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二重 女性史研究会会報 25号 | 2016年 1月 15日 発行 編集 :二 重の 女性史研究会事務局 514-1133津 市久居万町 638‐ 2佐 藤方 TEL&FAX 059-255-7 mie_her09Ciewel.ocno 発行 :二 重の 女性史研究会 〔年3回 発行/不 定期〕 25篭 ICD隧 】餐鋼 上映会 &ト ク「何を怖れる」実施報告 P1/聞 き書き道場第 4回 「キャリ アウ ーマ ンの先駆けか ら 専業主婦になって男女共同参画推進に全力投球 小橋和子」P2~ 5/「 国女性史研究交流のつどい in岩 手」参加記 P6~7/日 記~秋から冬 P8 なぎ ひろげて 何 を怖れ る フェミニズムを生きた女たち」 上映 &ト ークhフ レンテみえ 永戸 千草 (「 何を怖れる」をフレンテみえで上映したい 実行委員会委員長) 9月 19日 16時 30分 重県男女共同参画 センター「フレンテみえ」多 目的ホールに、県 内の みならず大 阪、滋 賀、京 都 など県外 から250名 を超 える参 加者が集 うなか、 何を怖れ る フェミニズ ムを生 きた女たち」上映 &ト ークhフ レンテみえの 幕が開 いた。 この事 業 は、 二重県の男女共同参画推進に力を注がれた鈴山雅子さんの凝縮した軌跡を追悼す るために 、男女共 同参 画み えネット、 二 重 の女 性 史 研 究 会で構 成 され た、追 悼 事 業 実 行 委 員会 の 次の事 業 として開催 された。 鈴 山さんが遺 され た事 業 に、男女 共 同 参 画週 間に開 催 され る二 重 県 内連 携 映 画 祭 がある。 9年 目を迎 えた事 業だが、「フレンテみえ」で映 画 が上映 され ていないことはさびしい 限りで、鈴 山さんの意 志を なぎひろげるためにも、 フレンテみ え」で映 画を上 映 したいと考 えた。その想いは、 何を怖れる をフレンテみ えで上映 したい 実 行委 員会 」という長い名前 にも込められ た。 また、上 映 するなら、 この映 画に出演 され ている上 野 千 鶴 子さんの 話 をお聞きしたい この三 重の 地でフェミニズムを生 きた女 たちの話 も聴 きたいと、欲 張 つた企画となつた。 この欲 張 つた企画 を実 現するにも、鈴 山さんが遺 され た人財のネットワークが活 かされ た。上野さん のコンタク Hま 重大の小川彙里子先生に 二 重 の地 でフェミニズムを生 きた女 たちの 話 は、鈴 山さんとともに 活動 され てきた坂倉加 代 子 さんと伊 藤 英 子 さんに。 そして、実 行 委 員は、鈴 山さんが育成され てきた 県民 のネットワークに 声 掛 けをさせていただいた。鈴 山さんが遺 された事 業 を なぐ ことが、 二 重の男女 共 同 参 画を推進 することと確信 しながら。 二 重 県 民 にこの映 画 を広 げるため、上 映 会の収 支 残 金 を、上映 のための補 助 金として活かす こと になり、今 回構 築できたネットワークを、大 切 にしていきたいと考えている。 ~フェミ ニズム を生きた女たち~ 2015年 9月19日 フ レンテみ え
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Mar 12, 2021

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二重の女性史研究会会報・ 第 25号 |2016年 1月 15日発行

編集 :二重の女性史研究会事務局〒514-1133津市久居万町 638‐2佐藤方TEL&FAX 059-255-7813図 mie_her09Ciewel.ocnoneoip発行 :二重の女性史研究会

〔年3回発行/不定期〕

【25篭 ICD隧】餐鋼 上映会&トーク「何を怖れる」実施報告P1/聞き書き道場第4回「キャリ

アウーマンの先駆けから 専業主婦になって男女共同参画推進に全力投球・小橋和子」P2~ 5/「全

国女性史研究交流のつどい in岩手」参加記 P6~7/日記~秋から冬へ~P8

つなぎ・ひろげて「何を怖れる フェミニズムを生きた女たち」

上映 &トークhフレンテみえ

永戸 千草

(「何を怖れる」をフレンテみえで上映したい実行委員会委員長)

