の二字がある(SH.tt7,

12)。

「相如以馬列僑之儒'居山洋間

(師青白-、偏は柔である。術士の呼稀である。およそ道術をそなえておればすべて

師古

の『漢書』住

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偏である。今日の流俗書本が侍の字に作るのはまちがい。後人が改ためたにはかならない

(師古日、偏、柔也、術士之栴也、凡有道

(65)

術.皆篤儒'今流俗書本作博字へ非也、後人所改耳))」(HP.57B,

)2a~b)。

『史記』はまさし-

「列倦之

に作って

(

SH.117,80)。

さて顔師古が'注樺が-わえられれば-わえられるほど'また侍寓がかさねられればかさねられるほど古本の本乗の面目が

失なわれると考えたのは'ただしい認識であったというべきであろう。そしてこの認識が'テキス-の選樺にあたっておのず

から

一定の方向性をあたえなかったであろうか。第

Ⅰ部にのべたところから預想されるように'

『漢書』研究がさかんにおこ

なわれた江南のテキスーよりも、むしろ

一篇の注樺すら書かれなかった華北のテキスーの尊重混むかわせなかったであろうか。

江南のテキストの租本ともいうべき素読江本が'

「叙例」においてきびし-批判されていたことはすでにみたとおりである。

その反封に'江南につたわることな-北朝にのみったわった晋灼注が、テキス-

・ク-ティークにさいしても参照される場合

があったのではないか。北朝系テキストの尊重、このこともまたすでに組父の顔之椎に豚脂していたらしきこと'

『家訓』善

言荒の

「田有賀上」ならびに

「中外頑痛」(資料Ⅳ-伸)にかんする二候によっておよその想像がつ-。額師古が江南のテキス

トをおとしめたのではないかと考えるとき'

「流俗書本」として排されるものがしばしば

『文選』のテキストと

一致すること

は暗示的だといわねばなるまい。さきほどあげた語例のうち旧'廟'刷のいわゆる

「流俗書本」は

『史記』と

l致するだけで

はなく

『文選』とも

一致するのであって'そのほかにもなおつぎの語例を摘みうる。

揚雄俸(甘泉賦)「風催促而扶轄今へ驚鳳紛其御難

(師古日工

催促は前に進む意である。御とはなお乗というがごとし。

衆は車の垂れ飾りの援衆である。俊の音は凍.今日のテキスト'御の字をときに衝と書いているものがあるのは、世俗の妄故

である(師古日、舵催'前進之意也、御猶乗也、雛'串之垂飾綾健也。依音殊'今書御字或作街着、俗妄改也))」(HP.87A,

)

7a)。

同俸

(解職)「今大湊左東海'右渠捜'前者国'後陶塗へ如淳日も

小国である。師古日も

繭駿馬は北海のほとりに産

する。いまここにへ後陶塗'というのだから、北方の国名である。その図はこの馬を産するので、それで国名とした。今日の

吉本で陶の字を板に作っているものがあるのは'流俗が改ためたのである(如淳日へ小国也~師古日、陶除馬出北海上,今此云後陶塗、則

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是北方国名也、本国出此馬'困以馬名'今書本陶字有作敬老'流俗所改)VL(HP.87B,9

a-b)。

右の二例、

『文選』はそれぞれ衝

(7,8b)'敵

(45,7b)に作っている.

ところで

『漢書』本文の校定に育灼注が参照されたことをおもわせる事例としては下記をあげうる。

陳勝俸

「陳守令皆不在'猶守丞興戦誰門中

(育灼日-'誰門は義を閑-。師古日-、守丞とは郡丞であ

って居守してい

るものをいう。

一説に、郡守の丞だから守丞という、と。誰門とは門のうえに高横を設けて望見するものをいう。槙は

一名誰。

だから美麗の櫨を麗誰とよぶ。誰は巣ともよばれ、いわゆる農事なるものは、やは-戦車のうえに横を設けて敵を観望するの

である。誰と巣は吏音がたがいにちか-'ほんらい

l物である。今日の流俗書本では誰の下に城の字があるがまちがい。これ

まら

は陳のまちのことにはかならない。証の

ことではない。誰城はとっ-のむかしに降っている

(育灼日へ誰門、義閑'師台目'守

丞謂郡守之盾守者、一日'郡守之丞'故日守丞、誰門謂門上馬高楼以望老耳'模一名誰'故謂美麗之榎鎧願誰'話亦呼残臭、所謂巣単著、亦於兵事之上馬標

以望敏也'誰巣整相近、本一物也、今流俗書本、誰下有城字'非也、此自陣耳'非誰之威、誰城前己下失))」(HP・31,3b~

4

a

)。

畢注本の育灼注本

では、いちおう

「誰門」を見出しとしてかかげたうえ'その下に

「義閑」と記していたか、あるいは空自のままにのこしてい

たのであろう。しかしともか-

「誰城門」ではな-

「誰門」を見出しとしていたこと'そのことが顔師古の卓抜にして確固た

る注樺をみちび-き

っかけとなったのであろう。

江充俸

「初充召見大童官

(晋灼日二

三輔黄園によると'上林苑に大童官があり、その外に走狗観がある。師古日く、

ヽヽ

今書本に大童を大童の字に作

っているものがあるのは誤まりである。漠には大童官は存在しない

(晋灼日へ英国、上林有犬豪富、外

有走狗観也、師古日'今書本犬茎有作大壷字考

試也、漢無大童官也))」(HP

.

45,ttb)。

息夫窮俸

「窮国是而上奏、--烏

孫南昆禰弱'卑宴勇強盛

(蘇林日二

重の音は款嘆の嘆。晋灼日-、音は詩経

(締風

狼聾

の'哉嚢其尾、の嚢。師古日も

字をもっていえば晋灼の音がただしい。音は竹二の反。しかるに旬奴侍の確度注には'

献捷の捷と音をあたえている。まちがっている-え'末俗の畢者がさらに責の字を産と改ためて服度の音にあわせているのは、

師古

の『漢書』注

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はなはだ県賓からかけ離れている

(蘇林日'愛育款嘆之嘆、育灼日、音詩載嚢其尾之嚢'師昔日、以字言之'晋音是'青竹二反'而旬奴博服度乃音

献捷之捷'班己失之ー末俗学者文政塵字薦磨、以鷹煤氏之音'尤離虞粂))」(HP.

45,)5b~16a)0

路塩野停

「又受春秋、通大義、聾者廉馬山邑丞

(蘇林日-'麟名、常山郡に存在する。晋灼目上

地理志では常山郡に

石邑願はあるが山邑解はない。師古日-'山邑豚はその所在を知らない。今日の流俗書本に'常山石邑丞、というのは'後人

がみだりに石の字をくわえたのだ

(蘇林日'牌名'在常山、晋灼日'地理志、常山有石邑、無山邑、師盲目、山邑不知其虞'今流俗書本云常山石邑

(66)

丞'後人妄加石

)

)」(HP.5),Bob)。

顔師古が

「流俗書本」としてし-ぞけたものには、

『史記』や

『文選』によってあらためられたと判断されるもののほかへ

さらにつぎのごときをつけくわえることができるであろう。

張耳陳飴停

「趨王間出'馬燕軍所得、燕囚之'欲輿分地、使者往燕'軌殺之'以固求地'耳飴患之、有麻養卒'謝其舎

へ蘇林日-'麻は薪とり。義は人に奉仕するものである。合とは止宿しているところの主人をいう。晋灼日-、言葉であい

てに告げることを謝という。師古日-'謝其合、とはその舎中の人に告げることをいう。だから下文に、舎中人皆笑、という

のである。今日の流俗書本がここの合の下にみだ-に人の字を-わえているのはまちがい。麻の音は斯

(蘇林日'厭、取新著也'

養'義人者也、舎謂所合宿主人也'晋灼日、以酢相皆目謝、師古日'謝其舎'謂告其舎中人也へ放下言合中人皆笑、今流俗書本於此舎下凱加入字'非也'麟

音斯)Vt吾馬二公認燕'興趨王載蹄'舎中人皆笑日・・・-」(HP.32.4a)。『史記』張耳陳飴列博は

「謝其舎中日」に作

っているが'

そこの索陰には

「漢書は舎人に作る」と指摘しているから

(SH.89,)2)へ司馬貞所見の

『漢書』は顔師古のいわゆる流俗書本で

ある。後述するように

『史記索隠』がしばしば陳の眺察注を用いているところから考えて'これまた江南系統のテキストであ

った蓋然性がたかい。

(67)

揚雄俸

「京師弟之語日へ惟寂巽、白投聞、宴清静、作符命

(師台目も

揚雄の解朝の言をもって放

ったのであP.今日

の流俗本に'惟寂惟実'自投於闇へ宴清宴静作符命、というのはみだりにましたのである(師台目、以雄解噺之言決之也'今流俗本云'

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惟寂惟実、自投於間、宴情愛静作符命へ妄槍之)VL(HP.87B,22

b)。

いわゆる流俗本のさいしょの二句'

『文選』が載せる謝蛋遅

「斎中

講書詩」の李善注にこ

のとお-引かれている

∞a)。

李善は揚州江都のひと。とすればこれも江南系統のテキストであった

かも知れぬ。李善にはまた

『漢書耕惑』三十巻のあ

ったことが注目される(奮唐書儒学博

189A,4946)。

桃察注と師古住-顔師古と南軍-

顔師古は組父の顔之推ならびに叔父の顔遊秦たちによってつたえられた家撃としての漢書撃の俸銃を

『漢書』注にゆたかに

もりこんだ。

『家訓』についてみられる顔之椎の説は師古住全鰹からみればなお零細であるが'顔遊秦の

『漢書決疑』は

『漢

Lil,

書』の専注であるうえ'巻数も十二巻といたって大部であり'師古庄も

「多-その義を取るのみ」とさえ許されている。しか

しながらこの表現そのものが、師古住には顔師古の童明猫創にのこされた部分のあったことをものがたっているであろう。も

っとも見やすい例をひとつ示すならばこうである。武帝紀元狩二年

「南越献酬象能言鳥

へ師古日-'すなわち鶴鵡である。今日、

陳西および南海いずれにも存在する。寓震の南州異物志に'三種あり'

一種は白色t

l種は青色'

一種は五色'交州以南の諸

園すべてに存在し、白色ならびに五色のものはその性格がとりわけ利口だ、とあるのはけだしこれをいうのであろう。隅の開

(68)

皇十八年'林邑園が自艶鵡を頁戯してきた。常時これをめずらしがって'その年の黄土すJ,(てに白艶鵡賦が出題された。聖皇

みかと

の統治となってしばしばこの頁献品があったが、上

僻遠の地にとっての労費であると'慰撫して約められなかった

(師盲目'

即断鵡也'今際西及南海並有之'寓震異物志云、有三種'一種自'一種青tl種五色、交州以南諸国轟有之、自及五色者'其性尤慧解'蓋謂此也、隔開皇十

八年'林邑図戯白艶鵡'時以馬具'是墾貝土成試賦之'聖自責暦'屡有蓋戯'上以幽遺努費'撫慰弗受JV」(HP.6,14a~b)。ここに

「聖皇」とよび

(69)

(7

0)

「上」とよぶのはけだし唐の太宗をさしてのことであろう。ときに顔之推はもとよりのこと、顔遊秦もすでに

そしてま

たなによりも

『史記索隠』が大顔の説にたいして小額の説とよんでいる部分こそ'顧遊秦以後に顔師古が脊展させたところと

たつ

考えられるであろう。たとえば資料

VI物についていえば'

「言うこころは其の俗塵の論を尚とばず'但だ終雷の正道に蹄す

顔師青

の『漢書』注

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るを取るのみ」までが寮遊秦の説に依接しており、

「其の節を創除するを謂うには非ざるなり。而るに読者便ち此の賊は己に

(71)

史家の刊剤を経たりと謂うは'其の意を失せ-」の数語はまざれもな-顔師古によってあらたにそえられたのであった。

さらに忘れてならないのは'顧師古のまたひとつの著書'

『匡謬正俗』のことであろう。

かれの死後'高宗の永微二年

(六

五一)'長子の符垂郎顔揚庭によって朝廷にたてまつられたときの上表文につぎのようにいう。

「臣の亡父先臣師古'嘗つて匡

わず

っみ

たち

謬正俗を摸す。藁草は

牛ばにして部快は未だ終らざるに'臣の

幽藁を犯すを以て

ち損乗を垂れ'風を撃ずるも及

やま

のぼ

ぶ岡上

りて哀しみを増す.臣敬しんで達文を奉じ'謹しんで先範に連がい'分ちて八巻と為し'勤して

一部と成す。

百氏の批輝は末だ窮む可からずと経も'六典の迂靴は斯に於て矯草せられん」。

つまりそれは未完の草稿としてのこされたの

だが'八巻の構成はすでに

「先範」として師古に熟していたらしい。その内容は、

「前の四奄'凡そ五十五候は皆な諸経の訓

話音樺を論じ'後の四奄'凡そ

一百二十七候は皆な請書の字義字音及び俗語相承の異を論ず」る(四庫提要軽部小畢類)。

『漢書』

注との成立の前後をにわかに決定しがたいけれども'

一漬したところ'お-にふれての議書飾記といったおもむきの書物であ

って'まずさいしょに八巻の構成がたてられ'しかる''(きところに

一俵また

一俵と書き-わえられていったのではあるまいか。

この推測がただしいとすれば、未完の草稿のままでのこされるのがこの書物のそもそもの運命ではなかったか。そこにもられ

た内容は、巻五

「漢書」の項に収められた諸侯はもとよりのこと'そのほかの諸侯も

『漢書』注と

一致するところがす-な-

ない。かく

『匡謬正俗』から端的にうかがわれるように、師古住が日ごろの読書節記の類の蓄積をまたひとつのよりどころと

していることは'言をまたないであろう。

ではしからば、家撃の俸銃をふまえ、先人の注樺を渉猟し、そのうえに自己の新知見を-わえて成った師古住は'全鮭とし

ていかなる特色を有するのであろうか。

『漢書』注樺のながい歴史のなかにどのように位置づけられるのであろうか。しかし

そのことを考えるにさきだって'いまひとつ検討してお-べき問題がのこされている。すなわち師古住と陳の桃察の

『漢書』

注との関係であって'眺察注にたいする顔師古の封虞のしかたは'おのずからにして師古庄の性格を帯沸させて-れることに

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もなるであろう。師古住と眺察の

『漢書』注との関係といったのは'桃察の曾孫眺挺

(六四TI七l四)についてつぎのような記

鉾が存在するからにはかならない。

「桃挺はかつて骨組父の桃察が撰述した漢書訓纂が、しばしば後世の漢書注樺家たちによ

って、その姓名をか-したうえ自説として引かれていることに気づいた。そこで漢書紹訓四十雀を撰述して奮義を夜明し'世

におこなわれた

(挺嘗以其骨組察所撰漢書訓某'多薦後之注漢書者隠役名氏'格馬己説'挺乃撰漢書紹訓四十雀'以詮明蓉義'行於代)」(奮唐書

89,

2907)。顔師古と名ざしているわけではないが、桃察以後の

『漢書』注揮家といえば'顔師古がまずも

っともきわだった存在で

ある。顔遊秦の

『漢書決疑』はそのほとんどすべてが師古住に吸収されたであろうし'顧師古にやや-だっては顧胤の

『漢書

古今集』二十奄(奮唐書7

3,

2600)

や李善の

『漢書痔惑』三十奄(同

)89A,4946)が存在したとったえられるが、師古住が成立と同

時にひろ-世におこなわれたことは先述したとおりである。ではいったい桃察の

『漢書訓纂』は顔師古によってどのように利

用されているのであろうか'あるいはそれとも利用されていないのであろうか。桃崇の説はやはり

『史記索隠』にまま散見Lt

(72)

「眺察云」、「桃氏云」として司馬貞が引-ものおよそ五十候を拾うことができ

それらすべてをここに示すことはあまりに

も煩雄にすぎるから、師古庄との契合をおもわせるもの十

一候を摘むことにしよう。なお

『後漢書』章懐注からも

一候を-わ

えることとする。

資料Ⅵ

眺察説と師古住

回天官書

「参馬白虎'--小三星隅置日舞櫨、馬虎首、主復旋事

(眺氏案宋均云'藻'守也、旋猶軍旗也'言佐参伐以斬文除凶也)」

(SH.27,

24-5)

天文志

「--

(如淳日、閲中俗謂桑檎柴生魚藻、育灼日'禾野生日放'今之飢民釆旋也、宋均日へ裸、守也'族、軍旋也'言佐参伐'

(73)

斬文除凶也)」(

HP.26,)5a-ら)

筆1g王世家

「王戊立二十年冬'坐馬帝大后服私姦、創東海郡

(漢書云'私姦服舎中'眺察云'姦於服舎'非必宮中へ又按集注へ服度

云、私姦中人、蓋以罪重故至創郡也)」(SH.

