九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository Perception and Causality 広川, 明 https://doi.org/10.15017/1397839 出版情報:哲学論文集. 23, pp.67-85, 1987-09-20. The Kyushu-daigaku Tetsugakukai バージョン: 権利関係:
九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository
Perception and Causality
広川, 明
https://doi.org/10.15017/1397839
出版情報:哲学論文集. 23, pp.67-85, 1987-09-20. The Kyushu-daigaku Tetsugakukaiバージョン:権利関係:
知覚
は物
理的世
界
を知
る基本
的様式
であ
る。知
覚
を通
して初
め
て、自
ら
を取
り巻
く物理
的世
界
と
の交
渉
も可能
と
な
る。
こ
の時、次
のよう
な問
が当然
生
じ
てくる
であ
ろう。
い
った
い、
こ
の交
渉
を可能
にする
も
のは何
な
のであ
ろう
か、
と。
そ
こで登
場
し
てく
るのが因
果
であ
ると私
は考
え
て
いる。物
理的
世界
から知覚
者
に至
る因果
連関
こそ知覚
を知
覚
たら
し
めて
いる基本
的
条
件
ではな
か
ろう
か。
し
かしな
が
ら同
時
に、知
覚
は世界
の諸
事物
を識
別
し、
それ
が何
であ
る
のか知
る
こと
でもあ
る。
そう
でな
ければ
、
われ
われ
は
一刻
た
りと
も日
々の生
活を営
む
こ
とは
できな
い。
だが
それ
ならば
、知
覚
に
お
いて、事物
が知
覚
を生
ぜし
め
ると
いう
こと
と
事
物
を認識
し、把
握
す
るこ
と、
す
なわ
ち因
果的契
機
と志向
的契
機
は
どんな
関係
にあ
る
のだ
ろう
か。
両者
は、多
く
の人
々が主
張
す
るよう
に、本
来相
容
れ
な
いも
のな
のだ
ろう
か。本
稿
に
お
いて
この問題
に接
近し
て
みた
いと思
う。
知覚と因果性
広
川
明
一
知
識
の
基
礎
知識
が
いか
にし
て獲
得
され
る
のかと
いう
こと
に関
し
て、
近
世以来
の認識論
はひ
と
つの枠
組
を持
って
いたよ
う
に思わ
れる
。
す
なわ
ち、知
識
の究極
の前
提
を感覚
体験
に置
き、
そ
れ
によ
って、他
の諸知識
を根
拠
づけ
よう
とす
る
のが
そ
の狙
いであ
った
の
であ
る。
と
いう
のも
、感覚
体
験
は意
識
に直接
与
えら
れ
た所
与
であ
り、
ど
んな疑
いを差
し挾
む余地
も
なく知
るこ
とが
でき
ると
考
え
られ
たから
であ
った。
このよう
な、
いわ
ゆ
る
「意
識内在
主義
」
には、基本
的
に言
って、
二
つの立場
が考
え
られ
る
であ
ろ
う。
ひ
と
つは
、ジ
ョン
・
ロックを代表
とす
る二元論
であ
るが、
こ
れは克
服
し難
い困難
を孕
ん
で
いる。
つま
り、
ロックは
一方
で意識
の直
接所
与
に知
識
探
究
の出発点
を求
めな
がら、
他方
で
は外的
対象
の存在
や性質
に
ついて語
る、
と
いう不整
合
に陥
らざ
るを
えな
か
った
のであ
る。
他
方、
一元
論的
な現象
主義
にも困難
が
つきま
とう。
現象
主義
は、物
理
的事
物
を感覚与
件
の集
合
によ
って定
義
しよ
う
とす
るが、
こ
の定
義
は、次
に論
ず
るよう
に、
循環
を犯
す
こと
にな
る
のであ
る。
いず
れ
の立場
も、
内在
主義
を受
け入
れ、感
覚与
件
を前
提
とし
て他
の知識
を根
拠
づけう
る
と考
えて
いる点
では同
じ
であ
る。
果
たし
てこ
のよう
な根拠
づ
けはう
まく
ゆ
く
のであ
ろう
か。
こ
の点
を考
え
て
みた
い。
(1)
まず
、感
覚与
件
が
いか
にして同
定
され、
取
り出
され
るか、
そ
の手続
き
を検討
し
て
みた
い。
今、
私
の目
の前
に
ト
マトが
の
の
の
の
の
ひ
と
つあ
って、
私
が感覚
与件
の記
述
を与
える
ため、
「そ
こにト
マトが
ひ
と
つあ
る
よう
に見
える」と言
ったと
しよう
。
こ
の手
続
き
の基
本的構
造
は、
「これは
φ
に見
え
る」
(
)
から
「φ
ー感覚
与件
が
ある
し
(
)
が導出
さ
れる
こと
にあ
る。
すな
わち、
「に見
える」
(
)が現在
の感
覚体
験
と同定
され
て
いる
のであ
る。
し
かし、
われ
われ
は
「に見
え
る」
と
いう
こと
で本当
に自
分
の感覚
体験
を記
述
し
て
いる
の
であ
ろう
か。
例
えば、
はる
か遠
く
の対象
を
見
て
いる時
や、夕
闇
で対
象
を見
て
いる時
に
「あ
れ
はφ
に見
え
る」
と言
った
とする
と、
これは
むし
ろ、観
察条
件
の悪
さ
を考慮
し
て、対
象
き
の
に
ついて
の断
定的
発
言
を控
えた
上
でそう
言
って
いると解
す
べき
ではな
か
ろう
か。
つま
り、
通常
は、
「に見
える」が感
覚体
験
の
記
述
のた
め
に用
いら
れ
る
ことは
め
った
にな
い。従
って、
感
覚与
件
を常
に同定
でき
ると
いう想
定
は誤
り
であ
る。
(ⅱ)
仮
に今
、感
覚与
件
の同
定
が行
わ
れた
と
しよう
。
そ
の時、
「あ
れ
はト
マト
に見
え
る」と
いう感
覚
体験
の記
述
が、
ト
マトが
見
え
て
いる状
況
に対
す
る唯一
の証
拠
であ
る、
と言
わ
れ
る
かも
しれ
な
い。
し
かし
、
そ
の言
明
はト
マト
があ
る
と
いう物
理的状
況
と記述
内
容
を同
じ
にす
る以上
、何
の役
にも立
たな
い。
むし
ろ
こ
の場
合、
証拠
を
求
める
こと自
体
が無意
味
な
の
であ
る。
一般
に、
ハ
あ
る知
覚言
明
に証
