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-1- 和国建国の始祖王 須佐之男尊 ▲ 素戔嗚尊(須佐之男尊)肖像画 ( 総本社津島神社蔵 愛知県津島市神明町) 大同五(810 )年正月、嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。 故に日本の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉られた。また、一条天 皇(寛和二(986 )~長元九( 1036 )年)は津島神社に天王社の号を贈られた。 第三章 和国建国の始祖王/ 須佐之男尊 すさのおのみこと
42

Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

Jun 04, 2018

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Page 1: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 1 -

第三章日本列島に初めて和国を建国した須佐之男尊

平成二十七年九月二十九日追加編集

わのくに

すさのおのみこと

和国建国の始祖王

須佐之男尊

素戔嗚尊(須佐之男尊)肖像画 (総本社津島神社蔵 愛知県津島市神明町)

大同五(810)年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なりさ が

故に日本の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉られたまた一条天

皇(寛和二(986)~長元九(1036)年)は津島神社に天王社の号を贈られた

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 2 -

【要約】

須佐之男尊(

以下スサノオと略記)

は日本列島に初

すさのおのみこと

めて国らしき国和国を建国した始祖王だった

わのくに

しかし[古事記][

日本書紀](

以下[

記紀]

と略記し[

本書紀]

を[

紀][古事記]

を[

記]

と略記する)

はスサノオの

偉業や史実を抹殺し神話の絵空事で誤魔化し暴れ神に

えそらごと

してしまった

[

記紀]

が編纂されたのは八世紀六世紀にはすでに仏

教が百済を通じて日本に布教し始め弥生の古代からス

サノオの末裔物部氏が奉じていた古神道が蘇我氏との

もののべ

宗教抗争で敗退した[

記紀]

とする

その上乙巳の変(

年)

で蘇我善徳大王の飛鳥朝廷を

いつし

645

乗っ取った百済武王の子翹岐(

日本名中大兄)の娘鸕野

くだらぶおう

ぎようぎ

なかのおうえ

讃良(

持統女帝)

と朝廷の権力者藤原不比等(

百済の大臣智

さんら

ふじわらのふひ

積=[

書紀]

名鎌足の次男)

のもとで史実を歪曲した[

しやく

かまたり

紀]

が編纂された

[

記紀]

の編者等はスサノオの日向妻だった向津姫(

大日

むかつひめおおひ

霊女貴尊)

を皇祖神に差し替えたそして和国建国の始祖

めむち

王スサノオや皇祖天照御魂神として祀られていた大和国

あまてらすみたまのかみ

建国の覇王

大歳(

改名饒速日)

尊(

以下ニギハヤヒ)

の史実

はおうおおとし

にぎはやひ

を徹底的に消し去った

国民は政争勝者の書いた[

記紀]

をもとに日本の歴史を

教えられそれを疑いもなく信じてきたしかし史実は

意外なところに隠されていた

スサノオは

年頃に出雲沼田の郷士布都命の子とし

BC188

て生まれた歳頃出雲木次の製鉄豪族の遠呂智を倒

19

し手込めにされていた櫛稲田姫を助けて娶り須賀の地

くしな

だひめ

めと

に館を構えた[

記紀]

は八岐大蛇と書き大蛇に擬した

たのおろち

住民に稲作や製銅製鉄鍛冶技術を教え銅製農具

で住民生活が潤ったその技量と人柄を見込まれて須佐王

すさのおう

と呼ばれ歳頃には出雲国王に推された

29

スサノオは毎年出雲隠岐の族長を集めて技術指導

を軸に統治し合議制で出雲国を統治したいわば民主

政治の芽生えであった[

出雲國風土記]

は「神須佐乃乎

かむすさのお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 3 -

命は仁慈の名君だった」と称えている

じんじ

田畑を荒らす鳥獣を防ぐために初めて弓を創作し火

をおこす鑽火器も考案した資源や最新技術を確保すべ

きりび

く次男五十猛命を連れて朝鮮半島にも渡り優れた稲籾

いたける

いねもみ

をはじめ各種の木種造船等の技術を手に入れて普及さ

せ農耕漁業を振興出雲の住民生活は大きく向上し

潤った

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を新技

術や資源を梃子に説き伏せ大同団結を呼びかけた越

こし

加賀能登長門筑前豊前から日向にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

ひうが

北陸山陰中四国九州各地の小部族国を連合させ和わ

国を創建した和国王スサノオは「和」を治世の基本戦

くに略

とした

スサノオ尊の建国した和国はまだ中央集権国家でな

く豪族の合議連合体だった中国の史書は後に「倭人」

わじん

「倭国」と書いた

わこく

南九州では日向に連合を呼びかけたとき伊弉諾尊(

ざなぎ

ザナギ)

の娘

向津姫([

記紀]

の天照大神)

を現地妻として娶

むかつひめ

めと

り豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いたそして各

地に御子

八島野尊五十猛尊大歳尊末娘の婿大穴牟

やしまぬ

いたける

おおとし

おおな

遲命や部下を配置して統治させた

治世がほぼ安定したのを見定めて大歳尊に河内大和

おおとし

かわち

やまと

に東遷して以東の国々を統合するよう命じ故郷出雲に

帰って亡くなられたときに歳

年頃とみられる

65

BC124

スサノオの御陵は出雲國八雲村大字熊野(

松江市八雲町

熊野)

にある元出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とみら

れ「神祖熊野大神櫛御気野尊」の諡号で祀られている

かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと

しごう

神のなかの祖神である

おやがみ

大同五(

)

年正月嵯峨天皇は「須佐之男尊は即ち皇

すさのおのみこと

810

国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり」とし

あが

てスサノオ尊を祀る津島神社(

愛知県津島市)

に「日本

総社」の号を奉られまた一条天皇は同社に「天王社」

の号を贈られた

当時の天皇は[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ

みじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 4 -

の姿とは違って真相をよくご存じのうえのでの行為であ

ろう

中国の史書[

宋史日本伝]

は[

記紀]

に云う神武天皇の

六代も前にスサノオ尊(

素戔嗚尊)

を国王としてはっき

すさのお

りと記している

スサノオ尊は小諸国を統合して国造りに努めただけ

でなく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始し御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や

殖産興業を奨励し人材を適材適所に登用する優れた指

導者でもあった思えばスサノオは日本列島に初めて国

らしき国を創建した建国の始祖王だった

須佐之男尊の本名について

すさのおのみこと

[

記紀]

等に書かれている「須佐之男命」「素戔嗚尊」

の名前についてこれまで疑問を提起した論考は見当た

らない

古代史研究を本職とする学者等は一体何を考えてい

るのか不思議である

スサノオは[

記]

では速須佐之男尊須佐之男命つ

まり「須佐の男」であってこれは本名でないことは明

白である

[

書紀]

にいたってはなんと酷いことにこれを同音の

ひど

「素戔鳴尊」と書いている

「素」はソまたはスと発音し人を表す語に付けて

「平凡であるみすぼらしい」など軽蔑の意を添え「素

町人」「素浪人」などと使う「戔」は音読みでは「サ

ン」「ザン」「セン」で「きずつける」「そこなう」と

いう意味である「鳴」は鳴く(

泣く)

こと吠えること

またその声を云う16)

つまり「きずつきみすぼらしく泣く人」という意

味になる如何に侮辱した名称かがわかるそれにして

ぶじよく

も[

書紀]

の編者らはスサノオの偉業を抹殺するために

まつさつ

本名まで侮辱した名前に改竄するとは如何にも度が過

ぶじよく

かいざん

ぎている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 5 -

[出雲風土記]

は神須佐能袁命としているが「能」は

かむす

よく事をなし得る力才能能力働きまた働きのあ

る人才知のある人をさす「袁」は通常「お」と発

16)

音するが能袁で「のう」または「のお」と読ませてい

る字意からすれば「須佐の働きのある人」ということ

になり[

書紀]

よりもましな表記であるがこれも[

記紀]

の音韻をただ踏襲したものとしか思えず[

出雲國風土記]

とうしゆう

の編者の苦心がみられるが本名とは思えない

[

古事記]

は神話の「神生み」のなかで「伊耶那岐命

ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神

みかはやひ

次に樋速日神次に健御雷之男神亦の名は健布都神

ひはやひ

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神」と書いている

とよふつ

甕速日神樋速日神はともに雷火の威力を神格化し

みかはやひ

ひはやひ

たもので健御雷之男神も勇猛な男神をさし健布都神

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神の「フツ」は「布都御魂神」や「経津主

とよふつ

ふつのみたま

ふつぬし

神」と同神だという

44)

天理市布留町にある石上神宮は祭神として布都御魂

いそのかみじんぐう

ふつのみたま

大神(

スサノオの父)布都斯御魂大神(

スサノオ)

ふつしみたま

布留御魂大神(

スサノオの御子オオトシ=ニギハヤヒ)

ふるのみたま

祀られておりいずれも蒙古名だともいう

43)

[

書紀]

は「葦原中国の平定(

出雲国譲り)

にあたって幾

度も武将を派遣したがいずれも失敗した最後に經津主

ふつぬし

神甕速日神の子熯速日神熯速日神の子武甕槌神を配

みかはやひ

ひのはやひ

ひのはやひ

たけみかづち

へて云々」と書いている

經津主神はスサノオの父甕速日神はスサノオの御子

ふつぬし

みかはやひ

大歳尊(

改名して饒速日尊)武甕槌神は[

古事記]

おおとし

にぎはやひ

たけみかづち

健御雷之男神と同神でスサノオをさしていると思われ

たけみかづちのお

る大

野七三氏は武甕槌神は饒速日尊の別称だとみてい

たけみかづち

にぎはやひのみこと

51)

るが確証はない

石上神宮はいずれにしてもスサノオ一族の宗廟で

ある

[記紀]

神話の創作当時には在世している筈はないが

スサノオの建国した出雲国譲り(

乗っ取り)

には[

記紀]

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 2: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 2 -

【要約】

須佐之男尊(

以下スサノオと略記)

は日本列島に初

すさのおのみこと

めて国らしき国和国を建国した始祖王だった

わのくに

しかし[古事記][

日本書紀](

以下[

記紀]

と略記し[

本書紀]

を[

紀][古事記]

を[

記]

と略記する)

はスサノオの

偉業や史実を抹殺し神話の絵空事で誤魔化し暴れ神に

えそらごと

してしまった

[

記紀]

が編纂されたのは八世紀六世紀にはすでに仏

教が百済を通じて日本に布教し始め弥生の古代からス

サノオの末裔物部氏が奉じていた古神道が蘇我氏との

もののべ

宗教抗争で敗退した[

記紀]

とする

その上乙巳の変(

年)

で蘇我善徳大王の飛鳥朝廷を

いつし

645

乗っ取った百済武王の子翹岐(

日本名中大兄)の娘鸕野

くだらぶおう

ぎようぎ

なかのおうえ

讃良(

持統女帝)

と朝廷の権力者藤原不比等(

百済の大臣智

さんら

ふじわらのふひ

積=[

書紀]

名鎌足の次男)

のもとで史実を歪曲した[

しやく

かまたり

紀]

が編纂された

[

記紀]

の編者等はスサノオの日向妻だった向津姫(

大日

むかつひめおおひ

霊女貴尊)

を皇祖神に差し替えたそして和国建国の始祖

めむち

王スサノオや皇祖天照御魂神として祀られていた大和国

あまてらすみたまのかみ

建国の覇王

大歳(

改名饒速日)

尊(

以下ニギハヤヒ)

の史実

はおうおおとし

にぎはやひ

を徹底的に消し去った

国民は政争勝者の書いた[

記紀]

をもとに日本の歴史を

教えられそれを疑いもなく信じてきたしかし史実は

意外なところに隠されていた

スサノオは

年頃に出雲沼田の郷士布都命の子とし

BC188

て生まれた歳頃出雲木次の製鉄豪族の遠呂智を倒

19

し手込めにされていた櫛稲田姫を助けて娶り須賀の地

くしな

だひめ

めと

に館を構えた[

記紀]

は八岐大蛇と書き大蛇に擬した

たのおろち

住民に稲作や製銅製鉄鍛冶技術を教え銅製農具

で住民生活が潤ったその技量と人柄を見込まれて須佐王

すさのおう

と呼ばれ歳頃には出雲国王に推された

29

スサノオは毎年出雲隠岐の族長を集めて技術指導

を軸に統治し合議制で出雲国を統治したいわば民主

政治の芽生えであった[

出雲國風土記]

は「神須佐乃乎

かむすさのお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 3 -

命は仁慈の名君だった」と称えている

じんじ

田畑を荒らす鳥獣を防ぐために初めて弓を創作し火

をおこす鑽火器も考案した資源や最新技術を確保すべ

きりび

く次男五十猛命を連れて朝鮮半島にも渡り優れた稲籾

いたける

いねもみ

をはじめ各種の木種造船等の技術を手に入れて普及さ

せ農耕漁業を振興出雲の住民生活は大きく向上し

潤った

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を新技

術や資源を梃子に説き伏せ大同団結を呼びかけた越

こし

加賀能登長門筑前豊前から日向にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

ひうが

北陸山陰中四国九州各地の小部族国を連合させ和わ

国を創建した和国王スサノオは「和」を治世の基本戦

くに略

とした

スサノオ尊の建国した和国はまだ中央集権国家でな

く豪族の合議連合体だった中国の史書は後に「倭人」

わじん

「倭国」と書いた

わこく

南九州では日向に連合を呼びかけたとき伊弉諾尊(

ざなぎ

ザナギ)

の娘

向津姫([

記紀]

の天照大神)

を現地妻として娶

むかつひめ

めと

り豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いたそして各

地に御子

八島野尊五十猛尊大歳尊末娘の婿大穴牟

やしまぬ

いたける

おおとし

おおな

遲命や部下を配置して統治させた

治世がほぼ安定したのを見定めて大歳尊に河内大和

おおとし

かわち

やまと

に東遷して以東の国々を統合するよう命じ故郷出雲に

帰って亡くなられたときに歳

年頃とみられる

65

BC124

スサノオの御陵は出雲國八雲村大字熊野(

松江市八雲町

熊野)

