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大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授 宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉の一考察 ―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に― A Study of "self-consciousness differences" investigated the protagonists in Kenji Miyazawa's fairy tales during his service in the Hanamaki Agricultural School, including "Flandon-nogattuko no Buta" "Kiiro no Tomato" "Tsuchigami to kitsune" "Otsuberu To Zo" "Neko no jimusho" 研究生:張策 撰 中華民國 106 年 7 月
111

東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of

Jan 22, 2021

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Page 1: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

東吳大學日本語文学系碩士論文

指導教授張桂娥 教授

宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

A Study of self-consciousness differences investigated the

protagonists in Kenji Miyazawas fairy tales during his

service in the Hanamaki Agricultural School including

Flandon-nogattuko no Buta Kiiro no Tomato Tsuchigami to

kitsune Otsuberu To Zo Neko no jimusho

研究生張策 撰

中華民國 106 年 7 月

摘要

宮澤賢治是創作〈歐茨貝爾與象〉和〈貓的事務所〉等收錄在日

本國文課本的知名作品也是日本最知名的兒童文學作家之一

筆者受到發生在宮澤賢治的花卷農業學校任教時期與同事奧寺五

郎之間糾紛所啟發產生了作者是否在受到奧寺的話語衝擊而受傷

和從這場糾紛中所見因他人行為而形成「自我意識的分歧」現象是否

有反映在作品當中等疑問筆者調查宮澤賢治在花卷農業學校任教時

期撰寫的作品時發現在〈富蘭頓農校的豬〉〈黃色番茄〉〈土

地神與狐狸〉〈歐茨貝爾與象〉和〈貓的事務所〉等5篇作品的主

角皆有受到他人行為影響造成了因「自我意識的分歧」而挫傷的經

驗筆者將這5篇作品列為本論文的研究範圍

本論文將會以5篇童話主角「自我意識的分歧」所造成的悲劇為

中心考察5篇童話主角和其他登場角色的互動演變釐清主角和其

他登場角色之間的關係解開主角們悲劇背後的原因與背景

本論文的結構方面第2章至第6章會考察5篇童話主角和其他

登場角色的互動演變釐清主角們和其他登場角色之間的關係並論

述主角們悲劇背後的原因與背景第7章則會整理5篇童話主角「自

我意識的分歧」成立背後的原因與背景並闡述筆者的意見透過本

論文的考察能夠解開宮澤賢治在花卷農業學校任教時期撰寫這 5篇

童話主角「自我意識的分歧」所造成的悲劇機制中所隱含的寓意

關鍵字宮澤賢治花卷農業學校時代自我意識的分歧悲劇

Abstract

Kenji Miyazawa is the author of ltOtsuberu to Zogt ltNeko

no jimushogt and other well-known works including Japanese

textbooks He is known as one of the most famous childrens

literature writer in Japan

Inspired by the conflict between Kenji Miyazawa and his

colleague Gorocirc Okutera when they taught in the Hanamaki

Agricultural School my thesis started with the proposition

that Miyazawa was psychologically impacted by the word

choice of Mahyama during their verbal conflict I became

interested to know whether the disputes had made Miyazawa

a self-conscious divergence I investigated the works

written by Kenji Miyazawa in the Hanamaki Agricultural

School finding that the author had been affected by the

behavior of others resulting in self-consciousness

differences and the experience of injury in five works

included ltFlandon-nogattuko no Butagt ltKiiro no Tomatogt

ltTsuchigami to kitsunegt ltOtsuberu To Zogt and ltNeko no

jimushogt So I listed these five works as the research

scope of this study

This study will focus on the tragedy of these fairy

tales caused by self-consciousness differences Through

examining the interaction of protagonist and other debut

characters clarified the relationship between them and

solved the reasons and background behind the tragedy

The structure of this study was examined the interaction

of protagonist and other debut characters clarified the

relationship between them and solved the reasons and

background behind the tragedy in chapter 2 to chapter 6

and then organized the reasons and background behind the

formation of self-consciousness differences and

elaborated my opinion in chapter 7

Keyword Kenji Miyazawa Hanamaki Agricultural School era

self-consciousness differences tragedy

宮沢賢治の童話に見られる主人公の

〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

目次

第一章 序論

11 研究動機helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip1

12 先行研究helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip8

13 研究内容及び研究方法helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip16

第二章 「フランドン農学校の豚」に見られる

豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚と農学校の人間との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip19

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip25

23 豚の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip29

第三章 「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphellip33

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

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西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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pp111-115)

岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

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工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

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土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

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201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

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村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 2: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

摘要

宮澤賢治是創作〈歐茨貝爾與象〉和〈貓的事務所〉等收錄在日

本國文課本的知名作品也是日本最知名的兒童文學作家之一

筆者受到發生在宮澤賢治的花卷農業學校任教時期與同事奧寺五

郎之間糾紛所啟發產生了作者是否在受到奧寺的話語衝擊而受傷

和從這場糾紛中所見因他人行為而形成「自我意識的分歧」現象是否

有反映在作品當中等疑問筆者調查宮澤賢治在花卷農業學校任教時

期撰寫的作品時發現在〈富蘭頓農校的豬〉〈黃色番茄〉〈土

地神與狐狸〉〈歐茨貝爾與象〉和〈貓的事務所〉等5篇作品的主

角皆有受到他人行為影響造成了因「自我意識的分歧」而挫傷的經

驗筆者將這5篇作品列為本論文的研究範圍

本論文將會以5篇童話主角「自我意識的分歧」所造成的悲劇為

中心考察5篇童話主角和其他登場角色的互動演變釐清主角和其

他登場角色之間的關係解開主角們悲劇背後的原因與背景

本論文的結構方面第2章至第6章會考察5篇童話主角和其他

登場角色的互動演變釐清主角們和其他登場角色之間的關係並論

述主角們悲劇背後的原因與背景第7章則會整理5篇童話主角「自

我意識的分歧」成立背後的原因與背景並闡述筆者的意見透過本

論文的考察能夠解開宮澤賢治在花卷農業學校任教時期撰寫這 5篇

童話主角「自我意識的分歧」所造成的悲劇機制中所隱含的寓意

關鍵字宮澤賢治花卷農業學校時代自我意識的分歧悲劇

Abstract

Kenji Miyazawa is the author of ltOtsuberu to Zogt ltNeko

no jimushogt and other well-known works including Japanese

textbooks He is known as one of the most famous childrens

literature writer in Japan

Inspired by the conflict between Kenji Miyazawa and his

colleague Gorocirc Okutera when they taught in the Hanamaki

Agricultural School my thesis started with the proposition

that Miyazawa was psychologically impacted by the word

choice of Mahyama during their verbal conflict I became

interested to know whether the disputes had made Miyazawa

a self-conscious divergence I investigated the works

written by Kenji Miyazawa in the Hanamaki Agricultural

School finding that the author had been affected by the

behavior of others resulting in self-consciousness

differences and the experience of injury in five works

included ltFlandon-nogattuko no Butagt ltKiiro no Tomatogt

ltTsuchigami to kitsunegt ltOtsuberu To Zogt and ltNeko no

jimushogt So I listed these five works as the research

scope of this study

This study will focus on the tragedy of these fairy

tales caused by self-consciousness differences Through

examining the interaction of protagonist and other debut

characters clarified the relationship between them and

solved the reasons and background behind the tragedy

The structure of this study was examined the interaction

of protagonist and other debut characters clarified the

relationship between them and solved the reasons and

background behind the tragedy in chapter 2 to chapter 6

and then organized the reasons and background behind the

formation of self-consciousness differences and

elaborated my opinion in chapter 7

Keyword Kenji Miyazawa Hanamaki Agricultural School era

self-consciousness differences tragedy

宮沢賢治の童話に見られる主人公の

〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

目次

第一章 序論

11 研究動機helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip1

12 先行研究helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip8

13 研究内容及び研究方法helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip16

第二章 「フランドン農学校の豚」に見られる

豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚と農学校の人間との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip19

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip25

23 豚の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip29

第三章 「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphellip33

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

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工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

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83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

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高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

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黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

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農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

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第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

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ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

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Page 3: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

Abstract

Kenji Miyazawa is the author of ltOtsuberu to Zogt ltNeko

no jimushogt and other well-known works including Japanese

textbooks He is known as one of the most famous childrens

literature writer in Japan

Inspired by the conflict between Kenji Miyazawa and his

colleague Gorocirc Okutera when they taught in the Hanamaki

Agricultural School my thesis started with the proposition

that Miyazawa was psychologically impacted by the word

choice of Mahyama during their verbal conflict I became

interested to know whether the disputes had made Miyazawa

a self-conscious divergence I investigated the works

written by Kenji Miyazawa in the Hanamaki Agricultural

School finding that the author had been affected by the

behavior of others resulting in self-consciousness

differences and the experience of injury in five works

included ltFlandon-nogattuko no Butagt ltKiiro no Tomatogt

ltTsuchigami to kitsunegt ltOtsuberu To Zogt and ltNeko no

jimushogt So I listed these five works as the research

scope of this study

This study will focus on the tragedy of these fairy

tales caused by self-consciousness differences Through

examining the interaction of protagonist and other debut

characters clarified the relationship between them and

solved the reasons and background behind the tragedy

The structure of this study was examined the interaction

of protagonist and other debut characters clarified the

relationship between them and solved the reasons and

background behind the tragedy in chapter 2 to chapter 6

and then organized the reasons and background behind the

formation of self-consciousness differences and

elaborated my opinion in chapter 7

Keyword Kenji Miyazawa Hanamaki Agricultural School era

self-consciousness differences tragedy

宮沢賢治の童話に見られる主人公の

〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

目次

第一章 序論

11 研究動機helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip1

12 先行研究helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip8

13 研究内容及び研究方法helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip16

第二章 「フランドン農学校の豚」に見られる

豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚と農学校の人間との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip19

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip25

23 豚の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip29

第三章 「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphellip33

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

かりに 」(『国文学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂

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岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

160)

工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

タンス」(『国文学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

子大学光葉会pp29-44)

米村みゆき(2009)「不正直な狐退職教授としての

土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

第 6 号 至文堂pp135-139)

102

小林俊子(2009)「『オツベルと象』―発表された物語」

(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 4: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

examining the interaction of protagonist and other debut

characters clarified the relationship between them and

solved the reasons and background behind the tragedy

The structure of this study was examined the interaction

of protagonist and other debut characters clarified the

relationship between them and solved the reasons and

background behind the tragedy in chapter 2 to chapter 6

and then organized the reasons and background behind the

formation of self-consciousness differences and

elaborated my opinion in chapter 7

Keyword Kenji Miyazawa Hanamaki Agricultural School era

self-consciousness differences tragedy

宮沢賢治の童話に見られる主人公の

〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

目次

第一章 序論

11 研究動機helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip1

12 先行研究helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip8

13 研究内容及び研究方法helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip16

第二章 「フランドン農学校の豚」に見られる

豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚と農学校の人間との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip19

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip25

23 豚の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip29

第三章 「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphellip33

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

門倉昭治(1954)「宮沢賢治作『オッペルと象』の讀み方」

(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

かりに 」(『国文学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂

pp111-115)

岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

160)

工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

タンス」(『国文学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

子大学光葉会pp29-44)

米村みゆき(2009)「不正直な狐退職教授としての

土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

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小林俊子(2009)「『オツベルと象』―発表された物語」

(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 5: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

宮沢賢治の童話に見られる主人公の

〈自己認識のずれ〉の一考察

―花巻農学校時代童話作品「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマ

ト」「土神ときつね」「オツベルと象」「猫の事務所」を中心に―

目次

第一章 序論

11 研究動機helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip1

12 先行研究helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip8

13 研究内容及び研究方法helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip16

第二章 「フランドン農学校の豚」に見られる

豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚と農学校の人間との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip19

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip25

23 豚の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip29

第三章 「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphellip33

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

門倉昭治(1954)「宮沢賢治作『オッペルと象』の讀み方」

(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

かりに 」(『国文学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂

pp111-115)

岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

160)

工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

タンス」(『国文学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂

pp88-91)

遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

子大学光葉会pp29-44)

米村みゆき(2009)「不正直な狐退職教授としての

土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

第 6 号 至文堂pp135-139)

102

小林俊子(2009)「『オツベルと象』―発表された物語」

(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 6: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphellip

helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip37

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズ

ムhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip41

第四章 「土神ときつね」に見られる

土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方 helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip46

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip54

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip59

第五章 「オツベルと象」に見られる

白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip62

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip70

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphellip74

第六章 「猫の事務所」に見られる

かま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip77

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運helliphelliphelliphelliphelliphelliphellip82

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムhelliphelliphelliphellip86

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

門倉昭治(1954)「宮沢賢治作『オッペルと象』の讀み方」

(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

かりに 」(『国文学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂

pp111-115)

岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

160)

工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

タンス」(『国文学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂

pp88-91)

遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

子大学光葉会pp29-44)

米村みゆき(2009)「不正直な狐退職教授としての

土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

第 6 号 至文堂pp135-139)

102

小林俊子(2009)「『オツベルと象』―発表された物語」

(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 7: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

第七章 結論helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip89

付録

テクストhelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

参考文献helliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphelliphellip96

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフhelliphellip3

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズムhelliphelliphelliphelliphelliphellip95

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

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萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

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萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

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文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

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鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

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黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

160)

工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

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島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

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土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

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(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

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ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

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Page 8: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

1

第一章 序論

11 研究動機

宮沢賢治は「オツベルと象」(『月曜』創刊号1926 年)

「猫の事務所」(『月曜』三月号1926 年)など国語の教科書に載

っている作品を生み出した日本でもっとも注目される児童文学作家

の一人である宮沢賢治の生涯について堀尾青史は『年譜 宮澤

賢治伝』で「小学校時代」(1896 年 8 月 27 日から 1909 年 3 月ま

で)「盛岡中学校時代」(1909 年 3 月 31 日から 1914 年 9 月ま

で)「盛岡高等農林学校時代と出京」(1915年 4月 6日から 1921

年 12 月 3 日まで)「花巻農学校時代」(1921 年 12 月 3 日から

1926年 3月)「羅須地人協会時代」(1926月 3月 31日から 1930

年 4 月 8 日まで)「東北砕石工場時代」(1930 年 4 月 12 日から

1932 年 12 月 28 日まで)「終焉」(1933 年 1 月 1 日から 9 月 21

日)と時期区分している1

中でも筆者が興味を持っているのは花巻農学校時代のあるエピ

ソードである宮沢賢治の農学校同僚である奥寺五郎が結核を病み

1923 年 12 月に退職したものの退職後は無収入であるため宮沢

賢治は毎月月給 80 円から 30 円を奥寺に届けていたという「奥

寺へ三十円生徒への援助レコード本浮世絵その他使うこ

とはいっぱいあってといてい月給ではたりなかった」 2という事態

1 堀尾青史(1991)「目次」『年譜 宮澤賢治伝』中央公論社の「目次」ペー

ジで示された章名による時期区分である 2 同前掲堀尾青史(1991)p244

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

門倉昭治(1954)「宮沢賢治作『オッペルと象』の讀み方」

(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

pp19-26)

黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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pp111-115)

岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

(『国文学解釈と鑑賞』第 68 巻第 9 号 至文堂pp155-

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工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のス

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

hellipある語り手のもの語るhelliphellip」(『学苑』第 804 号 昭和女

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土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

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(『国文学解釈と鑑賞 』第 74 巻第 6 号 至文堂pp197-

201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 9: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

2

になった宮沢賢治の奥寺への支援が大きいであると言えるであろ

しかし1 年ほどの宮沢賢治の支援を受けた奥寺は「きっと名を

売るためにそんなことをしているのではないか」 3と思って宮沢

賢治の支援に対し「宮澤さんあなたが善行をしているという自

己満足のために私を助けるのだったらやめてください」4と固辞

し宮沢賢治の支援を受け入れなかったというエピソードである

奥寺の言葉を受けた宮沢賢治は「困惑と失望とで『やあそう思わ

れては困ります』と言ったきり後にことばもなく帰って来ました」

5という

奥寺に断られた後宮沢賢治は農学校の同僚である堀籠文之進に

頼んでその後は堀籠の名で奥寺へのお金を届けてもらったという

エピソード6もあるが妹のトシと同じ病気にかかった同僚を心底

心配している宮沢賢治からして見れば奥寺の批判的な言葉でひど

く傷つけられるほどの衝撃を受けたのではないかと思わず疑問に思

ったわけであるエピソードから見られる他人の行為による〈自己

認識のずれ〉は作品中に反映されるかどうか疑問である

こうした疑問を念頭におきながら筆者は宮沢賢治が花巻農学校

時代に執筆した 54 編の童話作品の主題モチーフについて調べて

見たその結果4 つのグループに分けられることがわかった

A グループ作者の自然観道徳観宗教観という作者の思想と

関わる作品である

3 佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』冨山房p134 4 同前掲堀尾青史(1991)p245 5 同前掲佐藤隆房(1996)p134 6 同前掲佐藤隆房(1996)p134

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

門倉昭治(1954)「宮沢賢治作『オッペルと象』の讀み方」

(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

会pp30-34)

牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

の事務所』の読みを通して」(『日本文学』第 44 巻第 8 号

日本文学協会pp53-62)

工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

(『国文学解釈と鑑賞』第 61 巻第 11 号 至文堂pp79-

83)

島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」(『国文学解釈と

鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

(『国際地域学研究』第 3 号 東洋大学国際地域学部

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黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

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工藤哲夫(2003)「『オツベルと象』の象又は白象」(女

子大国文第 134 号 京都女子大学国文学会 pp44-60)

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遠藤祐(2007)「〈かま猫〉と『猫の事務所』のなりゆきhellip

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土神--『土神ときつね』 」(『国文学解釈と鑑賞』第 74 巻

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中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン

農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 10: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