50,3-4)

師古

の『漢書』注

二七九

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二八〇

呉王浜停

「三年冬'楚王来朝、

(朝)錯困言'楚王戊往年馬蒋太后服'私姦雄合

(服度日'服在喪次'而私姦官中也'師古日'言於服

舎為姦'非官中也'服舎'盾喪之次'空室之屠也Vt請課之'詔赦創東海那」(HP・35,6

b

)

帝悼恵王世家

「及魂勃少時、欲求見哲相曹参'家貧無以自適'乃常猫早夜掃奔相舎人門外'相舎人怪之'以為物而伺之'得勃

(眺氏

云'物、怪物)」(SH,52,

ll)

高五三俸

「・三・・以薦物而司之'待勃

(師古口'物謂鬼神'司者察硯之)」(HP.38,6

b

)

張丞相列俸

「張丞相蒼者'陽武人也'好書律暦、泰時為御史'主柱下方書'有罪亡蹄

へ周秦皆有柱下史'謂御史也'所掌及侍立'恒

在殿柱之下、故老子馬周柱下史'今蒼在秦代'亦居斯職'方害者'如淳以馬方板'謂小事書之於方也へ或日'主四方文書也'眺氏以馬

下云明習天下国書計籍'主郡上計'則方馬四方文書是也)」(SH.96,2)

張蒼俸

「--

(如韓日、方'板也'謂事在板上着也'秦置柱下史'蒼薦御史'主其事'或日'主四方文書也、師古日'下云蒼白泰時馬

柱下御史'明習天下囲書計籍、則主四方文書是也、柱下居殿柱之下'若今侍立御史奏)」

(HP.42,La)

叔孫通列俸

「至薩畢'復置法酒

(按文穎云'作酒法令也'眺氏云'進酒肴薩也'古人飲酒不遇三辞'君臣百押'終日宴、

不馬之乳

也)」(SH.99,)7)

叔孫通俸

「至薩畢'轟伏'置法酒

へ師古日'法酒者猶言値酌'謂不飲之至酔)」

(HP43,)6a)

李賂軍列俸

「太史公日'・・・・・・諺日'桃李不吉'下日成供

(案眺氏云'桃李本不能言

、但以華賓感物'故人不期而往其下'自成践径也t

以愉

(李)贋錐不能出離'能有所感'而忠心信物故也)」(S

H.)09,2))

李磨蘇建俸

「讐日'・・・-

(師古日'瑛謂径道也'言桃李以其華貿之故'

非有所召呼'両人季節趣'来往不絶、其下自然成径'以職人慎

誠信之心へ故能潜有所感也'麟音葵)」(HP.54,23b)

資料Ⅲ

~囲(SH・1LL,32)

衛青震去病俸

「去病自四年軍後三歳'元狩六年褒'上悼之'襲属国玄甲等、陳自長安至茂陵'篤家、象郡連山

(師台目'在茂陵穿'家

上有望石'家前有石人馬者是也)'--上道詔青筒平陽主'興主合葬、起家象慮山云

(師古日'在茂陵東'次去病家之西相併老是也)」

(HP.55,)6

b~)7b)

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司馬相如列俸

(上林賦)

「猪不聞天子之上林乎'左蒼梧'右西極、丹水更其南'紫淵在英北、終始覇淀、出入浬洞'鄭都涯橘、貯徐

委蛇'経営乎其内

へ張揖云、豊水出郷願南山豊谷北入洞、鏑在昆明地北、郭瑛云、鏑水、豊水下流也'磨勧云'瞭'流也、橘'涌出聾

也'張揖云'又有清水'出南山'眺氏云'僚或作曹也、浄水出都牒北注滑'清水出社陵、今名淡水'自南山皇子陵西北流'注昆明池入

潤、案此下文八川分流'則従澄澗清澄豊鏑僚橘為八、晋灼日、従丹水下則有九'従膚以下則七、案今橋既是水名'除丹紫二川、自在潤

以下、遠足八川'是経営乎其内也'又港岳閑中記日ti,g渦潮淀豊縞浄橘、上林賦所謂八川分流)'蕩蕩骨八川分流、相背而異態」

(SH・

Lt7,

26

-7)

司馬相如停

「・・・三

八歴勧日'瞭'流也、濡'涌出聾也、張揖日'豊水出都南山澄谷北入婿、鏑在昆明地北へ僚'行瞭也'又有清水出南

山'晋灼日、下言八川'計徒丹水以下至橘'除漠馬行瞭'凡九州、従覇産以下馬教、凡七川'清音決、涌、水滴出撃也'除僚滴下親水'

徐適八、下言経営其内、於教則計其外老臭へ師古日、鷹音二説皆非也、張言濠為行瞭'又失之'擬音牢'亦水名也、出部隊西南山漠谷'

而北流入於滑'上言左蒼梧'右西極、丹水更其南、紫泉在英北'皆請

(上林)苑外耳'丹水紫泉'非八川敏也、覇産僅潤豊鏑濠橘'是

馬八川、言経営其内'信則然莫'橘、育音是也、地理志、都願有橘水へ北過上林苑入消、而今之都願則無此水'許憤云'濁水在京兆杜

陵'此即今所謂沈水へ従皇子陵西北流経昆明池入潤老也、蓋爵字或作水穿穴'輿沈字相似'俗人因名沈水乎'購都願濁水、今別改名'

人不識也、但八川之義、賓在於斯耳)」(HP・57A,19b~20b)

「正蓋嚢荷'蔵燈若環

八張揖云、歳持開'郭瑛云'鐙'柚也'眺氏以為此前後皆草'非樟也'小顔云、蔵、寒奨也'持皆馬符、

符、鬼目也、案今読者亦呼馬登'謂金登草也'張揖云、孫'香草、眺氏云'藻草、似昌蒲而無脊也、生漠澗中'轟音孫)」(SH.tt7,34)

「荘茎葉荷'歳持苦茶

(如淳日、蔵音鉱、張揖日へ蔵持閑'若'杜若也'茸'香草也、師古日、蔵、寒奨也、持営為符、字之誤耳'

符'鬼目也、杜若苗頗類墓而親機菓之状、今流俗書本'持字或作鐙、非也、後人妄改耳、其下道言責甘塩榛、此無燈也'蔵音之林反へ

疎音孫)」(HP.57A

〉2

8)

㈹同

(噴巴局数)

「移師東指'関越相課'右弔番置、太子入朝

(文親日、番掲'南海郡理也、弔'至也'東伐開越'後室番謁、放言右

至也、案眺氏弔讃如字'小顔云、両国相伐、漢語兵救之、令弔番置'故遣太子入朝、弔'非至也)」(SH,)17,60-6))

ヽヽ

「・・・・・・(文穎日'弔'至也'番置、南海郡治也、東伐越、後至番置、故言右也、師古日'南越潟東越所伐'漢護兵救之'南越蒙天子

『漢

書』注

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徳恵'改造太子入朝'所以云弔耳、非訓至也)」(H

P・57B,tb)ヽ

旬奴列俸

「諸左方王将居東方'直上谷へ以東接税務朝鮮

人案挑氏云'音字例以直為値'値者督也)」(SH・)10,21)

旬奴俸

「・・三・八師古日'直'普也'其下亦同也)」

(HP・94A,7a)

後漠董早帝紀元和二年

「五月戊申'詔日'--加賜河南女子百戸年酒

へ前書音義'蘇林田'男賜欝'女子賜牛酒'眺察云'女子謂賜

宙者之妻'史記封辞書'青戸牛

一頭'酒十石'臣貿案'此女子富戸'若是戸頭之妻'不得更栴為戸'此謂女声頭'即今之女戸也、天下

栴慶'恩普普沿'所以男声賜辞'女子賜年酒)」(3,)52)

文帝紀

「下詔日'・・・・・・険初即位、其赦天下'賜民欝一級、女子百戸牛酒

(蘇林日'男賜辞'女子賜牛酒、師盲目'賜密着謂一家之長得

之也'女子謂賜欝者之妻也'率百戸共得牛若干頭酒若干石、無冠数也)」(HP4,4b)

両者を読み-らべてみると、師古注が眺察説を参考に資した形跡はおおうべ-もないであろう。しかしながら、顔之推説'

寮遊秦説を師古庄があたうかぎり吸収しようとつとめたのに-らぶればどうであろうか。今日判明する眺察祝は'『漢書訓纂』

全鰹からすればとるにもたらぬ五十候にすぎないが'それらにかぎ

っても顔師古によって捨てられたものはす-な-ないので

ある。たとえば

『史記』魂其武安侯列俸

「孝景三年'呉楚反'上察宗室渚賓'額如薯嬰賢'乃召嬰」の索陰は'

「宗室諸賓」

ヽヽ

一解として桃察説を引いていう。

「眺氏案ずるに'酷吏侍に、周陽由はその父の趨乗が港南王の異なるをもって周陽侯に封

ぜられたため'その国名をとって姓氏を改ため'由は宗重なるをもって郎官に任ぜられたとある。とすれば親戚の戸籍につけ

られる関係にあるものも宗室とよぶことができるらしい(眺氏葉酸束停'周陽由其父題兼以准南玉東侯周陽'故国改氏、由以宗重任篤郎、則似

是興国有親戚属籍者'亦得慧望ボ窒也)」(SH・)07,3)。

つまり眺察は

「宗室の諸費」と読ませるわけだがtLかしここに封鷹する

『漢

書』賓嬰俸の師古庄には、

「宗室とは帝の同姓親である。諸賓とは帝の外戚を総括してよんだのである。呉楚が反乱をおこし

たため'内外の親族を将軍に起用しょうとしたのである

(宗室'帝之同姓親也、諸費'絶謂帝外家也'以輿楚之難、故欲用内外之親為賂也)」

(HP・52,tb)とあって'「宗室と渚饗」と謹ませている。これはいかにも桃寮を意識したうえ桃察説をあらためた書きぶりでは

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ないか.あるいはまた、完全には質成しかねるがさりとて捨てさるのも惜しいと考えた場合には'

一読としてのこす周到な方

法がとられた。顔遊秦説と師古住との封比の畢例に示した資料Ⅴ-潮の

「〓至

がそれである。

顔師古が眺察譲を

「名氏を隠捜して購

って己が説と為し」たことにたいする桃挺の憤慨は、なるほどもっともなところがあ

った。しかし顔師古が眺察説を取櫓するにあたって憤重な検討を-わえたこともまた事案である。しかもそもそも師古住には、

漢p魂へ晋の奮注にかえるべLとの大原則が存在した。この大原則のもとでは'組父や叔父の名すらあえて

「隠没」された。

したがってたとい

「名氏を隠投」してではあれ、眺察説のい-つかが採用されたことは'顔師古の意識としてはむしろ名著と

考えられるべきことがらであったかも知れない。ではなぜ奮注にかえるべきなのか。なぜ新注はよろし-ないのか。

「叙例」

の第九段にいわく

「近代の史注は該博を競い、やたら雑読を引用しては本文を攻撃している。なかにはあいての字句をしか

りとばLtよしあしをあげつろい、先人のまちがいを暴露し'わが見識の優秀さをふりまわすものまである・・・-(近代注史'競馬

該博'多引雄琴

攻撃本文'至有諾璽一口節p持挨利病、顕前修之批僻'轄己識之慶長)

」。そして冒頭でふれたようにへ東方朔停薯の注におい

てもへ普時の漢書単著たちが

「他書」、つまり

『漢書』以外の書物の

「薙説」をとって東方朔の事績にこじつけ'「異聞を博め

ている」ことを慨嘆している。つまり

『漢書』本文そのものはそこのけの注樺がまか-とおっているというわけだが、しから

ば雄視を引いて該博をきそい'異聞をひろめる史注とは'具鮭的にいかなるものをさしていわれているのであろ-か。顔師古

が史注に用いるべきではないと考えた薙説とはいかなるものなのであろうか。そのひとつに皇甫譜の

『帝王世紀』がある。顔

師古の皇甫譜にたいする攻撃は、いたって蘇著である。

高帝紀

「姓劉氏、母艦

(文穎日-、幽州および漢中ではみな婆さんのことを塩とよぶ。孟康日-、姐は母の別名。音は

烏老の反。師古日-、艦は女性の老人の呼稀。孟康の音はただしい。史家は高租の母の姓氏をあきらかにせず、記しょうがな

ヽヽヽ

いため、潜時たがいによびあっていた呼び名をとって言ったのだ。下文の王塩のたぐいも理由はみなおなじ。ところが皇甫謎(74

)

たちときたら'みだりに誠記を引用して'奇をてらい博識をふりまわし'あながちに高租の父母の名や字をこしらえているが'

『漠

書』注

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すべて正史の読-ところではなく'おもうにとるべき鮎はない。劉姐の本姓が賓際にのこっていながら司馬遷があえて詳記し

ないなんてことがあるだろ-か。道理からいってはっきりとわかることだ

(文第日'幽州及漢中'皆謂老姫為姐、孟旗日'娘'母別名'音

烏老反'師古日'娩'女老栴也'孟音是英'史家不詳者高祖母之姓氏'無得記之'故取皆時相呼稀統而言也'其下王艦之展、意義皆同'至如皇甫謎等、妄引

識記'好奇膳博、強籍高租父母名字'皆非正史所説、蓋無取蔦'寧有割腹本姓賓存'史遺骨不詳載、郎埋而言'断可知粂))」(HP・1A,2

a)。ヽヽヽ

恵帝紀

「四年冬十月壬寅'立皇后張氏

(師台目上

張激の女である。史記および漢書に名、字はみえない。皇甫護は帝

王世紀を撰述して'恵帝張皇后および文帝薄皇后以下すべてのためにそれぞれ名をつ-

つている。薄父

(薄皇后の父)たちに

ついても名'字を立てているが、どこから仕入れてきたのだろう。博聞を示そうとしたのだが'穿墓におちいっていることに

気づいていない

(師古日'張敦之女也'史記及漢書無名字、皇甫認作帝王世紀'皆馬意帝張后及孝文蒋后以下'別制名蔦、至於薄父之徒、亦立名字'何

社而待之乎'堆欲示博聞'不知陪於穿盤))」(HP

.

2,

5

a)0

地理志

「河南郡-・・・侶師

P郷、殿湯所都'葬日師成

人臣項目上

殿の湯王は毒に居た。今日の済陰豚がそれである。

現在'毒には湯王の家基が存在し、己氏には伊早の家墓が存在して'両者はたがいに近い。師古日-、喫読はまちがい。また

ヽヽヽ

皇甫誰が湯王の都は穀執にあ

ったというのなど'ことがらはまった-荒唐無稽である。劉向は湯王には埋葬した場所がないと

いっており'湯玉の家墓があるはずがないではないか

(臣頃日、湯居毒、今済陰鯨是也'今毒有湯家'己氏有伊ヂ家、皆相近也'師台目、頓説

非也'叉如皇甫諸所云湯都在穀執'事並不経'劉向云'湯無葬塵、安得湯家乎))」(HP.2

8At,68b)0

王貢南襲飽俸序

「漢興'有園公給里季夏黄公用里先生

(師古日-、四胎なるよび名はそもそもこの記事にもとづいてお

り'これ以外に解す.I(き姓名はない.かれらはけだし隠棲者であ

って、足跡を-らまして害を避け'自己琴

不をせずにその姓

ヽヽヽ

(75)

族を砿したため'史俸はつまびらかにしえないのだ。

ところが後世の皇甫譜や圏稀たち'および地理書の説では'きそって四

人のために姓や字をほどこし-わえている。たがいに混乱をきたしているうえ、その言葉はいっそう無稽である。班園は漢書

に記載しておらず'諸家の視はすべて臆寵である。いまはいっさい切りすてて'ひとつも採用しない(師古日'四賠構既、本起於此、

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更無姓名可稗'知此蓋陰居之人'匿迩遺書'不日標顧'秘其氏族'故史俸無得而詳'至於後代皇甫護国稀之徒及諸地理書説へ競馬四人施安姓字'

自相錯互、

語叉不経'班氏不載於書'諸家皆膜説'今並弄略t

l無取蔦))」(HP

.

7

2,tb)。

皇甫譜にたいする攻撃はあらまし右のようであるが、確認といえば'高帝紀高租七年'漠の高租が平城において旬奴に固ま

れること七日へ陳平の秘計によってようや-にして脱出することのできた-だりの師古住も'注目されねばならないであろう。

そこにはまず麿劫の説が紹介され、鄭氏の語が引かれ'そのあとに顔師古の論評がそえられている。

「--蓬至平城'馬旬奴所園七日、用陳平秘計得出

入鷹勧日-'陳平は重工に美女の園を描かせ'こっそり人をやって

閑氏のもとにとどけさせた。そしていわせた。漠にはこのような美女がいます。現在'皇帝は苦境におちい-'この女を願上

したいかんがえでおられます。閑氏は自分の寵愛がうばわれることをおそれて'それで軍手にいった。漠の天子にも紳蚕がつ

いています。その土地を獲得したところで、もちこたえることはできません。そこで旬奴は囲みの

一角を開き'脱出すること

ができた。鄭氏日-'計略が下劣であったので'秘してつたえなかったのである。師古日-'鷹勘の説は桓葦の新論にもとづ

(76)

いてい

けだし桓浮は意をもって推しはかったところ'きっとこうであるにちがいないというだけのことだ。紀、侍の読-

ところではない

(歴効目、陳平使重工固美女、問遣人造閑氏云'漠有美女如此'今皇帝困厄、欲厭之へ関氏畏其奪己寵'因謂畢千日、漠天子亦有紳要.

得其土地'非能有也、於是旬奴開其

一角'得突出'鄭氏日'以計都階'放縦不停'師古日、鷹氏之説出桓欝新論'蓋謬以意測之'事常然耳、非紀停所説也))」

(HP・tB,

)2a)。鷹劫はいうまでもな-奮注家の

一人であるLtまた桓欝の

『新論』をも師古注はときとして利用せぬわけでは

(77)

ないが'

ここではさしあたり

「紀健の説-所にはあらず」して小説家の説にあまりにも近づきすぎていることを警戒したもの

であろう。史住家顔師古の小説家ざらいはかな-徹底している。たとえば'

マサニ

匡衡俸

「諸儒馬之語日、無読詩'匡鼎衆

人服度日-、鼎とはなお常というごと-である。匡且来-匡がやって来るぞI

イマシ

といわんとするのである。慮初日-、鼎は方である。張量目-'匡衡のわかいときの字は鼎、長じてから椎圭と字をあらため

もAフ

た。世につたえられるところの匡衡が真南に輿えた書簡には'さいしょに衡敬しんで報ずといい'おわりに匡鼎自すといって

『漢

書』注

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いて'これが字だとわかる。師台目く'服度'鷹劫の二説がただしい。天子は春秋鼎盛、という貿誼の言もその意味ほおなじ

であ

って、張鼻の説はけだし穿婆である。たといそのような書簡が存在したとしても'後世のものがこの椿に匡鼎来とあるの

を見'その意味がわからぬまま匡衡の書簡をでっちあげ'鼎自すといったまでだ。字は徳を表わすものであ

って'みずから稀

するものではあるまい。今日、西京雄記とかいうものが存在する。その書物は浅薄鄭俗であ

って、市井の間において制作され'

(7

8)

みみ

(79)

やたらと妄語が多いが、なんと匡衡の小名は鼎tといって

おもうに知者の

つというもの

(

服度日、鼎璽富

也、苦言

匡且来也'鷹初日、鼎'方也'張鼻白'匡衡少時字鼎'長乃易字経堂、世所停衡興買南書'上言衡敬報、下言匡鼎自'知是字也、師昔日、服鷹二説真也'貿

誼日'天子春秋鼎盛、其義亦同'而張氏之説'蓋穿整英へ慣有共著'乃是後人見此侍云匡鼎来'不暁其意'妄作衡書'云鼎白耳'字以表徳'豊人之所日柄乎'

今有西京薙記者'其書残俗'出於里巷'多有妄説'乃云匡衡小名鼎'蓋絶知者之撃)匡説詩'解入院」(HP.8).

ta

~b).

