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心理療法には,さまざまな学派がある。それら を比較する方法にもさまざまなものがありうる が,ここでは,馬と御者との喩えを用いて比較す ることを試みる。古今東西,多くの哲学者,宗教 者,心理療法家がこの比喩を用いている。「心」, そして,心理療法は,形のはっきりしたものでは ない。「心」というものがそもそも五感を通して捉 えることができないものである以上,それは,お そらく比喩を通してしか語りえないであろう。で あるが故に,比喩を通した比較検討が意味を持つ のである。また,個々の学派には固有の用語があ り,そのことが比較検討することを難しくする。 しかし,この共通の比喩では,お互いに,同じ土 俵の上で比較することができるという利点を持っ ている。 心理療法の領域では,特に,Freudによる馬と 御者を用いた比喩はよく知られている。Freud は, プラトンの影響を強く受けているとの指摘がある が,この比喩もまた西洋文化においてはプラトン に遡ることが出来る。また,Freudの時代より前 にすでに西欧には仏教が紹介されている。ブッダ もまた,御者の比喩を用いているし,ウパニシャッ ドにも御者の比喩が認められる。本論文では,ま ず,これら東西の源流に遡ることとする。その上 で,精神分析の創始者 Freud,自律訓練法の創始 Schultz,催眠療法家 M ilton Erickson,森田療 法の森田正馬による馬と御者との比喩を比較しな がら,それぞれの心理療法の特徴について検討す る。 なお,本論文では,資料的な価値も考慮し,長 文であっても,なるべく略さずに記述する。また, 心理療法以外の分野での言及も含めることとす る。 Ⅰ. 東西における起源 1. 西洋における起源―プラトン― プラトンによる魂に関する考えは,中期の作品 とされる『パイドン』『国家』『パイドロス』およ び後期の作品とされる『ティマイオス』において 述べられている。上記の中期の作品は,一般に『パ イドン』『国家』『パイドロス』の順に書かれたと される(藤沢, 1998)。副題「魂について」とつけ られた『パイドン』では,イデア説,魂の不死説, 想起説など主要な考えが提示される。 『国家』では, 国家の三階層になぞらえながら,魂の三分割説が 提示される。そこでは,「理知的部分」と「欲望的 11 「馬と御者」の比喩による比較心理療法論の試み ―プラトン,ブッダからフロイト,シュルツ,エリクソ ンまで― 鈴木 常元 Theories of Psychotherapy through the M etaphor of Horse and Rider Tsunemoto Suzuki ( Department of Psychology, Komazawa University, Japan) ABSTRACT Themetaphor ofHorseand Rider has been used sinceancient times. In theOccident,it appears in Plato’ s writing,and in theOrient in Buddha’ s teachings,as wellas in theUpanishads. This metaphor is wellknown in Freud’ s writing, and as a result, some researchers have pointed out the influences of Plato on Freud. However, Buddha’ s teachings and Upanishads had been translated to Western languages before the age of Freud. EmileCoue ,J.H.Schultz,M ilton Erickson,and M asatakeM orita havealso used thesamemetaphor to explain their psychotherapies. In this article,the use of the metaphor of Horse and Rider by the above writers is compared. Then, similarities and differences in its use, as well as the relative influence of different writers are discussed. KEY WORDS: psychotherapy,the metaphor of horse and rider, ancient thought 2 駒澤大学心理学論集,2011 ,第13 号,11-27 3, 011, 1 1- 1 7 2
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「馬と御者」の比喩による比較心理療法論の試み ―プラトン...

Jan 23, 2021

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心理療法には,さまざまな学派がある。それら

を比較する方法にもさまざまなものがありうる

が,ここでは,馬と御者との喩えを用いて比較す

ることを試みる。古今東西,多くの哲学者,宗教

者,心理療法家がこの比喩を用いている。「心」,

そして,心理療法は,形のはっきりしたものでは

ない。「心」というものがそもそも五感を通して捉

えることができないものである以上,それは,お

そらく比喩を通してしか語りえないであろう。で

あるが故に,比喩を通した比較検討が意味を持つ

のである。また,個々の学派には固有の用語があ

り,そのことが比較検討することを難しくする。

しかし,この共通の比喩では,お互いに,同じ土

俵の上で比較することができるという利点を持っ

ている。

心理療法の領域では,特に,Freudによる馬と

御者を用いた比喩はよく知られている。Freudは,

プラトンの影響を強く受けているとの指摘がある

が,この比喩もまた西洋文化においてはプラトン

に遡ることが出来る。また,Freudの時代より前

にすでに西欧には仏教が紹介されている。ブッダ

もまた,御者の比喩を用いているし,ウパニシャッ

ドにも御者の比喩が認められる。本論文では,ま

ず,これら東西の源流に遡ることとする。その上

で,精神分析の創始者Freud,自律訓練法の創始

者Schultz,催眠療法家Milton Erickson,森田療

法の森田正馬による馬と御者との比喩を比較しな

がら,それぞれの心理療法の特徴について検討す

る。

なお,本論文では,資料的な価値も考慮し,長

文であっても,なるべく略さずに記述する。また,

心理療法以外の分野での言及も含めることとす

る。

Ⅰ.東西における起源

1.西洋における起源―プラトン―

プラトンによる魂に関する考えは,中期の作品

とされる『パイドン』『国家』『パイドロス』およ

び後期の作品とされる『ティマイオス』において

述べられている。上記の中期の作品は,一般に『パ

イドン』『国家』『パイドロス』の順に書かれたと

される(藤沢,1998)。副題「魂について」とつけ

られた『パイドン』では,イデア説,魂の不死説,

想起説など主要な考えが提示される。『国家』では,

国家の三階層になぞらえながら,魂の三分割説が

提示される。そこでは,「理知的部分」と「欲望的

11

「馬と御者」の比喩による比較心理療法論の試み―プラトン,ブッダからフロイト,シュルツ,エリクソンまで―

鈴木 常元

Theories of Psychotherapy through the Metaphor of Horse and Rider

Tsunemoto Suzuki(Department of Psychology, Komazawa University, Japan)

ABSTRACT The metaphor of Horse and Rider has been used since ancient times. In the Occident,it appears in Plato’s writing,and in the Orient in Buddha’s teachings,as well as in the Upanishads. This metaphor is well known in Freud’s writing,and as a result, some researchers have pointed out the influences of Plato on Freud.However,Buddha’s teachings and Upanishads had been translated to Western languages before the age of Freud. Emile Coue,J.H.Schultz,Milton Erickson,and Masatake Morita have also used the same metaphor to explain their psychotherapies. In this article,the use of the metaphor of Horse and Rider by the above writers is compared. Then, similarities and differences in its use, as well as the relative influence of different writers are discussed.

