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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 「憲法変遷論」の思考 石井, 真理子 九州大学法学部 https://doi.org/10.15017/13862 出版情報:学生法政論集. 2, pp.17-29, 2008-03-25. 九州大学法政学会 バージョン: 権利関係:
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Sep 07, 2019

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九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

「憲法変遷論」の思考

石井, 真理子九州大学法学部

https://doi.org/10.15017/13862

出版情報:学生法政論集. 2, pp.17-29, 2008-03-25. 九州大学法政学会バージョン:権利関係:

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「憲法変遷論』の思考

石 井 真理子

夏 はじめに

霊 日本における「憲法変遷論」

亜 変遷論の思考様式一憲法解釈の「枠」

W おわりに

互 はじめに

 日本国憲法は、その96条で憲法改正について定め、国会各議院の総議員の3分の2以上

の多数の賛成によって発議され、その承認は国民投票により多数決でなされるものとして

いる。憲法改正が行われる場面ないし事情は様々考えられるが、そうした場面や事情の多

くは、恐らく法と現実との離反によるものであろう。政治・経済・・外交と、社会は変容し、

法制定時には予想だにしなかったことが起きる。このように不可避的に生じるギャップを

埋める正式な手段が96条の定める改正であるとして、しかし「重要なことは、そのギャッ

プを埋めるための手段として正式の改正が唯一のものではないということであり、むしろ

この手続は実際には政治的紛争をひき起こすおそれのためにとられない場合が多い」1とい

うことだ。ここで見落とすことができないのが、「憲法変遷」である。

 96条による「憲法の改正」が、意図的な意思行為によって憲法の条文が変更されること

をさす概念であるのに対し、一般に「憲法の変遷」とは大体、「憲法条文の変更を伴わず、

したがって必ずしも変更の意図ないし意思をもたない国家行為(事実)によって、実質的

には憲法が改正されたに等しい変更が生ずることを示す概念」2とされる。この「憲法変遷」

は、元々ドイツ由来の概念で、!895年にラーバントが、憲法正文が変更されていないにも

かかわらず、ドイツ憲法が実質的に変更していると指摘したものを、1906年にイェリネッ

クが「憲法の改正と憲法の変遷」という論文において説いたのが始まりである。当時、ド

イツには「実質的憲法改正」という慣行があった3。これは、憲法典の文言そのものは改正

せず、しかし憲法改正に必要な特別多数の議決によって、憲法典とは異なる内容の法律を

伊藤正己『憲法』(弘文堂・1982年)。

小林直樹「憲法の変遷」法学協会雑誌91巻6号(1974年)885頁。

「実質的憲法改正」について、赤坂正浩「第二次大戦前ドイツの憲法変遷論(一)」日本法学63巻2号

(1997年)12-14頁、同「第二次大戦前ドイツの憲法変遷論(二)」日本法学63巻4号(!998年)96-!01

頁を参照。

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議会が制定する方法である。帝政時代およびヴァイマル共和国時代、この嘆質的憲法改