3

B グループ山男や座敷童子など民話関連の作品である

C グループ作者の教師生活の体験に基づく作品である

D グループ主人公の〈自己認識のずれ〉に関わる作品である

各作品の主題モチーフについての説明と分類結果を次の表 1 に

まとめてみた

表 1 花巻農学校時代に執筆した童話作品の主題モチーフ

番号 執筆時期 作品名 主題モチーフ 分類

1 1921 年

12 月 21 日 烏の北斗七星 自己犠牲 A

2 1922 年

1 月 1 日 雪渡り 信頼と誠実 A

3 1922 年

1 月 19 日 水仙月の四日 生と死 A

4 1922 年

4 月 7 日 山男の四月 山男伝説の伝承 B

5 1922 年 5

イーハトーボ農学

校の春 農学校の実体験 C

6

1922 年 7

月中旬~下

毒蛾 権力を持つ人へ

の諷刺 A

7 1922 年

初夏頃 台川 農学校の実体験 C

8 1922 年

8 月 9 日 イギリス海岸 農学校の実体験 C

9 1922 年

8 月頃 化物丁場 労働者の思い A

10 1922 年

10 月 5 日

まなづるとダァリ

ア 自慢の結末 A

11

1922 年冬

~1923 年

晩夏

フランドン農学校

の豚 自己認識のずれ D

12 1922 年 みあげた 西域異聞 A

13 1922 年 あけがた 被害妄想 A

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

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牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

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工藤哲夫(1996)「『黄いろのトマト』lt二人だけgtの世界」

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島村輝(1996)「『土神ときつね』」 (『国文学解釈と鑑

賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

101

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鑑賞』第 65 巻第 2 号 至文堂pp66-71)

高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』

異読―『白象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」

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黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛

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岡澤敏男(2003)「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」

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201)

中村龍一(2011)「物語と語り手の相克―〈金色の獅子〉は

なぜ語られたか」(『国文学 解釈と鑑賞 』第 76 巻第 7 号

至文堂pp154-162)

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農学校の豚』をめぐって」(『海保大研究報告』第 56 巻

第 2 号 海上保安大学校pp23-52)

牛山恵(2012)「『土神ときつね』を読む」(『日本文学 』

第 61 巻第 2 号 日本文学協会pp86-90)

秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』

をめぐって 」(『海保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保

安大学校 pp1-30)

村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神

ときつね』論―」(『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学

国文学研究室pp49-64)

Page 11: 東吳大學日本語文学系碩士論文 指導教授:張桂娥 教授163.14.136.66:8080/ir/bitstream/987654321/17741/1/105SCU...Kenji Miyazawa is the author of <Otsuberu to

4

14 1922 年

花椰菜 役人と農民との

関係 A

15 1922 年 畑のへり 人間への怯え A

16 1923 年

4 月 8 日 やまなし 子供への親の愛 A

17 1923 年

4 月 15 日 氷河鼠の毛皮

生きることの

辛さ A

18

1923 年

5 月 11 日

~23 日

シグナルとシグナ

レス 恋愛 A

19 1923 年

夏以降 さいかち淵 村童スケッチ C

20 1923 年

夏以降 サガレンと八月

人と自然との

関わり A

21 1923 年

秋頃 車 働くことの喜び A

22 1923 年

秋頃 黒ぶだう

純真と狡猾の

対照 A

23 1923 年

後半 四又の百合 西域異聞 A

24 1923 年

後半 虔十公園林 無私の精神 A

25 1923 年 インドラの網 西域異聞 A

26 1923 年 ガドルフの百合 内心の闘い A

27 1923 年 雁の童子 西域異聞 A

28 1923 年 革トランク 理想と現実の差 A

29 1923 年 黄いろのトマト 自己認識のずれ D

30 1923 年 税務署長の冒険 密造酒問題 A

31 1923 年 谷 農村少年の生活 A

32 1923 年 チュウリップの幻

術 春の風物 C

33 1923 年 土神ときつね 自己認識のずれ D

34 1923 年 鳥をとるやなぎ 自然への好奇心 A

35 1923 年 楢ノ木大学士の野

宿 地質調査の体験 A

36 1923 年 二十六夜 仏教関連の話 A

37 1923 年

バキチの仕事 仕事を続かない

人の話 A

5

38 1923 年 林の底 過労の恐ろしさ A

39 1923 年 茨海小学校 偏見への批判 A

40 1923 年 二人の役人 臆病な役人像 A

41 1923 年 マグノリアの木 西域異聞 A

42 1923 年 みぢかい木ぺん 慢心の結末 A

43 1923 年 学者アラムハラド

の見た着物 自己犠牲 A

44 1923 年 葡萄水 密造酒問題 A

45

1924 年

春頃

タネリはたしかに

いちにち噛んでゐ

たやうだった

人と自然との関

わり A

46 1924 年

12 月 1 日

『注文の多い料理

店』

風刺民話伝

承理想郷 B

47 1924 年 ビヂテリアン大祭 菜食主義 A

48 1924 年 寓話 洞熊学校を

卒業した三人 空腹による自滅 A

49 1924 年 祭の晩 山男関連の話 B

50 1924 年 毒もみのすきな署

長さん 役人への見方 A

51 1924 年 紫紺染について 山男関連の話 B

52 1926 年

1 月 1 日 オツベルと象 自己認識のずれ D

53 1926 年

2 月 1 日

ざしき童子のはな

し 民話伝承 B

54 1926 年

3 月 1 日 寓話 猫の事務所 自己認識のずれ D

出典原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書

房)佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』

(学燈社)を参照し作成

ABC グループの作品群の主題モチーフは筆者の管見の限

り他人の行為による〈自己認識のずれ〉が見当たらないため本

論文の研究範囲から外すことにする

6

D グループの「フランドン農学校の豚7」「黄いろのトマト

8」「土神ときつね9」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編

の童話の主人公10が他の登場人物の行動を受けて心の内面に湧い

てきた〈自己認識のずれ〉によって傷つけられた体験を持っている

という興味深い事実を発見したためこれらを本論文の研究範囲と

する

5 編の童話の主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運について

以下のようにまとめられる

「フランドン農学校の豚」の豚は農学校一年生の話を聞き自

分が第一流の紳士だと勘違いしてしまった結局豚の個人の意思

は学校の先生と校長に尊重されず家畜としてしか見られなかった

ため豚の〈自己認識のずれ〉を起こした

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹二人は黄色のトマト

が黄金だと思い込み2 つのトマトを入場料として払うつもりでサ

ーカスを見に行くがペムペルとネリの価値観に疑問を感じた番人

の叱りからショックを受けて〈自己認識のずれ〉が生じた兄妹二

人は泣きながらその場から逃げてしまった

「土神ときつね」の土神は自分が動植物より上位の神であると

信じ込んでいた樺の木と狐の親密そうなやりとりを目撃して

7 続橋達雄「初稿の執筆は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される」

「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治

必携』学燈社p147 8 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「黄いろのトマト」佐藤泰正編

(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社p103 9 小沢俊郎「現存草稿の執筆は大 12 か」「土神と狐」佐藤泰正編(1980)

『別册國文學宮沢賢治必携』学燈社 p129 10 本論文では「フランドン農学校の豚」の豚「黄いろのトマト」のペムペル

とネリ兄妹「土神ときつね」の土神「オツベルと象」の白象「猫の事

務所」のかま猫を主人公としている

7

〈自己認識のずれ〉を起こし精神状態が不安定になり狐への嫉

妬を抑えられず衝動的に狐を殺してしまった

「オツベルと象」の白象は最初の段階では嬉しそうにオツベル

の仕事の手伝いをするが自分の利益しか考えていなかったオツベ

ルの仕打ちに耐えられず働く喜びがなくなったという〈自己認識

のずれ〉を起こし他の象の仲間へ助けを求めるように行動せざ

るをえなかった

「猫の事務所」のかま猫は風邪で寝込んで止むを得ず 1 日だけ

欠勤した事務長の黒猫がかま猫に関する無実の噂を事実として受

け止めてしまったかま猫の生き甲斐だった仕事を取り上げられた

黒猫を信頼しているかま猫は〈自己認識のずれ〉が生じ働く意欲

がなくなった

以上の説明からこれらの童話作品の主人公が他の登場人物の行

動を受けて胸の底に沸き立ってきた〈自己認識のずれ〉によって

傷つけられたことがわかる5 編の童話の主人公自身の〈自己認識

のずれ〉による主人公の悲運がどのように成立したのかその生成

メカニズムを解明する必要があると思う

またそういった主人公の〈自己認識のずれ〉が主人公にどんな影

響を与えたのか上記童話作品に主人公と他の登場人物たちとの関

わり方の変化を詳しく考察する必要もあるよって本研究を通して

筆者は 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉による主

人公の悲運を中心に傷つけられた主人公と傷つけた登場人物との

関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を突き止めたい

8

12 先行研究

本節では作品の中に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉に関

連する先行研究をまとめて紹介していく

121 「フランドン農学校の豚」に関する先行研究―〈自己認識

のずれ〉に触れた論を中心に―

「フランドン農学校の豚」の豚の〈自己認識のずれ〉について

秦野一宏は豚と人間との互いの認識の違いから考察している

言葉を話せる豚は自分を畜産教師や助手と対等あるい

はそれ以上の「第一流の紳士」のように思っているのだが

人間側から見れば言葉など話せようが話せまいが豚はあ

くまで人間以下のブタでしかないのであるこの豚の苦しみ

の多くはブタがこのような序列ある人間関係に取り込まれ

ることによって生まれる11(下線部分は筆者による以下も

同様である)

この論説は示唆的である一流の紳士のように思っている豚と

豚は人間以下であると思っている人間との認識は異なり人間が豚

を人間と同じ態度として扱うのは無理がある両者の人間関係の認

11 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻 第 2 号 海上保安大学校p36

9

識の相違は豚が傷つけられた要因となり人間からすると豚のそ

の態度は〈自己認識のずれ〉にあたると考えられる

以上から豚の農学校の人間との人間関係の認識の相違は豚の悲

運の成立に関わる要素であるとわかるしかし豚の〈自己認識の

ずれ〉による豚の悲運の背景にある要因にはこの論説では論及され

ておらず引き続き探究する必要がある

122「黄いろのトマト」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉

に触れた論を中心に―

「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

について杉浦静は次のように述べている

〈二人だけ〉の生活で〈黄色のトマト〉を〈黄金〉と思

い込み価値付けても何ら不都合はないしかし〈二人だ

け〉の生活が外の現実(大人の世界)と接触する時〈二

人だけ〉の生活における思い込みの純真さはそのまま通用

しないたんに無知な思い込みに過ぎないものへと姿を変え

てしまうのである12

ペムペルとネリ兄妹は黄色のトマトを黄金のように価値を持つも

のだと思い込むが大人の世界では二人の思い込みは通用しないも

のと考えられるペムペルとネリが 2 つの黄色のトマトでサーカス

12 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論

宮沢賢治』双文社p81

10

の会場に入れるという思い込みは番人のような大人には通用しない

と言えようまた西田良子はペムペルとネリのような子供と大人

の価値観の相違を次のように論述している

〈子どもの認識〉や〈子どもの論理〉で成立している「非

日常的世界」しか知らなかったペムペルとネリがそのまま

〈大人の論理〉や〈子どもの価値観〉〈社会規範〉で立って

いる「日常的世界」に入ろうとして拒絶された出来事と見る

べきであろう13

子供の認識と論理しか知りえない世界に生きるペムペルとネリ兄

妹は大人の論理と社会規範で成り立っている世界に拒絶されるべ

きであろうという指摘である子供の認識と論理しか知らないペム

ペルとネリは大人の論理と社会規範を知る番人がいる世界には入

れず番人に叱られるという傷つけられた局面に遭遇したと判断で

きよう

以上の論説からペムペルとネリ兄妹の悲運はペムペルとネリ

兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと関連してい

るものと分かるしかしペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のず

れ〉によるペムペルとネリ兄妹の悲運の背景にある要因については

言及しておらず未解明の部分がなおも残されておりもう少し深

く検討する必要がある

13 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69

11

123「土神ときつね」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「土神ときつね」の土神の〈自己認識のずれ〉について村山龍

は次のような論点を提出している

「神の分際」を維持するために樺の木と狐を「忘れてしま

へ」と考える土神の認識からは神のなすべき規範とは何か

一つのものに執着することのない超越した認識を持つことだ

とわかるしかし先述したように土神が人間に対しての神

であって狐や樺の木のような動植物に対しては何の力も持た

ないただの一存在であったことを当てはめてみると土神の

苦悩は全く見当違いのものになってしまう なぜならば自分

と関わりのない対象である狐と樺の木相手の〈関係〉におい

ては最初から「神の分際」を維持できないからである14

狐と樺の木にとって土神は特別な存在ではなく神としての尊敬

の念を持たないこれにより土神は「神の分際」という思い込み

を維持できない可能性が高いまた秦野一宏は樺の木の言動に土

神が傷つけられた原因を次のように述べている

樺の木が物知りとして狐を自分(土神を指す筆者注)よ

り上に置いているのではないかという疑念は自尊心を傷つ

14 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p53

12

けると同時に嫉妬心を呼び起こすそしてその嫉妬心がよ

けいに自尊心を傷つけ樺の木を失うことへの恐怖と燃え上

がるような恋心(=執着心)を育て上げた15

これから示唆されるように土神は狐は自分より上なのではな

いかという樺の木の認識に神としての自尊心が傷つき樺の木への

執着心が育て上げられたと考えられる

以上の論説から土神が樺の木と狐に傷つけられた原因は樺の

木と狐の二人と土神の認識の食い違いが要因であると判断できよう

しかし傷つけられた者とされる土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わる要素にまで言及した研究は管見の限り見

当たらないため解明する必要がある

124「オツベルと象」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に

触れた論を中心に―

「オツベルと象」における白象が傷つけられた原因についてこ

れまでの先行研究では主に白象がオツベルを手伝う動機が注視され

ている池上雄三は次のような論説を展開している

オツベルが救われるためには業を断ち切らなければなら

ないそのためには自ら悟らなければならないいいかえれ

ば自然に改心しなければならないそのために白象は身を以

15 秦野一宏 (2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって 」

『海保大研究報告』第 58 巻 第 2 号 海上保安大学校 p8

13

って彼に問いかけまちがいに気づかせるやり方すなわち

無償の行為をし続けたのである頑迷なオツベルもいつかは

気がついてくれると白象は思っていたにちがいない16

下線部は白象がオツベルを手伝う動機はオツベルを改心させるた

めであることを示唆しているしかしこの物語の内容を見る限り

白象がオツベルを改心させるような心境ははっきりしておらず白

象がオツベルを改心させようとしているかどうかについては疑問で

ある

一方高橋直美は白象がオツベルを手伝う動機を次のように論述

している

このような白象は自らの意思でオツベルの工場に行った

のであるその行為に端を発したこの物語を搾取被搾取の問

題でかたずけようとしたら白象はお人好しの間抜けな象で

しかないしかしこの白象は一生懸命に仕事をしている

オツベルや百姓の役に立てることが何よりも嬉しかったのだ

働く喜び人の役に立つ喜びがこの白象の信念であり全て

なのである17

16 池上雄三(1984)「『オツベルと象』」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作

品論 宮沢賢治』双文社p169 17 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白象

のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3 号

東洋大学国際地域学部p20

14

白象が自らの意志でオツベルを手伝い働く喜びを得ることには

納得できるしかし白象が百姓を手伝う本当の思いが示されてい

ないため果たして白象が人の役に立つ喜びを得ているのか疑問が

残る

白象がオツベルを手伝う動機は働く喜びを得ることであったが

第五日曜に白象が他の象に助けを求めるほどオツベルの工場での

仕事は苦しくなっていたのである白象が傷つけられた原因はこ

うしたオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったことと関わって

いると言えよう

しかし白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立に関

わる要素について言及した論述は見当たらないため探究する余地

がまだ残されている

125「猫の事務所」に関する先行研究―〈自己認識のずれ〉に触

れた論を中心に―

「猫の事務所」においてかま猫が傷つけられた原因について

遠藤祐は事務長の黒猫のかま猫への態度の変化から分析している

かま

猫が自身に言い聞かせた「その事務長」が「三人の書

記」の口車に乗せられて「中に銅線が幾重も張つてあるか

のやう」な〈猫をみる眼〉を曇らせたために事務所内は大

15

きく変わって彼を孤立無援の窮地に追い込む次第に触れる

語りを先導する

のだから18

このことから黒猫がかま猫を窮地に追い込んだ先導者である

と分かる黒猫は 40 人の中からかま猫を選び四番書記に任命す

る黒猫はかま猫の仕事の能力に期待していたと考えられるそれ

を証するようにかま猫が虎猫と三毛猫にいじめられている時黒

猫はかま猫を庇っているそれゆえかま猫にとって黒猫は一番信

頼している人物であったと言っても過言ではない

しかし黒猫にはかま猫に対する信頼はなかったと見られる黒

猫がかま猫を信じかま猫と三人の書記の関係の悪さに気づいてい

ればかま猫は仕事を取り上げるような苦しい立場にはならなかっ

たと判断できるかま猫の仕事を取り上げるという黒猫の行為によ

って黒猫が自分を信頼しているという見方はただのかま猫の〈自

己認識のずれ〉であると言えるのではなかろうか

以上からかま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫へ

の態度の変化に起因しているものと分かるただかま猫の〈自己

認識のずれ〉によるかま猫の悲運の背景にある要因についての議論

は見られず残されている深く研究すべき課題であると言えよう

以上の先行研究から次のようにまとめられる

まず「フランドン農学校の豚」の豚が傷つけられた原因は豚

と農学校の人間との人間関係への認識の相違が発端であったと考

18 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

16

えられる「黄いろのトマト」のペムペルとネリ兄妹が傷つけられ

た原因の端緒にはペムペルとネリの二人と番人との価値観の不一

致が関わっていた

また「土神ときつね」の土神が傷つけられた要因は樺の木と

狐の二人と土神との認識の食い違いであった

さらに「オツベルと象」の白象が傷つけられた原因はオツベ

ルの仕打ちによって働く喜びを失ったことが引き金であった

そして「猫の事務所」のかま猫が傷つけられた原因は黒猫の

かま猫への態度の変化が起因していた

しかしこれら 5 編の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や背景にある要因につ

いて未解明の部分が残っている

そこで本論では先行研究で明らかにされた論点に基づき主人

公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の成立に関わる要素や

背景にある要因を深く掘り下げて究明しようと考えている

13 研究内容及び研究方法

本論文は「フランドン農学校の豚 」「黄いろのトマト 」

「土神ときつね 」「オツベルと象」「猫の事務所」5 編の童

話に見られる主人公の〈自己認識のずれ〉を中心に主人公と他の

登場人物の関係性を解明し主人公の悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を考察するものである

第二章では「フランドン農学校の豚 」に登場した豚の農学校の

人との関わり方の変化を考察し豚と農学校の人間との関係性を解

17

明し豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第三章では「黄いろのトマト」に登場したペムペルとネリ兄妹