拠
を求
め
る
こと
に意
味
が
あ
るか
どう
かは、
そ
の言
明
がな
され
る知覚
状
況
に依存
す
る
と 、言わねば
な
らな
い。
従
ってもし、そ
のト
マトが陳列
窓
に飾
られ
ており、本物
かどうか疑わ
し
い場合
には、「それはト
マトだ」という言明
に対し、例えば、「私
は先程
そ
れ
に触
ってみた
のだ」と
いう証
拠
の言
明を与え
ることが
できようが、このことは
ノー
マルな知覚状
況では当
てはまらな
い。
(ⅱ)
さて、
現象
主義
にお
いて、
物
理的
事物
を感
覚与
件
の集
合
と
して定
義
する
た
めに
は、当
然、
感覚
与件
は物
理
的事物
とは
独
立
に同定
され
なけ
れば
な
らな
い。
と
ころ
が、感
覚与
件
の厳
密
で忠実
な
記述
を得
よ
うと
す
るな
ら、
どう
し
ても
「ト
マト」
の
よう
な、物
理
的事
物
の概念
を使
用
せざ
るを
えな
い。従
って、
現象
主義
者
の行
う定
義
は、置
き換
えよう
と
す
る当
のも
のを前
提
ぞ
にし
て感覚
与件
を
同定
す
る、
と
いう循
環
を犯
す
こと
にな
ってし
まう
の
であ
る。
このよ
うな
困難
は、
言
うま
で
もな
く、内
在
主義
的
な知
識
の見方
に由
来
す
る。従
って、
こ
こでわ
れ
われ
は、知
識
の根拠
づ
け
と
いう
認識
論的
動機
そ
のも
のの放
棄
を迫
られ
て
いる
の
であ
る。内
在主
義
の前提
に支
配
さ
れ
て
いる
限
り、恐
らく
一歩
も前
進
で
きな
い
こと
であ
ろう。
で
は、内
在主
義的
な
知識
の見
方
を放
棄
する
とし
た
ら、
ど
こに探究
の出発
点
を見出
し
た
らよ
いのか。求
められ
て
いる
のは、
も
は
やそ
れ以上
遡
り
えな
い地点
を
明
示し、
そ
こ
にわ
れわ
れ
の知
識
の基
礎
を置
く
こと
であ
ろう。
意識
の直
接所
与
か
ら出発
し
て、
経
験的
知識
を基
礎
づけ
る
と
いう試
みが
途
を断
たれ
て
いる以
上、
物
理的事
物
に
ついて
の諸
命題
のう
ち
に知
識
の基
礎
を見
出
す
べ
き
ではな
いか。
もち
ろん
そ
の時
には、物
理
的事
物
に
つ
いて
の諸命
題
を
正当化
す
る
ような
、感
覚体
験
に
つ
いての直接
知
なる
も
の
はもは
や存
在
しな
い。
反対
にわ
れ
われ
は、物
理的
事物
そ
のも
のを
「直
接
に」
自
覚
(
)
して
いる
の
である。
このよ
うな
見地
に立
てば
、知
覚
の問題
の意義
も
また変
質
し
てく
る
ことと
なろ
う。知
覚
は
もは
や、知
識
の根拠
と
な
る諸
命題
を与
える場
とし
て位
置
づ
けら
れる
べきで
はな
い。
われ
われ
は
むし
ろ、事
物世
界
を知
る基本
的様
式
と
いう意
味
で、知
覚
を知識
論
の中
核
に位置
づ
け
る
べきだ
と思
われ
る。
二
因
果
の
必
要
性
われ
わ
れは、
意識
内在
主義
の批判
を通
し
て、
物理
的事
物
の直
接知
覚
を説
く
「直
接実
在
論」
(
)
に到達
し
た。
「常
識
的実
在論
」
とも
呼び
う
る
この説
は、
日常
的
な知覚
の概
念
のうち
か
ら前
理
論的
な了
解
を取
り出
し
て明
らか
にし
たも
の
で
あ
り、
わ
れわ
れは内
在
主義
の批
判
を介
し
て再び
、常
識
が信
じ
る実在
論
の立
場
に立
ち戻
った
の
であ
る。
し
かし
なが
ら、
これ
だ
け
では知覚
の説
明
と
し
て十
分
であ
る
とは言
え
な
い。日
常的
な知
覚
の概念
を解
明
す
るた
め
には、
な
お
欠
け
て
いるも
のが
あ
る。
それ
がす
な
わち因
果
の
カテゴ
リ
ーな
の
であ
る。物
理的
世界
の存
在
が、
われ
わ
れ
の知
的営
みが受容
せ
ざ
る
をえ
な
い前
提
であ
る
とす
るな
ら、
そ
の時、
わ
れわ
れ
の知覚
の成
り立
ちを明
ら
か
にし
てく
れるも
のは因果
的説
明
を
お
いて
他
に存
在
しな
いので
はな
いだ
ろう
か。
(4)
このよう
な視
点
に立
って、私
は
、
H
・P
・グ
ライ
スが以
前
に発表
した論
文、
「知
覚
の因果
説
」
の解
釈
に向
か
いた
いと思
う。
こ
の論
文
には、
内在
主
義的
な知
覚
説
の枠内
で因果説
を展開
す
る
こと
にな
お固執
す
る面
も見
受
けら
れる
が、彼
の基本
的意
図
が、
因
果
が知覚
の成
立
にど
のよう
に関与
する
かを
示す
こと
にあ
った
のは疑
いがな
い。
そ
の意
味
で、
グ
ライ
ス
の因果説
は従来
の因
果
説
とは異
な
り、
因果
の果
た
し
て
いる役割
を
際立
た
せる
も
のであ
った、
と言
う
こと
がで
きよ
う。
まず
は、
グ
ライ
ス
の議
論
を
振
り
返
って
おき
た
い。
の
の
の
サ
人物
Pが机
の上
の花
瓶
を見
て
いると言
え
る
ため
の条件
は何
であ
ろう
か。
E
・ゲ
テ
ィア
に従
い、知
覚
の正当
化
理論
の立
場
か
(五
ら、
そ
の条
件
を次
の三
つにま
とめ
る
こと
がで
きよう
。(1)P
が花瓶
の視
覚
体験
を持
って
いる
こと、
②
Pは花
瓶
の存在
を信
じ
て
いる
こと、③
実
際
に机
の上
に花瓶
が存
在
す
る
こと、
この三
つであ
る。知
覚的
知
識
を正当
化
と
いう観点
から分
析
すれば
、
(6)
これ
ら
三
つの条件
が満
足
さ
れ
て
いる時
にP
は花
瓶
を見
て
いる、
と結
論
さ
れる
と思
う。
し
か
しな
がら、
これだ
け
の条件
では、
P
が花
瓶
を見
て
いる
とは言
え
な
いよ
うな状
況
が想
像可
能
な
のであ
る。
例
えば
、
熟練
した
生理学
者
にと
って、
P
の大
脳
に電気
刺激
を
与
え
るこ
と
によ
って、彼
に花瓶
の視
覚体
験
を生
ぜ
しめ
る
ことが
可能
で
あろう
。
(7>
また