正」が多用された結果、憲法典とは別に多数の憲法的法律が併存するという状況が生まれ

た。イェリネックの憲法変遷論も、この、憲法典と憲法的法律との乖離を捉えたものだっ

た4。

 これを1929年(明治41年)に我が国に紹介したのが、美濃部達吉で、それ以来、日本に

おいても様々な議論がなされてきた。しかし、これまでの論争においては、何が問題かと

いうことは明確に意識されながらも、議論の対象でもあり、前提でもある「憲法変遷」と

いう概念の捉え方そのものが論者によって異なっていて、そもそも何を指すのか一致が得

られないままになっている5。高橋和之は、こうした「憲法変遷」という言葉そのものの多

様性については大体において理解されていながら、その多様性の内容への理解・認識がな

いために、各論者が他者の「憲法変遷」の意味を正確に理解しないまま議論するという問

題が生じていることを指摘している6。この問題を考えるに当たっては、実際に学説一つ一

つの内容を具に検討した上で比較するという方法もあると思うが、今回はそれよりも、高

橋に倣って多様性の根底にある思考様式に着目し、その違いを検討することで、憲法変遷

論とは一体、何の閥罪なのか、また、それを認める意義・実益はあるのかということを考

えていきたいと思う。

簸 日本における『憲法変遷論』

(の 経緯

 美濃部達吉は明治41年、イェリネックの論文を紹介して、憲法変遷の概念を認めた7。こ

れを受けて、佐々木惣一が慮法改正ノ卜書〔ママ〕」に過ぎないと批判した8のに対し、

さらに宮沢俊義が佐々木説を批判する9というかたちで、我が国における憲法変遷論に関す

る論争が始まったとされる。日本国憲法制定後、昭和20年代には冒立った論争は無く、ド

  以上、赤坂正浩ゼ憲法変遷概念の変遷」日本法学66巻3号(20◎0年目248頁を参照。

  樋口陽一「憲法変遷論的思考の二系譜」法学教室44号(1984年目25頁。

  高橋和之慮法変遷論にみられる混乱の若干の整理(上)」ジュリスト971号(1991年)5!頁。

  美濃部達吉「憲法の改正と憲法の変遷」ゲオルグ・イェリネック〔美濃部達吉訳〕『人権宣言論;三三

  篇』二本評論社・1929年)85頁。ここで美濃部は、非制定法を承認し、それによる憲法変遷を肯定し

  ている。

8 憲法変遷について佐々木は、「憲法ノ改正アル口口スシテOモ憲法ノ改正アリタルト同様ノ現象ヲ呈ス

  ルコトアリ。余輩ハ之ヲ名ケテ〔ママ〕憲法改正ノ幻相〔ママ〕ト云ハント欲ス」と述べている。佐々

  木惣一『法の根源的考察』(佐々木惣一博士米寿祝賀記念刊行会・1965年)25頁。括弧内は引用者によ

  る。

9 宮沢俊義「硬性憲法の変遷」同『憲法の原理』(岩波書店・1967年)67頁。宮沢は、アメリカ合衆国憲

  法の通商条項、課税条項、郵便条項の意味が判例によって変化したことを述べた上で、佐々木説を批

  判した。

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「憲法変遷論」の思考(石井)

