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The Extension Course of the Beatles Part 5 Hamburg In the 1960s 僕らを育ててくれたのはリバプールじゃなくてハンブルグだ John Lennon Instructor : Toshinobu Fukuya (Yamaguchi University) The 2nd Session : The Beatles and Hamburg 10/3 2008 1
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The Extension Course of the Beatles Part 5The Extension Course of the Beatles Part 5 Hamburg In the 1960s 僕らを育ててくれたのはリバプールじゃなくてハンブルグだ

Aug 17, 2020

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The Extension Course of the

Beatles Part 5

Hamburg

In the 1960s

僕らを育ててくれたのはリバプールじゃなくてハンブルグだ

John Lennon

Instructor : Toshinobu Fukuya

(Yamaguchi University)

The 2nd Session : The Beatles and Hamburg

10/3 2008

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現在のハンブルグ

ロンドンから飛行機でアムステルダムに行き、そこから高速バスでハンブルグに入った。

1960年のビートルズは、イギリスのハリッジ港から車とともに船に乗り、オランダの港につい

ている。そこからは、高速道路がなかった時代なので一般道路を走り、かなりの時間をかけて

ハンブルグ入りしたはずである。

ビートルズのバンがフェリーに積みこまれるところ(ハリッジ港)

ハンブルグ市は、ブレーメン市とともに、中世よりハンザ同盟の中心的役割を果たしてきた

自由都市の一つであり、それは現在でも変わらない。正式には、自由ハンザ都市ハンブルグ

(Freie und Hansestadt Hamburg)である。ドイツ語では”g”は濁らないため、正確には「ハンブ

ルク」であり、低ザクセン語で「ハンブルッヒ」と発音する人もいる。街の語源は、古ドイツ語の

「湾の城」(Ham =湾、Burg = 城) に由来する。

エルベ川の支流・アルスター川の河口にある港湾商業都市で、ハンブルグ港は、ドック数

60、岸壁総延長37km、世界各地の約1100の港と定期航路260路線で結ばれている。港

湾の一部は、関税上の自由港である。ドイツ第一の港であり、そこには、大小約500の海運

関係の企業がある。ビートルズがイギリス風の食事をとりたくてよく出入りした英国海員協会

は、今も存在している。

ハンブルグ港

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また、鉄道と高速道路網によって、中央ヨーロッパの諸都市と結ばれ、ドイツ最大の物流

拠点となっている。鉄道、地下鉄の中心はハンブルグ中央駅で、周辺にはテレビ塔、国際会

議場、見本市会場などが点在する。成人年齢に達してないゆえに強制送還されたジョージが

一人で列車に乗ったり、二度目のハンブルグ巡業に訪れたビートルズが列車を降りたのがこ

近年のハン

の駅である。

ブルグは、産業構造の変化にともない、医療産業、バイオ産業、航空産業など

で、なかでも「シュピーゲル」、「シュテルン」などの週刊誌は、

それらを

イトクラブが肩を並べるレーパーバーンは、歓楽街として有名であり、加えて、ビート

ハンブルグ中央駅

技術集約産業の誘致に熱心で、日本の大手電機メーカーをはじめ、多くの国際企業が拠点

を置いている。また、モンブラン(万年筆メーカー)や日本名二ベア花王で知られるバイヤーズ

ドルフの本拠地でもある。ドイツ北部における経済の中心地である。現在、大型クルーズ船の

桟橋や文化・商業・居住機能をもつ臨港地域「ハーフェンシティ」の開発計画が進行中で、あ

ちらこちらが工事中のようだ。

放送、出版業界はドイツ有数

ドイツ全土ばかりか世界的にも知られている。オペラハウスもあり、北ドイツ放送交響楽団の

本拠地である。作曲家のフェリックス・メンデルスゾーン、ヨハネス・ブラームスは、この街で生

まれこの街からその名を世界に轟かせた。ハンブルグは、文化の中心地でもある。

現在の人口は170万人。市域は、アルスター川東岸の旧市街と西岸の新市街、

取り巻く地域からなる。市街は数多くの運河が流れている。街の景観の特色の一つが運河に

かかる橋で、アムステルダムとヴェネツィアをあわせたよりも多くの橋がある。

運河とボート

ルズがライブ演奏の腕を磨いた街としても有名。レーパーバーンは、新宿の歌舞伎町をも

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っと広くしたような通りである。世界中の怪しい絵画や写真を集めたエロティック・アート・ミ