9月 19日 16時 30分、二重県男女共同参画センター「フレンテみえ」多目的ホールに、県内の

みならず大阪、滋賀、京都など県外から250名を超える参加者が集うなか、「何を怖れる フェミニズ

ムを生きた女たち」上映 &トークhフレンテみえの幕が開いた。

この事業は、二重県の男女共同参画推進に力を注がれた鈴山雅子さんの凝縮した軌跡を追悼す

るために、男女共同参画みえネット、二重の女性史研究会で構成された、追悼事業実行委員会の

次の事業として開催された。

鈴山さんが遺された事業に、男女共同参画週間に開催される二重県内連携映画祭がある。9年

目を迎えた事業だが、「フレンテみえ」で映画が上映されていないことはさびしい限りで、鈴山さんの意

志をつなぎひろげるためにも、「フレンテみえ」で映画を上映したいと考えた。その想いは、「何を怖れる

をフレンテみえで上映したい実行委員会」という長い名前にも込められた。

また、上映するなら、この映画に出演されている上野千鶴子さんの話をお聞きしたい、この三重の

地でフェミニズムを生きた女たちの話も聴きたいと、欲張つた企画となつた。

この欲張つた企画を実現するにも、鈴山さんが遺された人財のネットワークが活かされた。上野さん

へのコンタクHま、二重大の小川彙里子先生に。二重の地でフェミニズムを生きた女たちの話は、鈴

山さんとともに活動されてきた坂倉加代子さんと伊藤英子さんに。

そして、実行委員は、鈴山さんが育成されてきた県民のネットワークに声掛けをさせていただいた。鈴

山さんが遺された事業をつなぐことが、二重の男女共同参画を推進することと確信しながら。

二重県民にこの映画を広げるため、上映会の収支残金を、上映のための補助金として活かすこと

になり、今回構築できたネットワークを、大切にしていきたいと考えている。

~フェミニズムを生きた女たち~

2015年 9月 19日フレンテみえ

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聞き書き道場 No.4 小橋 和子 さん

聞き取り(2015年 9月 /10月 )及び本人の手記より

聞き手 :寺井和子 。山崎まゆみ。文責 :寺井和子。

~ キャリアウーマンの先駆けから

専業主婦になって男女共同参画推進に全力投球

1。 お前が男だつた らな ぁ~

昭和 14(1939)年 5月 5日 、北海道札幌に、妹、弟の二人きょうだいの長女として生まれる。父

は北大卒業後、枷 監督局に勤める役人で、母は専業主婦であつた。端午の節句で鯉のばりを用意 し

男児誕生を期待 していた両親、祖父母を大きく落胆させた人生の始まりであつた。せめてもの願いで

穏やかでおとなしくと付いた名前が 「和子」。身体も大きかった和子は、「お前が男だつたらなあ~」

と父の嘆きをしばしば聞かされ「女は期待されない」と漏Jり 込まれて育つ。当時の札幌は馬車が走り、

春の雪解けには乾いた馬糞が土煙と共に舞い (馬糞風)それを吸い込み肋膜炎を煩 う人も多く、和子

の父も学生時代から悩まされていた。その病で兵役を免れたが、大学在学中の弟 (和子の叔父)は南

方で戦病死している。

和子の誕生後間もなく単身上京した父は、大学時代の友人と東京駅前のビルの一角に「タングステ

ン」「モ リブデン」などを扱 う商事会社を設立 した。

昭和 17年 3歳の和子は、母に連れられ生後間もない妹と青函連絡船に乗り上京 した。父が用意し

た家は浦和市 (現 さいたま市)の中古の一軒家だつた。父が浦和を選んだ理由は、大きな災害がなか

ったからと後で聞かされる。

2.「みつちやん、あ した身体を売るんだってよ」

終戦間際に「浦和が爆撃を受ける」とアメリカ軍からビラが撒かれたが、危機―髪戦災を免れ、終

戦の翌年、昭和 21年小学校に入学した。この年に弟が生まれる。生活が少 し落ち着いた昭和 24年か

ら妹と近所の藤間流日本舞踊の師匠の元に稽古に通い始めた。

そこの内弟子のお姉さんが泣いているのを見たことがある。「みつちゃん、あした身体を売るんだ

ってよ !」 と上級生の話を聞いた。平気で小学生がそんな会話をする時代で、戦後の女性の残酷さを

少しずつ理解 し始めた。 日舞は、高校 3年間のブランクで名取は逃 したが、短大卒業まで続けた。

3.県立高校進学 と人生の宝 “バ レー部 "