イツ学説の紹介と、学問的な意味で憲法変遷の法的性格の究明がなされた10。その後は肯

定論が相次いだものの、それらは飽くまで法の認識の闇題として、憲法の変遷がありうる

ことを主張するものだった。ところが昭和30年代に入ると、政治の場面で改憲問題が浮上

し、憲法調査会の審議が進められ、改憲か護憲かという議論が各界で高まっていった。や

がて、改憲が不可能に近いと悟った改憲派の政治家らによって、実践的な意味での憲法変

遷論が口にされるようになったのを受けて、学界においても憲法変遷論の当否が改めて論

議され、肯定・否定両論の対立が浮き彫りとなっていった11。

 ここで注意を要するのは、こうした流れの中で、認識の問題と実践の間題とが混同され

たことである。これが、以後の論争と、今日まで続く混乱の一因ともなっている。また、

そもそもイェリネックの概念は事実認識の問題であったのを、美濃部達吉が「非制定法源

に対する法の無力」と解釈したために、実践的な解釈論争上の概念として受け入れられる

こととなったとして、「元来法社会学的・法理論的・法哲学的主張であった憲法変遷論を、

法解釈論上の概念へと架橋しようとする傾向が存在」し、「その典型的なものが美濃部達吉」

であるという指摘もなされている12。このように様々な意味をもち、また、論者によって

は異なる意味と理解で用いられる「憲法変遷」と呼ばれるものの中でも、我が国における

論争は、憲法変遷が憲法「法源」の変更、即ち解釈の基準の変更を意味するとの理解から、

憲法の規定に反する国家行為を咬遷」を理由に解釈論上正当化する論理として捉えるこ

とができるかどうか、これが特に中心的な争点となっていると一応言えそうである13。

(2) 変遷をめぐる我が国の学説

 憲法の変遷iは、「①憲法の正文に形式的な変更を加えないで、憲法規範の現実にもつ意味

が変化する、という現象を広く指す場合と、②憲法規範に真正面から反する解釈一清三四

郎の言う「にせの解釈」一によって形成された憲法制度(あるいは憲法改正)が、一定の

段階に達したとき、憲法規範を改正したのと同じ法的効果を生ずる、という現象を指す場

合」に大別される14。しかしながら、「変遷」という語は、そもそもそれ自体、多義的に使

われうるため、先に述べたように、論者によって異なる意味で様々な言葉で議論されてい

る。そこで、まずここでは、主要な学説をいくつか取り上げ、論争の大まかな素描を試み

たいと思う。

012凸δ4^

川添利幸「《憲法変遷》Verfassungswandl膿gの法的性格」法学新報60巻9号(!953年)57頁以下など。

以上、橋本公亘「憲法変遷i論ジュリスト638号(1977年)108頁を参照。

長尾龍一「憲法一望論考」法学セミナー増刊『目的の防衛と憲法』(1981年)70頁以下。

長谷部恭男『憲法〔第三版〕』(新世社・2004年)42頁以下を参照。

芦部信喜『憲法学U(有斐閣・1992年)82頁。清宮四郎の主張する「にせの解釈」について、詳しく

は、清宮『国家作用の理論』(有斐閣・1968年)194頁以下。

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 A)肯定説

 まず、戦後いち早くドイツの学説を中心に理論的検討を加えた川添利幸は、憲法変遷概

念には、「社会学的意味における憲法変遷」と「解釈学的意味における憲法変遷」という二

つの意味があり、両者を区別する必要があることを指摘した。「社会学的意味における憲法

変遷」とは、成文憲法の規範の意味と矛盾する社会規範が成立していることを客観的に記

述するもので、ただ憲法正文の規範内容と、現実の憲法状態とにギずれ」が生じているこ

とを事実として指摘することに終止する。一方、「解釈学的意味における憲法変遷」とは、

成文憲法の規範の意味と異なった社会規範が妥当している場合に、その何れが、現行憲法

なのかを認識する法解釈学的な立場から把握されるもので、ここではその社会規範の法的

評価が問題となる。この意味における憲法変遷は、単に成文法の規範に違反する社会規範

が発生したというに止まらず、その規範が成文憲法の規範を改廃して(成文の憲法規範は

「枯死」する)、その地位にとって代わり、完全な意味で法規範として認められうるものと

なった場合のみを意味する王5。

 憲法変遷論をめぐって問題となるのは、後者の「解釈学的意味における憲法変愚が認

められるかどうか、即ち、成文憲法に違反する不文の憲法規範が制定憲法を改廃しうるか

ということであり、肯定・否定というのは、この観点をどうみるかの分類ということにな

るが、川添は、これに改廃力を認める。そして、その際、この「解釈学的意味における憲

法変遷」が認められるためには、成文憲法に反する社会規範が成文憲法の規範を改廃して、

完全な意味で法規範として成立していることについて、国民の「法的確信」(「被治者の同

意ないしは承認」)が必要であるという16。

 小林直樹も、用語の違いはあるものの、基本的には川添と同様に、憲法変遷の社会的意

味と法解釈学的意味の区別の重要性を指摘する。その上で、後者についてはやはり「社会

的同意」を改廃力の根拠づけに取り上げ、「仮にこの種の同意が圧倒的になり、制定規範の

もとの意味を固執する反対意見がほとんどなくなるといった状態にまで達し、しかもそれ

が長期にわたる安定を示すときには」、「法源の変更を来す変遷の成就」が生じたものと考

える。しかし、小林のオリジナルな点、複雑な点は、更にその同意の強さ如何によって、

「完成された変遷」と「未完成の変遷」という具合に、変遷の度合いを区別することにあ

る。「社会的同意」の程度が最も強い状態である「完成された変遷」は、「法源の変更を来

す憲法の成就」であり、味完成の変愚とは、文字通り、そこまでいかない未完成のもの

で、厳密な意味での法的既判力をもたない「習律」に他ならないという。この「習律」と

は、法の前段階(pre-legal)を意味するが、それにも関わらず法に劣らない実効力をもつ

三5

@川添利幸「《憲法変遷》Verfassungswand!膿gの法的性格」法学新報60巻9号(1953年)57頁。16@以上、川添・前掲注15)、同「憲法変遷の意義と性格」小島和司編『憲法の争点〔新版〕』ジュリスト

 増刊(1988年)10頁以下を参照。

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「憲法変遷論」の思考(石井)