ュジアムというのもある。レーパーバーンからグロッセ・フライハイトという通りに入ると、ビ

ートルズがライブ活動の拠点としたカイザーケラーがあり、現在もライブ・ハウスとして賑わ

っている。雰囲気はビートルズの頃より健全になっていて、観光客を乗せたバスがとまって、

ガイドがクラブについて説明していた。1962年にビートルズが出演したスター・クラブは、

取り壊されてカフェになっていた。

レーパーバーンから歩いてすぐのところに、ハイリンゲンガイストフェルトという広場が

ある。ただの野原だが、楽器を手にした5人のビートルズを、ドイツ人女性写真家のアスト

リッド・キルヒヘアが写真に撮ったところである。

リヴァプールと同じく、ハン ブルガーSV が有名で、ブ

ンデスリーガ所属。もう一つ ルリーガに所属している。サポ

2006年にドイツ全域で開催された

ブルグもサッカーが盛んである。ハン

は FC ザンクトパウリで、レギオナ

ーターの層は、ザンクトパウリのほうが庶民的かつ熱狂的でやや危険である。ハンブルグは、

FIFA ワールドカップの開催都市のひとつである。

昼間は閑散としたグロッセ・フライハイト(左)も夜になると賑わいを見せる(右)

広場での写真

ハンブルガーSV でプレイする高原選手

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ハンブルグの歴史

世紀にはすでに、港湾都市として存在しており、バイキングの襲撃を受け

ルグは、関税特権、経済特権を獲得したことで、交易都市

としての発展が進み、1241年にリ にブレーメンと防衛同盟を結んでい

る。これらの同盟は、やがてハンザ につながっていった。ドイツの各主要交易都

市を加えた利権防衛同盟であるハ 、ハンブルグを豊かにし、ドイツ有数の経済都

市に発展させた。

1529年にはマルティン・ルタ れ、カトリックの街からプロテスタ

ントの街へと宗教的変容 商関係を結んだことで、貿易船

を建造する造船業が発達した。

1810年 、ハンブルグの商業は大打撃

こうむるが、ナポレオン没落後の18 を歩む契機を作

た。1871年のドイツ帝国成立の 洲にも属さず独立を維持した。

れゆえ王侯貴族の支配なき自由 され、それがハンブルグ市民の

りでもある。

ハンブルグは、6

るほど豊かな街であった。デーン人やスラブ人の襲撃にも耐え、1189年には、神聖ローマ帝

国のフリードリッヒ1世から船舶航行の特許状を受ける。この特許状は、商業貿易上の特権を

与えるものであった。さらにハンブ

ューベックと、1249年

同盟の成立

ンザ同盟は

ーによる宗教改革を受け入

を遂げる。18世紀には、アメリカと通

には、ナポレオン1世の軍隊に占拠される。この間

15年には自由都市となり、再興の道

際にも、ハンブルグはどの

都市としての気風が形成

マルティン・ルター

ナポレオン

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第二次大戦でドイツは 盟を結び連合国軍と戦った。連合国軍の破