『西京雑記』は六朝期

(80)

に制作され'漠代に取材したところの小説であ

った。薯洪漢をよそおってはいるけれども仮託としかおもえないその欧文のか

たるところでは'葛洪の家には劉散の未完の

『漢書』首巻がったえられていた。それを班固

『漢書』と封校してみたところへ

班国はほとんどすべて劉歌を襲

っておりへとらざるところは二寓言あまりにすぎないことがあきらかとな

ったがへそれらとら

おざ亡

ざるところを抄出して二奄とし、

「以て漢書の閲を

わん」としたのが

『西京雄記』であるという。かくして史注家のなか

にも、

『西京雄記』をも

って

『漢書』の閑をおぎなおうとこころみたものがな-はなかったのであろう。だが顔師古にいわし

むれば'それは建設にしかすぎなかったのである。

以上によ

って顔師古がどのようなものをさして雄視とよんだのか'そのあらましをうかがいえたのであるが'ところで桃察

『漢書』注は'いわゆる雄視を多-引用して該博をきそう

「近代の史注」の弊をやはりまのがれがたかったふしが感ぜられ

る.まずてがかりとして

『史記索隙』にのこされた約五十候の挑察説にみえる書名ないし人名を抄出し

てみ

ことにしよう

(史記と漢書は省略する)0

虞菩志林

(SH・8・72;12,

1

5)'

桓欝新論((2,

)5).何承天()2,

22)

'揚雄()2,42)'楚漢春秋(r

8,8357,14)'孔子家語()

8,3))

,益

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部著沓停(26,

)0)'春秋元命包(27,3)'文耀鈎(27,3).春秋合誠固(27,3)'

楊泉物理論(27,3;27,

32)'宋均(27.8;27,25)'天

官占(27,32)'

兵書(27,74)'隠士遺草那書(48,4)'

樺名

(59,13)、漠律(59,13)、説文(59,13;117,44)'北彊記(93,6)、

三輔故

事(95,24)'博物志(95,24)'後漢紀(95.26)'磨州記(E3.5;tt3,)6)'永嘉記(114,

3)'清岳閥中記(tt7,27)'上林賦(117,27)、

林邑記(117,4))'山海経(tt7,44)

これを眺察

『漢書訓纂』の引用書目人名-ストとよぶにはあまりにも貧弱にすぎるけれども'あえてここからひとつの傾向

性をひきだすとすれば、それは地理書の利用度のたかいことではあるまいか。ところが顔師古は'眺察とは反対に、地理書に

それほどの信をおいてはいなかった。南山四胎の姓字を臆説によって設けるものとして'皇甫詮や圏稀とならんで地理書説が

あげられていたが'地理志序末尾の注においてもつぎのごとくいう。

「師青白く

中古以来'地理について説-ものは多い。

あるいは経典を解揮し、あるいは地方志を撰透して新異をきそい'むやみに穿茎をおこない'附合の説に腰をおちつけてすこ

ぶる県賓を失な

っている。後世の学者はそれをそのまま租逃して謬課なることにとんとおもいをいたさず'その根本をたずね

てみる力がない。いまいっさい載録しないが'けだし責められることはないであろう(師台目'中古以来'説地理者多央'或解得経典へ

(81)

戎撰述方志'競馬新異'妄有穿整、安虞附

'

頗失其虞、後之聾者、困而絶遠、骨不考其謬論'英能等其根本'今並不録'蓋無尤蔦)」(HP.2

8At,)8b)。

またしても

「競

って新異を為し'妄りに穿整あり」との立場から地理書がしりぞけられているのであるが'眺察はその種の地

理書'とりわけ地方志を用いることにさほど神経質ではなかったようである。

二の例を示そう。

韓王信列俸

「上逐至平城へ上出自登

へ眺氏'北彊記を案ずるに、桑乾河の北に自登山がある。冒頓軍手が漠の高租を囲

んだところであ

って、今日もまだなお壁壷がのこっている

(眺氏案北彊記'桑乾河北有白登山'冒頓国漢高之所、今猶有塵壁)Vt旬奴騎圃

上」(SH193,6)。

南越列俸

「元鼎六年冬'模船賂軍婿精卒、先陪尋駅、破石門

へ眺氏云わく

尋隣は始興の西三百里に存在し'連口に近

いC磨州記を按ずるに'石門は番寓牌の北三十里に存在する。そのかみ呂嘉は漢軍に抵抗し'石を積んで水に沈めたので石門

『漢

書』注

二八七

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と名づけられた。また俗間では'石門水は黄泉と名づけられ'この水を飲むとひとがらがかわるという。だから呉陰之は石門

(82)

までやって-ると'水をくんで飲み'そのうえで歌をつ-

ったのだそ

(

眺氏云'尋欧在始興西三百里へ近連口也'按虞州記'石門在番

吊願北三十里'昔呂嘉拒漢'標石銭江'名目石門、又俗云、石門水名目黄泉'飲之別命人奨'故奥隆之至石門'酌水飲、乃馬之歌云也))」(SH・

1)3,16)。

これら地理書のほか'さらに以下に示すがごときも'委巷の小説家言にちかい雄視をも

って注樺としたことになるのではな

ヽヽ

0

-∨'刀出

陳渉世家

「陳勝目'天下苦秦久臭'吾聞二世少子也

へ桃氏按ずるに'隠士が章部に遣る書簡に云わく

李斯は二世皇帝

(83)

のために十七人の兄を巌して今王を立てた'と。とすれば二世皇帝は始皇帝の第十八千である(眺氏按隠士遺草耶書云、李斯琴

南腐

十七兄而立今王'則二世是始皇第十八子也)Vt不常立'普立者乃公子扶蘇」(SH.48,4)。

夏侯嬰列俸

「復馬太僕'八歳卒'誼馬文侯

(案ずるに桃氏云わ-p

三輪故事につぎのごと-いう。膝文侯夏供宴の墓は

飲馬橋の東、大道の南にあり'世間では馬家とよんでいるtと。また博物志にいう。公卿たちが夏侯嬰の葬儀を見返

って東都

門外までやって-ると'馬は進まず'地面にたおれふしてもの悲しい鳴聾をあげた。ひとつの石棒がみつかり'その銘に'佳

ああ

城は欝々たり'三千年

白日を見る'呼

膝公

此の室に居らんtとあ

った。

そこでそこに葬

ったt

(案眺氏云'三輔故事日'

勝文公墓在飲馬橋東大道南'俗謂之馬家、博物志日'公卿迭嬰董至東都門外、馬不行う薦地悲鳴'得石梓'有銘日'佳威容馨'三千年見白日'呼嵯勝公居此

宝、乃葬之)VL(SH.95.24)0

か-眺案の

『漢書』注は、顔師古をしていわしむれば'該博をきそわんがために多-雄説を引-ところの

「近代の史注」の

通弊になずんだものであ

ったろう。それゆえに

『漢書訓纂』を参考に資しっつもたえず批判的な態度をも

ってたいしたと想像

されるのであるが'この想像を補強すべきひとつの材料が蒲望之侍の書きだし'

「斎望之'字長侍'東海蘭陵人也」の注に賛

見される。いうところはこうだ。

「師台目-'近代の系園の記銀はかってな仮託をおこな

って、蒲望之は斎何の後喬だなどと

いい、あとから昭稜を順序づけているが'流俗の畢者はそろってそれを租速している。だが鄭侯苛何は漢室の宗臣であ

って功

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はたか-位は重く

子孫の血筋は表'侍にきわめてつまびらかである。蒲望之長侍は巨儒達撃にして名聾'節儀ならびにさか

んであり、古今を博覧Lへよ-租先のことをかたることができた。市朝の位置がかわるほどの証合の襲動があ

ったわけではな

し'年代もさしてへだたらず'古老たちの俸承は耳目にあい接していた。もしほんとうに蒲何の後南であ

ったのなら、史侍が

つまびらかにしえないわけがないであろう。漢書がのべていないのだから、後世のものが信用するわけにはゆかない。そうで

ないことは断じては

っきりしている

(師古日'近代譜諜'妄相託附'乃云望之請何之後'追次昭稜、流俗学老'共相租述蔦'但野侯漠室宗臣'功高

位重、子孫胤緒'具詳表停'長備鐘儒達筆'名節並隆、博覧古今、能吉其租'市朝未襲.年載非違'長老所侍、耳目相接、若其賓承何後'史停寧得弗評、漢書

既不整粥、後人悪所取信、不然之事'断可識桑)」(HP.78,t

a)。

さていま

『南密書』高帝紀ないしは

『梁書』武帝紀をひもといてみると、

その冒頭に南帝の高帝蒲造成、梁の武帝蒲術それぞれにかんするも

っともらしい系園をかかげて、蘭陵の常民の達観を、苛何

以下'延'彪、章'購、仰'望之-・・・とたどっている。ことわるまでもな-

『南密書』は蒲子顧'そして

『梁書』は眺察'桃

子廉父子の著作であ

った。つまり桃察は、す-な-ともこのかぎりにおいて'

「流俗学者」の

1人にかぞえられているわけで

(84)

(85)

ある。譜嬰'すなわち系譜の撃は南朝でさかんとな

った草間のひとつであ

ったが、顔師古は譜翠にたいしてもはなはだ懐疑的

であ

ったらしい。系譜にはいつの時代にも晃寛からはみだした仮託がつきものであ

って'謹撰にとぼしい確認、というのがや

はりその理由である。蛙弘停

「睦弘、字孟'魯園蕃人也」の注にいう。

「師古日-'

睦の音は息随の反。現在もなお河朔地方

にこの姓があり、音、字ともに同様である。しかるに葦昭へ磨勧そろ

って音は桂というのはまちがい。今日、英なる姓があ

て、その昔が桂なのだ。漢の炊鉄はまた睦の字には作らない。ごたまぜにして

一族とすることはできないのである。さらにま

た近代の学者はかたがた兵氏譜を引いてそれに-

っつけている。私語の文は民間でつ-られ'家ごとにかってに説をたててい

て'常典とはならない。通常に先賢をひっぼ

ってきてはでたらめな候託をおこな

っているが、信ずべき鮎はな-へよりどころ

(8

6)

とするに足らぬので

(師古日'睦青息随反、今河朔尚有此姓'音字皆然'而葦昭感動並云音桂、非也、今

有見姓'乃音桂耳、漠之快飲、又不作睦

字、寧可慌穣勝馬1族'又近代学者'穿引見氏譜'以相附著、私語之文、出於閤巷'

家自然説'

事非経典、苛引先買

妄相依託、無所取信、寧足接乎)」

師古

の『漢

書』注

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二九〇

(HP

.

75,

t

a)0

さて以上、桃察の

『漢書』注が'顔師古の批判'すなわち

「近代の注史'競いて該博を為し、多-雄視を引いて本文を攻撃

す」とのべるところの批判をまのがれがたいことをのべた。顔師古が

「近代の注史」とよんだとき、かれの念頭にのぼってい

たのはも

っぱら江南の史注のことであ

ったろう。江南における

『準書』注のなかには

『漢書』そのものに即しての注樺という

よ-も異聞を集めることに熱心なものがすくなからず存在したこと'それが江南の知識人たちをとりまいていた精神的風土と

照鷹することなどは、第

Ⅰ部

「江南における漢書研究」の章に説いたとおりである。眺察説についてのみならず、顔師古の江

南の学者たちにたいする批判は師古庄のそこかしこにみえており、ときには名をあげて'ときには名をあげずしてかれらの疎

漏が指摘されている。たとえば'

郊柁志

「白華以西'名山七㌧名川四㌧日華山蒋山'蒋山老裏山也、岳山岐山呉山鴻家墳山、唐山へ萄之嶋山也

(師古日

-'周薩職万民に、薙州'その山は岳という、とあ-'爾雅にも'河西

(の名山)を岳というtとあ-'注揮家たちはそろっ

て岳は呉岳であるといっている。ところがいまこの郊柁志には岳山があり、さらに呉山があるのだから'呉岳はひとつの山の

ヽヽ

名ではない。ただ岳山の所在をつまびらかにしないだけである。徐虞は岳山は武功にあるといっているが'地理志によると'

武功には垂山があるだけで岳山はない・・・・・・(師古日、周薩職方氏'薙州、其山日岳'爾雅亦云'河西日岳'説老成云'岳inuE=呉岳也'今志有岳'又

有呉山'則呉岳非1山之名'但未詳岳之所在耳'徐贋云'岳山在武功'媛地理志'武功但有垂山、無岳山也))」(HP.25

A,)4a

~b)。徐虞は束管末'

宋初のひと、『史記音義』の著者であり、蓑田の

『史記集解』は全面的にそれを踏襲した。

司馬遷停

「太史公日'余聞之董生'--春秋文成数寓'其指数千

八張量目も

春秋は

一高八千字。減というべきところ

を成といったものでT字の誤まりである。師台目も

張曇の説はまちがい.

一寓以上ならば寓をも

っていう。だから教寓とい

ったのである。粗忽にも減といったりするだろうか。学者のなかにはさらに'公羊の経博はおよそ四寓四千字あまり、と曲解

するものがいるが'はなはだしいとりちがえだ。司馬遷が公羊椿を春秋とよんだ-するだろうか

(張量目、春秋寓八千字,宣自滅而

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云成、字談也'師古日、張説非也、l寓之外'即以寓言之、散云教寓'何遭忽言減乎'聾者文鳥曲解云'公羊経停'凡四寓四千除字、尤疏謬臭、史遊山豆謂公

羊之博馬春秋乎))」(HP・62,10a~b)。顔師古によ

って曲解としりぞけられた説が'賓は襲閑の説であることは'

『史記』太史公自

序の集解によってあきらかとなる。すなわち'装臓もまず張畳の説を紹介したうえつぎのごと-いう。

「騒が考えるのに太史

公のここの文句は董先生の言葉を租透したものである。董仲野はみずから公羊春秋を治めた。公羊の経侍はおよそ四爵四千字

あま-ある。だから'文成教寓'といったのである。張曇の意見のように'ただ経文の

一高八千字だけをとりあげて誤まりと

いうことはできない(姻謂太史公此鮮'是述董生之言、董仲野自治公羊春秋'公羊経侍'凡有四寓四千飴字へ故云文成教寓也、不得如張議'但論経寓八

千字、便謂之誤)」(SH.)30,23)0

顔師古の南畢批判は、

さらに

『匡謬正俗』についてより集中的にうかがわれるであ

ろう。

そこでは沈約'蒲子蘇'顧野王

(巻五)'陶弘景(巻八)たちの誤謬が指摘されているほか、「今文畢之士」とか、あるいはときにはいささか軽侮の意をこめた「末

代之士」とか

「江南近俗」の語のもとに江南の学者や学問が

一蹴されているのである。顔師古のこのような南畢ざらいは、し

かしひるがえって考えてみると'不思議なことだといわなければならない。なんとなれば'顔氏は江南の出自だからでありう

その学問は南撃の俸統にねぎしているはずだからである。そしてそもそも隔'唐初の華北における漢書撃の隆盛は'先透した

ように'ひとえに江南の漢書撃の刺戟によるものであ

った。したが

って顔師古があまりにも江南の学問を批判するならば'み

ずからの手でみずからの首をしめる結果にもなりかねないであろう。この間の事情をどう理解すればよいのか。わたくLはそ

のなによ-の理由を、顔氏の畢問の本質が訓話の撃であ

ったことへそのため

『漢書』本文のなかに沈潜するよりもむしろ他書

の確認を引用して博識をひけらかしがちであ

った南撃の気風と肌があわなかったこと、その鮎にこそもとめるべきだと考えて

いる。だがここでひとまず、顔師古の商学にたいする心理的反擬をつよめさせたなにがしかのてがかりをうるために'

いわば

外的要因をさぐるために、唐初の政令において顔氏がどのような位置をしめていたのか'若干の粗描をおこなっておきたいと

お、もう。

師舌

の『漢書』注

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報飼

若干の社食史的考察

隅の天下統

一をさることまだ速からぬ唐初の士大夫社合においてほ'六朝の分裂国家時代にさかのぼる出身地域ないし出身

王朝別のグループが明確に存在し'かかるグループがおのずからそれぞれに社脅集圃'政治集圏を形成しがちであ

った。唐中

期の人である柳芳は'山東の人は質'それゆえ婚鹿をたっとび'江左の人は文'それゆえ人物をた

っとび'閲中の人は雄'そ

れゆえ冠鼻をたっとび'代北の人は武'それゆえ貴戚をたっとぶ云々と'四地域の人物の性格とその志向性を簡約に指摘して

いる

(新唐書儒学柳沖博

)99.

5679)。いまそれに従がうならば'代北の人はしばら-おき'唐初において山東の人といえば北奔系

の人物を、江左

(南)の人といえば南朝系の人物を、閲中の人といえば北周系の人物をさしたと考えてまずまちがいはないであ

ろう。

ではしからば顧師古はこれら三グループのいずれに所属したのであろうか。江南グループであろうか。梁の元帝政樺の崩壊

によ

って顕之推

一家が江南を離れたのは'はや-五五ノ四年にさかのぼる。いわゆる江南グループは'

一部分は五八七年の後梁

滅亡、そして大部分は五八九年の陳滅亡によって惰朝に師したひとたちによって形成されるところであ

ったから、顔氏のひと

たちがかれらと緊密な

一腹感でむすばれることはなかったであろう。江南グループのあいだには、われらこそ中国文化の正統

の鮭承老であるとのなみなみならぬ自負があり、その粘にかんしては'唐王朝としても

一目おかざるをえない存在であ

った。

障、唐初におけるこの江南グループの領袖は虞世南

(菌唐W2'2565以下、新唐書

)02,

39

69以下

五五八1'三

八)であ

ったらしくお

もわれる。かれは太宗からその博識をめでられ、また五絶ありとたたえられた。五絶とは

一に徳行'二に忠直'三に博学'四

に文辞、五に書翰であるという。越州飴桃のひとである虞世南は'わか-して兄の虞世基とともに顧野王について畢問をまな

び、また文章は徐陵を租逃して

「世南はおのれの意を得たり」と稀嘆せしめへさらに王義之の書法をつたえる沙門智永に師事

してその鮭を妙得した。徳行と忠直はともか-として'博拳は顧野王を'文節は徐陵を、書翰は智永を絶承したといえばいえ

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るかも知れない。まずは江南文化の精髄を

一身にかねそなえたおもむきがあり'文人とよぶのがいかにもふさわしい人物であ

った。かれをとりま-江南人たち

「帝人」のあいだでは'隔朝に蹄して以後においても'山水に登臨しての

「文魯」がむすば

れていたという

(奮唐書裾亮侍附劉孝孫博7

2.