にある元出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とみら

れ「神祖熊野大神櫛御気野尊」の諡号で祀られている

かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと

しごう

神のなかの祖神である

おやがみ

大同五(

)

年正月嵯峨天皇は「須佐之男尊は即ち皇

すさのおのみこと

810

国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり」とし

あが

てスサノオ尊を祀る津島神社(

愛知県津島市)

に「日本

総社」の号を奉られまた一条天皇は同社に「天王社」

の号を贈られた

当時の天皇は[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ

みじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 4 -

の姿とは違って真相をよくご存じのうえのでの行為であ

ろう

中国の史書[

宋史日本伝]

は[

記紀]

に云う神武天皇の

六代も前にスサノオ尊(

素戔嗚尊)

を国王としてはっき

すさのお

りと記している

スサノオ尊は小諸国を統合して国造りに努めただけ

でなく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始し御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や

殖産興業を奨励し人材を適材適所に登用する優れた指

導者でもあった思えばスサノオは日本列島に初めて国

らしき国を創建した建国の始祖王だった

須佐之男尊の本名について

すさのおのみこと

[

記紀]

等に書かれている「須佐之男命」「素戔嗚尊」

の名前についてこれまで疑問を提起した論考は見当た

らない

古代史研究を本職とする学者等は一体何を考えてい

るのか不思議である

スサノオは[

記]

では速須佐之男尊須佐之男命つ

まり「須佐の男」であってこれは本名でないことは明

白である

[

書紀]

にいたってはなんと酷いことにこれを同音の

ひど

「素戔鳴尊」と書いている

「素」はソまたはスと発音し人を表す語に付けて

「平凡であるみすぼらしい」など軽蔑の意を添え「素

町人」「素浪人」などと使う「戔」は音読みでは「サ

ン」「ザン」「セン」で「きずつける」「そこなう」と

いう意味である「鳴」は鳴く(

泣く)

こと吠えること

またその声を云う16)

つまり「きずつきみすぼらしく泣く人」という意

味になる如何に侮辱した名称かがわかるそれにして

ぶじよく

も[

書紀]

の編者らはスサノオの偉業を抹殺するために

まつさつ

本名まで侮辱した名前に改竄するとは如何にも度が過

ぶじよく

かいざん

ぎている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 5 -

[出雲風土記]

は神須佐能袁命としているが「能」は

かむす

よく事をなし得る力才能能力働きまた働きのあ

る人才知のある人をさす「袁」は通常「お」と発

16)

音するが能袁で「のう」または「のお」と読ませてい

る字意からすれば「須佐の働きのある人」ということ

になり[

書紀]

よりもましな表記であるがこれも[

記紀]

の音韻をただ踏襲したものとしか思えず[

出雲國風土記]

とうしゆう

の編者の苦心がみられるが本名とは思えない

[

古事記]

は神話の「神生み」のなかで「伊耶那岐命

ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神

みかはやひ

次に樋速日神次に健御雷之男神亦の名は健布都神

ひはやひ

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神」と書いている

とよふつ

甕速日神樋速日神はともに雷火の威力を神格化し

みかはやひ

ひはやひ

たもので健御雷之男神も勇猛な男神をさし健布都神

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神の「フツ」は「布都御魂神」や「経津主

とよふつ

ふつのみたま

ふつぬし

神」と同神だという

44)

天理市布留町にある石上神宮は祭神として布都御魂

いそのかみじんぐう

ふつのみたま

大神(

スサノオの父)布都斯御魂大神(

スサノオ)

ふつしみたま

布留御魂大神(

スサノオの御子オオトシ=ニギハヤヒ)

ふるのみたま

祀られておりいずれも蒙古名だともいう

43)

[

書紀]

は「葦原中国の平定(

出雲国譲り)

にあたって幾

度も武将を派遣したがいずれも失敗した最後に經津主

ふつぬし

神甕速日神の子熯速日神熯速日神の子武甕槌神を配

みかはやひ

ひのはやひ

ひのはやひ

たけみかづち

へて云々」と書いている

經津主神はスサノオの父甕速日神はスサノオの御子

ふつぬし

みかはやひ

大歳尊(

改名して饒速日尊)武甕槌神は[

古事記]

おおとし

にぎはやひ

たけみかづち

健御雷之男神と同神でスサノオをさしていると思われ

たけみかづちのお

る大

野七三氏は武甕槌神は饒速日尊の別称だとみてい

たけみかづち

にぎはやひのみこと

51)

るが確証はない

石上神宮はいずれにしてもスサノオ一族の宗廟で

ある

[記紀]

神話の創作当時には在世している筈はないが

スサノオの建国した出雲国譲り(

乗っ取り)

には[

記紀]

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 3: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 3 -

命は仁慈の名君だった」と称えている

じんじ

田畑を荒らす鳥獣を防ぐために初めて弓を創作し火

をおこす鑽火器も考案した資源や最新技術を確保すべ

きりび

く次男五十猛命を連れて朝鮮半島にも渡り優れた稲籾

いたける

いねもみ

をはじめ各種の木種造船等の技術を手に入れて普及さ

せ農耕漁業を振興出雲の住民生活は大きく向上し

潤った

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を新技

術や資源を梃子に説き伏せ大同団結を呼びかけた越

こし

加賀能登長門筑前豊前から日向にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

ひうが

北陸山陰中四国九州各地の小部族国を連合させ和わ

国を創建した和国王スサノオは「和」を治世の基本戦

くに略

とした

スサノオ尊の建国した和国はまだ中央集権国家でな

く豪族の合議連合体だった中国の史書は後に「倭人」

わじん

「倭国」と書いた

わこく

南九州では日向に連合を呼びかけたとき伊弉諾尊(

ざなぎ

ザナギ)

の娘

向津姫([

記紀]

の天照大神)

を現地妻として娶

むかつひめ

めと

り豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いたそして各

地に御子

八島野尊五十猛尊大歳尊末娘の婿大穴牟

やしまぬ

いたける

おおとし

おおな

遲命や部下を配置して統治させた

治世がほぼ安定したのを見定めて大歳尊に河内大和

おおとし

かわち

やまと

に東遷して以東の国々を統合するよう命じ故郷出雲に

帰って亡くなられたときに歳

年頃とみられる

65

BC124

スサノオの御陵は出雲國八雲村大字熊野(

松江市八雲町

熊野)

にある元出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とみら

れ「神祖熊野大神櫛御気野尊」の諡号で祀られている

かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと

しごう

神のなかの祖神である

おやがみ

大同五(

)

年正月嵯峨天皇は「須佐之男尊は即ち皇

すさのおのみこと

810

国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり」とし

あが

てスサノオ尊を祀る津島神社(

愛知県津島市)

に「日本

総社」の号を奉られまた一条天皇は同社に「天王社」

の号を贈られた

当時の天皇は[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ

みじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 4 -

の姿とは違って真相をよくご存じのうえのでの行為であ

ろう

中国の史書[

宋史日本伝]

は[

記紀]

に云う神武天皇の

六代も前にスサノオ尊(

素戔嗚尊)

を国王としてはっき

すさのお

りと記している

スサノオ尊は小諸国を統合して国造りに努めただけ

でなく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始し御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や

殖産興業を奨励し人材を適材適所に登用する優れた指

導者でもあった思えばスサノオは日本列島に初めて国

らしき国を創建した建国の始祖王だった

須佐之男尊の本名について

すさのおのみこと

[

記紀]

等に書かれている「須佐之男命」「素戔嗚尊」

の名前についてこれまで疑問を提起した論考は見当た

らない

古代史研究を本職とする学者等は一体何を考えてい

るのか不思議である

スサノオは[

記]

では速須佐之男尊須佐之男命つ

まり「須佐の男」であってこれは本名でないことは明

白である

[

書紀]

にいたってはなんと酷いことにこれを同音の

ひど

「素戔鳴尊」と書いている

「素」はソまたはスと発音し人を表す語に付けて

「平凡であるみすぼらしい」など軽蔑の意を添え「素

町人」「素浪人」などと使う「戔」は音読みでは「サ

ン」「ザン」「セン」で「きずつける」「そこなう」と

いう意味である「鳴」は鳴く(

泣く)

こと吠えること

またその声を云う16)

つまり「きずつきみすぼらしく泣く人」という意

味になる如何に侮辱した名称かがわかるそれにして

ぶじよく

も[

書紀]

の編者らはスサノオの偉業を抹殺するために

まつさつ

本名まで侮辱した名前に改竄するとは如何にも度が過

ぶじよく

かいざん

ぎている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 5 -

[出雲風土記]

は神須佐能袁命としているが「能」は

かむす

よく事をなし得る力才能能力働きまた働きのあ

る人才知のある人をさす「袁」は通常「お」と発

16)

音するが能袁で「のう」または「のお」と読ませてい

る字意からすれば「須佐の働きのある人」ということ

になり[

書紀]

よりもましな表記であるがこれも[

記紀]

の音韻をただ踏襲したものとしか思えず[

出雲國風土記]

とうしゆう

の編者の苦心がみられるが本名とは思えない

[

古事記]

は神話の「神生み」のなかで「伊耶那岐命

ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神

みかはやひ

次に樋速日神次に健御雷之男神亦の名は健布都神

ひはやひ

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神」と書いている

とよふつ

甕速日神樋速日神はともに雷火の威力を神格化し

みかはやひ

ひはやひ

たもので健御雷之男神も勇猛な男神をさし健布都神

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神の「フツ」は「布都御魂神」や「経津主

とよふつ

ふつのみたま

ふつぬし

神」と同神だという

44)

天理市布留町にある石上神宮は祭神として布都御魂

いそのかみじんぐう

ふつのみたま

大神(

スサノオの父)布都斯御魂大神(

スサノオ)

ふつしみたま

布留御魂大神(

スサノオの御子オオトシ=ニギハヤヒ)

ふるのみたま

祀られておりいずれも蒙古名だともいう

43)

[

書紀]

は「葦原中国の平定(

出雲国譲り)

にあたって幾

度も武将を派遣したがいずれも失敗した最後に經津主

ふつぬし

神甕速日神の子熯速日神熯速日神の子武甕槌神を配

みかはやひ

ひのはやひ

ひのはやひ

たけみかづち

へて云々」と書いている

經津主神はスサノオの父甕速日神はスサノオの御子

ふつぬし

みかはやひ

大歳尊(

改名して饒速日尊)武甕槌神は[

古事記]

おおとし

にぎはやひ

たけみかづち

健御雷之男神と同神でスサノオをさしていると思われ

たけみかづちのお

る大

野七三氏は武甕槌神は饒速日尊の別称だとみてい

たけみかづち

にぎはやひのみこと

51)

るが確証はない

石上神宮はいずれにしてもスサノオ一族の宗廟で

ある

[記紀]

神話の創作当時には在世している筈はないが

スサノオの建国した出雲国譲り(

乗っ取り)

には[

記紀]

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 4: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 4 -

の姿とは違って真相をよくご存じのうえのでの行為であ

ろう

中国の史書[

宋史日本伝]

は[

記紀]

に云う神武天皇の

六代も前にスサノオ尊(

素戔嗚尊)

を国王としてはっき

すさのお

りと記している

スサノオ尊は小諸国を統合して国造りに努めただけ

でなく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始し御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や

殖産興業を奨励し人材を適材適所に登用する優れた指

導者でもあった思えばスサノオは日本列島に初めて国

らしき国を創建した建国の始祖王だった

須佐之男尊の本名について

すさのおのみこと

[

記紀]

等に書かれている「須佐之男命」「素戔嗚尊」

の名前についてこれまで疑問を提起した論考は見当た

らない

古代史研究を本職とする学者等は一体何を考えてい

るのか不思議である

スサノオは[

記]

では速須佐之男尊須佐之男命つ

まり「須佐の男」であってこれは本名でないことは明

白である

[

書紀]

にいたってはなんと酷いことにこれを同音の

ひど

「素戔鳴尊」と書いている

「素」はソまたはスと発音し人を表す語に付けて

「平凡であるみすぼらしい」など軽蔑の意を添え「素

町人」「素浪人」などと使う「戔」は音読みでは「サ

ン」「ザン」「セン」で「きずつける」「そこなう」と

いう意味である「鳴」は鳴く(

泣く)

こと吠えること

またその声を云う16)

つまり「きずつきみすぼらしく泣く人」という意

味になる如何に侮辱した名称かがわかるそれにして

ぶじよく

も[

書紀]

の編者らはスサノオの偉業を抹殺するために

まつさつ

本名まで侮辱した名前に改竄するとは如何にも度が過

ぶじよく

かいざん

ぎている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 5 -

[出雲風土記]

は神須佐能袁命としているが「能」は

かむす

よく事をなし得る力才能能力働きまた働きのあ

る人才知のある人をさす「袁」は通常「お」と発

16)

音するが能袁で「のう」または「のお」と読ませてい

る字意からすれば「須佐の働きのある人」ということ

になり[

書紀]

よりもましな表記であるがこれも[

記紀]

の音韻をただ踏襲したものとしか思えず[

出雲國風土記]

とうしゆう

の編者の苦心がみられるが本名とは思えない

[

古事記]

は神話の「神生み」のなかで「伊耶那岐命

ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神

みかはやひ

次に樋速日神次に健御雷之男神亦の名は健布都神

ひはやひ

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神」と書いている

とよふつ

甕速日神樋速日神はともに雷火の威力を神格化し

みかはやひ

ひはやひ

たもので健御雷之男神も勇猛な男神をさし健布都神

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神の「フツ」は「布都御魂神」や「経津主

とよふつ

ふつのみたま

ふつぬし

神」と同神だという

44)

天理市布留町にある石上神宮は祭神として布都御魂

いそのかみじんぐう

ふつのみたま

大神(

スサノオの父)布都斯御魂大神(

スサノオ)

ふつしみたま

布留御魂大神(

スサノオの御子オオトシ=ニギハヤヒ)

ふるのみたま

祀られておりいずれも蒙古名だともいう

43)

[

書紀]

は「葦原中国の平定(

出雲国譲り)