壊的空襲を受け、1 。それゆえハンブルグは、ドイ

ツでは古い建物が比較的少ない都 、ドイツ連邦共和国に復帰し、復

興、繁栄に道を歩んでいる。ビー ごした1960年代初頭は、その街

が復興期を脱し、繁栄期に突 時であった。凋落の一途を辿って

いたリヴァプールとは対照的であった。

ハンブルグは、リヴァプールと同じ港湾商業都市であり、サッカーが盛んであったりして共

イツの政治経済・文化の中心的役割

特徴を持たないリヴァプールと

線を画する点である。実際、ビートルズのメンバーは、リヴァプールでは不可能であった文

ビートルズのハンブルグ遠征の背景

は、いまだプロ

に比べ、ロンドンのグループは、演奏力には問題がなくても、タフではなかったので、

イルドなハンブルグのオーディエンスにしり込みするケースが多かったという。さらに、リヴ

プールのグループは、ロンドンのグループよりも遥かにギャラが安かった。

ビートルズがハンブルグ入りする前、リンゴが在籍したローリー・ストーム&ハリケーンズ

トニー・シェルダンといったアーティストが、ハンブルグのライブ・シーンを大いに活気づけて

た。彼らの活躍と実績があったからこそ、ビートルズのハンブルグ行きが可能になったとも

える。

日本、イタリアと三国同

945年にはイギリス軍に占拠されてしまう

市である。1949年には

トルズがハンブルグで過

入したばかりの活気に満ちた

日本との軍事同盟に関する調印式

通点が多い。しかし、決定的な違いは、ハンブルグがド

を常に担ってきたことである。そこが、産業以外にこれといった

化的交流を、ハンブルグの若者たちとの間で持った。そして、それがその後のビートルズの音

楽活動に大きな影響を与えることとなる。

1960年代、ハンブルグのレーパーバーンには多くのライブ・ハウスがあり、初めのうちは

ドイツのバンドを使っていた。しかし、ドイツのロックンロール・グループの多く

のレヴェルには達していなかった。そこで、同じ港町で、気性の荒い港湾労働者の扱いにな

れ、演奏力も安定しているリヴァプールのグループが重宝がられるようになっていく。リヴァプ

ールには、後に「マージー・サウンド」と呼ばれるミュージック・シーンが出来上がっていたので

ある。それ

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ハンブルグ遠征の仕掛け人

NEMS・レコー

むエイジェントもどきの仕事を

していた。ビートルズは彼に仕事の斡旋を依頼していたが、アランは特別彼らに興味を持って

いた 見つからず、

アラン 彼の小さ 自分で運転してビ

ートルズ ーという二つ

トニー・シェリダン(左)と

ローリー・ストーム&ハリケーンズ(右)

ジョンが作ったスキッフル・グループ、クォーリーメンのステージに、ポールとジョージが興

味を持ち、いつからともなく、3人は一緒に演奏するようになり、ビートルズと名前を変えた。リ

ヴァプール周辺、あるいはスコットランド・ツアーにでたりもしたが、いまひとつ納得のいく活動

ではなかった。

ビートルズは、後のマネージャーになるブライアン・エプスタインが経営する

ド店で女店員をからかいながら、ヒット曲をきいたり、カフェで一杯のコーヒーで長時間ねばっ

たりして、いたずらに時をやり過ごしていた。そんなカフェに一つ、ジャカランダの店主アラン・

ウイリアムスは、ハンブルグにリヴァプールのグループを送り込

わけではなかった。しかしあるとき、ハン

以前から仕事を懇願していたビートルズに、チャンスを与えてみようと思った。

は、ビートルズのメンバーと機材を

をハンブルグに連れて行った。紹介先は

のライブ・ハウスのオーナー、ブルーノ・コシュミダーであった。

ブルグへ送り込むいいグループが

なバンに詰め込んで、

、インドラ・クラブ、カイザーケラ

アラン(左)とブルーノ(上)

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ビートルズのプロとしての最初のギグは、こうしたやや胡散臭いプロモーターたちの仕掛

