ドイツ連れんぽう邦共きょうわこく和国ブランデンブルグ州しゅうにヴリーツェンという町まちがある。その町まちの市しぎかい議会で名めいよ誉市しみん民に選えらばれた日にほんじん本人がいた。肥こえぬま沼信のぶつぐ次である。彼かれの命めいにち日の3月がつ8ようか日には、今いまでも市しちょう長をはじめ市しみん民が彼かれの墓はかに集あつまり、花はなわ輪を供そなえ、哀あいとう悼を捧ささげているという。肥こえぬま沼信のぶつぐ次とはいったい誰だれだろう。彼かれは戦せんぜん前、放ほうしゃせん射線研けんきゅう究のためドイツに渡わたり、戦せんご後、そのままドイツに残のこった医いし師である。一ひとり人の医いし師として、感かんせん染病びょうにあえぐドイツ人じんのために、身みの危きけん険も顧かえりみず、その治ちりょう療に専せんねん念したことが、ヴリーツェンの人ひとびと々に語かたり伝つたえられている。しかし、日にほんじん本人は彼かれの名なも業ぎょうせき績も知しの治ちりょう療に当あたり始はじめた直ちょくご後、7人にんの看かんごふ護婦の内うち5人にんが発ほっしん疹チフスに罹かかり死しぼう亡した。当とうじ時17歳さいの看かんごふ護婦ヨハンナ・フィドラーは、その頃ころのことを「新あらたに加くわわった看かんごふ護婦が自じぶん分も感かんせん染するのではと心しんぱい配していました。でも肥こえぬま沼先せんせい生は何なにも恐おそれず、どんな患かんじゃ者を診みてもやさしく、そして励はげましのことばをかけていました」と涙なみだを浮うかべながら語かたった。肥こえぬま沼の仕しごと事はそれだけではなかった。ポーランドから強きょうせい制退たいきょ去させられた400万まんのドイツ人じん難なん民みん「悪あくま魔の伝でんせんびょう染病」と恐おそれられていた発ほっしん疹チフスが蔓まんえん延していたが、医いし師が決けっていてき定的に不ふそく足していた。駐ちゅうりゅう留ソ連れん軍ぐんは深しんこく刻な伝でんせんびょう染病対たいさく策のため、ヴリーツェンに伝でんせんびょう染病医いりょう療センターを開かいせつ設し、肥こえぬま沼に所しょちょう長になるよう命めいじた。日にほんじん本人は国こくがい外退たいきょ去を命めいじられていたが、深しんこく刻な医いしぶそく師不足のため肥こえぬま沼は例れいがい外だった。以いらい来、医いりょう療センターと自じたく宅を行いき来きする生せいかつ活が始はじまった。医いりょう療センターの医いし師は肥こえぬま沼1ひとり人、助じょしゅ手1ひと人り、看かんごふ護婦7人にん、調ちょうり理職しょくいん員3人にんの構こうせい成。彼かれらが患かんじゃ者た。中ちゅうごく国の有ゆうめい名な漢かんし詩「男だんじ子志こころざしを立たて郷きょうかん関を出いず学がく若もし成ならずんば死しして帰かえらず」(男だんし子たるもの、ひとたび志こころざしを立たてて故こきょう郷を出でたからには、学がくぎょう業が成なるまでは、たとえ死しんでも故こきょう郷に帰かえるものではない)の心しんきょう境だったのである。当とうじ時のドイツはヒトラー政せいけん権が成せいりつ立し、ナチス独どくさい裁が猛もうい威をふるっていた時じだい代であった。文ぶんか化のナチ化かが進すすめられ、言げんろん論統とうせい制、ユダヤ人じん迫はくがい害など、自じゆう由が脅おびやかされていた。当とうぜん然、学がくもん問の分ぶんや野にもナチ化かの波なみは及および、教きょうしょくいん職員知しるようになったのである。肥こえぬま沼信のぶつぐ次は、1908年ねん10月がつ9ここのか日、東とうきょうと京都の八はちおうじちょう王子町(現げんざい在は八はちおうじし王子市)に生うまれた。外げかい科医であった父ちち梅うめさぶろう三郎と母ははハツの間あいだに生うまれた4人にん兄きょうだい妹の長ちょうなん男であった。医いし師の跡あとを継つがせたい父ちちの期きたい待に応こたえ、信のぶつぐ次は猛もうれつ烈に勉べんきょう強した。