大人との関わり方の変化を考察しペムペルとネリ兄妹の大人との

関係性を解明しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による

悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を論述する

第四章では「土神ときつね 」の樺の木と狐土神との関わり方

の変化を考察し土神の樺の木と狐との関係性を解明し樺の木と

狐土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背

景にある要因を分析する

第五章では「オツベルと象」に登場した白象のオツベルとの関わ

り方の変化を考察し白象のオツベルとの関係性を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要

因を明らかにする

第六章では「猫の事務所」に登場したかま猫の黒猫との関わり方

の変化を考察しかま猫の黒猫との関係性を解明しかま猫の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素や背景にある要因を

分析する

最終章の第七章では分析してきた結果から5 編の童話に見ら

れる主人公の〈自己認識のずれ〉の成立に関わる要素や背景にある

要因をまとめさらに筆者の意見と論点を述べる本論文の考察に

よって作品論の立場から宮沢賢治が花巻農学校時代に手掛けた 5

編の童話作品で描いた主人公の〈自己認識のずれ〉による悲運の生

成メカニズムの真意を明瞭にする

18

第二章

「フランドン農学校の豚」に見られる豚の〈自己認識のずれ〉

21 豚の農学校の人間との関わり方

宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」という作品は「初稿の執筆

は大 11 冬から大 12 晩夏にかけてと推定される19」と1922 年か

ら 1923 年あたりまでの創作だと推定されているこの物語は豚と

農学校の人間たちとの人間関係をめぐる物語である

ある日豚は農学校の生徒たちの会話内容を聞き自分が第一流

の紳士であると勘違いしまっていたその後人間語も喋れる豚は

農学校の校長とのやりとりで自分が人間と同じ地位を持っていな

いと気づき農学校の人間たちから様々な仕打ちを受けていること

に苦しんでいた農学校の人間たちの強制肥育によって豚の農学

校の人間たちへの抵抗意識がなくなり農学校の人間たちに殺され

た運命を避けられなかった豚が農学校の人間たちに傷つけられ

苦しんでいた原因は農学校の人間たちが豚の意志を尊重せず強引

な行為と関連すると言えよう

先行論から分かるように秦野一宏は豚が傷つけられた原因が豚

の農学校の人間との人間関係の認識の相違であると指摘した 20農

学校の人間からすると豚が人間と同じ地位を求める態度がただの

〈自己認識のずれ〉にすぎないと考えられるさらに豚の悲運の生

19 続橋達雄「〔フランドン農学校の豚〕」佐藤泰正編(1980)『別册國文學

宮沢賢治必携』学燈社p147 20 秦野一宏(2011)「宮沢賢治と『苦の世界』―『フランドン農学校の豚』を

めぐって」『海保大研究報告』第 56 巻第 2 号 海上保安大学校p36

19

成メカニズムを探究する場合深く豚の農学校の人間との関わり方

の変化を追及する必要がある

まず農学校の人間との関わり方についての場面を確認しておこ

ひょんなことで農学校の生徒の「豚のからだはまあたとへば生

きた一つの触媒だ白金と同じことなのだ」(p322)21と言っ

た会話を耳にした豚は自分が「第一流の紳士だもの」と勘違いし

始めて「すっかり幸福を感じ」(p323)たという

そしてある日人間語が喋れる豚と校長とのやりとりで死亡承

諾書について豚は「死亡をするといふことは私が一人で死ぬので

すか」(p329)という疑問を持ち校長に聞いてみた校長が

「うんすっかりさうでもないな」(p329)と返事しその返

事を聞いた豚はショックを受けるように泣いていた「お前もあん

まり恩知らずだ犬猫にさへ劣ったやつだ」(p329)という校

長の言葉を聞いた豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣って

ゐますようわあ」(p329)と泣いて言った

上述した豚の言葉から死亡承諾書にサインしたくない豚が犬猫

に劣ったように思われた校長の思いに気づいた時の豚の悲しい気

持ちが表現されているとわかる自分が第一流の紳士であるという

豚の〈自己認識のずれ〉によって豚の校長のような農学校の人間

との関わり方が悪い方向に変化してゆくと考えられる

21 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十巻 童話Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)をもとにしているなお引

用するテクストは校異の結果だけ引用し括弧は適宜省略した例えば

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬの〔〕〔で〕すか」というテク

ストは「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」だけ引用し

20

本章では上述した豚の農学校の人間との関わり方の変化に注目し

豚の悲運の生成メカニズムがどのように描かれているのかを論述す

るつもりである

研究手順としてはまず豚の農学校の人間との関わり方につい

ての場面を取り上げ豚の〈自己認識のずれ〉をしている場合をま

とめるそしてこれらの場面を分析し豚の農学校の人間との関

係性を明瞭にして豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素を明らかにする

物語の冒頭部分には豚が以下のような生徒の会話内容を聞いてい

たところから始まるということは書かれている

「ずゐぶん豚といふものは奇体なことになつてゐる水や

スリッパや藁をたべてそれをいちばん上等な脂肪や肉に

こしらえる豚のからだはまあたとへば生きた一つ触媒だ

白金と同じことなのだ無機体では白金だし有機態では豚な

のだ考へれば考へる位これは変になることだ」(p322)

上述した生徒のことばを聞いて「自分の名が白金と並べられた

のを聞いた」(p322)と勘違いした豚は自分が「第一流の紳

士なのだ」(pp322-323)という〈自己認識のずれ〉をしていると

見られるその〈自己認識のずれ〉をしている豚は農学校の人間の

自分への行為に疑問を持ち始めた

農学校の教師たちの自分への態度に豚が以下のような心境を表し

ている

21

(とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすが

時々まるで北極の空のやうな眼をしておれのからだをぢ

っと見る実に何ともたまらないとりつきばもないやうな

きびしいこゝろでおれのことを考へてゐるそのことは恐

いああ恐い)(p324)

これは農学校の教師たちから豚への態度の反発であると言えよう

農学校の教師たちは農学校に飼われる豚が食用の家畜として見られ

ることが不都合のない認識であるが自分が第一流の紳士であると

信じ込む豚にとって侮辱的なことであると判断できる

豚が殺される前の月国の王から家畜撲殺同意調印法という法律

が発令された農学校の校長は豚の調印を取るため人間語が喋れ

る豚との交渉を行っている死亡承諾書についての校長の説明を聞

いた豚の校長との会話内容は以下のような内容である

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか」豚は

又金切声で斯うきいた

「うんすっかりさうでもないな」

「いやですいやですそんならいやですどうしてもいや

です」豚は泣いて叫んだ

「いやかいそれでは仕方ないお前もあんまり恩知らずだ

犬猫にさへ劣ったやつだ」校長はぷんぷん怒り顔をまっ

赤にしてしまひ証書をポケットに手早くしまひ大股に小屋

を出て行った

22

「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってゐますようわ

あ」豚はあんまり口惜しさや悲しさが一時にこみあげて

もうあらんかぎり泣きだしたけれども半日ほど泣いたら

二晩も眠らなかった疲れが一ぺんにどっと出て来たのでつ

い泣きながら寝込んでしまふその睡りの中でも豚は何べ

んも何べんもおびえ手足をぶるっと動かした(p329)

ここに示された豚の反応は自分が第一流の紳士であるという〈自

己認識のずれ〉をしている豚が校長に尊重されていないことへの慨

嘆であると言えるであろう校長からすれば豚がただの農学校に

飼われる家畜の一つであり特別な階級を持っていないと見られる

人間語が理解できて喋れる豚にとって自分の死は他の動物と異な

り特別であることを信じ込んでいるに違いない

しかしその思い込みは校長の一言で否定され豚の精神状態は

不安定な状態になった豚の農学校の人間との関わり方は悪い方に

循環していくと見られる

校長に呼ばれて 4 日過ぎた日農学校の人間は豚の死亡承諾書の

爪判を取るため強引な手段を取ることに踏み来た豚への扱い方

は以下のようなものである

畜産の教師は大急ぎで教舍の方へ走って行き 助手もあと

から出て行った

間もなく農学校長が大へんあわててやって来た豚は身体

の置き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ

23

「おおいいよいよ急がなきゃならないよ先頃の死亡承諾

書ねあいつへ今日はどうしても爪判を押して貰ひたい

別に大した事ぢゃない押して呉れ」

「いやですいやです」豚が泣く

「厭だおいあんまり勝手を云ふんぢゃないその身体は

全体みんな学校のお陰で出来たんだこれからだって毎日

麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の粉五合づつやるんだ

ぞさあいゝ加減に判をつけさあつかかないか」

なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実

際恐いものなんだ豚はすっかりおびえて了ひ

「つきますつきます」とかすれた声で云ったのだ

「よろしいでは」と校長はやっとのことに機嫌を直し

手早くあの死亡承諾書の黄いろな紙をとり出して豚の眼

の前にひろげたのだ

「どこへつけばいゝんですか」豚は泣きながら尋ねた

「こゝへおまへの名前の下へ」校長はぢっと眼鏡越しに

豚の小さな眼を見て云った豚は口をびくびく横に曲げ短

い前の右肢をきくっと挙げてそれからピタリと印をおす

「うはんよろしいこれでいゝ」校長は紙を引っぱって

よくその判を調べてから機嫌を直してかう云った(p332)

上述した校長の豚への扱い方は豚が農学校の所有物であり豚の

個人意志を尊重しない姿勢が表されているように見られる家畜撲

殺同意調印法によれば家畜の意志を尊重した上で死亡承諾書の

爪判を取ることであるしかし豚と校長との間の階級の差には雲

24

泥の差があるため校長が強引な手段で豚に自分の死亡承諾書に押

印させた校長の豚への威圧的な物腰によって豚の精神状態が前

より一層ひどくなったと言えるであろう

以上のように豚の農学校の人間との関わり方の変化から豚は第一

流の紳士であるという〈自己認識のずれ〉によって農学校の人間

が豚の個人意思を尊重しておらず学校の所有物である姿勢に苦し

んでいる国の家畜撲殺同意調印法が発表され農学校の人間が強

引な手段を取り豚の農学校の人間との関わり方の変化は尚更悪い

方に進んで行き豚の精神状態も深刻になっていると見られる次

節では明らかにした豚の農学校の人間との関わり方の変化に基づ

き豚の〈自己認識のずれ〉がどのように自分の悲運を招くか論じ

ていく

22 豚の〈自己認識のずれ〉による悲運

前節から豚の〈自己認識のずれ〉は自分が第一流の紳士であるよ

うな階級を持つと分かったしかし農学校の人間にとって豚は校

内で飼う家畜であり人間と同じ階級を求めることが無理であると

考えられる農学校の人間の豚への扱い方により豚は農学校の人

間が自分の意志を尊重しない態度を知り農学校の人間への抵抗的

な態度に現れると見られた

農学校の人間は豚の抵抗的な態度がただの神経過敏であると見て

豚の悩みに配慮をしなかったことが分かった農学校の人間たちが

豚の悲運にどのような認識を持っているか天沢退二郎は以下のよ

うな論述をしている

25

だがこのように豚と人間語で十二分に談合するのは校長

だけなのだ談合が決裂したあと豚がすっかり体調を崩し

たのを見て畜産の教師は首をかしげ助手から校長の訪問し

た件を聞いて飛び上がる―

(中略)

そこで教師は助手に次々指示を出して運動させたりいろ

いろやるが効果がないとみるとどうやら校長に直談判して

強力にネジを巻いたらしく校長はあわてて走って来ても

う頭ごなしに豚をおどして判をつかせることになる

この経緯を通じて豚のしゃべる人間語を理解できるのは

校長だけであり教師も助手も理解できないどころか理

解する気も何もなく豚を言いくるめて判をつかせるのは専

ら校長の役割に属することとてんから決めこんでいること

がわかる

つまりこれは校長の語学的能力のもんだいではなくて

制度上の飼育責任者としての職能のもんだいなのであり校

長が豚に判をつかせる現場に教師も助手も立ち会いさえし

ないこの現場をまるで見て来たように私たちに伝えるのは

物語内非存在なはずの語り(手)だけである22

農学校の人間の豚への認識について豚と人間語で談合できる人

は校長だけである教師と助手は豚のことに理解する気もないとい

22 天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』(筑摩書房)

p149

26

う天沢退二郎の論説に共感を覚える物語の内容を見る限り豚と

人間語で談合できる校長も豚の意志を尊重しない態度を示している

ため農学校の人間たちは豚への行為に豚の悲運と思わないと言え

るであろう農学校という機構では家畜を育て食品としてどのよ

うに利用するかを学ぶ場所でありこちらにいる人たちは家畜が殺

されることに特別な感情を持っておらず授業の一環として捉える

が普通であると考えられる一方豚が自分の悲運にどのような認

識を持っているのか押野武志は以下のように述べている

そして校長が二度目に死亡承諾書を携えてやって来たと

き豚は死というものを認識し始める豚は「死亡するとい

ふことは私が一人で死ぬのですか」と聞く校長が「う

んすっかりさうでもないな」と答える同じように屠殺

される家畜がいるということだろうそれに対して豚は「い

やですいやですそんならいやですどうしてもいやで

す」と叫ぶ死という観念は理解できても自分の死だけ

は納得できないでいる他ならぬこの「私」の個別的な死

が死一般に回収されてしまうことを嘆いているのだこう

言い換えてもいい「この世界に生きているものはみんな

死ななけぁいかんのだ」がにもかかわらずこの豚は死

ぬことができないということであるつまり一般性と個別

性が通訳不可能な事態である23

23 押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)p269

27

豚の言葉から死という観念を理解できても他の家畜と同じよう

な特別な死ではないことを納得できないという押野武志の論説は賛

同できる紳士であることを信じ込んでいる豚は他の家畜と違い

自分の死が一般的な死ではなく特殊な意味を持つ死であると望ん

でしまうと考えられる豚の思い込みを校長に否定され校長の言

葉へ激しく反発したと見られる

また農学校の人間の豚への態度が強硬になる家畜撲殺同意調印

法は豚の悲運を招いた背景にある要因でありその法律の豚の悲運

への影響について天沢退二郎は以下のように述べている

そもそも事の発端は問題の「家畜撲殺同意調印法」とい

う法律が国王により発令されたことにあるどうやらこの

国は共和国でも立憲君主制でもなくて王の布告が即法律

になるという専制君主制であるらしいつまり立法司

法行政の三権とも王が握っているのであるからこの布

告はこの王の重大な政治行為であってそれは家畜とい

えども限りある生命を享受すべきものであり人間によって

勝手に殺されるは不当だとする〝生類憐れみPrimeの精神に発し

た仁慈の法として王とその側近の自賛するところであった

であろう24

王により発令された家畜撲殺同意調印法はただの王とその側近の

自賛するところであったあろうという天沢退二郎の論説は納得でき

24 同前掲天沢退二郎(2009)p150

28

るその法律は表向きは家畜の命を尊重する法であるが家畜の

飼育責任者である人間と家畜との階級認識の差を考えておらず農

学校の人間への迷惑をかけてしまった農学校の人間の豚への仕打

ちが尚更酷くなり豚の悲運を回避することができず豚の苦痛を

増大させた要因の背景にあると言えよう

23 「豚」の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では豚の農学校の人間との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られた豚の〈自己認識のずれ〉を示す場面が明

らかになったそしてこれらの場面を分析し豚の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立に関わる要素と背景にある要因が明瞭にな