、幻
覚剤
の服
用
によ
っても同
じ結果
が
期待
さ
れ
る。
こ
の時
、前
述
の三
つの条件
が
満足
さ
れて
いるこ
とは明
ら
かで
ある。
も
う
ひと
つ別
の反例
を挙げ
てみ
よう。
Pが鏡
を見
てお
り、
そ
の鏡
の背後
に
一本
の柱
が立
って
いる。当
然
のこと
なが
ら、柱
から
の光
は
P
の目
に届
かな
い。
と
ころ
が、全
く
同
じ外
見
の別
の柱
か
ら光
が鏡
に達
し、
Pは
鏡
の背後
にあ
る柱
を見
て
いるも
の
(8)
と思
い込ん
でし
まう
。花
瓶
の例
と同
じ
よう
に、
今度
も
間違
いなく
三
つ
の条
件
は満
た
され
て
いる。
し
かし
われ
われ
は、
こ
の二
つの事例
にお
いて
Pが花
瓶
あ
る
いは鏡
の後
の柱
を見
て
いたと
は言
わ
な
いはず
であ
る。
なぜ言
わな
いのか。
そ
の理由
は、
花瓶
も、
鏡
の背後
の柱
も
P
の視覚
体
験
を
「引
き起
こし
て」
いなか
った
から
であ
る。
つまり
、
これら
の対
象
と
P
の視覚
体
験
の間
に
は因
果連
鎖
は存在
しな
か
った。
このよ
う
な因果
的条
件
に訴
え
て、
わ
れわ
れは、
P
は対象
を見
なか
った
のだ
と言
う
のであ
る。
し
て
みると、
対象
が視覚
体
験
を引
き起
こす
と
いう因
果
の契機
は、知
覚
の概
念
のう
ち
に本
質的
な
も
のと
し
て含
まれ
て
いる
ので
はな
いだろう
か。
グ
ラ
イ
スが提
出
した
二
つの反
例
は、
いず
れ
も通常
の知
覚
と
は認
めら
れな
いアブ
ノー
マルな例
であ
る
が、
そ
れを考
察
す
る
こと
によ
って、
逆
に、
ノー
マルな
知覚
にお
いて因
果
が果
たし
て
いる役
割
を明
る
み
に出
し
た
のであ
る。
ハ9)
人物
Pが対
象
X
(あ
る
いは
それ
を含
む事実
)
を見
て
いる。
ー↓
P
の視覚
体
験
がX
(事
実
)に因果
的
に依存
す
る。
ここ
では、
因果
的依
存
の関
係
は
Pが
Xを見
るた
め
の必要条
件
であ
り、
わ
れ
われ
は標準
的
な知
覚
にお
いて、
対象
を見
る
こと
のう
ち
に
この因果
関係
が含
意
さ
れて
いる
こ
とを了解
して
いる。
因果
関係
は、
もしそ
れ
が存在
し
な
いとし
たら知
覚
は成立
しな
いと
いう
意味
で、
知
覚
を支
える根
拠
であ
る。
三
原
因
と
対
象
前
節
の議論
は、
世
界
のう
ち
に生
じ
てく
る知
覚
の成
り立
ち
を、実
在的
連関
の中
で見
届
け
よう
とし
たも
の
である。
そ
の時、
知
覚
の成
立
を可
能
なら
し
める条
件
とし
て因
果
のカ
テゴ
リー
が登
場
して
きた
の
であ
った。
しか
しな
が
ら、従
来
より、
知覚
の因果
説
はたび
たび
の批判
を受
け、
種
々
の難点
を指
摘
され
た上
で葬
り去
ら
れる
のが常
で
あ
った。
そ
のよう
な批
判
は
いく
つか
に分類
で
き
るが、私
はそ
の中
でも最
も基本
的
な
二点
を考
え
て
みた
い。ま
ず第
一に、従
来
か
ら
の因
果説
は
ロック
のも
の
にせよ、
ラ
ッセ
ルのも
の
にせよ、
内在
主
義的
な
二元論
の枠
内
で展
開
され
る
のが常
であ
ったと
いう
事情
が
あ
る。
これ
によ
れば
、第
一性
質
の
みか
ら成
る、
「観察
不可
能」
な
「物
理的
対象
」が
、意
識
の直接
対象
とし
て
の、
「観念
〕
あ
る
いは
「感覚
与件
」
を引
き起
こす
と
いう
こと
にな
る。
だが
そ
の時
、
原因
とな
る対象
が
いか
にし
て特
定
で
きる
のか、
そ
もそ
ハ
もそ
のよ
うな対
象
が存
在
する
の
か、
と
いう
懐疑
論者
の批判
に屈
服
せざ
る
をえ
なく
なる。
この批判
は、内
在主
義
へ向
け
られ
たも
の
であり
、改
め
て
ここ
で繰
り
返す
には及ば
な
いこと
であ
ろう。だ
がわ
れわ
れは、「直
接
実在
論
」
にお
いて因
果説
が成
り立
ちう
る
と
いう
ことを、
知
覚
の対象
と体
験
の構造
を
通
して
は
っきり
示さ
ねば
なら
な
い。
実
物
の花瓶
が
P
の視
覚体
験
を引
き起
こし、
し
かも
それ
が知
覚
の直接
対象
とな
って
いる
と
いう事態
を
正し
く記
述
でき
なけ
れば
な
ら
な
い。
第
二に、
因果
は事物
連
関
の領域
に
のみ適
用さ
れ
るカ
テゴ
リー
であ
って、対
象認
識
の次
元
にお
いて役
立
つはず
も
な
い、
と
い
う
のが因
果説
に対す
る
一般的
反応
であ
り、反
感
であ
る
と思
われ
る。
この見解
は、
知
覚
の本
性
が対
象
の認
識
にあ
ると考
え
て
い
る点
では
正し
い理解
を示
し
て
いるよう
だ。
わ
れわ
れ
はそ
れ
に対
し、
ど
のよう
な方途
を
探
る
べき
であ
ろう
か。
もう
一度
、グ
ラ
イ
ス
の反
例
に戻
って
みよう。
そ
の時
、
われ
われ
は、
P
が机
の上
の花
瓶
を見
て
いる
と
いう言
明
の真
偽
を、対
象
か
らP
の視覚
体
験
に至
る因
果連
鎖
の有無
に訴
えて決
定
し
た
のであ
る。
すな
わ
ち、知
覚成
立
の条
件
を、実在
的
な因
果連
関
が
果
た
し
て
いる役
割
と
いう観
点
だ
け
から分析
して
きた
の
であ
る。
し
かし通常
は、あ
る
も
のXを知
覚
す
ると
いう
こと
に
は、
X
が
いかに認
識
され
て
いる
かと
いう、
対象
認
識
の契機
が含
ま
れ
て
いる。
P
は机
の上
の対象
が
「花瓶
」
で
ある
こ
とを認識
して
いる
の
であり
、
それ
を他
のも
のから識
別
でき
る
はず
であ
る。
この
二
つの
ことを結
び
つけ
て言
えば
、標
準
的
な知覚
状
況
に
お
いては、
P
がX
を
一定
の意
味
を
も
つも
のとし
て見
て
いる
と
い
う
ことは