にあたって幾

度も武将を派遣したがいずれも失敗した最後に經津主

ふつぬし

神甕速日神の子熯速日神熯速日神の子武甕槌神を配

みかはやひ

ひのはやひ

ひのはやひ

たけみかづち

へて云々」と書いている

經津主神はスサノオの父甕速日神はスサノオの御子

ふつぬし

みかはやひ

大歳尊(

改名して饒速日尊)武甕槌神は[

古事記]

おおとし

にぎはやひ

たけみかづち

健御雷之男神と同神でスサノオをさしていると思われ

たけみかづちのお

る大

野七三氏は武甕槌神は饒速日尊の別称だとみてい

たけみかづち

にぎはやひのみこと

51)

るが確証はない

石上神宮はいずれにしてもスサノオ一族の宗廟で

ある

[記紀]

神話の創作当時には在世している筈はないが

スサノオの建国した出雲国譲り(

乗っ取り)

には[

記紀]

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 5: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 5 -

[出雲風土記]

は神須佐能袁命としているが「能」は

かむす

よく事をなし得る力才能能力働きまた働きのあ

る人才知のある人をさす「袁」は通常「お」と発

16)

音するが能袁で「のう」または「のお」と読ませてい

る字意からすれば「須佐の働きのある人」ということ

になり[

書紀]

よりもましな表記であるがこれも[

記紀]

の音韻をただ踏襲したものとしか思えず[

出雲國風土記]

とうしゆう

の編者の苦心がみられるが本名とは思えない

[

古事記]

は神話の「神生み」のなかで「伊耶那岐命

ゆつ石村に走り就きて成りし神の名は甕速日神

みかはやひ

次に樋速日神次に健御雷之男神亦の名は健布都神

ひはやひ

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神」と書いている

とよふつ

甕速日神樋速日神はともに雷火の威力を神格化し

みかはやひ

ひはやひ

たもので健御雷之男神も勇猛な男神をさし健布都神

たけみかづちのお

たけふつ

亦の名は豊布都神の「フツ」は「布都御魂神」や「経津主

とよふつ

ふつのみたま

ふつぬし

神」と同神だという

44)

天理市布留町にある石上神宮は祭神として布都御魂

いそのかみじんぐう

ふつのみたま

大神(

スサノオの父)布都斯御魂大神(

スサノオ)

ふつしみたま

布留御魂大神(

スサノオの御子オオトシ=ニギハヤヒ)

ふるのみたま

祀られておりいずれも蒙古名だともいう

43)

[

書紀]

は「葦原中国の平定(

出雲国譲り)

にあたって幾

度も武将を派遣したがいずれも失敗した最後に經津主

ふつぬし

神甕速日神の子熯速日神熯速日神の子武甕槌神を配

みかはやひ

ひのはやひ

ひのはやひ

たけみかづち

へて云々」と書いている

經津主神はスサノオの父甕速日神はスサノオの御子

ふつぬし

みかはやひ

大歳尊(

改名して饒速日尊)武甕槌神は[

古事記]

おおとし

にぎはやひ

たけみかづち

健御雷之男神と同神でスサノオをさしていると思われ

たけみかづちのお

る大

野七三氏は武甕槌神は饒速日尊の別称だとみてい

たけみかづち

にぎはやひのみこと

51)

るが確証はない

石上神宮はいずれにしてもスサノオ一族の宗廟で

ある

[記紀]

神話の創作当時には在世している筈はないが

スサノオの建国した出雲国譲り(

乗っ取り)

には[

記紀]

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 6: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 6 -

創作といえどもさすがスサノオはじめ出雲一族を無視

するわけにはいかなかったとみえる

スサノオが祀られている全国の神社で調べた祭神名43)

によると須佐之男尊須佐之男命進雄尊素戔嗚尊

速玉大神家津御子大神牛頭天王八千矛大神大

国主大神神天照真良武雄神武甕槌(

出雲大社の摂社

速玉社)速玉之男尊など多数にのぼるこれは神名を

色々と変えスサノオ尊の史実を抹殺する為の[

書紀]

常套手段だという

じようとうしゆだん

13)23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

133)140)

「和加布都怒志能命」という人物が登場する[

出雲風土

記]

も当時の朝廷の命で[

記紀]

の記述にそぐわない神名

は大幅に改変させられたとみられる

ここで云う布都怒志命はスサノオの父布都命で

和加布都怒志能命は布都斯(

スサノオ)

のことと思われる

また「神須佐乃乎命」「熊野加武呂命」「神須佐乃烏

命」とする表記もありいずれもスサノオのことである

さらに[

同風土記]

の飯石郡の条に「須佐の郷郡家正

西一十九里なり神須佐能袁命語りたまひしく『此の

国は小さき国なれど国処なり故我が御名は石木に着

いわき

けじ』と詔りたまひて即ち大須佐佐田小須佐佐田を

定め給ひき故に須佐という」とある

51)

スサノオの諡号は「神祖熊野大神櫛御気野尊」で「み

しごう

かむおやくまのおおかみくしみけにのみこと

け」は御飯(

食)

で食物神穀霊を表すとされている

16)

諡号というものは本名の前に称え名を入れるのがルー

しごう

ルのようでひょっとすると「櫛御気野」が本名かも知

くしみ

れないしかしこれ以上詮索するすべもなく須佐之男

尊(

スサノオ)

と呼ぶほかない間違っても悪意をもって

書かれた「素戔嗚尊」は使うべきでないと筆者は考えて

いる

史実を誤魔化すために書かれた神話

第一章でも述べたが古今東西歴史上のすぐれた人

物には伝説や伝承があるのが通例でそれは何らかの史

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 7: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 7 -

実を投影しているであろうと思う

[記紀]

の神代神話で有名なスサノオは伊弉諾尊

いざなき

(

伊耶那岐尊)と伊弉冉尊(

伊邪那美命)

の子神で天照大神

いざなみ

(

大日霊女貴尊=大市日賣=本名向津毘売尊)

月読命を

おほひるめむち

おおいちひめ

むかつひめ

つきよみ

三姉弟としアマテラスの弟にしているしかしこれ

は[

記紀]

の大嘘だったことがわかった

実はスサノオが日向を平定統合したとき向津毘売

むかつひめ

(

イザナギの娘)

を現地妻にしたことからイザナギは義

父にあたる

43)また[

記紀]

はスサノオの乱行が過ぎるので根の国に

追いやったとしている根の国とは古代の他界観の一つ

で死者の霊が行くと考えた地下の世界また海上彼方

の世界黄泉の国根堅州国ともいう

くに

ねのがたすくに

16)

穿って読めば「スサノオの史実を葬った」ことを暗に

示唆していることに気付いた

神代と云えば遙か彼方の想像を絶する太古のことと思

いがちであるが古代ギリシアでは紀元前七世紀にはす

でにギリシャ哲学が草創期にあったとされ中国大

16)

陸では起原前年に秦始皇帝が韓趙魏楚燕斉

しんのしこうてい

かん

しよう

えん

さい

221

を滅ぼして統一王朝を建てている

また紀元前年には秦朝の配下にいた方士徐福(

徐市

ほうしじよふく

210

とも)が中国大陸の戦乱を逃れ数千人を連れて日本列

島に移住し列島各地に揚子江流域の水田稲作や養蚕

機織り技術等大陸の優れた文明文化を伝えている

ことは第二章で述べた

またイタリアの観光地として有名なナポリ湾岸に在

るポンペイ遺跡がベスビオ火山の大噴火で埋没壊滅

したのは年だったという第二章でも述べたように

79

すでに紀元前後にはそのくらい文明が発達していたので

ある

東海の孤島日本列島は中国大陸やヨーロッパより

ことう

も文明が遅れていたとしてもスサノオが生まれたのが

紀元前

年頃(

御子

都萬津比賣命大屋津比賣命の墓誌

おおやつひめ

188

から推算)だとすれば決して神代などと云えるものでな

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 8: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 8 -

[記紀]の編者らは和国建国の始祖王スサノオ大和

建国の覇王で「皇祖天照御魂神」として各地の天照

はおう

こうそあまてらすみたまのかみ

あまてらす

神社に祀られていたスサノオの御子オオトシ(

ニギハヤヒ

に改名)

尊一族の史実を抹殺するために色々と苦心したの

であろう

しかしどうもうまくいかなかったので神代のお伽話

とぎはなし

にして絵空事で誤魔化したものだという

えそらごと

43)

ところがスサノオは古代から多くの神社の主祭神と

して祀られまた全国津々浦々の神社に配祀されている

古神社の縁起や伝承考古史料中国の史書などに残

る記録からスサノオの活躍時代やその偉業を考証しよう

と思う

また最近になって弥生から古墳時代にかけて活躍し

た人物の実年代が古墳や宮跡に残る墓碑石のコンピュ

ータ画像解析で解読されそれらから在世年代が傍証

59)

できるようになった

本書には多くの人名が登場するが一々関係を説明す

ると煩雑になるので章末に古神社の縁起や伝承から作

はんざつ

成した人物名とその系譜を図示したので予め参照いただ

きたいまた西暦紀元前を紀元後をあるいは単

BC

AD

に年と表記する

スサノオ一族の在世年代

[

記紀]

にはスサノオの活躍した時代はすでに稲田や籾

もみ

機織のことも書かれ弥生時代だったことは間違いない

はたおり弥

生時代とは三世紀から三世紀の年間を云うと

BC

AD

600

されているが果たしていつ頃のことであろうか最近

になって遺跡や出土遺物の年代解析がすすみ弥生時代

は六-

七世紀まで遡るとみられている

BCスサノオの活躍については後項で詳しく考察するが

ここではより確かな史料をもとにスサノオの在世年代

や活躍した年代を傍証してみようと思う

多くの研究者は中国の史書[

三国志魏志倭人条]

60)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 9: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 9 -

(以下魏志と略記)に記されている「景初二(

)

AD238

邪馬臺国の女王卑彌呼に詔書して親魏倭王卑彌呼に制詔

す」とある「女王卑彌呼」を[

記紀]

が云う天照大神(

日霊女貴尊=向津姫)

に比定しこれに近い時代とみて

スサノオの生存年代を

年から

年頃のことと推定

AD120

AD190

している

13)23)43)51)ま

た[

記紀]

は女王卑彌呼(以下卑弥呼と表記)

を神功

皇后に当てはめようとして年代を操作した疑いがある

しかし魏志に登場する「女王卑弥呼」は[

書紀]

第七代孝霊天皇の皇女

倭迹迹日百襲姫命([記]

では夜麻登

こうれい

ひめみこやまとととももそひめ

やまと

登母母曽毘賣命)

とみる説も多く倭迹迹日百襲姫命の古

とももそひめ

やまとととももそひめ

墳とされている巨大な箸墓古墳(

桜井市大字箸中)の環濠

堤から「倭母母曾毘賣命墓戊寅年十月廿日薨御年八

十四歳」と碑石に刻まれた墓誌が解読され在世はAD

年と比定されているまたその後を継いだと

115

198

59)

されている臺与(

豐鋤入日賣命)

の墓碑が築山古墳(

奈良県

とよすきいりひめ

大和高田市築山)

近傍から発見され「豊鉏入日賣命墓戊

辰年七月十四日薨御年六十四歳」の墓誌が解読されて

いる在世は

~年に比定され魏志にいう卑弥

AD185

248

59)

呼時代の人物とみられる

[

魏志]

に云う卑弥呼とは王女のことで特定の個人を

ひめみこ

さす名称ではない

[

記紀]

の天照大神も大日霊女貴尊で日霊女は日巫女

おおひるめむち

と同意であるが[

魏志]

の卑弥呼とは時代が違う

女王卑弥呼と邪馬台国の時代については本書第五章で

詳述したのでそちらを参照されたい

また伴昌広氏はスサノオは

年朝鮮半島に

2)

BC37

在った沸流国が北方からの度重なる侵攻で滅亡したとき

ピリュ

戦いに疲れた布都一族が日本列島に移住した子孫とみて

古神社の縁起や伝承に考古史料等を考証しスサノオが

誕生したのは

年頃亡くなったのが

年頃とみて

BC35

AD30

いるがこれはあくまで推測にすぎない

ところが中国の史書[

後漢書]

にはすでに建武中元

二()

年に「倭奴国が後漢に朝献し光武帝が印綬を授

AD57

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 10: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 10 -

けた」という記録があり江戸時代(

年)

になって博多

1784

湾沖にある志賀島からその時に授けられたと思しき「漢

委奴国王」という金印が発見された中丸薫氏はこ

16)

21)

れを「漢が委ねる奴国王」と読まれている

かん

ゆだ

なこくおう

多くの古代史学者は「漢委奴国王」の「委」を「倭」

の人偏を省略したのではないかとみて「漢の倭の奴国王」

と勝手に読んでいるしかし漢字の国漢が「委」と

「倭」を混同するような書き方をする筈はないと云う

21)

筆者も全く同感である

金印が正真正銘の金で出来ているとしながらも確た

る証拠もなく金印「漢委奴国王」は贋作だと言い切って

がんさく

いる史学者もいるが贋作とする確証もない

がんさく

82)

漢は北九州に在った倭の奴国王から朝貢を受け属

国として金印を与えたのである

博多湾は往古金印到来の頃は「那の津」と呼ばれて

いたというから奴国(

那国)

の湾をさしていたと思われる

なこく

なこく

現在福岡市博物館に展示されているこの金印の側面

に「常根津日子命」の銘が刻まれていることを池田仁三

氏は画像解析で発見した

59)常根津日子命は[

書紀]

が云う第三代安寧天皇の皇子

とこね

81)

で北九州に在った奴国の統治者として大和朝廷から派

遣されていたのである

福岡県糸島郡二丈町大字一貴山の「一貴山銚子塚古墳」

近傍から墓誌が発見され「常根津日子命丙寅年三月十

六日年四十七」と解読され生存年は

~年とみ

AD20

66

59)

られている[

後漢書]

の年代記述と合致し金印側面の

銘は常根津日子の没後身内か側近が金印の側面に諡号

とこねつひこ

を書き込んだものとみられる

[

古事記]

では常根津日子命の弟とされている

師木津日子命(

安寧天皇)

の墓誌は奈良県桜井市の桜井

あんねい

纒向勝山古墳近傍から発見され「師木津日子命戊辰六

月十五日年五十一」とあり在世は~年と比定さ

18

68

59)