った

豚の〈自己認識のずれ〉についての場面を考察した結果豚の

〈自己認識のずれ〉をし始める契機は生徒の豚に関する言葉である

と分かった教師たちと校長の豚への扱い方が豚の意志を尊重して

いない態度であるため人間と同じ階級の敬意を求める豚の〈自己

認識のずれ〉が通用しないと考えられる家畜撲殺同意調印法の発

表に伴い農学校の人間の豚への関わり方の変化は悪影響を及ぼす

と見られたその法律が及ばす農学校の人間への影響について次

のように指摘している

あたかも慈愛と正義につき動かされたかのごときあの王の

「布告」も末端の実行段階にいたればこうしていちばん弱

い者たちへの狡猾な説得工作から一転して有無を言わせぬ脅

29

迫行為となる言いかえればこのような暴力装置としての正

体があの「布告」という政治テクストそのものに隠れてい

たでありさらにいえばそれは物語冒頭の「以外の物質は」

ではじまる断片的テクストの正体でもあったことがわかっ

てくる25

家畜撲殺同意調印法という王の「布告」が農学校の人間の豚への

脅迫行為の暴力装置という天沢退二郎の論説は示唆的である元々

農学校という機構には豚と農学校の人間との間に階級の不平等が

あり家畜撲殺同意調印法のような家畜の意志を尊重する法律があ

っても農学校の人間が家畜を殺すことを合理化させる装置として

利用し豚の命を奪うと考えられる物語の内容を見る限り豚は

自分が殺される悲運を自覚していないが仮に豚が自覚しても農

学校の人間との階級の不平等によって農学校の人間が持つ権力に

抵抗できないと考えられる豚と農学校の人間との階級の不平等と

家畜撲殺同意調印法という 2 つの事柄は豚の悲運の生成メカニズム

を形成する要素と要因であると言える

家畜撲殺同意調印法が発令された後農学校の人間の豚への仕打

ちから農学校の人間と家畜との間の不平等な関係を利用した強迫に

よって豚の承諾させる行為は人間の家畜への偽善を露呈させると

言えよう人間と家畜との不平等な関係を考えておらず表向きに

では法律で家畜に死を選べる権利を与えても人間と家畜との不平

等な関係を変えられるとは考えにくい農学校の人間の豚への仕打

25 同前掲天沢退二郎(2009)pp156-157

30

ちは法律が発令される前より一層酷くなると見られる法律に違反

したくない農学校の人間が豚に承諾させるための行動は利益を守る

ために家畜の意志を無視する人間の残酷さが反映されると言えるで

あろう

以上の結果から豚の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関

わる要素は豚の農学校の人間における人間関係に対する認識の不一

致による豚への消極的な姿勢であることが明らかになった豚の悲

運の成立の背景にある要因は家畜撲殺同意調印法の発表であること

を明らかにした

農学校の人間との階級の不平等と家畜撲殺同意調印法の発令によ

って豚の農学校の人間との関わり方の変化は互いの話し合いの欠

如という結果になり平行線のまま関係改善の糸口が見えず豚の

悲運を迎えてしまうと言えた

また語り手の豚の悲運への思いは下記のように述べている

豚は何度も「つらいつらい」と口にするその辛さに共感

するように語り手も「一体この物語はあんまり哀れ過ぎる

のだもうこのあとはやめにしやう」と 人間たちに憤りを

感じる

だが語り手のパッションは農学校の教師や生徒たちに届き

豚は救われるのだろうか彼らにとってみれば家畜として

の豚の死など当たり前であって豚との間に相互葛藤的な関

係など生じる余地はない語り手の憤りなど彼らに通じるは

ずがない

31

豚は自らの死を意味づけることもなく死に対して異和を抱

き続けたまま単に「クンクンと二つだけ鼻を鳴らしてぢ

っとうごかなくなってゐた」という出来事が最後に語られる

だけだここにあるのは復讐すらもまったく不可能な圧倒的

に非対称的な世界である

確かに豚の死に対しては語り手はまったくの無力なので

あるがこの無名の無意味な死を少なくとも書きとめ記憶

し続けることはできるだろう死者の記憶を忘却の淵から救

い出すことは無力な残された語り手の唯一の責務だったの

かもしれない26

語り手の豚の悲運への思いにおいては豚の辛さに共感できる語

り手は人間たちに憤りを感じる豚の死に対しては語り手がまった

く無力であるが豚の死に至るまでの過程を書き留めるという死者

の記憶を忘却の淵から救い出すことは語り手の責務だったかもし

れないという押野武志の指摘に賛同する語り手は豚のことを語る

時主に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打ちが語られている

そんな語る方は読者に豚の苦しみと農学校の人間の豚への仕打

ちの理不尽さという共感を呼ばれ豚の死への同情を引き起こさせ

る効果があると見られる語り手が豚を死の悲運から救い出すこと

はできないが豚が受けた苦痛を記録することによって人間たち

の家畜への行為の残酷さをできるだけ多くの人に知らせれば豚の

死が無意味な死ではなく人々に反省を促すきっかけになる有意義

26 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房 p144-145

32

な死になると考えられる語り手の豚を救えない無力感への代償行

為であり豚の代わりに生前に望んでいた尊厳死という願いが叶う

と考えられる

33

第三章

「黄いろのトマト」に見られる

ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉

31 ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方

宮沢賢治の「黄いろのトマト」という作品は「現存草稿の執筆は

大 12 か27」と1923 年の創作だと推定されているこの物語は

ペムペルとネリ兄妹の体験をめぐる物語であるペムペルとネリ兄

妹は小さい頃から親不在の環境で過ごしているある日ペムペルと

ネリ兄妹は自らの畑から黄金のような色のトマトを発見し黄金で

あると信じ込んでいるある日ペムペルとネリ兄妹はサーカスを

見に行く人たちが入口にいる番人に黄金を払うことを知り二人は

黄金のような価値を持つと思い込んでいる黄色のトマトを持ち番

人に入場料として払うつもりである

番人はその行為がペムペルとネリ兄妹のいたずらと勘違いし二

人を叱り衝撃を受けたペムペルとネリ兄妹は泣いて家に逃げ帰っ

てしまった以上のことからペムペルとネリ兄妹と番人のような

大人の何らかの認識の相違によってペムペルとネリ兄妹の悲運を

招いたと言えるであろう

27 小沢俊郎「黄いろのトマト」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必

携』学燈社p103

34

序論ではペムペルとネリ兄妹が傷つけられた原因を杉浦静

(1984)28と西田良子(2000)29の論で説明したその原因はペム

ペルとネリ兄妹の価値観が番人のような大人には通用しないことと

関連しているものと分かったペムペルとネリ兄妹と番人との認識

の相違を探究するためペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の

変化を辿る必要がある

まずペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方についての場面を

確認しようペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口の近くで

「黄金を出せば銀のかけらを返してよこす」(p194)30という

観客の番人への行為を見て二人は黄色のトマトを黄金と思い込み

それを持っていき入場料として番人に払うつもりである

黄色のトマトが黄金である認識を持たない番人はペムペルとネリ

兄妹の行為を子供たちのいたずらと勘違い「トマト二つでこの

大入の中へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜

生 」(p196)と叱りトマトを支払えばサーカスを見に行ける

という期待を持つペムペルとネリ兄妹は強圧な衝撃を受けられ泣

いて家に逃げてしまった

上述した内容からペムペルとネリ兄妹と番人との黄色のトマト

への認識が不一致であると分かった互いの認識の違いはペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運と関連していると考え

られる本章では上述のようなペムペルとネリ兄妹の大人との関

28 杉浦静「『黄いろのトマト』試論」萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品

論 宮沢賢治』双文社p81 29 西田良子(2000)「『黄いろのトマト』」『国文学解釈と鑑賞』第 65 巻 2

号 至文堂p69 30 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

35

わり方が描かれている場面をまとめペムペルとネリ兄妹の大人と

の関わり方の変化を追及した上でペムペルとネリ兄妹の〈自己認

識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要因を明らかにしたい

まずペムペルとネリ兄妹の親との関わり方について以下のよう

に描かれている

そして二人はたった二だけずたのしくくらしてゐた」

「おとなはそこらに居なかったの」わたしはふと思ひ付い

てさううたづねました

「おとなはすこしもそこらあたりになかった なぜならペム

ペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけずゐぶん愉快にく

らしてたからけれどほんたうにかあいさうだ(p187)

下線部分に示されたことからペムペルとネリ兄妹は親不在の環境

で生活を送っていると見られるペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で育ち番人と会う前に他の大人との接触もないようで大人

の世界で通用している認識を持っていないと言えようその後ペ

ムペルとネリ兄妹は二人が植えた畑で黄色のトマトを発見し「黄

金だよ黄金だからあんなに光るんだ」(p190)という認識を持ち

黄色のトマトが黄金であるという認識が出来上がるとわかるそん

な認識を持つペムペルとネリ兄妹はサービス会場の入り口付近で以

下のような場面を目撃した

みんなは吸ひこまれるやうに三人五人づつ中へはいって

行ったのだ

36

ペムベルとネリとは息をこらしてぢっとそれを見た

『僕たちも入ってかうか』ベムペルが胸をどきどきさせな

がら云った

『入りませう』とネリも答へた

けれども何だか二人とも安心にならなかったのだどう

もみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ

ペムぺル近くへ寄ってぢっとそれを見た食ひ付くやう

に見てゐたよ

そしたらそれはたしかに銀か黄金かのかけらなのだ

黄金を出せば銀のかけらを返してよこす

そしてその人は入って行く(p194)

上述した内容を目撃したペムペルとネリ兄妹は黄金を番人に渡せ

ばサーカス会場の中に入れる認識を得たとわかるその場面でペ

ムペルとネリ兄妹が得られる認識は間違いないが黄色のトマトが

黄金であるという大人の世界で通用しない認識を持っているため

以下のような二人の番人との誤解が生じる場面が描かれている

ネリは悦んで飛びあがり二人は手をつないで木戸口に来

たんだぺムぺルはだまって二つのトマトを出したんだ

番人は「えゝゐらっしゃい」と言ひながらトマトを受

けとりそれから変な顔をした

しばらくそれを見つめてゐた

37

それから俄かに顔が歪んでどなり出した『何だこの餓

鬼め人をばかにしやがるなトマト二つでこの大入の中

へ汝たちを押し込んでやってたまるか失せやがれ畜生 』

そしてトマトを投げつけたあの黄のトマトをなげつけた

んだその一つはひどくネリの耳にあたりネリはあっと泣

き出しみんなはどっと笑ったんだぺムぺルはすばやくネ

リをさらふやうに抱いてそこを遁げ出した(p196)

ここに示された番人の反応はペムペルとネリ兄妹の行為が自分へ

の侮蔑と勘違いしたと言えるであろうペムペルとネリ兄妹は黄色

のトマトが黄金であるという思い込みをしているため黄色のトマ

トが黄金と同じ入場料として使える認識を持つと考えられる番人

のような大人はペムペルとネリ兄妹の認識を知らないためペムペ

ルとネリ兄妹の行為がただの子供たちのいたずらという誤解が生じ

ると判断できるペムペルとネリ兄妹と番人の互いの誤解は黄金と

いうものへの認識の違いであることが明瞭になった

32 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにしたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識

のずれ〉に基づきその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背

景にある要因を論じていく

前節に示されたペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉は黄色

のトマトが黄金であることが分かったペムペルとネリ兄妹は親の

不在の環境で生きてきたため黄色のトマトが黄金である思い込み

38

が大人の世界で通用しない認識であることを知らないと言えよう

ペムペルとネリ兄妹がサーカス会場の入り口付近で見た観客が番人

に黄金を渡す行動を真似たのに番人の叱りを受けたことはペムペル

とネリ兄妹が黄金として認識している黄色のトマトと番人が黄金

として認識しているものがあまりにも異なると判断できる番人は

ペムペルとネリ兄妹の行為が真剣な行為であると思わずペムペル

とネリ兄妹の自分へのいたずらと勘違い二人を責めたと考えられ

るペムペルとネリ兄妹は大人との〈自己認識のずれ〉を持ち始め

二人の悲運を招く背景にある要因は兄妹の生活環境が関わると考え

られる兄妹の生活環境の設定について杉浦静は以下のように論

述している

宮沢賢治は共同体のなかの孤児の生活というようにこの

二人の生活を設定していない彼は町から遠く離れた所に

たった二人だけでベムベルとネリを暮らさせるこのよう

な設定をとることによって二人の生活は大人の世界と接触

せず純真な子供の世界が保たれている宮沢賢治には次に

みるような大人と子供の世界についての構図があってベム

ベルとネリの生活を純真に保つことでより大人の世界との

接触とそれからの拒絶による心の痛みをより際やかに描き

だしているのである31

31 同前掲杉浦静(1984)p76

39

ペムペルとネリ兄妹は傍に大人がいなく二人だけの環境で生活

を送っているそんな環境で育ったペムペルとネリ兄妹は純真を保

ち大人の世界との接触により拒絶された心の痛みを描き出すとい

う杉浦静の論述に異論はないペムペルとネリ兄妹は同年齢の子供

たちと大人たちとの接触がない環境で生活していると見られ社会

化不全という状態に陥ってしまったと考えられる二人の大人たち

の黄金への認識の差を知らないペムペルとネリ兄妹は黄色のトマ

トという黄金でサーカス会場の中に入れると信じ込み兄妹二人の

行為によって自らの悲運を招くことになったと言えるであろう

大人のペムペルとネリ兄妹の悲運への認識に関して杉浦静は以

下のように分析している

ペムぺルが差し出したlt二人だけgtの黄金のトマトはただ

の黄色のトマトとして番人に投げ返される大人の現実の世

界から二人の純真な思い込みはたんなる無知として拒否

されるしかも彼らの純真さには一顧だに与えられるこ

とはなかった番人の手ひどい仕打ちと周囲の大人たちの

嘲笑とは同質のものである彼らの無知をあざ笑う声は

「波のように」繰り返し聞こえたのだからこのようにして

二人は lt二人だけgtの世界と異なる価値を持つ世界の存在を

いわば暴力的に認識させられた32

32 同前掲杉浦静(1984)pp83-84

40

ペムペルとネリ兄妹にとって特殊な価値を持つ黄色のトマトが黄

金として使えるという思い込みは大人の世界に通用できずだだの

普通の黄色のトマトと認識され兄妹二人の純真な思い込みが無知

として拒絶されているという杉浦静の分析は傾聴に値する物語の

描写からサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちの

行為によってペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまったと

いうことを悲運として認識していないと考えられる大人たちはペ

ムペルとネリ兄妹が泣いていることを見て笑いが止まないのであ

る大人たちのペムペルとネリ兄妹への態度から兄妹二人が泣いて

も大人たちも二人に同情する気はなく二人の無知への嘲笑をす

るだけであると分かった大人たちは自らの行為がペムペルとネリ

兄妹の悲運になることを考えておらず兄妹二人の行為を理解せず

単に無知として拒絶することが明瞭になった

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹が親の不

在の環境にあったと言えるであろうまたその環境から生み出さ

れた二人の自己認識から黄色のトマトでサーカス会場に入れると

いう期待と黄金でサーカス会場に入れる番人の期待との違いによっ

て番人の叱りと周りの大人の嘲笑を受けることとなるペムペルと

ネリ兄妹の悲運を招くと言えよう

ペムペルとネリ兄妹は自分の大人たちとの認識のずれが自分の悲

運を招く一因になることを知らないと見られるサーカスへの好奇

心を抑えず二人が黄金と思い込む黄色のトマトを持ちサーカス

を見る入場料として番人に払うつもりであると言えるであろうペ

ムペルとネリ兄妹の行為に叱る番人と嘲笑している大人たちは自ら

41

の行為が兄妹の悲運をもたらすことを気にせず無知なペムペルと

ネリ兄妹を蔑むと考えられる

33 ペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章ではペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方についての場面

を考察しペムペルとネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉が描かれてい

る場面が明瞭になったそしてこれらの場面を分析しペムペル

とネリ兄妹の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の背景にある要

因を明らかにしたペムペルとネリ兄妹と大人との関わり方の変化

についての場面を考察した結果ペムペルとネリ兄妹は親の不在の

環境で黄色のトマトが黄金であるという認識が生じることが明瞭に

なった

その認識をしているペムペルとネリ兄妹はサーカス会場の入り口

付近で見た観客が番人に黄金を渡す行動を真似し二人が黄金とし

て認識している黄色のトマトを番人に渡すことで会場の中に入れる

ことに期待しているトマトを差し出された番人はペムペルとネリ

兄妹の認識を知らないため二人の行為をいたずらと勘違い二人

を責めることをしたと考えられるペムペルとネリ兄妹と番人との

間で黄金への認識の相違から生じた期待の違いによってペムペル

とネリ兄妹は悲運を迎えることとなった

同年齢の人たちと大人たちがいない環境で育ったペムペルとネリ

兄妹は二人の〈自己認識のずれ〉が自らの悲運を招くことを自覚し

ていないと見られる二人の世界は黄色のトマトは黄金のような立

42

派な輝きを放つものでありペムペルとネリ兄妹にとって黄色のト

マトが二人だけの黄金であると考えられる

ペムペルとネリ兄妹がサーカスへの好奇心を抑えきれず今迄兄

妹がいた二人の世界から大人の世界へ接触することを試みるサー

カス会場の入口付近の大人たちが黄金を入場料として使っている場

面を見てトマトを番人に渡せばサーカス会場の中に入れると信じ

込んでいる

社会化不全であるペムペルとネリ兄妹の黄色のトマトが黄金と同

じ価値を持つ認識によって番人に黄色のトマトを渡せると思って

いると言えよう大人たちはペムペルとネリ兄妹がどういう訳で黄

色のトマトが黄金のような立派なものであるという認識が生じるの

かを理解せず叱りと嘲笑という二人への侮辱の手段を取り兄妹

の思い込みに拒絶したと考えられる大人の行為のペムペルとネリ

兄妹の悲運への影響について黄英は以下のように指摘している

加えてその制度に慣れ思惟形式がその制度に束縛され

ているにもかかわらずそれを自覚していない人間の傲慢さに

よってその制度外の人間がサーカス鑑賞をできなくなるど

ころかさんざん嘲笑され傷つけられる羽目になったわけで

あるつまりペムペルらはサーカスに惹かれたことをきっ

かけに家を出て結局悲惨な目に遭ったがその原因はサーカ

ス自体にあるのではなくサーカスが置かれている制度その

ものにあることが言える33

33 黄 英(2001)「童話『黄いろのトマト』―サーカスを手掛かりに 」『国文

学解釈と鑑賞』第 66 巻第 8 号 至文堂pp114-115

43

黄英が指摘しているようにペムペルとネリ兄妹が大人に嘲笑さ

れ傷つけられる悲運に陥っているのは黄金という貨幣制度に慣れて

いる大人の傲慢であるといっても過言ではない

親が不在の環境で生活を送っているペムペルとネリ兄妹は黄金と

いう貨幣の価値と使い道がわからないと見られる兄妹二人は自分

の畑を持ち日常生活を維持するための食料を黄金のような貨幣で

買うものではなく二人の力で得るものであると思っていると考え

られる黄金の価値を詳しく知らないペムペルとネリ兄妹は黄金を

渡せば銀会場に入れる規則があっても兄妹二人の生活環境から生

み出した物品と他の物品を直接交換する物々交換という規則のほう

が慣れるため黄金という貨幣でサーカスを見るサービスを買うと

いう貨幣制度には慣れないことも不自然ではないと考えられる

以上の考察結果からペムペルとネリ兄妹の悲運の成立の背景にあ

る要因は親の不在という環境であると分かったその要因から生じ

た二人の認識によってペムペルとネリ兄妹と番人との期待の違い

が生みだされペムペルとネリ兄妹が泣いて家まで逃げてしまう悲

運に繋がると考えられるペムペルとネリ兄妹の悲運の根源に関わ

るいくつかの要素と要因が明らかになったその結果は次のように

まとめられる

ペムペルとネリ兄妹の悲運が引き起こされたペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉は同年齢の子供と親が不在という環境で育っ