KEY WORDS:psychotherapy,the metaphor of horse and rider,ancient thought

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駒澤大学心理学論集,2011,第13号,11-27

3,011, 1 1-1 72著原

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部分」に加え,怒りや憤慨によって欲望的部分と

戦う「気概」があると述べられる。つづく『パイ

ドロス』において,馬と御者の比喩が用いられる

が,「理知的部分」には御者が,「欲望的部分」に

は「悪い馬」が,そして気概には「善い馬」が対

応する。宇宙論・自然哲学である『ティマイオス』

では,不死の魂である「理性」は頭部に,それ以

外の死すべき魂は境界となる「頸」を挟んで胸部

に置かれる。さらに,仕切りとなる横隔膜の下部

には欲望がおり,上部,つまり頭部に近い部分に

は気概がいることにより,欲望が「アクロポリス」

からの指示に従わない場合,ちからずくで抑える

役割を果たす。

以下は,『パイドロス』(副題は,「恋について」

「魂について」「美について」など諸説ある)に表

れる該当箇所だが,慣例に倣って,当該の箇所を

表すのに,ステファヌス全集との対応を示した。

翻訳は藤沢(1967)によるものである。

246A-B

そこで,魂の似すがたを,翼を持った一組の

馬と,その手綱をとる翼を持った馭者とが,一

体になってはたらく力であるというふうに,思

いうかべよう――神々の場合は,その馬と馭者

とは,それ自身の性質も,またその血筋からいっ

ても,すべて善きものばかりであるが,神以外

のものにおいては,善いものと悪いものとがま

じり合っている。そして,われわれ人間の場合,

まず第一に,馭者が手綱をとるのは二頭の馬で

あること,しかも次に,彼の一頭の馬のほうは,

資質も血すじも,美しく善い馬であるけれども,

もう一頭のほうは,資質も血すじもこれと反対

の性格であること,これらの理由によって,わ

れわれ人間にあっては,馭者の仕事はどうして

も困難となり,厄介なものとならざるをえない

のである。」

253C-254E

この物語のはじめに,われわれは,それぞれ

の魂を三つの部分に分けた。その二つは,馬の

姿をしたものであり,第三のものは,馭者の姿

をもったものであった。いまも引きつづいて,

これらの姿をそのまま思い浮かべることにしよ

う。ところで,われわれの説くところによると,

これらの馬のうち,一方はすぐれた馬であり,

他方はそうでないということであった。しかし,

われわれは,そのよい馬がどのようなよいとこ

ろをもち,悪い馬がもっている悪い点とはどの

ようなものかということについては,くわしく

話さなかった。それをいま,話さなくてはいけ

ない。

そこで,この二頭の馬のうち,よいほうの位

置(右)にある馬をみると,その姿は端正,四

肢の作りも美しく,うなじ高く,威厳ある鉤鼻,

毛なみは白く,目は黒く,節度と慎みをあわせ

持った名誉の愛好者,まことの名声を友とし,

鞭うたずとも,言葉で命じるだけで馭者に従う。

これに対して,もう一方の馬はとみれば,そ

の形はゆがみ,贅肉に重くるしく,軀の組み立

てはでたらめで,太いうなじ,短い頸,平たい

鼻,色はどすぐろく,目は灰色に濁って血ばし

り,放縦と高慢の徒,耳が毛におおわれて,感

がにぶく,鞭をふるい突き棒でつついて,やっ

とのことで言うことをきく。

――さて,馭者が恋ごころをそそる容姿を目

にして,熱い感覚を魂の全体におしひろげ,う

ずくような欲望の針を満身に感じたとしよう。

馭者のいうことをよくきくほうの馬は,このと

きいつもと同じように,慎みの念におさえられ

て,自分が恋人にとびかかって行くのを制御す

る。けれども,もう一方の馬は,もはや馭者の

突き棒も鞭もかえりみればこそ,跳びはねては

しゃにむにつき進み,仲間の馬と馭者とにあり

とあらゆる苦労をかけながら,愛人のところに

行って,愛欲の歓びの話をもちかけるようにと

彼らに強要する。馭者とよい馬とは,はじめの

うちこそ,道にはずれたひどいことを強いられ

たのに憤然として,これに抵抗するけれども,

しかし最後には,苦しい状態が際限なくつづく

と,譲歩して要求されたことをするのに同意し,

引かれるがままに前へ進む。そしてそのまぢか

まで来たとき,いまや彼らは,愛する人の光り

かがやく容姿を目にする。

だが,馭者がその姿を目にしたそのとき,彼

の記憶は《美》の本体へとたちかえり,それが

《節制》とともにきよらかな台座の上に立って

いるのを,ふたたびまのあたりに見る。よびお

こされたこの光景に,彼は怖れにふるえ,畏敬

に打たれて,仰向けに倒れ,倒れざまにやむを

えず,握った手綱を激しくうしろに引くため,

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その勢いに二頭の馬は,両方とも尻もちをつい

てしまう。一方はさからわないから引かれるが

ままに,暴れ馬のほうはひじょうにもがきなが

ら。

遠くへひきさがってから,一方の馬は,はじ

らいと驚きのために,魂を汗でくまなく濡らす。

しかしもう一頭のほうは,くつばみを引かれて

転倒したために受けた痛さがやんで,やっとど

うやら元気を回復すると,怒りを破裂させての

のしりはじめ,馭者と仲間の馬とに向かって,

卑怯にも,臆病にも,持ち場を捨て約束を裏切っ

たと言っては,数々の罵言をあびせかける。そ

してまたもや,気の進まぬ彼らを強いて,むり

やりに近くへ行かせようとし,先まで延ばして

くれるようにと彼らが頼むと,やっと不承ぶ

しょうにそれを承諾する。

約束されたその時が来ると,この馬は,わす

れたふりをしている彼らにそれを思い出させ,

暴れ,いななき,ひっぱりながら,またしても,

同じことを言い寄るために愛人のそばに行くこ

とを強要し,そして近くへ来るや,頭をかがめ,

尾を張り,くつばみをくわえこんで,恥じる気

色もなく前へひっぱる。しかしながら,馭者は,

前のときと同じ感情にさらにいっそう強く動か

されて,あたかも競馬場の騎手が,出発点の綱

のところから,はやり立つ馬を引きもどすとき

のような勢いで,うしろに倒れ,この暴れ馬の

歯の間にくわえこまれたくつばみを,前にもま

してはげしく,力まかせに引っぱって,口きた

なく罵しるその舌とあごとを血に染め,その脚

と腰とを地にたたきつけて「苦痛の手に引き渡

す」。

こうして幾度となく同じ目にあったあげく,

さしものたちの悪い馬も,わがままに暴れるの

をやめたとき,ようやくにしてこの馬は,へり

くだった心になって,馭者の思慮ぶかいはから

いに従うようになり,美しい人を見ると,おそ

ろしさのあまり,たえ入らんばかりになる。か

くして,いまやついに,恋する者の魂は,愛人

の後をしたうとき,慎しみと怖れにみたされる

ということになるのである。」

なお,ギリシア語では,「馬」はιπποϛ,「御者」

はηνιοχοϛ。「手綱」はηνιονなので,ηνιοχοϛは

「手綱」に関連した語である。これに対応する独

訳としては,「馬」はRoß,ときに「一組の役畜」

の意の Gespannが,「御者」には Wagenlenker

が用いられる。英訳では,「馬」はhorseあるいは

二輪戦車のchariot,「御者」は chariotterが用い

られる。

2.東洋における起源

『カタ・ウパニシャッド』は,ヨーガについて,

最初に定義した書とされるが,yogaの語源となっ

たyujという言葉は,もともと「馬に馬具をつけ

る」「車に馬をつなぐ」という意であり,馬を御す

ることとの関連は深い(佐保田,1977)。

ちなみに,『ダンマパダ』と『カタ・ウパニシャッ

ド』は,Mullerの手による翻訳が,それぞれ1881

年,1884に出版されている。それ以前にも,

Aquetil-Duperronによるウパニシャッドのラテ

ン語訳が出版され,またOldenbergやKoeppen

によっても,ウパニシャッドや仏教についての紹

介がなされている。そして,これらの書物が,

SchopenhauerやNietzscheの思想に強い影響を

与えたことはよく知られている(橋本,2004)。

『ダンマパダ』に関しては,中村(1978)の日本

語訳とMullerの英訳を載せた。これらは連続す

る部分でなく,関連箇所を適宜抜き出したもので

ある。Freudの「自我」と「エス」とも関連する

ので,必ずしも馬の比喩だけでなく,「自己の主」

に関する箇所も載せておいた。また,『カタ・ウパ

ニシャッド』に関しては,湯田(2000)の日本語

訳とMuller(1884)の英訳を載せた。これらは,

連続する文章を丸ごと抜き出したものである。

⑴ ブッダ

『ダンマパダ』

御者が馬をよく馴らしたように,おのが感官

を静め,高ぶりをすて,汚れのなくなった人

――このような境地にある人を神々でさえも羨

む。」

“The gods even envy him whose senses,

like horses well broken by the driver, have

subdued, who is free from pride, and free

from appetites.”