2

583)。それに反してわが顔師古があたえるイメージは'その名と字のごと-いかに

もかた-るし-、しかつめらしい学者のそれであ

って'その鮎においても江南グループになじめないものがあ

った

.のではない

(87)

さらにまた顔師古と江南グループとの関係を暗示するひとつの話柄が存在する。唐の高租の武徳時代'詔諸ならびに軍国

の大事にかかわる公文書はすべて中書侍郎顔師古の起草するところであ

ったが'太宗の貞観時代に顔師古が詰責免職となり'

中書舎人琴文本が交代することとな

った。琴文本は衆務の幅湊するなかで書億六、七人に口述筆記を命じ'文章はたちまちに

して成るとともにその妙をつ-した。湿彦博は顔師古の再起用を進言したけれども太宗は耳をかさず'あらためて琴文本を中

書侍郎に任命したうえ、機密をつかさどらせたというのである

(奮唐書写文本俸

70,2536)。

琴文本は後梁系のひとであ

って、江

南グループの一員にかぞえてよいであろう。虞世南を領袖とする江南グループのひとたちは'はやく北朝に蹄した顔之椎の孫

をわがグループに迎えいれることに冷淡であ

ったのではないか。顔師古の南撃にたいする反接は'ここにまたひとつの原因を

みいだせるのではないか。かれの眺祭にたいする反稜についてはすでに詳説したが'

『匡謬正俗』奄五錫鉄は虞世南の師であ

(88)

り、また挑察の心友でもあ

った顧野王の

『符瑞固』にたいする批判であ

かかる江南グループと南撃にたいする反接の感情は'反射に顔師古をして北撃の尊重に傾かせるところがあ

ったであろう0

かれが華北にのみつたわった晋灼注を尊重し、

『漢書』ならざる

『漠紀』の住着たる崖浩をあえて顕彰していることはすでに

再三にわたってのべたとおりである。しかしながら'このことをも

ってかれが北朝の俸銃のなかに腰をおちつけえたと考える

ことはできない。租父の顔之椎は北勢王朝において政治的'また文化的にある程度の活躍を示したけれども、かれをいわゆる

山東のひとのなかに位置づけることはできない。山東のひととは'

「山東の崖慮李鄭」といわれるように、そもそも山東に本

貫を有するひとたちをさしている.北斉の滅亡後、北周'さらに情の官界で山東グループの領袖の役割をつとめたのは李徳林

『漢

書』注

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(89)

であ

ったが'そのころの顔之推がもはやめだたない存在とな

ったの

被征服民としてみずからの利害をまもることに精いっ

ぱいとなった山東グループから疎外されはじめたからではなかったか。山東グループのひとたちにいわしむれば'顔之椎と顔

一家はやは-江南人であ

ったろう。隔王朝創業の開皇元年(五八一)に生まれた顧師古が、仁義中(六〇1-

四)'安陽嚇尉に起家

(90)

しえたのも'山東のひとならざる関中のひと'尚書左丞李綱の推薦によるものであ

った。しかし顔師古はもとより関中のひと

ではありえない。

か-顔師古は'いわば現賓の社食のいずこにも所属するところをもたない存在であ

った。かれが官界において乱蝶を生じ'

ひいては官途における匹鉄をもたらしたこと

一再にとどまらなかった。秘書少監として校讐

のしごとにたずさわ

っていたとき

にも、

「素流を抑え'貴勢を先とLt富商大賀と経も亦たこれを引進する」顕師古のやりかたにたいして'賄賂をおさめてい

るとの非難が景々としてまきおこり'いったんは地方の刺史に左遷されかかる。かれの撃識をおしんだ太宗のはからいによ

て左遷の沙汰はとりさげとなるが'顔師古が由緒ただしい

「素流」よ-もむしろ

「富商大賀」をもふ-んだ

「貴勢」

の勢力に

かたむかざるをえず'そしておそら-は

「素流」からする非難に身をさらすこととなったのは、これもひとえにかれが依摸す

べき確固たる地盤を士大夫社食にもたなかったがゆえであろう。江南グループにも所屈しえず、山東グループにもいれられずつ

南撃にたいする反穀が北撃に傾斜させたとしても'

『漢書』にかぎ

っていえば、育

灼注とさらにあえて崖浩をつけ-わえたと

ころで、元翠の俸統とよべるほどのも

のはなきにもひとしかった。顔師古の依接すべきは'南嬰や北拳を止揚した中国の斯文

の俸統そのものをおいてほかにはなかったろう。かれはひたすら古典

-漢書1のなかに沈潜した。それ以外になしうべきこと

はなかった。そしてそうすることによ

って自己がいったいなにものであるのか確認をはかり'安住できる場虞をみつけようと

っとめたのではなかったか。

『漢書』顔師古住はかかる精神的営為

の所産であ

ったのではなかったか。秘書少監時代のにがい

はし

失敗をなめた顔師古は意気はなはだ阻喪Ltそれ以後はも

っぱら

「門を閲ざして静を守り'賓客を杜絶Lt志を国事に放いま

まにし、薯巾野服する滝へ古跡及び古器を捜求して耽好己

まざる」日々にあけ-れたという。古跡ならびに古津にたいする興

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味は

『漢書』注にも脈々として息づいている。それが師古庄に生彩をあたえているばかりではなく

あえていえば顧師古の生

にとっても重要な意味をも

ったであろうと考えられるのであ

って'後にあらためてとりあげねばならない問題である。

節古住の基本的性格

顔師古はひたすら

『漢書』のなかに沈潜した。他書の雄説を引いて本文を攻撃する方法を排して'

『漢書』本文のなかに沈

潜した。

「正史の説-所にあらず」'「紀侍

の説-所にあらず」'「班氏は書に載せず」などと、皇甫謎や困稀、桓諾たちの課を

(91)

かれはしりぞけた。顕師古とてときに他書の雄説らしきものを注樺として引かぬわけではな

いが'

しかし

『漢書』をも

って

『漢書』を注樺することをあ-まで原則とする。たとえば'

郊紀志

「又以衛長公主妻之

(興大)

(孟康臼わく'衛太子の妹である。如淳目上

衛太子の姉である。師古日-、外戚

博に'衛子夫は三女を生み、元朔三年に男子接を生んだ'とある。とすれば太子の姉である。孟康の課はまちがい

(孟康日'街

太子妹'如淳日'街太子姉也'師古日'外戚博云'子夫生三女、元朔三年生男接'是則太子之姉也、孟説非也)」(HP.25

A〉2

8b)。

張案俸

「時旬奴降着言'旬奴破月氏王、以其頭馬飲器

(葦昭日-'飲器とは稗極である。

晋灼日も

飲器とは虎子のた

ぐいである。あるいは飲酒の審であるという。師古日-'旬奴侍に'撃破した月氏王の頭でともに血を飲んで盟いあ

ったとあ

る。とすれば飲酒の器がただしい。寿昭が稗桂といい、晋灼が獣

(虎)子というのはどちらもまちがい。稗桂は今日の偏権で

ヽヽヽ

って'酒を盛るものである。それで飲むものではない。獣子とはおまる。大小便をするものだ。稗の音は聾

(葦昭日'飲器'稗

植也、晋灼日、飲器、虎子層也、或日'飲酒之器也'師古日へ何奴博云'以所破月氏王頭へ共飲血盟、然別飲酒之器是也'葦云稗桂'育云獣子'皆非也、稗

榛即今之偏棲、所以盛酒耳、非用飲者也、教子'契器'所以浬使者也'稗音響))」(HP.6),t

a)。

外戚侍へ旬奴侍にもとづいて先人の説のうちのいずれがただしいか'判定が-だされたのである。も

っとも

『漢書』

のみを

って

『漢書』すべてを解樺することはとてもできないから'そこで新注ならざる奮注が参照される。香住は

『漢書』

の成立

『漢

書』注

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をへだたること遠-なく

またなによりも訓話を本領とする注樺だからである.

「およそ奮注のただしいものについては間然

するところな-'あ-のままにそれをのこして隠蔽しないことを示す。趣旨が簡略に提示され'つづめすぎて十分に展開され

ておらぬ場合には'敷街して疏通させ'完好ならしめる。うそいつわ-の文章やかたよ

った見解で道理からはみだし県賓を乳

しているときには'それをただしくため直して迷妄をとりのぞ-。もし博大の議論だが的をはずれ'蕪解をもてあそび、正統

ならざる説をふりまわして冗長なだけの場合には'紙幅をけがすにすぎないから採用しない(凡奮注是者、則無間然'具而存之'以示

不陰'共有指趣略撃、結約未伸'術而適之'使皆備悉、至於論文僻見'越埋乳兵、匡而矯之、以穂惑蔽'若汎説非常、蕪解読蓬、萄出異端、徒県債冗'祇犠

篇籍へ蓋無取蔦)」(叙例第七条)。か-奮注を用いるにあた

っての大綱が示されたうえ'さらにつづけて'奮注のかけている部分に

ついては'「典譲」すなわち経書を中心とする古典、「蒼雅」すなわち小学の書が注樺に採用されるむねを読-。これはまった

-経書注鐸家の方法であるといってよいだろう。

「奮注が闘漏していて注樺をほどこしていないときには、あまね-詳樺を-

わえて寓事を疏通させる。さかのぼ

っては典誤を考え'かたわら蒼雅を研究し、か-そめにも臆説することな-'なにごとに

も引用のよりどころがある(蓄所閑漏'未嘗解説'普更詳樺'無不治通、上考典著'穿究蒼雅'非萄臆説、皆有援接)」。

『漢書』をできうるかぎり本来

の面目にかえして讃もうとするのが顔師古の基本的態度であること'したが

って

『史記』や

『文選』によ

って書きあらためられたテキストが

「流俗書本」としてしりぞけられたことなどは'すでにのべた。古い文字を

(92)

そのままのこすむねも

「叙例」第三候に宣言されていたが、司馬相如俸奄首の注にも-りかえしつぎ

のようにいう。

「師台目

-、近代、司馬相如の賊を讃むものは多い。かれらはみな文字をあらため、きそ

って音読をたてて県面目を失な

っている。徐

贋、誹誕生、諸詮之'陳武たちがそうだ。いまは漢書の奮文そのままを正文とLt

かれ

ら教家たちからはいっさいとらない

(師育日'近代之講相加賦老多奏'皆改易文字'競馬音説、致矢本虞、徐鹿部誕生諸詮之陳武之属是也、今依班書奮文薦正'於彼数家'並無取蔦)」(HP157

A,ta、資料

Ⅳ-

3参照)。

経書の引用が経書本文とちが

っている場合にも'

ちが

のままにのこされる。「六経は残閑であ

って

(93)

完全な文章をみることはできない。

おのがじし

1家を名のり'それぞれの道をすすんでいる。

そこで劉向'劉散'班固'司馬

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遷'董仲野'揚雄たちが引-ところの経書はときにちがいがあ

って、近代の儒者と意味解樺をおなじ-しない。現在の立場か

ら先賢を批判してむやみに暇理を指摘したり、むりやり後世の説に従が

っていいかげんなこじつけをやるのはよ-ない。いま

はそれぞれもとの文章そのままにその趣旨を宣揚する。考究を-わえないわけではなく

道理として常然そうすべきなのだ-

-(六聾残映'莫親全文、各自名家'揚鏡分路'是以向歌班馬仲野子雲所引諸経、戎有殊異、異近代儒者'訓義弗同、不可追放前賢、妄指股薪'曲従後説、

苛合扇塗'今則各依本文、敷暢厭指、非不考練'理固亦然)」(鼓例第七条)。このことは薩栗志

「--故書序段紺断棄先租之栗、連作淫聾'

用変乱正餐'以説婦人'契官師菅、抱其器而蕗散'或適諸侯、或入河海」の注にもまたつぎ

のようにのべられている。

「師古

日-'蕗は古

の奔

の字。論語微子簾に'大師撃は斉に適

き'亜飯千は楚に適き'三飯練は薬に適き、四飯故は秦に蓮き'鼓方

叔は河に入り、播袋武は漠に入り、少師陽と撃磐裏は海に入る'とある。この薩栗志

のいうところおよび古今人表にの.I(ると

ころは'すべてこのことをいったのである。諸侯といったのは'あとからその土地に繋げたのであ

って'常時すでにそれらの

国名があ

ったわけではない。ところが論語解樺家たちはなんと魯

の京公のときに縫栗が崩壊し'栗人たちがみんなちりち-に

(94)

ったのだと考えているが、これもただし-ない。そもそも六経は残故であ

って、学者たちはめいめい師匠をことにし、文義

を張りあ

って各自

の見解に固執している。しかるに馬融、鄭玄たち譜偏は班固'揚雄の後輩'博学

の劉向'劉歌はさらに王粛'

杜預

の先輩である。その是非を-らべればへ

一方だけに依操するのはよ-ない。漢書が引-ところの経文は近代の儒家のそれ

と往々にして-いちが

っているが、それ日経で意味をなしているのだから、それそのままに疏通させる。どうか守株

の態度を

まのがれtか-して賢達たちの意をのばしたいも

のである。あだおろそかに異をたてるわけではない。道理として曽然そうな

(95)

のだ(師古日、轟古奔字'論語云、大師撃道管'壷飯干適楚'三飯瞭適薬'四飯快適秦'鼓方叔入於河'播資武人干漠、少師陽撃馨嚢入手海'此志所云及古

今人糞所鍍'皆謂是也、云諸侯者'追繋其地、非馬常時己有国名'而説論語者'乃以馬魯哀公時、臆宴楽崩'楽人皆去'斯亦未允也'夫六経残映、撃老異師'

文義競馳'各守所見、而馬邸群儒'皆在班揚之後'向敢博寧'又居王杜之前、枚其是非'不可偏援'其漢書所引経文、興近代儒家'往往来別'既日成義指'

即就而通之、庶免守株以中質達之意'非苛越異'理固然也)」

(HP.22,tOb

~tta

)

『漢

書』注

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古言ないし方言の虞理についても、やは-同様の態度が示される。「叙例」

の第四候にいわく

「古と今とでは言葉がちがい'

地方によってもことな

っている。末草

のかいなででは通じないことがありへなにか疑問の箇所があるとかってにましたり

へし

たりする。放逸にして歯どめはきかず'乳雄な鮎が賓におおい。いまはそれらをいっさい創

って馨

のすがたにかえす(古今異言、

方俗殊語'末撃膚受'或未能通'意有所疑、凱就櫓損'流遜忘返'稜濫案多'今皆刑削、克復其奮)」.

以上を要するに'師古住の基本的態度は'『漢書』をあたうかぎりその本来

の面目にかえして讃もうとする鮎に存した。「古

本を曲賓」

のうえ'古宇'古言はもとのままにのこされる。.注樺

の第

一の依操はいわゆる奮注であり'また典漠および蒼雅で

った。「今の流俗書本」ならびにいわゆる

「近代注史」は'顔師古にとっておしなべて償値をもたなか

ったのである。「近代

注史」の名のもとによばれるも

のが'おもに南朝

『漢書』注をさすことはすでに説いたが'ともか-

「近代の学者」ないし

「末代の学者」、「後

の学者」にたいする顔師青の批判は枚挙にいとまがない。これまでの畢例についてすでにあきらかだが'

あらためて二例をつけ-わえておこう。

高帝紀

「審食其従大公呂后間行、反遇楚軍

(師古日-'ここの審食其ならびに武帝時代

の過食其'登音はいずれも鄭食

ヽヽヽヽヽ

其とおなじ。音は異基。しかるに近代の学者が'部

の場合は異基'馨

の場合は食基'超の場合は食共と諌むのはまちがい。ひ

とし-人名であ

ってべつだんの意味があるわけではない。そのなかで-いちがえさせるのは、いかなる依接があるのだろうか。

かつ苛悦

の漢紀は三者いずれも異基の字に作

っていて'はっきりそうだとわかる--(師古日'此審食其及武帝時題食其'講皆輿脚食共

同'音異基、而近代聾者'劇則馬具基'審則馬食基'通則食其'非也'同是人名'更無別義'就中舛駁'何所披依'且苛快漢紀'三者並馬具基字'断可知

))」

(HP

.tA,33b)0

五行志

「成帝緩和二年八月庚申'鄭通里男子王襲、衣緯表中冠帯剣'入北司馬門殿東門'上前殿'入非常室中'-三寒

けんかさわぎ

故公事大誰卒

(鷹効目-'司馬殿門において

とりしまるも

のである。服度日-'衛士の師である。奨噂冠をつける。師

古日二

大誰とはあやしい人間の訊問をつかさどり、姓名は誰かとたずねることをいう。ところが鷹劫が諦詩をその義だとLt

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大誰何だというのは道理にあわない。

後世の学者はむやみにここの誰の字を講と書きあらためて、もとの文章にたが

っている。

大証はほんらい誰何をも

って呼稀としへそれをそのまま用いて官名とした。大誰長が存在する。いまここの卒というのは大誰

長指揮下の士卒である(鷹初日'在司馬殿門掌讃何者也'服度日、衛士之師也、著奨噂冠'師古日'大詰者'主問非常之人、云姓名是誰些

而麿氏乃以

講護為義'云大誰何'不常飲理'後之聾者、軌改此書誰字馬謹'達本文英、

大証本以誰何稀'因用名官'有大証長、今此卒者、長所領士卒也))」(HP.27

Ca,2tb).

古代世界との遼遠

前章ではも

っぱら注樺

の大綱を示すところの

「叙例」にもとづきつつ師古住の基本的性格の検討をおこな

ったが、師古住の

方法がすべて

「叙例」につ-されているわけではない。

「叙例」には語られざる方法をも師古住はさまざまに駆使しておりt

もしその鮎についての考察をおこたるならば'師古住の生彩を十分につたえることはできないであろう。たとえば師古住がし

ばしば文献以外の材料を使用することへすなわちいわば考古撃的遺物にもとづいて説をたてたり'また見聞や俸閲をも

って注

樺とすることを'その特色のひとつにかぞえることができるであろう。師古注は訓話音樺の注樺に終始するだけのも

のではな

かったのである。まずはじめに

「古跡および古津を捜求Lt耽好して己まざり」し顧師古の古器'古物'あるいは石刻にたい

する興味を示す例をい-つか拾

ってみたい。

高帝紀

「九年冬十月'港南王染主題王楚王朝未央官'置酒前殿、上奉玉居

(鷹初日-'飲酒の薩器である。古は角でつ

-り'四升はいる。古の盾の字は紙に作る。晋灼日上

音は支。師古日工

居は飲酒のまるい器である。現在も存在する

(磨

初日'飲酒鮭器也、古以角作'受四升、古眉宇作髄'晋灼日、音支'師台目'庖丁飲酒囲器也'今尚有之))、盛大上皇寿」(HP.1B,)3b)。

郊柁志

「二世元年'東巡硝石、並海'南歴泰山、至合格'皆鰻両之、而刻勘始皇所立石苫穿'以章始皇之功徳

(師古日

-'

今日これら諸山には始皇の刻石および二世胡亥の重刻が存在し'文章はいずれもはっきりのこっている

(師古日'今此諸山'

師古

の『漢書』注

二九九

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三〇〇

皆有始皇所刻石及胡亥重刻、其文具存蔦))」(HP.25

A,13a~.b)0

王葬停

「葬日'-・・・今宵姓威言'皇天草漢而立新'厳劉而興王、未到之鵠字'卯金刀也、正月剛卯、金刀之利'皆不得

へ服度日-'剛卯は正月の卯の目につ-

ってこれを身に偲びる。長さは三寸'幅は

一寸で四角形。玉を用いたり'金を用い

たり'桃を用いたりし'革帯につけて偲びる。今日'玉製のものが存在し'その1面に'正月剛卯t

の銘がある。金刀は王葬

が鋳た銭である。晋灼日-'剛卯は長さ

一寸'幅は五分で四角形。中央のところにきりで孔をあけ、色糸でその底部をおおい'

冠のひもの先端のたれかざりのようにする。上面に二行の文字を彫りつける。その文には'正月剛卯敵失'璽受四万㌧赤青自

責、四色是普'帝令硫融'以教垂龍、庶疫剛療'莫我敢常、という。また

一銘には'疾日剛卯'帝令襲化'順爾固伏、化玄室

受'既正統直'既触敵方'庶疫剛療'莫我敢菅、という。師古日く'今日しばしば土中から玉製の剛卯をみつけだすものがい

る。そのおおききと文句をしらべてみると'服度の説がただしい。王葬は劉の字は上に卯があ-'下に金があり'よこにさら

に刀があるので'剛卯と金刀との使用を禁じたのである(服度日'剛卯以正月卯日作楓之、長三寸、磨一寸'四万㌧或用玉、或用金'或用桃、

著革帯侃之'今有玉在者、銘其1両日へ正月剛卯'金刀'弄所鏡之鏡也'菅灼日'剛卯長1寸'鹿五分'四方、督中央従穿作孔'以采維葦其底'如冠後頭麹'

刻其上面'作丙行書'文日--'英一銘日--'師古日'今往往有土中待玉剛卯者'案大小及文'服説是也'弄以劉字上有卯'下有金'穿又有刀'故禁剛卯

及金刀也))」(HP

99A,7

a

T~b)。

古津や古物についてのたんなる考樺にとどまらず'それらが現在も存在し'あるいは土中から襲見されると顔師古がの',(る

とき'そこには

『漢書』に措かれた古代世界が'いまやありありと目に見、手にふれうる寛在感をともな

ってよみがえり'そ

れと遊近しえたことにたいするよろこびがあらわされてはいないだろうか。かれの古蹟にたいする愛着もなみなみならぬもの

があ

って'