弟おとうと栄えいじ治氏しは、「兄あには家いえにいた時ときは勉べんきょう強ばかりして、私わたしたちと一いっしょ緒に遊あそぶことはなかった」と語かたっている。1929年ねんに日にほんいかだいがく本医科大学に入にゅうがく学した彼かれは、大たいりょう量の洋ようしょ書を購こうにゅう入し勉べんがく学に励はげんだ。特とくにドイツ語ごで書かかれた本ほんが多おおかったという。それは、単たんに興きょうみ味本ほんい位からだけではなかった。アインシュタインを尊そんけい敬し、憧あこがれを抱いだいていた彼かれは、―第百四十六回―肥沼信次旧きゅうひがし東ドイツのヴリーツェンで伝でんせんびょう染病と戦たたかい、多おおくの命いのちを救すくった医いし師肥こえぬま沼信のぶつぐ次のことを日にほんじん本人は知しらなかった。彼かれを知しるようになったのは、ベルリンの壁かべの崩ほうかい壊がきっかけだった。ヴリーツェンの人ひとびと々が、恩おんじん人である肥こえぬま沼の身みうち内を探さがそうと立たち上あがったからである。以いらい来、日にちどく独の友ゆうこう好の架かけ橋はしとなっている。らずにいた。冷れいせん戦時じだい代、旧きゅうひがし東ドイツに属ぞくしていたヴリーツェンの情じょうほう報は、「鉄てつのカーテン」(東とうざい西の緊きんちょう張状じょうたい態)に遮さえぎられて、闇やみの中なかであったからである。母ははは息むすこ子の消しょうそく息をつかもうと、外がいむしょう務省やドイツ大たいしかん使館などに必ひっし死に働はたらきかけたが、彼かれの行ゆくえ方を知しることはなかった。1989年ねんベルリンの壁かべの崩ほうかい壊で光ひかりが差さし込こんだ。ヴリーツェンの有ゆうりょくしゃ力者たちが、朝あさひしんぶん日新聞の「尋たずね人びと」欄らんに「日にほんじん本人医いし師、コエヌマ・ノブツグをご存ぞんじ知の方かたいませんか」という記きじ事を載のせたことがきっかけだ。89年ねん12月がつ1じゅうよっか4日のこと。記きじ事を知しった弟おとうとの肥こえぬま沼栄えいじ治氏しが名なの乗り出でたことで、肥こえぬま沼信のぶつぐ次の名なを日にほんじん本人も、徐じょじょ々に日独友好の架け橋その出しゅっしょうち生地であるドイツに留りゅうがく学し、ドイツ医いがく学を究きわめたいという人じんせい生設せっけい計を立たてていたのである。日にほんいかだいがく本医科大学を卒そつぎょう業した肥こえぬま沼は、東とうきょう京帝ていこく国大だいがく学の放ほうしゃせん射線医いがく学教きょうしつ室に入にゅうきょく局した。念ねんがん願のドイツに留りゅうがく学するのは、その3年ねんご後の1937年ねん春はるのことであった。29歳さいの肥こえぬま沼は母ははハツと弟おとうと栄えいじ治、それと放ほうしゃせん射線医いがく学教きょうしつ室の同どうりょう僚らに見みおく送られて、横よこはまこう浜港を出しゅっぱつ発した。家かぞく族が彼かれの姿すがたを見みるのはこれが最さいご後となった。以いらい来、故ここく国の土つちを踏ふむことはなかっに対たいする監かんし視制せいど度が強きょうか化され、ドイツの全ぜんだいがく大学で罷ひめん免された教きょういん員は25パーセントに及およんだと言いわれている。ベルリン大だいがく学(戦せんご後はフンボルト大だいがく学)医いがくぶ学部放ほうしゃせん射線研けんきゅうしつ究室に客きゃくいん員研けんきゅういん究員として入にゅうしょ所した肥こえぬま沼は、世せそう相を忘わすれるかのように研けんきゅう究に没ぼっとう頭し、数かずおお多くの研けんきゅう究論ろんぶん文を書かき上あげ、権けんい威ある専せんもんし門誌に発はっぴょう表した。その努どりょく力が認みとめられ、1944年ねんにベルリン大だいがく学医いがくぶ学部における正せいしき式な教きょうじゅ授資しかく格を取しゅとく得するに到いたった。これは東とうようじん洋人としては初はつの快かいきょ挙であった。1939年ねん9月がつ、ヒトラーはポーランドを攻こうげき撃、第だいにじ二次世せかい界大たいせん戦が勃ぼっぱつ発した。