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レイダースとマチュ=ピチュ遺跡 1936年のこと,アメリカ合衆国の考古学者が, ペルーのジャングル地帯にある古代の岩窟神殿で, 黄金の聖像を発見した。盗まれないように二重三 重の罠がしかけられていたが,大学教授でもある この学者は,それをかいくぐり聖像を手にいれる。 しかし神殿の出口で,フランス人考古学者によっ て聖像を横取りされてしまう。 これは,アメリカ映画『レイダース/失われた アーク《聖櫃》』(1981年)の冒頭エピソードであ る。映画は,題名どおり,考古遺物を「荒らす人 たちRaiders」の冒険活劇で,聖像を横取りされ た主人公インディ=ジョーンズは,その後,アメ リカ陸軍の要請を受けて,モーセの十戒石版が納 められている聖櫃を発掘するために,エジプトへ 向かう。そして映画の終幕,ナチスとの聖櫃争奪 戦に勝利したインディは,不思議な殺傷力をもつ 聖櫃を封印する。 フィクションとはいえ,発見文化財の行方が気 になる映画である。聖像は,横取りされなければ, インディが売却先と考えていたアメリカのどこか の博物館の所有物になっていたのだろうか。ある いは,ペルー政府から聖像の返還を迫られること になるのだろうか。聖櫃も同じだ。聖櫃は,イン ディに発掘資金を提供したアメリカ政府のものな のか。それともエジプトの国有財産なのだろうか。 映画は,こうした疑問をさらりとかわす。聖像は, フランス人考古学者によってやみ市場で売りさば かれ所在不明になり,聖櫃は,アメリカ軍によっ て本土の巨大倉庫に隠匿されるのである。 インディのモデルのひとりは,イェール大学の 歴史学教授ハイラム=ビンガムだと考えられてい る。ビンガムは,1911年に大学の調査隊を率いて ペルー国内でインカ帝国都市の探索をしていたお り,マチュ=ピチュ遺跡を発見した。そして,数 度にわたり土器などの遺物を大学に持ち帰った。 ただし,映画のインディとは違い,ペルー政府の 了解を得たうえでの搬出だったともいわれている。 18世紀まではどの国であっても,発見物あるい は私有物であれば,それがどれほど貴重な文化財 であろうと,国外に持ち出すことについて,基本 的に制限はなかった。だが,ビンガムが生きた時 代は,国境を越えて重要な文化財を移動させよう とすれば,地元政府の許可が必要な時代になって いたのである。では,国境を越えての文化財移動 に,なぜ地元政府の許可が必要になったのだろう か。このルールが人類社会の通則になっていく過 程は,国民国家というイデオロギー,つまりナショ ナリズムが地球をおおっていく過程でもある。 近代ヨーロッパと博物館 ナショナリズムと文化財のかかわりの起点に位 置する重要人物のひとりに,フランス革命期の議 会人であるアンリ=グレゴワールがいる。1794年 8月31日の国民公会で,グレゴワールは,次のよ うに語った──「個人ではなく全員の所有物であ るからこそ,われわれは,国民のものに大きな関 文化財とナショナリズム 京都大学教授 杉本淑彦 歴史 に学ぶ 現代 諸課題 マチュ=ピチュ遺跡発見から100年後の2011年,出土品がペルー に戻されることになった。(2012年 帝国書院撮影)
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sekaisi14 02 h2 p01...デイヴィッド=M=ウィルソン著,中尾太郎訳『大英博物館 の舞台裏』(平凡社,1994年)...

Jul 08, 2021

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Page 1: sekaisi14 02 h2 p01...デイヴィッド=M=ウィルソン著,中尾太郎訳『大英博物館 の舞台裏』(平凡社,1994年) シャロン=ワックスマン著,櫻井英里子訳『奪われた古代

レイダースとマチュ=ピチュ遺跡 1936年のこと,アメリカ合衆国の考古学者が,ペルーのジャングル地帯にある古代の岩窟神殿で,黄金の聖像を発見した。盗まれないように二重三重の罠がしかけられていたが,大学教授でもあるこの学者は,それをかいくぐり聖像を手にいれる。しかし神殿の出口で,フランス人考古学者によって聖像を横取りされてしまう。 これは,アメリカ映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)の冒頭エピソードである。映画は,題名どおり,考古遺物を「荒らす人たちRaiders」の冒険活劇で,聖像を横取りされた主人公インディ=ジョーンズは,その後,アメリカ陸軍の要請を受けて,モーセの十戒石版が納められている聖櫃を発掘するために,エジプトへ向かう。そして映画の終幕,ナチスとの聖櫃争奪戦に勝利したインディは,不思議な殺傷力をもつ聖櫃を封印する。 フィクションとはいえ,発見文化財の行方が気になる映画である。聖像は,横取りされなければ,インディが売却先と考えていたアメリカのどこかの博物館の所有物になっていたのだろうか。あるいは,ペルー政府から聖像の返還を迫られること

になるのだろうか。聖櫃も同じだ。聖櫃は,インディに発掘資金を提供したアメリカ政府のものなのか。それともエジプトの国有財産なのだろうか。映画は,こうした疑問をさらりとかわす。聖像は,フランス人考古学者によってやみ市場で売りさばかれ所在不明になり,聖櫃は,アメリカ軍によって本土の巨大倉庫に隠匿されるのである。 インディのモデルのひとりは,イェール大学の歴史学教授ハイラム=ビンガムだと考えられている。ビンガムは,1911年に大学の調査隊を率いてペルー国内でインカ帝国都市の探索をしていたおり,マチュ=ピチュ遺跡を発見した。そして,数度にわたり土器などの遺物を大学に持ち帰った。ただし,映画のインディとは違い,ペルー政府の了解を得たうえでの搬出だったともいわれている。 18世紀まではどの国であっても,発見物あるいは私有物であれば,それがどれほど貴重な文化財であろうと,国外に持ち出すことについて,基本的に制限はなかった。だが,ビンガムが生きた時代は,国境を越えて重要な文化財を移動させようとすれば,地元政府の許可が必要な時代になっていたのである。では,国境を越えての文化財移動に,なぜ地元政府の許可が必要になったのだろうか。このルールが人類社会の通則になっていく過程は,国民国家というイデオロギー,つまりナショナリズムが地球をおおっていく過程でもある。近代ヨーロッパと博物館 ナショナリズムと文化財のかかわりの起点に位置する重要人物のひとりに,フランス革命期の議会人であるアンリ=グレゴワールがいる。1794年8月31日の国民公会で,グレゴワールは,次のように語った──「個人ではなく全員の所有物であるからこそ,われわれは,国民のものに大きな関

文化財とナショナリズム

京都大学教授 杉本淑彦

歴史に学ぶ現代の諸課題

マチュ=ピチュ遺跡発見から100年後の2011年,出土品がペルーに戻されることになった。(2012年 帝国書院撮影)

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心を寄せ,それに留意してきた。科学と芸術のあらゆる記念物に対して,すべてのよき市民は,その保護に努めるべきである」 グレゴワールは,文化財を保護する志向を,フランス国民のアイデンティティとして宣揚したのである。そして,「国民のもの」となった王家・亡命貴族・教会由来の文化財を保護・展示する場所として,ルーヴル美術館が整備されていく。 ナショナリズムと文化財の次の段階は,フランス革命戦争が1794年を境に対外侵略の様相を強めていくことで始まった。フランス軍がイタリアなどの占領地から文化財を戦利品として獲得し,それらをルーヴル美術館に運び込んだのである。自国を原産地としない文化財を「国民のもの」として所有することが大国意識を刺激し,それがフランス=ナショナリズムの重要な要素となった。 ナポレオンの失脚後に,それら戦利品はおおむね返還された。だが,国境外に由来する文化財を収集し展示するという動きは,ナショナリズムの発展と軌を一にし続ける。とりわけ好んで収集されたのが,古代エジプト文明の遺物だった。イタリア統一運動を推進することになるサルデーニャ王国は,1824年,首都トリノにエジプト美術館を創設する。ドイツ統一の核となるプロイセンは,1830年にベルリン博物館を開館させ,1836年に大量のエジプト文化財を購入する。 ナポレオン後のフランスも,古代エジプト文化財の収集に熱心だった。ルーヴル美術館内にエジプト古美術部門が創設され(1826年),その部門の責任者としてコレクションの選定にあたったのがシャンポリオンである。 イギリスも,こうしたナショナリズムと無関係ではなかった。1753年に開設された大英博物館は,19世紀に入って古代エジプト文化財の収集に努める。大英博物館の至宝の一つが,1802年からコレクションに加わったロゼッタストーンである。 帝国主義時代にはいると,欧米各国の博物館には,植民地などの各勢力圏から,大量の文化財が流入することになる。帝国主義国の国民は,「国民のもの」となったそのような文化財を自国で目にすることで,大国意識をくすぐられたのだった。ナショナリズムと普遍主義 だが,植民地支配などから脱した旧従属地域が,