『漢書』に記されているところが現在のどこにあたるのか、あるいは現状はどうであるのか'さまざまに考察がく

わえられている。

高帝紀

「或読柿公日'秦富十倍天下'地形彊'今聞章耶降項羽、君親日薙王'王開中'既爽'柿公恐不得有此、可急使

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守画谷聞

入文穎日工

常時'函谷関は弘農厭の衡嶺にあ

ったが、現在では東に移動して河南郡穀城願にある。師吉日-'現在

の桃林鯨の南に洪溜澗水があるが'それが古のいわゆる画谷である。その水は北流して黄河に注ぎ、黄河の両岸にまだ啓開

逮蹟がのこっている.穀城はすなわち新安

(文穎日'是時閑在弘濃牒衡嶺'今移東在河南穀城牒'師古日、今桃林楳南有洪溜澗水、郎青所謂由谷

也'其水北流入河、爽河之岸、固有奮闘飴跡鳶、穀城即新安)VtEB内諸侯軍」(HPL

A

,20b~

21a)。

文帝紀

「嘗欲作露童、召匠計之'直官金、上目'百金'中人十家之産也'吾奉先帝官室'常恐董之、何以憂馬

(師古日

-、現在の新豊麻の南'鄭山の頂上に露董郷がある。とても兄はらしがよ-て、文帝が墓を築こうとした場所がまだのこって

いる(師古日'今新豊願南割山之頂有露墓郷'極笹口同額'猶有文膏所欲作義之塵))」(HP.4,

2ta

~b)。

武帝紀建元三年

「初作便門橋

(蘇林日-'長安を去ること四十里。

服度日-、長安の西北'茂陵の東にある。師古日-、

便門は長安城北面の西ぺっらの門へつまり卒門である。古は平'便いずれもおなじ字であ

った。この道に橋をつ-り、滑水を

またいで茂陵におもむ-。この道は平坦でまっすぐだ。つまり現在のいわゆる便橋がその場所である。便はその字のとおりに

読む

(蘇林日'去長安四十里'服度日、在長安西北茂陵東、師台目'便門へ長安戚北面西頭門'餌平門也'古老平使皆同字'於此遺作橋、跨渡滑水'以趨

茂陵'其道易直'即今所謂便橋是共感也'便護如本字))」(HP

I

6,

3a)。

同大初元年

「二月、起建章官

人文穎日上

越の垂の某勇というものが'越の園では火災がありますと'ただちに大規模

な宮殿造薯をおこない'その魔力であいてを歴倒しますtと帝にいった。それで帝は建章官をつ-

った。師古日工

末央宵の

西にある。現在の長安古城の西'世間で貞女模とよんでいるのが建章官の閲である(文穎日'越変名勇謂帝日、越国有火災、郎復大起宮

室'以厭勝之、故帝作建章官、師古日'在未央宮西'今長安古城西俗所呼貞女模者'即壁早宮之開也))」(HP.6,3ta-b)。

宣帝紀紳欝三年

「春'起栗瀞苑

(師古日-、三輔黄国には、杜陵の西北にあるとあり'また閥中記には'宣帝は曲池の

北に廟を立て、栗源と窮したとある。その場所を考えてみるのに'現在、栗湛廟とよんでいるところがそれだ。その遺構はま

だみわけがつ-。けだしほんらいは苑圏であ

ったのを'後にそこに廟を立てたのであろうか。栗

の音は爽各の反(師古日、三輔黄

『漢

書』注

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囲云'在社陵西北'又閲中記云'宣帝立廟於曲池之北'焼栗嘩

案其塵則今之所呼栗源廟老是也'其飴基可識寓'蓋海馬苑'後田立廟乎、栗音来各反))」

(HP.

8,)7

b).

元帝紀初元二年

「詔罷--宜春下苑

へ孟康日-、官名'杜隊の東にある。曹灼日工

史記に'二世皇帝を杜南の宜春苑

中に葬む

ったとある。師古日-、宜春下苑はすなわち現在の京城東南隅の曲江池がそれだ

(孟康日、官名也'在杜煤東'晋灼日'史記

云'琴

l世杜南宜春苑中'師青白、宜春下苑'即今京城東南隅曲江池是))」(HP.9,3a)。

また司馬相如俸

(上林賦)「下堂契'息宜春

(張韓

日も

堂架は官名、雲陽の東南三十里にある。師古日工

宜春は宮名'杜豚の東にある。すなわち現在の曲江池がその場所だ

(張揖日'堂契'官名'・在雲陽東南三十里、師古日'宜春、官考

在杜願東、即今曲江池是其彪也))」

(HP.57

A,44b~45a)。

帯紐志

「兄寛為左内史'奏講穿整六輔菜

へ師台目-'鄭園菜のなかにある。

現在でも輔渠とよび、

六菜ともいう

(師古

日'在鄭開渠之裏'今薗謂之輔菜、亦日六渠也)Vt以益概鄭図傍高印

之田」

(HP.29,

ttbと2

a)。

また鬼寛博

「寛表奏開六輔渠

(寿昭日

-、六輔とは京兆'清朝'扶風'河東'河南'河内をいう。劉徳目-、

六輔界内にクリークをつ-

ったのである。師古日-、

二説いずれともまちがい。滞独志に'兄寛は左内史となると'奏請して六捕集を掘整Ltか-して鄭国渠周過のせりあが

った

土地の潅概をたすけた、とある。これはつまり鄭開渠上流の南岸においてさらに六候の小さなクリークを開き'濯概を輔助し

たのだ。現在の薙州雲陽願と三原麻両腕界にこのクリークはなお存在し'土地のものは六菜と名づけ'また輔粟ともよんでい

る。Lだから史記河渠書に'関内は則ち輔渠塞戟'というのがそれであ

って'河東'河南'河内の三河地方の土地を祝いたりは

せぬ(寿昭日、六輔謂京兆漏朔扶風河東河南河内也'劉徳目'於六輔界中馬渠也'師昔日'二説皆非也、帯地志云'晃寛馬左内史'奏講穿六輔渠'以金瓶鄭

閲穿高印之田'此則於鄭園菓上流南岸'更開六道小葉'以輔助概港耳'今薙州雲陽三原雨牒界'此集荷存'郷人名日六菜'亦競輔菜'

故河薬害云関内則輔

集蛋軟'是也'蔦説三河之地裁))」

(HP,58,ttb)0

庚太子俸

「上燐太子無事'乃作思子宮へ馬蹄衆望思之董於湖

(師台目-'おのれは望んでこれをしのび、太子の魂の来

たり蹄らんことをこいねがうとの意味である。

その童は現在の湖城鯨の西'

関郷牌の東にあ

って、

遺構がまだのこっている

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(師古日、言己望而思之、庶太子之魂末節也'其墓在今

湖城牒之西、t関都之東、基祉猶存))」(HP163,5b)。

零方進停

「下詔日'・・・・・・適者反虜劉信覆義辞連作乳於東、而丑J竹群盗趨明電鴻造道西土

へ師古日-へだ竹は整屋

の南界

にある。

芭水の隈であ

って竹林が多い。すなわち現在の司竹園がその土地である。空

の音は亡(師古日、巴竹在敢血屈南界、巴水之曲而

多竹林也、即今司竹園是其地奏'空音亡))」(HP184,19b~20a)。

循吏文翁俸

「至今巴萄好文雅'文翁之化也

(師古日-、文翁の草堂は現在もまだ益州城内に存在する

(師古日、文翁撃堂'

千今猶在益州城内))」(HP.89,3a)。

外戚高租薄姫俸

「太后後文帝二歳'孝景前二年崩'葬南陵

(師古日工

薄太后の陵は覇陵の南にあるので南陵と稀する。

すなわち現在のいわゆる薄陵である(師盲目、薄太后陵在寮陵之南'故栴南陵'即今所謂薄陵))」(HP.97A,6b)0

同者武衛皇后俸

「宜帝立'乃改葬衛后'追認日思后'置園邑三百家へ長丞周衛奉守鳶

(師盲目-'杜門の外'大道

の東

に葬-、俳優や雄伎千人をも

ってその園のなぐきみとしたので千人東と訳した。その土地は現在の長安城内にあ-'金城坊の

西北隅がそれだ(師古日、葬在杜門外大道東'以侶優雅伎千人柴其園'故離千人琴

其地在今長安城内、金城坊西北隅是))」(HP.97

A,

)2b)0

岡孝宣許皇后停

「許后立三年而崩'誼日恭哀皇后'葬杜南'是馬杜陵南園

(師台目-'すなわち現在、小陵とよばれる

のであ

って'杜陵を去ること十八里(師古日、即今之所謂小陵者'去杜陵十八讐VL(HP.97A,23b)0

元后俸

「夏遊衛宿郡杜之間

(師青白-'衝宿苑は長安城の南にある。現在の御宿川がそれである(師古日へ衛宿苑在長安城南'

今之御宿州是也))」(HP198,)2b

)0

長安城とその周遠にかんする記事がとりわけめだつのは是非もないことだが、顔師古の頭のなかでは'あたかも漠

の長安城

といま現在生活している唐の長安城の二枚の地固がかさなりあい'漠長安城内外の宮殿へ城閑、苑固'陵墓、道路、橋梁等々へ

それらひとつひとつの所在が現在のどこにあたるのか'掌をさすように的確に指摘することができたのであろう。そしてとき

には'統

一王朝漠とおなじ-いまやまたしても長安城を園部としておこった統

l王朝唐に生きる充足感がかれの心を領するこ

『漢

書』注

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とがなかったであろうか。

ところで顔師古にと

って'古代と現在とをつなぐパイプとな

ったのは'ただたんに目で見'手でたしかめることのできる古

器や古物'あるいは古鏡だけではなかった。言語もまたそうであ

った。古語が雅言としてよりもむしろ往々にして俗言として

生きのこっているとか、あるいは俗言のなかにその痕跡をとどめているとかの指摘もしばしば目につ-のだが'訓話聾者顔師

古としては'これこそも

っとも誇るべ-、かつ木領とすべき領域であ

ったろう。たとえば下記

の語例のごと-である。

宣帝紀

「時按庭令張賀嘗事庚太子'恩顧替恩'哀曾孫、奉養甚謹'以私鏡供給教書'鑑牡、為取暴室番夫許庚漠女

(磨

初日-、暴室とは宮人の獄のことである。今日では薄室という。許庚漠は法に坐し去勢されて官署となり'普天とな

った。師

古日-'墓室とは後宮で機織や染練をつかさどる部署であ

って'だから暴室とよぶ。暴威をと

ってその名としたまでである。

薄室ともいうのは'薄もやはり裏

のこと。現在

の俗語でも薄癌という。おもうに暴室

の職務は多いので'それで獄を設け'そ

の罪人をとりしま

ったのであろう。だから往

々にして暴室

の款というまでであるOLかしがんらい獄名ではない。鷹勧説はま

ちが

っている。番夫は重宝

の属官であ

って'願や郷

の密夫のようなも

のである。碇

の音は所僻

の反、

またの音は所智

の反

(底

勧日'墓室、宮人鉄也'今日薄室'許鹿浜坐法腐馬居着'作者夫也'師古日、暴室者、校庭圭織作染練之馨'故謂之暴室'取費焼鳥名耳、或云薄室者'薄亦

秦也'今俗語亦云薄暁'蓋真室職務既多、困鵠置獄'主治其罪人'故往往云裏室獄耳'然本非鉄名、鷹説失之灸、禽夫者'巣室属官'亦猶麻郷之畜夫也、壁

書所解反、叉音所智反))」(HP.8,2a)。

高窓高后文功臣表

「--故達文景四五世間'流民鉄蹄'戸口亦息、列侯大老至三四寓戸、小国自倍'富厚如之、子孫騎

逸'

忘其先組之難難、多陪法禁、限命亡国へ或亡子孫'詰於孝武後元之年'磨有子遣'耗臭

へ孟康日-'耗

の音は毛。毛

一本'

一粒はども

のこったも

のはいなか

った。師古日-'孟康

の音はただしいが'解樺はまちがい。才然は猫立の貌。ひとりとし

て生きのこったも

のはな-'轟きはててしまったことをいう。現在

の俗語でも無を耗という。音は毛

(孟康日、耗音毛'無有毛米在

者也'師古日'孟音是也'而解非也'才然'猫立貌'言無有猫存者、至於耗壷也'今俗語猶謂無薦耗'音毛)岡亦少額鳶」(HP.)6,2a~b)。

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食貨志

「愚錯復説上目、商貿--亡農夫之苦、有仔伯之待

人師盲目-、仔とは千鏡、伯とは古銭のこと。伯の音は莫白

の反。現在でも世間では百鏡のことを

一伯という

(師古日'仔謂千鏡'伯謂百鏡也'伯音美白反'今俗猶謂百鏡馬1伯))」(HP・24A,)3b)0

郊柁志

「是時上求両君、舎之上林中破氏館'両君者'長陵女子'以乳死'鬼神於先後宛若

(孟康日工

お産をしてな-

なった。兄弟の妻はおたがいに先後とよびあう。宛若は字である。師古日-'先の音は蘇兄の反、後の音は胡横の反。古は梯

姐といった。現在の閲中の習俗では先後とよび'呉楚地方の習俗では柚裡とよぶ。音は軸里(孟康日'産乳而死也'兄弟妻相謂先後'

宛若、字也、師古日'先音蘇見反'後音胡括反'古謂之姉娘、今閲中俗呼馬先後'呉楚俗呼之馬抽姓、音軸里))」(HP.25AV2Lb)。

韓信俸

「磨武君封日'常今之計、不如按甲休兵'百里之内'牛酒日至'以壁土大夫、北首燕路'然後賛

一乗之使、奉穫

尺之書

へ師青白-'八寸を関という。樫尺とはその簡腰がながければ

l関'短かければ

一尺なるをいう。たやすいことをたと

えたのである。今日'俗間で尺書といい'あるいは尺贋というのは'けだしその名残なのである

(師古日'八寸日樫、柊尺者、言其

簡贋或長僅'或短尺'愉軽率也、今俗言尺書'或言尺贋、蓋其造語耳)Vt以使燕」(HP.34,8b~9a)。

窒嬰俸

「桃侯免相'賓太后教言魂共、景帝日'太后山豆以巨石愛相貌共著'貌其清酒自害耳、多易

へ張量目上

清清とは

みずからきちんとおさまっていることをいう.多易とは軽薄のおこないの多いことである。

一説に'清

の音は階。師古日-、

清酒とは軽薄のことである。

一に音は他乗の反。現在の俗言に薄清酒という。書の音は許更の反'易の音は4}皮の反

(張量目'

清清吉自整頓也、多易、多軽薄之行也.或日、清音喝

師古日、清喝

軽薄也'或音他乗反、今俗言薄姑清、喜音許吏反'易音4'頑反)Vt難以鵠相持重'

逐不用--」(HP.52,2b-3a)。

景十三王俸

「後典昭信等飲、諸姫皆侍、

(鹿川王)去馬

(陶)望卿作歌日、背尊章'標以忽

(孟康日く、標

の音は匹昭

ヽヽ

の反。師古日工

尊章とはなお男姑というがごとし。現在の開中の習俗では'よめは男姑を鍾とよぶ。鐘は章の音の韓靴であ

(孟康日'標匹昭反'師古日'豊早璽喜男姑也、今開中俗'婦呼男姑喬鍾'鍾老輩撃之輯也)Vt謀屈奇'起自絶-・・・」(HP153,)5b)0

張湯停

「調茂陵尉'治方中

人孟康日二

万中とは陵墓上の土盛り工事法である。張湯がそれを監督した。蘇林日く'天

師古

の『漢書』往

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三〇六

子は即位するとあらかじめ陵墓をこしらえるが、それを口にだすことを謹んで方中といい'あるいは拝土という。如淳日-'

漠儀注によると'陵墓の方中はその用地は

1頃'深さは十二丈。師台目-'蘇林の読はまちがい。古においては土を掘

って坑

をつ-ることを方といった。現在の刑楚地方の習俗では'土木建築工事にあたってノルマを計算するさい'やはり方でかぞえ

ている。避謀

いう

のではな

(孟康日'方中'陵上土作方也、湯主治之、蘇林日、天子即位'諌作陵'詫之'故言方中、或言拝土'如落日'漠注、

陵方中用地

l頃'深十二丈'師古日'蘇説非也、古謂掘地番院目方'今刑楚俗'土功築作算程課者、猶以方計之、非謂避講也))」(HP.59,tb-2a).

古津や古物'古蹟にたいするそこはかとない愛着、また古言が現在にもすがたをとどめているなどの指摘は、

『漢書』に措

かれた古の世界が現在にもなお生きつづけていることを蒙見した顧師古のすなおな驚きとよろこびを示しているようにおもわ

れる。そのほかにもたとえば'高陵、傑陽の田氏'華陰、好時の景氏'」二輔の屈氏や懐氏が現在もなお多いのは婁敬の戯策に

(96)

(9

7)

よって徒されたものの後商であるとか'現在の垂州、開州等の首領で宵を姓とするものはみな漠代の宵種である

現在の

(98)

抜爪戯は漠代の抜距戯の遵法であるとか'そのような注樺にしばしば逢着するのであるが、

『漢書』のなかにひたすら沈潜し

た顔師古は'そこに

『漢書』と現在とをつなぐ回路を尊兄したというべきであろうか。そしてまた師古住を読むものは、ある

言葉や名物を説明するにあたって'「若

(如)今--臭」、

「即今--奏」'

「猶今--臭」等の形式をふむ場合の多いことにも

気づ-はずである。すなわち高帝紀'酒水の亭長であった劉邦が滞令の客となった単父のひと呂公を仲間たちと訪問するくだ

あぎ

り'主更の斎何が'戯進料千歳に満たざるものは堂下に坐せしめんとおどしたのもものかわ'劉邦は

「乃ち

むきて謁を為し

ごと

て日-'賀、銭寓」'

そこの師古住に

「謁を為すとは刺に害して自ら欝里を言う。

今の尊貴に参見して名を通ずる若きなり」

(HPLA74a)とみえるのを初出として'この形式は蜜に無慮無数にのぼるであろう。これをたんに古典注樺家ならだれしもが

用いる常套的手法だといってしまえばそれまでだがtLかLLか-簡単にかたづけてよいことがらであろうか。注揮家と古典

との出あいの機微へといったものをそこに感じとるべきではないか。

「君今‥-・臭」'「即今--臭」'「猶今--臭」等の形式

は'古典のなかに沈潜Lt自己を古典のなかに検琵しようとつとめた注樺家が'いまや古典にあらわれる事物の封鷹物を現在

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にもとめて、いわば古を今によって検認せんとすることを示しているのだと考えられないだろうか。

本章に示した師古住の語例は'

「叙例」に示された大綱の範囲をこえているが'それらが師古住にいちだんの生彩をそえて

いることを否定しえまい。香住にもとづいているわけではないし'

「上は典譲を考え、穿ら蒼雅を究めへ苛めに臆譲するには

非ず'皆な援嬢あり」という原則からもはずれている。みずからの見聞か'ないしは博聞にもとづいての注鐸なのだがtLか

しそれらを膜説ならざらしめたのは'

『漢書』との葛藤のなかでつかんだ蕨師古の自信か'さもな-んば直感であったろう。

現賓の証合のなかに所属すべき場所を兄いだしかねた顔師古は'ひたすら

『漢書』のなかに沈潜した。そしてそこにおいてて

ごたえのあるひとつの世界とついに選近しへその世界と現在とをつなぐ回路を章見したというべきであろう。

『漢書』に描か

れた古の世界は賓在感をも

っていきいきとよみがえり、古のなかに今が'今のなかに古が重なりあ

ったのである。

師古庄の方法は訓話を基本としている。字音の解樺'さらにひろげては名物、制度の解得を基本としている。それを『漢書』

本文のなかに沈潜する方法とよびかえてもよいだろう。そもそも顔氏の学問の本質が訓話の拳であったことは'顔師古本侍に

わか

-わ

「師古少-して家業を俸え'群書を博覧Lt尤も訓話に精

」(奮唐書

73,2594)とつたえられるとおりである。『顔氏家訓』の

なかでもとりわけ書記篇や音節簾は顔之椎の学問の本領が訓話の撃であ

ったことを示しているし、顧師古のまたの著作である

(99)