、
Xが
P
の視
覚体
験
を引
き起
こす
と
いう
ことを
含
ん
で
いるであ
ろう
。
すな
わち
、実在
の対象
X
は知覚
を
生ぜ
し
めて
いな
が
ら、
し
かもそ
れ
が何
であ
る
か認
識
さ
れ
て
いる。
こ
のこ
とが
「知覚
」
によ
って意
味
さ
れ
て
いる
こ
と
の核
心
にあ
る。言
い
換
え
れば
、因
果性
と志
向性
の両契
機
を含
む
と
いう
こと
こそ知
覚
の本
来
の姿
な
のであ
る。
にも
かかわ
らず
、因
果性
と志
向性
は
し
ょせ
ん相容
れ
るはず
のな
いも
のだ
とす
る考
え
が、
現象
学
派
の人
々
のみな
らず
、分析
的
な知
覚論
や
行為
論
に携
わる
人
々の間
にも広
く
浸透
し
て
いる
ようだ
。
こう
し
た見解
に対
応
す
るた
め
にも、
知覚
の構
造
の中
で、
いか
にし
て因果
性
と志向
性
が関
わり
合
う
の
かを明
ら
か
にしな
け
れば
なら
な
い。
以
上
の互
いに関
連
す
る二点
を解
明
す
る
ことが
これ以後
の考察全
体
を通
じて
の課題
である。
私
は
まず
、
ア
ン
ス
コムの著作
の
中
から
こ
の問
題
に関
す
る箇
所
を抜
き出
し
て簡略
に示し、
これ
に反論
を加
える
と
いう形
で議
論
を進
めて
ゆき
た
い。
ア
ンス
コムは、
『イ
ンテ
ン
シ
ョン』に
お
いて
「なぜ
君
は~
し
た
のか」と
いう
「理由
」を求
める
問
をた
て、
こ
の間
に
「観
察
に
基づ
か
な
いで」
(
)
答
え
られ
る
かどう
か
と
いう
こと
を、行
為
を単
な
る身
体
運動
から分
か
つた
め
の規
準
と
(11)
な
した。
例
えば、
コップ
に水
を
注
いで
いる
のを見
た友
人
が
「な
ぜ
か」と問
う
た時
、私
は即
座
に、
「薬
を飲
むた
めだ
」と答
える
こ
とが
でき
る。
こ
の時
、
私
は自分
の行為
の理由
を与
えた
の
であ
る。
ア
ンス
コム
は
この間
によ
って導
かれ
るも
の
(動機
や意
志
(12V
を含
む広
い領
域
)を
「心
的因
果性
」
(
)
と名
づけ
、
これ
によ
って行為
の説
明
を行
お
う
とした
。
これ
に引
き続
き、
ア
ン
ス
コムは、
「心
的因
果性
」の領域
から行
為
や動
作
の
「原
因」を除去
し
よう
と
し
て
いる。
例
えば
、病
院
で行
う膝
蓋反
射検
査
にお
いて、
脛
の反射
運
動
の原
因
は何
かと
いえ
ば、
そ
れは
医師
が膝
を木
槌
で叩
いた
こと
であ
る。も
と
より、
患者
は脛
が上
が
った
こ
とを観
察
に基
づ
かな
いで知
る
こと
は
できよ
う
が、
そ
の原因
に
ついて
は当
人
よ
り医師
の方
が詳
しく知
っ
て
おり、
これは観
察
に基
づ
いて知
られ
るも
のに属
す
る。
し
かし例
えば
、動
物
園
で
ワ
ニが急
に吠
えた
の
でとび上
が
ったと
か、
恐
し
い顔
が窓
から
ぬ
っと出
て
きた
の
で思わず
テーブ
ル
の
コップ
を
た
たき落
とし
てし
ま
った、
と
いう
よう
な場合
は
どう
であ
ろ
う
か。
そ
の時
確
か
に、
「なぜ
」
と
いう問
に対
して即
座
に、
「ワ
ニが
吠
えた
から
だ」、
「恐
し
い顔
が覗
いた
からだ
」
と答
える
こと
(13)
が
でき
る
であ
ろう。
ア
ン
ス
コムは
こ
の種
の原因
を
「心
的原
因」
(
)
と名
づ
け、行
為
の
「理由
」
と区別
し
て
いる。
要
す
る
に、彼
女
は
「心
的原
因
」を
ヒ
ュー
ム的
な意
味
で
の因果連
関
と
し
て捉
え、
「理由
」によ
る行為
の説
明
と
は整
合
的
にな
りえ
な
いと考
え
て
いる
のであ
る。
(「ヒ
ュー
ム的
因果
」
に
ついては第
五
節
で詳
しく
論ず
る。)
しか
し、行
為
の
「理由
」
も
「原因
」
も
「なぜ
」
と
いう行
為
の規
準
を求
め
る問
によ
って導
かれ
ると
いう点
に関
し
て
は変
わり
な
い。
つま
り、自
分
の行
為
を生
ぜ
しめ
た
も
のに
つ
いて
の直
知
と
いう条
件
に関
し
て相
違
は
な
い。
それ
なら
、「原
因」
と
「理由
」
の峻
別
を図
る前
に、
因果
的説
明
によ
って両
者
を統合
す
る途
を
一考
す
べき
で
はな
い
かと
いう
のが私
の疑
問
であ
る。
と
ころ
で、
同
じ節
(
)で彼
女
は、
行為
だ
け
でなく
、感
情
や思
考
の領
域
に
お
いても
「心
的原
因」と
いう現象
が
存在
す
る
こ
と
を認
め、行
為
に
お
いて
「心的
原因
」を
「理由
」と区別
し
た
のと同
様
に、感
情
や思
考
など
の意識
体
験
に
お
いても、
「心的
原
因」
と
「対象
」
を区
別
しな
けれ
ば
なら
な
い、
と言
う。例
を挙げ
てみ
よう。
子供
が
何
か赤
いも
のを見
てあ
れは何
かと尋
ね
る。乳
母
は
それ
を
「サ
テ
ン」
と言
った
のだ
が、
子供
は
「サタ
ン」
と聞
き違
いし
てひ
どく脅
え
てし
まう
。
こ
の場
合、
子供
の恐怖
の
「対
象」
は布
切
れ
であ
るが、
恐怖
の
「原
因
」
は乳母
の言葉
であ
り、
そ
の両者
の相
違
は明
ら
かだ、
と
いう
わけ
であ
る。
こう
した叙
述
か
ら推
し量
れば
、感
情
の
「対象
」
は行
為
におけ
る
「心的
因果
性」
に対応
す
るも
の
であり
、
「原因」
とは区
別
さ
れ
ねば
なら
な
い、
とア
ンス
コムは答
え
る
こと
であ
ろう
。
いず
れ
にせ
よ、
ア
ンス
コムが
「原
因」
と
「対象
」
の区
別を
な
し、因
果的
説
明を
退け
よう
と
し
て
いる
ことは
明
らか
であ
る。
だ
が
ここ
でも、感
情
の
「対象
」
と
「原因
」
をカ
テゴ
リー
の上
で区
別す
(14)
る十
分
な理由
は
な
いと思
う
。
まず、
この節
の冒
頭