たため物々交換という概念のほうが慣れていると分かった社会

化不全な環境により生じた思い込みが大人の世界で通用しないと考

えられるサーカス会場の入口付近にいる番人と周囲の大人たちは

44

どういう理由でペムペルとネリ兄妹の思い込みが生じたかには気に

もせずペムペルとネリ兄妹への解釈もせず兄妹二人は自分のこ

とを馬鹿にされたという短絡的な思考になったためペムペルとネ

リ兄妹の悲運を招くことが明瞭になったペムペルとネリ兄妹の悲

運の成立の背景にある要因はペムペルとネリ兄妹の生活環境による

社会化不全のような状態であると明らかにしたペムペルとネリ兄

妹の悲運の成立に関わる要素は大人たちのペムペルとネリ兄妹の自

己認識への短絡的な思考であると言えた

またペムペルとネリ兄妹の悲運を語り手の「私」に語る蜂雀と

「私」の思いについて島村輝は下記のように指摘している

「黄いろのトマト」はあらゆるところにさまざまな喪失感

の満ち満ちたテクストであるということもできよう黄金の

かわりに黄いろのトマトを差し出したことで興行の天幕の

番人から激しい拒否を突きつけられたペムペルとネリの兄妹

にもそうした「かあいさう」な事態に対して何一つ手出し

をすることができなかった蜂雀にもまた話の途中で語るこ

とばかりか私の存在そのものを拒否したかのようにみえる

蜂雀の態度に接した私にもそうした喪失感は強く伺うこと

ができる34

34 島村輝(2006)「『黄いろのトマト』―『かあいさう』のスタンス」『国文

学解釈と鑑賞』第 71 巻第 9 号 至文堂pp90-91

45

ペムペルとネリ兄妹の悲運に対して干渉できない蜂雀と蜂雀に拒

否されたように見える態度で接した「私」も喪失感を感じるという

島村輝の論説は示唆的であるペムペルとネリ兄妹の悲運の第一目

撃者である蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を「私」に語ることに

よって「私」にもペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さへの共感を求め

ようとすると分かった

「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運の辛さに理解しようとするた

め蜂雀にペムペルとネリ兄妹のことを聞いてもらうとすると見ら

れるだが蜂雀はペムペルとネリ兄妹の悲運を目撃していない

「私」に兄妹の辛さを理解させることが困難であると思い「私」

に「もうはなせない」という「私」を拒絶する態度を表したと考え

られる「私」は蜂雀が語るペムペルとネリ兄妹の悲運を理解しよ

うとするがその思いは蜂雀に届かず一方的に蜂雀に拒絶された

と見られる「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによっ

て他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えていると言えよう

46

第四章

「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のずれ〉

41 土神の樺の木と狐との関わり方

宮沢賢治の「土神ときつね」という作品は「生前未発表現存草

稿の執筆は大 12 か35」と1923 年の創作だと推定されているこ

の作品は土神樺の木狐の 3 人の登場人物の人間関係をめぐる物

語である土神は神であるが髪がわかめに似て爪も黒い外見を

持ち怒りやすい性格の人物である土神に比べ狐の外見は上品

でいい性格を持つ人物である狐が外見と性格の面で土神より上

なので樺の木は狐のほうを好いているようである

土神は神としての誇りを持つが樺の木のことが気になるのを否

定できない悩みを抱えているその後土神は樺の木と狐の二人と

愉快に話そうと試みたが狐が樺の木と話した後土神に挨拶もせ

ず戻ろうとしたそんな失礼な狐の行動を見ると土神は怒って

狐を殺してしまった物語の結末から土神が理性を保れず狐を

殺した原因は樺の木と狐の二人と土神の認識の食い違いと関わって

いると言えよう

樺の木と狐の二人と土神の認識の相違を探求する場合土神の樺

の木と狐の二人との関わり方の変化を辿る必要があるまず土神

の樺の木と狐の二人との関わり方に関連する場面について確認しよ

うテクスト冒頭の樺の木との会話で土神は樺の木の前で自分の

35 小沢俊郎「土神と狐」佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』学

燈社 p129

47

わからない種子の話を持ち出された時樺の木が「狐さんにでも聞

いて見ましたらいかゞでございませう」(p250)36と提案した

樺の木の提案を聞いた土神は「俄かに顔いろを変へました」

(p250)という反応が起こり「狐なんぞに神が物を教はるとは

一体何たることだえい」(p250)「狐の如きは実に世の害

惡だたゞ一言もまことはなく卑怯で憶病でそれに非常に妬み深い

のだ」(p250)と言ったここに示される樺の木の何気もない

一言は狐より上位に位置する神の誇りを持つ土神にとって屈辱なこ

とであると思い込み冷静さを失い狐のことを責めたと考えられ

「(四)」で「樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない」

(p254)と信じ込んでいる土神は樺の木と狐二人の会話を聞いた

後「狐の方が自分よりはえらいのでしたいやしくも神ではない

かと今まで自分で自分に教へてゐるのが今度はできなくなったので

す」(p255)という苦悩を抱えている樺の木が立派だと称賛

した狐の言動は狐よりえらいと思いこんでいる土神にとって予想に

外れた行為である

下線部分の引用から神としての誇りを持つ土神が自身には納得

できない状態になると判断できよう本章では上述した土神が樺の

木と狐の行動を受けて心の中に湧いてくる〈自己認識のずれ〉に

よる関わり方の変化に着目し土神の悲運の成立に関わる要素がど

のように描かれているのかを論じていきたい

36 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第九巻 童話Ⅱ 本文篇』(筑摩書房) をもとにしている

48

研究手順としてはまず土神の樺の木と狐の二人との関わり方

についての場面を取り上げ土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面

を整理するそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による土神の

悲運の成立に関わる要素を明らかにする

まず土神の〈自己認識のずれ〉に関する先行論を見ていくとす

村山龍は「(五)」で土神の〈自己認識のずれ〉について以

下のような論述をしている

神として上位に位置した自分がミミズという最下層の存在

へ身を投げ出すこの自己犠牲の精神は自らの失われた聖性

を回復せんとする土神の新たな〈関係〉の構築手段であった

のだただしこの「神の分際」もまた本来無関係であるはず

の動植物との間で結ぼうとしたものであり神性の範囲を超

え出た独りよがりなものであるゆえに樺の木はその「立派」

さを讃えることとはなく「心配さうにぷるぷるふるへて」

「非常に重苦しいことのやうに思はれて」「何とか返事しや

うとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息を

つくばかり」で土神の宣言を受け入れられないのである

つまり土神は樺の木を対象として新たな「神の分際」を構築

しようとしたにも関わらず再形象化にも失敗しているのだ37

37 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね」論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

49

村山龍が指摘したように土神は新たな構築手段を通して樺の木

を対象として新たな「神の分際」を構築しようとするが伝えたい

精神が神性の範囲を超え出たひとりよがりなものであり樺の木を

受け入れらいないものであるため土神の再形象化にも失敗してい

ると分かったこの指摘から土神は異なる手段を通して樺の木に

「神の分際」を構築しようと試みたが樺の木が理解できることを

伝える配慮に欠けているのが明らかである

上述した先行論を踏まえて土神の樺の木と狐の二人との関わり

方に関する場面を中心に土神の樺の木と狐の二人との関係性を論

じていく

「二」後半の土神と樺の木との会話が示される場面で土神は

狐の話が及ぶ樺の木の前で以下の反応を表している

この語を聞いて土神は俄かに顔いろを変へましたそして

こぶしを握りました

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」

樺の木はおろおろ声になりました

「何も仰っしゃったんではございませんがっちょっとしたら

ご存知かと思ひましたので」

「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだえい」

樺の木はもうすっかり恐くなってぷりぷりぷりぷりゆれま

した土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこら

をあるきまはりましたその影はまっ黒に草に落ち草も恐れ

て顫えたのです

50

「狐の如きは実に世の害惡だたゞ一言もまことはなく卑怯

で憶病でそれに非常に妬み深いのだうぬ畜生の分際とし

て」(p250)

ここに示された土神の反応は神としての誇りを持つ土神が動物で

ある狐に教えられることへの抵抗であると言えるであろう樺の木

が狐のことに言及したのは狐のような畜生より賢いという土神の

〈自己認識のずれ〉に外れることであろう「二」前半で狐から

星の話を聞いてもらった樺の木は狐の博学な印象を受けていて

土神に狐に聞いてみたらというアドバイスを行うと推測できよう

「何だ狐 狐が何を云ひ居った」という土神の樺の木への質

問から土神は樺の木が狐との会話内容を知らないため狐が土神

より種子に関する知識を持っているという樺の木の理解に納得でき

ないと考えられるのである

土神は樺の木の前に「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たる

ことだえい」と言うように樺の木に自らが神であることを強

調する言葉をとっているが土神は樺の木に狐より優れた知識を持

つ行動を見せていないためただ樺の木に「すっかり恐くなってぷ

りぷりぷりぷりゆれました」「恐れて顫えた」のような恐怖の印

象が与えているため土神が神であることを認めるのは考えにくい

「(三)」後半で土神は樺の木と狐について苦悩を抱えている

その場面は次のようなものだった

土神はたまらなさうに両方で髪を掻きむしりながらひとり

で考へましたおれのこんなに面白くないといふのは第一狐

51

のためだ狐のためより樺の木のためだ狐と樺の木とのた

めだけれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ樺

の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ樺の木さ

へどうでもよければ狐などなほさらどうでもいゝのだおれ

はいやしいけれどもとにかく神の分際だそれに狐のことな

どを気にかけなければならないといふのは情ないそれでも

気にかゝるから仕方ない樺の木のことなど忘れてしまへ

ところがどうしても忘れられない今朝は青ざめて顫えたぞ

あの立派だったことどうしても忘れられない(pp252-

253)

引用に示された土神の苦悩の中心は「おれはいやしいけれどもと

にかく神の分際」だということである樺の木と狐のことを忘れた

い土神にとって樺の木と狐のことが気にかかるのは神としてふさわ

しくない行動であろう土神は樺の木と狐のことが気にかかる気持

ちを抑えられないため理想の自己になれない苦悩を抱えている

土神は樺の木の「青ざめて顫えた」のような反応が立派なことだと

いう認識を持ち樺の木に恐怖の印象を与える自覚を持ってなく

樺の木の土神自身への思いに気づかないと判断できようここに示

された土神の認識が破綻していくのが見えてくる

「(四)」前半の土神は「樺の木のことを考へるとなぜか胸が

どきっとするのでしたそして大へんに切なかったのです」

(p254)という樺の木が気にかかる気持ちを抑えることができず

「樺の木は自分を待ってゐるのかもしれない」(p254)という思

い込みを持ち樺の木のところへ行くが樺の木と狐との会話を聞

52

いた後土神は樺の木が自分を待っていることが自分の自意識過剰

であると知り以下のような内心の葛藤を抱えている

土神はもう居ても立っても居られませんでした狐の言っ

てゐるのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした

いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教へてゐるの

が今度はできなくなったのですあゝつらいつらいもう飛

び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうかけれどもそん

なことは夢にもおれの考へるべきことぢゃないけれどもお

れといふものは何だ結局狐にも劣ったもんぢゃないか一体

おれはどうすればいゝのだ土神は胸をかきむしるやうにし

てもだえました(p254)

ここに示される土神の内心の葛藤は狐が自分より優れた知識を持

ち狐が話していることを称賛した樺の木の行為を加え神として

狐の上位に立つ自信がなくなったことを表しているその葛藤を抱

えている土神は「いやしくも神ではないか」という自己認識を確立

できなくなり「けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきこ

とぢゃない」という思いを通して一時的に狐を殺す衝動を抑える

が狐への劣等感が残っているため土神の感情制御が不安定な状

態になってしまう

「(五)」前半の土神はこれまでとは異なる自己認識の変化を

生み出しているその変化は次のようなものだった

53

あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日土神は大へん上機

嫌でした今年の夏からのいろいろなつらい思ひが何だかぼ

うっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環に

なってかかったやうに思ひましたそしてもうあの不思議に

意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と

話したいなら話すがいゝ両方ともうれしくはなすのならほ

んたうにいゝことなんだ今日はそのことを樺の木に云って

やらうと思ひながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行き

ました(p256)

その変化から土神は狐との上下関係に執着せず樺の木と狐二人

と愉快に話せばいいという認識を持ち新たな自己認識を形成して

いくと考えられる土神は樺の木との直接した会話と樺の木と狐の

会話を聞いた経験から狐との上下関係を気にかけると土神自身の

〈自己認識のずれ〉に悪い影響を及ぼす前例がある土神は他人と

の上下関係を気にしない前提として樺の木と狐からの自己肯定を

得て新たな自己認識を構築していくことが窺えるのである

「(五)」において土神は樺の木に思いを伝えようとするが

「吐息をつくばかりでした」(p257)という態度で土神への

恐れを抱えていると判断できる土神は狐が土神に「挨拶もしない

でさっさと戻りはじめました」(p257)のような失礼な行動によ

って狐への劣等感を刺激され自己の感情制御が破綻し狐を殺

した結末になった

以上に述べた土神の樺の木と狐の関わり方の変化から「二」後

半の樺の木が狐の話に言及した場面と「(四)」後半の樺の木と

54

狐との会話と「(五)」の樺の木と狐の言動は土神の〈自己認

識のずれ〉に反する行為を含め土神に傷つけられたような気分に

なる場面であることが明らかとなる

これらの場面に示された行為は土神の〈自己認識のずれ〉による

土神の悲運の成立に関わるとわかり次節ではこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように

描いているかについて論述していくとする

42 土神の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節で明らかにした土神が傷つけられた行為を分析し

これらの行為と土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わ

る要素を論じていく

前節に示された土神の〈自己認識のずれ〉は狐より樺の木が気に

かかり土神が傷つけられたと感じる対象は主に樺の木のことだと

分かった「二」後半の樺の木との最初の会話で土神は樺の木が

狐のことに言及した一言によって急に怒ってしまい狐のことを批

判しはじめたその原因は土神より狐のほうが種子に関する知識を

持つという樺の木の理解が神としての誇りを持つ土神にとって自分

の〈自己認識のずれ〉に外れたことであり神であるという自己認

識を持つ土神に悪い影響を与えられることでもあった土神の感情

制御が不安定になったのは樺の木の言葉による土神の自己認識の動

揺と関連している

「(三)」後半の土神は狐より樺の木のことが気にかかる気分

を示されている「(四)」前半の土神は樺の木が気にかかる気

55

持ちを抑えず樺の木が自分を待っているという期待を持つため

樺の木と狐の会話が土神の自己認識に強い影響を与え土神の感情

制御が不安定な状態になった「(五)」前半の土神は自分の思

いを樺の木に伝えたいという認識を持ち土神は上下関係を気にせ

ず樺の木と狐から神としての自己肯定を得る手段を通して新た

な自己認識を構築していく心掛けを持っていると分かった

一方樺の木の土神の思いへの反応について村山龍(2013)38

が指摘しているように樺の木の土神の宣言への反応から土神の新

たな「神の分際」を構築しようという思いを受け入れないと分かっ

土神は自分の思いを樺の木と狐に伝えていないため樺の木と狐

との人間関係を改善できず新たな自己認識を構築もできないとい

う〈自己認識のずれ〉に反した結果になったその結果により安定

な自己認識を確立できない土神は自己の感情制御が弱くなり

「(五)」後半で狐への暴行衝動を抑え切れず狐を殺した結末

になったと考えられる

土神は樺の木の行為を受け自分の〈自己認識のずれ〉が自身の

悲運を招くことを知り悲運を変える努力をすると見られるだが

土神は樺の木の自分への認識を正しく認識してないため間違い前

提をして樺の木と新たな階級関係を構築するのは極めて困難なこと

であると予期できる物語の結末から土神の間違った認識により生

み出された樺の木と狐への新たな階級関係は土神の目算が狂うこと

になったと言えよう結果から見ると土神の樺の木と狐との仲は

38 村山龍(2013)「〈関係〉が紡ぐテクスト―宮澤賢治『土神ときつね』論

―」『三田国文』第五十八号 慶應義塾大学国文学研究室p55

56

悪くなり狐の死によって樺の木と狐二人との関係の修復は不可能

なことになったと考えられる土神の悲運は樺の木と狐にとって一

種の悲運であると見られる樺の木の土神とのやりとりで土神の

言動による樺の木の精神状態への衝撃も激しいと見られ悪印象し

か残っていないと言えた「二」後半の樺の木との最初の会話で

の土神の狐への批判「(五)」前半の土神の樺の木への宣言は

樺の木にとって不可解な行為であり土神の思いを理解できない樺

の木が土神への恐怖を抱く行為を示している

上述のことから樺の木と狐がした行為は土神の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に相関関係を持つことが明らかである土神

は樺の木と狐の行為を受けた時土神の自己認識を構築している自

信がなくなり自己の感情制御も弱くなったこれらの行為は土神

の感情制御に悪い影響を与えている面が持っているが「(五)」

で示した土神の内心の葛藤から樺の木と狐の行為が土神の自己認識

を再構築することを促進するような良い影響も与えている面もある

とは明らかである

だが前節で述べた土神の〈自己認識のずれ〉によって樺の木

の行為に正しく理解しておらず土神の自己認識を再構築する心掛

けが空振りに終わることになった土神の悲運の成立に関わる要素

は土神の〈自己認識のずれ〉による樺の木の行為への認知の歪みで

あると考えられる季節の移りに伴って土神の認知の歪みが深刻化

し樺の木の心に背く道に進んでいるという不本意な結果になった

また狐の行為は樺の木より土神の〈自己認識のずれ〉への影響

が少ないが「(五)」での狐の行為は自身が殺されたという土

神の悲運に繋がるため狐の心境変化を探究する必要がある狐の

57

心境変化の問題について秦野一宏は以下のように狐の無意識の行

為を分析している

これは土神だけの問題ではない『土神ときつね』のもう一

人の主人公である狐もまた土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避するたとえば狐は望遠鏡な

ど注文してもいないのに「僕実は望遠鏡独乙のツァイスに

注文してあるんです来年の春までには来ますから来たらす

ぐ見せてあげませう」などと「思はず」嘘を言ってしまうが

そのあとすぐにいや嘘はいけないという思いが頭をよぎ

る「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってし

まったあゝ僕はほんたうにだめなやつだ」しかしその

ように殊勝に反省しても次もまた「つい」嘘をついてしま

いそしてほんとうのことは樺の木にはけっして告げられ

ることはないある意味では狐は「言葉の恣意性」に「苦

しんでいる」と言ってよいのかもしれないただこの「苦し

み」は苦しみぬくことのない中途半端な苦しみである

狐にはいつも言い分がある

「けれども決して悪い気で云ったんぢゃないよろこばせやう

と思って云ったんだ」

いくら「あとですっかり本統のことを云ってしまはう」とけ

なげに反省したとしてもよき意図をもって行った無意識的

58

行為は許される自分は悪くない(仕方がない)という自己

弁明が反省を浮薄なものにする39

狐の無意識な行為においては土神と同じように自身の無意識

的行為に対する責任を回避する狐が自身の無意識的行為への反省

をしているが意図を持って行った無意識的行動は許される自分

は仕方ないという自己弁明が反省を浮薄なものであるという秦野一

宏の分析に異論はない

狐は樺の木に好感を与えるため様々な嘘をつき自分が上品な

人物であるという印象を作り出した樺の木は「どちらかと云へば

狐のほうがすきでした」(p246)という語り手の言葉からすれ

ば樺の木の好意を得る狐の策略は成功であると言えよう

しかし狐は樺の木が好感を持つ自分が本来の自分ではなく無

実の嘘により作り出した偽物であると知っており樺の木の好感が

持ち続けるため仕方なく偽の自分を演じるという自己弁明をする

と言えよう

狐は自分の樺の木への印象操作を通して彼女に好感を与えるこ

とが成功するが樺の木が気になる土神の嫉妬心に火をつけ土神

に殺された運命を迎えている土神と狐は互いの気持ちへの配慮が

足りないため土神と狐にとっても望まない悲運を招くと考えられ

39 秦野一宏(2013)「宮沢賢治と無意識 ―『土神ときつね』をめぐって『海

保大研究報告』第 58 巻第 2 号 海上保安大学校p13

59

43 土神の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では土神の樺の木と狐との関わり方についての場面を考察し