近代ヨーロッパにならい歴史認識などを通じて国民国家を新たに創造しようと志向しだすことで,ナショナリズムと文化財の新段階が始まる。とりわけ,1960年代後半から発言力を強めた旧従属地域の政府が,旧帝国主義諸国に対して,流出文化財を「われわれ国民のもの」だと主張して返還を求めだした。こうして,1970年のユネスコ総会で,「外国軍隊による一国の占領から発生する強制的な文化財の搬出と所有権の譲渡は不法とみなす」ことが合意された。だがこの合意は,返還を要求される側の国々の意向をくんで,1970年以前のものには適用されなかった。 返還要求国は,その後もナショナリズムを振りかざすことになる。ギリシャの文化大臣メルクーリは,パルテノン神殿からはぎとられて大英博物館で展示されている彫刻の返還を求め,1983年1月,イギリスで次のように語った──「ギリシャ人にとってパルテノン・マーブルは,国民的な観念と,はぐくまれた記憶を意味しています」。そして2010年4月には,返還要求側の国々がカイロで国際会議を開催し,合法的に流出したものであっても「国家と国民の重要な文化を表すもの」は返還すべきだと主張するにいたった。 一方,返還を要求されている国々では,返還に否定的な声が強い。原産国側の博物館が有する管理能力への疑念や,戦乱などで失われたかもしれない文化財を守ってきたという自負に加えて,ナショナリズムそのものが批判されるようになった。2002年12月,欧米の主要博物館は,文化財は特定の国民国家に帰属するのではなく人類に帰属するのだ,という普遍主義をもち出したのである。 ナショナリズムにつき動かされて従属地域の文化財を収集してきた欧米諸国は,旧従属国が同じナショナリズムでもって文化財の返還を要求するようになると,対抗して普遍主義を掲げるようになった。文化財のこうした歴史を知っておくことが,私たちが世界の人々とつき合っていくうえで必要なことだろう。

【参考文献】デイヴィッド=M=ウィルソン著,中尾太郎訳『大英博物館の舞台裏』(平凡社,1994年)シャロン=ワックスマン著,櫻井英里子訳『奪われた古代の宝をめぐる争い』(PHP研究所,2011年)

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19世紀アジアの経済発展とボンベイ・大阪の紡績業

大阪大学大学院文学研究科・世界史講座 教授 秋田 茂

世界史のなかの日本

 19世紀は通常,イギリスを中心とした世界体制,パクス=ブリタニカが確立され,地球的規模での世界の一体化(グローバル化)が達成された時代と考えられている。アジア世界はその体制に植民地や勢力範囲として組み込まれ,経済的には第一次産品(工業原料や食料)の生産地域として欧米への従属を余儀なくされたと解釈されてきた。 これを中心国であるイギリス側からみれば,東アジアでは,2回のアヘン戦争による砲艦外交や,南京条約,北京条約,安政の五カ国条約などの「不平等条約」の締結を通じて「自由貿易帝国主義」

(imperialism of free trade)政策が実現し,他方,英領インドや東南アジア諸地域は,脱工業化が進展して,帝国主義・植民地支配のもとで低開発

(underdevelopment)状態に転落した点が強調されてきた。こうした欧米中心の世界史像は,19世紀後半からのアジア綿工業の勃興を前に,新たな観点からの見直しが必要である。その再考の舞台は,イギリス公式帝国のボンベイ(現ムンバイ)と,明治時代の大阪である。

 最初に,19世紀中葉のボンベイにおける綿紡績業の「復活」について考えてみよう。 ボンベイにおいて,インド系商人により最初の機械紡績工場が設立されたのは,1853年のパールシー商人にさかのぼる。しかし,インド綿紡績業の勃興のきっかけは,1860年代前半のアメリカ南北戦争による「棉花飢饉」(アメリカ南部諸州からの棉花供給途絶)と,その代替供給源としてのインドの棉花ブームによりもたらされた。棉花取引で多大な利潤を得た現地の貿易商が,機械紡績業への投資を行うようになった。ボンベイを中心としたインド紡績業は,1870年代までは,番手1

ボンベイ紡績業の「復活」1

の低い太糸をインド国内の手織織布職人に供給するという,内需主導型で発展した。その規模は,1880年には,58工場で雇用数4万人,1914年までには,271工場で雇用数26万人に達した。 初期のインド企業家の代表例として,後のタタ財閥の創始者,ジャムセットジ・N・タタ(Jamsetji Nusserwanji Tata)の活動に着目したい。ボンベイに本拠をおくパールシー教徒の貿易商の息子であったJ.N.タタは,棉花ブームの時期にイギリスに派遣され,ランカシャー地方の綿工業の繁栄を見聞する機会を得て,インド現地で近代的な綿紡績工場を創設する事業に着手した。1873年には,本格的な綿工場創設のために再度渡英し,機械設備(旧式のスロッスル紡績機1万5552錘,ミュール紡績機1万4400錘,力織機450台)を買いつけ,74年に中央インドのナーグプルで中央インド紡績株式会社を設立した。この新工場エンプレス・ミルは,中央インドのデカン高原の棉花生産地帯の中心に位置し,ボンベイから内陸部にのびる大インド半島鉄道会社の鉄道路線の終点に設立された。有利な立地条件と大規模な生産設備,および近代的な経営管理方式の導入により,インド紡績業においてモデル工場として機能して,順調に収益を上げた。 エンプレス・ミルの成功により,J.N.タタは綿工業部門の拡充をはかった。1882年には,資本金100万ルピーでボンベイにスワデシ・ミルを設立した。この会社は,従来のインドの機械製綿工業が国内市場向けの低級綿布と中国市場向けの太番手(20番手以下)綿糸の生産に特化してきた慣例を打破し,イギリス本国の綿業が独占的に手がけてきた上級綿布の生産にインド人経営企業として初めて参入した点で,画期的な意義を有した。 1880年代になると,ボンベイ綿紡績業は,東ア

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ジアの中国,日本市場への輸出をのばし始めた。対中国向けの綿糸輸出では,早くも70年代末にインド産品がイギリス本国産の綿糸を抜き去り,20世紀初頭には,ボンベイの綿糸輸出量の約9割,生産量の6割近くが中国市場に向けられた。このボンベイと激烈な競争を展開したのが,次に述べる大阪の綿紡績業であった。世界で最初の産業革命を支えたはずのイギリスのマンチェスター産の綿糸は,このアジア内部の競争に耐えられず,いち早く競争から脱落したのである。

 大阪の機械製綿紡績業の発展は,1883年開業の大阪紡績会社の開業が端緒となった。ランカシャーで紡織の実地訓練を経験した技術者山辺丈夫のもとで,イギリスのプラット社の最新鋭のミュール紡績機1万500錘を備え,昼夜2交代制で運営された大阪紡績は,高収益を実現し,その成功は多数の紡績工場が大阪に林立する引き金となった。 大阪の綿紡績業は,当初は国産棉花と中国棉を原料として,太糸を生産していた。1890年ころになると,綿糸の生産高が増大し,新たに海外にその市場(販路)を求めざるをえなくなった。綿糸生産の重点も,国内向けの太糸から輸出向けの中糸に切りかえられ,それに伴い新たな棉花の供給地を確保する必要が生じてきた。 日本紡績業の業界団体で大阪に本拠をおいた大日本綿糸紡績同業連合会(略称:紡連)は,政府に棉花輸入関税の撤廃を請願することを決めた。紡連代表の請願に対して,井上馨農商務相は,インドでの実情調査の必要性を説いた。そして,1889年に日本政府は,農商務省の書記官,佐野常樹をインドに派遣し,インド棉の現地での栽培状況やインド紡績業の実情を調査させた。このインド棉調査団には,紡連から,大阪紡績・三重紡績の社員が随行した。一行は,約半年にわたりインド各地を訪れ,ボンベイに滞在中に,試験的に少量のインド棉を買いつけて日本に送った。 三重紡績と大阪紡績の両社は,購入したインド棉を使用して高品質の綿糸(20番手)の生産に成功し,これをきっかけに1890年には,紡績業界で

大阪の綿紡績業の勃興─「東洋のマンチェスター」へ2

インド棉の使用が本格化した。その使用量は,1890年に国内棉花消費の19%,91年に39%,92年には49%に達した。インド棉の輸入は,当初,大阪紡績がボンベイのタタ商会と特約を結び一手に輸入し,タタ商会は,1891年に神戸に支店を設置した。この特約は同年に,棉花輸入を専門にした内外綿(1887年設立)に譲渡され,同社はインド棉輸入の約3分の2を独占するにいたった。 この内外綿による輸入独占状態に反発して,大阪に本拠をおく紡績各社は,大阪の経済界の有力者の賛同を得て,インド棉の直輸入を行うために,1892年11月に,日本綿花(略称:日綿)を設立した。この日綿が,のちに三井物産と並んで,インド棉輸入で中心的役割を演じ,インドの鉄道を利用した内陸部での直接購入(直

じき

買い)にのりだすことになる。 大阪の有力な紡績会社は1890年代以降,力織機を備えた大規模な織布工場ももつようになった。いわゆる「紡績兼営織布」であるが,大阪紡績はこの点でもパイオニアとなった。こうして大阪の紡績業は,19世紀末の日本の消費財生産を中心とする工業化を牽引することになり,大阪は世紀末の日清戦争のころから,「東洋のマンチェスター」とよばれるようになった。

 日清戦争直前の1893年に,東京に本拠をおいた三菱系の海運会社である日本郵船(NYK)は,神戸とボンベイを結ぶ航路を,日本で最初の国際定期航路として開設した。このボンベイ航路の最大の積み荷は,インド内陸部で栽培され,イギリ

日本郵船ボンベイ航路の開設─アジア間貿易の形成3

大阪紡績会社 三軒家工場(大阪大学総合学術博物館叢書6 阿部武司・沢井実著『東洋のマンチェスターから大大阪へ─経済でたどる近代大阪のあゆみ』〈大阪大学出版会,2010年〉,59ページ)