で挙げ
た第
一の問
題
に
ついて考
え
て
みよう。
も
し
「対象
」
の概念
を内
在
主義
に従
って
「意
識
の直
接対
象」
と規
定
す
るな
ら、第
一節
で示
した
困難
に逆
戻
りし
て
しまう
。
それ
な
ら
「対
象」
の概
念
は
ど
こで定義
さる
べき
か。
これ
に
(15)
対
し
て、
「対
象」
は本
来文
法
的
な概念
であ
る
と
いう
点
を強調
し
た
い。内
在主
義者
の誤
りは、
文法
的概
念
であ
る
はず
の
「対
象
」
を、
「感覚
与
件」
や
「観念
」
のよう
な内
在的
対象
に仕立
て上
げ
た
こと
にあ
る。
さて、
ア
ン
ス
コムは
『イ
ンテ
ンシ
ョン』出
版後
数
年
を経
て、
「感覚
の志
向
性」と題
す
る論
文
を発表
し
たが、
ここ
では
「対象
」
(16)
の概
念
は徹底
し
て文法
的
に定
義
され
て
いる。
例
えば
、
スミ
スは灌
木
の陰
の牡鹿
を狙
った
。
と
いう文
にお
いて、
「スミ
スは何
を狙
った
の
か」と問
わ
れれば
、
誰
しも
「牡鹿
」とすぐ
に答
え
る
こと
がで
きよう
。
それ
は文法
で言
う
「目的
語」
(
)とし
て、
この文中
で定
ま
った位
置
を持
ってお
り、
われ
われ
は
そ
のこと
を子
供
の頃
から繰
り返
し学
(17)
ん
で習得
し
て
いる。
つま
り、
「対
象」
の概
念
は動
詞
の働
きを受
け
る
「目的
」と
し
て、
す
で
にわ
れわ
れ
の語
る言葉
のうち
で明
ら
か
にさ
れて
いる
の
であ
る。
それ
ゆえ
、
「対象
」
は、
「意
識
の直接
対象
」
と
は全
く無縁
であ
り、実
物
の個体
とし
て
の牡
鹿
と
一致
(18)
しう
る
も
のな
のであ
る。
と
ころで、
こう
し
た
「対象
」
の概念
は、
『イ
ンテ
ンシ
ョン』
の叙
述
のう
ち
にも
す
でに準備
され
て
いる。行
為
に
お
いて、
「な
ぜ」と
いう問
によ
って行為
の
「理
由
」が与
えら
れ
る
ことと
平行
し
て言
えば
、
「君は
何
を恐
れ
て
いる
のか
(何
を見
て
いる
の
か)」
と
いう問
によ
って、
「対象
」
の概
念
は明
ら
か
にされ
う
る。
「対象
」
の文法
的概
念
と
は、
こ
のよう
な問
に対
す
る返
答
のう
ちで表
現
され
るも
のな
の
であ
る。
以
上
の
ことを考
慮
す
れば、
わ
れ
われ
は知覚
の対象
が
ま
た原因
でもあ
る
とす
る、因
果的
説
明
を受
け入
れう
る
ので
はな
かろ
う
か。
実際
、
そ
の論
拠
を
ア
ンス
コム
の叙述
のう
ち
にも求
め
る
ことが
で
きる。
つまり、
ア
ンス
コム自身
、
恐怖
の対
象
が恐怖
の原
(19)
因
でも
あ
る場
合
が存在
する
と認
め
て
いる
のであ
る。
これ
は注目
に値
する
こと
であ
ろう
。
四
記
述
と
知
覚
先
にわ
れわ
れは、
因果
的
説明
のう
ちで対
象認
識
の契
機
を語
りう
る
か
と
いう
問
をた
てた。
次
にこ
の問
題
に移
ってゆ
かねば
な
ら
な
い。
さ
て、
ア
ンス
コム
は
『イ
ン
テ
ンシ
ョン』
にお
いて、
行為
は
「あ
る記述
の下
で」
(
)
のみ意
志
行為
であ
る
と
いう点、
つまり
記述
と行
為
の関
係
を通
し
て行為
の構
造
を解
明
しよ
う
とし
たが、
知覚
の志向
性
を考察
す
る上
で
も、記
述
と知
覚
の関
係
が基本
的
指針
と
なる
。
つま
り、
あ
る記述
を
通
して
そ
の対
象
が
ど
のよう
に把握
され
て
いる
か、
と
いう
記述
と対
象
の構
造
のうち
で対象
の認識
は語
られ
ねば
な
らな
い。
この時
、わ
れ
われ
が
「何
を
見
て
いる
のか」
と問
わ
れ
て
「し
かじ
か
のも
のを見
て
いる」
と答
え
る際
の、
そ
の記述
と対
象
に関
する
わ
れわ
れ
の了
解
を文法
的
特性
とし
て明記
でき
れば、
志向
性
の文
法的
規定
を
得
る
ことが
で
きよう
。
そ
のよう
な特性
とし
て
ア
ンス
コム
が挙げ
る
の
は、①
対象
に
つ
いての異
な
る記述
の交換
不可
能性
(
、②
対
象
の可
能
な
る不確
定性
(
③
対象
の可
能
な
る非
実在
性
(
(20)
)、
の
三
つ
で
あ
る
。
これ
らを順
次簡
略
に解
説
し
てお
こう。
①
ある対
象
を知覚
す
る時、
そ
の対象
に様
々
な記述
が適
用
されう
る。
し
かし、
対象
は
そ
のうち
のあ
る記
述
の下
で
のみ知覚
されて
いる
のであ
って、別
の記
述
は当
の対象
に該当
しな
いことが
ある。
も
ちろ
ん
ここで
は、対
象
そ
のも
のは数
的
に同
一の公
共的
対象
であ
り、
そ
の都度
の記
述
とは区
別
され
て
いる。
さ
て今
、人
物
Pが
ある人
物
Sを
一定
の記述
の下
で見
て
いる
とし
よう。
この時、
S=
中曽
根康
弘、
つ求
り内
閣
総理大臣
と
お
く。言
うま
でも
なく、
「中
曽根康
弘
」と
「内
閣総
理大
臣
」は同
一人物
に該
当
す
る異な
る記述
であ
る。
さら
に、中
曽根
氏
の知
人
である
Pが、
た
また
ま中曽
根氏
が内
閣総
理大
臣
であ
る
ことを知
ら
な
か
ったとし
よう。
そ
うす
る
と、
「Pは
Sを
『中曽
根康
弘』
と
いう
記述
の下
で
(つま
り、
『中
曽根
康
弘』
と
して)
見
て
いる」
は真
であ
るが、
「P
はS
を内
閣総
理大
臣
とし
て見
て
いる」
は
偽
であ
る。
すな
わち、
この型
の文
は
「指
示的
に不透
明」
(
)な
のであ
り、
これ
が
「ある記
述
の下
で」
見
る
こと
の文法
の大
き
な特徴
であ
る。
言
い換
えれば
、記
述
によ
って、
その対象
の何
であ
るか
と
いう
ことが規
定
され
て
いる
ので
(21)
ハ22)
あり、
それ
と
とも
に、
「指