これらの場面から見られる土神の〈自己認識のずれ〉を現す場面を

明らかにしたそしてこれらの場面を分析し土神の樺の木と狐の

二人との関係性を解明し土神の〈自己認識のずれ〉による悲運の

成立に関わる要素を明らかにした

土神の〈自己認識のずれ〉に関わる場面を考察した結果土神の

〈自己認識のずれ〉を促進したのは主に樺の木がした行為である

土神が樺の木を狐より気にかけ樺の木に対しての〈自己認識のず

れ〉が多いと分かった樺の木と狐がした行為を分析した結果から

これらの行為と土神の感情制御との関係は相関関係であり土神の

感情制御に与えた影響は悪い面と良い面もあることであると明らか

にした土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響か

ら傷つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土

神は傷つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の

木と狐の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を

構築していることができると考えられるのである土神と狐は樺の

木のことばかり考えており相手の気持ちへの配慮が足りないため

土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと考えられる

また土神と狐二人の心の葛藤について村山龍は以下のように

述べている

そもそもテクストは社会(共同体)と個人の関係を暴きなが

らそのlt関係gtの中での新たな展開の希望としてlt共にgtとい

60

う概念を導入したわけではないそれは主体構成のための要

素として書かれていた既にテクストの検討からも得られた

ように土神は人とのlt関係gtから「神の分際」を得樺の木

とのlt関係gtにそれを適応させようと四苦八苦するうちに樺の

木が「立派」と思うような新たな自分を模索するようになっ

たまた狐は「本統」の自分にこだわりながらも樺の木〈関

係gtから(偽)の自分を演じざるを得なくなったこのような

両者が主体認識について内省するという状況を示したテクス

トの構造自体がこの社会と個人の〈関係〉を明暢に示してい

るとは言えまいかテクストはまさに他者との〈関係〉=社

会構造が個人の存在を規定することを言及しているそれに

よって複層化された自己が安定を求めて彷徨い結果失墜し

ていく様が描かれているのであるそれゆえに土神と狐はそ

れぞれ樺の木との二者関係という最小単位の共同体の中で

それが存在し得ないものであるにも関わらず本来の己の姿

というものを求めて懊悩しているのである40

土神と狐二人の心の葛藤は本来の己の姿というものを求めて懊悩

しているのであるという村山龍の論述は賛同できる土神は樺の木

の好感を得るため樺の木に認められる神としての自分に適応する

ことに努力している狐は樺の木の好感を得るため上品な印象を

作りだし偽の自分を演じている

40 同前掲村山龍(2013)pp60-61

61

結局樺の木の好感を得る努力をしている土神と狐二人は互いの

気持ちへの配慮が足らず他人を求める自分と本来の自分の統合が

うまくできず土神と狐二人にとっても望まない悲運を招くと言え

よう

土神と狐と樺の木の関係から土神と狐二人は樺の木が気になる

という三角関係になっていたため樺の木にも納得できる自己認識

を構築することが土神ときつねにとって重要なことであると考えら

れる前述のように星や詩など西洋の知識が詳しい狐のほうに樺の

木の好感が向いたことで樺の木も気になる土神の嫉妬心を煽るこ

とになった

「(五)」で土神は狐と樺の木二人と仲良くなることを心掛け

ているが挨拶もしないという狐の行為が再び土神の嫉妬心を煽り

狐を殺す衝動が抑えられず狐を殺してしまった狐を殺した土神

は樺の木が惹かれる狐の持つ西洋の知識を探すように「狐の穴の

中に飛び込んでいきました」(p258)という行為をするが「中

はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐるばかりでした」

という穴の様子からすれば土神が恐れた狐を持つ西洋の物は実在

することではなく単なる空想にすぎないと分かった

「だゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で

狐は少し不正直だったかも知れません」(p247)という語り手の

言葉から語り手の土神への同情が見られ土神が狐を殺すという結

末によって正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしている

と考えられる一方死んだ狐の「首をぐんにゃりとしてうすら笑

った」(p239)という笑い様子を通して狐の作り話による土神

の衝動行為への皮肉でも言えるであろう死んだ狐の笑顔と土神が

62

泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定しても暴力を振る

ことを反対する思いが反映されると言えるであろう死んだ狐の笑

顔が土神の衝動行為への皮肉であるように土神の悲運は狐の作り

話への過剰反応による自業自得の結果であると言えるであろう

63

第五章

「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のずれ〉

51 白象とオツベルとの関わり方

宮沢賢治の「オツベルと象」41という作品は 1926年『月曜』創刊

号に発表された作品であるこの物語は主人公の白象とオツベルの

関係をめぐる物語である白象は働くことが好きなような性格を持

ちオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた「第二

日曜」での内容から白象はオツベルが与える仕事に文句を言えな

かったが「ブリキでこさえた大きな時計」(p164)42と「百キ

ロもある鎖」(p164)「四百キロある分銅」(p164)をつけ

る靴などからだを縛るものがつけられても気にせず純粋に働く喜

びを感じていたしかし「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ち

を耐えられず他の象に助けを求めていた物語の結末で白象は他

の象に助けられたがオツベルが他の象に殺された

41 『月曜』誌掲載時には「オツベルと象」であったが 宮澤賢治の作品を一般

に普及させた文圃堂版である全集第三巻(1934)で「オッペルと象」と誤植

されたこれから「オッペルと象」とされてきたが筑摩書房に出版され

た『校本宮澤賢治全集』第十一巻(1974)で「オツベルと象」に改められ

た本論文のテクストである宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集

第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)の表記は筑摩書房版

(1974)と同じである 42 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

64

序論では白象が傷つけられた原因を高橋直美の論で説明した43

その原因は白象がオツベルの仕打ちによって働く喜びを失ったこと

と関わっているとわかるどのようにしてオツベルの仕打ちが白象

の働く喜びを失わせたかを探求する場合白象がオツベルとの関わ

り方の変化を追跡する必要がある

まず白象とオツベルとの関わり方についての場面を確認しよう

テクストの「第一日曜」でオツベルは自分の工場の稻扱器械に興味

を持つ白象に「度胸を据えて」(p163)という慎重な態度を取り

「ずうつとこつちに居たらどうだい」(p163)と言い白象を

誘ってみた白象がオツベルの誘いに快諾しオツベルは「顔をく

しやくしやにしてまつ赤になつて悦び」(p163)という甚だ喜

んでいる様子が伺える

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働き始めた白象はオツ

ベルに体を縛るものをつけられても「大よろこびであるいて居つ

た」(p164)という働く喜びを感じる行動をしていることがわか

るこの段階でのオツベルの仕打ちは白象に嫌われる行動をされて

いないと見られる

しかし「第五日曜」で白象の「時に赤い竜の眼をしてぢつと

こんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)という

オツベルへの行為からオツベルへの強烈な憤慨を表明する行為で

あると言えよう

43 高橋直美(2000)「『オツベルと象』『セロひきのゴーシュ』異読―『白

象のさびしいわらい』と『ゴーシュのつぶやき』」『国際地域学研究』第 3

号 東洋大学国際地域学部p20

65

本章では上述した「第一日曜」から「第五日曜」までのオツベル

の行動を受け白象の心に沸き立ってくる〈自己認識のずれ〉によ

る関わり方の変化に注目し白象の悲運の成立に関わる要素がどの

ように描かれているのかを論じていきたい

研究手順としてはまず白象がオツベルとの関わりについての

場合を取り上げ白象の〈自己認識のずれ〉を表せる場面をまとめ

るそしてこれらの場面を分析し白象とオツベルとの関係性を

明らかにして白象の〈自己認識のずれ〉による白象の悲運の成立

に関わる要素を解明する

まず「第一日曜」での白象がオツベルに自分の工場へ誘われ

ている場面で以下のようなやりとりがある

さあオツベルは命懸けだパイプを右手にもち直し度

胸を据えて斯う云つた

「どうだい此処は面白いかい」

「面白いねえ」象がからだを斜めにして目を細くして返

事した

「ずうつとこつちに居たらどうだい」

百姓どもははつとして息を殺して象を見たオツベルは

云つてしまつてからにはかにがたがた顫え出す

ところが象はけろりとして

「居てもいいよ」と答へたもんだ

66

「さうかそれではさうしやうさういふことにしやうぢや

ないか」オツベルが顔をくしやくしやにしてまつ赤にな

つて悦びながらさう云うた(p163)

下線部分に示されたオツベルの反応から白象へ慎重な姿勢

を取ることがわかる稻扱器械に興味を持つ白象を見たオツ

ベルは白象に自分の工場へ来てもらいたいが白象が人間よ

り何倍もの力を持つ動物であり白象の行動の意図を把握し

ていない状況でオツベルは「どうだい此処は面白いかい」

(p163)という無難な質問をしてみた白象の「面白いね

え」(p163)という工場に興味を持つ返事を聞いたオツベ

ルは白象が工場に残るかどうかの意思確認を行うため「ず

うつとこつちに居たらどうだい」(p163)と質問したが

たがた震えだすというオツベルの動きから白象への怯えを抱

いていると見られる「居てもいいよ」という白象の答え

を聞いたオツベルは「まつ赤になつて悦びながらさう云うた」

(p163)という警戒を緩めるような行動を取るのである

「第二日曜」の前半で白象はオツベルの工場で働き始め

以下のようなオツベルとの関わりがあった

「おいお前は時計は要らないか」丸太で建てたその象小

屋の前に来てオツベルは琥珀のパイプをくわえ顔をしか

めて斯う訊いた

「まあ持つて見ろいゝもんだ」斯う言ひながらオツベル

はブリキでこさえた大きな時計を象の首からぶらさげた

67

「なかなかいゝね」象も云ふ

「鎖もなくちゃだめだらう」オツベルときたら百キロも

ある鎖をさその前肢にくつつけた

「うんなかなか鎖はいいね」三あし歩いて象がいふ

「靴をいたらどうだらう」

「ぼくは靴などははかないよ」

「まあはいてみろいいもんだ」オツベルは顔をしかめな

がら赤い張子の大きな靴を象のうしろのかかとにはめた

「なかなかいいね」象も云ふ

「靴に飾りをつけなくちや」オツベルはもう大急ぎで四

百キロある分銅を靴の上から穿め込んだ

「うんなかなかいゝね」象は二あし歩いてみてさもう

れしさう云つた

次の日ブリキの大きな時計とやくざな紙の靴とはやぶ

け象は鎖と分銅だけで大よろこびであるいて居つた

(p164)

下線部分に示されたオツベルの白象への行動は白象への警戒を示

す行動であるブリキでこさえた時計百キロある鎖四百キロあ

る分銅などが白象の行動に制限を加えるものでありオツベルはま

だ白象のことが信頼していない証拠になると考えられる

白象の場合オツベルの行動への反応は「なかなかいいね」

(p164)のような従順な態度を示しているが「ブリキの大き

な時計とやくざな紙の靴はやぶけ」(p164)という行動から白

68

象がオツベルの前に従順な姿を表すもののオツベルの行動を満遍

なく受け入れることができないようであると推測できる

「第二日曜」の後半のオツベルと白象との会話が示されている場

面でオツベルは以下の反応を表している

夕方象は小屋に居て十把の藁をたべながら西の三日の月

を見て「ああ稼ぐのは愉快だねえさつぱりするねえ」

と云つてゐた

「済まないが税金がまたあがる今日は少うし森からたき

ぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり

両手をかくしにつつ込んで次の日象にさう言つた

「あゝぼくたきぎを持つて来やういい天気だねえぼく

はぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらつてかう言

つた

オツベルは少しぎょつとしてパイプを手からあぶなく落

としさうにしたがもうあのときは象がいかにも愉快なふう

でゆうくりあるきだしたのでまた安心してパイプをくわ

い小さな咳を一つして百姓どもの仕事の方を見に行つた

(p165)

ここに示されたオツベルの反応は白象が森に戻ることへの恐れを

持っていると言えるであろう「第二日曜」の前半でのオツベルは

白象の返事を聞きた後殆ど聞き流すだけで強烈な感情が潜んで

いないと見られるしかし白象の「ぜんたい森へ行くのは大すき

なんだ」(p165)ということばを聞き「パイプを手からあぶな

69

く落としさうにした」(p165)というあからさまに動揺している

行動をしているとわかる白象が機嫌よさそうに工場で働いている

がいつか工場を離れるかもしれない恐れはオツベルの心の中に残

っているようで白象の行動を制限する行為をしていると考えられ

そして「第五日曜」での白象はオツベルの仕打ちに耐えられず

「なかなか笑はなくなつた時には赤い竜の眼をしてぢつとこん

なにオツベルを見おろすやうになつてきた」(p166)というオ

ツベルへの憤慨を洩らす行動をしているとわかる第三日曜と第四

日曜で白象はオツベルにどのような仕打ちを受けるか物語の中に描

かれていないが「第二日曜」でオツベルの白象への仕打ちからす

れば白象のへの仕打ちが段階的にひどくなると予想される

白象の救援依頼に応じている他の象たちはオツベルの工場に着き

白象を救出しようとしているそれを阻止しようとしているオツベ

ルは百姓たちに象小屋の戸を閉めることを指示しているその場面

は次のようなものだった

ところがオツベルはやつぱりえらい眼をぱつちりとあい

たときはもう何もかもわかつてゐた

「おい象のやつは小屋にゐるのか居る 居る 居る

のかよし戸をしめろ戸をしめるんだよ早く象小屋の

戸をしめるんだようし早く丸太を持つて来いとぢこめ

ちまへ畜生めぢたばたしやがるな丸太をそこへしばりつ

けろ何ができるんかわざと力を減らしてあるんだ

(pp167-168)

70

下線部分に示されたオツベルのことばから白象への仕打ちが白象

の力を減らす狙いを持つとわかるオツベルは「第一日曜」で白象

の意思を尊重するように自分の工場へ誘っているが白象の労働力

を利用すると同時に白象の力を減らす行為もしていることを企ん

でいると言えよう

物語の結末で白象を助けに来た他の象たちは白象を救出するが

オツベルの工場は潰されオツベルの命も落としてしまった結末で

ある白象は他の象たちに「ああありがたうほんとにぼくは助

かつたよ」(p169)という感謝の言葉を言うが「さびしくわ

らつてさう云つた」(p169)という気の毒そうな言い方から自分

を救出するためオツベルの工場が潰され責任者のオツベルもな

くなり本来工場で働いている百姓たちの仕事場も奪われたことに

なってしまったという不本意な結果への無念の思いを抱くと考えら

れる

以上に述べた白象がオツベルの関わり方の変化から最初オツベ

ルは白象の労働力を利用するために白象に自分の工場へ誘ってい

ると言える白象はオツベルの工場で働く喜びを感じることができ

るためオツベルの誘いに応じたと考えられる「第一日曜」でオ

ツベルは白象に働くチャンスを提供し白象が働く喜びを感じると

同時にオツベルの工場と協力関係を結ぶことになった

「第二日曜」で白象はオツベルの工場で働いていて働く喜びを

感じるがオツベルが自分の行動を制限する行動を受けオツベル

に付けられた時計と靴を破るというオツベルの仕打ちへの抵抗があ

71

ると見られるオツベルと白象との協力関係は表面的には前の通り

維持しているがお互いの不信感が芽生えたと判断できる

「第五日曜」で白象がオツベルの仕打ちを耐えられず他の象た

ちに助けを求めているオツベルの工場で働いていることに働く喜

びを感じることができない白象がオツベルとの協力関係を破りオ

ツベルの支配から脱しようとしている物語の結末で白象は他の象

たちに助けられたがその救出行動によってオツベルの工場は壊

滅状態になりオツベルが殺され百姓たちの仕事場もなくなると

いう不本意な結果になってしまった白象が自分の力を過信しオ

ツベルの工場で働いて働く喜びを感じることしか考えずオツベ

ルの予想に外れた仕打ちを耐えられず他の象たちに助けを求める

ことになった白象とオツベルとの関係が破綻していることになる

のは白象が自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉と

関わるとわかる次節では本節で解明した白象の〈自己認識のず

れ〉による悲運の成立に関わる要素をどのように描かれているかに

ついて論じていくとする

52 白象の〈自己認識のずれ〉による悲運

本節では前節を明らかにした白象の〈自己認識のずれ〉に基づ

きその〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を論じ

ていく

前節に示された白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信して

いると分かった「第一日曜」で白象は働く喜びを感じられるため

自らの意志でオツベルの誘いに応じオツベルの工場で働き始めた

72

この段階ではオツベルは白象の労働力を利用できるし白象は働く

喜びを感じられるためオツベルと白象二人は一時的に協力関係を

築くことになった「第二日曜」で自分の力に自信を持つ白象はオ

ツベルの工場で働く喜びを感じられるが時計と靴が破る行動を通

してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵抗が

あると見られるオツベルと白象互いの不信感は二人の協力関係に

負の連鎖が生じる起因になることが窺える

「第五日曜」で白象はオツベルの仕打ちに耐えられず他の象た

ちに助けを求めようとしている自分の力を過信しているという

〈自己認識のずれ〉がある白象が思いがけないオツベルの仕打ちに

耐えられない原因はオツベルへの不信感と関連していると推測され

る工場で働くことを通して働く喜びを得られると思っている白

象は自分の力を過信しているという〈自己認識のずれ〉を持ち工

場で余裕をもって働くことができると思い込んでいた「第二日曜」

で白象は工場の仕事に働くことへの喜びを感じているが自分の行

動を制限するものをつけたオツベルの仕打ちへの不信感も増幅して

いることが考えられる

第三日曜と第四日曜で白象がどのようなオツベルの仕打ちを受け

るのか物語の中に描かれていないが「第五日曜」で白象のオツ

ベルへの憤懣から推測すれば「第二日曜」で受けたことよりひど

い仕打ちを受けたことが考えられるオツベルが白象の労働力を利

用する一方で工場を離れないような白象の力を減らす行為を起こ

していると見られるオツベルは白象の力を減らし白象の行動が

制御できる範囲で工場の労働力として活用していると企んでいるが

白象が自分への不信感を払拭できず〈自己認識のずれ〉を維持で

73

きず働く喜びを失われた白象が他の象たちに助けを求める事態に

なったと言ってもよい

白象はオツベルの工場で働く喜びを感じられると信じ込んでいる

ためオツベルとの協力関係を構築していくが一方でオツベルは

白象を工場の労働力として活用しているため白象を自分の工場へ

誘って協力関係を構築しようとしていると言えよう以上に論じ

たことから白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要

素は白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであると考え

られる

白象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いについて萬田

務は次のように論述している

しかしまるで人間の狡猾さを知らない愚かほど誠実な白象

はオッペルの悪知恵にあっけなくだまされ次第にその思

うがままに支配され気がいたときにはもうぬきさしならぬ

過労と束縛の状態に陥っていた44

白象がオツベルの悪知恵に騙され気がついた時には過労と束縛

の状態に陥っていたという萬田務の論説には一理あるしかし白

象がオツベルに自分の力を強調する場面もあるため白象がオツベ

ルに騙されるのはオツベルの狡猾さを知らない以外自分の力への

過信という要素も含めていると考えられる

44 萬田務(1975)『人間宮沢賢治』桜楓社p111

74

なおオツベルの白象への仕打ちへの批判について萬田務は以

下のように論述している

「税金も高いから」とか「税金がまたあがる」とか「税

金が五倍になった」とかいうのは白象の被支配階級を酷

使するためとより厳しく搾取するための口実としてより

高い政治の権威を私用する封建時代の金持ち階級の常套手段

といえよう食べものの藁もはじめのうちは十把それが八

把八把が五把五把が三把というふうに次第に少なくなっ

ていきつまりは殺さぬように生かさぬようにのすれすれ

に追い詰めていく

しかもこの白象はオッペルに対してはまったくの無批判無抵

抗であるその愚かなまでの信頼をいいことにオッペルは

白象に酷使の限りを尽すのであるそして賢治はオッペル

という一個の地主的資本家の悪辣さに白象という弱者の側

にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに打ち出し

ていこうと試みる45

宮沢賢治はオツベルという一個の地主的資本家の悪辣さに白象

という弱者の側にたって発したところの抗議と批判をそれとなしに

打ち出していこうと試みるという萬田務の論説に納得できるしか

し白象はオツベルに対してはまったく無批判無抵抗であるという

論説とは見方が異なる「第二日曜」で白象は時計と靴を破る行動

45 同前掲萬田務(1975)pp114-115

75

を通してオツベルの行動を制限する行為が増えていることへの抵

抗があると見られる白象の行為から白象はオツベルに対してはま

ったく無抵抗ではなく時計と靴を破るという遠回りの手段でオツ

ベルへの不満を表すと考えられる

53 白象の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では白象がオツベルの関わりについての場面を考察しオツ