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ス資本で建設された鉄道を通じて港市ボンベイに運ばれたインド棉花であった。それは,前述のように日本の近代紡績業の原料として輸入された。大阪紡績,鐘ヶ淵紡績(鐘紡),摂津紡績など,大阪に本拠をおいた主要な紡績会社は,生産コストを抑えるために,アメリカ棉よりも安価なインド棉を大量に使用したのである。 当初,インド棉を輸送したボンベイ航路は,イギリスのP&O社など外国の海運会社3社が独占し,輸送費用も高くついた。その独占状態(カルテル)に対抗するために,日本郵船は,政府の補助金と紡連の支援を得て,現地のインド系棉花商・タタ商会と共同で,香港・シンガポール・コロンボを経由する神戸=ボンベイ航路を開設したのである。インド側にとっても,日本航路の開設と日本棉花商とのインド棉の直接取引は,イギリスの植民地支配に批判的なナショナリズムが形成されてくるなかで,実利を伴うものであった。というのも,英領インドの内陸部で生産されたインド棉花は,当初予想されていた本国のマンチェスター向けではなく,輸出の6割近くが日本の大阪に向けて積み出されていたからである。インドにおける植民地鉄道建設の受益者の一つが大阪の近代綿紡績業であった点は,注目に値する。 ボンベイ航路で運ばれたのは,インド棉花だけではなかった。帰り荷として神戸港から,大阪や神戸周辺で製造された,マッチ,石けん,洋がさ,ランプなど日用の生活雑貨品が,香港,東南アジア諸地域や英領インドに向けて大量に輸出された。それらは,現地社会の伝統的なニーズにうまく合うようにつくられたアジア独自の近代的商品であり,欧米産の同じような製品と比べると非常に安価で,価格面で競争力があった。 それらの「アジア型商品」の輸出入を手がけたのが,東南アジアを中心に独自の通商ネットワークを張りめぐらしていた,中国南部出身の中国人商人(華僑)やインド人商人(印僑)らの現地アジア商人であった。のちに,大阪の商人(伊藤忠や伊藤萬などの商社)もこの取り引きに参入して,大きな利益を上げた。 こうして,アジアでは,第一次産品輸出(原棉)と工業製品輸入(消費財としてのイギリス綿製品)

という対欧米貿易の拡大と並行して,英領インド(南アジア),海峡植民地や蘭領東インドを含む東南アジア諸地域,中国(香港を含む)および日本

(東アジア)をつなぐ地域間貿易が発展した。杉原薫が提唱した「アジア間貿易」(intra-Asian trade)がそれである。 1883年時点のアジア間貿易の構造は比較的単純であった。英領インドから中国向けのアヘン輸出が主体であり,綿糸は対中国輸出額の1割弱の122万ポンドにすぎなかった。もともと中印間のアヘン貿易は,19世紀前半に英領インド−中国−イギリス本国を結ぶ「アジアの三角貿易」として登場した。19世紀後半になるとアヘン貿易は,サスーン2や華僑,印僑などのアジア系商人に担われて発展し,東南アジアの英領海峡植民地やシンガポールを経由して,英領インドと中国を結ぶ新しい貿易通商網が成立した。だが,19世紀末の1898年の段階になると,英領インドの対中国輸出のなかみは,綿糸417万ポンドに対してアヘン357万ポンドと,アヘンと綿糸の立場が逆転した。 世紀転換期以降のアジア間貿易の発展は,「英領インドの棉花生産─日本とインドの近代綿糸紡績業─中国の手織綿布生産─太糸・粗製厚地布の消費」という連鎖を中心に,その半分近くが綿工業にかかわる「綿業基軸体制」によって支えられていた。すなわち,つむがれた綿糸は中国へ輸出され,中国では,輸入した綿糸が手織機で織布に

アジア間貿易の概念図

インド(ビルマを除く)

ビルマ香 港

中 国(開港場)

シャム

マラヤ

海峡植民地

蘭領東インド

仏領インドシナ

日 本(本土のみ)

中 国

東南アジア

セイロンフィリピンペルシア朝 鮮台 湾

など

他のアジア諸地域

(注)直線で結んだボックス間の貿易が「アジア間貿易」である。(出典)杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』(ミネルヴァ書房,

1996年)99ページより作成

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仕上げられて,広大な国内市場で販売された。その連鎖のなかでもとくに,インド産の棉花と,ボンベイ・大阪両都市の綿糸生産を中心とした工業化の進展が重要であった。日本郵船のボンベイ航路は,こうして形成されたアジア間貿易を支える動脈として機能したのである。 最初に述べた自由貿易帝国主義は,アジア経済のダイナミズムの一端をとらえるにすぎない。イギリスにより「押しつけられた自由貿易」体制のもとで,1913年のアジア間貿易額は,対欧米貿易総額の約8割,約1億6730万ポンドであったが,その成長率は欧米向け貿易を上回り,1883〜1913年の30年間に年平均5.5%に達したのである。帝国主義時代の非ヨーロッパ世界において,独自の地域間貿易網が形成されたのはアジアだけである。私たちは,アジア間貿易の形成に着目することで,

世界史と日本史をつなぐ新たな歴史像(グローバルヒストリー)を構築できるのである。

【参考文献】秋田茂『イギリス帝国の歴史:アジアから考える』(中央公論新社,2012年)秋田茂「綿業が紡ぐ世界史─日本郵船のボンベイ航路」秋田茂・桃木至朗編『グローバルヒストリーと帝国』(大阪大学出版会,2013年)第8章阿部武司『近代大阪経済史』(大阪大学出版会,2006年)大阪大学歴史教育研究会編『市民のための世界史』(大阪大学出版会,2014年)191-196ページ杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』(ミネルヴァ書房,1996年)

注1 一定の重さに対する糸の長さのこと。撚りの強さに

よって太さは変わる。2 インドを拠点にアヘン貿易をしたユダヤ人商人。

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世界史における「海域史」の可能性世界史教育最前線 ~ 刷新!世界史用語 ~

県立広島大学人間文化学部 准教授 岡本弘道

●「海域史」と「陸域史」 「海域史」という言葉から,「海のシルクロード」や海上交易のような海を介した交流の歴史を思い浮かべる人は多いだろう。一方で,「海域」というからには,海の世界に陸地のような境界線を引いて,その範囲を明確に区切るのではと想像する人も少なくないのではないだろうか。尖閣諸島や竹島,南沙群島など島嶼をめぐる国境問題がニュースをにぎわす現状においてはなおのことであろう。 人間の歴史において,その活動の中心が海ではなく陸におかれてきたことは間違いない。数のうえでは大多数の人間は陸上で生活し,社会を構成し,国家を建設してその歴史をつむいできた。その結果,歴史叙述のおもな対象は陸上の国家や社会となり,海が人間の歴史に果たした役割については過小評価されてきたのではないか。そのような問題意識から,海と海を介して営まれるさまざまな活動の影響を受ける空間を一つの「海域」とみなし,歴史叙述を試みようとする動きが生まれてきた。こうして生まれた「海域史」は,海を場として共有する海上・陸上の諸地域を含めての相互作用の歴史として描かれることになる1。●ブローデル『地中海』の画期性 海域の場としての相互作用に着目して新たな歴史叙述を試みたのがフェルナン=ブローデルである。1949年に刊行された彼の著作『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』(日本語訳書名は『地中海』2)は,地中海とそのまわりに存在する国・地域,およびそのなかで活動する人々を一つの場を共有する「地中海世界」ととらえ,その世界をさまざまなレベルでの相互作用の積み重ねによって描こうとしたものである。「アナール派」の代表的な学者の一人であるブローデルは,歴史の叙

述を「環境と人間との関係の歴史」,「社会集団の歴史」,「できごとの歴史」という三つのレベルに整理して,地中海世界の歴史を描こうとした。文献史学的な手法にとどまらず,人類学,地理学,植物学,地質学,科学技術史などさまざまな学問領域の研究成果を博捜し,多面的かつ重層的な歴史を描いた点で,ブローデルのこの業績はアナール派の代表的著作の一つというだけでなく,海域史の歴史叙述においても先駆的な著作であった。 「海のシルクロード」のように,交易ルートとしての海を対象とする歴史研究は,ブローデル以前から「東西交渉史」として研究が積み重ねられていた。そのような東西交渉史の視点と海域史の視点の最も大きな違いは,研究対象とする海の世界を単なる通り道ととらえるか,それこそ歴史をつむぎ出す活動の場であるととらえるかにある。ブローデルのこの業績は,海域そのものが陸域の国家とは異なる形で歴史叙述の対象となりうることを世に知らしめ,海域史に対する関心を大いに高めることとなった。●「つながる」海と「へだてる」海 ブローデルの『地中海』は,海域史によってヨーロッパの歴史研究の潮流を大きく変えるとともに,やがて非ヨーロッパ世界における海域史研究にも影響を及ぼしていった。家島彦一の「インド洋海域世界」研究3や,アンソニー =リードによる東南アジア海域世界の「交易の時代」論4はその代表といえる。これらの研究の特徴として,その叙述の主対象となる海域の独立性や一体性よりも,むしろ複数の海域の間の関係性や連動性を重視していることがあげられる。インド洋海域や東南アジア海域,そして日本を含む東アジア海域といった個々の海域は,当然自然・技術・文化などの諸条

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注1 日本における海域史の研究動向については,桃木至朗

編『海域アジア史研究入門』(岩波書店,2008年)を参照のこと。

2 フェルナン=ブローデル著,浜名優美訳『地中海』(全5巻,藤原書店,1991〜95年)。

3 家島彦一著『海域から見た歴史−インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会,2006年)。

4 アンソニー =リード著,平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア』(全2巻,法政大学出版局,1997〜2002年)。

5 これら東アジア海域に関する研究は,1980年代以降精力的に行われてきた。ここではひとまず村井章介著『世界史のなかの戦国日本』(筑摩書房,2012年),同『増補 中世日本の内と外』(同前,2013年)をあげておく。