けによって、踏み出されたのであった。そこでの労働条件は、毎日5~8時間にも及ぶもので

あったが、ビートルズは根をあげず、徐々にファン層を拡大していった。最初は港湾労働者ば

かりであった客席に、日ごとにアートスクールの学生たちの姿が目立つようになった。

そんななかに、クラウス・ボアマンというアルバム・ジャケツトなどのイラストを手がけるアー

ティストがいた。彼 真家アストリッド・キ

ルヒヘアをカイザーケラ らのような中 流階層が労働者階層の

地区レーパーバーンに足を踏み入れることは、常識的にはあり得なかった。ビートルズの演

n)というかたちで、既存

ドイツ実存主義との出会い

スやアストリッドのような若い世代に支持者が多かった。

彼らの主張する「実存」とは、人間の本来的なあり方を主体的な実存に求めるという意味

であり、主体的であるためには自由の獲得が不可欠であった。資本主義という客観的世界か

ら自己を引き離し、人間の本能的な要求に根ざした主観的世界に生きようとするものである。

その思想的な源泉は、ドイツのニーチェに辿ることができ、その継承をハイデッガーやサルト

ルの哲学にみることができる。

は、ビートルズの感性に魅了

ーに誘った。彼

奏が荒々しくも如何わしい歓楽街に地位下降現象(C

の価値観や伝統を覆すポストモダニズム(Postmodernism)を誘導したと言える。

され、ガールフレンドの写

産階層もしくは上

lass Degradatio

クラウス(左)とアストリッド(右)

ビートルズはクラウスとアストリッドにワイルドなロックンロールを伝えたが、二人はビート

ルズにドイツ実存主義(existentialism)の精神を注ぎ込んだ。実存主義は、1920年代に、ま

ずドイツで、ついでフランスで、そして1940年代以降には、広くヨーロッパのブルジョワ的イン

テリゲンチャに影響を与えた。哲学的見解としてだけでなく、その思想は文学、美術などの領

域にも及んでいる。資本主義の全般的危機が中産階層の心理に及ぼした混迷の表現と言え

る。特に芸術の世界では、クラウ

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サルトルと彼に関する研究書の画像

映画『バックビート』

1994年に封切られた映画『バックビート』は、ハンブルグ時代のビートルズの生活をほ

ぼ完璧に描きとった佳作である。ジョンのアートスクール時代の親友は、画家としての将来を

約束されたスチュワート・サトクリフであった。一方ジョンは、後にイラスト集が発行されたりし

たが、学校きっての問題児で、成績も常に最下位に君臨していた。

ジョンは、スチュアートの感性こそロックンロールには欠かせないと信じ、ろくに楽器も弾け

なかったスチュアートをベーシストに迎える。音楽的な完璧さを求めるポールは、最後までス

チュアートの存在を認めなかった。

映画では、ビートルズの長時間に及ぶライブの過酷さや、そんななかでも夢をあきらめず

必死にレコード・デビューを企てる一途な想いが、ハンブルグのバックストリートを舞台に鮮や

かに映し出されている。しかし、映画の主題は、あくまでスチュアートとアストリッドの恋愛であ

る。彼らを結びつけた要素は、国境、社会階層、言葉といった壁をすべて越えてしまえる主体

の実存であった。この意味において、映画『バックビート』は、ビートルズのアイルランド的成功

欲とドイツ実存主義がストーリの基調に流れる珠玉の作品だと言える。

スチュアートとアストリッド(左)と映画からの1カット(右)

ハンブルクの収穫

ビートルズは、ハンブルグで多くのものを得た。まず彼らは、レコード・デビューを果たした。

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当時リヴァプール出身でハンブルグに活動の基点を置くアーティストのトップ・ランナーであっ

