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29 Psycheology という単語 トーマス・ウィリス 立命館大学教授・研究部長。『心理学ワールド』の執筆 は微妙に辛いと思っていたが,その理由は自分が知らな いことを書こうとするからだと気づいた。知ってること を書くのは面白くない→調べて書く→時間がかかる,と いうわけだ。今回も自分がよく分かってないことを書い てみた。次回からはちょっと趣向を変えてみます。 サトウタツヤ 反射は,現在では心理学が扱う 重要な現象の一つですが,心理学 成立以前にも知られた現象でし た。これまで,心身二元論を唱え た デ カ ル ト(Rene Descartes; 1596-1650)がこの反射という考 え方の発案者/提唱者であると考 えられてきましたが,現在ではそ の考えに修正が迫られているよう です。そもそも,反射という名詞 は19世紀の半ばまでは存在せず, 主に「反射的」運動のように形容 詞的に使われていたということが 指摘されています。 下の図は,よく知られたデカ ルトの著書『人間論』(1664)の 「人体の記述」の図です。火の近 くに足が近づいた時,その足を 引っ込める,ということについて 説明したものです。 火(A)が足の近くにあると火 の粉が足(B)にふりかかり,身 体を通っている線(C)を引っ張 ることになります。するとこの線 は脳にまで通じていて,脳室(F) に到達します。この図では見えに く い の で す が,(D),(E) と い う小さな穴を通して,動物精気が 神経に流れ込み,足を引っ込める ことになるのです。また,同時に 動物精気が松果体と呼ばれる部位 に到達することで,意識が引き起 こされるということになります。 これまではこの説明図式をもっ て,デカルトは反射について取り 上げていたと考える人も多かった のですが,この説明には,反射に 重要な条件が欠けています。反射 というのは,――光を鏡に反射さ せる時のことを思い起こしてほし いのですが――入る光と出る光が 一緒なのです。デカルトの説明 は,ヒモを引っ張ったら信号(の ようなもの)が発せられる,とい うことですから,「入」と「出」 が異なるものであり,反射とは呼 べないということがわかると思い ます。デカルトのこの図式は,機 械的であるとはいえ,情報もしく は信号の変質が前提となってお り,今日的には反射とはいえない ということになります。 国際脳卒中学会にはトーマス・ ウィリス賞なるものが存在しま す。このウィリスというのは17 世紀に活躍した医師・解剖学者で あり,オックスフォード大学教授 だった人です。 現在,ウィリスこそが,今日的 な反射概念を形成した人として知 られるようになってきました。フ ランスの科学史家カンギレムが, 意識を介しない反射運動の概念を 初めて確立した人物としてウィリ スを位置づけていることが大きく 影響しているといえます。ウィリ スの主著は1644年の『脳の解剖 学』。脳のはたらきの座を「脳室」 ではなく灰白質という物質にある としたのもウィリスであり,脳の 局在論はウィリスによって近代化 したとされています。 ウィリスは,脳の神経系を司る 「精気」を光にたとえました。そ して,このたとえによってこそ, 反射(リフレクス)という考えが 現れたのです。『屈折光学』につ いて研究したデカルトが,動物精 気にこだわりインパルスのような モノとは考えなかったのに対し, ウィリスは神経系の働きを光にた とえ,反射という語をその著書に 多数用いたウィリスこそが,現在 では反射概念の父であるにふさわ しいとされているのです。 また彼の代表作の一つにラテン 語で書かれた『動物の魂』(1672) があります。神経学と心理学にあ たる学問領域について言及してい ることでも知られています。こ の 著 書 が 英 訳 さ れ た 時(1683), 当時においても古語であった psycheology と い う 語 が 用 い ら れ, そ れ が psychology と い う 単 語の定着の契機になったそうで す。 [第 9 回] Thomas Willis;1621-1675
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Psycheologyという単語─トーマス・ウィリス29 Psycheologyという単語 トーマス・ウィリス 立命館大学教授・研究部長。『心理学ワールド』の執筆

Jan 29, 2021

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    Psycheologyという単語─トーマス・ウィリス

    立命館大学教授・研究部長。『心理学ワールド』の執筆は微妙に辛いと思っていたが,その理由は自分が知らないことを書こうとするからだと気づいた。知ってることを書くのは面白くない→調べて書く→時間がかかる,というわけだ。今回も自分がよく分かってないことを書いてみた。次回からはちょっと趣向を変えてみます。

    サトウタツヤ

     反射は,現在では心理学が扱う重要な現象の一つですが,心理学成立以前にも知られた現象でした。これまで,心身二元論を唱えた デ カ ル ト(Rene Descartes;1596-1650)がこの反射という考え方の発案者/提唱者であると考えられてきましたが,現在ではその考えに修正が迫られているようです。そもそも,反射という名詞は19世紀の半ばまでは存在せず,主に「反射的」運動のように形容詞的に使われていたということが指摘されています。 下の図は,よく知られたデカルトの著書『人間論』(1664)の

    「人体の記述」の図です。火の近くに足が近づいた時,その足を引っ込める,ということについて説明したものです。

     火(A)が足の近くにあると火の粉が足(B)にふりかかり,身体を通っている線(C)を引っ張ることになります。するとこの線は脳にまで通じていて,脳室(F)に到達します。この図では見えにくいのですが,(D),(E)という小さな穴を通して,動物精気が

    神経に流れ込み,足を引っ込めることになるのです。また,同時に動物精気が松果体と呼ばれる部位に到達することで,意識が引き起こされるということになります。 これまではこの説明図式をもって,デカルトは反射について取り上げていたと考える人も多かったのですが,この説明には,反射に重要な条件が欠けています。反射というのは,――光を鏡に反射させる時のことを思い起こしてほしいのですが――入る光と出る光が一緒なのです。デカルトの説明は,ヒモを引っ張ったら信号(のようなもの)が発せられる,ということですから,「入」と「出」が異なるものであり,反射とは呼べないということがわかると思います。デカルトのこの図式は,機械的であるとはいえ,情報もしくは信号の変質が前提となっており,今日的には反射とはいえないということになります。 国際脳卒中学会にはトーマス・ウィリス賞なるものが存在します。このウィリスというのは17世紀に活躍した医師・解剖学者であり,オックスフォード大学教授だった人です。 現在,ウィリスこそが,今日的な反射概念を形成した人として知られるようになってきました。フランスの科学史家カンギレムが,意識を介しない反射運動の概念を初めて確立した人物としてウィリスを位置づけていることが大きく影響しているといえます。ウィリスの主著は1644年の『脳の解剖学』。脳のはたらきの座を「脳室」

    ではなく灰白質という物質にあるとしたのもウィリスであり,脳の局在論はウィリスによって近代化したとされています。 ウィリスは,脳の神経系を司る

    「精気」を光にたとえました。そして,このたとえによってこそ,反射(リフレクス)という考えが現れたのです。『屈折光学』について研究したデカルトが,動物精気にこだわりインパルスのようなモノとは考えなかったのに対し,ウィリスは神経系の働きを光にたとえ,反射という語をその著書に多数用いたウィリスこそが,現在では反射概念の父であるにふさわしいとされているのです。 また彼の代表作の一つにラテン語で書かれた『動物の魂』(1672)があります。神経学と心理学にあたる学問領域について言及していることでも知られています。この著書が英訳された時(1683),当 時 に お い て も 古 語 で あ っ たpsycheologyと い う 語 が 用 い られ,それがpsychologyという単語の定着の契機になったそうです。

    [第 9回]

    Thomas Willis;1621-1675