6 歴史学研究会編『シリーズ港町の世界史』(全3巻,青木書店,2005〜2006年)。

7 「にんぷろ」の成果出版は汲古書院の東アジア海域叢書など順次刊行中だが,海域史についての概説は羽田正編,小島毅監修『東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史』(東京大学出版会,2013年)が簡便である。

件によってその相互作用のパターンが異なっており,それぞれに強い個性がみられる。だが同時に,これら諸海域は相互に連動しており,文字どおりグローバルな規模で人・モノ・情報を交換し合っていた。地中海世界もそれのみで完結するものではなく,アジア・アフリカの諸海域と結びつくことによって初めて地中海世界たりえたのである。その意味で,海域から歴史をみるということは決して海を区切るということではない。「つながる」機能は海域史のもつ大きな特徴である。 一方で,海域は航海の能力をもたない陸上の大多数の人々にとって「へだてる」存在であったことも否定できない。海域における恒常的な往来を維持するためには,造船技術・航海技術および往来ルート上の地理情報をもつ専門集団の助けが不可欠であった。彼ら海域の専門集団と陸上の人々とを結びつける場所となったのが,航海活動の拠点となる港と,交易のための市を備える「港市」である。港市はその機能を維持しそこに住む人々の生活を支えるために,生産や資源の供給を担う後背地を必要とした。後背地の人々は港市を介してその産品を供給し,外来の商品を入手した。海域のネットワークはこのように港市を結節点として構築され,そこに生きる人々が相互に助け合うなかで維持・発展していったのである。●海域史のもつ多様性と可能性 海域史研究によって得られた重要な成果の一つに,国家史(一国史観)の相対化がある。陸域の国家にとって,海は自らの領域の広がりをさえぎる「境界」であり,「周縁」であった。だがその「境界」,「周縁」を中心に歴史をみると,国家の歴史が決してその内部で完結しているのではなく,外部の世界とつながっていること,そのつながりが国家の歴史に大きく影響していることがわかる。例えば東アジア海域における琉球王国の役割は,海域史の視点抜きでは語りえないものである。また,従来は海賊としてのみ理解されてきた倭寇についても,近年では境界を越えて活動する「境界人(マージナルマン)」として肯定的な評価がされつつある5。

 港市には商人や彼らが取り引きする各種の商品が集まり,多民族が共生する異文化交流の場となった。15世紀から16世紀初頭に栄えたマラッカ王国には4人の港務長官(シャーバンダル)がおかれたが,これはさまざまな地域・民族の来航者に対応するためであった。海域史の題材として,港市のもつ可能性は極めて大きい6。東アジア海域史については,近年行われた港市寧波を軸とする研究プロジェクト(通称「にんぷろ」)の成果出版も次々と刊行されており,参考になる7。 海域によってさまざまな人・モノとともに,多くの情報や価値観の交流も促進された。仏教・キリスト教・イスラームなどの主要な宗教も海域の交流を介して広まった。また中国福建省に由来する媽祖信仰のような航海神信仰は,海域に生きる人々の心性と結びついて発展し,現在も世界各地のチャイナタウンなどでみることができる。 「つながり」がキーワードとなる海域史は,グローバルな規模での国家や地域の相互関連性への関心を高め,世界システム論的な研究にも大きな影響を与えている。世界史を一体のものとして理解するうえで,海域史がきわめて有用なアプローチであることは間違いない。

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人 物 を通して見る世界史

圧倒的に有利だったポルトガル  ポルトガル王ジョアン2世は後悔していた。1484年にコロンブスと謁見したときのこと。「まっすぐ西へ」自信あふれる弁舌に,興味はそそられた。しかし,ジェノヴァ出身のこの男,信用してもよいものか? ポルトガルによる航海は,その成果を生みつつあった。1444年にアフリカ最西端のヴェルデ岬に到達したポルトガル船は,今はもうコンゴに達している。やがてアフリカ大陸は尽き,アジアへの道が見えるはずだ。コロンブスが求める地位や報酬は,あまりに身に過ぎた望みではないのか。スペインの一発逆転?  支援をあきらめたコロンブスは,8年を過ごしたポルトガルに別れを告げ,1485年スペインに向かう。ほどなくスペイン両王に謁見できたが,支援は得られない。再度ポルトガルを頼ろうと,ジョアン2世に手紙を送る。色よい返事に喜んだのも束の間,ポルトガルの支援話は,1488年バルトロメウ=ディアスが喜望峰に到達して,立ち消えになってしまった。万策尽きたコロンブスが,次のフランスに向かおうとした矢先,事態は急転。1492年1月,グラナダが陥落し,スペイン財政に援助の余地が生まれたのだ。イサベル女王の伝令は,グラナダを出発していたコロンブスに追いつき,劇的な承認を告げたと伝えられる。 「コロンブス,インドに到達」の報はすぐさまポルトガルにも伝えられ,冒頭のジョアン2世の後悔になる。ジョアンはコロンブスと同様に,最後まで「インド」の真相を知ることなく,スペインに先を越されたと誤解したまま世を去った。コロンブスの肖像紙幣は,出身国イタリア,支援したスペイン,「発見した」バハマで発行された例があり,今もエルサルバドルで発行されている。ポルトガルの再逆転  王位を継いだマヌエル1

世の命により,4隻のポルトガル船を率いたヴァスコ=ダ=ガマが,カリカット(インドの綿織物キャラコの語源になる街)に到達したのは,コロンブスが香辛料も黄金も得られることのない3度目の航海に出た,1498年5月のことだった。マリンディの王の斡旋で,東アフリカからインドまでの航海には優秀なナビゲーターが付いたからだ。 チャレンジ精神に富む航海者をヘッドハンティングして成果を求めたスペインに対し,ポルトガルはエンリケの時代から,学校で航海者を育成した。その成果がガマに結実したのだ。その大航海の軌跡は,ユーロ加入の直前まで使用されていたポルトガル紙幣でたどることができる。最高額1万エスクードがエンリケ航海王子。2000がディアス,5000がガマ,1000がブラジルの『発見者』カブラル。肖像に描かれた人物が,そのまま生き生きとポルトガルの大航海史を語りだすのだ。航海者の晩年  コロンブスは晩年,植民地での反乱の責任を問われ,すべての地位を剝奪される。死後も長く,「新大陸の発見者」の名誉は,ポルトガル船でブラジルを探検したアメリゴ=ヴェスプッチに与えられた。一方ガマは,持ち帰った香辛料で航海費の60倍の利益を上げただけでなく,伯爵の称号まで授けられたのである。

〜ライバルの二人〜

紙幣に残るコロンブスとヴァスコ=ダ=ガマ

千葉県立船橋二和高等学校 棚澤文貴

【おもな参考文献】 『WORLD PAPER MONEY』(Krause publication,1998年)

コロンブス(5000イタリアリラ紙幣)

ヴァスコ=ダ=ガマ(5000エスクード紙幣)

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物を通して見る世界史

 すずの歴史は,冶金の技術発達に沿ってみるのがわかりやすい。合金原料となる高純度のすずは,グレートブリテン島(現代のイギリス)の南西端のコーンウォル半島では純度99%をこえるものが産出されていた。その歴史は古代から中世,さらに最後の鉱山が閉山される20世紀末まで続き,同半島の鉱業遺跡群は2006年世界遺産リストに登録されている。 古代ローマでは青銅の原料としてすずが加工され貨幣として流通した。地中海東部のすず鉱山は古代ローマ時代にほぼ枯渇し,コーンウォル半島に帝国の主要な生産地が移動した。すずはコーンウォルから地中海全域に供給されるようになったのである。 すずの用途として,ハンダは青銅とともに古代から重要なすずの合金で,家庭用として普及した。ローマではハンダを鉛管の接合に使ったし,すずで金属を被覆する原始的なメッキの技術も古代ローマ時代のガリアで開発されている。 「すずの島」とは古代ギリシアの史家ディオドロスらがコーンウォル半島およびその沖のシリー諸島をさした呼称だとされる。当時からすずは半島内部の鉱山から近隣の港町へ運ばれ,そこから海路でロンドンまたは海外へ輸出されていた。 中世にはいると,コーンウォル産のすずは教会施設の関連で需要が高まった。銀器の代用品としてのピューター(すず9割アンチモンなど1割)製の燭台,ランプなどが教会や礼拝堂で使われ,鐘の原料としてもすずは必需品であった。16世紀の青銅鋳造は,多量の銅(8割以上)にすず,真鍮を加えるもので,これは「ベルメタル」とよばれた。初期の大砲の鋳造技術は鐘の鋳造技術を応用したものであった。 このほかにも教会のパイプオルガンのパイプにはすずの合金が使われており,建築物,とくに窓や鉛管の接合部にハンダが使われていた。また,活版印刷用の活字に17世紀まではすずがよく使われ,「活字合金(タイプメタル:鉛とすずの合金)」として高級なピューターとほぼ同じ組成の合金が使われた。活版印刷術を発明したグーテンベルクはピューター職人から技術を学んだという。

 16世紀末からオスマン帝国支配域の港へのすず輸出は,ロンドンのレヴァント会社の有力メンバーが行い,高い利益をもたらした。オスマン帝国の市場では青銅の大砲鋳造に必要とされたすずの価格が,コーンウォルやロンドンのそれに比べてたいへん高値であった。 また,17世紀初頭イギリス東インド会社によるコーンウォル産のすずの輸出は,まずインド,ペルシア方面の主要な市場に向けられた。その後すぐに同社はインド洋で東南アジア産すずの存在を知ることとなる。中世以来,インド洋東部ではマラッカが中継港となり,同地を訪れる多様な商人はスパイス,綿織物,すずなど各地の商品を交換していた。オランダ東インド会社は17世紀半ば以降,マラッカを支配し,東南アジアのすずの生産地や市場・流通過程にも影響力を拡大した。イギリス東インド会社はアジア域内交易に参入せず,アジア産のすずの交易には介入しなかった。そのかわりにイギリスの私貿易商人がおもにマレー半島産のすずを商った。 18世紀後半ヨーロッパではピューターにかわり,鉄板にすずメッキをほどこしたブリキの製品が台頭した。ブリキのコップや皿はヨーロッパの兵士の持ち物となったし,北米の開拓民の馬車に積まれていった。また,食品貯蔵用のブリキ缶詰は大量に生産され,保存食料として軍や一般社会で消費された。19世紀初頭以降は,野菜,果物,乳製品,肉類,魚類,など缶詰のなかみも多様になり消費が広がった。19世紀中にブリキ製造などの原料すずの主要な生産地は大規模に拡大した。コーンウォル,マレー半島に加え,オーストラリアやインドネシア,南米などが主要な生産地となっていった。 すずの生産地コーンウォルの鉱業は,19世紀には次第に衰退に向かい,鉱夫やその家族はコーンウォルから世界の鉱業地帯に移住した。同地の鉱山の開発・生産コストの相対的な高さは衰退の一因となり,20世紀にはアルミニウムなど代替の諸金属も原料として登場するなど,すずの歴史の転換が起こったのである。

【参考文献】G.R. Lewis, The Stannaries , Cambridge (Mass.), 1924.