中学生になり、高校進学を考える時期に父と母がもめていた。小学生からきちんと挨拶ができ躾が

行き届く大妻学園の生徒を見ていた父の意向は「和子は高校から大妻に行きなさい」で、電車通学も一瞬憧れたが、「近くに県立高校があるのにその前を通つて遠い私立に通 うのは、うちの娘はアホで

すと世間に知らせるようなもの」と母が大反対で、結局家から 10分たらずの県立浦和第一女子高校

(旧 埼玉女子師範)に入学 した。古い寄宿舎が 2棟残り、講堂でジャンプすると床が抜ける前世紀の

遺物のような校舎だつた。因みにこの校舎は映画 (キ ューポラのある街・姉妹 。女の園)な どに使わ

れている。

入学すると大柄な和子は、ボー ト部に日を付けられたが泳げないため逃げ回つた挙句、バレー部に

逃げ込んだ。学業との両立は大変だったが 3年間頑張つた。合宿や遠征を通じて仲間作り、チームワ

ークなどを学び、卒業後も何かと助け合う “人生の宝"になった。

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4.着 るのは貴女たち、だか ら一緒に考えてくだ さい

高校を卒業後、大妻短大家政学部に進学した。一般教科に和洋裁、調理実習、テーブルマナーから社交ダンスまで良妻賢母教育をみつちり受けた。卒業後が気になりだした頃、ある雑誌に「日本で一

番給料の高い会社 ?伊勢丹」とあり、今年から短大、四大卒の女子も採用と書かれていた。当時の伊勢丹は新宿本店と立川市に支店が一つあるだけだった。

「2~ 3年なら」と言 う親の条件付きで晴れて一期生として入社でき、婦人洋品課に配属された。上司から「着るのは貴女たち、だから一緒に考えてください」の言葉に、学生時代とは違ったファイトが湧いてきたのを覚えている。当時のデパー トはすべて男性目線で女性物も選定され、それを違和感なく女性たちも購入 していた。女性の思いを伝えられることの喜びで、親に叱られながら終電まで

デザイナー宅で上司2人 と新作のブラウスの打ち合わせをしたこともあつた。販売から雑誌インタビ

ュー・TVの取材協力、商品のレイアウトなど服飾研究の走りで、何でもありの忙 しいが働きがいの

ある楽しい 4年間だった。

伊勢丹は結婚退社ではなく、産前ぎりぎりまで勤務でき、生理休暇をとつているかのチェックもあつた。女性の再雇用制度 1)日 本で最も早かつた。

5。 だ らしがないな、男を産めよ

昭和 40年、応用化学修士課程を卒業 し化学会社に就職 した夫と結婚 した。生活は、中央研究所の

ある滋賀県草津市から始まり、翌年長女を出産 した。初めての出産で夫から衝撃の一言 「だらlノ がないな、男を産めよ !」 丙午の年だつた。同じ年の夫からこんな言葉が出るとは思い ()寄 らなかつた。

男性優位の社会の仕組みが我々の時代に {)存在するのだと、和子は改めて認識 した。日本はまさに高度成長期、夫は技術導入のため海外出張続きで、長女と3年後に生まれた長男と和

子の3人家族のようなものであった。見ず知らずの土地で一人で子育てする辛さは、ことあるごとに

身に染みて感 じていた。

初めての転勤で四日市に住んだ昭和 44年、社宅のママさんバレーに誘われた。そのころから義母の介護が始まった。(義父は 6年生の夫と3年生の次男、1年生の末弟を残 し43歳の若さで逝去している。)現在のように介護保険 {)な い時代、義母の住む大阪の人尾市まで、各々別れて住む義弟と夫

そして和子の4人でローテーションを組み、時には付き添いを頼んだりした。この間に転勤 1)入 り、

若さで乗 り切つた綱渡りの介護生活は昭和 51年秋まで続いた。義母は、享年 63歳、3人の子育てに

人生を捧げた一生だった。

子育てと介護のダブルケアに手を差し伸べてくれたのは、バレーの仲間だった。義母の介護で大阪へ出かける時やバ レーの試合の時など、気軽に子どもたちを預かり、ご飯を食べさせてくれたりお風

呂に入れてくれたり身の回りを手助けしてくれた。その親切や好意を受けて社宅のありがたさをしみ

じみ感 じた。

6。 女性 問題の学び と男女共同参画推進のための活動

何回かの転勤の後。四日市に家を持ち子どもも成長 した平成 2年、アンテナの先に県の「婦人ア ドバイザー養成講座」が飛び込んできた。この講座を受講 して胸のモヤモヤがすっきり解消した。四日