『匡謬正俗』あるいは

『急就篇』注いずれも訓話の撃の成果ならざるは

い。

ところでいま

『漢書』注に話をかぎ

っていえば'江南の漢書の草のなかにも訓話的方法によるものがなかったわけではない。

と-に顔氏の漢書の撃と密切なかかわりをもったであろうと推測した劉顕'劉榛父子のそれであり'劉顕の著書が

『漢書音』

を名とすることはそのことをうかがわしめる。またやはり顧之推とつながりがあ

ったらしい蒲該のそれであ-'蒲該の

『漢書

『漢

書』注

三〇七

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音義』がまった-訓話的方法によるものであることは'輯本について確認し-る。顔之椎から顔師古にいたる窮民の漢書の撃

は、か-していちおう南撃の系譜のうえに位置づけられる.また古津や古物にたいする興味も'蜜は江南にその萌芽を認めう

(禦

るであろ

-

だが師古住がしばしば南軍との断絶を示すことを'再三にわた

ってのべてきた。江南の史注の主流は訓話的方法

によるものではなかった。主流は他書の殊説を引いて本文を攻撃Lt異聞をひろめ、該博をきそう注樺であ

った。かかる注樺

の態度に強-反擬した顔師古は、

一第の

『漢書』注も書かれなかったがゆえにかえ

って古いテキストや注樺が古いままに遺存

したであろう華北の停統に注目した。晋灼注や楳浩説にたいする尊重はそのことをものがたっている。かれは江南の注樺の主

流であ

ったところの方法'いわば

『漢書』そのものよりもその周過にむかってのひろがりをもとめる方法をし-ぞけて、

『漢

書』本文のなかへの垂直的なきりこみをおこないtか-することによってついに

『漢書』を'『漢書』に措かれた世界を'わが

ものとしたのであ

った。そのさい'漠王朝とおなじ-長安を都とする統

一王朝'唐王朝に生きていることは'

『漢書』にあら

われる古米や古物'古蹟'あるいはまた古言にいたるまで'かれをしてよ-いっそう深切なものとして賓感せしめたであろう。

おさ

ごと

「それ顔氏の訓話を

るに営

っては古人と封談するが若し」と許したのは宋の鄭樵であ

った。訓話を武器として顧師古は古

人とおなじ地平にたつことができたというわけだが'杜預の

『左俸』注と顔師古の

『漢書』注をあわせ論じた鄭樵の言葉を引

いて本稿の結びにかえることとしたい。

(Eo)

いま

-

杜預の左氏を解し'顔師古の漢書を解し'忠臣の名を得る所以の者

、そのこれを轟-すを以てなり。左氏の未だ杜

ひと

氏を経ざる前'凡そ幾家あらん。一

び杜氏を経しの後'後人は

一群すら措-能わず。漢書の末だ顧氏を経ざ登別'凡そ

あらた

たと

あらた

幾家あらん。

一たび顔氏を経しの後'後人は其の説を

る能わず。堆

辞を措

き説を

ることあるも'朝月暁星のそ

ひかり

たも

はじ

か-そ

あら

の明

能わざるが如し。此の如きの人にして

めて以て経を解す可し。苛

に文言多-して経旨

れず'文言筒に

のこ

して経旨

あるが馬に'我の読きし白りの後'後人復た読-者あり。皆な築樺の手に非ざるなり。偉注の畢起-てより'

ちか

だこの二人のみそれ殆んど庶

きか。その故は何ぞや。古人の言の明らめ難き所以の者は'書の理意明らめ難きが馬に

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は非ざるなり。寛に書の事物明らめ難きが馬なり。古人の文言明らめ難きが馬には非ざるなり。賓に古人の文言の今に通

おこ

まさ

ぜざる者あるの明らめ難きが馬な-。能-爾雅の作る所を明らめれば則ち以て集注

然るべき所を知る可も

爾雅の

おこ

、ヽヽヽヽヽ、ヽヽヽヽ、

作る

所を明らめざれば則ち室注の旨蹄を識らざるなり。善きかな二子の簡雅に通ずるや。顧氏の通ずる所の者は訓話'杜

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

氏の通ずる所の者は星暦地理なり。それ顧氏の訓話を理むるに普

っては古人と対談するが如し。それ杜氏の星暦地理を理

むるに常

っては義和の天を歩むが如-、南の水を行-が如し。然れども亦た短とする所あり。杜氏は則ち轟魚鳥獣草木の

名を識らず。顔氏は則ち天文地理を識らず。孔子日-、之を知るを之を知ると為し'知らざるを知らずと為す'是れ知る

なりtと。杜氏は星暦地理の言に於いてその敦を極めざるなきも'轟魚鳥獣草木の名に至っては則ち爾雅を引いて以てこ

れを樺す。顕氏は訓話の言に於いて甚だ暢ぶるも'天文地理に至っては則ち闇略たり。これを'知らざるを知らずと為すt

なんす

と為すなり。その他は紛紛'是れ

者ぞ.揮するは是れ何の経ぞ'明らむるは是れ何の畢ぞ。(通志葵文略経類春秋)

注(1)

『甘二史割記』巻二〇「唐初三蔭漢書文選之撃」。

(2)

劉納言は章懐太子李賢の

『後漢書』注撰述をたすけた

一人でもあっ

た。

「賢又招集常時聾者太子左庶子張大安'洗馬劉納言'洛州司戸

格希元、学士許叔牙成玄

1史蔵諸周賓寧等'注沌嘩後漢書、表上之」

(蕃唐書高宗中宗諸子葦懐太子賢博

86,

2832).

(3)

たとえば

『三国志』からつぎの諸例を拾

できる。

「-

‥余

ヽヽ

是以少詞詩論、及長而備歴五経四部史漠諸子百家之言'肺不畢党」

(親書文帝紀注引典論自序

2,

90)。「治公羊春秋'博渉史漢」(局

書張電停

41.)01))O「博物識

'

害不覚'尤鋭意三史、長於漢

家薯典」

(同孟

42,

1023)。

この場合の

「三史」はいうまで

もな

-

『史記』'

『漢書

』'

『東

漢記』である。

(4)

『後漢書』班彪侍

「彪既才高而好述作'途専心史籍之問う武帝時'

司馬遷著史記、自大初以後'閑而不録、後好事者原或綴集時事'然

『漢

書』注

多都俗'不足以睦経其書、彪乃渡探前史遺事、傍貫異聞、作後停数

十篇、因掛酌前史'而改正得失、其略論日-・-」(40A,)324)。そ

してその略論ではみずから

「この後篇」とよんでいる。

『史記』を

書きついだいわゆる

「好事者」たちのことは'

『史通』古今正史居

を参照。

(5)

元帝紀

「費目'臣外租兄弟夢

冗帝侍中

八鹿勧日、元成帝紀、皆班同

父彪所作'臣則彪自説也、外組、金敏也∵耶淳日'班園外組契叔皮

也'師育日、麿説是)、語臣日、元帝多材垂、善史書・・・-」(Ⅰ山P.9,

13b)。成育紀

「貫目.臣之姑充後宮馬捷好

ヘ音灼日、班彪之姑也)、

父子昆弟侍惟握…・・・」(HP.

10,16a)。葦賢侍賢

「司徒接班彪日、

漠承亡秦絶撃之後

-

-

(H

P.73,

2La)。覆方進侍貿

「司徒禄班彪

日、丞相方進以孤童摘老母二拓旋

師・・・・・・」(HP.

84,20b)。元

后俸質

「司徒操班彪目、三代以来、春秋所記・・・-」

(HP.98,)5b)0

徐松によれば

西域博質も班彪の作だというO

西域俸賛末尾の

三〇九

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(HP

1

96B,

39b)を参照.

(6)

『後

書』列女曹世政事俸

「兄固著漢書'其八表及天文志未及売而

卒、和帝詔昭就来観蔵書闇、座而成之…-時漢書始出'多未能適者'

同郡馬融伏於閣下'従昭受講'後叉詔融兄漬鰹昭成之」

(84,2784

-5)。ただし司馬彪の

『績漢書』天文志序には

「孝明帝位班国政

書'而馬績述天文志」(後漢書志

10,3215)とあり、また

『史通』

古今正史篇には

「国後坐襲氏事'

卒於洛陽獄、書頗散乱'英機綜理'

其妹曹大家博学能屈文'奉詔枚叙、・・・・・立ハ八表及天文志等、狛未完

成'多是待詔東観馬緯所作、而古今人表、尤不類本書」とあって'

かなりの出入がある。

(7)

鄭樵が班国をおとす最大の理由は'断代史では歴史の連緯性

(相困

之義、合通之旨)が失なわれるという鮎にあるが、いささかやつあ

たり気味につぎのようにいう。「自春秋之後'惟史記檀制作之規模'

不幸班固非其人'達矢食通之旨'司馬氏之門戸'自此衰粂'班固者

浮華之士也'全無畢術'専事剥落'--日高租至武帝凡六世之前'

壷鏑遷事'不以為噺、自昭帝至平帝凡六世、賀於貫達劉款、復不以

為恥へ況叉有曹大家終篇'則固之白馬書也幾希、往往出固之胸中老'

古今人表耳'他人無此謬也'後世衆手修書'道傍築室'掠人之文、

稿鍾掩耳、皆固之作個也」

(『通志』舵序)。ただし

『文史通義』内

篇三怒階は'

「家撃」の観鮎から鄭樵に反論している。

(ll)

(12)

『後漢書』班固俸

「普世甚重其書、聾者英不筑前蔦」(40A,)334)0

注(6)に引いた曹大家博を参照。

「宗匠」の語、下記の諸例のように内典からは拾うことができる。

『高僧博』巻五秤道安俸

「千時学者'多守閲見'安乃歎日'宗匠錐

進'玄旨可尋、鷹窮究幽遠'探徴奥、令無生之理'宣揚季末'使流

遁之徒、締向有本」(大正戯巻五〇、35Lc)。

同軍七樺慧亮博

「太

始之初'荘厳寺大集'簡閲義士'

上首千人'勅亮興

(曇)斌'遮馬

法主'常時宗匠'無輿競蔦」(373b)。『出三蔵記集』巻五億叡愉疑

ヽヽ

「叡才常人都'両得廊封宗匠'陶讃玄輿」

(大正蔵巻五五㌧41b)0

(13)

(3)

一〇

同懇八倍叡大品経序「辛寅宗匠泡豊、文雄左右、而旨不達車」(53b)0

ヽヽ

同巻九悪阻修行地不浄親睦序

「食通西来宗匠'綜習大法、尋本至終'

冥隅

一関、千載之下'優曇再隆、可不欣乎」(66C)。同番九倍柘賢

ヽヽ

愚経記

「千時沙門樺慧朗'河西宗匠、道業淵博、綬持方等」(67C)0

同巻

一〇樺慧遠阿毘曇心序

「厨賓沙門僧伽提婆'少翫玄文'昧之爾

ヽヽ

久、粂

宗匠本正'関入神要」(72C).

また劉孝縛

「栖隠寺砕」(塾

文類某省七七)「銘日'給孤焚蕩'善勝崩冷'堂堂宗匠'克紹慧困」。

班園は大将軍賀意のために中護軍、行中郎賭事として旬奴への使者

にたったこともあるし、また

『後漢書』崖駒博にはつぎのようにい

う。

「元和中'粛宗始修古薩'巡狩方岳、駒上四巡演以栴漠徳、節

甚典美、文多故不哉'帝雅好文章'自見願頭後'常佐敷之、謂侍中

質憲日'卿寧知崖膳乎'封日'班固数馬臣説之'然未見也'帝日'

公愛班固而忽雀鯛'此菓公之好龍也、試清見之-・・・」(52.)7)8-9)。

『漢書』張寓侍

「大宛諸国語使'随漢使来観漠贋大'以大鳥卵

及準

肝肱人献於漢、

天子大説、--是時上方数巡狩海上、

遭悉従外国

客」の鷹初江に'後漢の郡太后時代のことがつぎのように記されて

いるのも注目されようO

「郡太后時、西夷檀闘来朝賀'詔令馬之、

而諌大夫陳碑以薦爽秋俺達.不可施行'後数日、尚書陳忠実漢善書'

遭知世宗時弊肝献見幻人、

天子大悦、輿供巡狩、遭知古有此事」

(HP.6),7b~8a).

『管書

』刑法志にも

-りかえされ'そちらでは

「駁議」を

「議駁」

に作

っている。内田智雄編

『評注中国歴代刑法志』

(1九六四年'

創文社)八二頁以下を参照.

『三国志』親書曹爽停注引貌略

(9.290)O

属国翰は主として類書

によって'厳可均はさらに

『群書治要

-わえて韓本を作

ってい

る。馬園翰の解題にいわく

「北堂書砂初単記文選江太平御覧等書

引之'或作新論、或作要集'或作世論'皆此

一書へ而引題老異、-≡

ヽヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽ

書中多諭行兵、蓋三関割掠'日辱干支'政論世老詳究之'雄列法家、

略無

残苛之語」(玉函山房輯侠書)。ただしこれら輯本についてみ

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(17)

(18)

(19)

るかぎり、なるほど漢事が多数をしめてはいるが、かならずLも漢

事のみとはかぎらない。

『三園志』親書司馬朗俸注引司馬彪序停

()5,466)0

『青書』劉元海載記

「幼好畢'師事上菓

崖源'習毛詩京氏易馬氏尚

書'尤好春秋左氏俸孫呉兵法へ

略皆諦之、史漢諸子、無不綜覚」

(101,2645)。劉元海の従租にあたる劉宜についてもつぎのように

みえるO

「毎謹漢書へ重箱何部寓博、末骨不反覆詠之、日'大丈夫

若遭二組、終不令二公猶垣美於前臭」

(10),2653)0

『漢書』張良博

「漠三年'項羽急圃漢王於栗陽、漢

三菱恐、輿掛食

共謀椀楚橋'田生日、昔湯伐集う封其後杷'武王諜肘、対英後完へ

今泰無道、伐滅六園、無立錐之地、陛下誠復立六国後.此皆争戴陛

下徳義、願馬臣妾、徳義己行'南面栴伯'楚必数社而朝、漢王Ht

善、趣刻印p先生困行楓之、劉生末行、良従外来謁漢王'漢王方食

日、客有馬我計焼楚横着、具以捌生計告良日、於子房如何、良日'

誰為陛下茎此計者、陛下事去臭、漢王日、何哉、良日、臣詣借前著

以窯之、-・・・誠用此謀、陛下事去央'漠王軽食吐晒罵日、警備幾敗

適公事'令趣鋪印」

(HP140,5b~7a)0

『漢書』婁敬停

「高帝罷平城蹄'

王信亡入胡、常是時冒嘆賞手兵

彊'控弦四十番騎、教吾北連、上意之、間数、数日、天下初定、士

卒罷於兵革'末可以武服也~胃頓殺父代立'妻群母.以力島威、末

可以仁義説也、猫可以計久遠子孫馬臣耳、然陛下恐不能馬、上目、

誠可、何番不能、顧馬奈何'数日、陛下誠舘以適長公圭蚕軍干'厚

奉遺之'彼知漢女達厚'壁夷必慕、以馬閑氏'生子必為太子、代軍

千-…」(HP.43,)2b)o

師古注が固有名詞をとも

なって引-先人の

『漢書』注は'

「裁例」

第十候のリストにみえる二十三人のものにかぎられるO胡公の名は

そのリストにみえない。

『漢書』注以外の説はその書名なり人名な

りを明記することがあるが'ここの場合'もし額師青があらたに引

いたのならば、

「感動日--'師古日'胡公云--」と書-のを鰹

『漢

書』注

例とする。

(E3)

ここで1.Llilnしておかなければならないのは

『十七史商権』巻七

「許

傾注漢書」の説である。王鳴盛は許懐にも

『漢書』注が存在したと

してつぎのように主張している。

「許憤嘗注漢書、今不博、引見顔

注中老荷多'不知五種中是何種中所采'叙例不列英名'不知何故、

憤所著全部、惟説文存'飴五経異義准南子注皆不存'但引見他書」

五程とは本章にのべる煤塵、鷹勧'晋灼'臣喫、葉譲の注をいう。

なるほど師古庄には'

「許憶説文解

字云--」'「許氏説文解字云・-

-」、

「説文解字云--」'

「説文云--」として引かれるほか'た

だたんに

「許憤云--」として引かれるものあわせて十七候が章見

できる。しかしそれらを

『漢書』注とみなすことには賛成できない。

十七候のうち十三候はあきらかに

『説文』と

1致するし、のこり四

候のうちの二候は

『港南子』注であるらしいOすなわち、3築文蕊

「堪輿金匪十四巻

(師盲目'許憤云、堪'天道、輿、

地道也)」

(HP.

30,70a)-

『文選』揚雄甘泉賦

「展堪輿以壁鼻骨、拾重版而

扶猫

人書目、--涯南千日へ堪輿行雄以知雌'許憤日'堪、天道へ

輿、地道也--)」(7,2b)O『推南子』天文訓に「堪輿徐行雄以音知

雌」とある。㈱張艮博

「護銀橋之栗

(服度日、鍵橋、倉名也'師盲

目、許憤云、

銀鹿之大橋有漕粟也)」(HP.