ベルの行為による白象の〈自己認識のずれ〉が明瞭になったそし

て白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析し白象の〈自

己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素を解明し白象の

〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを明らかにした

白象とオツベルとの関わり方の変化についての場面を考察した結

果白象の〈自己認識のずれ〉は自分の力を過信していることであ

ると分かった自分の力に自信を持つ白象はオツベルの工場での設

備に興味を持ち働く喜びを感じられるようであるオツベルは白

象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工場へ誘い労働

力として活用していると企んでいる最初白象は工場の仕事から働

く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っているオツベ

ルの仕打ちを受けオツベルへの不信感が増幅した白象とオツベ

ルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ちに耐えられず

他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本意な結果になっ

てしまった

白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結果白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白象とオツベ

76

ルの互いの協力関係への認識の違いであることを解明し白象の

〈自己認識のずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかに

した

また結末の白象の寂しい笑いを宿す宮沢賢治の思いについて

萬田務は以下のように分析している

「オッペルをやっつけよう」と言いながら救援に赴く象た

ちではあるがオッペルを「ゃっつける」ことがもちろん目

的ではないしかし白象を救出するということは間接的

にはオッペルの命を奪うことになる地主的資本家としての

エゴイズムを憎悪するがオッペルという一個の人間の命を

奪うことがでさない賢治の内面にあってはその問題が相

剋葛藤の様相を呈しそのあらわれが直接オッペルの死の

場面の描写を避けたのではあるまいか「オッペルはケース

を握った出ままもうくしゃくしゃに潰れてゐた」すなわち

いつのまにか「死んでいた」という描写さらに「ああ

ありがたうほんとにぼくは助かったよ」と答えた白象で

はあったけれども「さびしくわらってさう云」わねばなら

ぬ―己れが助かりはしたもののその代償として他の生命を

犠牲にしなければならなかった悲哀がこの「さびしく」と

いう表現になったのであるそれは賢治のヒューマニズムの

あらわれと同時に精神的苦悶としての象徴であり賢治の

暴力否定をも意味するものであった46

46 同前掲萬田務(1975)pp118-119

77

宮沢賢治は白象を助けるため間接的にはオツベルの命を奪うと

いう悲哀が白象の寂しい笑いという表現になっていたのであるそ

れは賢治の暴力否定という思いを意味するものであったという萬田

務の論説は示唆的である白象の労働力を利用しているオツベルの

エゴイズムは確かに許されない行為であるがオツベルの生命を奪

うことは白象を助ける象たちが人を殺す罪も背負っていて間接的

に百姓の仕事場も奪うことと同じことになってしまうと言えよう

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』によれば「lt白象の

国gtといわれたタイでは現在でも白象信仰は変わらない象は仏

陀の象徴シンボル

であり神聖なものと見なされているからである47」と

いうことから仏陀の象徴である白象は自分の命を助けるために

他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんでいると考えられる

白象の寂しい笑いという表現を通して一つの命を助けるために

は他人に殺人の罪をなすりつけるという苦悶の感情に反映され

ると言えるであろう

47 金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』p258

78

第六章

「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のずれ〉

61 かま猫の事務所の猫たちとの関わり方

宮沢賢治の「猫の事務所」という作品は 1926 年『月曜』三月号

に発表された童話であるこの作品は軽便鉄道の停車場の近くにあ

る第六事務所で働く猫たちの話であるかま猫は竈の中で眠る癖が

あるため鼻と耳に真っ黒な炭がついている狸のような猫のこと

であるかま猫は他の猫に嫌われるが第六事務所の事務長の黒猫

に選ばれ四番書記に任命されたかま猫は他の書記に嫌われるが

黒猫が庇うことによって無事に事務所での生活を過ごせていると

ころがある日かま猫が風邪を引いて一日休んでいた黒猫はか

ま猫が事務長になると宣伝しているという三人の書記の作り話を信

じかま猫の仕事を取り上げた黒猫の行為は黒猫を信頼している

かま猫への衝撃が大きいと言えよう

序論ではかま猫が黒猫に傷つけられた原因を遠藤祐の論で説明し

た48かま猫が黒猫に傷つけられた原因は黒猫のかま猫への態度に

起因しているものと分かる黒猫の行為を受けて湧いてきたかま

猫の〈自己認識のずれ〉を研究するためかま猫と黒猫との関わり

の変化を辿る必要がある

まずかま猫と黒猫との関わりを描く場面を確認しようある日

三毛猫は床に落ちた筆を拾い上げようとした時机から落ちたか

48 遠藤祐(2007)「〈かま

猫〉と『猫の事務所』のなりゆきある語り手のも

の語る」『学苑』第 804 号昭和女子大学近代文化研究所p38

79

ま猫が立ち上がる三毛猫を手伝おうとするが三毛猫はかま猫に

「きさまはよくも僕をおしのめしたな」(p178)49と怒鳴った

黒猫が三毛猫をなだめたことによりかま猫と三毛猫との争いは激

化せず済んだが三毛猫は「こわい目」(p178)をしてかま猫を

見ていた夜にかま猫は竃の中に入り事務長とかま猫の仲間への

思いを次のように語っている

事務長さんがあんなに親切にして下さるそれにかま猫仲間

のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこ

ぶのだどんなにつらくてもぼくはやめないぞきつとこらへ

るぞ(p179)

かま猫の思いから分かるように黒猫の世話になっているかま猫

は黒猫を信頼しているかま猫の仲間はかま猫が事務所にいるのを

名誉に思っているため仲間の期待を背負うかま猫は他の猫に嫌わ

れるものの働き続ける思いを持つことができると判断できる

かま猫が風邪で休んだ次の日事務所に来たかま猫は原簿が机か

ら消えてなくなり黒猫も含める全員から無視されるような状態に

なってしまった衝撃を受けたかま猫は「もうかなしくてかなし

くて頬のあたりが酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするの

をじつとこらへてうつむいて居りました」(p181)のような無

気力な状態に陥ってしまった一方他の猫たちは「一向知らない

49 本章で示したページ数はテクストの宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治

全集 第十二巻 童話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房) をもとにし

ている

80

といふやうに面白さうに仕事をしてゐました」(p181)というふ

うにかま猫のことを全く気にしない様子である

以上の場面からかま猫は黒猫への信頼を持ち仲間の期待を背負

うため事務所の仕事を大切にするが黒猫と他の猫たちはかま猫

が事務所にいることをあまり大切にしていないと言えるであろう

かま猫と黒猫との関係への認識の不一致は黒猫の行為がかま猫の

〈自己認識のずれ〉への影響に繋がると考えられる

本章では上述のようなかま猫と他の猫たちとの関係を描く場面

を整理しかま猫と他の猫たちとの関わりの変化を追跡した上で

他の猫たちの行為が起因とされるかま猫の〈自己認識のずれ〉によ

る悲運の成立に関わる要素を考察していきたい

まず「猫の事務所」の冒頭でかま猫は他の猫に嫌われるが

事務長の黒猫に選ばれ四番書記に任命された黒猫が指示に従っ

てぜいたく猫の疑問に答える時かま猫は「もう大原簿のトバス

キーとゲンゾスキーとのところにみぢかい手を一本づつ入れて待

つてゐました」(p175)という積極的な姿勢を取りかま猫の

行動を見た黒猫とぜいたく猫は「大へん感服したらしいでした」

(p175)というかま猫の働く姿勢を高く評価したようである

上記から黒猫はかま猫の仕事の能力を期待し仕事への意気込み

も認めるという好意的態度が窺える「猫の事務所」の冒頭に書い

てあるように猫の第六事務所の書記になれるのは「沢山の中で一

番字がうまく詩の読めるものが一人やつとえらばれるだけ」

(p173)で決して容易なことではないと分かる

81

かま猫が狸のような外見で他の猫に嫌われていることにもかかわ

らず黒猫がかま猫を選ぶ理由はかま猫の仕事の能力を期待してい

ると言えるであろう黒猫の期待に応えるようにかま猫は黒猫が

指示する前に資料を用意しておいたりするという仕事への情熱を懸

命に伝えようとしたかま猫の仕事への姿勢が黒猫のかま猫への期

待に応えることは互いに同じ働く姿勢への認識を持っていると判断

できる

その後事務所が廃止になるまでの半年間二番書記の虎猫と三

番書記の三毛猫の二人とかま猫にはトラブルがあったかま猫は

「何とかみんなによく思はれやうにいろいろ工夫をしました」とい

う他の猫たちとの関係を深めたい行動に取り込むがトラブルの結

果からすればかま猫の他の猫たちへの工夫は逆効果になってしま

ったと言えよう

虎猫の場合かま猫が善意を持って落ちた虎猫の弁当を拾い虎

猫に渡そうとするが虎猫が急に怒りかま猫に「何だい君は僕

にこの辨当を喰べろというのかい机から床の上へ落ちた辨当を君

は僕に喰べといふのかい」(p177)と言いだしかま猫の行動

を邪推する解釈が捉える黒猫は「かま

猫君も虎猫君に喰べさせや

うといふんで拾つたんじやなからう」(p177)というかま猫を

擁護するような発言であるがかま猫のことを誤解する虎猫の月給

を上げるという手段でトラブルを解決した「かま

猫をじろつと見

て腰掛けました」(p177)という虎猫のかま猫への行為から

黒猫の解決策は虎猫のかま猫への態度の理不尽さを自覚さられず

かま猫と虎猫の関係が悪化の方向に向かっていると言える

82

三毛猫の場合かま猫は三毛猫に怒られ黒猫がすぐ三毛猫をな

だめた黒猫は「三毛君それは君のまちがいだよかま

猫君は好

意でちよつと立つただけだ君にさはりも何もしない」(p178)

という三毛猫の間違いを糾すが「さあえゝとサントンタンの転

移届けとえゝ」と口を出し三毛猫の機嫌を取る行動であると

言えるのではないか

黒猫の三毛猫への行動は一時的に三毛猫とかま猫との衝突を防ぐ

ことになった「そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかりはじめま

したがやつぱりたびたびこわい目をしてかま猫を見てゐました」

(p178)という三毛猫のかま猫への行為があって黒猫の解決法

はかま猫が他の猫に嫌われているという問題の本質に触れていない

ためかま猫と他の猫との関係が深刻化していると考えられるか

ま猫は他の猫たちに嫌われていることを知るが嫌われている原因

を知らないのである自身の〈自己認識のずれ〉を持ち虎猫と三

毛猫への思いやりの行動に取り込んでも二人に嫌われたままの不

本意な結果を招いたと判断できる

以上からかま猫は「事務長さんがあんなに親切にして下さる」

(p179)という黒猫を信頼している気持ちを持っているものの

黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記との関係を改善さ

せられず虎猫と三毛猫の機嫌を取るような行動が見られる

このようにかま猫の黒猫への信頼は変わらないが黒猫はかま

猫との関係より他の書記との関係を重視していることによりか

ま猫の黒猫との関係への認識に齟齬が生じるものと言えるかま猫

は他の猫たちに嫌われた原因を理解できず黒猫との関係を誤認し

83

黒猫が自分に親切してくれるという〈自己認識のずれ〉が生じたと

考えられる

62 かま猫の〈自己認識のずれ〉による悲運

かま猫と黒猫との関係はかま猫が風邪で欠勤した日に崩されてし

まった最初かま猫が事務所に来ないことが気づいた猫は黒猫であ

るかま猫がまだ事務所に来ていないことについて虎猫が「いゝ

やどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」(p179)と言った

黒猫は「猫の宴会に自分の呼ばれないものなど筈はない」(p179)

と思い虎猫の言葉を疑っているそうである

三毛猫が「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ」

( p179)と言った黒猫は「どうしてどうしてかま猫は」

(p179)という三毛猫の言葉を疑う気持ちを持っているが三毛

猫が「何でもこんどはおれが事務長になるとか云つてるさうだ

だから馬鹿なやつらがこわがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ」

(p179)というかま猫の噂を言った黒猫は三毛猫の言葉を信じ

込んでしまいかま猫の仕事を他の書記に分けると決めた

「けしからんあいつはおれはよほど目をかけてやつてあるの

だ」(p179)という黒猫の言葉から目をかけているかま猫へ

の憤慨が分かる黒猫は他の書記とかま猫との不仲に気づいていな

いようで他の書記の作り話を信じ込んでしまいかま猫との関係

が崩れてしまった

かま猫と黒猫との関係が崩れる場合かま猫への影響は重大であ

るかま猫が「あたり前ならいくら勉強ができてもとても書記な

84

んかになれない筈」(p174)という身分の低い猫であり黒猫の

贔屓がなければかま猫が書記になれないことに違いないかま猫

は他の書記に憎まれ三毛猫が「このかま猫の仕事をじぶんがやつ

て見たくてたまらなくなつた」(p176)という思いを持っている

かま猫が「何とかみんなによく思はれやう」(p176)という思い

を持ってもかま猫としての身分と三人の書記との競争関係が変

わらない限り三人の書記に嫌われる現状を打破するのが困難であ

ろう

第六事務所でかま猫が頼れる人物は事務長の黒猫一人しかいない

ためかま猫は黒猫への依存心が強いと考えられる欠勤した次の

日かま猫は黒猫が自分の仕事を取り上げ挨拶も返さないという

予想外の事態を受け「もうかなしくてかなしくて頬のあたりが

酸つぱくなりそこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへて

うつむいて居りました」(p181)という茫然自失の状態に陥っ

上記のことからかま猫は事務所で働き続ける鍵が黒猫との関係

に繋がる他の猫に嫌われているかま猫は黒猫一人に頼るため黒

猫の支持を失った場合事務所の仕事を取り上げられ事務所に居

続ける自信もなくなった黒猫の行為がかま猫の〈自己認識のず

れ〉へ与えた影響からかま猫が黒猫への依存関係を持っていると分

かる前述した黒猫の虎猫と三毛猫への対処はかま猫と他の書記

との関係への認識の不一致が拡大しかま猫が黒猫への依存関係を

強める一因になったと言える

なおかま猫と事務所の猫たちとの関係について萬田務は以下

のように論述している

85

とにかく「猫の事務所」に描出された世界は人間世界の

様相であることは断わるまでもないし不断の努力を続ける

かま猫を何とかしてその地位から引き下ろそうとする人

間のエゴの世界の縮図なのである「少しまうろく」してい

る事務長の黒猫もはじめのうちはかま猫の味方で一見善

良そうに描かれておりそれも実は信頼している事務長か

ら裏切られることによってかま猫の悲劇的場面を決定的に

するための不作為の伏線と考えられるそのような事務長の

黒猫の軽薄さを見ぬけないつまりは黒猫をはじめから信じ

てしまうかま猫の軽卒さや浅薄さを責める容易だがしかし

逆にそれが賢治の人間性であり前述の怒りの崩壊する過程

に窺えるのと同様であるそれはそれとしてもかま

猫はど

んなに辛くとも事務所を退職とのできない抜き差しならぬ

状態におかれているのである何故ならば「仲間のみんなは

僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこ」んでいるからで

あるつまり事務所に勤務しているのは自分自のためばか

りでなくかま

猫仲間の沽券でもあるそこで「どんなにつ

らくてもくはやめないぞきっとこらへるぞ」と泣きながら我

慢するここにいたってかま猫の辛さは最高潮に達するが

かま猫のこの立場は前言したように対他意識の強かった一面

が表出されている50

50 同前掲萬田務(1975)p95

86

かま猫と事務所の猫たちとの関係においてはかま猫が信頼して

いる事務長である黒猫はかま猫の味方で一見善良そうに描かれて

おりかま猫の悲劇的場面を決定的にするための不作為の伏線であ

りかま猫が事務所に勤務しているのはかま猫の仲間のためである

という萬田務の論説に異論はないかま猫が 40 人の中から黒猫に

選ばれるのは黒猫がかま猫の仕事の能力に期待を持っていたと言え

ようしかし猫たちの中で階級が低いかま猫が事務所で勤務でき

ることは事務所の猫から見れば黒猫のかま猫への同情に過ぎな

いと考えられる

かま猫が事務所で勤務できることは黒猫の事務長としての権力に

よるものであり黒猫のかま猫への見方が変わればかま猫の仕事

を取り上げることは容易なことである事務所の猫たちはかま猫と

黒猫との依存関係を利用しかま猫の黒猫への不利益な行為の噂を

捏造し黒猫のかま猫への不信感が芽生えることになった

事務所で唯一の支持者を失ったかま猫は仕事を取り上げられか

ま猫の仲間のために事務所で勤務していく目標も失い抜き差しな

らぬ状態におかれていると言えよう物語の結末で獅子が登場し

事務所の猫たちに「お前たちは何をしてゐるかそんなことで地理

も歴史も要つたはなしでないやめてしまへえい解散を命ずる」

(p182)と言い出し猫の事務所は廃止になったこの結果から

表向きは獅子が仕事を取り上げられるかま猫を救い出しかま猫の

悲運を避けるように見えるがかま猫が事務所の猫たちに軽蔑され

る立場が変わらない限り再びかま猫の悲運は繰り返されることに

なると考えられる

87

63 かま猫の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズム

本章では「猫の事務所」のかま猫と黒猫との関係の変化から事

務所の猫たちの行為のかま猫の〈自己認識のずれ〉への影響を考察

してきたその結果を次のようにまとめる

まずかま猫と黒猫の関わり方の変化についてかま猫はかま猫

としての身分を持ち書記になれない人物であるが事務長の黒猫

に選ばれ第六事務所の四番書記になったかま猫は黒猫の期待に

応えるようにぜいたく猫を手伝う時に働く情熱を懸命に伝えよう

とするこの段階でかま猫と黒猫との関係への認識が一致している

ことが分かる

第六事務所が廃止になるまでの半年間かま猫と虎猫と三毛猫と

の衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させずに済んだことにな

ったかま猫と黒猫との関係を大切にするのに比べ黒猫の虎猫と

三毛猫への対処は黒猫がかま猫との関係より他の書記との関係を

重視しているという傾向がありかま猫と黒猫との関係への認識の

違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分けることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫への影響は