れ生存年からみて師木津日子命は兄にあたり実在が

証明されている常根津日子命はスサノオ尊の四世孫

とこねつひこ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 11: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 11 -

にあたる

また[

後漢書]

の年条には後漢の安帝王朝に「倭

107

國王師升等が生口百六十人を献じて請見を願う」という

記事がある

倭國王師升等を倭国王

師升等と読んでいる史学者

わこくおう

ししよう

やスサノオとみている歴史家もいるこれは間違いで

正しくは「わのくにおしひと」と読むべきである

中国(

漢)

は当時倭国という認識はなく「倭」「倭人」

と見なしていて「倭国王」と書くことはない

倭國王師升等は第六代孝安天皇(大倭帯日子國押人

おおやまとたらしひこくにおしひと

命日本足彦国押人)であって[

後漢書]の記録と在

44)

33)

世年代(

~年)

はよく一致し国押人命歳の年であ

42

118

59)

66

るさ

らに奈良県橿原市の慈明禅寺境内から発見された

神倭伊波禮毘古命(

神日本磐余彦天皇=初代神武天皇)

じんむ

44)

33)

の墓誌が「丙子三月十一日年六十三」と得られ系譜

からみて生存年代は

~年に比定されている

BC107

45

59)

[

書紀]

によれば「神武天皇は辛酉年春正月庚辰朔

橿原宮に即帝位」とあることから太陽暦に換算すると

年二月十一日となりかつては紀元節だった今も

BC60

この日は建国記念日とされている伊波礼昆古(

磐余彦)

いわれひこ

命は筑紫(

九州島の古名)

の日向から東遷して実に歳48

の年になる

伊波礼昆古命(

神武)

は多くの史料や古神社の縁起

伝承等からスサノオの御子饒速日尊の末子御歳姫([

にぎはやひ

みとし

紀]

は媛蹈鞴五十鈴媛([

記]

は伊須気依姫)

の婿養子として大

ひめたたらいすずひめ

いすけよりひめ

和に東遷し饒速日大王(

ニギハヤヒ大王)

の後継となり

にぎはやひ

大和国王を継承したのが真相だった43)

伊波礼昆古命(

神武天皇)

の后伊須氣余理比賣命の薨年

は「癸巳六月十七日年五十五」と判明しており生存

年は

~年と比定されている

BC82

28

59)

天理市新泉町の大和神社には日本大国魂大神(

ニギハ

おおやまとじんじゃ

ヤヒ)八千矛大神(

スサノオ)

御年大神(

御歳姫=伊須気

みとし

依姫)が並んで祀られているニギハヤヒ尊の親子である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 12: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 12 -

一方[

古事記]

は「爾藝速日命が天瑞を(

神武天皇に)

にぎはやひ

りて仕えた」と書いているがニギハヤヒは当時すでに

亡く御子宇摩志麻冶尊の時代であることも判明した

ニギハヤヒの末子御歳姫(

伊須気依姫)

が幼い間は兄

みとしひめ

いすきよりひめ

の宇摩志麻冶尊が政務を代行していたとみられており

13)23)

ニギハヤヒ尊の末裔が残した[

先代旧事本紀]

にはちゃ

せんだいくじほんぎ

62)

んとそのことが書かれている

古代は子供が生長するとそれぞれに新しい土地を求

めて新規に国造りし末子が相続する慣わしだったと43)

云う伊波礼昆古命(

磐余彦尊)

もスサノオと日向の現

地妻

向津姫(

大日霊女)

の間に出来た熊野楠日尊(

諡くまのくすひ

彦波瀲武鸕鷀草葺合不尊)

の末子でスサノオの孫にあ

ひこなぎたけうがやふきあえず

33)

たる

スサノオと正妻の櫛稲田姫の末子須世理姫も大己貴

すせりひめ

おおなむち

尊を婿養子に迎えスサノオ亡き後二代目和国王を継

いでいるこの人は[

記紀]

で大国主とも書かれている人

物である末子相続の慣わしは代応神天皇以降で途

15

絶えているという

43)

ところでスサノオの御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

命の没年は和歌山市岩橋の岩橋前山古墳

号石室及

A46

び同

号石室同将軍塚からそれぞれ発見された

B53

墓誌の画像解析から「都萬津比賣命戊寅七月五日年六

十四」「大屋津比賣命戊寅九月二十一日年五十六」と

判明している

59)スサノオと向津姫の孫にあたる神武天皇の生存年代が

年だとすれば都萬津比賣命と大屋津比賣命

おおやつひめ

BC107

45

59)

の没年干支の「戊寅年」は

年と比定できる二人

BC103

とも同じ年に相次いで亡くなっているところをみると事

故死かあるいは伝染病にでも冒されたのではないかと

みられる

また神武天皇の兄とされている五瀬命は和歌山市

いつせ

岩橋の岩橋天王塚古墳近傍から発見された墓碑の画像解

析で「戊午六月三日年五十四」とあり生存年代は

~年とみられている

BC116

63

59)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 13: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 13 -

[記紀]

によれば伊波礼昆古(

磐余彦)

とともに筑紫の

いわれひこ

日向から出て瀬戸内海を通り大阪湾から上陸生駒山を

越えて大和に入ろうとしたとき日下の蓼津([

紀]

は孔舎衛

たでつ

くさかえ

とする現大阪市日下町あたり)

で鳥見の豪族長髄彦(

ながすねひこ

美那賀須泥毘古)の軍に撃たれて肱脛に矢傷を負い大阪

みのな

湾からのルートを諦め船で熊野まわりで大和に入るべ

く引き返す途上「紀伊国の竃山に到りて薨りましぬ因

かまやま

かむさ

りて竃山に葬めまつる」とある

かまやま

肘に受けた矢傷がもとで命を落としたとは考えられず

ひじ

たぶん傷口から破傷風菌にでも感染したのであろうか

はしょうふうきん

和歌山市和田の竃山神社は五瀬尊を祀りその裏山に

かまやま

いつせのみこと

御陵が設けられ宮内庁が管理している同神社は大正

四()

年十一月に官幣大社に列せられている

1915スサノオや御子大歳尊の墓碑は見つかっていないが

おおとし

オオトシと兄妹とされている都萬津比賣命大屋津比賣

おおやつひめ

43)

命またスサノオの孫にあたる伊波礼昆古命(

神武天皇)

の生存年代から大凡の在世年代は推定できる

またスサノオ没後の祭祀遺物かとみられる島根県雲

南市加茂町の加茂岩倉遺跡から平成年月大量の銅鐸

かもいわくらいせき

どうたく

8

10

が出土し

世紀前半~

世紀前半のものとみられ

BC2

AD1

ている他昭和

()

年から発掘された同県簸川郡斐川

ひかわぐんひかわ

581983

町の荒神谷遺跡でも銅鐸銅剣銅矛が発掘され銅鐸

こうじんだにいせき

どうたく

どうけん

どうほこ

どうたく

世紀初頭~

世紀前半の祭祀に使った遺物とみ

BC2

BC1

られている

これら考古遺物はスサノオの死後に始まった祭祀用

具とみられるこうした各種史料を総合して次のように

推定できる

スサノオの在世年代は御子都萬津比賣命大屋津比賣

おおや

命また孫にあたる五瀬尊伊波礼昆古命(

神武天皇)

いつせ

生存年代から推して

年頃に生まれ没年齢を

59)

BC188

65

頃とみれば

年頃に亡くなられたとみられる

13)23)

BC124

スサノオは出雲で櫛稲田姫を娶り須賀の地に館を構

くしなだひめ

えたのが

年歳頃とみられる

BC171

18

櫛稲田姫を正妻として間もなく長男の八島野尊(

くしなだひめ

やしまの

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 14: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 14 -

清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

が生まれた後出雲国を

すかの

ゆやまぬしみ

ろひこやしまの

創建し次いで次男五十猛尊がそして都萬津比賣命(

たける

BC

~年)大屋津比賣命(

~年)

が生まれまた

おおや

166

103

BC158

103

43

歳頃に第五子大歳尊が生まれたとみられる

おおとし

末子の須世理姫が生まれたのはスサノオが歳(

りひめ

45

BC144

年)

頃と推定される後取りの須世理姫は出雲で大穴牟遲

りひめ

おおなむち

命(

大己貴尊)

を婿養子に迎えてスサノオ家を継いでいる

おおなむち

43)

と云う

スサノオは出雲国を建国した後山陰から北陸各地

に遠征して各地の豪族に国の統合をもちかけ交渉し和

国を建国したこれが日本列島に国らしき国を建国した

始まりだった平安時代になって嵯峨天皇はいみじく

も「皇国の本主」と称えている

引き続きスサノオは九州各地の統合を目論んだし

かしすんなりと合意の得られなかった部族集団もあっ

たようで

年頃から次男五十猛尊(

歳頃)

三男大歳

たける

おおとし

BC136

31

尊(

歳頃)

を連れ豪族部隊を率いて筑紫に遠征し筑

11

紫北部の豪族を説き伏せ和国を拡大したとみられるそ

して豊国の宇佐(

大分県宇佐郡安心院町)

に拠点を置い

たとみられる

北九州の各地を平定した後南九州へと向かい日向

族の拠点阿波岐原(

現在の宮崎市街地の東端)

に遠征し

わぎがはら

2)

た日

向の豪族伊弉諾に連合を呼びかけたが拒否されイ

いざなぎ

ザナギと戦ったとみられるしかし妃の伊弉冉や娘の向

いざなみ

むか

津姫はスサノオの人望に惹かれて和国に同盟することを

つひめ

合意したようであるスサノオ尊はイザナギ尊の命は

助けて淡路島に流したとみられる(

詳細は後項)

そのときスサノオは歳くらいの向津姫(

イザナギ尊

むかつひめ

27

の娘)

を娶り政略結婚したとみられている

向津姫を宇佐に連れ帰り安心院町の妻垣神社の地で同

むかつひめ

つまがき

棲しその後多紀理姫多岐都姫市杵島姫が生まれ

りひめ

つひめ

いちきしまひめ

ているまた

年頃に熊野楠日尊(

神武天皇の父)

くまのくすひ

BC133

生まれたとみられる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 15: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 15 -

スサノオは九州地方の政情が安定したのをみて出

雲の大穴牟遲命と向津姫に後を托し故郷出雲に帰り

おおな

むかつひめ

BC

年頃歳くらいで亡くなられたとみられる

124

65

ところで島根県簸川郡佐多町宮内(

もと須佐村現在

出雲市佐田町)に在る須佐神社(

須佐大宮)

には祭神と

して須佐之男命稲田比売命足摩槌命手摩槌命(

須佐

いなだ

あしなづち

てなづち

家祖神)

が祀られている

同社伝に「ここはもと国幣小社で社殿の造営改修

は武将藩主によって行うのを例としてきたまた須佐

家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任

すさのくにのみやつこ

ぜられ今日まで連綿と七十八代を経ている」という

れんめん

51)

これは年現在のことである

2004

斎主一代を平均年余とみれば年余り続いている

27

2128

ことになり

年頃スサノオの没後から祭祀が始まっ

BC124

ていることがわかる

長男の八島野尊や部下の豪族らはスサノオの遺骸を

やしまの

熊野山に埋葬し建国の偉業を偲んで祭祀を始めたとみ

られ加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した紀元前

もいわくら

こうじんだに

2

世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣銅矛はまさ

どうたく

どうけん

どうほこ

にスサノオ祭祀の遺物とみて間違いない

[

出雲風土記]

の大原郡神原郷に「神原郷郡家正北九

里古老傳云「所造天下大神之御財積置給處則可謂

ころうつたえいう

神財郷而今人猶誤云神原郷耳」とある

これを筆者なりに読み下すと「神原郷は郡家の正北

かむはらのさと

九里古老の伝えに云うには天の下造らしし大神(ス

サノオ)の御財を積置き給いし処なり即ち神財郷と

みたから

つみお

かむたからのさと

云うべし今の人は誤って聞き神原郷と云う」と本来

かむはらのさと

は神財郷と呼んでいたことになる

かむたからのさと

天平五(

)

年に撰録された[

出雲風土記]

はすでに

てんぴよう

733

荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになる

こうじんだに

ところで長らく忘れ去られていた神財郷の財宝が

かむたからのさと

昭和

()

年広域農道の建設にともなう遺跡分布調査

581983

によって初めて弥生の姿をそのままに現したのである

島根県教育委員会の発表によると調査の結果銅剣どうけん

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 16: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 16 -

本銅鐸個と銅矛本が発掘され世紀の大発見と

どうたく

どうほこ

358

6

16

なった

こうした発掘の前までは「出雲神話は作り話だ」とか

「出雲は無かった」などとまことしやかに真顔で語っ

ていた古代史学者や考古学者らは忽ちにして声を潜め

てしまった

古神社が語るスサノオ尊

スサノオは[

記紀]

の編纂された八世紀以前に創建さ

れた神社に数え切れない程数多く祀られ全国の神社

総数の七割くらいも占めていたというそこに伝わる

43)

縁起や伝承はスサノオの活躍や偉業を今に伝えている

スサノオと正妻櫛稲田姫の御子八人その孫など一族

くしなだひめ

を祀った神社は[

記紀]

が出来る以前にはスサノオは八や

千矛大神として祀られている神社(

天理市の大和神社等)

ちほこ

おおやまと

もある

また[

記紀]

編纂に伴って改竄されたとみられる神名

かいざん

大山祇(

大山積大山津見)

神を祀る神社は全国に一万

おおやまつみおおやまつみ

おおやまつみ

一千社もあるというその総本社は愛媛県今治市大三

43)

島の大山祇神社である

おおやまつみ

同神社の創建は祭神の子孫小千命で神武天皇時代と

いうから最も古い神社の一つでかつては伊予国一宮で

国幣大社だったと云う

23)

小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」

おちのこくしゅ

とあり小千国は現在の愛媛県越智郡とみられる

おちのくに

おちぐん

しかし後段の系図でみると小千命は神武天皇時代の

人物ではなく孝霊天皇の孫にあたる

こうれい

松山市の井門家に「小千河野井門家系圖」とい142)

う古い系図がありそれには「孝霊天皇(

御諱大日本根子

彦太瓊尊)