みずから恥じて自己を制し,良い馬が鞭を気

にかけないように,世の非難を気にかけない人

が,この世に誰か居るだろうか 」

“Is there in this world any man so

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restrained by shame that he does not provoke

reproof,as a noble horse the whip?”

鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努

め励めよ。信仰により,戒しめにより,はげみ

により,精神統一により,真理を確かに知るこ

とにより,知慧と行ないを完成した人々は,思

念をこらし,この少なからぬ苦しみを除けよ。」

“Like a noble horse when touched by the

whip,be ye strenuous and eager,and by faith,

by virtue, by energy, by meditation, by dis-

cernment of the law,you will overcome this

great pain, perfect in knowledge and in

behavior,and never forgetful.”

先ず自分を正しくととのえ,次いで他人を教

えよ。そうすれば賢明な人は,煩わされて悩む

ことが無いであろう。」

“Let each man direct himself first to what

is proper, then let him teach others;thus a

wise man will not suffer.”

他人に教えるとおりに,自分でも行なえ

――。自分をよくととのえた人こそ,他人をと

とのえるであろう。自己は実に制し難い。」

“If a man make himself as he teaches

others to be,then let himself well subdued,a

man finds a lord such as few can find.”

自己こそ自分の主である。他人がどうして

(自分の)主であろうか 自己をよくととのえ

たならば,得難き主を得る。」

“Self is the lord of self,who else could be

the lord? With self well subdued, a man

finds a lord such as few can find.”

走る車をおさえるようにむらむらと起る怒

りをおさえる人――かれをわれは 御者>とよ

ぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけであ

る。( 御者>とよぶにはふさわしくない。)」

“He who holds back rising anger like a

rolling chariot,him I call a real driver;other

people are but holding the reins.”

実に自己は自分の主である。自己は自分の帰

趨である。故に自己をととのえよ。――商人が

良い馬を調教するように。」

“For self is the lord of self, self is the

refuge of self;therefore curb thyself as mer-

chant curbs a noble horse.”

英訳では,馬は,一般にhorse,ときにchariot

が用いられている。御者には,driverが当てられ,

driverは独語のReiterに相当し,両者は同系の語

である。

⑵ カタ・ウパニシャッド

自己(アートマン)を車に乗るもの,身体を

まさに車であると知れ

理解力(ブッディ)を車の御者,思考(マナ

ス)をまさに手綱であると知れ 」

“Know the Self to be sitting in the chariot,

the body to be the chariot,the intellect(budd-

hi)the charioteer,and the mind the reins.”

感覚器官は馬,感覚器官の対象は,それら

〔馬〕における馬場である,と人々は言う。

自己,感覚器官および思考と結びつけられて

いるものを,賢者たちは享楽するものと言う。」

“The senses they call the horses, the

objects of the senses their roads. When he

(the Highest Self)is in union with the body,

the senses, and the mind, then wise people

call him the Enjoyer.”

人が理解を欠き,思考が常に弛められている

時に,

御者が悪い馬のように,彼の感覚器官は彼に

従順ではない。」

“He who has no understanding and whose

mind (the reins) is never firmly held, his

senses (horses) are unmanageable, like

vicious horses of a charioteer.”

しかし,人が理解力を有し,その思考が常に

ぴんと張っている時に,

御者の良い馬のように,彼の感覚器官は彼に

従順である。」

“But he who has understanding and whose

mind is always firmly held, his senses are

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under control, like good horses of a chario-

teer.”

しかし,理解力を欠き,思考を欠き,常に不

浄である人――彼は,〔最高天にある〕あの場所

に到達しない。そして彼は輪廻に陥る。」

“He who has no understanding, who is

unmindful and always impure,never reaches

that place, but enters into the round of

births.”

しかし,理解力を有し,思考を有し,常に正

常である人――彼は,〔最高天にある〕あの場所

に到達する。そこから彼は更に生まれない」

“But he who has understanding, who is

mindful and always pure,reaches indeed that

place,from whence he is not born again.”

しかし,理解力を御者,思考を手綱としてい

る人――

彼は,旅路の終わり,ヴィシュヌの,あの最

高の場所に到達する。」

“But he who has understanding for his

charioteer, and who holds the reins of the

mind,he reaches the end of his journey,and

that is the highest place of Vishunu.”

実に,感覚器官のかなたに事物があり,事物

のかなたに思考がある。

思考のかなたに理解力があり,理解力のかな

たに,大いなる自己がある。」

“Beyond the senses there are the objects,

beyond the objects there is the mind,beyond

the mind there is the intellect,the Great Self

is beyond the intellect.”

大いなる自己のかなたに,未開展なものがあ

る。未開展なもののかなたに,プルシア〔人間〕

がいる。

プルシアのかなたに何ひとつ存在しない。こ

れが目標である。これが最高の歩みである。」

“Beyond the Great there is the Undevel-

oped, beyond the Undeveloped there is the

Person (purusha). Beyond the Person there

is nothing ―― this is the goal, the highest

road.”

すべてのものの中に隠されている,この自己

は現れない。

しかし,それは明敏な人々によって彼らの最

上の繊細な理解力を通して見られる。」

“That Self is hidden in all beings and does

not shine forth,but it is seen by subtle seers

through their sharp and subtle intellect.”

賢明な人は言語と思考を抑制すべきである。

彼は思考を認識としての自己において抑制すべ

きである。

彼は,認識としての自己を,大いなる自己に

おいて抑制すべきである。そして,彼は,それ

を静寂な自己において抑制すべきである。」

“A wise man should keep down speech and

mind;he should keep them within the Self

which is knowledge;he should keep knowl-

edge within the Self which is the Great;and

he should keep that (the Great) within the

Self which is the Quiet.”