規範とされる。そのため、「習律」これだけで法源となるものではないと小林は述べる17。

 芦部信喜もまた、憲法変遷の法的性格を「習律」とみなす立場をとっている。そして、

これは単なる事実ではないが、法でもない「習律」であるが故に、憲法規範を改廃する効

力までをもつものではないとする18。19

 B)否定説

 否定説の代表的論者である樋口陽一は、憲法変遷を「実効憲法の変遷」と癒法法源の

変遷」とに分けて考える。

 まず、「実効憲法」とは、制定憲法が自らの定めたところと適合しない内容のものとして

現実に適用され、下位段階の規範形式(法律、命令、判決等)として現に具体化されてい

る客観的事実をいう。この「実効憲法」を最終的に決定づけるのは、「最高位にある有権的

憲法解釈権者であり、したがって、客観的に見て制定憲法に不適合のものを含めて一切の

憲法実例が」、有権的憲法解釈権者によって「違憲とされていない限りにおいて、その時点

での実効憲法をな」すため、それ故、「実効憲法」は常に変遷しうるとする。

 一方、これとは別に、「制定憲法不適合の憲法実例が最終的な有権的解釈権者によって違

憲判断をうけずに実効憲法をなしている場合、その憲法実例が何らかの用件を充たすこと

によって、他の行為の合憲・違憲を評価する規準たるべきもの一source du droit

cOnstitutio登ne1憲法法源一となるかどうか」を問題として提起するのが、「憲法法源の変

遷」である。樋口の主張において重要なのは、「実効憲法」が憲法より下位規範の規範形式

であるために、「実行憲法の変遷」があったからといって直ちに「憲法法源の変遷」が生ず

るわけではないとする点である。樋口はまた、「憲法法源の変遷」が提起する以上のような

問題が、フランスにおいて議論されている「憲法慣習による制定憲法改廃」、即ち憲法慣習

論の問題に相当することも指摘した。

 このように、憲法変遷を憲法解釈の基準とされるものの変化とする樋口は、硬性憲法を

もつヨ本においては「疑う余地なく、制定憲法そのもの」が「憲法法源」であるから、「憲

法法源の変遷という意味での『憲法変遷』観念は法の科学の観念としては維持されえず、

イデオロギーとしての有効性だけが問題となりうる」が、こうした観念は、ヂいかなる意味

17

18

圭9

以上、小林直樹『憲法秩序の理論』(東京大学出版会・!986年)、同「憲法の改正と変遷」有倉遼吉ほ

か編『憲法調査会総批判:憲法改正問題の本質』(濤本評論祉・1964年)!73頁以下、同慮法の変遷」

法学協会雑誌91巻6号(1974年)!頁一55頁を参照。

以上、芦部信喜「改憲論と憲法の変遷および保障」法律のひろば15巻5号(1962年)4頁以下、同・前

掲注14)を参照。

「憲法改正規定という『変更のルール』を経ていない国家行為は、いかに慣行上遵守され規則性をみ

せていても、厳格な意味での法的ルールではな」く、「変遷によって生ずるのは一次ルールのみである」

と考える阪本昌成は、この「自働とは、「卜次ルール』を意味すると解しうる」としている。阪本

『憲法理論夏〔補訂第三版〕』(正文堂・2000年)!30頁以下。

2!

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での護憲の立場にとっても適合的なイデオロギーとしては機能しえない」として、これを

否定する20。

(3) 従来の学説と橋本説

 肯定・否定の区別はあるものの、以上を「従来の学説」として整理すると、これらはそ

れぞれ憲法変遷概念の捉え方なり表現なりはそれぞれ少しずつ異なっているものの、不文

の憲法規範に改廃力を認めるか、法源の変更を認めるかという観点から、肯定・否定に分

かれているものと見ることができそうである。それでは次に、こうした従来の学説とは一

線を画する橋本公亘の学説を検討したいと思う。

 橋本公亘の憲法変遷論は、橋本いわく肯定説に与するものの、その主張は従来の学説と

は大きく異なり、憲法変遷とは、「成文憲法の条項がその文言を変えることなくその客観的

意味が変化したことをいう」と定義づける。「憲法規範と現実との間に不一致があるときは、

それは、違憲の状態であって、まだ憲法の変遷をもって論ずべきではな」く、「憲法規範の

もつ客観的意味が変わったとき、はじめて、憲法の変遷」があったと言いうると主張する。

この、「客観的意味が変わったとき」というのは、従来の意味とは異なる意味が「社会的規

範意識」(国民の法的確信ないしは民衆の同意)によって支持されるに至ったときのことで

あり、日本国憲法のもとで憲法の変遷の主役を論ずるのは、「最高裁判所の判例による憲法

の変遷」であるとしながらも、そうした判例が直ちに憲法の変遷をもたらすわけではなく、

この「社会的規範意識」が「その判例を新しい憲法の意味であると認めるにいた」ること

を要件とする。また、他方で橋本は、国会の立法によって変遷が生じること、また、議院

や内閣の行為によって変遷が生じることは、「極力避けなければならない」ことではあるが、

「理論的には、その可能性をいっさい否定することはできない」とした上で、寧ろこれら

すらなくとも、「社会が変れば憲法も変る」という21。22

 この橋本説が従来の学説と異なる点は、憲法変遷の意味を、憲法の条項の持つ意味自体

が変化することだとする点で、こうすることで従来の学説が論じているような、成文の憲

法規定が憲法慣習により改廃されるというようなことがあるのか、また、あるとしたらそ

れはいかにして正当化されるかという「厄介な問題に立ち入る必要がな」いことになると

高橋和之は分析する23。

20@以上、樋口陽一「『憲法変遷』の観念一憲法慣習論を中心として一」思想484号(1964年)57頁一73頁を

 参照。樋口は、測定の法制度の中で規範定立の差異に基準たるべきものとされているところの、より

  上位の一般的規範」という意味で「法源」という言葉を用いている。21 @しかし、「わが憲法のもとでは、実際問題としてほとんどそのような事例は起こるまい。社会的意識は、

 それほど甘くはないからである。」と述べて、飽くまでも理論上の可能性であることを強調している。

  同・前掲注11)113頁。22@以上、橋本・前掲注!1)、同『日本国憲法』(有斐閣・1980年)47頁以下を参照。23@高橋和之「憲法変遷論にみられる混乱の若干の整理(下)」ジュリスト974号(1991年)5/頁。

22

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「憲法変遷論」の思考(石井)