市市では 「女がまちづくりを考えたら」という「ウイミンズ・カレッジ」が始まり、県の講座と同時

進行で受講 した。県から埼玉県の国立婦人教育会館 (ヌ エ ック)への「第 1回国内交流研修」と、 ド

イツ・スイス・スウェーデンの海外研修 「第 2回アイリスの翼」、四日市市からは北京で開催された「第4回世界女性会議」の 「NGOフ ォーラム北京 `95」 にも参加 した。

平成 5年 、四日市市に「女性課」が県内で初めて誕生した。初代の課長は坂倉加代子で、お祝いの

セレモニーが文化会館であった。市長、市議会議長、市民部長、教育長と婦人会会長はじめ女性グル

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―プ代表が腕を組み、胸に和子の手づくりの市花サルビアのコサージュをつけてのファッションショ

ウは成功裡に終わつた。四日市は、女性課ができたことで、一流の講師を迎えた講演会や勉強のため

の講座が次々と企画され、女性たちは活気づいた。女性課で学んだ人をそのままにしない。和子も女

性課の市民企画事業に平成 5年~平成 8年まで関わつた。様々な事業を打ち出した中の主だったもの

には、「女性カレッジ `95~女性たちが政治を変える~」「政治は男性だけのものではない」「女性 と

参政権」「女性の政治参画と新 しい時代」「女性自治ゼミナール~女性カレッジワンランクアップ人材

養成講座~」「子育てサポー トボランティアのためのゼミナール」全国事業への研修派遣など、四日

市市女性課と市民グループ協働でタッグを組みながら、男女共同参画推進のための取り組みを進めて

いつた。

さらに坂倉加代子が市役所を退職後、二重大学客員教授を務めた際には、第 1回国内交流研修で派

遣 されたメンバーでつくられたグループ 「アイ リス嵐山」と協働で、参加型で進める学習教材「ジェ

ンダーつてなんだ」の冊子製作を行い 2002年発行した。そしてこのテキス トを使用し、市町村啓発

講座、地域啓発講座、ヌエック、フレンテみえ、はもりあ四日市や県外でもワークシヨップに取 り組

んだ。この冊子は好評で東北からも注文があり、その内容は 10年以上経つた現在でも充分通ずるも

のであると和子は語つている。

また、女性課で学んだリーダー研修で、市民センターを利用する女性に呼びかけ「地域女性会議」

を始めた。地域の問題を女性たちが話し合い、車椅子を使つた人が一人で電車に乗降できるよう湯の

山線の小さな駅舎の改良をしたり、当時大きな問題 となつていた「いじめ」について女性弁護士とい

じめを受けた中学生の子どもを持つお母さんに来てもらい話 し合いの場を持つたりした。これらの経

験はすべて自分の貯金として少 しずつではあるが蓄積されていつたと和子は自負 している。

また、カレッジ修了生でグループ「ウイ ミンよつかいち」を立ち上げ、四日市駅前の楠並木の保存

活動をはじめ、二重大学工学部建築学科中教授・大学院生・四日市障がい者団体との協働で「車椅子

トイレマップづくり」、養護老人ホームで「喫茶ボランティア」などを始めた。その縁で障がい者と

のつながりができ、障がい者自立 (ピアカウンセ リング)発祥の地 0ア メリカのバークレー市のCIL訪間と仲間づくりの旅をした。

阪神淡路大震災の時には、神戸に住む義弟の二人の子どもたちを lヶ 月半ホームステイさせた。神

戸の私立高校生を決く受け入れてくれたのは県立四日市西高校の女性校長だつた。

平成 7年より女性課課長から「二重労働局男女雇用機会均等室協助員」に推薦を受け、平成 7年か

ら十年間務めた。各企業の人事部長と共に「改正男女雇用機会均等法施行」「セクハラ対策」「DV防止法施行」など二重労働局からレクチャーを受けたり、企業訪問したりする経験は、専業主婦にはあ

りがたかつた。

四日市市では幾つかの審議会委員、県では「男女共同参画推進員」「総合文化会館評議員」などを

経験した。

7.四 日市市総合計画策定で 「男女共同参画」を明記

70歳を過ぎて四日市で大きな役を受けることになつた。「四日市市総合計画策定委員」として四日

市男女共同参画審議会から参画することとなつた。十年の長期計画に「男女共同参画」の言葉を明記

することが必須と覚悟した。

和子は二重県の条例を作 り「第 2回アイリスの翼」の団長を務めた武村洋子にかねてから「男女共

同参画でバックラッシュに遭つても、相手が納得できる説明で対応できるように学ばないとね」と教

えられていた。そして、2年の間に 6回の会議を経て「男女共同参画」が基本構想に明記され、四日

市市のすべての計画にかかわることが文章として示された。二十年の学びが役立ったと思つた。

8。 今そ して今後

今年 76歳になる和子は後期高齢者の仲間入 りをした。これを契機に審議会などは辞任 し、若い人

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に任せることにした。そして今後は生涯のテーマでもある「NPO法 人男女共同参画研究所」の理事