『カタ・ウパニシャッド』と『パイドロス』にお

ける馬と御者による比喩の類似性については,英

訳者のMullerによってすでに指摘されていると

ころである。良い馬と悪い馬とが登場するところ

も,『ダンマパダ』以上によく類似している。

原典はサンスクリット語。「車に乗る者」あるい

は sitting in the chariotは,サンスクリット語

rathin。「車の御者」あるいはcharioteerは,サン

スクリット語 sarathi。「馬」あるいはhorseは,

サンスクリット語asvaあるいはhaya。「手綱」あ

るいは reinは,サンスクリット語pragraha。な

お,マナスは意と訳されることが多いが,心と訳

してもよい(中村,1978)。

『ダンマパダ』『カタ・ウパニシャッド』いずれ

においても,「自己」は否定されていない。仏教思

想というと「無我論」と理解され,あたかも「我」

が否定されたもののように受け取られがちであ

る。しかし,「我」でもないものを「我」としては

いけないというのが,「無我論」であり,「我」が

否定されているわけではない(中村,1981)。この

ように理解することで,西洋の自我論との類似性

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が理解されよう。

また,西洋思想との関連について付け加えると,

仏教でも,「無明」つまり無知は煩悩のひとつとさ

れるなど否定的なものである。インド思想を,東

洋思想と区別し,中洋思想と呼ぶことがある。日

本では,仏教は多分に情緒的に理解されるが,本

来はかなり知的なものである。森田療法では「あ

るがまま」は生き方の問題と深く関わっているが,

本来は「如実知見」の「如実」である。あくまで,

ものを捉える際のものであって,生き方の問題で

はない。西洋思想における「物自体」などの方が,

より近いものとみられるであろう。

Ⅱ.心理療法諸理論

1.クーエ

催眠を「暗示」として理解するというフランス・

ナンシー学派の考え方を,さらに「自己暗示」と

して発展させた薬剤師Coueであるが,その方法

はクエイズムとして知られる。彼は,自己(in-

dividu)を,想像力の力という「意識していない自

己(l’etre inconscient)」と意志の力である「意識

している自己(l’etre conscient)」に分ける。そし

て,我々は,みじめな操り人形にすぎず,背後で

その糸を操っているのは想像力なのだという

(Coue, 1922)。これに続いて,Coueは以下のよ

うな馬と騎手の喩えを用いる。

今までのべてきたところにもとづいて,想像

力というものを,急流にたとえることができよ

う。急流にはまり込んでなんとか土手まで泳ぎ

つこうと懸命になっているかわいそうな人が,

どこまでも押し流されて最期を遂げるとしよ

う。その場合の急流は,まったく手に負えない

ものに思えよう。しかし方法の如何によっては,

その力でものを動かしたり,熱や電気を得るこ

ともできる。

もしこの比喩で不じゅうぶんならば,「内なる

狂人」とよばれてきたこの想像力を,くつわ

(guides)も手綱(renes)もつけていない暴れ

馬(un cheval sauvage)にたとえることができ

よう。乗り手(le cavalier)は,どこへなりと

馬の意のままに連れ去られるよりほかない。そ

して馬が狂ったように疾走しだしたら,よくあ

ることだが,どぶの中に落ちこんでやっと停止

になるのだ。しかし乗り手の方で,馬にくつわ

(renes)を噛ませることに成功したら立場は逆

になる。行きたいところへ行くのは,もはや馬

ではなくて,乗り手の方であり,彼はどこへで

も思うがままに,馬の足を向けさすことができ

る。」

これ以降の部分で,Coueは,意識していない自

己,つまり想像力を,急流や暴れ馬のように制御

する手段として「自己暗示」を取り上げる。治療

的な自己暗示の前段階として,後倒等を用いた教

育訓練の段階がある。他者暗示的な方法を用いた

手綱をつける段階に続いて,自己暗示による治療

段階があるという手順になっている。

2.フロイト

プラトンとFreudとの関連については,幾多の

論文で指摘されている。主なものとしては,想起

説,魂の分割説と葛藤,エロスとリビドーの類似

などが挙げられる。また,分割説に関しては,ど

ちらも馬の比喩を用いている点でも共通してい

る。『自我とエス』『続精神分析入門』で,自我と

エスとの関係が,騎手と馬との関係に喩えられる。

またより近代的な比喩として,車に喩えたものが

『素人による精神分析の問題』にみられる。『想起,

反復,徹底操作』では,転移という治療者-患者

関係が,「手綱」の比喩を持って記述される。

⑴ 『想起,反復,徹底操作』(1914)

また時には,患者の激しい本能に転移という

手綱をつける余裕がないとか,患者を分析治療

に繋ぎとめているきずなを反復行為を行なって

いるあいだに患者が断ち切ってしまう,という

場合も起こりうるわけである」

きずな」は Bandだが,「ひも」の意もあり,

馬の比喩と関連させて理解してもよい。

⑵ 『自我とエス』(1923)

自我の機能上の重要さは,正常な場合には,

運動への通路の支配が,自我にゆだねられると

いう点に現れている。このように,エスにたい

する関係は,奔馬を統御する騎手に比較される。

騎手はこれを自分の力で行うが,自我はかくれ

た力で行う,という相違がある。この比較をつ

づけると,騎手が馬から落ちたくなければ,し

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ばしば馬の行こうとするほうに進むしかないよ

うに,自我もエスの意志を,あたかもそれが自

分の意志ででもあるかのように,実行にうつす

ことがよくある。」

奔馬を統御する」の「統御する」は zugeln,つ

まり「手綱」Zugelに由来する語が用いられてい

る。Zugelnには「(感情を)抑える,抑制する,我

慢する」などの意もある。

⑶ 『素人による精神分析の問題』(1926)

乗り物を発進させて動かすすべての力はエ

スによってもたらされるが,いわばそのハンド

ルを握るのは自我です。」

⑷ 『続精神分析入門』(1933)

エスに対する自我の関係は,馬に対する騎手

の関係に譬えられるでしょう。馬は動くための

エネルギーを供給し,騎手は目的地を定め,馬

という強い動物の動きを御する特権を持ってい

ます。しかしあまりにもしばしば自我とエスと

の間には理想的に行かない場合が生じ,騎手は

馬自身が行こうとする方向へ馬を勝手に歩いて

行かせなくてはならなくなるのです。」

なお,Freudは「馬」には 主としてPferd,一

カ所Roßを,「騎手」にはReiterを用いている。

「手綱」Zugelには,抑制,制御,統御,拘束,管

理などの意がある。また,動詞 ziehenと関連した

語であり,ziehenには,「(人間を)教育する,し

つける」「(動物を)飼い育てる」の意もある。一

般に,ziehenからの造語erziehenが「教育する,

しつける」の意で用いられる。また,同系の zah-

menや bezahmenに「飼いならす」の意があるが,

bezahmenには「(感情を)抑える,抑制する」の

意もある。英語の「手綱」reinの語源は「抑制す

るもの」。

『想起,反復,徹底操作』にみられるように,「手

綱」という言葉によって,馬の比喩を転移という

治療者-患者関係に用いていた。その後,『自我と

エス』にみられるように,「自我」と「エス」との

関係について,馬と御者の比喩が用いられるよう

になる。治療者-患者間における「抵抗」が,個

人内における「抑圧」に相当するように,個人間

の現象と個人内の現象には対応が見られることが

ある。プラトンにおいて,「国家」におけるのと類

似の事象が,「魂」においても認められるのと同じ

く,馬と御者の関係はFreudにおいても,個人内

および個人間どちらにも当てはまる。

プラトンの分割説では,魂は3つに分割されて

いる。精神分析でも,自我,エス,超自我の3つ

が考えられており,その対応関係が指摘できる

(Eysenck&Wilson, 1973)。一方でFreudによ

る比喩では,自我とエスが騎手と馬に喩えられて

いるにすぎない。そのためもあってか,プラトン

とFreud説の類似についての指摘においても,2

つの力の対立については明確に述べられるが,超

自我と気概という白い馬との対応には疑問符が付

けられる(Gorgiades, 1934;Simon, 1973;Plass,

1978;Arvanitakis, 1980)。Freudの超自我は外界

の現実を取り入れたものなのでプラトンの魂論と

は異なるという見解がみられる(Arvanitakis,

1980)。この他,プラトンの理性は,自分で自分を

動かすものという不滅の存在であるのに対し,

Freudの騎手であるところの自我は,エス(馬)

というエネルギー源が必要であるという点におい

ても両者は異なる。しかし,馬を統御することの

難しさ,ときには馬のするに任せるしかないとい

う点は共通している。

東洋思想との関連については,それほど指摘さ

れていないのではないかと思われるが,直接的で

なくても間接的に受けている可能性はあろう。

Freudの比喩は,2つのものの対立という点で,

むしろ,ブッダによる比喩の方に類似しているよ

うにみえる。

Coueの述べた「意識している自己」と「意識し

ていない自己」は,「自我」と「エス」と非常によ

く似ている。Coueの方法では,準備段階に引き続

いて治療段階があった。Freud(1918)も,『狼男』

の症例で,分析治療において患者が自発的な役割

をとるまでには,長い教育が必要であったと述べ

ているが,そこでどのようなことが行われたかは

述べられていない。

また,Freud(1909)のよく知られた症例研究と

して,ハンス少年の症例がある。彼の馬恐怖は父

親への恐怖,つまりエディプス・コンプレックス

として解釈されるが,エスの衝動性に対する不安

に由来するものという解釈もありえたのではない

かと考えられる。

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3.シュルツ

催眠をもとに自律訓練法(Das Autogene

Training)を作ったSchultz。その練習姿勢とし

て,3つものがあるが,和訳では,仰臥姿勢,単

純椅子姿勢,安楽椅子姿勢とされる。これらは,

Lutheによる英語版から翻訳されたもので,ドイ

ツ語ではLiegehaltung(仰臥姿勢),Droschken-

kutcherhaltung(辻馬車の御者姿勢:Figure 1),

Passive Sitzhaltung(受動的座姿勢)であった。

「辻馬車の御者姿勢」は客待ちの御者が休息を

とっている姿勢とされる(Wallnofer, 2003;