40,6b)-主術訓

「護釦

橋之釆

(釦橋、糾倉名也、l説鉦鹿漕蓮之

橋)」。のこる二候、すな

わち司馬相加俸

「右以湯谷馬界

(師古日'湯谷tR所出也'許嘩雪

熟如湯也)」(HP.57A

,)8b)、王巽南襲飽侍序「伯夷叔啓:薄之、餓

千首陽、不食其緑

軒古日'鷹融云…-'高誘則云--、而曹大家

注幽通賦云--'許候文云'首陽山在遼西--)」(HP.72,La~b)

もほんらいは

『准南子』注であったのではあるまいか。以上の

こと

は前注にのべた師古庄の鰹例からもうらづけられるであろう。

「許

憤云--」

がもし

『漢書』注であるとすれば'

「師盲目」にさきだ

って

「許憤日」として引かれるはずであるし、しかもなによりも許

候の名は

「裁例」のリス-にない。

「師古日、許憤云-…」なる形

三二

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式は'おのずからそれが

『漢書』注ではなかったことをものがたっ

ている。

(21)

しからば

「南方学者」の1人である宋の葉蘭の

『史記集解』にしば

しば菅灼説が引かれているのはなぜか.装駒はつぎにふれる臣頓の

『集解音義』'

すなわち

『漢書音義』に引かれていた晋灼説を用い

たのであろう。襲駒は

『史記集解』の序において

『漢書音義』をお

おいに利用することを言明している。それらのことは拙稿

「薬膳の

『史記集解』」(『加賀博士退官記念車国文史哲寧論集』に近-襲表預

定)にのべたので'ここには--かえさない。

(Sj)

「叙例」のリストへ

「臣撃、不詳姓氏及郡牌」の補注に引-宋郡の

按語によれば'臣噂の姓について'襲膳

『史記集解』'寿稜

『漢普

績訓』は未詳'劉孝標

『類苑』'眺察

『漢書訓纂』は干嘩'尉道元

『水経注』は辞項とLtそして宋郭は停頓とする説に賛成するoお

なじ-補注に引-洪隊伍によれば、干項とするものにさらに劉昭

『績漠志注補』'

杜佑

『通典』があり'そして停増とするのは司馬

『史記索隠』'李善

『文選』注である。

(23)

てっとりばや-は鮎校本

『青書』巻三武帝紀の校勘記

〔二三〕を参

照。

(24)

えば司馬彪はもっぱら

『竹書紀年』にも

とづ

いて諜周

『古史

考』の誤ま-をただした。

「初誰周以司馬遷史記書周泰以上'或採

俗語百家之言'不専嫁正睦、周於是作古史考二十五第'皆感奮典'

以糾遷之謬誤、彪復以周為末壷善也'候青史考中凡百二十二審番不

常、多接汲家紀年之義'亦行於世」(青書司馬彪博

82,

2)42)O

(25)

『十七史商権』巻七

「漢書鼓例」。

(ES)

『抱朴子』外篇自叙簾に'

「又抄五経七史百家之言兵事方位短維奇

要三百

一十雀、別有日録」とあるのの一部であろうか。

(27)

『染書』文学劉峻

(孝標)俸

「安成王秀好峻撃'及選別州、引番戸

曹参軍、給其書籍'使抄録事類'名目額苑'未及成'復以疾去」

(50,702)。同太祖五王安成康王秀停

「精意術畢'捜集経記へ招畢

(28)

(29

)

(30)

三一二

士平原劉孝標'使撰摂苑、吾未及畢'而己行於世」(22,

345)。な

『重文頬東』巻五八に'

『頻苑』の借覚を願いでた

劉孝

標との往復書簡を引-。

『華林逓略』のことは下記にみえる。

『南

史』劉峻侍

「及峻類苑成'凡

1百二十巻.

(梁武)帝即命諸率土挟

ヽヽヽヽ

撃林偏略以高之、寛不見用」(49,

1220)。同文撃何思澄俸

「天監十

五年、赦太子唐事徐勉拳学士人草

略'勉畢思澄顧協劉香王子

雲鍾峡等五人以魔道、八年乃書成'合七百奄」

(72,

)782-3)O隔

意子部維家塀には'

「塀苑

l百二十奄'梁征虜刑秩

軍劉孝

撰、

染七線、八十二奄」'

つづけて

「華林遍略六百二十巻、梁絞安令徐

恰櫓等撰」

と若緑する。なお勝村哲也

「修文殿御覚天部の復元」

(『中国の科挙と科学者』'一九七八年へ京大人文科撃研究所)を参照。

梁代には内典の数書も数多-編纂されたo大内文雄

「梁代係数頬朱

書と経律異相」(東方宗教五〇)参照。とぼしい経験ながら'『庶弘

明集』に収められた梁人の文章'それが使用する儒教関係の典故が

『経律異相』に夜見されることしばしばである。

『南史』王話附王摘博

「誼従叔摘以博寧見知、尚書令王倫嘗集才孝

之士、紙枚虚賓'敷物隷之へ謂之隷事へ自此始也、倹嘗使賓客隷事'

多老覚之'事皆窮、唯腰江何窟馬勝'乃賞以五花筆自国扇'坐筆執

扇、容気甚自得'病後重、倹以所隷示之、日脚能奪之乎'摘操筆促

成、文章既奥、酢亦華美、畢坐撃賞'摘乃命左右抽憲章、手自撃取

扇'登車而去'倹笑日、所謂大力老負之而趨」(49,

)2)3)0

『南史』劉峻停

「初梁武帝招文学之士'有高才者

'

擢以不

次'峻率性而動'不能随衆沈浮'武帝毎集文士策経史事'時花雲枕

的之徒、皆引短推長、帝乃悦、加其賞賛'合策錦被事へ威言己馨'

帝試呼問唆、峻時貧惇冗散、忽請紙筆'疏十飴事、坐客皆驚'皆不

覚失色'自是悪之、不復引見」、

そして注(27)に引いた

『察苑』の

記事につづ-

(49,)2)9-20)。『梁書』沈約博

「約嘗侍詩、債務州

献栗、径寸牛、帝奇之'問日、栗事多少、輿約各疏所憶'少帝三事'

出謂入日、此公護前'不講即菱死、帝以其言不遜'欲抵其罪、徐勉

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固諌乃止」()3'243)0

(31)

律暦志

「経日'冬十月朔'日有食之'傍目'不書目、官失之也'天

子有日官へ諸侯有日御'日官居卿以底日、鐙也'日御不失日以授育

官於朝'言告朔也」のあとに

「師古日'劉家本有此語」(HP12LA,

34a)と注しているが'「言薯朔也」の語をともなった劉家本

'

劉療父子家に博わるテキストであったのではあるまいか。

(S!)

『顔氏家訓』書讃篇

「易有宥才注、江南学士途不知是何人'王倹四

ヽヽヽ

部目録不言姓名'題云王弼後人'謝見夏侯詠並讃数千奄書'皆疑是

誰周'而李萄書

一名漠之書、云姓指へ名長生、日輪萄才'南方以育

家渡江後北間停記、皆名馬偽書'不貴省議'故不見也」(99a~b)。

(E3)

『漢書』港嬰椿に

「従撃韓重信於代、至馬邑、別降榎煩以北

六軒'

斬代左相'破胡騎賂於武泉北'復従撃信胡騎曹陽下、所賂卒斬胡自

題洛

l人」とあり'そこの節古注に「師台目'胡名也」(HP.4)

,)4

b)という。

ほんらいは服虚注であったのをあたかも自説のご

と-

べているわけである.また

『後漢書』西域革師後王国博にいう。

「順帝永建元年'

(班)勇率後王農杏子加特奴及八滑等、顎精兵撃

北虜呼街王、破之'勇於是上立加特奴馬後王、八滑馬後部親漠侯」

(88'2930).

(34)

『漢書』

「緩六弟、五人至大官'少弟熊歴五郡二千石三州牧

刺史.有能名、唯中弟欽官不至'而最知名'欽字子夏'少好経書'

家富而目偏盲、故不好薦吏・・・-」(HP.60,6b).

(Eq)

張安世博には

「侍中大渚軍

(塞)光亮

後教月'御史大夫魂相上封事

日、--単騎購買安世'事孝武皇帝三十除年'忠信謹厚、勤努政事'

夙夜不意」(HP.59,8a)とあるのみO劉香のこたえは趨充園侍に

つぎのごと-あるの

誤記である。

「初破義勝軍

(辛)武賢在軍中

時'輿中郎賂

(趨)印宴語、印遷幸騎賂軍張安世始嘗不快上、上欲

訣之'印家格軍以馬安世本持変哲筆、事孝武帝教十年'見謂忠謹、

宜全度之、安世用是得免」(HP.69,)5b~16a)。

そこの師古住は

張曇の説を

「張暴日、秦'契褒

也'近臣負嚢替

従備顧問'或育

『漢

書』注

所紀也」と引-が、重昭の説はみあたらないoそして顔師古自身の

説をつきのようにつけ-わえる。

「師古日'棄所以盛書也、有底日

嚢'無底目薬、轡筆者括筆於首'葉音丁各反、叉音託」o

(A)

『漢書』刺通博

「後漢賂韓信虜親王'破過代'降燕ー定三国、引兵

賂東撃哲、末度平原'聞漢王使帯食共謀下管'信欲止、通説信日、

将軍受詔撃斉、而漢猫顎間使下哲'寧有詔止賂軍乎'何以得無行'

且鄭生

l士伏拭、捧三寸舌'下哲七十飴城'将軍賂教寓之衆'遭下

越五十飴城、篤賂教歳'反不如

l里儒之功乎'於是信然之、従其計、

速度河、帝己聴瓢生、即留之.縦酒'罷備漢守禦'信因襲歴下軍'

途至臨澗'帝王以靭生馬欺己而亨之、困敗走、信連定哲地'自立馬

葬儀王、漢方困於衆院'遣張良師立信篤帝王'以安固之、

王亦追

武渉説信'欲輿蓮和、剃通知天下植在信、欲説信令背漠'乃先敏感

信日へ僕嘗受相人之術、相君之面'不過封侯、又危而不安、相君之

ヽヽヽヽヽ

背、貴而不可言う信日'何謂也'迫田詰問日、・・三・J(HP.45,2a

~b).班彪

の「王命論」(文選巻五二)は'漢王朝に対抗して焼石

猫立割嬢せんとした膜蓋をに-んでの作品である。

「彪既疾葛言'

又傷時万難、乃著王命論、以馬漠徳承桑、有塞命之符、王者興砕'

非詐カ所致、欲以感之、而蓋終不落、途避地河西」

(後漢書班彪侍

40A

,1324)o

(37)

的と的

わせると、つまり古本では、帝紀.外戚停'高五子侍

をはじめとする諸王子博、陳勝項籍博の順序に巻立てされていた0

(…望

『十七史商権』巻七

「劉之童所校漢書」にいう。「致其所云今本者、

則梁世所行之本、輿今刻不具」。

(39)

朱鶴齢

『愚奄小集』巻

一三

「議漢書」にいう。

「梁粛深侍云'得古

本漢書、鍍俸自列項籍停前

(?)へ不知証書規模多依倣史記'其混

入各停者、正沿遣史楚元主語世家膿雨、又云'古本外戚博在帝紀下、

不知鼓四夷而後及外戚者斥之也.漠唐子外戚'故斥之、次及元后、

著漢之所以亡也、終干王弄而漠窒之興亡具蔦、若以外戚次本紀後、

則全矢作史徴旨、至干蓮華彰英虞呉侍'今本云'信惟餓款へ布安蘇

三一三

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(.10)

(11)

徒'越亦狗盗'同声江湖、雲起龍騒、化馬侯三㌧而古本云、准陰毅

毅'伏創周章'邦之傑骨、宴惟彰英、化馬侯王、雲起龍旗、此是博

本各有異同、非必古本是而今本非也、珠侍云'有北倫南度'惟賛覇

産'中有漢書叙俸'三輔者老相俸馬漢書虞本、其吾非宴非蘇、紙墨

亦古'環待之甚融、以鯛都陽王'此恐出好事者之言'末足為嬢」.・

また帝召南は武英殿官本雀

l百上鼓侍の考護につぎのようにいう。

「臣按此説可疑う後苔固停'固日永卒中始受詔、潜精積思二十験年'

至建初中始成Tv然則永平十六年乃初受詔、豊容師表上於朝乎、叉其

父彪以建武中馬徐令司徒按望郡長へ自不合列停於前書、所謂農本、

必非賓也、意老好事之徒所為耶'永卒中何由有紙'郎此足破其妄'

漢書自初出郎己盛行、八表天文志関'管大家且受詔以完其業'然別

今本漢書、確足援兵、稀叙俸馬車簾、有何義乎」O

顔師古はその

『匡謬正俗』巻五においてもまたつきのようにのべて

いる。

「司馬子長撰史記'英日叙

一巻'経歴自遺作書本意、篇別皆

有引節、云鵠此事作某本紀'馬此事作某年表、馬此事作某書'馬此

事作某世家'為此事作某列博'子長此患、蓋欲比擬蘭書鍍耳'即孔

安国所云吾序序所以薦作者之意也'揚子雲著法言、其本俸亦博法言

之目'篇篇皆引酢云'撰某篇'亦其義也、及班孟

堅為漢書'亦放其

意'於序俸内叉歴道之'而謙不敢自謂作者'避於擬聖、故改作馬連、

然鼓致之鰹'興馬揚不殊'後人不詳'乃謂班書木筆之外'別更馬覆

述'重申襲乾、有所欺詠、率虞撰流別集'全取孟聖書序為

l巻'謂

漠述.巳失其意、而指蔚宗沈休文之徒撰史者'詳論之外'別馬

1首、

華文麗句'標馨得失、謂之薦賛'自以取則班馬、不其感歎'劉軌恩

文心碓龍雄略暁其意'而言之未壷」。

さいしょ西晋に仕え、永嘉の乱によって劉聴政権に没した劉殿が七

人の子供たち一人づつに五経および

『史記』'『漢書』を授けたのも'

ふかい配慮にもとづ-ところがあったのであろう。

「有七千、五子

各授

l経、

一子授太史公、

l子授漢書'

一門之内'七業倶興、北州

之撃、殿門馬盛」

(晋害者友劉殿博

88,2289).

一四

(g)

『北史』儒林俸序

「大抵南北所為章句‥好尚互有不同'江左、周易

則王輔嗣、蘭書則孔安国、左博則杜元凱、河洛'左傾則服子憤'尚

書周易則鄭康成'詩則並壬於毛公'鑑別同遵於鄭氏'商人約筒、得

其英華'北草深蕪'窮其枝葉」

(81,2709)。

(g)

『漢書』地理志

「自武威以西'本旬奴

体屠王地'武帝時撰之、

初置四郡、以通西域'南紀南義旬奴'其民或以関東下貧、或以報忠

過常'或以辞逆亡道家屈従蔦、習俗頗殊'地康民稀'水少宜畜牧'

故涼州之畜'馬天下鱗」(HP.28B2,52a~b)0

(S)

『親書』高允侍にもつぎの記事がある

「後詔允輿司徒崖浩速成園

記'以本官領著作即、時浩集話術士'考校漠元以来日月薄蝕、五星

行度、井識前史

(漢書)之失'別馬魂暦'以示允--」(48,1068)0

(45)

隔意史部刑法頬に

「漢晋律序注

一巻、育僅長張斐撰」を著録する.

「崖浩漠律序云」は'ただし-は

「崖浩云'漠律序云」と書-べき

なのであろう。

(

46

)

『漢書』にかんする記事もいたってとぼしい。劉五㌧劉元海'石劫、

北貌道武帝と礎玄伯.崖浩'劉殿たちにかんする先述のものをのぞ・

けば'阻奨牧牡に仕えた劉柄が三史が浩翰にすぎるため

『略記』育

三十篇'八十四巻を撰したこと

(親書

52,

tt60)'

北哲の孝昭帝

や邪劫が

『漢書』を愛護したこと

(北弊害

6,79および36,475)t

等をつけ-わえうるにすぎない。

(節)

また卒中苓次

「米洋の宋版前後漢書について」参照

(いまはl九七

七年、朋友書店刊の影印慶元本漢書の巻首に収めるものによる)。

ただし師古住が

「何ゆえか」粛蔵音義を引いていないことをいぶか

っているが'くりかえしいうように、師古注はいわゆる蓄注以外は

すべて名を示して用いることはないのである。

(48)

『鹿韻』序にいす。

「苦闘皇初、有儀同劉珠等八人'同詣法言門宿'

夜永酒関、論及音韻、--因論南北是非'古今逼塞、欲更括選精切'

険削疏緩、粛

(諺)顔

(之推)多所決定'-‥・連取諸家音韻古今字

書以前所記者、定之親切韻五巻」O八人とは、劉藻、顔之推'魂淵'

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虞思遣、李若、藷該'幸徳源、醇道衡である。

『家訓』書讃篇の記

事はつぎのごとし。「薩王制云'品股肱'鄭注云、謂掃表出其管腔、

今書皆作撰甲之壊'団子博士請該云、提督作掃、音量、摂是穿著之

名、非出層之義、実字林'斎讃是、徐宴音患、非也」(99b).なお

詣該には

『文選音義』の著作もあった

(隔書

75,)7)5-6)O

(49

)

『障害』李密侍

「--後更折節、下帽耽撃、尤好兵

書、諭皆在口へ

師事国子助敦包憧'受史記漢書'励精忘俺へ憧門徒皆出其下」(70,

)624)。

そして

『奮唐吾』李密博にはいささか小説めいた記事がみ

れる

「嘗欲尋包償う乗

l黄牛へ被以蒲鞘.偽賂漢書

l峡掛於角

上、

一手捉牛矧、

l手翻懇書讃之、蘭書令越国公楊素見於道、従後

援轡構之、既及、問日'何虞書生'耽畢若此、密識越公'乃下牛再

拝、日吉姓名へ又問所謹書'答日'項羽停'越公奇之'輿語大悦'

謂英子玄感等日'吾観李智識度'汝等不及、於是玄感傾心結託」

(53,2207-8)O

(50)

改元

『北朝胡姓考』(一九五八年'科学出版社)へ五四頁以下を参

照。

(51)

新居書』本俸

「時人謂杜征南顔秘書馬左丘明班孟堅忠臣」()98,

5642)o

(52)

の年譜として、羅香林

『顔師古年譜』

(一九四

l年、商務印

書館、中国史畢叢書)が備わっている。緒論'世系'年譜'道教か

ら成る。

(53)

『新居書』温大雅博にもいう。

「初顔氏温氏在隔最盛'思魯輿大雅

供事東宮、怒楚彦博同直内史省、潜泰大石典杖確聞、顔以学業優'

而温以職位顕於唐云」

(91,3783)0

(朗

)

『奮唐書』椿亮停

(72,2582)。

(

55)

両島吉彦

「唐五経正義撰定考1毛詩正義研究之

一-」

(山口大学文

筆禽誌二四)。

顔師古の任務があ-まで五経本文の校定にとどまっ

たこと'した

がって五経正義の撰定にまでおよんだとする

『貞親政

要』

の記事は誤まりであることを指摘する。

『漢

書』注

(56)

顔之推の没年は正確にはわからないが'

『家訓』終制篇に

「吾己六

十飴'放心坦然、不以残年番念」()32b)の1句がある。顔之推六

十歳の年は開皇十年

(五九〇)'顔師古

ちょうど十歳である。

(57)

情志史部正史頬に

「史記音義十二巻'宋中散大夫徐野民

(磨)撰」、

「史記音三巻'梁軽車線事参軍鄭誕生撰」

を、

また集部組集頬に

「百賦音十巻、宋御史裾詮之撰」をそれぞれ著録する。陳武は未詳。

陳の武帝'陳覇先ではあるまい。

(5)

もっとも

「猪預

yuyiiJは撃聾の語であるから、王念孫がつぎのよ

うにこの解梓に反対するのは督然である。

「夫讐聾之字、本困撃良

見義、不求諸聾而求諸字、固宜其説之多整也」

(魔雅疏讃巻六上)。

(59

)

たとえば

『十七史商権』巻七

「漢書鼓例」の王鳴盛の議論はその代

表的なものであって'かれは顔師古の品性まで疑がっている。

「-

・・・但本俸文言、.師古叔父遊秦撰漢書決疑十二巻'馬聾者所稀、師古

注漢書、多取其義、今叙例尭不及蓮秦、全書中亦従末

一見、本俸戟

師古典刊正'引後進、馬讐校、抑素流.先貴勢、富商大賞、亦引進

之'物論稀其約賄'太宗謂日、卿学識可観、但事親居官、末馬清読

所許、・師古之鳥人如此、撰叔父之善而没英名'殆亦其

l蔽乎」0

(60)この文章にさきだっての

「請置賞官'命日武功爵」の集解に臣増設

を引いてつぎのようにいっているのをさす。

「項目、茂陵中書有武

功宙、

1紋日造士'二紋日閑輿衛、三級日良士へ四紋日元戎士、五

紋日官首、六級日乗鐸、七級日干夫'八紋日栗卿、九紋日執戒、十

紋日左庶長、十

l級日軍衛、此武帝所制以寵軍功」(SH.30,)2)o

(61)

しかしながら'顔遊秦'顔師古の

「莫府」の解は崖浩の説にもとづ

いているのである。資料Ⅲ-㈲を見よO

(62)

『顔氏家廟碑』

「昭甫字周脚、君

(惟貞)之父也、幼而穎悟'尤明

訓話'工芸籍革隷書、典内弟股仲容哲名、而勤利過之'特番伯父節

古所賞重、毎有註述'必令参定」.