ナチズムの過かこく酷な嵐あらしが吹ふき荒あれた。1944年ねん2月がつに、ナチスは肥こえぬま沼にもヒトラーに忠ちゅうせい誠を誓ちかう宣せんせいしょ誓書の提ていしゅつ出を求もとめてきたのである。多おおくの医いし師たちが「ナチス医いし師同どうめい盟」に強きょうせいてき制的に加かにゅう入させられた時じき期である。しかし、彼かれは自じこ己の保ほしん身のために魂たましいを売うることはできない人にんげん間だった。「私わたしは純じゅんすい粋な日にほんじん本人であり、日にほん本国こくせき籍を有ゆうすることをここに宣せんせい誓します」と書かいて提ていしゅつ出したという。研けんきゅうしゃ究者として、あるいは日にほんじん本人としての矜きょうじ持を示しめすエピソードである。第だいにじ二次世せかい界大たいせん戦でのヨーロッパ戦せんせん線は、1945年ねん5月がつにヒトラーの死しをもって事じじつじょう実上終しゅうけつ結した。その被ひがい害は甚じんだい大で、ドイツだけでも700万まんにん人近ちかくの命いのちが奪うばわれたという。それに先さきだ立ち、日にほんたいしかん本大使館はベルリン在ざいりゅう留の日にほんじん本人に脱だっしゅつ出を促うながし、帰きこく国指しじ示を出だした。しかし、肥こえぬま沼はその集しゅうごう合場ばしょ所にはついに現あらわれなかった。ドイツに残のこる選せんたく択をしたのである。彼かれが向むかった先さきは、ベルリン北ほくとう東にあるエーベルスバルデという町まち。シュナイダーという32歳さいの夫ふじん人と5歳さいになる彼かのじょ女の娘むすめを同どうこう行していた。シュナイダー夫ふじん人は戦せんそう争で夫おっとを失うしなった未みぼうじん亡人。肥こえぬま沼との関かんけい係は定さだかではないが、娘むすめを抱かかえたシュナイダー夫ふじん人の境きょうぐう遇を同どうじょう情し、母ぼし子を守まもろうとして行こうどう動を共ともにしたことだけは確たしかである。その後ご、3人にんはエーベルスバルデの隣となりまち町ヴリーツェンにアパートを借かり、その一いっしつ室を診しんりょうじょ療所として診しんさつ察活かつどう動を開かいし始した。ヴリーツェンでは、現代日本の源流~代表的日本人列伝を受うけ入いれる難なんみん民収しゅうようじょ容所にも治ちりょう療に向むかった。そこはシラミが充じゅうまん満する不ふえいせい衛生な環かんきょう境。シラミを媒ばいかい介にして伝でんせん染する発ほっしん疹チフスも蔓まんえん延していた。同どうこう行の看かんごふ護婦フィドラーは、足あしがすくんで部へや屋に入はいることができなかった。そんなフィドラーに「フィドラー、君きみの使しめいかん命感は?」と声こえをかけ、肥こえぬま沼は勇ゆうかん敢な兵へいし士のように収しゅうようじょ容所に入はいり、最もっとも病びょうじょう状のひどい患かんじゃ者のところから診しんさつ察し、次つぎつぎ々に患かんじゃ者を見みて回まわった。フィドラーは、「身みの危きけん険も全まったくかえりみず、無むし私無むよく欲な行おこないを目まの当あたりにして、私わたし冷戦の闇の中に向むかう患かんじゃ者を見みると「また一ひとつ命いのちが救すくわれた」と口くちぐせ癖のようにつぶやいていたという。村むらに往おうしん診に行いっても、肥こえぬま沼は治ちりょうひ療費のことは一いっさい切口くちにしなかった。彼かれら農のうみん民がどんな苦くきょう境に立たたされているかをよく知しっていたのである。そんな彼かれに感かんしゃ謝して、農のうみん民たちは肥こえぬま沼のいる医い療りょうセンターにたくさんの農のうさくもつ作物を届とどけてくれたという。不ふみんふきゅう眠不休の日ひび々が続つづいた。体たいりょく力も衰おとろえていたせいか、肥こえぬま沼は自みずから発ほっしん疹チフスに感かんせん染してしまった。自じたく宅に戻もどるなり、ソファーやベッドに倒たおれ込こんでしまう日ひび々が続つづいた。