を祖とし帝常信大山積神是則三嶋大明神也

ていじようしんおおやまつみかみ

これすなわちみしまだいみようじんなり

第三皇子彦狭嶋命その第三子小千御子云云」としてお

ひこさしま

おちのみこ

りまた「彦狭嶋王伊豫國に下り令祭大山積大明神

ひこさしま

おおやまつみだいみようじん

是則伊豫之國大三嶋社也」とみえるこれによれば

これすなわち

おおみしまのやしろなり

大山積大明神は孝霊天皇を祀っているようにみえるが真

おおやまつみだいみようじん

こうれい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 17: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 17 -

偽の程は定かでない

[古事記]

の一節にスサノオは「大山津見神の女名

おおやまつみ

は神大市比売を娶り云云」とあるから大山津見神はス

かむおほいちひ

おおやまつみ

サノオ尊時代の人物でスサノオの偽名ともみられてい

るさ

らにスサノオを祀る天王社は全国に三千社もある

と云うその総本社は愛知県津島市の津島神社だった

ことが[

尾張名所絵図]

に出ているそれによると「第七

代孝霊天皇(

在位

-

年)

のとき西海の対馬に祀られ(

こうれい

131136

29

代)

欽明天皇の御代(

年)

に対馬から奉遷された」とある

きんめい

540

もとは対馬に祀られていた祭神をスサノオの後裔尾張

おわり

氏が尾張国に遷したのであろういつ書かれたものかは

おわりのくに

不明であるが同社にはスサノオの肖像画(

本章冒頭図)

が所蔵されている

大同五()

年正月嵯峨天皇は津島神社に「須佐之男

810

尊は即ち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いし

なり」として日本総社の号を奉られているまた一条

いちじょう

天皇(

寛和二()

~長元九(

)

年)

は津島神社に天王社の

986

1036

号を贈られたと云う

23)

年と云えば[

書紀]

が撰録されてからすでに

年も

810

90

経っている[

記紀]

に書かれたあの惨めなスサノオ像は

すでに誰の眼にも明かだった筈なのに嵯峨天皇はわざ

わざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の

総社」と崇められたというのである

当時の天皇はスサノオの偉業をよくご存じだったの

であろう平安時代の天皇家もスサノオやオオトシ(

ギハヤヒ)

を祀る紀伊の熊野三社(

熊野本宮大社熊野速

玉大社熊野那智大社)を京都御所から遠路再々参

詣されたのは有名の史実である

海南市藤白から山越えの熊野参詣道が平成

()

年に

122000

国の史跡に指定され平成

()

年には「紀伊山地の霊

162004

場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産として登

録された

熊野本宮大社はスサノオの後裔

熊野連が第十代

くまのむらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 18: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 18 -

崇神天皇時代(

在位

-

年)

に熊野坐神社として創建した

くまのにます

180198

[扶桑略記]

もので主祭神はスサノオと饒速日尊(

大歳尊

ふそうりやつき

にぎはやひ

の改名)だった筈であるがその後饒速日尊は事解男尊に

にぎはやひ

ことさかお

改変されスサノオ尊は家津御子大神となっているお

まけに熊野牟須美神という訳の分からない神も祀られ

くまのふすみ

同社はこれを「伊邪那美大神伊邪那岐大神様の夫婦神

である」と説明しているイザナミイザナギは熊野に

は関係はない

熊野牟須美神はスサノオの父布都尊かあるいは神

くまのふすみ

武天皇の父熊野楠日尊ではないかとみられる

くまのくすひ

熊野那智大社の祭神は今は第一殿(瀧宮)大己貴命(

オクニヌシ)第二殿(

證証殿)

家津御子大神(スサノオ)

国常立尊第三殿(

中御前)

御子速玉大神(

スサノオ)第四

殿(

西御前)

熊野夫須美大神(

スサノオの父

布都命)第五

殿(

若宮)

天照大神である

延喜七()

年宇多上皇の御幸をはじめとして後白河

えんぎ

ごしらかわ

907

法皇は三十四回後鳥羽上皇は二十九回も参詣を重ね

また花山法皇は千日(

三年間)

の瀧籠りをされたと記録さ

はなやま

たきごも

れている

熊野速玉大社の主祭神はもとは熊野速玉大神だった

のが今はこれを伊耶那岐尊だと説明している熊野速

玉大神はスサノオの別名である

また熊野三山への参詣古道入り口にあたる海南市藤

白に饒速日(

大歳)

尊の後裔熊野連の末裔の一族鈴木

にぎはやひ

おおとし

くまのむらじ

氏が氏神として平安時代に創建したとされる藤白神社が

ふじしろ

ある

この神社は熊野三山から祭神を勧請したとあり筆

頭に饒速日尊そして熊野坐大神(

スサノオ)

熊野速玉

にぎはやひ

くまのにます

大神(

伊弉諾尊としているが実際はスサノオ)

熊野夫須

美大神(

伊弉冉尊だと説明しているがスサノオの父布都

尊とみられている)

を祀っている

熊野本宮大社から神霊を勧請したとし饒速日尊を祀っ

にぎはやひ

ているところをみれば熊野本宮大社にはもともと饒速日

にぎはやひ

尊が祀られていたことが明かである

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 19: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 19 -

また藤白神社の境内摂社の子守楠神社に熊野杼樟日命

ふじしろ

くまのくすひ

を祀り楠の大木が茂っていて海南市の指定文化財にな

っている熊野杼樟日命はスサノオと日向妻

向津姫と

くまのくすひ

の末子で神武天皇の父熊野楠日(

熊野久須毘)

尊である

くまのくすひ

くまのく

2)33)

同神社を創建した鈴木氏は熊野からこの地に居を移

したとし全国の鈴木姓の元祖だといういまも神社の

東隣に鈴木屋敷跡が残っている

スサノオは

年頃に出雲国沼田郷(

現在出雲市平

BC188

田町)

で布都命の子として生まれたとみられる布都命

は出雲沼田の郷士だったようで出生地とみられる平田

町の宇美神社にはスサノオの父布都御魂が祀られている

ふつのみたま

ここには現在熊野三神が合祀されているがこれは

応永年間(

~年)

に合祀されたと書かれているので

おうえい

1394

1428

それ以前は布都御魂大神だけが祀られていたようであ

ふつのみたま

43)

る奈

良県天理市にある石上神宮は古代から大和朝廷の

いそのかみ

守護神だった「創祀は神武天皇即位元年宮中に奉祀せ

らる崇神天皇七年宮中より現在地石上布留の高庭

いそのかみふ

に移し鎮め祀る」とある

81)

神武天皇夫妻やニギハヤヒの長男宇摩志麻冶尊が皇

居橿原宮内に祀り始めたのであろう

石上神宮の祭神は布留御魂大神布都斯御魂大神

ふるみたま

ふつしみたま

布都御魂大神で宇摩志麻冶尊五十瓊敷入彦命白河

ふつみたま

いにしきいりひこ

しらかわ

天皇市川臣命が配祀されている

いちかわおみ

81)

布留はスサノオの御子大歳尊(

以下オオトシ改名

おおとし

してニギハヤヒ)

で布都斯はスサノオ布都はスサノオ

の父でいずれもこれは蒙古名だと原田常治氏はいう

43)

多分[

記紀]

を編纂した頃にスサノオやニギハヤヒの神

名をわからなくするために蒙古名に書き変えられたので

あろうか

宇摩志麻冶はオオトシ(

ニギハヤヒ)

の二男で物部氏

の祖とされ五十瓊敷入彦は垂仁天皇の皇子で石上神宮

いにしきいりひこ

すいにん

の祭祀を担当した人物という

ここはまさにスサノオ一族の宗廟であるしかも神

そうびょう

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 20: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 20 -

話で有名なスサノオがヤマタノオロチ(

豪族オロチ)

を斬

った十握剣(

同神宮では八握剣と記す)

が国宝として祀ら

とつかのつるぎ

れている

いまは同神宮の説明では「布都御魂大神は神剣の

81)

御霊威」だと説明しているところをみると十握剣はス

とつかのつるぎ

サノオの父布都命の刀剣だったのであろうか

古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ神宝が

いわくら

埋斎されていると云い伝えられてきた明治七(

)

年に

まいさい

1874

同神宮の神官が朝廷の許可を得て発掘たところ伝え通

り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発

ふつみたまのけん

あまつしるしとくさみずのたから

見されたという

81)

偉大なる覇王の宝は弥生時代からの永い眠りから醒

はおう

めその輝かしい雄姿を見せたのである考古学ブーム

の昨今なら一大センセーションを呼び起こしたに違いな

い同

神宮の説明書では「神剣は環頭内反の鉄刀であるこ

とから中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと

考えられる」というおそらく当時の出雲地方でも珍し

い外国製品だったにちがいない

神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承

し宮中に祀っていたものであろう

それにしてもスサノオがオロチを退治た剣や御子

オオトシ(

改名

饒速日)

に授けた神宝が今なお現存して

いるというこの明白な事実日本に「神代」などという

時代はなかったことをこれほどはつきりと物語ってい

るものが他にあろうかと「消された覇王」の著者

小椋

一葉氏が云う

23)

ところで[

出雲風土記]

の一節に「布都怒志命」

「和加布都怒志能命」という人物が登場する布都怒志

命はスサノオの父布都で和加布都怒志能命は布都斯(

サノオ)

のことと思われる

[出雲風土記]

は和銅六(

)

年朝廷の命により出雲国

713

造が撰録天平五(

)

年に提出されたものであるしか

733

し史実を書いていて[

記紀]

の記述と整合しない都合の

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 21: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 21 -

悪い部分は朝廷から削除または訂正を命じられたとみ

られるその証拠に[

出雲風土記]

には[

記紀]

に書かれて

いるスサノオの出雲神話は全く出てこない

ところで祇園祭で有名な京都の八坂神社(

京都市東山

区祇園町)

にはスサノオと櫛稲田姫はじめ八人の御子

くしなだひめ

が揃って祀られている八人の御子は八島茶見命(

八島野

やしまの

尊)

五十猛尊大屋津比賣命抓津比売命大歳神

いたける

おおや

つまつひめ

おおとし

宇迦御魂神大屋毘古命須勢理比売命である現在も

うかのみたま

おおやひこ

日本各地に約三千の分社があるという

八坂神社は[

神社事典]

によると「旧官幣大社祭神

128)

は素盞嗚命稲田姫命八柱御子神を祀る古くは祇園

感神院祇園天神祇園社祇園牛頭天王祇園大明神

あるいは単に祇園と称した現在祭神は素盞嗚命を祀

るがもとは祇園天神牛頭天王が祀られた牛頭天王

は武搭天神とも称し[

備後国風土記]

によれば速須佐

能雄(

スサノオ)

であると記している(

中略)

創祀について

は定かでないが当社は朝野の信仰を篤くし史上にあ

らわれてくるのは平安期からである式外社であるが

はやく長徳元(

)

年には二十二社にも列した」とある

995

出雲(

島根県)

はじめ各地には弥栄神社でスサノオを

いやさか

祀っているが八坂は弥栄から転じたものと云う

いやさか

スサノオオオトシの出生地出雲(

島根県)

にはオオ

トシを祀る神社も多い飯石郡三刀屋町の大歳神社は

島根神社庁発行の「神国島根」によると「須佐之男命

出雲に於いて大歳尊を生み給い云云」と書かれている

オオトシはスサノオの子だったことは間違いない

こうしてニギハヤヒは若い頃の名前をオオトシと云

いスサノオの御子であることが判明した

23)

神社と云うのは古代大きな偉業をあげて亡くなら

れた故人を山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し神の

いわくら

坐す神籬を建てて祭祀したその後磐座の前に拝殿を

ひもろぎ

いわくら

建てて慰霊を拝み五穀豊穣氏族の隆盛疾病平癒な

どを祈願祭祀する場所でこれが神社となった

またその部族や配下だった氏族は自身の所領地に

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 22: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 22 -

神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く政

祭一致の拠点にしたとみられるそれが各地各村の氏

神である

昔の村(邑)には氏神のない所はなかった昭和初期ま

では氏神の社務所や寺が村役場でもあっただから主祭

神として祀られる神社数が多いのはそれだけ多くの支

持部族信奉者が居たことを物語っている

しかし[

記紀]

の編纂後には多くの神社の祭神名や

縁起の改竄が行われたようでこれは当時朝廷の指図

かいざん

で強制されたものと思われる

[

記紀]

が編纂されたときに皇祖神にされた向津姫(

大日

霊女貴尊=天照大神=スサノオの日向妻)

はその時伊勢

神宮(

祠)

を創始して祀ったものである[

記紀]

編纂以前の

古代から在る神社では「大日霊女貴尊」で祀られている

が天照大神として祀ったものはどこにもないとい43)

う詳

細は第十章の「伊勢と日向の物語りー記紀に創られ

た伊勢神宮の天照大神」を参照されたい

皇祖神はもともと天照魂神大和国の開祖でスサノ

オの御子オオトシ(

ニギハヤヒ)

だった各地に残る天

照魂神社や天照神社には「天火明命」「饒速日尊」とし

て祀られ大歳御祖大神として祀る神社もある

[

先代旧事本紀]

や各地の天照神社の祭神は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で長たらしいがこれは

あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

饒速日尊の諡号であり仏教では戒名とか法号と云う

にぎはやひのみこと

スサノオの活躍と建国の偉業

出雲国を創建推されて王に

スサノオは北方系モンゴリアンで古代の中国大陸

43)

や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が

ピリュ

出雲(

島根県東部宍道湖周辺)

に移住した子孫と云い出

2)

雲沼田の豪族布都の子として生まれたとみられている

43)

スサノオの御子の墓誌からみて

年頃のことと推

BC188

定出来る

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 23: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 23 -

そして歳頃に出雲で横暴を極めていた清田(

現雲

18

南市大東町清田)

の製鉄富豪

遠呂智を倒し虐められてい

オロチ

いじ

た稲田(現仁多郡奥出雲町稲田)

の娘

櫛稲田姫を助けて

くしな

だひめ

娶り須賀(現雲南市大東町須賀)

の地に館を構えた[

須賀

めと神

社縁起]