示的
に不
透明
な」
文脈
が形成
され
る
のであ
る。
②
「対象
の可
能
なる不
確実
性」
と
いう特
性
も身近
に確
認
でき
る
こ
とで
あ
る。
P
が
あ
る人
物
の
こと
を思
い浮
か
べて
いる場
合、
そ
の人
の身
長
や容
貌
の特
徴ま
で詳
しく
思
い浮
か
べて
いるわ
けで
はあ
るま
い。
われ
われ
がそ
の下
で対象
を
思
い浮
か
べて
い
る
と
いう時
の記
述
は、多
分
に曖昧
で不
確実
であ
る
のが普
通
な
のであ
る。
③
最後
に、
「対象
の可
能
なる非
実在
性
」
に
ついて触
れ
ておく。
(イ)
ギ
リ
シア人
はゼ
ウ
スを崇拝
し
た。
(ロ)
スミ
スは
シー
ザ
ー
に
ついて考
えて
いた。
(ハ)
ジ
ョンはか
っと
し
てス
ミスを殴
った。(イ)
、(ロ)は
いず
れ
も、崇
拝
や思考
の対
象
が実在
し
なく
とも真
である。
一方
、(ハ)は、
も
し
スミ
スが現実
に存在
しな
か
った
とし
たら偽
と
な
ってし
まう。
この特性
は事
物同
士
の物理
的関
係
や、単
な
る心
理学的
関係
には認
めら
れず、
従
って当
然
のことな
が
ら、従来
よ
り注目
を集
め
てき
た。対象
の非
実在
性
をも許
容
す
る志
向的
関係
は意
識
現象
の根本
特
徴
とみ
なさ
れた
の
であ
る。(こ
(23)
の特性
に
ついては
なお詳
細
に論ず
べき点
もあ
るが、
そ
れは別
の機
会
に譲
りた
い。)
さて、
これ
ら三
つの特
性
によ
り、対
象認
識
の契機
が
「記述
」
の概念
に基
づ
いて語
ら
れう
る
と思う。
対象
の認識
と
はそ
のよ
う
に、記述
によ
って、従
って言葉
によ
って対象
が
一定
の意味
を
も
つも
のとし
て規定
さ
れる
こ
とな
のであ
る。
そ
して、
この
こ
と
が可能
とな
る
のは、
われ
われ
が個
々
の事
物
の概念
を言
葉
の学
習を通
し
て獲得
し、
蓄積
し
て
いる
から
に他
ならな
い。
個
々
の
事物
のそ
の都度
の知
覚
は、言
葉
の学習
による概
念
の成立
を背
景
とし
て初
め
て可
能
とな
る
のであ
る。
最後
に、
これら
の特性
が志
向的
な文
を非
志向
的
な文
から区
別
す
る規
準
でも
ある、
と
いう点
を指
摘
し
てお
きた
い。
た
った今
使用
し
た例
で言
う
と、(ハ)は
ジ
ョンの動
作
を綴
った
だけ
で志向
的表
現
とは
言
い難
い。
しかし
、の
も、
「動詞
ー
目的
」と
いう文
法
(24)
的構
造を
備
えた文
であ
る以上
、(イ)や(ロ)とどう
し
て区別
でき
る
のか
と
いう
疑問
が当
然出
て
こよう
。
そ
の意
味
では、
前節
の
「対
象」
の概念
のみ
では志向
性
の定義
とし
ては
まだ十
分
ではな
い。
そ
こで、
こ
の区別
の規準
とし
て三
つの特
性
が役立
つの
である。
(ハ)
は
これら
の特
性
に
よ
って、
志向
的
な文
の
クラ
スか
ら除
去
され
う
る。念
を押
し
て繰
り返
せば、
これら
の特性
は
「対象
」
の存
在論
的身
分
に
つ
いて
いさ
さかも触
れる
とこ
ろがな
い。
さ
らに、
志向
動詞
が暗
示す
る、
固有
の精神
の過程
や作
用
に言
及す
る
こ
ともな
く志向
的表
現を
非志向
的表
現
か
ら識別
しう
る。
元来
、志向
性
の概念
は心
の中
に生
じて
いる過
程
や作
用
によ
って規定
さ
れ
う
るよう
なも
ので
はな
い
のであ
る。従
って
ここで
も、因
果的解
釈
と矛
盾す
る要
素
は何
もな
い。先
の例
で言
えば
、赤
い布
は
一方
で子供
の視覚
体験
を引
き起
こし
つ
つ、
「サタ
ン」と
いう
記述
の下
で知
覚
され、
子供
を脅
え
さ
せて
いる。
すな
わち、
実在
的
因
果連関
と、
「あ
る記述
の下
で」
と
いう志
向性
の基
本
原理
が両立
し
て
いる。
われ
われ
は、
「原因
」
と
「対
象
」を峻
別
す
るア
ン
ス
コムに対
し、
こ
の両
者
を統合
し
て
このよ
うな因
果的解
釈
に読
みかえ
る
ことが
でき
るよう
に思
わ
れる。
一般
に、
ア
ンス
コムは因
果説
を退
け
たと
いう点
のみが強
調
され
がち
だが、
私
は、
ア
ンス
コムは因
果説
からそ
れ程離
れ
て
は
いな
か
った
の
ではな
いか
と考
えて
いる。
五
知
覚
因
果
の
構
造
し
かしな
がら、
わ
れわ
れは本
当
に知覚
の構
造
のう
ち
に因
果連
関
を見据
え
た
と結
論
でき
る
のだ
ろう
か。私
は志向
性
の文
法的
解釈
と因
果説
の統
合
に
つ
いて
いさ
さ
か楽
観的
に語
ったが、
実
は
そ
の時、
「因
果」
は空
虚
な概
念
に変
質
しは
し
な
か
っただ
ろ
う
か。「因
果」
に
つ
いて、
最終
的
には
ど
こで語
る
べきな
のだ
ろう
か。
こ
の問
題
に答
える
ため
には、
ヒ
ュー
ム的因
果
の概念
を検
討
しな
ければ
な
らな
い。
ヒ
ュー
ム的
因果
との比
較
・対決
を通
し
て、
知覚
におけ
る因果
連関
の特
異
な構
造
にも照明
が当
て
られ
る
ことと
な
ろう。
(25)
便
宜上
、次
の二点
に
ヒ
ュー
ム的因
果
をま
とめ
てお
きた
い。
(1)
ヒ
ュー
ム的
因果
の基本
的
特性
は、
A
タイプ
の出
来事
のクラ
ス
とBタ
イプ
の出来
事
のク
ラ
ス
の間
に認
め
られ
る規則
的
な
継起
の関
係
にあ
る。出
来事
Xが出来
事
yを引
き起
こした
と
い
っても、
Xと
y
の因
果結
合
そ
のも
のが観察
され
たわけ
で
はなく
、
事実
上観
察
され
た
のは
xが
yに続
いて生
じ
たと
いう
こと
にすぎ
な
い。例
えば
、雨
雲
と降雨
の関
係
にし
ても
、
われ
われ
が観察
し
うる
のは
二
つのタ
イプ
のそ
れぞ
れ
の事
象間
の規
則的
な継
起関
係
の
みであ