の一人として、また「二重の女性史研究会」の一員として活動 している。ボランティアとして菰野聖

十字ホスピス喫茶のグループ活動もしている。

住んでいる団地は、いつの間にか高齢者が多くなリー人暮らしも増えてきているので、危機感を持

つたご近所の女性たちと井戸端会議を始めた。話の途中で泣く人も出て、今も昔も変わらない専業主

婦の孤独とス トレスは想像以上だと思い知らされ、改めて人との関わりの大切さを感じている。

反省もある。和子はいろいろ学んできたが、もつとも身近の連れ合いは蚊帳の外だつたことだ。75

歳まで現役で働いた夫は、男社会そのものの中で過ごしたため子 どもより始末が悪い状態である。「い

つの日か、めし、ふろ、ねる と言つてやる (和子作 りII柳 )」 と思つていたが、今初心に戻 り自分

の足元から「男女共同参画」を見直す毎日が続いている。

若い人に伝えたいことは、何事も貪欲に学んで行動に繋げて欲 しい。少子化や保育所の問題も根底

には「男女共同参画」があるのだから、政治は思い切つて一度全面的に女性に任せてみたら違つた世

の中になるのでは・ 。・ と考えてもいる。

聞き書きをして (担当者の感想 )

顧間コメント

二重の女性史研究会・小橋和子さん

2015.12.26 伊藤康子

1~ 5では当時の女性の社会環境が簡潔に記録されていて、小橋さんが自分の生きる道を模索していた

時代が良く分かります (も しかすると、わかるのは女性だけかもしれませんが)。 その基礎の上に、6以降

の展開が鮮やかに聞きとられています。

しかし、6以降は、小橋さんが何をしたかを書きとめるのに忙しくて、二重県・四日市の社会の変化と

ともに、チャンスを機敏にとらえた行動力は理解できますし、学習が織り込まれているのも見事なのです

が、寺井和子さんが評価する「発想力」は、埋もれがちです。「もつとも身近な連れ合い」を蚊帳の外に置

いてどうして行動できるのでしょう力、 多分普通の女性の悩むところで、そこのきりぬけ方を聞きたいの

ではないでしょうか。行政から声をかけられるのなら、男性は了解するのでしょうか。

小橋さんの川柳はスパッと表現して、気持ちが良いですね。こういう「芸術作品」を前面に出すと内容

が生きます。一つだけではもつたいないと思います。

タイ トルは長すぎます。印象が分散されます。

聞き取りをした方の姓名は、カナ書きをどこかに入れると良いのではないでしょうか。「手記」が活字に

なつているのでしたら、典拠文献・参考文献として末尾につけてください。

仲間の聞き書きをするのは結構気を使います。お疲れ様でした。

L_.… …… …… …… …… …… …… …… …… …… …… … ………… …… …… …… ……………… … …… …… …… …… …… …… …… …… ……… ノ′

5

*敬称と敬語は省いてあります。

一 ―― ―… …… …… …… …… …… … …… …― …… …… ‐.… …… …… …… …… …… …… ‐… …… …… …… ‐・一 ―― ‐… …¬

ヽ 一‐■″

/′。・′

和子さんは、比較的恵まれた家庭環境で育たれ、就職も当時の女性従業員として雑務を任せられるだけ

でなく、責任を持ち男性と一緒に働くキャリアウーマンの経験を結婚前にされました。バレー部で培われ

た協力精神、体力、フットワークの軽さ、はつきりした物言いで、妥協を許さず、どんな局面も全力投球

で乗り越えてこられた人生だと思います。今後は、引き続き「男女共同参画」推進のため、息の長い活動を

されること、エールを送りたいです。地域と積極的に関わり続けられ、お連れ合いとおだやかに心豊かな

日々のご様子、この上ともお体にはご留意くださいますようにと念じます。 (山崎まゆみ)