Haring, 2006)。普段,馬をコントロールしている

御者がコントロールを放棄しつつコントロールし

ている点で,「コントロールしないコントロール」

の象徴とも考えられよう(鈴木,2011)。

辻馬車」はDroschke。「御者」Kutscherは,

「馬車」Kutscheに由来。同語源の英語はcoach

であり,「バス」の意の他に,動詞として用いられ

た場合には,「指導する」「コーチをする」などの

意もある。Coachに対応するドイツ語のひとつが

trainierenである。Trainingや trainierenは馬を

「調教する」意もある。なお,kutschierenには「御

する」の意はあるが,「指導する」「コーチをする」

などの意はない。

自律訓練法は,ヨーガとの関連も指摘されるが,

Schultz自身は,あくまでも催眠をもとに発展さ

せたものだと述べている(Schultz, 1968)。しか

し,「御者姿勢」「受動的座姿勢」のように姿勢の

名前に意味を持たせようという意図がみられる。

ヨーガには,数多くの姿勢,つまりポーズがある

が,それぞれに象徴的な名前がつけられている。

これは催眠にはないもので,この点においては,

ヨーガの影響を受けているのではないかと考えら

れる。もちろん,Schultzにとって,自律訓練法の

対象者は,西欧人であるから,「御者」を選んだ理

由として,西洋に古くからあり,馴染みのある比

喩を用いたとい理由もあったであろう。

4.ミルトン・エリクソン

催眠療法を元に独自のアプローチを編み出した

Milton Ericksonにも馬と御者との比喩がある

(Gordon & Meyers-Anderson, 1981)。

ある日のこと,高校から帰る途中,馬具のつ

いた奔馬(a runaway horse)が,僕らのそば

を駆け抜けて,水を目当てに,畑に入っていき

ました。その馬はひどく汗をかいていました。

しかし,農夫はそれに気づかなかったので,僕

らがそいつを追い込んでいきました。私は,馬

の背に飛び乗りました。馬具がついていたので,

手綱(rein)をつかんで,「進め」と言いました。

大通りに向かいました。馬が正しい方角を知っ

ているだろうと思っていました。私は,どっち

が正しいのか知りませんでした。馬は,早足,

そして全速力で駆けていきました。ときどき,

馬は,自分が大通りを走っているんだってこと

を忘れてしまって,野原に入っていこうとしま

した。そこで,少し手綱を引っ張って,自分が

いるべきなのは大通りなんだってことに馬の注

意(attention)を持っていきました。とうとう,

私が乗っかってから4マイルのところで,農場

に入っていきました。「おお,そいつが帰ってき

たのか。どこでそいつを見つけたんだい 」と

農夫は言いました。私は「ここから4マイルく

らいのところ」と答えました。「ここだっていう

のがどうしてわかったんだい 」と訊くので,

「いや,知らなかったんですけど,馬が知って

たんですよ。僕はただ,馬の注意(attention)

を道の方に持っていっただけですよ」と答えま

した。これが,心理療法のやり方だと思います。」

ここでは,患者が馬,治療者が乗り手に喩えら

れている。Freudの転移に関する手綱の比喩と同Figure 1 御者姿勢

(Schultz & Thomas,2000より)

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様に,ここでは患者-治療者間が馬と御者に喩え

られている。

馬が知っている」という部分は,プラトンの想

起説を思い出させる。また,「気づかせる」「注意」

などの言葉は,催眠療法らしい言葉遣いである。

この比喩における華麗な手綱さばきは,エリク

ソン自身の報告や弟子たちが語るエピソードにみ

られるエリクソンの華麗な治療を彷彿させる。一

見,難治に見える患者をよく観察し,その動きに

合わせて,巧みな言葉かけを行い,短期に治療を

行う彼の治療法をみるかのようである。Freudの

馬が,なかなかに手に負えない馬であるのとは対

照的である。

馬には,馬具がついていることから,ある一定

以上の訓練は受けていることがわかる。彼が,患

者にはつねに「手綱」がついているとみなす楽観

的な立場にいたのか(もちろん,手綱を見いだす

というのも治療者の能力のひとつだろうが),もし

ついていない場合があるとしたら,どのような比

喩を用いたかは興味深い。

5.森田正馬

精神分析などの「自我」を強調する治療法を人

為的とし,自然を重視した森田正馬。馬を用いた

比喩は『神経衰弱及強迫観念の根治法』の「鞍下

に馬なき心境」と題された部分にみられる。また,

馬ではないが,驢馬を用いた比喩が『神経質ノ本

態及療法』にあらわれる「繋驢桔」の話にみられ

る。

⑴ 『神経衰弱及強迫観念の根治法』(1974a)

鞍下に馬なき心境

是等は皆,単に自分の限局した,或る苦痛と

いふものにのみ拘泥執着して自分自身の全体の

関係を見る事が出来ず,徒らに我情に支配され

るからである。若し患者が一途に此苦痛を取り

除かんとあせる事を止めて,静かに自身を観察

することが出来るならば,自ら其病の性質も分

るべき筈である。例えば頭痛持ちでいへば,多

年此の事に悩んで居て,而かもさほど増悪もし

なければ変化もしない。即ち恐るべき器質的の

病でもなければ或る機会的の病変から来たもの

でもないといふ事が分る。又日常の生活中にも,

朝寝をしたり食ひ過ぎをしたり,ずぼらにして

居る時には,却て悪く,仕事に熱中したり,活

動の調和を得た時には頭痛がなくなり,試験の

勉強や,一身上の大事件等の時には,却て其病

感を忘れて居るといふ事が常に自ら経験されて

居るべき筈である。即ち静かに自己を顧みる事

が出来さえすれば,其病の性質も治療法も自ら

分つて来る筈である。而かも之が分らないのは

徒らに之を治さんとのみあせるからである。之

を自分の持前の素質であると観念すれば近視で

あって近視の不便を思はず,頭痛があって其苦

痛を感じない。所謂鞍下に馬なき心境になり得

るのである。不眠や煩悶や強迫観念等でも皆之

と同理によるのである。」

ここでは,病気が馬に喩えられている。その意

味では,自分の中に,病の部分と乗り手であると

ころの自分がいることになり,ある種の分割説と

考えられよう。ここでもコントロールすることは

容易でなく,病気という馬の動きに乗り手は合わ

せなければならない。これらの点においては,西

欧やインドの馬と御者の比喩と類似している。し

かし,自我がエスを統御するというような,ある

部分が他の部分を統御するという発想とは若干の

違いが認められる。つまり人馬一体という形で,

二者の対立を解消することに解決を見いだす点

に,日本的な物事のとらえ方が表れている。これ

は,禅の『十牛図』の第六段階「騎牛帰家(牛に

騎って家に帰る)」といういわば「人牛一体」「人

下牛なし」(佐藤,1964)という状態とも重なる。

⑵ 『神経質ノ本態及療法』(1974b)