出雲での伝承から櫛稲田姫は予てからスサノオの恋

人だったとみる説もあるこのとき須賀の館に幾重

2)

にも垣根を造ってオロチの残党から櫛稲田姫との館を衛

ったというそして「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都

麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(

八雲たつ

出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を)

スサノオが詩を詠んだというこの「伊豆毛」が出

68)33)

雲の地名起原だとされている

私は年月八重垣神社を訪ねてみましたが山あ

2010

4

いの道をのぼって行くとその情景はまさに八雲(

霧か霞)

が立ちこめまさに「八雲たつ」と実感できました

日本海に面した奥出雲の地は夜間は冷え込み朝は霞の

出易い地形環境でした

スサノオは父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技

術を人々に指導したことから庶民の生活安定に大きく

寄与した周辺部族や住民がスサノオの人柄や知識技

術に期待をかけ次々と出雲国に参加そのうち出雲国

王に推された[

出雲風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の

じんじ

名君だった」と称えている

スサノオは出雲隠岐を百八十六部に分けそれぞ

れに族長を置いて統治させ陰暦十月には族長会議をひ

らいていたという国の統治に合議制を重んじたことが

伺えこれが民主政治の始まりとも云える

出雲ではこの月を「神在月」と呼び出雲大社では十

かみありづき

一日から七日間神有祭神在祭が行なわれる名残ら

かみありまつり

かみありまつり

16)

しいまた出雲隠岐以外の地では族長(

神)

が不在にな

るのでこの月を「神無月」と呼ぶようになったとも

かんなづき

16)

云ういまは十一月(

旧暦十月)

の季語となっている

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 24: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 24 -

山陰北陸を連合して和国を建国

こうして出雲国が次第に大きくなるなかスサノオは

自信を得て広く日本列島を先進技術で統合することを

考えたのであろうそれには父親から学んだ技術だけで

は不十分に感じ更なる高度な技術を導入するため次男

の五十猛尊を連れて朝鮮半島に渡った痕跡が[

記紀]

にも

いたける

記されている

出雲と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するため壱岐

対馬を出雲国に加盟させそこから朝鮮半島に渡り

つしま

先進技術を次々と導入したとみられている

2)

対馬からは朝鮮半島が手に取るように見える程近く

対馬の北端には韓岬の地名があるここから船を出した

からみさき

のであろう

スサノオは出雲国を建国した後歳頃に越(

越前

こし

29

越中越後加賀能登)

長門筑前豊前にも遠征し

ながと

ちくぜん

ぶぜん

国の統合交渉をすすめた小部族小国どうしが領土争

いをしているよりも話し合いで大同団結して先進技術

を普及させ住みよい国づくりをめざしたとみられる

越後(

新潟県三島郡)

の出雲崎町に出雲岬の地名がある

この当時からの名残りかと思われる

このときスサノオが建国した国名は「輪国」ではな

わのくに

かったかとみる説もあるが私は「和国」だったと思

わのくに

2)

う中国の史書は音の似た「倭国」と書いているが「倭」

は中国人がつけた蔑称で日本では「ワ」と読むが中

べつしよう

国語では「ヴォ」と発音する

ともあれスサノオの建国した和国は現在のような

中央集権国ではなく豪族の連携連合体であろうAD

年頃に書かれた中国の史書[

漢書]

の地理志によると「樂

かんじよ

82浪海中有倭人分爲百餘國」(

倭人は楽浪海の中に在り

百余國に分かれる)

とあるように各地の豪族が支配する

国々の同盟連合体とみられる

スサノオは領土や資源争い合いで殺し合う戦乱の愚

かしさを父親の布都からいやという程聞かされていた

であろう話合いで共存共栄の道を探るというのが国づ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 25: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 25 -

くりに賭けた信条だった筈でスサノオにとって「和」

はいかに重要かは肝に銘じたものだったであろう

筑紫の小諸国や木国(

紀国)

を統合和国を

ちくし

拡大本

州では出雲におけるオロチ族との戦い以外は戦闘

の痕跡や伝承はないが話合いで合意の得られなかった

部族もあったようで

年頃歳過ぎに本格的に筑紫

ちくし

BC136

50(

九州嶋の古名)

遠征を開始しなかでは武力を行使した

形跡もある

スサノオ軍の戦闘跡と断定できる確証はないが北九

州の吉野ヶ里遺跡(

世紀~

世紀)

の甕棺墓遺跡か

かめかんぼいせき

BC3

AD3

ら発掘された甕棺には腰骨に剣の刺さったものや首の

かめかん

ない遺骨がみられ戦闘の痕跡を物語っている

第二章で検証したが吉野ヶ里は

年に中国大陸か

BC210

ら集団渡来した徐福一族等がその後に建国した大型集

落の首都だった可能性が高い

スサノオ一族は出雲から発って豊前に上陸し瞬く間

に筑前筑後豊前豊後を服従させて統治下に入れた

そして筑前は同行していた息子の大歳尊に統治を任

おおとし

せ自身は部下を従え豊国の宇佐(

大分県北部)

に拠点を

構えたとみられている

51)

北九州を統一した後南九州の日向族の中心地

阿波岐原にも遠征し伊弉諾尊(

イザナギ)

に和国への参

あわぎがはら

画を呼びかけたこのとき妃の伊弉冉命(

イザナミ)

と娘

向津姫(

大日霊貴=[

記紀]

のアマテラス)

は同意したもの

むかつひめ

おほひるめむち

のイザナギの配下たちはスサノオに支配されるのを拒

絶して戦ったのであろうイザナギ軍はあえなく敗北し

スサノオはイザナギの命は助けて淡路島に流したとみ

いのち

られるその証拠は淡路島の伊弉諾神社(

兵庫県津名郡

一宮町多賀)

に残っている

同社に伝わる[

淡路国津名郡淡路町岩屋字明神縁起]

「伊弉諾尊は淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を

いざなぎ

かくれのみや

過ごされたその御住居跡に御陵が営まれ至貴の聖地

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 26: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 26 -

として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である」

と南

九州日向の豪族だった筈のイザナギが淡路島の幽

ひうが

居で余生を過ごしたというのである

またスサノオは大阪湾岸地方にも遠征したが河内

族の統合には失敗したとみえ次男の五十猛命等を連れ

たける

て木国(

紀国=和歌山)の統合に成功している

きのくにきのくに

和歌山県内には須佐神社や須佐の地名が沢山残ってお

り五十猛命は後に紀伊で最期を迎えたとみられ木国

たける

きのくに

の祖神として和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社に祀られ

ているまた伊太祁曽は五十猛の字音から名付いたも

いたける

のとみられる

その後スサノオは拠点を宇佐から日向の西都に移し

九州を統治するようになったとみられている九州の

41)

呼び名は後世になって着けられたものであるもとは西

海道の九国(

筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向

大隅薩摩をいう)

からきたものと云う

16)

この時熊曾地方だけは統一に失敗したようである

くまそ

2)

熊曾とは上代の球磨の地と曽於の地とをあわせた地

くまそ

名で古くは九州南半日向大隅薩摩地方(

宮崎県

鹿児島県)

に当たる

律令時代の行政区画には球磨に当たるものとして肥

後国球磨郡の名があり曽於は大隅国贈於郡の名がみ

16)

える

熊曾はその後大和王権でも朝廷の意にそわなかった

くまそ

とみえ倭建尊はじめ幾度も熊曾征伐が行われたことが

やまとたける

[

記紀]

にも記されている

33)43)

スサノオの現地妻になった向津毘売尊

むか

ともあれスサノオは熊曾地方を除いて南九州もほぼ

くまそ

平定したものの日向族の気持ちを和らげる必要もあり

イザナギの娘向津毘売を娶り現地妻にしたとみられて

むかつ

2)43)

いる[記紀]

の云う大日霊女貴尊(

天照大神)

で伊勢神宮

おほひ

めむち

の内宮祭神である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 27: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 27 -

ついでながら伊勢神宮外宮の祭神豊受大神は原田

とようけ

常治氏によると磐余彦尊(

神武天皇)

が九州に居た頃の日

いわれひこ

43)

向妻吾平津姫との間にできていた豊受姫だろうとみてい

あいらつひめ

とようけひめ

るが確証はない

こうしてスサノオは西日本九州の小国を次々と同

盟させて統合し和国の拡大に成功したのが

年頃の

BC136

こととみられる

それぞれの拠点に御子八島野尊や大歳尊五十猛尊

やしまの

おおとし

いたける

を出雲には娘婿の大穴牟遲命らを配置して統治させて

おおなむち

いた記録が古神社の縁起や伝承から読みとれる

数年後日向をはじめ南九州の国情がほぼ安定したの

を見定めたスサノオは政庁を再び宇佐に遷し日向に

は末娘須世理姫の婿大穴牟遲命を呼び寄せ政務を継がせ

りひめ

おおなむじ

たと云う

13)こうしてスサノオは出雲を振り出しに山陰から北

陸瀬戸内中四国そして九州の一部を除いてほぼ平

定し和国の拡大に成功したのが歳過ぎのことと考え

50

られる

娘婿の大穴牟遲命は正妻の須世理姫を出雲に残して

おおなむじ

りひめ

日向に赴任しスサノオと向津姫の間に出来た多紀理姫

りひめ

を現地妻にして同居したようであるかつてスサノオが

向津姫を現地妻にしたのと同じ手口である

むかつひめ

向津姫はじめ日向族らの支持信任を得るにはそれ

むかつひめ

が最善の策だったのだろう

スサノオはその後大穴牟遲と向津姫に後を託し

おおなむじ

むかつひめ

日向の統治を委ねたとみられるまた筑紫(

筑前筑後)

を統治していた三男のオオトシに大和東遷を命じ出

雲から長男の八島野尊を宇佐に呼び寄せ後を統治させ

やしまの

たようであるそして宇佐の政庁を引き揚げ故郷出雲

に帰国した

とみられている

2)13)23)43)

スサノオが出雲に帰ってからも向津姫は度々出雲

むかつひめ

に出向いた形跡が伝承としてあり末子熊野楠日(

鵜葺草

くまのくすひ

うがや

葺不合=[

記紀]

の神武天皇の父)

命はその名前からみて

ふきあえず

スサノオが出雲に帰ってから向津姫との間に出来た御

むかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 28: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 28 -

子とみられている

2)43)スサノオと向津姫([

記紀]

の天照大神)

が夫婦関係にあっ

むかつひめ

たとみる史料に島根県松江市佐草町にある八重垣神社

の壁画が今に残っている

同社の壁画は寛平五(

)

年宇多天皇が出雲国庁(

国衙)かんぺい

こくが

893

を造営したときに描かれたもので当時の日本絵の巨匠

巨勢金岡が書いた[

同社伝]という

こせかなおか

それには何とスサノオとその正妻櫛稲田姫命天照

くしなだひめ

大神市杵島姫命手名椎足名椎の六神像が雄渾な筆

いちきしまひめ

てなづち

あしなづち

ゆうこん

遣いで描かれている神社建築史上類のない壁画とさ

れ重要文化財になっている

八重垣神社の地は在りし日の若きスサノオと櫛稲田姫

くしなだひめ

の愛の館でありその二人を中心にして櫛稲田姫の両親

くしなだひめ

が描かれ[

記紀]

では敵対関係のように書かれてている

天照大神が同居しアマテラスとスサノオの末娘市杵島

アマテラス

いちきしま

姫まで描かれている

ひめ

スサノオとアマテラスの夫婦関係は[

記紀]

では隠蔽

いんぺい

されているが宇多天皇時代(

仁和三(

)

~寛平九年)

にんな

かんぺい

887

897

はその関係ははっきりと伝わっていたのであろう

スサノオ出雲にて崩御熊野山に葬られる

九州を平定して後北九州を八島野尊(

猿田彦尊)

にま

やしまの

さるたびこ

八重垣神社(松江市佐草町)

若き時代の須佐之男尊と櫛名田比賣命の住んだ館跡に建てられたと云う同社の宝物収蔵庫には寛平五(893)年に描かれた須佐之男

かんぺい

尊正妻櫛稲田姫命天照大神市杵島姫命手名椎命くし な だ ひめ いち き しまひめ て な づち

足名椎命の壁画が展示されているあし な づち

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 29: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 29 -

かせて出雲に戻ったスサノオは三男オオトシに大和に

東遷して河内国以東を統一するよう遺言して他界したと

かわちのくに

推定され御年~歳だった

とみられている

2)

60

75

13)23)51)

オオトシが筑紫から讃岐へ遷ったのが

年歳頃

BC122

25

とみられることからスサノオが亡くなられたのはその

前のことと推定でき歳で他界したとすれば

65

BC124

頃のこととみられる

スサノオの長男八島野尊の諡号は清之湯山主三名

やしまの

すがのみやまぬし

狭漏彦八嶋野尊とあることから猿田彦は八嶋野尊の

さろひこやしまの

さるたびこ

やしまの

68)

別名または[

記紀]

の改竄名かとみられる

かいざん

島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地にある佐太

神社の正殿に「佐太御子大神」として祀られておりス

サノオの御子ということであろう

長男八島野尊はスサノオの亡骸を島根県八束郡八雲

やしまの

なきがら

村と広瀬町との境(

現松江市八雲町)熊野山(

又の名天狗

てんぐ

山熊成峰)

の山頂に葬ったとみられている

やま

くまなりのみね

51)

御神陵は八雲村大字熊野(

現松江市八雲町熊野)

にある

出雲国一の宮熊野大社の元宮の地とされている同社

は旧称

熊野坐神社熊野大神宮熊野天照太神宮と

くまのにます

くまのおおかみのみや

くまのあまてらすだいじんぐう

呼ばれていたと云う

松江市の熊野大社でのスサノオの祭神名は「神祖熊野

かむろぎくまの

大神櫛御気野尊」という諡号で祀られている熊野山の

おおかみくしみ

出雲国一之宮 熊野大社(松江市八雲町熊野)

祭神は須佐之男尊の諡号「神祖熊野大神櫛御気野尊」でかむろぎくま の おおかみくし み け の

祀られている同社の元宮の地に御陵があると云う田辺市の熊野本宮大社はここから神霊を勧請して祀っ

たとされる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 30: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 30 -