すずの世界史九州工業大学教授 水井万里子

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◎「一体化」視点の入試問題が増加中 帝国書院の『新詳 世界史B』(以下,教科書)では,「一体化した世界」がどのように成立してきたかという視点が重視され,「一体化する世界」という特設ページが要所に配されている。大学入試においても,特定の国家の特定の時代を取りあげる旧来の問題に加えて,世界の一体化をテーマとする問題が出題されるようになっている。とくに16世紀以降,教科書では第2部から扱われている時代について,その傾向が強いといえるだろう。そこで,今回は政治的分野を主とする「一体化」視点の問題,次回3学期号では経済的分野を主とする「一体化」視点の問題を2014年の入試問題からセレクトし,紹介してみたい。◎主権国家の成立から国民国家へ 「世界の一体化」を政治的分野からとらえると,16〜18世紀については主権国家と主権国家体制の成立が重要となるのではないだろうか。この2つの用語に関する出題も増えつつある。また,教科書のp.151にはKey Wordとして「主権国家」の説明がある。2014年の入試から,成城大学経済学部大問2を見てみよう。

  a と b にあてはまる用語を問う問題である。【解答】 aマキァヴェリ  bフィレンツェ

2014年度成城大学経済学部:大問2問1より抜粋

 ヨーロッパに成立した主権国家は,フランス革命などを経て国民国家をめざすようになる。教科書ではp.184にKey Wordとして「国民国家」の説明がある。中央大学の統一問題大問Ⅲで国民国家の成立をテーマとする問題が出題されている。Aにあてはまる語句を答えさせる問題だ。

【解答】 A グロティウス 成城大学経済学部大問2と中央大学統一問題大問Ⅲで共通して思想家の名が問われていることに注目したい。成城大学経済学部大問2ではほかに

「ボーダン」と「グロティウス」が,中央大学統一問題大問Ⅲでは「ケネー」が問われたほか,啓蒙思想に関する正誤問題が出題されている。近現代社会の成立に関する問題では,文化史もあわせて出る傾向があることがわかる。『タペストリー 十二訂版』(以下,タペストリー)のp.178「近代思想の成立」で特集されているので,参照されたい。◎パクス=ブリタニカの19世紀 環大西洋革命と工業化を経た19世紀はイギリスを中心とするパクス=ブリタニカの時代となる。

2014年度中央大学:統一問題大問Ⅲ設問Ⅰより抜粋

「一体化」の視点〜政治〜河合塾世界史講師 山内秀朗

サクラサク入試分析〜これからの傾向と対策〜

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教科書の第2部第5章のタイトルは「イギリスの覇権と欧米の国民国家建設」であり,第1節「イギリスの覇権と自由主義」の最初の小見出しは「パクス=ブリタニカの成立」である。2014年の京都大学入試では,この「パクス=ブリタニカ」が解答として要求されていた。

 パクス=ブリタニカの時代にイギリスに対抗し,国際政治のもう一方の軸となったのは,ロシアだった。政治面での世界の一体化を考えるとき,ユーラシア大陸のさまざまな地域を巻き込んだロシアとイギリスの対抗関係こそが,19世紀の世界において重要になるだろう。2014年の東京大学大問1では,ウィーン会議から19世紀末までの時期のロシアの対外政策が,ユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について答えさせる論述問題が出題されたことも,報告しておきたい。◎戦争と革命の20世紀 教科書の第3部では,第一次世界大戦前夜の帝国主義の時代から,現代までを扱っている。第3部の「一体化する世界」に「20世紀前半 社会主義の実験と二つの世界大戦」の特設ページがあるが,同様のテーマの問題が,早稲田大学の政治経済学部大問6で出題されている。

2014年度京都大学:大問4C問17より抜粋

2014年度早稲田大学政治経済学部:大問6Bより抜粋

 ほかにも,慶應義塾大学法学部大問3,法政大学T日程大問3,明治大学経営学部大問4,関西学院大学全学日程大問5は,20世紀の国際秩序とアメリカ合衆国の関係を問う問題であり,教科書の特設ページ「20世紀後半 アメリカの覇権とその盛衰」が対応している。まだまだ紹介したい「一体化」視点の問題は多いが,紙数がつきた。一体化の視点で世界史をとらえることは,入試対策においても重要であると,いえそうだ。

【解答例】ブルジョワジーを基盤とし,戦争継続を方針とする臨時政府と,プロレタリアートと兵士の評議会であるソヴィエトの二重権力の状況で,ソヴィエトが臨時政府と協調することを批判し,即時講和と臨時政府の打倒による社会主義政権の樹立を主張した。

本コーナーは、学校法人河合塾様にご協力いただきました。

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■生徒がにがてな東南アジア史!? 東南アジア史は,おそらく生徒がにがてとする分野の一つであろう。王朝やその都,民族,宗教,遺跡などを羅列的に覚えようとすると地理的状況の複雑さとあいまって,すぐに嫌気がさしてくるにちがいない。まさしく東南アジア史は,教員の問題意識が生徒の学びを大きく左右する分野である。では,生徒はどのように学ぶのがよいのか。 時代や土地は違うとはいえ,人はそこに生まれ,育つ。やがて子を産み,育て,老い,死ぬ。当時の人々は何に喜び,怒り,哀しみ,何に人生の楽しさを見いだしたのか。生徒がこのような観点を学ぶことが私は大切だと思う。■Q&A形式のプリントによる班学習 2年前から世界史の授業をQuestion(教員の作成する問い),Answer(生徒が記述する答え)形式のプリントを使用し,3〜5人の班を形成して行っている。50分授業×2コマ=1セットとして,1コマ目は,前半の約20分で動機づけ,後半の約30分では7〜8つのQuestionを班学習で解く(残りは宿題)。2コマ目は,前半の約20分で生徒が黒板に解答Answerを書く。後半の約30分で教員が添削・解説を行う。 アクティブ・ラーニングの講習会に参加し,協同学習の要素を取り入れながら現在,試行錯誤をしているが,学習意識を調査した結果,講義一辺倒だった授業より生徒は自ら進んで学んでいること,より深く歴史を理解していることが明らかになっている。

 以下に,Questionとそれに対する生徒のAnswerや教員とのやりとりを記す。小見出しのようなテーマに沿って東南アジアの前近代史を学習する授業案を提示したい。■まず東南アジアの地図を上下さかさまに

生徒A:やっぱり島だらけです。(笑)生徒B:ボルネオ島が包み込まれるようにインドシナ

半島,華南,フィリピン諸島,モルッカ諸島,ジャワ島,スマトラ島,マレー半島があります。

 東南アジア史は,まずは地理的認識から。これが深まると,生徒はその歴史をよりいっそう理解することができるようになる。また決定的な海上交通のルートであるマラッカ海峡の重要性を確認する。東南アジアの海域は,「海のシルクロード」の一部として東アジア海域,インド洋世界とつながっている。フェルナン・ブローデルの『地中海』には,あえて地中海とその周辺世界(アフリカ大陸を含む)をさかさまにした図を掲載しているが,いつも見ているものをくつがえすとよりいっそう新鮮になる。■東南アジアに広く出土する銅鼓(ドンソン文化)

生徒A:雲南,インドシナ半島,マレー半島,スマトラ島,ジャワ島です。

生徒B:もっていると自慢できそう。生徒C:当時,こんなに重く巨大なものを船で運ぶに

は相当の財力や権力がいるよね。生徒D:どうしてもほしい人がいたのでしょう。祭り

や儀式のときに持ち出してくるとか。生徒E:でも,一家に一台は無理。せいぜい長老の家

に一つ,二つじゃないかな。(笑)

Q(教員の発問,以下同):上下さかさまにして見ると,どんなことに気づきますか。

Q:帝国書院『最新世界史図説 タペストリー 十二訂版』(以下,タペストリー)p.84の④銅鼓の出土範囲は,どこからどこまで広がっているだろうか。

Q:なぜこのような巨大な青銅製の太鼓が広範囲に広まったのだろうか。

世界史 授業実践例B ~タペストリー活用術~

東南アジアの歴史(前近代史)を生徒はどのように学ぶべきか同志社中学校・高等学校 川島啓一

2コマ目。黒板にAnswerを書く生徒。

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 東南アジアはモノが行きかった海域である。銅鼓は支配者の権威のシンボルとして用いられたことが『新詳世界史B』(p.43)に記載されているが,やはりこのような威信財を取り巻く人々の「思い」をじっくりと考えさせたい。■港市国家とは何か? 2012年にソウルで開かれた第2回アジア世界史学会では「Global Exchange Networks of Asia」がテーマの一つとされ,アジアの交易ネットワークをより広いグローバルな観点からとらえなおすこと,また,「陸」の視点からだけではなく「海」の視点をとらえなおすことなどが提唱された。また,2009年の第1回大会(大阪)では,「交易の時代(the Age of Commerce)」を描いたアンソニー ・ リード氏が基調講演を行った。