若し患者の感情基調を無視するときは,智識

的の追求は,却て益々其体得と遠ざかるやうに

なるものである。此関係をば,禅の方では繋驢

桔といふことに喩へてある。即ち桔に繋がれた

る驢馬が,之から脱離しようとして,桔の周辺

を廻轉する間に,終には自ら桔に固着して,動

くことも出来なくなるやうなものである。之は

恰も強迫観念患者が,自ら其恐怖,苦痛の繋縛

から逃れようとして,種々の工夫を凝らし,手

段を盡すに従つて,益々抜き差しの出来ぬ苦悶

に捉はれてしまうやうなものである。此時に患

者は兎ても逃れぬ苦痛として,苦痛其のまゝに

がまんして居れば,驢馬も桔にからみ付く事は

なくて,其あたりを遊んで居ることの出来るや

うなものである。」

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繋驢桔(けろけつ)」は,もともと中国の仏教

書『碧巌録』に表れるものであり,こちらでは,

患者自身が馬に喩えられている。Freudの馬は「ひ

もを断ち切ってしまう」ほどの暴れ馬であるのに

対して,森田の馬は拮にからみついてしまう馬で

ある。ヒステリーの患者をもとに始まった精神分

析と森田神経質を対象に行っていた森田療法との

違いが,馬の性質の違いに表れていると考えられ

る。

森田による比喩は,どちらにおいても,慌てて

何かしようとすればするほど余計に症状がひどく

なることを表している。

Ⅲ.その他

心理学の他の領域にも,馬と御者の比喩は認め

られる。そのうちの2つほどに言及しておく。

1.ロータッカー

人格に関する層理論を唱えたRothacker

(1964)も馬と御者の喩えを用いている。深層人

つまり「エス」という無意識的で我々の内の子ど

も・動物が,馬に喩えられる。そして,自我が騎

手であるとされる。Freudへの言及はないが,そ

の影響は明らかであろう。ただし,化学物質や医

薬が直接,馬に作用するというより現代的な見方

が加えられる。Freudの“Wo Es war, soll Ich

werdenを「エスから自我を生じさせよ」“Aus Es

soll Ich werden”と捉えたWeizsacker(1988)

は,身体医学では「エスから自我を生じさせよ」

“Aus Ich soll Es werden”と言わねばならない

と述べた。そして,この身体医学は物理的手段を

用いて治療を行うのである。

2.マクリーン

神経生理学者MacLeanは,内臓脳つまり辺縁

系を「Freudの無意識的イド」の属性の多くを備

えているものとみなした(MacLean, 1949)。そし

て,彼は,辺縁系を馬に,新皮質を騎手に喩える

(MacLean, 1955)。Freud学説を脳生理学的に

理解したものともとれるが,魂の各部分を別々の

身体部位においたプラトン学説の現代版とも言え

よう。

ま と め

ここまで,哲学者,宗教者,心理療法家が用い

た馬と御者の比喩について述べてきた。

多くは,個人の中に,馬と御者とがいるという

モデルであった。それに対し,Ericksonと Freud

の比喩の一部は,患者と治療者の関係性を指して

いた。

馬と御者とがどのような関係であるかも重要だ

が,一方で,両者の間にある葛藤をどのように解

決するかも重要である。その際,両者の間にある

もの,つまり「手綱」が重要であり,それがどの

ようなものかに,心理療法に対する考え方の違い

が表れるように思われる。ウパニシャッドではそ

れがマナスであり,催眠では暗示,精神分析では

転移であった。精神分析では,ここに,さらに解

釈や洞察を加えることができるかもしれない。自

律訓練法では,暗示でなく公式というかもしれな

い。ここには,認知行動療法や来談者中心療法は

なかった。それらの学派であれば,手綱として,

認知や共感を取り上げるであろう。

文 献

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木啓吾(訳)1970 自我とエス フロイト著作集6

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新曜社

湯田 豊 2000 ウパニシャッド 大東出版社

なお,原文等に関しては,以下のサイトにあるデー

タベース等を参照した。

1.プラトン

⑴ ギリシア語・英語

http://www.perseus.tufts.edu/hopper/

⑵ ドイツ語

http://www.zeno.org

2.ウパニシャッド

サンスクリット語

http://titus.fkidg1.uni-frankfurt.de/framee.

htm?/index.htm

3.クーエ

フランス語

http://www.bmlisieux.com

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Appendix Ⅰ

プラトン『国家』

(藤沢令夫(訳)1979岩波書店)

439D-441C

すなわち,それらは互いに異なった二つの別の

要素であって,一方の,魂がそれによって理を

知るところのものは,魂のなかの 理知的部分>

と呼ばれるべきであり,他方,魂がそれによっ

て恋し,飢え,渇き,その他もろもろの欲望を

感じて興奮するところのものは,魂のなかの非

理知的な 欲望的部分>であり,さまざまの充

足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふ

さわしい,と」

――略――

こうした二つのはたらきが,魂のなかに内在す

る二つの種類の要素として,われわれによって

区別されて確認されたことにしよう。そこでこ

んどは気概,すなわち,われわれがそれによっ

て憤慨するところのものだが,いったいこれは

第三の要素なのだろうか,それとも,先の二つ

のどちらかと同種族のものなのだろうか 」

――略――

(「その一方,すなわち 欲望的部分>と同種族

のものでしょう」)

――略――

いつかぼくはある話を聞いたことがあって,そ

れを信じているのだよ。それによると,アグラ

イオンの子レオンティオスがペイライエウスか

ら,北の城壁の外側に沿ってやって来る途中,

処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づ

き,見たいという欲望にとらえられると同時に,

他方では嫌悪の気持ちがはたらいて,身をひる

がえそうとした。そしてしばらくは,そうやっ

て心の中で闘いながら顔をおおっていたが,つ

いに欲望に打ち負かされて,目をかっと見開き,

屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというの

だ。『さあお前たち,呪われたやつらめ,この美

しい観物を堪能するまで味わうがよい 』」

――略――

怒りは時によって欲望と闘うことがあり,この

戦いあうものどうしは互いに別のものであるこ

とを示している」

――略――

欲望が理知に反して人を強制するとき,その人

は自分自身を罵り,自分の内にあって強制して

いるものに対して憤慨し,そして,あたかも二

つの党派が抗争している場合におけるように,

そのような人の 気概>は, 理性>の味方となっ

て戦うのではないかね これに反して,自分

に敵対する挙に出てはならぬと 理性>が決定

を下しているのに, 気概>が 欲望>の側に与

するということは,思うに,君はかつてそのよ

うな事態が君自身のうちに生じたのに気づいた

ことがあるとは主張できないだろうし,またほ

かの人のうちにしてもそうだろうと思うのだ

が」

――略――

では,自分が不正なことをしていると思う人の

場合はどうだろう 」

――略――

その人が気だかい人間であればあるほど,それ

だけいっそうその人は,怒ることができないの

ではないだろうか――飢えても,凍えても,ま

たそのほか,自分がそうした目にあわされるの

は正当だと思うような相手から,それに類する

どのようなことをされてもね。そして,ぼくは

こう言いたいのだが,その人の 気概>は,そ

のような相手に対して喚び起こされることをこ

ばむのではないだろうか 」

――略――

では逆に,自分が不正なことをされていると考

える場合はどうだろう そのような場合に

は,その人は心を沸き立たせ,憤慨し,正しい

と思うことに味方して戦い,飢えても,凍えて

も,その他すべてそのような目にあっても,じっ

と堪え忍んで,勝利を収めるのではないだろう

か。そして,目的を達成するか,それとも斃れ

て死ぬか,それとも,ちょうど犬が羊飼いから

呼び戻されるように,自分の内なる理性によっ

て呼び戻されて宥められるかするまでは,その

気だかい闘いをやめようとはしないのではなか

ろうか 」

――略――

気概の部分>についてのわれわれの見方が,

ついさっきとは反対になっているということだ

よ。つまりさっきは,われわれはそれを欲望的

な性格をもった何かであると考えたわけだが,

いまはそれどころか,魂の中で起る紛争にあ

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たって,むしろはるかに 理知的部分>に味方

して武器を取るものだと主張しているのだから

ね」

――略――

そうするとそれは,その 理知的部分>とも別

のものなのだろうか,それとも 理知的部分>

の一種族でありし,したがって魂のなかには三

つではなく二つの種族のもの――すなわち 理

知的部分>と 欲望的な部分>と――があるだ

けだ,ということになるのだろうか それと

も,ちょうど国家において,金儲けを業とする

もの,統治者を補助する任をもつもの,政策を

審議する任に当るものという,この三つの種族

があって一国をまとめていたのと同じように,

魂の内においてもまた,この 気概の部分>は

第三の種族として区別され,悪しき養育によっ

てだめにされないかぎりは, 理知的部分>の補

助者であることを本性とするものなのであろう

か 」

(「それはどうしても,第三のものとして区別し

なければならないでしょう」)