少女は大志を抱けなかつた時代に、彼女はキャリアウーマンの先駆けとしての経験をしました。結婚し

て専業主婦になっても、持ち前の発想力と行動力は、行政・議員・市民を動かし四日市市の男女共同参画

推進に大きく貢献されたのではないでしょう力ゝ 学ぶことの大切さと何事にも全力で打開していくその英

知と実行力を尊敬しています。 (寺井和子)

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全国女性史研究交流のつどい騎岩手参加 振り返りの記遠野・大槌・宮古

2015年 10月 9~ 11日

鈴山さんの言葉は、今も生きていた 江南 躾

10月 9日 。10日 。11日 の3日 間、遠野 。大槌。宮占の3会場を巡る「女性史研究のつどい」は意義深いものだ

つた

「震災からの獨 !旧 は一日で理解できた。会場をバスで移動する途中で見えた状況は、震災後 4年以 Lも経つと

いうのに、復興への道はまだ彼方の感があった。

2日 目の大槌会場は海辺の高台にあつたが、津波を受ける前の写真が現在の景観と比較できる場所に据えられて

いた。盛り上〈)まだ固まらない更地が海辺まで続き、人家らしきものが建てられていない様子から、被災された方々

の今尚続く苦境が察せられ胸が詰まった

主催された岩手の方々には、会場設定にどれだけのご苦労があつたことかとただただ感謝で→杯の3日 間だつた

さて、最近 10年余、私は二つのことに取り組んでいる。一つは戦争体験と平和への思いを小中学生や教師べ語

り伝えること。二つ目は自分の住む名張 。 r重の女たちの生き様を知ること。今回の“つどしヾ'では、その 2点に絞

つて学ぼうとの思いで参加し、共に多くの学びを得て帰ることができれ

“平和への思しヾ'への取り組み方・考え方については、1「 l目 の分科会で学ん亀

。米田佐代子さん 〔NPO平塚らいてうの会〕のお話から。

「戦争はイヤ」「いのちを殺さず、殺されない」という平和のねがしヽま、今や女性だけのものではなく、

すべての人々に共有されなくてはならない。…女性は被害体験とともに加害体験もしている。ほんとうのこ

とを知らなければ戦争のあやまちも知ることはできない。

こういう視点での戦争体験談の伝え方になるよう、学習を深めたいと思つた。

・箱石邦夫さん 〔戦中・戦後を語りつぐ会 (いわて)〕 のお話から。

遠野高女の勤労動員にかり出された方々からの手記が紹介され、その中に (息子が高校生の頃、戦争当時の

話をすると、なぜ反対しなかつたのかと問われた。今なら何事があつても戦争反対 :と 声を大にして私は叫び

ます。)と いうのがあつたという。

黙つていてはいけなレ、 一人ひとりが行動しないといけなし、「ちゃんと反対したよ」と胸を張つて子や係に言

えるようになりたいとの思いが伝わつてきた。

歓 性史"を考えることに関しては、伊藤康子先生から学ぶことが多かった 1日 日の夜の交流懇親会で、伊藤先

生は「女性史のつどいに第 1回~第 12回全てに参加してきたのは私一人だけになりました」と仰ったことに感動

した。

1977(昭和 52)年から始まつて 38年経過しているとも知つたとき、『二重の女性史』fl行は伊藤先生のお力添

えなしには実現しなかつただろうと思つた。と同時に、伊藤先生の実力をよく知つておられた女性史刊行の仕掛人

だつた鈴山さんが伊藤先生に依頼し、また伊藤先生も鈴山さんの熱意と行動力と実績を認めて全面的に協力してく

ださつたというお二人の信頼関係の強さによる産物として『二重の女性史』を見直すことができた

そして伊藤先生は3日 日の分科会で`女性史のつどいのあゆみとその意義 'と題して話された。私達の今後への方

向性を示された後、「つどいそのものが女性史を発展させる」と言われたことにも、力を頂いた気がした。

今回の参加で、他府県の方々と交流する機会が多かつたが、東京や横浜、奈良の方々からは「次回は二重ですよ

ね」と、決まっているかの如く問われたのには返す言葉が出なかつた。2010年の東京大会の折りに、鈴山さんが

自信たつぷりに「次の次は二重で…」と発言されていたと、多くの人の耳に残つていたようだつた。鈴山さんの言

葉が生きていた!!

鈴山さんは今も私達の背中を押して頑張れと声援を送つてくれているのかも知れなし、

さあ・…・・。どうするか・・…・?