生徒A:通常の地図とは違いますね。生徒B:きっと海の支配を重視したからでしょう。生徒C:覇権の確立には海域を押さえないと。

生徒C:海の外の世界と内陸部の世界の接点に港市があります。まさに海と陸をつなぐ位置ですね。

生徒D:海や川の移動を通じて多くのモノや人が行きかったんだと思います。

生徒A:海に出るのはやっぱり危険でしょう。生徒B:だから,貿易などでがっぽりもうかったので

すよ。(笑)生徒C:生活のためには海に出て行かざるをえない,

そんな場合もあったのではないでしょうか。■史料(資料)から問い,「声」を聞く

Q:タペストリーp.84〜85地図A〜Dでは,シュリーヴィジャヤやマジャパヒト朝などの最大勢力範囲を表す色線が陸地だけでなく海上にも描かれています。この作図者が,あえてこのように表現したのはなぜでしょうか。

Q:タペストリー p.84キーワード「港市国家」の模式図を見て,この特徴をあげなさい。

Q:ならば,なぜ当時の人は移動したのでしょうか。

Q:義浄の史料(『南海寄帰内法伝』,『根こん

本ぽん

説せつ

一いっ

切さい

有う

部ぶ

生徒A:1000人以上の仏僧が学問と善行に専念しているところです。

生徒B:1000人以上とはすごいですね。当時の一大拠点だったのでしょうか。

生徒C:中国の仏僧がより学びたいのならば,ここで学んだのちにインドへ行くのがよいとも言っています。

生徒D:果実や魚や米がとれて象がいます。生徒E:現在のタイ王国と同じですね。生徒F:仏教が信仰され,どうやら王は仏陀になるこ

とを願っているようです。

生徒A:イスラム教です。イスラム法学者を寵愛するスルタンが支配していますね。

生徒B:異教徒はジズヤをさし出しています。生徒C:ちなみに現在,世界最大のイスラム教徒の人

口をようする国は,サウジアラビアではなくインドネシアですよ。

生徒D:陳朝が元軍をうち破った激しい戦いです。生徒E:川が真っ赤に染まるくらいに。生徒F:元軍は船でも攻め込んでいます。そういえば,

博多湾にも船で攻めてきましたね。生徒G:騎馬遊牧民のはずのモンゴルが船で攻め込む

というのは,とてもおもしろいです。

生徒A:町がチャオプラヤ川に囲まれています。生徒B:マレー人,中国人,ポルトガル人,オランダ

人,日本人の居住区があります。生徒C:どんな言葉で会話していたのでしょうね。■日本とのつながり(日本町,朱印船貿易)

百ひゃく

一いち

羯こん

磨ま

』)を読むと,彼はシュリーヴィジャヤに滞在して何を見たのですか。

Q:スコータイ朝の碑文(1357年,1361/62年)には,どんなようすが描かれていますか。

Q:イブン ・ バットゥータの史料(『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈物(大旅行記)〈1356年〉』)を読むと,当時のスマトラ島の町には,どんな宗教が広まっているようすが記されていますか。

Q:陳朝ベトナムと元寇の史料(『大越史記全書』本紀巻六〈1479年〉)を読むと,ここには何が描かれていますか。

Q:アユタヤの町の地図(1687年)を見て,気づくことはなんですか。

Q:タペストリーp.85地図Eを見ると,どこに日本町はありますか。

『最新世界史図説 タペストリー 十二訂版』p.84

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生徒A:タイのアユタヤ,カンボジアのプノンペン,フィリピンのマニラ,ベトナムです。

生徒B:日本とのつながりを生かすと,貿易や商業を行うことができたと思います。

生徒C:タペストリーp.85⑫にはアユタヤの日本人義勇軍とありますが,山田長政は用心棒ですね。(笑)

教員:彼についてはぜひ,遠藤周作『王国への道』を読んでほしいと思います。おもしろいですよ。

生徒D:とてもびっくりしたと思います。生徒E:日本町からひとりひとりいなくなってゆくよ

うすに思いをはせると,とても切ないですね。

生徒A:「父の菩提を弔うため」とあります。生徒B: 仏像四体を奉納したようですね。生徒C:なるほどアンコール ・ ワットは「祇園精舎」

に見えないこともない。(笑)

生徒D:朱印船が行きかった時代ですね。生徒E:どこかの貿易船に乗ったのではないでしょう

か。当時は長崎から出航できます。生徒F:それにしても,果てしない船旅ですね。嵐が

きたら危険きわまりない。生徒G:朱印船時代の船乗りの航海技術はとてもすぐ

れていたのでしょう。生徒H:やっぱり私は飛行機がいいです。(笑)■世界史教育はどこへ向かうのか この授業形式に対する生徒のコメントには,「史料

(資料)を読むのがめんどう」,「難しい」などが見うけられるが,肯定的なコメントも多い。例えば,「プリントの空欄をただ暗記するだけではないのでよかった。」,「史料(資料)を読むのが楽しい。難しいのもあるけど,当時のことがよくわかる。」,「班での学習は,自分では思いつかない意見を聞けるので貴重。」,「歴史の学習が,『暗記』から『理解』になった。」,「E.H.カーの言う「歴史との対話」ではないかと思います。」(私はE.H.カーの「歴史とは現在と過去との対話」を最初

Q:どのような生活を送っていたのでしょうか。

Q:日本町は徳川幕府の鎖国政策(海禁政策)で衰退しましたが,遠く日本を離れた地で生きていた当時の人々はこれをどのように思ったのでしょうか。

Q: 1632年にアンコール ・ ワットを訪れた森本右近太夫はどんな内容の墨書(落書き)を回廊の柱に書いたのですか。

Q:彼はどうやってアンコール ・ ワットまでたどりついたのでしょうか。

の授業「なぜ歴史を学ぶのか?」で必ず紹介している),というようなものである。また,とくに用語の単純暗記がにがてな生徒は,この学習形式を楽しんでいるようである。 「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」(小川幸司「歴史学研究859号」2009年)という言葉に私は衝撃を受けた。まさしく私そのものだったからである。自らの授業方法を考え直した大きなきっかけだった。 そんな「苦役」を終わらせる世界史教育は果たして可能なのか。現場は果てしなく忙しく,教員が教材研究の時間を確保することが困難な時代である。また,この東南アジアの前近代史を扱うことができる時間はせいぜい1,2時間だろう。しかし「近くて遠いアジア」とならないように,未来を形成してゆく生徒たちにはじっくりと考えて学んでほしい分野である。 日本の世界史教育が参考にすべき点は海外にも多くあるようだ。イギリスのGCSE教科書,独仏共通歴史教科書,バルカン近現代史の共通教材,日中韓3国共通歴史教材,または全米世界史基準,AP(Advanced Placement)テスト,国際バカロレア(IB;International Baccalaureate)やドイツのアビトゥーア(Abitur)のような試験などから日本の世界史教育が学ぶべき点は多い。いまこそ史料(資料)を提示して問い,生徒とともに考え,悩み,可能性を語ることが許される世界史教育の環境を整えることが切に求められている。

【参考文献】・アンソニー ・ リード著,平野秀秋・田中優子訳『大航海

時代の東南アジアⅠ』(法政大学出版会,1997年)・石澤良昭『東南アジア多文明世界の発見』(講談社,2009年)・羽田正編,小島毅監修『東アジア海域に漕ぎだす1 海

から見た歴史』(東京大学出版会,2013年)・弘末雅士『東南アジアの港市世界』(岩波書店,2004年)・福島県高等学校地歴・公民科研究会 世界史資料集編集

委員会編『新世界史資料集』(清水書院,1994年)・桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』(山川出版社,

1996年)・桃木至朗編『海域アジア史研究入門』(岩波書店,2008年)・歴史学研究会編『世界史史料3,4』(岩波書店,2009,2010年)

(このようなQ&A学習に興味がおありの方は,プリントをお送りいたしますのでご連絡いただければ幸いです。

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 上にある一枚の写真を見てもらいたい。これは私の通勤する学校のすぐ側のバス停の風景である。そこでは多くの生徒がバスを待っている。彼らはみな一様に下を向いている。このような光景があたり前となったのではないだろうか。ご存知のとおり,彼らは携帯電話で今流行りのラインやインターネット,ゲームを楽しんでいるのである。20年前,固定電話が主流だった時代にはこのような光景は存在しなかった。ここ数十年,携帯電話だけを取ってみても,私たちは社会の劇的な変化を感じることができる。おそらく,19世紀,とくにその世紀後半のヨーロッパの人々も同じような劇的な社会変化を感じたのではないだろうか。 今回,19世紀の文化史の授業について書く機会を与えていただき,私も19世紀文化史を教える難しさはどこにあるのかを考えてみた。その難しさは,19世紀文化史が,芸術,科学,工業の発展など,分野が多岐にわたっている点ではないだろうか。それをどのようにしてシンプルにかつ生徒に興味をもたせながら教えることができるのかというのが,私と同様に多くの先生方の共通した悩みではないだろうか。 そこで,今回は文頭で紹介した写真のように,一枚の絵から19世紀の欧米文化を考えるという形で授業を展開していきたい。使用する絵は『明解世界史図説 エスカリエ 六訂版』(以下,『エスカリエ』)p.155にある1877年モネ作「サン=ラザール駅」である。また,この授業では鉄道と機関車という「モノ」に注目することで「モノ」が与え