また

『顔魯公集』巻三謝贈官表

「鏑以臣亡租

(昭甫)T伏贋文儒'克篤前烈'能讃三墳五典、八乗九

丘、特番伯父故秘書監

先臣師古之所貰愛'舗古毎右往揮、未嘗不参

一五

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預蔦」。

(63)

『奮唐書』本俸

「太宗以経籍去聖久遠'文字靴謬'令師古於秘書省

考定五経'師古多所整正'既成奏之'太宗復造詣儒垂加詳議'千時

諸儒停習己久'皆共非之、師古机引晋宋巳来古今本'随吉暁答、援

嫁詳明'皆出其意表'諸儒莫不欺服'--・貞観七年揮秘書少監、尊

典刊正'所有奇書難字'来所共感者、随疑剖折、曲轟其源」(73,

2594-5)。『新唐書』重文志序

「貞観中、貌徽虞世南顔師音階為秘

書監、請購天下書、選五品以上子孫工書者為書手'繕馬藤子内庫、

以宮人掌之」

(57,)422)O

(64)

たとえば'意帝紀

「令郡

侯王立高廟

へ師盲目、諸郡及諸侯王国皆

立廟也'今

苦本部下或有国字者へ流俗不味妄加之)」(HP.♪

∽b)、

ヽヽヽ

畳帝紀地節

二年

「夏四月、鳳皇集魯郡'群島従之

へ師古日'今流俗

書本'此下云戊申立皇太子'而後年又有立皇太子事'此蓋以元紀云

元帝二歳宣帝即位、八歳馬皇太子'故後人妄於此吾加之'善本無也、

接疏贋及丙青侍'並云地節三年立皇太子'此釦明験、而或者妄馬臆

説、轟於薫臭)」

(HP.8,7b)へのごと-0

(65)

ただし

『史記乗除』は顔師

古歌に異なとなえてつぎのようにいう。

「列仙之停居山津、案停者謂相俸以列仙居山洋間'音持全反、小顔

及劉氏並作儒、儒'柔也、術士之稀、非」。

ここの劉氏は顔師古の

同時代人であり'

『史記音義』や

『漢書音義』を摸した劉伯荘

(奮

唐書儒学俸

(89A.4955,新唐書儒畢俸

)98,5656-7)であろ

う。

『史記索謄』序を参照

(66)

か-はいっても、テキスト・ク-ティークにあたって顔師古が晋灼

注を無批判に利用したわけではないo

l例をあげよう。成帝紀

「其

後事酒'柴燕楽

(育灼日'辛酒'好酒也.栗燕へ沈髄也'師古日'

幸酒、晋説是也'柴燕柴者へ論語栴孔子云'損老三栄'柴騎柴'柴

逸遊、架燕楽、損桑'燕柴'燕私之架也'上架講如本字'叉音五孝

反、下葉音来各反、今流俗本無下柴字'後人不暁'軌去之)」(HP.

)0,tb)。

晋灼注の書きぶりから判断すれば、晋灼のもとづいたテ

一六

キストもすでに下の

「楽」

1字を脱していたのであろう.

(67

)

「解噸」にいわ-'

「宴酒宴静'遊紳之廷'惟寂惟実、守徳之宅」

(HP.87B,)2b)O

(68)

『障

害』文革

玄博につぎのようにみえるのは、このときのこと

であろう。

「開皇末'拳秀才へ尚書試方略'正玄厳封如饗へ下筆成

草'僕射楊素負才倣物'正玄抗節酬封'無所属擁'素甚不悦、久之

倉林邑献白鴎鵜、素促召正玄'使者相望、及至'即令作購、正玄倉

卒之際、援筆立成'素見文不加鮎'姶異之」

(76,)747).

(69

)

『居合要』巻九八林邑図の候に'「(貞観)五年'文献白鵬鵜、善於

廠答、太宗偶之、並付英俊、令放蹄林薮」とある。

(70)

顔遊秦は唐の高粗の武徳年間に郵州刺史に卒している。

(71)

『史記索陰』が顔師古ないし小顔の説として引-ものはl二〇候に

ちかい。

(72

)

ただたんに

「眺氏云」として引用されるものも眺祭の説に蹄しうる

ことは'叔孫通列博

「至臆畢'復置法酒」(SH.97,)7)の索陰と正

義を謹みあわすことによって判明する。すなわち乗除に

「按文穎云'

ヽヽ

作酒法令也'眺氏云'進酒肴健也、古人飲酒不遇三番'君臣百拝'

終日宴、不馬之乱也」というところを'正義ではつぎのようにいい

かえているからである。

「眺察云、諸侯群臣、於奏賀穫聾、皆復定

法酒、及侍坐殿上者'皆伏而抑首也'謂之法頓着、異於私燕之酒、

言進止有鮭法也、古人飲不過三宙、君臣百拝'終日宴而不軌也」a

(73)天文志には顔師古自身の注樺はほとんどみられない。本稿末尾に引

-鄭樵の議論を参照のこと。ここも眺察注が宋均詮を引いているの

にそのまま従がったのであろう。

(74)

たとえば

『史記索隠』にはいう。

「寿昭云'塩'婦人長老之稀'皇

甫認云'姐蓋姓王氏、又接春秋捷成固以徳執嘉

(大公)妻含始遊洛

池ー生劉季'詩含紳霧亦云--」(SHI8,3)0-わしくは徐宗元輯

『覇王世紀輯存』

(1九六四年、中華雷局)を参照。

(75)

国柄の著作として'隔志は

「陳留者馨俸二巻'漢議郎圏稀撰」

(皮

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(76

)

79 7877(80)

部維俸類)'

「陳留風俗博二巻'固稀撰」(史部地理察)を著録する。

なお顔師古は

『匡謬正俗』巻八においてつぎのようにのべている。

「陳留風俗停自序云、圏公之後、圏公馬秦博士'避地南山'漠租碍

之不就、意太子即位'以固公為司徒、自国公重科'俸世十

lt案班

書速四胎'但有園公'非圏公也'公営秦之時'避地而入商洛深山、

則不馬博士明臭へ文藻初不置司徒、安得以園公為之乎'且呼恵帝寓

意太子'無意義、孟撃

(圏稀之字)之諜'賓薦都野'近代草莱末畢

之人、多吉日撰家譜'塵置昭穆'墓碑爵位'至有云黄帝時馬御史大

夫、周五三時馬丞相'漠光武時鳥相州刺史'不知本末、韓相証輝'

皆此類也、又云'呂伯'成真之時'兄弟三人並番丞相、案班書紀停

及百官表'成京之時'無丞相姓呂者、而云兄弟三人馬之'何所取哉'

斯謬甚多'難以具馨」。

『史記』陳丞相世家の集解は'

「桓諜新論」としてこの話を引いた

うえ'つぎの案語をそえている。

「按漢書音義鷹勧説此事'大旨輿

桓論略同、不知是鷹全取桓論う或別有所聞乎'今観桓論'似本無

謀」(SH.56,)4)O

とりわけ重文志の注において。

四部叢刊本では巻二。

この言葉、火院布のことをかたる

『捜紳記』巻

一三

(二〇巻本)に

「(疏)文帝以馬火性酷烈'無含生之気、著之典論、明其不然之事'

絶智者之聴」とみえている。また

『三国志』親書三少帝紀帝王芳紀

(4,)18)にも引かれている。

小南一郎「「西京薙記」の俸承者たち」(日本中閲学舎報二四)参照。

菖玄から嘉洪に侍わった道教、すなわち蔦氏道、

「その後雷たちと

関係を持ちつつ六朝期に江南で編纂されたと考えるのが'現在のと

ころ最も可能性のある結論ではなかろうか」と推測している。

諸本は

「互脅」に作っているが'慶元本漢書

(一九七七年、朋友書

店影印)によって

「附合」と改ためる。

『世訣新語』徳行篇注引育安帝紀にいう。

「陰之既有至性、加以廉

『漢

書』注

潔'俸薩頒九族、冬月無被、桓玄欲革嶺南之散'以馬鹿州刺史'義

州二十里有真水'世博飲之者其心無厭う隆之乃至水上、酌而飲之、

田賦詩日へ石門有黄泉'

1赦重千金、試使夷奔飲'終嘗不易心」.

(83)

ただしこれは跳察にさきだって

『史記集解』にも引かれている。李

斯列俸

「始皇有二十飴子、長子扶蘇以教直諌上、上使監兵上郡'慕

情馬洛'少子胡亥愛'講従p上許之'飴子莫従

(集解'播士隠姓名

造秦賂軍章耶書目'李斯馬秦王死、贋十七兄而立今王也'然別二壁

是秦始皇第十八子、此書在善文中)」(SH.87,)5).

『善文』とは'

障志集部組実額に著録される

「善文

五十巻、杜預撰」であろう。

(84

)

李延寿は顔師古を支持して'

『南史』弊本紀上の論質につぎのよう

にのべている。

「嫁資梁紀録、並云出自斎何'叉編御史大夫望之以

徳先祖之次、案何及望之於漠'供薦勅徳'而望之本俸不有此陳、rp:

典所書、便乗箕録'近藤書監顔師古博考経籍、注解漢書'己正英非、

今随而改削云」

(4,)27)0

(85

)

『南辞書』文撃質淵俸

(52,906-7)'『南史』王倍濡侍

(59,146)

-2)等を参照。

(

86)

注(75)に引いた

『匡謬正俗』をも参照のこと。

(

87)

『全唐詩』が収める顔師古の詩が

「奉和正日臨朝」

(撃

一)のわず

一首のみであるのも理由のないことではあるまい。

(88)

『匡謬正俗』巻五

「諸子顕辞書云、太祖在准修理城、得

一錫鉄、大

数尺、扶下有姦文'莫能識者、絶倫虞日、何須排此文字、此自久逮

之物'九錫之敬う太祖日'卿勿妄言'而顧野王撰符瑞固、抜子爵斉

書録此

1候、錫鉄謂錫決、亦具養子顕書語'但易扶字馬決字'乃書

作決形'案此決着、謂着筆襲之鉄'今之鐘鼓格下並有之耳'故其大

数尺而有裳文、安有論決大小、直云教尺、薦道贋狭、為孝養細乎、

文政之鎧状若年環'以何盛上'以何馬下'而云下有寡字'此之疎謬'

不近人情、野王之於子琴

年戟近接'非番速急'且叉鉄之典故、形

用不同'若別遁偽書'容有異説、茄氏乗戻、則失不在顧臭、豊吉本

乎」。

l七

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(89

)

(

90

)

拙稿

「顔之推小論」(東洋史研究二〇-四)参照。

『蓄唐書』本俸

「隔仁毒中、為蘭書左丞李綱所薦'授安義尉'尚書

左僕射楊素見師青年錫貌京'困謂日'安陽劇隊、何以克曽'師古日、

割鶴蔦用牛刀'素奇其封へ到官果以幹理聞」。

李綱の博記は

『菖唐

書』巻六二'

『新唐書』巻九九にある。観州篠のひと。租父は北魂

の清河太守'父は北周の串騎大将軍、李綱も北周管玉意の幕府の参

軍に起家している。

(91

)

たとえば外戚孝武釣Y趨倖仔停

「拳夫人進寅陣仔、居釣y宮

入師台

目、黄固、釣4}官在城外'漠武故事日'在直門南也)」

(HP.97A,

)6b)Q

『漠武故事』が班固撰とされるのほおそら-慣託であって'

公武などは唐の張克之のT洞冥記書後」を引いて南帝の王倹撰と

しているが'それはともか-

『西京雑記』がしりぞけられるのなら'

これもしりぞけらるべき小説であった。小南氏は前掲論文において、

『西京雄記』と

『漠武故事』はがんらい一つの書物であったかも知

れないと推測している。また地理志

「南海郡--龍川

へ師古日へ襲

氏虞州記云'本博羅旅之東郷也'有龍穿地而出'郎穴流泉、困以為

栗)」(HP.28B2.2b).

これなども地理志序注の顔師古の言葉と

矛盾するこ

にな

(92)

賓例をい-つかあげてお-0

薩柴志

「今叔孫適所撰鰻儀'興律令同線'戚於埋官

へ師古日'

古書懐蔵之字'本皆作城'漢書例烏城耳'埋宮部法官也)」(HP.

22,7a).

㈲刑

「故日'善師者不陳

へ師古日'戦陣之義'本田陳列偽名'

而音襲耳'字則作陳'更無別鰻、而末代聾者軌改英字穿従車、罪

経史之本文也、今宜依古'不従流俗也)」(HP.23,7b~8a)0

韓安国停

「上目'首為馬邑事者

(王)恢'放

天下

兵数十寓'

従其言為此'且縦軍手不可得'恢所部撃、猶頗可得以尉士大夫心

(師古日'或普得其輔重人家也'古尉安之字正如此'其後流俗乃

加心耳)」(HP152,20b)Oまた田千秋俸

「初千秋姶現車'見上達

一八

年治太子款'訣罰尤多'群下恐憾'思欲寛鹿上意'尉安衆庶

(節

昔日'尉宏之字'本無心也'是以漢書往往存古鮭字蔦)」

(HP.

66,5b).

(93

)

六経

であるとは'顔氏のひとたちに共通した認識であった.

顔之推しか-。

『顔氏家訓』風操篇

「吾瓢鐙経へ聖人之敦、箕帝七

箸、咳唾唯諾う執燭沃盟、皆有節文'亦鵠至臭'但既残映'非復全

書、共有所不戟及世事弊政老七草達君子、自薦節度、相承行之、故

世親士大夫凧操」()4b)。また顔虞卿しかり。

『顔魯公集』巻

1廟

享議

「・・-・臣伏以三議'供未為允'但薩経残映'既無明嬢、儒者能

比方義数'尉酌其中'則可馨而行之へ蓋叶於正也」.

(94)

『論語』孔安国注にはまさし-

「魯哀公時、縫製柴崩、楽人皆去」

という。

(95)

い-つか賓例を拾ってみよう。

劉向博

「李梅冬寮'七月霜降、草木不死

へ師古日'倍三十三午

経書冬隈霜不殺草'李梅賓、未知在何月也'而此言李梅冬賓'又

云七月霜降'草木不死、輿今春秋不同へ未見義所出)」

(HP.up

t2a~b)O

物質山停「詩日、匪言不能、胡此畏忌、#1言則封、琴言則退、此

之謂也

八郎青日'此大雅桑柔之篇也、言質者見事之是非、非不鰭

分別言之、而不言者何也、此但畏忌犯顔得罪罰也、文言言而見聴

則悉意答封'不見信受則罪過也、今詩本云'聴言別封'諭言如酔'

説老叉別為義'輿此不同)」(HP.5),6a)0

杜欽博

「昔周公雄老、猶在京師、明不離成周'示不忘王室也、

仲山甫異姓之臣'無親於宣、就封於哲

八部展日、詩言仲山甫損再

審'言街命往治斉城郭也、而韓詩以馬封於賛、此誤耳'育灼日'

韓詩誤而欽引之.阿附権貴'求容婚也、師古日、韓詩既

有明文'

而欽引以馬喰'則是其義非躍、而輿今説詩者不同'都督諸人雄日

渉撃、未得専非杜氏'追替韓詩也)へ

猶欺息永懐'宿夜俳掴'不

忍遠去」(HP.60,13a)o

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(96

)

茎数俸

「・・・-臣願陛下徒再話田楚昭屈景燕趨韓銃後'及豪傑名家へ

且賓閲中'無事可以備胡'諸侯有奨'亦足率以東伐'此直本弱末之

術也、上目'善'乃使劉敬役所言開中十除寓ロ

へ師青白'今高陵棟

陽諸田'華陰好暗語景、及三輔諸屈諸懐薗多、皆此時所徒)」(HP.

43,)3b)Oまた

『急就篇』巻

l「景君明」の注にもつぎのようにい

うO「景氏'楚之同族'本等姓也'漠高組用婁敏之計、徒哲楚大族

入関、景氏亦遷名教、今之好時鄭牒華陰諸景是也・・・-」O

(97

)

司馬相如俸

「相和日、叩窄内旋老近萄'道易通

(師古日'今豪州開

州等首領姓病者皆蓄酋種也・・・・・・)」(HP.57B,3b)oまた西南薫侍

「自軍以東北'君長以十救う内臓最大八軒古日'今豪州開州首領多

姓宵者、本皆再種也・・・-)」(HP.95,Lb)O

(98

)

甘延毒停

「投石抜距、絶於等倫

(師台目

--抜距老'有人連坐'

相把据地'据以為撃'而能抜取之'皆言共有手撃之力'超政事模'

文言其橿捷耳'非抜距也、今人準言抜爪之戯'蓋扶距之遺法」(HP.

70,4b)o

(99

)

『急就

』注序において顔師古みずからつぎのようにのべる。

「師

古家停蒼雅'磨綜流略'尤精訓故'待問質疑'事非稽考、不妄談説'

必則古昔へ伝而有徴、先

(思魯)嘗欲注揮急就、以胎後畢'雅志

未申'芙天不弔'奉遷遺範'永慎同棲'蓄得皇象鐘額衛夫人王義之

等所書篇文、備加詳薮'足以審定'凡三十二章'究其良案、又見崖

浩及劉芳所注'人心不同'未云善也、蓬田暇日'馬之解訓-・・・」。

(

1-0)

南朝における古器'古物にたいする興味がどのようなものであった

か、あらましをつぎの教例についてみられたい。

「承天樽見古今、

1時所重、撃氷嘗開玄武湖'遇古家、家上得

1銅斗有柄'文帝以

訪朝士、承天日、此亡新威斗'王弄三公亡皆賜之、

1在家外へ

l在

家内'時三台居江左者、唯甑耶馬大司徒'必耶之墓'俄而永又啓秦

内更得

l斗'復有

1石'銘大司徒戟耶之墓」(南史何承天俸33,870)。

「以責陵王子艮得古器'小口方腹而底平'可容七八升'以間澄、澄

日へ此名服匿'峯子以輿蘇武'子良後詳税器底、有字努究可諭、如

泣所言」

(南斉書陸澄俸

39,685)。

「時魂人献古器'有陰起字'

無能識者、蘇葉文義之'無有滞擬、考校年月t

l字不差、高租甚嘉

蔦」(梁書劉額俸

40,57)).「嘗於

(汰)約坐、語及宗廟犠樽'約

云、鄭玄答張逸'謂爵墓鳳皇尾婆裟然、今無復此券'則不依古'沓

日'此言未必可按'古老樽葬、皆刻木馬鳥獣、茎頂及背、以出内酒'

頃貌世魯郡地中得管大夫子尾迭女器、有犠樽作戦牛形、晋永嘉賊管

鼻於青州護管景公家'叉得此二樽'形亦薦牛象'二虞皆

之遣器'

知非虚也'約大以為然」(同文撃劉香侍

50,715)0

(1-1)

注(51)を見よ。

『漢

書』注

一九