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「第 12回全国女性史研究会」に参加 して 木下 弓子

この会に参加した理由は3つある。 ^つは被災から4年たつ岩手での開催であったこと。二つ日は戦後 70年の

節 [1の開催であったこと。三つめは佐藤ゆかりさんにフライングとたしなまれたが鈴山さんが東京大会で「次の次

は二重で !」 言われていた遺志を実現させるべく今回の進行を見たかつたためである。初日の遠野での加納さんの

基調講演では戦時中の女性としての被害者性と日本人としての加害者性を今問わなければと語られ、慰安婦問題 ()

同じと思う。この日の分科会ヤま戦後 70年'と `被災地の年'の共に関心ある悩ましい選択となつたが、今1亘|しか聞け

ないであろう̀牧災地 'を選んだ:この分科会では障がい者施設での被災の現実、被災を語り継ぐ活動,後方支援の

取り組みが語られた。二日日は、人槌町中央公民館に移動しこの公民館だけが生き延びたのではないかと思わせる

高台から、津波で壊滅の町のかさ上げ工事現場を見た ここでは3名 の90歳前後の女性たちが3度の津波と戦中・

戦後を語つてくれた。中でt)印象的だったのが「津波より艦砲射撃のほうが怖かった」と釜石での経験話3二 [1目

の官古での分科会も選択に迷つたあげく「史料 (イ果存 。公開・修復)」 を選んた ここ何年力|こわたり1975年スタ

ー トの「国際婦人年あいちの会」の諸記録を残す作業に力勁わヽっており、先にフレンテで上映された「何を怖れる」の愛知県版があったことを伝えてゆきたいという気持ちがあったからであ

る。デジタル時代以前の手書き資料の保存や地方に埋もれた個人の叫びの記

録をどう残してゆくか、また女性会館などに公的に保存されて安心と思われ

ていた資料も会館の閉鎖等で行き先が安定しない現状やWANが試みてい

るデジタルクラウド化の話などいろいろ束1激を受けた 会での話だけでなく、バス移動中仮設住宅をあちこちに見て復興はまだまだを肌で感じた感慨深

い大会参加だった。

全国女性史交流のつ どい 振 り返 り 督 ヵ徳

昨年 10月 9日 から11日 「第 5「l全国女性史研究会交流のつどい」が岩手県遠野市、大鎚町、宮古市で開催され、

私は、佐藤ゆかりさんが発表する宮占市に参加した。

会場の岩手県立大学宮古短期大学部へ向かう途中、震災で半壊になつた鉄橋を目にし「復興未だ叶わず」を力亀「武器を買う金をなぜ復興に回さない、4年も経過し国1測可をしているJと怒り、本開催は全国へ「この情けない

現状をみて !」 という意図を感じれ

研究会は 10分野の分科会があり、佐藤さんは「労働・保育」の分野で「女子工員への仏教統制‐明治末期~大Ji

初期の二重紡績津分工場」を発表。二重紡績津分工場で働く女子工員への仏教による従業員統制についての報告で

ある。1912年 3月 二重紡績津分工場労働争議発生直後、女子工員に対し、仏教法話等が定期的に開始され、仏教

を教養ではなく、経営者による従業員管理に活用したことについての発表だった。佐藤さんの発表は、新聞等文献

からのデータ集積・分析はもとより、ロジックにまとめられた内容で、スライド発表で分かりやすく、論旨明快で

あつた 「素晴らしい」σ)‐言である。鈴山雅子先生もきっとこれを見ているな、喜んでいるだろうと思つた

午後からは、全体会があり出席させていただいた。全体会は、各分科会の担当コーディネーターがその内容を発

表する。会場には、映画「何を怖れる」に出演の加納実紀fヽ さんや井 [時 さんの姿もあり、「サイン欲しい」の

気持ちを堪えた。報告は、それぞれに興味深かつたが、すべては、男女平等の概念欠真1から問題となっているのだ

ろうと感じた。男女ともに人権を尊重し支え合っていれば、今日のさまざまな課題も根深くならず、かつ、多少の

努力で解決に迫ることが出来る、と考える。

しかしながら、りl治以降「民主主義」は導入されても、男女それぞれの人権は、政府、国民には浸透されなかっ

たのではないかと考える。特に女性の権利は、1945年の敗戦後憲法に「男女平等Jが盛り込まれているにも関わ

らず、未だに「平等である」とは言いがたし、何年経っても変わらぬこの有様は、まさに復興にも通じるのかなと

いう気弱な気分になったが、「いや、このままではいけないはず、僅かでも頑張ろう」と思い直し、また、女畦史

を知る事は「男女共同参画社会」への道でもあると、改めて感 じ宮古を後にした

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Page 8: P6~7/日 P8 - Amazon Web Serviceswoman-action-network.s3-website-ap-northeast-1.amazonaws.com/... · 2018. 1. 2. · 二重の女性史研究会会報・第25号 | 2016年1月15日発行