――略――

もしそれが, 欲望的部分>と別のものである

ことが明らかになったのと同じように,理知的

部分>とは別の何かであることが明らかになる

ならばね」

(「いやそのことなら」「べつに困難もなしに明ら

かになるでしょう。げんに,気概ということな

らば,子供たちのなかにもそれを見ることがで

きますかね。すなわち子供でも,生まれるとす

ぐに気概には充ち充ちていますが,理を知るは

たらきとなると,ある者たちはいつまでもそれ

に無縁であるようにさえ思われますし,多くの

者はずっと遅くなってからそれを身につけるよ

うに思われます」)

――略――

それはきわめて適切な指摘だ。さらに言えば,

獣たちについて見ても,君の言うことがそのと

おりであるとわかるだろうね。そして以上のこ

とに加えて,先にわれわれが引用したホメロス

の言葉もまた,証拠になることだろう――

彼は胸を打ち こう言って心臓をとがめた

すなわち,この箇所でホメロスは明らかに,

二つの心の動きを互いに別のものとして語りな

がら,事の善し悪しを理知的に勘考した一方の

部分が,他方のただ盲目的に憤慨する部分を,

叱りつけているさまをえがいているのだ」

580D-581E

魂に三つの部分があるのに応じて,快楽にも三

つのものがあるように思われる。一つ一つの部

分が,それぞれに固有の快楽を一つずつもつ,

という仕方でね。また同様にして,欲望と支配

のあり方にも,三つあることになろう」

――略――

われわれの主張では,魂のひとつの部分は,人

間がそれによって物を学ぶところの部分であ

り,もうひとつは,それによって気概にかられ

るところの部分であった。そして第三の部分は,

多くの姿をとるために,それに固有であるよう

な単一の名前でこれを呼ぶことができずに,そ

れ自身のなかにある最も主要で最も強いもの

を,この部分の名前として当てることにした。

すなわち,われわれはこの部分を,食物や飲み

物や性愛やその他それに準ずるものに対する欲

望のはげしさにもとづいて, 欲望的部分>と呼

んだのであった。また 金銭を愛する部分>と

も呼んだが,これは,その種の欲望が何よりも

金の力によって遂げられるからである」

――略――

そうするとまた,この部分がもつ快楽と愛は利

得を目ざしているというふうに言うならば,わ

れわれは議論のうえで,これを最もうまく一つ

の特性に確実にまとめ上げることができて,魂

のこの部分のことを語るときに,その意味がわ

れわれ自身に明らかになるのではないだろう

か。そして呼び名としては,これを 金銭を愛

する部分>とか 利得を愛する部分>とか呼ぶ

ならば,正しい呼び方になるのではなかろう

か 」

――略――

気概の部分>については,その全体がつねに,

支配し勝利し名声を得ることへと突き進むのだ

と,われわれは言うのではないか」

――略――

だからそれを 勝利を愛する部分>とか 名誉

を愛する部分>とか呼べば,ふさわしい呼び方

となるのではなかろうか 」

――略――

さらにまた,われわれがそれによって物を学ぶ

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ところの部分については,誰にも明らかなよう

に,その全体がつねに,真実がいかにあるかを

知ることへと向かっていて,金銭や評判のこと

などには,三つの部分のうち最も関心をもたな

い部分なのだ」

――略――

したがって,これを 学びを愛する部分>とか

知を愛する部分>とか呼べば,当を得た呼び

方となるだろうね 」

――略――

ある人々の魂の内では,この部分が支配してい

るが,別のある人々の魂の内では,他の二つの

部分のどちらかが支配するのではないか」

――略――

それゆえにこそ,われわれはまた人間の最も基

本的な分類として,知を愛する人>,勝利を愛

する人>,利得を愛する人>,という三つの種類

があると言うのではないかね 」

――略――

そして快楽にもまた,それらの一つ一つに対応

して,三種類あることになるわけだね 」

――略――

もし君がそうした三種類の人間に向かって,そ

れらの生き方のうちでどれがいちばん快く楽し

いかということを,ひとりひとり順番にたずね

てみる気になったとしたら,それぞれが自分の

生き方を最も賞め讃えるのではないかね。まず

金儲けを事とする人間は,利得を得ることにく

らべるならば,名誉を得ることの歓びや学ぶこ

との楽しみなどは,そうしたことが何かになる

のでもないかぎり,まったく何の価値もないと

言うことだろうね 」

――略――

では,名誉を愛する人間はどうだろう 」

――略――

彼は,金銭から得られる快楽を何か卑俗なもの

と考え,他方また,物を学ぶことから得られる

快楽は,学識が名誉をもたらすのでもないかぎ

り,煙のように虚しく無意味なものと考えるの

ではなかろうか 」

――略――

これに対して,知を愛する人間は」

――略――

真理がいかにあるかを知ることの快楽や,学び

ながらつねにそのような営為のうちにあること

の快楽とくらべて,その他の快楽をどのように

評価するとわれわれは考えるべきだろうか。は

るかにかけ隔たったものとみなすのではなかろ

うか そして,もしそういう他の快楽が避け

られないものでさえなかったなら,自分は少し

もそれを求めはしないという意味において,そ

れらを文字通り,やむをえない快楽と呼ぶだろ

うとは思わないかね 」

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Appendix Ⅱ

プラトン『ティマイオス』

(種山恭子(訳)1975岩波書店)

69C-72B

そこで神の子らは,父に倣って,魂の不死なる

始原を受け取ると,次には,そのまわりに死す

べき身体をまるくつくり〔=頭〕,それに乗り物

として身体全体を与えたのですが,またその身

体の中に,魂の別の種類のもの,つまり死すべ

き種類のものを,もう一つつけ加えて組み立て

ようとしました。ところがこの種の魂は,自分

のうちに恐ろしい諸情態を,必然的に蔵してい

るものなのです。――まず第一には,「快」とい

う,悪へと唆かす最大の餌。次には「苦」,すな

わちわれわれをして善を回避させるもの。なお

また「逸り気」とか「怖れ」とかいう,思慮の

ない助言者たち。宥めがたい「怒り」。迷わされ

やすい「期待」――と言ったものがそれです。

しかし神々は,これらのものを,理をわきまえ

ない感覚と,敢て何にでも手を出したがる情欲

とを混ぜ合わせて,魂の死すべき種族を構成し

たのですが,これは止むをえない必然によるも

のだったのです。

そして,まさにこれらの諸情念によって,か

の神的なもの(理性)を――万止むを得ない場

合は別として,さもない限り――穢すことに

なっては,と,神々は憚って,この,〔魂の〕死

すべき種族を,神的なものから離して,身体内

の別の住居に住まわせたのです。そして,その

隔離のためには,頭と胸の間に「頸」を介在さ

せることによって,この両者を仕切る境界とな

る峡部をつくったのでした。こうして,神々は,

胸,あるいは,いわゆる「胸部(トラクス)」の

中に,魂の死すべき種族を縛りつけようとした

のです。そして,この種の魂の中にも,本来的

にすぐれたものと,劣ったものとがあるので,

ちょうど女の住居と男の住居を区別するよう

に,この胸郭の腔所にも改めて,その真ん中に

障壁として「横隔膜」を置き,そうすることで,

これに仕切りを入れたのでした。さて,魂のう

ち,勇気と血気をそなえた,負けず嫌いの部分

は,これを,頭に近く,横隔膜と頸の間に住ま

わせました。魂のこの部分が,理性の言葉のよ

く聴ける位置にいてくれて,〔もう一つの〕欲望

の種族が,城塞(アクロポリス)から指令され

たことや言われたことに,どうしても自発的に

従おうとしない時,前者が,かの理性の側に与

して,ともに,この欲望の種族を力ずくで抑え

ることができるようにというわけなのです。

また,血管の結節をなし,身体四肢を余すと

ころなく激しくめぐっている血液の源泉をなし

ている所の「心臓」は,これを,番兵詰所へ配

置しました。それは,外部から――あるいは,

内部の欲望からでも――何らかの不正な行為

が,身体諸部分のところでなされているぞとい

う「理性」の通告に,かの「怒り」が激してた

ぎるような時,身体内のおよそ感覚能力を持っ

たものがどれも,あらゆる狭い通路(血管 )