 ここで注目を要するのが、否定説に対して橋本が、「憲法の条項の客観的意味が永久に不

変不動であると考えることは、憲法の条項の意味の認識として明らかに誤りである」24と

いう批判をしていることである。この批判の妥当性は兎も角、ここに表れているように、

憲法の変遷の議論の背景・根本には、憲法をどのようなものとして理解するかという点に

おいて違いがありそうである25。そこで、以下では、高橋に倣い、従来の学説と橋本説と

の違いを手がかりに、法をどのようなものとして理解するかという思考様式の違いによっ

て変遷論の位置づけがどのように異なっているか検討していきたいと思う。

腫 変遷論の思考様式一憲法解釈のザ粋」26

1.高橋和之の整理

(わ一a=憲法解釈の『粋』を認める思考

 高橋和之は、「憲法変遷の間題を考える前提として、従来、憲法条文の意味の解釈には一

定の客観的な『枠』があると考えられてきた」として、「憲法法源」の変遷、解釈基準の変

遷、規範の改廃という従来の変遷論にしろ、橋本のいう「条文の意味の変化」という変遷

論にしろ、そこでは変遷する前にいったん解釈基準が存在することが前提とされている点

で共通していることを指摘する。予め存在しているとされるこの解釈規準を「憲法解釈の

『枠』」として、高橋は混乱した論争の整理を以下のように試みている。

 従来の学説は、その解釈の「枠」が不変不動のものであると理解しているのに対し、橋

本は「枠」を動きうるものと理解する点で異なっている。この違いがどういつだ帰結を生

むかと言うと、従来の学説では「枠」を固定して考えるために、「枠」内の解釈か、それと

も「枠」を超えた解釈かということが問題とされ、憲法変遷とは「枠」外の変遷と考えら

れている。このため、「枠」外の憲法慣習が成文の憲法規定に対して改廃力をもっかという

間題がまず生じ、改廃力があるとする肯定説は「国民の法的確信」、「社会意識などとい

ったものによってその根拠付けを行うことになる。

 一方、ヂ枠」は存在するが、動きうるとする橋本説では、憲法変遷とはヂ枠」自体の変遷

のことをいうため、憲法条項の改廃、即ち、憲法法源の変遷という闇題とは無関係という

24@橋本・前掲注1!)・11順。宮沢があげた例に加え、橋本は、ニュー・ディール立法の違憲性が問題と

  なった際に、「保守派の裁判官たちは、社会が変わっても憲法は変わらないと信じ、進歩的な自由派の

 裁判転たちは、社会が変われば憲法も変わると信じて、両者の見解が対立した」が、「国民の大多数が

  ローズヴェルトの施策を支持する情勢のもとで、結局、玉高裁判所の劇的な屈服によって、一九三七

 年以降憲法解釈が改められ、憲法の条項に新しい意味が認められた」ことを例に挙げている。同・110

  頁一!!!頁、同・前掲注23)48頁。

25@高橋は、科学と解釈学の区別の観点からも、結局、「『法とは何か』と間われたときに、その「法」と

  いう観念のもとで何を理解するかの論題である」と指摘している。同・前掲注6)・58頁。26@以下、高橋・前掲註22)を参照。

一23

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ことになり、また、これを認めない。憲法実例が「枠」を越えれば、酔」が変動してそれ

を「枠」内に取り込むに至らない限り、それは違憲であり続けるものとし、「枠」の変動、

即ち、橋本のいう憲法変遷は、最高裁判所の判例によって起こるものとされる。しかし、

それだけでは足りず、その実例がかつては「枠」を越えるものであったが、今では「枠」

内と解しうるという点については、ここでも従来の学説と同様に「社会的規範意識(国民

の法的確信ないしは民衆の同意)」を必要とするのである。

(唱)一b:検討

 ここまでを踏まえて、まず、橋本説も含めた肯定説と、それから否定説とでは、憲法解

釈の対象をどのように捉えるかという点に違いがあり、これを否定説は正文の意味、即ち

成文憲法のみとするのに対し、肯定説は社会意識の内容までをも含むとしていることが注

目される27。

 次に、従来の肯定説も橋本説も一様に、「国民の同意」や「法的確信」といったものを主

張の根拠付けに用いている点を採り上げたい。この点、橋本が、「およそ法を法たらしめる

ものは何かといえば、社会的規範意識が法を法規範であると認めることにあるから」28と述

べているように、法の効力を国民の法意識の在り処に求めることに起因しているようだ29。

これに対しては、社会的規範意識次第で憲法の規定の意味がどうにでも変わりうるものと

いうことになり、制定憲法の存在理由がほとんどなくなってしまうとの安易な批判もでき

そうではあるが、それ以前に、そのような国民の法意識とは一体どのようにして捉えうる

ものなのかという疑問が直ちに生じる。国民が同意するといっても、それは無抵抗であっ

たり、明示には反対しないという沈黙であったりと、言わば消極的な意味での同意しか捉

えられないのではないだろうか。これに関して、「憲法の場合は受寄者が国家機関であり憲

法実例の素材自体が国家機関によって作られるものだけに、それに対する『民衆の承認』

ないし『国民の合意』は追従的性格のものになりやすく、したがって『実効憲法を受動的

に追認するものに傾き易い』」ため、「眠衆の承認』を実質的な正当性根拠とする」のは、

「きわめて楽観的」であるという樋口の指摘30に同感する。

 ところで、このような根拠付けは、慣習法成立の要件とされている①心理的要素《a鷺i憩us》

=民衆の同意ないし承認、②物的要素《cor碑S》瓢判決のうち、①に決定的な役割を与え

27

8Q)