~秋から冬へ~麟ゅかり10月 28日 (水 )

全国女性史 in岩手の発表が終わつても、もうちょつと労働分野・紡績に関わ

りたいと、大阪の図書館をハシゴする。その中で大阪大学総合図書館に意外な

蔵書群を見つけた。

前尺号で私は大阪の綿業会館を訪れたことを書いた。その時は書ききれなかつたのだが、同館には暫

<前まで図書室があつたのだが閉鎖になり、受付係員によれば蔵書は行方知れずとのことだつた。とこ

ろがたぶんその蔵書が、大阪大学総合図書館のフロアの一角にまとまって配架されていたのである。数

日前、神奈川県のとある研究所の図書室がまるごと閉鎖との情報を得てショックを受けていただけに、

こうした貴重な史資料がきちんと弓|き継がれていたことに、心の中で感謝と敬意を表したのである。

11月 16日 (月 )

海女フォーラムから 6年ぶりの海の博物館訪間。津市在住プライアン・ミラー氏の写真展「韓国のヘ

ニョと日本の海女」を観るためである。海に生きる日韓の海女たちの深<刻まれた銀が美しかつた。

館内の他の展示も改めてゆつ<り見ることができた。特に目に留まったのは、記録映画「和具の海女」

の上映である。1941(昭和 16)年・上野耕三監督・横浜シネマ製作、わずか 25分のドキュメンタリ

ー映画であるが、画面には今では考えられないほど多<の、しかも銀のない海女たちが大勢いた。

さらには芦浜原発反対闘争の記録集の数々が、今もしっかり展示・販売されていた。芦浜原発反対運

動の当時、私も組合女性部から配布された「反原発ゴミ袋」を毎週ゴミ集積場に出すことで、僅かなが

らの運動を行つていた。(後日それを伊藤康子先生にお話すると「それを早<言つていたら『三重の女性

史』に掲載できたのに」と残念がられることとなつたのだが。)また全国女性史in岩手でも、原発を阻止

した女性たちの運動が報告され、それを受けて「全国でも原発予定地は数多<あつた。次のつといでそ

れを阻止した女たちの動きを集積したらどうか」といった話もあったと思う。私は思わずそれらの記録

集 (『芦浜原発反対闘争の記録』『われら く漁民〉か<斗えり !』『〈いのち〉わたさへん !2』)を手にし、

女性の動きを探し始めていた。芦浜を女性の視点から捉え直すことができればと思う。

12月 18日 (金 )

『三重の女性史』と、引き続き研究会でも大変お世話になつた澤丼余志郎さんの告別式に参列した。

四日市駅から式場までの一本道を、偶然にも横浜在住の「生活を記録する会」の女性と同道することに

なった。途中「あそこが『四日市/AN害と環境未来館』ですよ」と紹介しながら、ゆつくり歩いて行<。

式場に着<と、入り□には/AN害の闘いの記録とともに、生活を記録する会の書書もきちんと置かれて

あり、式場内には辻智子さんからの花も供えられていた。そういえば辻さんの最新の仕事『繊維女性労

働者の生活記録運動』を澤丼さんは目にして旅立たれたのだろうか。式場には東海テレビ阿武野勝彦さ

んの映画「青空どろほう」(またはTV版「記録人澤丼余志郎」か)が映し出され、最後の弔辞は公害裁

判や語り部の同志・野田之一さんが、声を振り絞り澤丼さんに呼び掛けておられた。

環境が世界的に問題となつている現代、また人々が人間らしい働き方から遠ざけられている今日、私

達はあまりにも偉大な先達を亡<したのではないだろうか。

一―ロロすの空勝ちネリtえ人の煙昇りて日うネ達に一一 (谷す)

〔さらに年が明けて、二重保育院の玉置さよ子さんも逝かれた。全国女性史 in岩手の分科会で、玉置さ

んの証言を紹介した時にどよめきが起こったことが記憶に新しいだけに、まだまだ達者でいてくださる

ものと思つていた。私達は急いで (しかし丁寧に)仕事を進めていかねばならない。〕

※二重の女性史研究会では会員を募集、また皆様からの情報もお待ちしています。詳細は表紙連絡先へ。

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