る。
ヒ
ュー
ムの言葉
を借
り
れば
、原
因
とは
「もう
ひと
つの対象
に先
行
し、
か
つ、
隣接
す
る対象
であ
って、
そし
てそ
の場合
、第
一の対象
に類
似
す
るす
べて
の対象
は第
二の対象
(26)
に類似
する対象
に対
して、
同様
の先
行
および
隣接
の関
係
に置
かれ
て
いる。」
換言
す
れば、
Xと
yが因
果関
係
によ
って結
合
さ
れ
て
いると
いう
こと
は、
これ
らが
Aタ
イプ
の出来
事
とB
タイプ
の出
来事
に関
し
て成
り立
つ
一般
法則
の事
例
であ
る、
と
いう
こ
とであ
る。
(ⅱ)
x、
yが
とも
に雨雲
の発
生
と降雨
、
ある
いは酸
性物
質
と金属
の腐
食
な
どのよ
うな実
在
の出来
事
であ
る時
、
そう
した出
来事
の間
に規
則的
な継
起関
係
が成
り立
つた
め
の条
件
は何
であ
ろう
か。
それ
は、
そ
れらが
個
々独
立
に特
定
され
うる実
在
の出来
事
でなけ
れば
な
らな
いと
いう
こ
とであ
ろう。
つま
り、
そ
れ
らは論
理的
に結合
して
は
いな
いはず
であ
る。従
って、
因果関
係
は
(27)
論
理的
分析
的関
係
とは異
な
る、経
験的
総合
的関
係
であ
る。
さ
て、互
いに関連
し合
う
こ
の二点
は、
二
つの項
の間
に因果
関係
が成
り立
つと言
いう
るた
め
の条
件
を述
べた
も
のと言
えよ
う。
従来
から
の因果
説
への批
判
も、大
方
は、
こ
のヒ
ュー
ム的
因果
を背
景
にし
てな
され
たも
の
であ
った。
(1)
規
則性、
法則
性
と
いう条件
は、
因果
認識
に関
す
る経験
主義
者
の見解
に基
づ
く。
これ
に従
えば
、知
覚
に
おける因
果連
関
は、
光線
の伝
播、視
覚
器官
や神
経
の働
き、
な
ど
の知覚
過程
に関
す
る諸仮
説
がた
てら
れ、
それ
が観察
や実
験
の反復
によ
って検
(28)
証
され
る
こと
によ
って初
めて確
立
され
るこ
ととな
ろう
。
し
かしな
がら、
知覚
あ
る
いは行為
におけ
る因果
認識
は、
これと全
く異
な
ると言
わ
なけ
れば
なら
な
い。
例
えば、
恐
ろ
し
い顔
が窓
から
ぬ
っと覗
いた
ので、私
はび
っく
り
し
て思
わず
そ
の方
へ身構
え
る。
これ
は、身
構
える
と
いう動作
の
「原
因
とな
った
も
の」
に対す
る直接
的反
応
であ
る。
こ
こには、
因果
連関
を仮
説
に基
づ
いて推測
し
たり、
検証
し
たり
す
る操
作
が介在
す
る余
地
は
全
く
な
い。
む
しろ、視
覚体
験
の原
因
とな
ったも
の
へただ
ち
に反応
す
る
こと
のう
ち
に、私
が対象
と視
覚
体験
を結
ぶ因
果連
関
を
了解
し
て
いる
ことが
見
て取
れる
のであ
る。
お
そらく
、
われわ
れ
の因果
の概念
は、
これ
に類似
し
た数
々
の体
験
を幼児
期
より反
復す
る
こと
により獲
得
され
てゆく
のであ
ろう。物
理
的事物
への視
覚体
験
の因果
的依
存
と
いう
観念
は、
そ
のよ
うな過
程
を経
て、
(29)
知覚
の概念
のうち
に組
み込
まれ
てゆ
く
のであ
る。
それ
ゆえ、知
覚
にお
いては、因
果関
係
は規則
的継
起
の関係
、従
って法則
的
な結合
関係
を前
提
せず
に認識
さ
れ
る。
第
二節
で、
P
が花瓶
を見
て
いると
は言
えな
いと言
った時
にも、
科学
的
な因
果
の概
念
に言
及す
る
ことな
くそ
う言
った
の
であ
った。
だ
とす
れば
、科
学的
な因果
の概
念
を前提
にし
て知
覚
の因果
的
分析
を行
おう
とす
る態度
は本
末
転倒
であ
る、
と言
わ
ねば
なら
な
い。
仮
説
を
たて、実
験
や観察
を介
し
て確立
された
因果
の概念
は、
素朴
な
レベ
ルの因果
の概念
が洗
練
され
、厳密
にさ
れたも
のな
ので
(30)
ある。
と
ころ
で、
こ
のよう
な因果
認識
に関
す
る相違
は何
を意
味
して
いる
のであ
ろう
か。
そ
れ
に
ついて少
し考
えて
みよう
。仮
に知
覚
にお
いても科
学的
な因
果
の概念
が前
提
され
ねば
なら
な
いとす
れば、
ど
んな仮
設
や実験
によ
って因果
連関
の存
在
を正当
化
す
る
のか問
う
ことが
可能
だし、
ま
た因果
連関
の存
在
を疑
う
ことも可
能
であ
ろう。
し
かし実
際
には、
知
覚
にお
いて事物
が
自分
の
視覚
体験
を生
ぜ
しめ
て
いるこ
とが正当
化
や疑
いの対
象
にな
る
こと
はあ
りえな
い。
あ
る物
理的
な出
来
事
と別
の物理
的
な出来事
の間
に因果連
関
の有無
を確
認
しよう
とす
る時
に、当
の出来
事
と自分
の体
験
の間
の因果
連関
を疑
う
であ
ろう
か。
そ
のよう
な疑
いは決
し
て生
じ
ま
い。
知覚
におけ
る因果
連関
は、
正当
化
や疑
いの行
為
のう
ち
に無
自覚
的
に
せよ前提
さ
れ
て
いる
の
である。
す
なわ
ち、「因
果認
識
に関す
る蓋然
的
・仮
設的探
究
の次元
、換
言
す
れば
、当
の仮
設
の根拠
と
なる事
実
をさ
ら
に問
いう
る次
元
」
と
れ
「そう
し
た探
究
の基
盤
とな
って
いる基本
的
な因
果認識
の次
元
」
と
の相違
が
こ
こで示
され
て
いる
のであ
る。
因果
が知
覚成
立
の
根
拠
であ
ると
いう
のは、
ま
さに
こ
の次
元
にお
いてな
のであ
り、因
果説
の重要
さも難
し
さも
こ
こに存在
す
る。
②
し
かし
また、
因果
認識
の仕
方
がど
う
であ
ろ
うと、
対象
と体
験
を結
ぶ因果
関係
が実
際
に存在
し
なけ
れば知
覚
が生
じ
るこ
と
もな
い。
そし
て、
因
果関係
が存
在
しう
るた
め
には、
こ
の関
係
によ
って結
合
され
る個別
の出
来事
が
互
いに独
立
に同定
され
て