30

参照、粕谷友介「わが国における憲法変遷論の批判的考察一憲法変遷の前提問題(憲法変遷の意味)

の究明一3完」上智法学論集20巻2号(1977年)59頁以下。

橋本・前掲注11)112頁。

このような考え方は、美濃部にもみられ、「法が法たる力を有するのも…社会の人々の一一般心理に於い

て、之を破るべからざる意思及利益の規律であると意識してみる為でなければならぬ」という。美濃

部『法の本質』佃本評論社・1948年)108頁。

樋口陽一「『憲法慣習』の観念についての再論・2」法律時報47巻8号(1975年)/23頁。

24

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「憲法変遷論」の思考(石井)

ているものとみることができる。そこでは、国民の憲法制定権がその正当性を担うシンボ

ルとして主張され、これが、フランスにおいて「憲法慣習coutu搬e constit就ionnelle」

という言葉で説かれてきたものに相当するものであると樋口が指摘した事柄である31。

(2) 憲法解釈の「枠」を認めない思考

 次に、「枠」はないという見解を検討するが、そもそも制定法は所与のものとして客観的

な認識・記述の対象となりうるのだろうか。

 この間いに対して、「そもそも『実体法』自体の客観的な意義内容は存在しえないのであ

って、ひとびとによってそれぞれに認定・解釈されたものがそのときどきに存在しうるに

すぎず、それがまさに『実体法』の『流動的な内容』として認識される」という趣旨に考

えると、「憲法の意味は法律という形で具体化されてはじめて認識」可能であり、「法律の

意味は判決という形で具体化されてはじめて認識できる」ということになる32。即ち、実

体法の認識が不能というのではなくて、流動的な内容のものとしてのみ認識可能というの

である。この考え方は、ケルゼンに示唆を求めながら長尾龍一が展開した「裏からの授権」

33_に結びつく。これは、下位規範による上位規範の纂奪、即ち憲法不適合の法律が法律

として有効であることをどう説明するかというレベルの話で、規範違反の規範はありえな

いとの純粋法学的観点からは、違憲の実例が法的に有効なものと通用しているという変遷

論の前提自体が矛盾であるという批判が成り立つことになる。「この立場によれば、違憲で

あってしかも有効な法はありえず、また、有効な法が違憲であることもありえない」。つま

り、「法的に有効なものとして通用している国家行為は違憲ではな」く、開法の規定の直

接の文言に反する」と思われるような「国家行為が最終的有権解釈権者によって無効とさ

れるまでは、ひとまず、そして、最終的有権解釈権者によって合憲とされたならば、確定

的に、法的に有効なものとして通用する」ことになる3窪。このことはつまり、上位規範が

「表向きは内容的制限内の規範設定のみを下位機関に授権しているように装いながら実は

内容的制限外の規範設定をも」最終的有権解釈権者に憲法自身が「裏から授権しているこ

とを意味する」35。

3王

@樋口・前掲注5)・30頁。32 @樋口陽一一「『憲法慣習』の観念についての再論・3完」法律時報47巻9号(1975年)138頁以下。ここ

  で樋口は、藤田宙靖の「流動的実体法論を参照しつつ、上位規範に反すると考えられる下位規範が

  それにも関わらず、なお法であることをどう説明するかということに関しての検討を行っている。藤

  田の「流動的実体法論」については、同「柳瀬良幹博士の行政法学」小嶋和司ほか『行政行為と憲法:

 柳瀬博士東北大学退職記念』(有斐閣・圭972年)。33@長尾龍一一の表現。同「法理論における真理と価値(四)」国家学界雑誌78巻9号(1965年)!!6頁。34@浦部法王「『憲法変遷』について」現代憲法学研究会『現代国家と憲法の原理』(有斐閣・1983年)368

  頁。

35@樋口・前掲注32)・130頁。

25

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 ここで、この「裏からの授櫓論を、俵向きの授権」がどのようなものか確定不能で、

「『裏からの授権』によるものを含めた法定立のプロセスで内容が充填されて初めて規範の

意味がわかる」という趣旨に捉えると36、「そのときどきの憲法適用者の手にかかったのち

になってはじめて制定憲法の意味するところがわかる」のであって、「制定憲法自体がもと

もとたえず変動する性質のもの」ということになる。そうすると、全ては憲法が当然に予

定する事態であって、「憲法不適合」という言い方自体成り立たず、また、「変遷」も生じ

ないことになる。即ち、従来の学説が、「変遷」というからには最初の出発点として一定の

規範意味や「枠」があることを想定しているのに対し、この考え方では「『変遷』の起点と

なりうるような制定法そのものの意味が想定できない」ため、通常言われるところの変遷

論以上に「ラディカルに変動を承認する」ものになるとして、樋口はこれを「超・変遷論」

と呼ぶ37。38

 同じくケルゼンを突き詰めたフランスのミシェル・トロペールは、制定法は「裁判官の

介入があるまでは、真の意味をも偽の意味をも持た」ず、「適用されるべき規範(捻orme)