御神陵と熊野大社の祭祀はスサノオの末裔

出雲氏に継

承され現在に到っているという

51)

神一行氏は神社の縁起や伝承からスサノオの最

13)

期は出雲に戻って間もなくのことだったとして次のよ

うにみている

「人々は大王スサノオの死を悲しみ出雲の熊野山に

磐坐を造って葬ったいまその麓に出雲国一宮

熊野大

いわくら

社(

旧国幣大社)

がある出雲大社が出来るまでは出雲

地方最大最高の神社だった亡くなった場所はやはり

出雲でそれも若き日に櫛稲田姫と新居を構えたあの須

賀の都と山一つ隔てた八雲村熊野だった勿論彼の御

陵はここにあるスサノオのお墓の前にその後社を建

やしろ

てたこれが神社の創成時代となりその後紀国の熊野(当

きのくに

時は熊野国)

でも社殿が築造された」とみている

紀州(

田辺市)

の熊野本宮大社は崇神天皇の時代にス

すじん

サノオの末裔熊野連(

ニギハヤヒの長男

天香語山命(

高倉

くまのむらじ

たかくら

下命)

の子孫)

が創建した[

扶桑略記]

と云う

ふそうりやつき

183)

御陵の前に拝殿だけを造っているのはスサノオを祀

った出雲の熊野大社と大和国を創建したスサノオの御

子ニギハヤヒ大王(

オオトシ)

を祀る大神神社(

桜井市三輪

おおみわじんじゃ

崇神天皇時代の創建)

が代表的で御神体(

陵墓)

が山稜に

あることを証している

古代の神社は山を御神体として拝んでいたと唱える説

もあるが山を拝んだのではなく山頂の磐座に葬られた

いわくら

御遺体御神体を拝んでいたのである古墳時代の始ま

る世紀以前のことである

2大神神社の祭神は大物主神にされているがこの大神

おおみわじんじゃ

神社から御神霊を勧請したとされる栃木県惣社市の大神

神社では祭神を倭大物主櫛甕玉命としているまた群

やまとおおものぬしくしみかたま

馬県桐生市の美和神社では大物主奇甕玉尊としそれ

くしみかたま

ぞれニギハヤヒの神名の一部をとっている

スサノオは小諸国を統一して国造りに努めただけで

なく住民の生活向上に心を配り様々な事柄を開発

創始した

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 31: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 31 -

出雲では須賀の都に市場を拓き熊野山の檜と卯木(

ひのき

うつぎ

キノシタ科の落葉低木ウノハナとも)

で鑽火器も創作し

きりびき

た出雲の熊野大社は別名を日本火出初社とも称され

いまも境内に鑽火殿があり毎年月日には鑽火神事

きりびでん

10

15

(

鑽火祭)

が行われている

彼はまた田畑を荒らす鳥獣を射るために初めて竹で

弓矢も作ったその故事に因んで今も行われている御狩

祭は後の江戸幕府第五代将軍徳川綱吉時代の「生類憐

とくがわつなよし

しようるいあわ

れみの令」で狩猟禁止になったときも特例をもって許

されたお祭であるという

13)

またスサノオは御子や部下たちを各地に派遣して土

地開発や殖産興業を奨め人材を適材適所に登用する優

れた指導者でもあった神祖とは神のなかの神それ

かむろぎ

は日本の国の創始者であり文明の大始神を意味すると

ともに死して神と化していった我々の祖先神というこ

とであろうスサノオはまさしく我が国史上最初に

して最大の英雄だったと小椋一葉氏はみている

23)

どんな組織や国にも配下の能力を歎き更迭する為政

者もいるが部下の能力を見極め適材適所で能力を最大

限に発揮させそして部下たちが喜んで苦労するような

リーダが居れば大成する

日本列島に初めて国らしき国を建国したスサノオは

そんな仁徳をもった英雄だった先にも書いたが[

出雲

風土記]

は「神須佐乃乎命は仁慈の名君だった」と称えて

かむす

じんじ

いるのがそれであろう

天皇神社天王社に祀られた皇国の本主

和国王スサノ

オ尊はまさしく建国の始祖王だった

死して神祖として崇められたスサノオ嵯峨天皇(

在位

かみおや

大同四(

)

年~弘仁十四(

)

年)

はいみじくも「皇国の

809

823

本主」と尊称したように日本国の創世者としてすべ

ての神の祖神として祀られたのである

13)

当時はすでに[

記紀]

が編纂されて

年以上も経ってい

100

て[記紀]

に記された惨めなスサノオ尊の姿は誰の目

にも明かだった筈であるが嵯峨天皇は[

記紀]

の記述と

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 32: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 32 -

は別に真相史実をご存じだったのであろう

しかし[

記紀]

はスサノオ尊を初代天皇または天神

としなかったスサノオ尊の日向妻であった向津姫(

向津

むかつひめ

毘売)

尊を皇祖天照大神と書き[

記紀]

の編纂途上で伊勢

に祠を創祀したのである

そもそも誰が何の爲に嘘の歴史を書いたのか[

記紀]

は必死になって隠しているがそれには政権乗っ取りと

云う重大な歴史が隠されているのである詳しくは第十

章で論証することとする

父の遺命を受けて大和に東遷した大歳尊

おおとし

スサノオの御子大歳尊はスサノオの遺命を受けて大

おおとし

和に東遷し三輪山麓に政庁を構え日本王朝大和国を

わさんろく

ひのもと

建国し饒速日と名乗ったのが

年歳の頃だった

にぎはやひ

BC102

45

饒速日尊は父スサノオに見習って善政をしき大和

にぎはやひ

朝廷の始祖となった歳位いで亡くなられ

年頃

66

BC81

三輪山頂の磐座に葬られたとみられる饒速日尊の甥に

いわくら

にぎはやひ

あたる初代神武天皇は宮中に慰霊を祀って以来第十

代崇神天皇(

在位

-

年)

が三輪山麓に建てた大神神社

すじん

おおみわ

AD180198

に祀られた御神体は山頂の磐座にあり同社は拝殿の

いわくら

みであるが皇室と同じ「菊の御紋」を社紋としている

それ以来饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られて

にぎはやひ

あまてらすみたまのかみ

いたが異母兄弟の甥にあたる狭野命(

伊波礼昆古命=

おい

磐余彦尊)

を饒速日尊の末娘御歳姫尊([

記]

は三輪の大物

いわれひこ

にぎはやひ

みとしひめ

主神の娘伊須気依姫[

書紀]

は事代主尊の娘

いすけよりひめ

媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)

の婿養子として大和の後継王に迎

ひめたたらいすずひめ

かいざん

えたことから万世一系の皇統譜に組み入れなかった

こともあろうに[

記紀]

は狭野命(

改名して磐余彦尊)

いわれひこ

婿入り東遷を大和を武力で征服したように書いたが

長兄五瀬尊他わずか数名での大和入りであった真相

いつせ

は婿入りの東遷だったことが歴然とした詳細は第四章

に譲るがその段取りはスサノオ尊やその後を継いだ

大穴牟遲命の御子阿遅鉏高日子根尊(

武角身尊)

と饒速日

あじすきたかひこね

たけつのみ

にぎはやひ

尊の長男天香語山(

高倉下)

尊や弟の宇摩志麻冶尊が直

あまのかごやま

たかくらじ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 33: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 33 -

接の交渉役として奔走したことも判明した

大歳尊(

改名饒速日尊)

の日本建国の偉業については

おおとし

にぎはやひ

次の第四章に詳述することにする

大穴牟遲命の最期と出雲の国譲り

おほな

日向でスサノオの和国政務を継いだ大穴牟遲命以下

おほな

オオナムチ)

は出雲には御陵はなくオオナムチを祀

43)

る古神社も見当たらないあるのはオオナムチが没し

年以上も経った[

記紀]

の編纂頃に創建された出雲大

800社(

出雲市大社町)

と宮崎県都農町の都農神社その後に

つのう

建造された神社ばかりという

[

記紀]

はスサノオや饒速日尊の偉業を隠すために

にぎはやひ

オオナムチの業績を誇大に書いて「大国主神」にし別

名を「大物主」「八千矛」などと書いているそして

大物主神は大国主神の和魂だと嘯いているともあれ

にぎたま

うそぶ

大国主神はどこを探しても諡号らしきものは全くないの

がそれを証している

オオナムチが住居にした跡地が宮崎県児湯郡都農町

大字川北に在る日向国一の宮都農神社(

祭神大己貴

尊)

の境内と考えられているそして西都市にある西都原

さいとばる

51)

古墳群の中に唯一出雲式の四隅突出型古墳がありこ

よすみとつしゆつがた

れがオオナムチの御陵とみられ赴任先の日向で亡くな

ったとみられる

43)スサノオの二代目を継いだオオナムチも

年頃に亡

BC95

くなった後出雲の正妻須世理姫命との末子武御名方富

りひめ

たけみなかたとみ

尊(

武御名方)

と日向の現地妻多紀理姫命が生んだ末子

たけみなかた

たきりひめ

伊毘志都幣尊(

事代主)

の相続争いが起こり武御名方は

ことしろぬし

たけみなかた

出雲を追われて諏訪大社(

長野県諏訪市)

の地に隠棲こ

いんせい

れも善政をしいたと社伝が伝えている

武御名方尊はもちろんここ諏訪大社に祀られている

原田常治氏はこれが[

記紀]

が記す「出雲国譲り物語

り」の真相だったとし国譲りの時にオオナムチが

43)

恰も生きているように書いているがこれは造作物語り

である

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 34: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 34 -

しかし筆者は「乙巳(

年)

の変」以降の百済族による

645

大和政権の乗っ取りを「出雲の国譲り」として書いたと

みている詳細は後の第十章で詳述する

宋史が証明した国王須佐之男尊

そう

中国の史書『宋史卷四九一外國伝日本國』の条

そうし

225)

に「雍熈元年日本國の僧奝然其の徒五六人と海

ようげん

ちようねん

に浮かんで至り銅器十事并びに本國職員令王年代紀

各一卷を獻ず」とあり王年代紀の第一に天御中主尊

第十八代には素戔嗚尊(

須佐之男尊)が記され二十

四代に磐余彦尊が名前を連ねている磐余彦尊は記紀で

は初代神武天皇である

ともあれ「宋史外國伝日本國」に載った古代の王名

をわかり易く表にすると次頁表のようになる

「其後皆以尊為号」とあり古事記のように「神」で

はなく書紀と同様「尊」を用いている

また「凡そ二十三世並びに筑紫の日向宮に都す」と

あり彦波瀲武草葺不合尊までは九州日向に宮をもって

ひこはなぎたけうがやふきあえず

いたことになる筑紫の日向宮とは宮崎県の西都市周辺

をさしている宋

史は中国の正史の一つで年完成した宋そ

1345

代の歴史を記録した紀伝体の書で雍熈元

ようげん

16)

年は北宋時代(

~年)

の年号で日本の永觀

えいかん

960

1127

二年(

年)

にあたる

984また同史に「彦瀲の第四子を神武天皇と号

ひこなぎ

す筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」

かしはらのみや

とある

日本國の僧奝然が中国の宋朝に持参した「王年代紀」

225)

天御中主_

天村雲尊_

天八重雲尊_

天弥聞尊_

天忍勝尊_

贍波

(1)

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

尊_

万魂尊_

利々魂尊_

国狭槌尊_

角龔魂尊_

汲津丹尊_

面垂

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

見尊_

国常立尊_

天鑑尊_

天万尊_

沫名杵尊_

伊奘諾尊_

素戔

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

烏尊_

天照大神尊_

正哉吾勝速日天押穂耳尊_

天彦尊_

炎尊_

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

瀲尊_

磐余彦尊_(

中略)

_

守平天皇(

円融天皇)と続く

(24)

(64)

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 35: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 35 -

「彦瀲尊」は熊野楠日尊の諡号彦波瀲武草葺合不尊

ひこなぎ

くまのくすひ

ひこはなぎたけうがやふきあえず

の略称であるだから二十四世は磐余彦尊(

神武天皇)

いわれひこ

いうことで符合している

奝然は三論宗の東大寺僧で平安京西の愛宕山に伽藍

ちようねん

あたごやま

を建立するため中国の天台山五台山への巡礼を企図

しこの前年に呉越の商人陳仁爽徐仁満の船に便乗

し中国への渡海したという

55)

[

古事記]

は和銅五(

)年[書紀]

は養老四(

)

年にすで

712

720

に成立して以来年も経った時期であるにもかかわ

264

らずこの王年代紀は現在我々が目にする[

記紀]

と異な

る系譜を記しておりそれが中国の宋朝に持参されてい

るのである

中国は他国の王年代紀を改竄する筈もないし奝然の

ちようねん

持参したものは当時の真相を伝えていると考えられス

サノオは国王として位置づけられていたことを図らずも

中国の宋史が証明してくれている

[

記紀]

の云う皇国の本主はもちろん天照大神で日本の

総社は伊勢神宮の筈であるしかしさきにも記したよ

うに大同五(

)

年正月嵯峨天皇はスサノオを祀る津

810

島神社に「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり故に日本

の総社と崇め給いしなり」として日本総社の号を奉ら

れている

また一条天皇(

寛和二(

)

~長元九(

)

年)

は津島神

986

1036

社に天王社の号を贈られたことは先にも書いたが[

記紀]

が編纂された後もスサノオは天皇にとって如何に重要

な存在だったかを物語っている

同時に天皇はもとより当時の人々にとって[

記紀]

は全く無視されていたのかも知れない少なくともま

ともに取り扱われていなかったのではないかそんな疑

念を抱かざるを得ないという

23)

ともあれこの国の天皇家の皇祖は正しくは建国の

始祖王スサノオ尊あるいは大和朝廷の開祖ニギハヤヒ

尊とすべきであるスサノオ尊も広島県三次市甲奴町

の須佐神社では「神天照真良武雄神」として祀られてい

かむあまてらすま

らたけお

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 36: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 36 -