いなけ
れば
ならな
い。
そ
こで問
題
とな
るのが
「経
験的総
合的
関
係」
と
いう条件
な
の
であ
る。
こ
の条
件
は因果
説
にと
って不
可欠
のも
のと言
って
い
いだ
ろう
。す
で
に述
べた
よう
に、因
果連関
は物
理
的世
界
と知覚
を媒
介
す
る関係
と
し
て登
場
し
てきた
ので
あ
った。
こ
の時
、世
界
から知
覚者
へ至
る物
理生
理的
な出
来事
連鎖
が成
立
し
て
いる。
従
って、
物
理的事
物
と意識
が交
差
す
る場
で登
場
する
因果
とは、
どう
し
ても実
在的
連関
と
いう条
件
を欠
くわ
け
には
いかな
いのであ
る。
そ
の意味
では、
ヒ
ュー
ム的因果
は
、因果
説
の根幹
でひ
と
つの制
限
を課
す
こと
にな
る。因
に、
ア
ンス
コムが
行為
の因
果説
を退
け
た
のも、最
終的
には、理
由
によ
る行為
の説
明
が出来
事連
関
と
いう形式
によ
って分析
さ
れえ
な
いと考
え
たか
らで
あ
った。
と
ころが、
正常
な視
知覚
にお
いては、
対象
X
とそ
の視覚
体験EXの間
には
一種
の分析
的
関係
が成
立
して
いる。
つまり、
視覚
体験
は
「X」
と
いう表
現
を使
わな
ければ
正
しく記
述
でき
な
いの
であ
る。
こ
のこと
は、
Xか
らE(X)
を独立
の事
態
とし
て切
り離
そ
う
とす
る因果
的分
析
の誤
りを
示す
も
のな
のだろ
う
か。
これ
に対
し
て、
D
・デ
ヴ
ィド
ソ
ンは
明快
な返答
を
なし
て
いる。今
、
出来事
Aが出来
事
B
を引
き起
こし
た
とす
る。
こ
の時
、
「B
の原因=
A
」であ
る。
これを
A
に代
入
する
と、
「B
の原因
が
Bを引
き起
こした
」と
いう真
な
る言
明を
得
る。
こ
の言
明
は分
析
的言
明
であ
ろう。
し
かし、
こ
の
ことは、
Aが
B
を引
き起
こし
たと
いう事
態
と何
ら矛盾
す
るわ
け
ではな
い。
因果
言明
の真
理
はど
んな出
来事
が記
述
され
る
のか
に依
存
し、
そ
の言
明
が分析
的
か総合
的
か
と
いう身
分
は、
いかに
して出
来事
が記
述
され
る
の
ま
か
に依
存
する。
換言
す
れば、
記述
の
レベル
で分
析的
関係
が存
在
した
とし
ても、
この
ことは出
来事
の
レベ
ルで因果
関係
が成
立
す
ると
いう
ことと何
ら矛
盾
しな
いのであ
る。
しかし、
そ
れで
は記述
の
レベ
ルと出
来事
の
レベ
ルは断
絶
した
まま
な
のであ
ろう
か。
そう
で
はな
いのであ
る。
われ
われ
の因
果認識
が今
度
は、記
述
レベ
ルでの分析
性
に依存
し
て成
り立
つと
いう事
情
を看
過
して
はな
らな
い。
つま
り、対
象
Xと
そ
の視
覚
ー
ー
(33)
体験E(X)
の記述上
の分
析
的関係
を媒
介
とし
て、
XがE(X)
を生
ぜ
し
めた
と
いう
理解
も可
能
にな
る
のであ
る。仮
にこ
の関
係
が存在
せ
ず、
対象
と体験
の記
述
が互
いに異な
って
いるとし
た
ら、わ
れ
われ
は何
が現在
の体
験
の原因
な
の
か分
からな
くな
ってし
まうだ
ろ
うし、
ま
たそ
の時
には、
日常
生活自
体
も混乱
し、成
り立
た
なく
な
ってし
まう
だろう
。実
際
また、E(X)
の原
因
とし
てX
が存在
す
る
ことを信
じ
つつ、
わ
れわ
れは活
動
して
いる。
そ
して
これ
は、体
験
と対象
の間
に適
切
な分析
的関
係
が成
立
して
いる
こと
と、
対象
が体
験
を生ぜ
し
めて
いる
と
いう因果
連関
の理
解
が不可
分
の関係
にある
こ
とを示
し
て
いる
の
であ
る。
そう
する
と、
XとE(X)
の間
に分
析的
関係
が存在
す
る
こ
と、
つまり
「X
と
いう記述
の下
で」
そ
の対象
が
見
られ
て
いると
いう、
体
験
と対
象
の志向
的関
係
が成立
す
る
ことが、
因果
言
明を
なす
ため
の条件
ともな
って
いるわけ
であ
る。
言
い換
えれば
、因
果性
(3)
以上の三
つの論点
に関しては、菅豊彦、井上義彦著
『知の地平』第二部第
一章
を参照。
(10
)
こ
の困難
に関
し
て
は、大
森
荘蔵
『言
語
・知覚
・世
界
』第
九
章
および
、
(12)
「心的因果性」に
ついては、菅豊彦
『実践的知識
の構
造』、勁
草書房
(一九八六年)七〇頁…七
二頁参
照。
(13)
「心的原函」
については、菅豊彦同書、七三頁ー七九頁参照。
(14)
本稿第
五節、(2)を参照。
と志向
性
は相対
立
する関
係
にあ
る
と
いう
より、
互
いに補
完
し合
う関係
にあ
る、
と
いう
こと
であ
ろう。
わ
れわ
れ
の知覚
の概念
は、
本来
こ
のよう
な因
果性
と志向
性
の補完
関係
のうち
で把握
さる
べきも
のな
のであ
る。
註
(29)
こ
の点
に
ついて
は左
記
を
参
照。
(27)
菅豊彦
『実践的知識
の構造』、二二
頁-二五頁参
照。
(28)
こうした因果の概念
について、例えば左記
の論文
があ
る。
(25)
ヒ
ュー
ム的
因果
に
ついて
は左
記
を参
照。
(22)
「と
し
て見
る」
こ
と
の文法
に
つ
いて
は、
左
記
が参
考
と
な
る。
守
屋
唱進
「ア
ス
ペ
クト
の知覚
」、
『理想
』
六
一六号
(一九
八
五年
)
所
収。
(23>
黒
田
「『志
向性』
の文法
」
が
こ
の点
に
つい
て詳
し
い。
また、黒田亘
「『志向性』
の文法」、哲学雑誌、第百巻、第
七二二号を
参
照。
(15)
黒
田亘
『知識と行為』、東京大学出版会
(一九八三年)、第八章。
(33)
記述上
の分析的関係と因
果連関
の関係
については、黒田『
知識
と行為』、第
八章参照。
(本学大学院博士課程
・哲学)
(31)
黒
田亘
「ヴィトゲ
ンシ
ュタインと因果(一)」、東京大学文学部哲学研究室編
『論文集』、第二巻
二
九八三)。