は存在せず」、ただ「条文(texte)があるだけだ」と解する。ここでは、「有権的解釈権者

は制定法の『被規制者』ではな」く、制定憲法に一つの意味を与え、そのことを通じて規

範の客観的意味を制定法に授けるのは、有権的解釈権者ということになる39。

 このように、憲法解釈の「枠」はないと考えることは、慣習法の二要素のうち、②物的

要素《corPUS》に徹することになる。最高裁判所の判決を変遷の担い手とする点では

《corpus》に近いともいえる橋本説が、結局、国民の同意《animus》に根拠を求めるよう

に、国民の憲法制定権としてその正当性を主張しやすい《animus》とは異なり、裁判官の

憲法制定権に到達する《cor碑s》は、これだけでは正当性を欠くことになるという批判も

考えうる。しかし、トロペールは、「最上級裁判所はいかなる法規範によっても拘束されて

いない」というに止まり、「いかなる意味でも自由に決定を行うわけではな」く、「むしろ

他の国家機関に比べると、裁判所の活動への実際上の制約は大きい」と主張する40。

36

78

QVO

これを確定できるとするのが、先述した「憲法解釈の『枠』を認める思考」であり、規範の意味、即

ち「表向きの授権」がどんなものかしめされているのに、何故それに反する実例が優位するのか、取

って代わるのかという問題が生じ、そこで心理的要素《ani拠us》による根拠付けがなされることとなる。

樋口・前掲注32)・138頁。

阪本昌成は、従来の憲法変遷論を批判するにあたって、これが「『ある国家機関の行為が違憲である』

ことを前提にして、『違憲事実の集積が憲法典を破るか』」という風に問題を設定するのは、「論者の思

考からみて違憲であるとの前提に立っている点で結論先取りの論であると述べているが、ここでの

思考様式と接近するものであるように思われる。阪本・前掲注19)・!27頁一128頁。

樋口・前掲注5)・29頁。

長谷部恭男『権力への懐疑』旧本評論社・!991年)!1頁。これに関連して、南野森「憲法・憲法解釈・

憲法学」安西文雄ほか『憲法学の現代的論点』(有斐閣・2006年)3頁以下、同ヂ『憲法』の概念一そ

れを考えることの意味」長谷部恭男ほか『憲法と時間』(岩波書店・2007年)44頁以下。

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「憲法変遷論」の思考(石井)

(3)検討

 このように、解釈の「枠」をあると考えるか、それともないと考えるかによって、大き

な違いがあることがわかる。しかし、そのいずれがより好ましいか、いずれがより正当性

をもっかということは明確に決定するものではなく、ここで、まず重要なのは、この二つ

の思考様式を区別することであろう。そこで、この区別のもと、本稿において当初からの

問題であった解釈原理としての変遷論の是非について、以下に検討する。

 まず、解釈の「枠」はあると解すると、「国民の同意」にその根拠付けを求めることにな

るわけだが、私自身は先に述べたように、国民の合意や承認といったものは消極的な意味

においてしか認識し得ないものであるから、そうした国民の同意を根拠に法源の変遷なり、

意味の変遷なりを認めるという議論自体に疑いの念を抱かざるを得ない。また、仮にこの

根拠が一応成り立つとしても、この点に関して、浦部や高橋が、実例に対して国民が全面

的に同意しているのであれば、当該実例はそもそも初めから客観的には違憲ではなかった

ということを意味するにすぎないというような指摘をしているように姐2、当該実例が違

憲であるなどと問題視する意識が最早なくなっている状態においては、ただその事実のみ

を記述し、確認すれば足りるであろう。そして、この《ani孤us》重視型の理論から言えば、

そのような実例はそのまま実定憲法をなすのであるから、わざわざ解釈論理として変遷論

を持ち出す必要はないことになるのではないだろうか。

 一方、解釈の「枠」はないと考えると、そもそも「変遷」をいう起点がない以上、憲法

規範と実例との整合性を解釈する必要はないことになり、ここでもまた、変遷論の必要性

が疑われる。

2.変遷論の意義?