を通って,敏速に,その勧告や威嚇を感知して

その言うことを聴き,全面的に従うように,そ

してこのようにして,それらが,かの最もすぐ

れた部分をして,かれらすべての間で無事に最

後まで主導権を行使させるようにということの

ためだったのです。

ところで,恐ろしいことを予期したり,怒り

が目覚めたりする際に起こる心臓の動悸に対し

ては,神々は,激昂する部分のこのような昂り

が,すべて,火を通じて起こるだろうことを見

越していましたから,そのために救援策を講じ

て,「肺」という種類のものを植えつけました。

それはまず第一に,柔らかくて血の気のないも

のであり,次いでは,まるで海綿のように,内

部にいくつもの孔が穿たれているものなのでし

て,こうして,息や飲物を受け入れて,心臓を

冷やし,灼熱状態にあるそれに,元気を回復さ

せ,寛ろがせることができるようになっている

のです。実際,そのために,神々は,「気管」な

る導管を,肺のところまで切り開き,肺そのも

のは,これを心臓のまわりに,ちょうど柔らか

い詰め物のようにめぐらしたのでした。それは,

「怒り」が心臓の中で頂点に達する時にも,心

臓が,ふかふかした抵抗のないものに向かって

弾み,また,冷やされることになり,それだけ

労苦も軽減され,こうして,その分だけ余計に,

「怒り」に与して,「理性」に仕えることができ

ることを目的としているのです。

また魂のうち,食物や飲物や,すべて,身体

というものの性質のために必要となっていると

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ころのものを,欲求するような部分は,これを,

横隔膜と,臍に面した境界との間に位するとこ

ろに住まわせ,そのさい,この場所いっぱいに,

身体の糧を入れるためのいわば秣桶とでも言う

ようなものをつくり上げたのです。そして,魂

のこの部分を,野性の――とは言え,とにかく,

死すべき種族というものが存在しなければなら

ないとすれば,どうしても〔他のものと〕いっ

しょに養わないわけには行かない――獣のつも

りで,そこに繋ぎ止めたのでした。だから,そ

れがいつも秣桶のところで食っていて,熟慮す

る部分からは可能な限り遠く離れて住み,こう

して,ざわめきや叫びはできるだけもたらさな

いで,最上の部分が静かに,公的にも私的にも,

すべてのものに有益な事柄について熟慮するの

を,そのままそっとしておくように――という

ことのために,神々は,魂のこの部分に,こん

な位置をあてがったわけなのです。

ところで,神々は,この部分が「理性」の言

葉を解することはないだろうし,また,仮に,

何らかの仕方で,そのような言葉をいくらか感

知するにしても,とくかく,何にせよ,言葉を

気にかけるなどということは,この部分の性分

ではないだろうということと,しかしその反面,

これは,夜昼を問わず,影像や幻によって一番

よく誑かされるだろうといことを知っていまし

たから,そこで,神は,まさにこの弱点をねらっ

て,「肝臓」なるものを構成して,これをかの獣

の住処へと置きました。そしてそれを,緻密で,

滑らかで,光沢があり,甘さとともに苦さをも

備えたものに仕組んだのですが,それは,「理性」

からやってくるいろいろの考えの力が,ちょう

ど,印影を受け入れて眼には見える影像を映し

出す鏡の中でのように,肝臓の中で〔映し出さ

れて〕,次のような働きをするように,というこ

とだったのです。――かの獣を恐怖させるとい

うことも,その目的でした。つまり,考えの力

が〔肝臓に〕内在する苦さの部分を利用して,

厳しく,威嚇する態度で近づき,その苦さを肝

臓全体に急速に滲透させて,そのに胆汁色を映

し出し,また,全体を収縮させて,これを皺の

寄ったざらざらしたものにし,そして,肝葉を

正常な形から曲げて縮め,胆嚢と肝門とは,こ

れを塞いだり閉じられたりして,苦痛や吐気を

与えるという,こうした場合には,いつでもか

の獣を恐怖させることができるでしょう。そし

てまた,今度は,思考から来るある穏やかさの

息吹きが,いまのとは反対の幻像を描き出す場

合には,この息吹きは,一方では,自分自身と

は反対の性質をかき立てることもしなければ,

またそれに余計な手出しをすることも敢てしな

いということによって,苦さを鎮めるとともに,

他方では,肝臓に生来備わっているところの甘

さを,その器官のために利用して,そのすべて

の部分を,正常な状態へと戻して,真っ直ぐで,

滑らかで,自由なものになるようにし,こうし

て,肝臓の当たりに居住する魂の部分を,やさ

しい,仕合わせなものにするでしょうし,また

夜には,それが夢で〔霊感を受けて〕予見の力

を働かせながら,節度ある時を過ごすようにさ

せるでしょう。――何しろ,魂のその部分は,

言論や知力とは無縁のものでしたからね。とい

うのは,われわれを構成してくれた神々は,死

すべき種族をできるだけすぐれたものにするよ

うにと命じた,あの時の父の言いつけを覚えて

いたのでして,そこでその通りに,われわれの

卑しい部分をも匡正しようとして,そんな部分

でも何らかの仕方で真実に触れるようにと,そ

の中に予見の器官を置いたからです。

ところで,神が予見の働きを,人間の,知力

を欠いた状態に対して与えたということについ

ては,充分な証拠があります。というのは,人

間誰にしても,正気の状態では,霊感に満ちた

真実の予見をなすには至りえないものなのでし

て,それができるのは,ただ,眠っている時と

か病気のためとかで,知力が束縛されているよ

うな場合や,あるいは,何か神懸りのために異

常を来しているような場合に限られるからで

す。いやむしろ,「予見」だとか「神懸り」だと

かによって夢でか現でか言われたことを,思い

起こして理解したり,また,幻像として見られ

た限りのすべてのものについても,それがいっ

たいどんな仕方で,誰に対して,未来や過去や

現在の凶事なり吉事なりの何かを合図している

のかということを,勘考によって判別するのが,

正気の者のなすべきことなのです。これに対し

て,狂気に陥り,なおもその状態から脱してい

ない者の場合は,自分に見えたものや,自分が

口に発したことを,とやかく判断するのがその

仕事ではないのでして,むしろ「己が事を為し,

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己を識るは,これ独り節度ある者(精神の健全

な者)にのみ適うことなり」という,昔からの

諺がありますが,これは至言です。だからこそ

また,神懸りの予見には,これに判断を下す者

として,「解釈者(プロペテス)」の種族を設け

るのが習慣となっています。彼らのことを「予

見者(マンティス)」と名づけている人々もあり

ます。しかし,こうした人々は,その種族が,

謎の形で言われたお告げの言葉だとか幻像だと

かの解釈者なのであって,予見者では毫もなく,

むしろ,予見する人々の解釈者と名づけられる

のが,一番正しいのだということをまったく知

らないのです。

さて,「肝臓」が,もともと,ここに言ってい

るような性質のものであり,また,その場所に

あるのは,いま言ったこと,つまり予見のため

にほかなりません。そして,個々の動物がまだ

生きている間は,この種の器官は,比較的明瞭

な徴を見せますが,生命が奪われると,盲目に

なってしまい,それの与える予見も,何らかの

明確なものを合図できるにしては,あまりにも

漠然とし過ぎているものです。」

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