たトニー・シェルダンのバックアップ・グループとして、ビートルズは溌剌としたサウンドを作り

出している。このレコーディングで得た自信は、ライブで鍛えられた演奏力とともに、その後の

ビートルズのミュージシャン・シップに大きな影響を与え続けることとなる。

ちなみに、そのときレコーディングされたトニー・シェルダンとビートルズの「マイ・ボニー」は、

日本でも発売され、スマッシュ・ヒットとなった。さらに言えば、彼らのマネージャーになるブラ

イアン・エプスタインがビートルズの名前をはじめて聞いたのも、彼が経営するレコード店に、

一人の男の子が「リヴァプール出身のビートルズのマイ・ボニーはある?」とたずねたときであ

った。その男の子の興奮ぶりと熱心さに突き動かされて、ブライアンは、自分の店をワン・ブロ

ック下った角を曲がったところにあるキャバーン・クラブに足を運んだのであった。

「マイ・ボニー」のシングル・ジャケット 日本版のジャケット

彼らがハンブルグでロックンローラーとしての資質を鍛え上げたことは、ハンブルグ時代の

ドラマー、ピート・ベストの次の言葉に端的に要約されている。「僕らは、以前、おとなしくてか

弱いグループだった。でも今や、最強のグループになったんだ」と彼は言っている。ここでピー

トが使った比喩的表現の「発電所」(powerhouse)は、単に演奏力が高いグループのことでは

なくて、どんなに過酷な状況にあっても、お客をグループの演奏にひきつける演出力をも兼ね

備えたグループを指している。

例えば、ビートルズのライブは、ストリップ・ショウとのカップリングであり、大半の客の目的

はストリップであった。そんな客の目をグループに向けるために、ビートルズはオーナーのコ

シュミダーのドイツ語「マック・シャウ」(Make Show!)の号令のもと、できることなら何でもした。

足を踏み鳴らしたり、あえて観客を罵る言葉を吐いたりは朝飯前で、便器の蓋を首からかけ

て演奏したこともあった。そんなタフなグループに生まれ変わったビートルズを、ピートは「最

強のグループ」と呼んだのである。

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ハンブルグでのステージ

ビートルズがハンブルグから得たものは、音楽的要素だけではなかった。ビートルズをロッ

クンロール・グループからロック・グループに成長させる芸術的素地を、ハンブルグで培った。

そのコアな部分はアストリッドとクラウスが持ち込んだドイツ実存主義思想であった。

ビートルズを単なるロックンロール・グループから芸術性を身に纏ったロック・グループに

変えたのは、ボブ・ディランとの出会いであった。そのことはもはや定説となっていて、疑問を

挟む余地はない。しかし、ビートルズがハンブルグ時代に実存主義の洗礼を受けていなかっ

たら、ディランの「もっと自分たちのメッセージを持て」という言葉を、「きちんとした主体性を持

て」という意味として受け取れていたかは疑わしい。

ハンブルグでの「エグジス」(エグジステンシャリストの略称)たちとの交流は、ビートルズに

人間としての実存を、ひいてはビートルズとしての実存を意識させていたはずである。それを

証明するかのように、ビートルズは、髪型をリーゼントからエグジス風のモップトップ・スタイル

に変えて、リヴァプールに凱旋帰国したのであった。スチュアートの髪をアストリッドがカットし、

最初は嘲笑した他のメンバーも、一人一人とアストリッドに髪を切ってくれと頼んでいったので

あった。ビートルズは、ヘアスタイルという観点にたてば、すでに1960年代半ばのヒッピーた

ちによる意識革命を先取りしていたとも言える。

「俺たちを育ててくれたのはリヴァプールじゃなくて、ハンブルグなんだ」というジョンの言葉

には、ハンブルグへの愛情と感謝が凝縮されている。ソロになってからのアルバム『ロックン

ロール』のジャケットは、ハンブルグの街角でアストリッドが撮影したものである。

アルバム・ジャケットに使用された写真

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Works Cited

Dylan, Bob. Chronicles. New York: Simon & Schuster, Inc., 2004.

Posener, Alan. The Beatles Story. Tokyo: Macmillan Language House Ltd., 1987.

Taylor, Derek. The Beatles Anthology. London: Apple Corps Ltd., 2000.

References

Davies, Hunter. The Quarrymen: the Skiffle Group that Started the Beatles.

Heidegger, Martin. Nietzsche: Power as Knowledge and as Metaphysics. New York:

Harper., 1991.

Sheridan, Tony. 'My Bonnie' Hamburg: Polydor Records, 1962.

Softley, Ian. Back Beat. London: Della Co., 1994.