 それでは、変遷論が解釈論理として必要となるのはどういう場合か。

 それは、解釈の「枠」はあるという思考様式をとり、しかし、そうした考えをする立場

にとって根拠付けに必要な国民の同意や法的確信がはっきりとは存在しない場合に、制定

憲法との整合性を主張することが困難な実例、つまり、その「枠」に照らして違憲と思わ

れる実例を、憲法が変遷したから合憲なのだとして正当化するための根拠付けの道具とし

て用いられる場面においてのみということになるだろう43。

 日本において憲法変遷論が議論される現実的場面というのは、他ならぬ9条の問題であ

る。政府が様々な解釈を行って、いわゆる解釈改憲」を推し進めているが、正当化の道

具として憲法変遷論(「自衛隊は当初は違憲だったが、憲法変遷が生じて合憲に転化した」

41@浦部・前掲注34)・383頁。42@高橋・前掲注23)・55頁。43@高橋・前掲注23)・55頁。

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など)がここで主張できるのなら、9条について苦しい解釈を講ずることも、憲法改正に

向けて方策を講ずる必要もないことになる44。このように、解釈の粋」があるという考

えから憲法変遷論を解釈として用いることには、違憲の現実を安易に正当化するための道

具として利用されるという危険性が伴っているのであり、この点を否定説は勿論のこと、

肯定説も共に認めるところとされる45。そうだとすると、解釈論として憲法変遷論を用い

ることには然程意味が無いばかりか、寧ろそこには危険だけが伴うことになる。

 その中で、橋本が1980年にその著書『日本国憲法』において、国際情勢および目凹の国

際的地位の変化と国民の規範意識の変化を理由に、「九条の意味の変遷を認めざるをえな

い」46と述べたことは驚きに値する。橋本はこれによって、二巴の解釈が暴走することの

ないようにこれに歯止めをかけることとした」47と主張している。「解釈改憲」の是非につ

いてはここでは措くとして、この意図は、解釈の「枠」はあるという思考のもと「枠」を

守ることに躍起になったかのような、些か近視眼的なものであるように思われる。このよ

うに考えると、結局、解釈論として憲法変遷を用いることによる危険とは、本来、その主

張の前提にあるはずの、ある一定の「枠」が被るものなのかもしれず、そうすると本末転

倒な話である。

 一方で、時代の流れ、社会の移り変わりによって不可避的に生じる法と規範とのズレを

捉える「法社会学的意味における憲法変遷」などと呼ばれるものについては、つまるとこ

ろ、事実として不可避的に生じるということを述べ、その事実を記述するに過ぎず、また、

それに尽きて良いはずのものである。解釈の「枠」についてどう考えるかに関わらず、解

釈論と混乱して扱われている場合に、これを整理する目的で用いることを除いては、この

事実をわざわざ「憲法変遷」と呼んでいく必要性もまた然程ないのではないだろうか。

騨 おわりに

 本稿は、憲法変遷とは一体、何の問題か、これを認める意義や実益はあるのかという問

題意識から出発し、ここまで憲法変遷をめぐる議論の根底にあると思われる解釈に関する

思考の違いを不十分ではあるが、整理してきた。ここでの結論としては、解釈原理として

の憲法変遷論は、解釈の「禰があるとする思考様式においては、違憲の憲法実例を恣意

的に正当化していくための道具として使われる危険性がある故に認めることはできない。

一方、解釈の「枠」がないとする思考様式においては、変遷をいう始点がない以上、その

44

45 46

  47

9条をめぐる憲法改正の動きについては、畠基晃『憲法9条:研究と議論の最前線』(青林書院・2006

年)158頁ヨ61頁を参照。

浦部・前掲注34)・359頁。

橋本・前掲注23)430頁一43!頁。

同上・432頁。

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r憲法変遷論」の思考(石井)

必要性が全く認められないということになる。

 ところで、残された検討課題は、解釈原理としての憲法変遷論の是非を検討する際には

措いていた、解釈の「枠」はあるとするか、ないとするかの選択である。これは解釈の問

題である以上、どちらが正しく、どちらが間違いであるというようなことは言えないであ

ろう。ただ、私見としては、解釈の「枠」はないとする考え方を今のところ選択したい。

 およそ解釈というものの性質上、そこに如何なる法律や事実、或いは「枠」が何らかの

規準として存在しているとしても、また、その存在を認めるとしても、結局その先にある

のは解釈者自身の価値判断である。価値判断であることに、解釈の「枠」をあるとしても

ないとしても、変わりはないであろう。そうすると、先に解釈原理としての憲法変遷論が

恣意的に使われる危険性を指摘したが、解釈それ自体、そもそも恣意的に行われる可能性

一或いは、危険性一が拭い切れないものではないだろうか。解釈に「枠」があるとする立

場が変遷論において冒しかねない正当化の危険とは、「枠」があるとすることで自己の解釈

への僅かながらの抑制としながら、しかし、それよりもこうした解釈の危うさを隠すもの

としての働きのほうがより強いと思われる。解釈は解釈として、その価値も危険性も他者

の目に晒されて然るべきではないか。

 その意味で私が選択したい、解釈に「枠」がないとする見方は、一般的に議論されてい

る変遷論に修正を迫ることになるという点でも非常に興味深いものであったが、しかし、

そうした修正も、憲法解釈をめぐる場面や、憲法そのものの検討においては有用に為り得

ても、解釈論としての変遷論それ自体の意義を高めることにはやはりならないだろう。

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