はじめに る社会への影響も生徒に感じ取ってもらいたい。

 『エスカリエ』p.155を開いて生徒にモネ作「サン=ラザール駅」を見せてみよう。そして,Q7やQ8を参考にしながら生徒にその絵に何が描かれているかを質問してみる。おそらく,絵の横にいくつか載せられている「機関車,外灯,駅舎」などの答えが返ってくるだろう。そこで,「電車がない世界を想像したことがある?」と生徒に聞いてほしい。私の住む沖縄県では生徒のほとんどは電車に縁がないので,別に三つの題材を用意した。まず一つが「明日の朝,目が覚めたら世の中から自動車がなくなっていました。君の生活はどうかわると思いますか?」そのほかに,同様の質問を携帯電話や冷蔵庫におきかえて質問してみた。生徒からの回答は自動車に関しては「遠くに行けない。行動範囲が狭くなる。遅刻が増える。みんな自転車をもつようになる」などの意見が上がった。携帯電話では「テレホンカードをもつようになる。パズドラ(注:スマートフォン向けの無料ゲーム)が生活の一部なのでなくなると困る。勉強時間が増える」などがあった。最後の冷蔵庫では「アイスがなくなる。新鮮なものが食べられなくなる。新鮮という言葉がなくなる」など興味深い意見もみられた。共通して見られる回答は「なくなっては困る」というものであった。 これらの質問で生徒に感じてほしいことは,たった一つの身近な「モノ」がなくなるだけで,よくも悪くもみんなの生活が大きくかわるということである。これは,「モノ」が誕生する場合も同様である。例えば,ここで取りあげた「モノ」…自動車や携帯電話,冷蔵庫の発明は生徒が言うように私たちの生活になくては困るものであり,これらの「モノ」が世界を大きくかえてきたことに関して疑いはないだろう。

「モノ」を通して見る日常

一枚の絵画から見る19世紀の欧米文化

沖縄県立読谷高等学校 小谷良洋

世界史A授業研究 “魅力ある世界史”を教える

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 絵画「サン=ラザール駅」の機関車と鉄道に注目してみよう。機関車と鉄道は19世紀の社会を大きくかえた「モノ」である。絵のなかにはもくもくと煙を上げる機関車と鉄道を見ることができる。蒸気機関は古くから存在するが,18世紀後半にジェームズ=ワットによって商業利用されるようになった。その蒸気機関と乗り物を結びつけたのが蒸気機関車である。19世紀初めには,トレヴィシックやジョージ=スティーブンソンなどの発明家によって,蒸気機関車が鉄道の上を轟音と煙を上げて豪快に走るようになった。だが,そのような蒸気機関車に反対する人々も少なくなかった。当時の自然保護活動家であったワーズワースもその一人であった。しかし,19世紀後半になると鉄道はヨーロッパに広く張りめぐらされ機関車がヨーロッパ中を駆けめぐるようになる。機関車と鉄道は多くの変化を社会に与えた。そのいくつかを紹介しよう。 1つ目の変化は時間の短縮と空間の収縮である。イギリスの初期の鉄道の平均速度は,時速20マイルから30マイルであったが,これはそれまでの郵便馬車の速度の約3倍にあたる。移動時間の短縮は以前よりも目的地を近く感じさせ,行動範囲は広くなり,人々は世界が小さくなったように感じたにちがいない。 蒸気機関車は人々の食卓や都市にも変化をもたらした。例えば,イギリスでは鮮魚が機関車で内陸の町にまで運ばれるようになり,かつては海辺の町でしか食べられなかったフィッシュ・アンド・チップスが全国どこでも食べられるようになった。また,ロンドン市内では郊外から新鮮な牛乳が届けられるようになり,以前は市内で飼育され,街を平然と歩いていた乳牛が姿を消した。ここで,生徒には街から乳牛がいなくなったら街がどのようにかわるかを想像させてもよいのではないだろうか。乳牛がいなくなったことにより,市内の空気も格段にきれいになった。とくに,アメリカのニューヨークでは乳牛は街の地下で生ごみを使って飼育されており,ひどい悪臭を放っていた。それが,農家から直接,機関車で運ばれるようになり,街で乳牛を飼う必要がなくなったのである。機関車は人々の食料事情だけでなく,都市環境も

機関車から見る19世紀文化史かえてしまったのである。 次に機関車の発明から当時の科学技術の発展を生徒に感じてもらおう。近代社会では科学技術の発展が国家の利益と結びつくことが意識されるようになった。19世紀後半に飛躍的な発展をみせた工業国家ドイツではプラハ,グラーツ,ミュンヘンなど多数の工科大学が設立されている。それは,医学の分野も同じであり国家と医学とが結びつき,さまざまな研究が行われるようになった。19世紀は技術や医術が国家と結びつくなかで飛躍的に発展し,彼ら技術者や医者が国家や大企業と協同していくような時代でもある。 科学技術は鉄鋼,自動車,ガラスや洗剤,製紙パルプ製造,電気機器,化学肥料,医薬品などの新しい産業を生み出し重化学工業分野を発展させていった。第二次産業革命である。そして,重化学工業の発展は巨大な資本をもった独占企業を誕生させていく。また,技術の発展により,都市・生活インフラなども整備され目に見える形で人々の生活は劇的にかわっていった。生徒にはそのことを実感させるために19世紀後半のパリの景観を見せてはどうだろうか。ナポレオン3世とジョルジュ=オスマンによってパリの街なみは改造され,明るく清潔な都市へと変貌した。また,『明解世界史A』(以下,教科書)p.120上図にあるようにパリ万博で建てられたエッフェル塔や電気館は人々に輝かしい未来を想像させたにちがいない。サン=ラザール駅の天井部分がガラスでできていることも当時の社会変化をよく表しているといえるだろう。しかし,明るく清潔な都市へと生まれ変わったパリから排除された貧しい人々がいることにも留意しておきたい。都市の再開発が話題になる現代の日本でも同様のできごとが起こっていることを生徒には知っておいてもらいたい。 最後に機関車から降りてくる人々を見てみよう。モネがこの絵を描いた時代,フランスは第二帝政が終わりを告げ,第三共和政に移行している時期であった。フランスでは1789年のフランス革命以来,王政か共和政かで長い闘争が繰り広げられていた。19世紀は徐々にではあるが自由・平等などの諸権利が人々に根づこうとする時代であった。 イギリスでも選挙法改正や労働組合法など人々の権利を拡大させる動きがみられた。機関車はそのような時代を象徴する乗り物でもある。英国の

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有名なパブリックスクールであるラグビー校の校長ドクター=トーマス=アーノルドは鉄道が封建主義を終わらせるものであると考えていた。また,フランスでは鉄道が友愛と平等,自由をもたらすものだと考えられていた。ウォルター=ペカールは「あらゆる社会階層の人々がともに旅をすることによって…真に友愛精神に基づく社会関係が圧倒的に増えていき,社会の平等意識が高まっていくだろう。」と述べている。『エスカリエ』p.154のルノワール作「舟遊びをする人たちの昼食」にも平等が意識される当時のヨーロッパ社会で王や貴族,聖職者でもない一般市民の人々のようすが描かれており,庶民の文化が花開く時代であったことがわかる。 しかし,その楽観的な見方は当時の世界のすべてではなかった。機関車は社会的不平等を反映するものでもあった。確かに,機関車を利用する人々は同じ列車で旅をしているが,客車には3種類から4種類の等級があり,旅客の支払い能力や人種の違いによって座ることのできる場所が全く異なっていた。南アフリカでマハトマ=ガンディーがインド人であることを理由に一等席の乗車を拒否される話は有名である。機関車は当時の人々の平等への志向と不平等の現実を象徴している乗り物である。

 今回は一枚の絵から,当時の文化を読み解くという方法で授業を展開した。また,そこに映し出されている一つの「モノ」を中心に話を進めていった。さらに今回の授業は次の二つの点を生徒に注目してもらうために行った。まず,文頭で見せた写真のように,身近な写真や絵から,その時代の文化をいろいろな角度から見ることができるということを生徒には知ってもらいたい。今回,本題では取りあげなかったが教科書p.122~123にある新古典主義,ロマン主義,写実主義・自然主義,印象派などの絵画や19世紀前半に発明された写真などを通して,生徒には自ら絵画や写真のなかに写し出されている社会背景を調べ当時の社会のようすを読み取り,歴史を楽しんでもらいたい。その調べた内容を授業で発表するというのもおもしろいかもしれない。2つ目に注目してほしいことは,機関車や鉄道のように,この世界にあたり前

おわりに

にある「モノ」が一つでも欠けてしまうだけで私たちの生活は大きくかわってしまうことがあるということだ。裏を返せば,何か新しい「モノ」を発明することで,人々の生活をかえ,よりよくすることができるのである。生徒にはそのことを理解してもらいたい。私は生徒に対して世界史の勉強を世界史の知識を増やすためだけにしてほしくないという思いがある。生徒には世界史の学習のなかでただ単に過去の物語を学ぶのではなく,自分自身が明日の世界,ひいては歴史をつくる担い手であるということを意識してもらいたい。 日本人の理系離れが叫ばれるなかで,「自分の学んだ技術が世の中をよくできるかもしれない」「数学や,化学,生物を勉強して社会貢献できる人間になりたい」とこの授業を受けた生徒が少しでも思ってくれれば幸いである。他教科を勉強するための動機としての世界史。世界史という教科のそのような位置づけも悪くはないのではないだろうか。