たと云うやはり天照が冠せられているが最近はま

43)た須佐之男尊に変わっている

記紀に史実を消された須佐之男尊一族

すさのおのみこと

スサノオは九州の統合には一部でやむなく武力を使

ったそのためか南九州の人々にスサノオに対する反

発が残りこの地方には出雲式の銅剣銅矛祭祀の遺跡

がなくスサノオを祀る神社も少ないそしてこのこ

とが[

記紀]

に暴れ神にされた一因になったのではないか2)

ともみられている

そればかりか[

記紀]

はスサノオの建国した和国饒

速日尊の大和建国の史実をはじめ系譜まで改竄し当

かいざん

時祀られていた神社の祭神名まで改変したことが判明し

た原

田常治氏は「日本書紀は嘘八百の創作歴史を書い

43)

てそれでも誤魔化しきれないところをお伽話のよう

な神話にして誤魔化したでっち上げたものががばれる

ことを恐れて二神社の古文書を取り上げ史実を書い

ていたと思われる十六家の系図を没収した」とみている

[

記紀]

編纂の最中とみられる持統天皇五(

)

年のこと

じとう

691

八月十三日条に「其の祖等の墓記を上進らしむ」と

はかつき

たてまつ

69)

簡単に書いているがその意図は推して知るべしである

没収された二神社と十六氏族は次のとおりだった

石上神宮(

天理市布留町)

の古文書(

スサノオオオトシ

いそのかみ

(

饒速日)

尊一族その末裔である物部氏)

にぎはやひ

もののべ

饒速日大王の陵墓を御神体として祀る大神神社(

桜井市

にぎはやひ

おおみわ

三輪三輪氏)

の古文書

以下豪族十六氏の系図古文書

春日氏大伴氏佐伯氏雀部氏阿部氏膳部氏

かすが

おおとも

さえき

ささべ

かしわべ

穂積氏采女氏羽田氏巨勢氏石川氏平群氏木

ほづみ

うねめ

いしかわ

へぐり

(

紀)

角氏阿積氏藤原氏上毛野氏で大伴氏と藤原

つね

あづみ

ふじわら

かみつけの

おおとも

ふじわら

氏を除けばいずれも須佐之男尊や饒速日尊の後裔であ

にぎはやひ

[書紀]の編纂を統括していたであろう藤原不比等は

ふじわらのふひと

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 37: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 37 -

自らの系図を都合良く創作したことであろう百済から

来た父鎌足(

本名智積)

の出自を中臣氏の系図にそっと

かまたり

ちしやく

挿入している

後に藤原仲麻呂の書いた「鎌足伝」には「内大臣諱いみな

は鎌足字は仲郎大倭國高市郡の人なりその先は

あざな

なかちこ

やまとのくに

天児屋根命より出ず(中略)

美気祐卿の長子なり

あめのこやね

みけこきよう

母は大伴夫人と曰う」と

おおとものとじ

鎌足の先祖は天児屋根命だとしているが天児屋根命

は紀元前二世紀の人物である鎌足の父美気祐(

御食子)

みけこ

みけこ

以前の系譜は伏せている

また元明天皇が即位した和銅元(

)年正月天下に大

げんめい

わどう

708

赦を出した「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持ってい

る者は百日以内に自首せよさもなくば恩赦しない」

という詔勅まで出している念には念を入れて古代王

70)族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう

ところで持統天皇六(

)

年三月天皇(

野讃讚良)

じとう

うのさんさら

691

新たに伊勢に神祠を創祀し皇祖神として天照大神(

向津姫

=大日霊貴)

を祀りその行幸をしようとしたときニギ

ハヤヒの末裔「三輪朝臣高市麻呂は冠位を脱ぎ捨てて

みわあそんたけちまろ

まで阻止しようとしたしかし天皇は聞き入れず遂に

伊勢に幸す」とある

69)

ニギハヤヒの陵墓大神神社を祀っていた大神(

大三

おおみわじんじや

おおみわ

輪)

朝臣高市麻呂にとっては一大事であった

たけちまろ

しかし彼は大宝二(

)

年二月十七日左遷されて長

702

門守に下ったが四年後に没したまた同年八月十六日

石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷された

いそのかみ

いそのかみあそんま

70)

[

記紀]

の編纂がすすんでいた頃のことで朝廷と権力

者藤原不比等は[

記紀]

で史実を改竄してそれが発覚

ふじわらのふひと

かいざん

指摘されるのを恐れたのであろう

こうして大歳尊(

ニギハヤヒ)

亡き後大歳御祖皇大

神天照魂神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として祀

られていたものを[

記紀]

は日向のイザナギの娘向津姫

むかつひめ

尊を天照大神にして皇祖神を差し替えたのである

向津姫の諡号は撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊で「天

つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 38: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 38 -

照」の尊号は片鱗もない別名大日霊女尊とあるとこ

おおひるめ

ろをみれば巫女役も務めていたのであろう

[

記紀]の編纂以前から祀られた神社の祭神名には

大日霊女貴尊はあるが天照大神で祀ったものはない

おおひるめむち

13)43)

というまさに饒速日尊(

諡天照国照彦天火明櫛玉

にぎはやひ

あまてらすくにてるひこあまのほあかりくしたま

饒速日尊)

の天照魂大神の横領である

にぎはやひのみこと

あまてらすみたまおおかみ

さらに云えば[記紀]の編纂当時は持統女帝(野讃讚良

じとう

うのさんさら

=天智天皇の娘)の時代だった野讃讚良は天武天

うのさんさら

皇の没後即位の儀も経ずに強引に皇位を横取りして女

帝となった人物である

だから女帝の正統性を強調するためにも女神

大日霊女貴尊(

向津姫)

を皇祖神にしたかったのであろう

おおひるめむち

それにはスサノオやオオトシ(

ニギハヤヒ)

の史実を抹

殺するしかないたぶん当時の権力者藤原不比等の差

ふじわらのふひと

し金だったことは云うまでもないそうした意図は後

に天皇名の称号を付けたとされる淡海三船(

~年)

おうみのみふめ

722

785

16)

も意識されたのであろう持統天皇の諡号をなんと

じとう

「高天原廣野姫天皇」と名付けているではないか

たかまがはらひろのひめ

69)

[

記紀]

の天孫降臨神話は高天原を舞台にしてしている

てんそんこうりん

たかまがはら

高天原はどこだったかの詮索は無意味であってこれは

全くのお伽話だった強いて云えば八世紀の朝廷にお

とぎばなし

ける持統女帝を天孫と見立てた百済族の居た藤原不比等

じとう

の用意した宮殿

藤原宮(

奈良県橿原市)

を想定したもので

あろう

ところで島根県出雲市大社町にある出雲大社は正

殿に大国主(

大己貴尊)

左殿に日向での現地妻多紀理姫

たきりひめ

命そして右殿には正妻の須世理姫命を祀っているこ

すせりひめ

こは今も縁結びの神様として賑わっている

この大社はいつ頃の創建かと調べてみると[

古事記]

が書き終わった四年後[

書紀]

編纂の最終段階とみられ

る元正天皇の霊亀二(

)

年に完成したことがわかったと

げんしよう

れいき

716

43)

云う

大穴牟遲(

大己貴)

尊が亡くなったのは

年頃とみら

おなむじ

おおなむち

BC103

れるからなんと八百年以上もたってからのことになる

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

Page 39: Taro-第3章 建国の始祖王 須佐之 - syamashita.net · - 1 - 第 三 章 日 本 列 島 に 初 め て 和 国 を 建 国 し た 須 佐 之 男 尊 平 成 二 十 七

- 39 -

朝廷はその七年前の和銅二(

)

年にも京都府亀岡市

わどう

709

に出雲大神宮を建てていたこともわかった

[

記紀]を書いている最中に天照大神を祀る伊勢神宮を

そして大国主神を祀る出雲大社や出雲大神宮を造営した

のである

これはいったい何を意味しているのであろう[

記紀]

を詳しく読めばその答えが出ているあえて説明の必要

もないことと思うが念のためその部分を紹介しておこ

うま

ず[

古事記]

から見ていこう証拠は上巻の「葦原

中国平定」の「大国主神の国譲り」の段にあったわか

りやすくするため現在文にしたものを引用すると国

譲り交渉の最後に

「大国主神は答えて『この葦原中国は仰せのままに

あしはらのなかつくに

すっかり献上致しましょうただ私の住み家だけは天

津神の御子が天津日継ぎを伝えなさる天の住居のように

大磐石の上に宮柱を太く立て高天原に千木を高く聳えそび

させてお祀り下されば私は多くの道の曲がり角を経て

行った果ての出雲に隠れておりましょう』とこう申し

て云云」と

[

書紀]

の巻第二神代下では「経津主神武甕槌神を

ふつぬし

たけみかづち

使わして葦原中国を平定させる二神は出雲に到り

て(

中略)

大己貴神(

大国主神)

に迫った

帰って報告したところ高皇産霊尊は後に二神を使

たかみむすひ

わして『(

大国主神に)

汝は神の事を治めよまた汝は

なんじ

天日隅宮(

出雲風土記の日栖宮杵築大社=今の出雲大

あまぴすみのみや

社)

に住むべしいま造ろう即ち千尋(

非常に長い)

の栲縄

ちひろ

たくなわ

(

コウゾなどの皮でよりあわせた縄)

をもって結び百八十

ももあまりやそ

紐にしようその宮は柱は高く太く板は幅広く厚

むすび

く云云そして汝の祭司は天穂日命とする』と大己貴

あまのほひ

神に云った

大己貴神は答えて云うには『天神のおっしゃることは

誠に尤もです私は命令に従いましょう私は引

もつと

退して霊界のことを治めましょう云云』と云いました」

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 40 -

[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 42 -

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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[古事記]

は「大国主神は国譲りと引き換えに立派な

宮殿を要求した」とし[

書紀]

は「すすんで宮を建てる

と約束した」と云うのであるそして「神主は天穂日命

あまのほひ

とす」つまりスサノオと向津姫の御子(

次男)

であると

むかつひめ

いうことは出雲大社の前身天日隅宮の祭神はもとは

あまぴすみのみや

大己貴神でなくスサノオを祀る神社として建てたので

あろう

[

記紀]

はこうして「出雲の国譲り」物語りを書いた

手前出雲族(

スサノオニギハヤヒ他出雲の神々)

まとめて杵築大社を造営して[

記紀]

の記述に整合させた

きつき

のである

和国創建の始祖王スサノオそして大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ大王の史実を抹殺するために[

記紀]

の編纂途

上で大国主神を創作して杵築大社(

今の出雲大社)

を霊亀

きつき

れいき

二()

年に建てたのである

716

43)

ところが寛文六年(

年)

に天穂日命の末裔毛利綱広

かんぶん

あまのほひ

1666

16)

が寄進した同社の銅鳥居の銘文に「素戔嗚尊者雲陽大社

神也」と刻まれておりこの当時は祭神がスサノオだっ

たことを証明している

原田常治氏も出雲大社を幾度か訪れたが最初はス

43)

サノオが祀られていたと思ったがいまは大国主神にな

っている(

昭和年月)

と云う

51

9

大国主は建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニ

ギハヤヒ(

オオトシ)

の偉業を抹殺するために創作した目

くらましに他はならいと云う

83)

その証拠に藤原不比等は二ギハヤヒを祀る奈良市漢

ふじわらのふ

国町の漢国神社に大国主神を配祀してみずからその見

かんごうじんじや

本を示したまた聖武天皇は諸国の総社に大国主神を

しようむ

祀るよう勅命を出したともいう

13)

神社事典によると漢国神社はもと推古天皇元(

)

かんごうじんじや

すいこ

128)

593

に大神君白堤が園神を祀ったのに始まり養老元(

)

おおみわのきみはくて

そのかみ

ようろう

717

に藤原不比等が韓神二座を合祀したと云う

ふじわらのふひ

からかみ

園神は大物主大神つまり大歳(

饒速日)

尊の偽名で

そのかみ

おおものぬし

おおとし

にぎはやひ

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

- 41 -

大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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大神君白堤の先祖神である大神君白堤が当初に祀った

おおみわのきみはくて

おおみわのきみはくて

のは園神と云う曖昧な神でなく大歳(

饒速日)

尊だった

そのかみ

あいまい

おおとしにぎはやひ

筈であるその後誰かが園神に書き換えたものとみら

そのかみ

れるおそらく藤原不比等の指示であろうか

ふじわらのふひ

また韓神二座とは大己貴命と少彦命を指すらしい

からかみ

おほなむち

すくなひこ

がどうして韓神つまり韓からの渡来神としたのであ

からかみ

ろうかもうこれ以上説明の必要もないことと思う

傀儡の大国主は[

記紀]

には大穴牟遅葦原色許男

かいらい

おおなむち

あしはらのしこお

八千矛宇都志国玉大物主などの別名がたくさん付け

やちほこ

うつしくにたま

おおものぬし

られ性(

神)

格が一定していない

これはいろいろな出雲神の総称として描かれていて

必ずしも別名の神のすべてが大己貴(

大穴牟遲)本人の活

躍をあらわしたものでないことを示している13)

改ざん創作された「記紀神話」の真相を知らない一

般民衆は大国主は偉い神様で「因幡の素兎」神話か

いなば

しろうさぎ

ら慈悲深い神さまだと思っている

その後字音の「ダイコク」からインドから伝わっ

たヒンズー教の「大黒天」と習合し福の神縁結びの

だいこくてん

神にそして大穴牟遅命の御子伊毘志都幣尊はその音韻

おおなむち

いびしつぬ

からこれも七福神の一つ「恵比寿」と混同された

えびす

この二人は「恵比寿さま大黒さま」として福の神

えびす

商売繁盛の神さまとして手を繋いでこの世を闊歩し

ている始末である

要するに須佐之男尊や御子大歳(

饒速日)

尊ら出雲

おおとし

にぎはやひ

一族の建国した和国大和国を乙巳(

年)

の変に始ま

いつし

645

り八世紀には大和政権の重臣を完全に排除して朝廷を

牛耳った百済政権が「出雲の国譲り」と云う神代のシナ

くだら

リオにして誤魔化したのが[

記紀]

の神代神話「出雲の国

譲り」だったのである

詳細は第十章「大和政権を乗っ取った人々」で論証す

ることとしたい

第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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第三章 和国建国の始祖王 須佐之 男尊すさのおのみこと

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