黒猫とかま猫との依存関係を明らかにしたかま猫の黒猫への依存

関係は関係への認識の不一致が拡大することによってかま猫が黒

猫への依存関係を深める一因になった

88

また物語の最後に獅子が登場した意味について押野武志は以

下のように述べている

だが語り手は最後に「ぼくは半分獅子に同感です」と言う

獅子の登場による解決が完全ではないことを示唆して終わる

のである一回事態をトータルにキャンセルさせてしまうこ

とは一つの解決法であるいじめにあった者が学校や職

場を変えてまったく新しい関係から出発するということも

場合によっては必要だろうだが差別やいじめの構造が根

本的に残存している世界の中でいくら移動しても本当の解

決とはならない世界そのものは事務所ではないからキャンセ

ルできないわけでそれは完全な解決にはならないはずであ

る語り手はそれに気づいている51

語り手の言葉による獅子の登場によるかま猫の危機の一つ解決法

であるがかま猫への差別といじめの構造が残存していればそれ

は完全な解決にはならないはずである語り手はそれに気づいてい

るという押野武志の論説は賛同できる

語り手はかま猫を悲運から救い出すのは事務所を廃止することだ

けではないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲

運を引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映

されると言えよう語り手は獅子のかま猫の悲運から救い出す気持

ちに同感するが事務所の猫たちのかま猫への差別といじめの構造

51 押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』筑摩書房p153

89

を変えることをせず事務所を廃止するという解決法の中途半端さ

に納得できないため「ぼくは半分獅子に同感です」(p182)と

いう思いを表すと考えられるかま猫の悲運を避けることはかま猫

への差別といじめ構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を

回避する根本的な解決法であると言えるであろう

90

第七章 結論

本論文は宮沢賢治の童話に見られる主人公の〈自己認識のず

れ〉について考察したものである五章に分けて研究対象とした

ものについて分析と考察を試みたその結果は以下の通りである

第二章では「フランドン農学校の豚」に見られる「豚」の〈自

己認識のずれ〉を中心に考察を進めたまず「豚」と農学校の人

間との関わり方の変化についての場面を考察した結果「豚」は生

徒たちのことばを聞いて自分が第一流の紳士であると信じ込んで

いた人間語が喋れる「豚」は農学校の校長とのやりとりを通して

人間の前で自分が人間と同じ階級を持っていないと見られ犬と

猫のような人間と仲がいいペットより劣る階級であると分かった

また人間語が喋れる「豚」は自分が人間と同じ階級であるとい

う〈自己認識のずれ〉を持っているが農学校の人間にとって「豚」

は農学校で飼う家畜であり農学校に属する財産であると考えられ

る「豚」が農学校の人間との人間関係への認識の違いによって

「豚」の〈自己認識のずれ〉により「豚」が殺されたという悲運の

結末から逃れられないことが明らかになった語り手は豚の悲運を

通して人間の残酷さと偽善さを批判し豚の代わりに生前に望ん

でいた尊厳死という願いが叶うと分かった

第三章では「黄いろのトマト」に見られるペムペルとネリ兄妹

の〈自己認識のずれ〉をめぐって分析と考察を行なった

ペムペルとネリ兄妹の大人との関わり方の変化についての場面を

考察した結果親の不在という状況で確立してきたペムペルとネリ

の価値観は二人だけでいる時には通用するが大人の世界には通用

91

しないと見られたお金でサーカスを見に行く概念を持たないペム

ペルとネリ兄妹は黄いろのトマトが黄金のような価値を持つもので

あるという〈自己認識のずれ〉を持っているがこの価値観が番人

のような大人に通用しないためペムペルとネリ兄妹の行為が自分

を馬鹿すると勘違いしてペムペルとネリ兄妹を叱ることになった

と考えられる黄いろのトマトを払って見に行くことを期待してい

るペムペルとネリ兄妹とサーカスを見に行く客からお金をもらう番

人の期待の違いによって番人に叱られるというペムペルとネリ兄

妹による悲運の成立に関わる要素であることが解明した

親の不在という状況が生み出したペムペルとネリ兄妹しか通用する

〈自己認識のずれ〉は番人のような大人に通用しないため互いの

期待の違いが生じてペムペルとネリ兄妹の悲運を招くことが明ら

かになった語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹の悲運を語

ることを通して他人に自分の本当の思いを届ける困難さを訴えて

いると言えた

第四章では「土神ときつね」に見られる土神の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察した土神の〈自己認識のずれ〉についての場面

を考察した結果主に土神は樺の木がした行為を受け〈自己認識

のずれ〉が促進されたものである土神が樺の木を狐より気にかけ

土神が樺の木についての〈自己認識のずれ〉が多いと分かった

樺の木と狐がした行為を分析した結果からこれらの行為と土神

の〈自己認識のずれ〉の制御との関係は相関関係であり土神の

〈自己認識のずれ〉の制御に与える影響は悪い面と良い面もあると

明らかにした

92

土神が傷つけられた行為が土神の感情制御に与える影響から傷

つけた行為が土神にとって諸刃の剣のようなものであり土神は傷

つけられた経験を内省し〈自己認識のずれ〉をせず樺の木と狐

の行為を正しく理解すれば適当な手段で新たな自己認識を構築し

ていることができると考えられるのである土神が狐を殺す結末か

ら正直な土神が不正直な狐への否定を示そうとしているが死んだ

狐の笑顔と土神が泣き出す結末から語り手は不正直なことを否定し

て暴力を振ることを反対する思いが反映されると言えるであろう

土神が恐れていた狐が持つ西洋の物は実在するものではなく狐の

作り話であることを明らかにし死んだ狐の笑顔が土神の衝動行為

への皮肉をするように土神の悲運は狐の作り話への過剰反応によ

る自業自得の結果であると言えるであろう

第五章では「オツベルと象」に見られる白象の〈自己認識のず

れ〉をめぐって分析と考察を行なったまず白象のオツベルとの

関わり方の変化についての場面を考察した結果白象の〈自己認識

のずれ〉は自分の力を過信していることであると分かった自分の

力に自信を持つ白象がオツベルの工場での設備に興味を持ち働く

喜びを感じられるようである

オツベルは白象の〈自己認識のずれ〉に気づき白象を自分の工

場へ誘い労働力として活用できると企んでいる最初白象は工場

の仕事から働く喜びを感じられるが自分の力を減らすことを狙っ

ているオツベルの仕打ちを受けオツベルへの不信感を増幅させて

いる

93

白象とオツベルの互いの不信感によって白象がオツベルの仕打ち

に耐えられず他の象たちに助けを求めオツベルが殺された不本

意な結果になってしまったと言えよう

そして白象の〈自己認識のずれ〉が生じた過程を分析した結

果白象の〈自己認識のずれ〉による悲運の成立に関わる要素は白

象とオツベルの互いの協力関係への認識の違いであることが解明し

た白象のオツベルとの協力関係への認識の違いによって互いの

不信感を募らせオツベルの仕打ちに耐えられずオツベルとの協

力関係を破り他の象たちに助けを求めるという象の〈自己認識の

ずれ〉による悲運の成立の生成メカニズムを明らかにした白象の

寂しい笑いという表現を通して仏陀の象徴である白象は自分の命

を助けるために他の象に殺人の罪をなすりつけることを苦しんで

いると考えられる一つの命を助けるためには他人に殺人の罪を

なすりつけるという苦悶の感情が反映されると言えるであろう

第六章では「猫の事務所」に見られるかま猫の〈自己認識のず

れ〉を中心に考察を進めたまずかま猫と黒猫の関わり方の変化

についてかま猫はかま猫としての身分を持ち書記になれない人

物であるが事務長の黒猫に選ばれ第六事務所の四番書記になっ

たかま猫は黒猫の期待に応えるようにぜいたく猫を手伝う時に

働く情熱を懸命に伝えようとするこの段階でかま猫と黒猫との関

係への認識が一致していることが分かった

そして第六事務所が廃止になるまでの半年間でかま猫と虎猫

と三毛猫との衝突は黒猫の口添えによって事態を悪化させず済んだ

ことになったかま猫と黒猫との関係を大切にする〈自己認識のず

れ〉を持つのに比べ黒猫の虎猫と三毛猫への対処は黒猫とかま猫

94

との関係より他の書記との関係を重視しているという傾向があり

かま猫と黒猫との関係への認識の違いが広がっていくと見られた

次にかま猫が欠勤した日黒猫は三人の書記が作ったかま猫の

噂を信じかま猫の仕事を取り上げ他の書記に分いることにした

黒猫しか頼れないかま猫の場合かま猫の〈自己認識のずれ〉への

影響が深刻である黒猫を支えることがなければ事務所で働き続

けることが困難になった黒猫の行為が及ぼすかま猫の〈自己認識

のずれ〉への影響は黒猫とかま猫との依存関係を明らかにした

かま猫の黒猫との依存関係への認識の不一致が拡大することによっ

てかま猫が黒猫への依存関係を深める一因になった

他の書記との関係の方を重視する黒猫の行為がかま猫と他の猫

たちとの関係を改善させられず黒猫との関係を大事にする〈自己

認識のずれ〉があるかま猫は黒猫に仕事を取り上げられたという悲

運に遭うと考えられるものであるかま猫の黒猫への依存関係への

認識の違いはかま猫の悲運の成立に関わる要素であると言えよう

自分の能力を黒猫に信頼され選ばれたかま猫は黒猫の自分への期

待に応じ黒猫との関係を大事にする〈自己認識のずれ〉が生じる

と見られた黒猫はかま猫の能力を信頼しているが他の猫たちと

の関係の方が大切であるためかま猫が自分の地位を脅す存在にな

ると他の猫たちの噂を検証せずかま猫の仕事を取り上げた行為

をしたと考えられる〈自己認識のずれ〉があるかま猫が黒猫との

依存関係への認識の違いによって仕事を与える権力を持つ黒猫が

かま猫の職場の地位が奪わせた悲運に遭遇したことが明瞭になった

語り手はかま猫を悲運から救い出すには事務所を廃止するだけで

はないと示唆しているかま猫のような弱者を救い出すには悲運を

95

引き起こした構造も変えることが必要であるという思いが反映され

ると分かったかま猫の悲運を避けることはかま猫への差別といじ

め構造をなくす仕事場を作り出しかま猫の悲運を回避する根本的

な解決法であると言えるであろう

以上の考察結果を明らかにした主人公の〈自己認識のずれ〉によ

る主人公の悲運の生成メカニズムを以下のようにまとめる

表 2 5 編の童話の主人公の悲運の生成メカニズム

号 作品名 主人公 要素要因

1 フランドン農学

校の豚

豚 1農学校の人間の豚への消極

な態度

2豚と農学校の人間との人間

関係への認識の違い

2 黄いろのトマト ペムペル

とネリ兄

1親不在の環境

2ペムペルとネリ兄妹の番人

との期待の違い

3 土神ときつね 土神 1土神の樺の木と狐との階級

関係へ認識の違い

2土神の樺の木の態度への誤

4 オツベルと象 白象 1白象の自らの力への過信

2白象とオツベルとの協力関

係への認識の違い

5 猫の事務所 かま猫 1かま猫と黒猫との階級の不

平等

2かま猫の黒猫との依存関係

への認識の違い

96

このように宮沢賢治の花巻農学校時代に執筆した童話作品に見

られる主人公の〈自己認識のずれ〉の生成メカニズムを問題意識に

して追求してきた本論文では奥寺事件が発生する前に執筆した作

品の「フランドン農学校の豚」「黄いろのトマト」「土神とき

つね」の主人公と事件が発生した後に執筆した「オツベルと象」と

「猫の事務所」の主人公が生じた〈自己認識のずれ〉が他の登場人

物との認識の違いによって主人公の悲運の成立に関わる要素にな

ったことを明らかにした奥寺事件が発生した後に執筆した作品の

主人公と事件が発生する前に執筆した主人公と異なる部分は他の登

場人物の協力によって元の悲運を避けるようにすると分かった奥

寺事件が発生した後に執筆した作品の主人公が他人の協力を受けら

れる遭遇を明瞭になった

また各童話の語り手は主人公を傷つける登場人物への批判的な

立場も異なる部分があると分かった

「フランドン農学校の人間の豚」の語り手は豚の味方であり豚

の悲運を語ることを通して農学校の人間の偽善さと残酷さを批判す

る立場であると言えた

「黄いろのトマト」の語り手である「私」はペムペルとネリ兄妹

を同情していてペムペルとネリ兄妹の悲運を語ることによって

ペムペルとネリ兄妹の本当の気持ちを理解しようとしない大人の短

絡な思考への批判をする立場であると分かった

「土神ときつね」の語り手の立場は土神が狐を殺すという物語の

結末から不正直な狐を批判する部分がある一方死んだ狐の笑顔を

通して土神自身の悲運は狐への過剰反応という自業自得の部分が

あると明瞭になった

97

「オツベルと象」の語り手はオツベルの死を通してオツベルの

白象への仕打ちに対する批判はあるが白象の寂しい笑いを通し

て一つの命を助けるために他人に殺人の罪をなすりつけるとい

う悩みが示されていると分かった

「猫の事務所」の語り手はかま猫の味方であり獅子が登場した

ことによってかま猫を事務所の猫たちにいじめられる悲運から救い

出すことに対して獅子と同感していた部分は事務所の猫たちへの

批判であると見られるしかし語り手はかま猫の悲運の根源がか

ま猫への差別といじめの構造であることに気づきかま猫を他人に

差別させない健全な環境を作り出すことが悲運を避ける根本的な解

決法であるという他人の批判を超える大局的な観点を持っていると

分かった

以上の考察した語り手の立場の変化から主人公の悲運を変えるに

は主人公が傷つける人物の批判をするという偏狭な思考を持ってい

るということだけでは足りない部分があり主人公と他の登場人物

の立場とも含めて考えるという大局的な観点より悲運の生成メカ

ニズムの背後にある問題を解決することが主人公たちの悲運を回避

する根本的な解決法である5 編の童話作品で描いた主人公の〈自

己認識のずれ〉による悲運の生成メカニズムの真意は主人公たちの

一連の試行錯誤を通して悲運を変える道を切り拓いていくという

結論として導き出すことが出来た

従来の先行研究では上述した作品の主人公の〈自己認識のず

れ〉によって他の登場人物に傷つけられた原因にそれぞれ触れた

ことがあるが主人公の〈自己認識のずれ〉による主人公の悲運の

生成メカニズムを中心にした論及はなかったようである宮沢賢治

98

の花巻農学校時代に執筆した作品の主人公の〈自己認識のずれ〉に

よる悲運の生成メカニズムを中心に探求した本論文には相応の研

究価値が認められると言えよう

なお今後の課題としては花巻農学校時代以外の宮沢賢治の童

話作品に見られる〈自己認識のずれ〉をテーマとしたい

99

テクスト

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話

Ⅱ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話

Ⅲ 本文篇』(筑摩書房)

宮沢賢治(1995)『【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童

話Ⅴ劇その他 本文篇』(筑摩書房)

参考文献(年代順による)

1参考書籍

西田良子(1974)『日本児童文学研究』(牧書店)

萬田務(1975)『人間宮沢賢治』(桜楓社)

佐藤泰正編(1980)『別册國文學宮沢賢治必携』(学燈社)

萬田務伊藤真一郎編(1984)『作品論 宮沢賢治』

(双文社)

続橋達雄(1988)『宮沢賢治少年小説』(洋々社)

宮沢賢治(1991)『宮澤賢治 近代と反近代』(洋々社)

堀尾青史(1991)『年譜 宮澤賢治伝』(中央公論社)

堀尾青史(1991)『宮澤賢治年譜』(筑摩書房)

金子民雄(1994)『宮沢賢治と西域幻想』(中央公論社)

岡屋昭雄(1995)『宮澤賢治論―賢治作品をどう読むのか―』

(桜楓社)

佐藤隆房(1996)『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)

押野武志(2000)『宮沢賢治の美学』(翰林書房)

押野武志(2003)『童貞としての宮沢賢治』(筑摩書房)

100

天沢退二郎(2009)『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』

(筑摩書房)

吉本隆明(2012)『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)

2参考論文

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(『日本文學』第 3 巻第 12 号 日本文学協会pp34-39)

夏目武子(1955)「サークルで『オッペルと象』を読んで」

(『日本文學』第 4巻第 3号 日本文学協会pp174-175)

池上雄三(1982)『オツベルと象―白象のさびしさ」(『国

文学解釈と教材の研究』 第 27 巻第 3 号 學燈社pp86-91)

押野武志(1994)「死をめぐる言説 ― 『フランドン農学校

の豚』を読む」(『日本文学』第 43 巻第 12 号 日本文学協

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牛山恵(1995)「宮沢賢治の童話に見られる批評性 ― 『猫

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賞 』 第 61 巻第 11 号 至文堂pp88-91)

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