世界史A授業研究 “魅力ある世界史”を教える

【参考文献】・金井雄一・中西聡・福澤直樹編『世界経済の歴史‐グローバル経済史入門』名古屋大学出版会,2010年・クリスティアン=ウォルマー著,安原和見・須川綾子訳『世界鉄道史‐血と鉄と金の世界変革』河出書房新社,2012年・高階秀爾監修『増補新装‐カラー版西洋美術史』美術出版社,2007年・竹中克行・大城直樹・梶田真・山村亜希編著『人文地理学』ミネルヴァ書房,2010年・種田明『近代技術と社会』山川出版社,2011年・服部伸『近代医学の光と影』山川出版社,2013年・福井憲彦編『フランス史』山川出版社,2001年

『明解世界史図説 エスカリエ 六訂版』p.155

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描かれた理想都市:アンブロージョ=ロレンツェッティ『町と村における善政の効果(部分)』

解 説

EHESS(フランス国立社会科学高等研究院)土山陽子

アンブロージョ=ロレンツェッティ(1290年ごろ〜1348年ごろ)は兄のピエトロとともに画家であり,おもにシエナやフィレンツェで仕事をした。美術史家ジョルジョ=ヴァザーリの著作『美術家列伝』(1550年)にも名前があげられている。ロレンツェッティは1338年から1340年にかけて,トスカーナ州シエナの現市庁舎プブリコ宮殿にある平和の間に3面のフレスコ壁画を描いた。本稿で取りあげる『町と村における善政の効果(部分)』は,西の壁に描かれた『悪政の寓意とその町と村における効果』,北の壁の『善政の寓意』と対になって,東側の壁に描かれている。広間の建築にも画家によるペイントがほどこされ,壁画の上下の帯状装飾には共和国のメッセージを伝えるために考案されたメダル型の装飾がなされている。まず,『悪政の寓意』には,恐怖の田園風景,不正のはびこる都市,悪徳政治の圧政と死の恐怖におびえる人々が描かれている。それに対し,『善政の寓意』には政治的な徳が視覚的に示されている。キリスト教神学の徳である愛,信仰,希望を背景に,公益を表す人物像を囲む形で,主要な徳である平和,不屈の精神,思慮分別,寛容,節制,公正がそれぞれ人物の姿で描かれている。そして,『町と村における善政の効果』には,善政のもたらす効果によって,安全な都市で,人々はたがいに平和と調和のうちに生活できることが示されている。ロレンツェッティはイタリアのありふれた都市の風景を,シエナをモデルにして描いた。パノラマ的に都市の景観を描いたものは西洋絵画では珍しく,宗教絵画が主流であった当時にしては,絵画の伝統的手法をあまり用いずに,中世の人々の生活をありのまま,詳細に描いている。当時を知るうえでも貴重な歴史資料として重視されているが,同時に絵画的な想像力も交えられている。『町と村における善政の効果』全体の中心部に

描かれている門と城壁によって,壁画は都市部と農村部に分かれている。城壁の上には,「安全」を象徴する羽をもった女神が高らかに舞っている。彼女が手にしている巻物に書かれているとおり,すべての人々は安心して自由に歩き,働き,種をまくことができる。なぜなら,正義の支配によって,罪からくる力は排されるからである。まず,都市部から見ていくと,建築物の描写を通して,画家は空間や光,立体的な形の表現技術を備えていることがわかる。画面の上部には建物の建設にたずさわる人々の姿が見られ,その下には交易や商売をする人たち,また学校教育の場面,そのとなりには靴職人の仕事のようすなどが見られる。仕事においても,争いや失敗の場面は見られず,治安が維持されているのがわかる。図版の左下には路上でタンバリンを持って歌い,輪になって踊る女性たちの姿がリズミカルに描かれ,平和な都市の喜びを表現している。古くからダンスは公平と調和の隠喩とされてきた。ここでも女性たちの衣装のがらや髪型が細かく描写されている。今回は図版に取りあげていないが,さらに壁画の左にいくと大聖堂が描かれ,婚礼と思われる行列が見られる。城壁の外に目を向けると,安全な田園風景が広がっている。オリーヴの木が茂りぶどう園が見えるあたりの門から,馬に乗った人々が出入りしているのがわかる。画面の右のほうには豊かな収穫の風景が描かれているが,現実にはロレンツェッティが作品を仕上げた1340年からは凶作が続いていたため,ここに描かれた無尽蔵の収穫の風景は市民の夢であったといわれる。丘の上から流れ出る小川の描写も,実際夏場はため池などから水を供給していたシエナでは,豊かに水の流れる田園風景自体,国民の空想を反映したものであったといわれる。また,夏から秋にかけての収穫の風景だけでなく,春の種まきの風景が同じ画面上に描かれているのも,絵画にこそ可能な表現であった。

イタリアは都市の魅力にあふれている。今回取りあげるシエナもその一つで,この都市の市庁舎壁画『町と村における善政の効果』はイタリア中世都市特有の周辺農村(コンタード)支配のあり方を伝えている。この壁画を通して中世イタリア社会の諸相の一端を生徒とともに学んでいきたい。ここで生徒に『町と村における善政の効果(部分)』を提示し,この壁画の作者を簡単に紹介しながら,この絵が14世紀前半のシエナ共和政をモデルとした,当時の西欧では珍しいイタリア版『洛中洛外図』であることに気づかせる。生徒にはこのあと,絵をじっくりながめてもらうことにする。このような絵画の場合,最初に全体の構図を生徒に把握させ,細部にはいっていくのが,歴史資料としての絵画の鑑賞法だろう。その際のポイントとして,中央に位置する城壁と市門の存在に注目させたい。左側が洛中=都市部であり,右側が洛外=農村部であるが,この壁画の最大の見せ場は市門を行きかう人々である。鷹狩りの貴族が出門する一方で,穀物らしきものをロバに乗せてすでに入門した農民,今にも入門しようとする托鉢修道士と思われる一行,シエナ特産の黒豚チンタ・セネーゼを連れた農民や水らしきものをロバの背に乗せて市門への丘を登ろうとする農民らが描かれており,まさしく都市と農村の活発な交流をリアルかつ冷静に画家は描いている。この市門に通じる道は商業金融都市シエナの生命線にあたるフランチジェナ街道で,ローマからシエナに向かう旅人も右側後方(本図外)に描かれている。街道の両わきにはオリーヴの木やぶどう畑が点在し,農民たちが農耕にいそしんでいる。生徒には図中に番号をうたせて,解読に挑戦させたい。このうち,騎乗で入門しようとする2人がなぜ托鉢修道士と判断できるのか,都市における彼らの活動と実際のシエナにおける修道会の活況を話してその解答としたい。また,鷹狩りの一行の前には物乞いも描かれている。都市国家の理想を描くとともに,作者はそこに現実を反映させようとしているのだろうか。このような描写は農村の光景にも見られ,農場の一括した描写は当時,

領主支配にかわって一般化しつつあった,地主−小作関係にもとづく折半小作制のあり方を反映しているのではないかと思われる。そろそろ市門をあとにして市中にはいってみよう。生徒には,街路のようす,街路を行きかう人々やこれに面した各種店舗に着目させたい。気になるのは織物工房の職人のようすであるが,手前で革を広げて作業をしている職人は皮なめし工,奥は梳すき

毛げ

工こう

,その横は織工と思われるが詳細は不明である。薪をロバで運ぶ農民の横をさらに進んでいくとサラミやソーセージをつるし,ワインつぼを並べた居酒屋に出くわす。この居酒屋のとなりには学校,さらに靴屋と続く。通りのほうでは,市門に向かう羊飼いと入れ違いに雄鶏を抱く女性や頭に商品を乗せた行商の女性などが広場へ向かって進んでいる。その先にはこれらの女性と対照的にはでな姿の9名の若い女性たち(ひとりは本図外)による輪舞の場面が見えてくる。結婚式の祝いの場面だろうか。ここで生徒に投げかけたいのが9人という数と,ここだけひときわ大きく描いてあることの意味である。実はこの一連の壁画を依頼したのは当時の共和政を担っていた9人の執政官=ノーヴェの政権であった。この9人はその数を暗示しているし,ここだけやや大きく描かれているのは彼らによってシエナの安定と平和が維持されていることを強調したかったと思われるからだ。作者もその意向をしっかり受けとめたようだ。授業の最後に作者の生没年[1290年ごろ〜1348年ごろ]を大きく板書して,生徒に何か気づくことはないかと投げかけてみる。勘のよい生徒であれば没年の推定があのペスト大流行の年であることに気がつくはずだ。シエナはとくに被害が大きく,人口の半分以上が亡くなったと伝えられており,彼もその犠牲者のひとりであったようだ。作者は死んでも作品は残る。シエナを訪れた旅行者は競走馬大会パリオでシエナ人の中世的心情を感じ,カンポ広場にある市庁舎の彼の壁画で,アリストテレス以来の「公共善」とは何かをあらためて考えさせられるのである。

イタリア中世都市国家シエナの理想と現実─壁画が語る中世イタリア社会の諸相─

福岡県立東筑高等学校今林常美

授業活用例

【主要参考文献】R. Stern, Ambrogio Lorenzetti: The Palazzo Pubblico, Siena, 1994.C. J. Campbell, The Commonwealth of Nature, 2008.

中世シエナの壁画をたずねて

世 界 史 芸 術 鑑 定 団 〜マイスターが見た日常生活〜

『町と村における善政の効果』シエナ市庁舎壁画アンブロージョ=ロレンツェッティ,フレスコ壁画,14世紀

世界史のしおり 2014年度2学期号付録 写真提供:WPS