医いりょう療センターの所しょちょう長となって約やくはんとし半年後ごのことである。しかし、医いりょう療センター内ないでは、いつものように患かんじゃ者を励はげまし、明あかるく振ふる舞まっていた。彼かれの自じたく宅の様ようす子を知しっている家かせいふ政婦は、医いりょう療センターでの彼かれの姿すがたを聞きいた時とき、信しんじられなかったと語かたっている。自じたく宅で倒たおれ込こんで起おき上あがることができなくなってからでも、彼かれは自じたく宅に看かんごふ護婦を呼よんで、ベッドの上うえから仕しごと事の指しじ示を出だしていたという。その後ご、徐じょじょ々に意いしき識が混こんだく濁する中なか、世せわ話をする家かせいふ政婦に「誕たんじょう生パーティをやってあげられなくてごめんね。16歳さいの誕たんじょうび生日おめでとう」とお祝いわいの言ことば葉を贈おくったという。生せいし死の境さかい自ら感染をさまよいながら、労いたわりの心こころを失うしなうことはなかったである。その翌よくじつ日、1946年ねん3月がつ8よう日か、肥こえぬま沼は眠ねむるように息いきを引ひき取とった。37歳さいの若わかさで。シュナイダー夫ふじん人、家かせいふ政婦、フィドラー看かんごふ護婦ら医いりょう療センターの人ひとびと々が見みまも守る中なか、肥こえぬま沼は「桜さくらが見みたい」とつぶやいた。最さいご期の言ことば葉だった。その言ことば葉を聞きいたシュナイダー夫ふじん人は、「日にほん本に帰かえることを叶かなえてあげられなかった。かわいそうに……」と言いって泣ないた。彼かれに命いのちを救すくわれた市しみん民は、「神かみさま様はあのような時じだい代に素すば晴らしい医いしゃ者を与あたえて下くださいました。心こころから感かんしゃ謝しています」と語かたっている。ベルリンの壁かべが崩ほうかい壊した5年ねんご後、ヴリーツェンの市しちょうしゃ庁舎で、「肥こえぬま沼信のぶつぐ次博はくし士記きねん念式しきてん典」が開かいさい催された。その時ときに、彼かれの功こうせき績を称たたえる「記きねん念銘めいばん板」が市しちょうしゃ庁舎の正しょうめん面玄げんかん関に飾かざられた。また、兄あにの最さいご期の言ことば葉を聞きいた弟おとうと栄えいじ治氏しは桜さくらの苗なえ木ぎ100本ぽんを贈おくった。その桜さくらが植うえられた通とおりを「肥こえぬま沼通どおり」と名なづ付けることが議ぎかい会で決けつぎ議されたという。さらに2011年ねん3月がつ11日にちの東ひがしにほん日本大だいしんさい震災の際さい、ヴリーツェンの市しみん民たちから恩おんがえ返しとして義ぎえんきん援金が贈おくられてきた。肥こえぬま沼が無むし私の気きも持ちで行おこなった行こうい為が日にちどく独の友ゆうこう好の証あかしとなっているのである。ドイツ留学伝染病医療センター写真提供/八王子市 ヴリーツェンに咲いた桜は気きの遠とおくなるような感かんどう動に打うたれました。ドアのところで立たちすくんでしまった自じぶん分が恥はずかしかった」と語かたっている。医いりょう療センターの入にゅういん院患かんじゃ者の治ちりょう療以いがい外にも、週しゅう2回かいは外がいらい来患かんじゃ者の診しんさつ察をし、医いし師がいない隣となりむら村の往おうしん診にまで出でかけていた。さらに医いやくひん薬品や治ちりょう療機きき器を求もとめるため、ベルリンなどに一いっ頭とうだ立ての馬ばしゃ車の手たづな綱を引ひいて出でかけることもあったという。惨さんじょう状を目めの前まえにして、彼かれは人じんどうてき道的な一ひとり人の医いし師になりきっていた。治ちりょう療の効こうか果が出でて回かいふく復ドイツで伝染病と戦った医師 (3) 2017 年(平成 29 年)5 月 1 日 向 學 新 聞 THE KOUGAKU SHIMBUN 第 286 号 (月刊) Register from here ! 登録はこちらから Register from here ! 登録はこちらから IFSA 検 索 IFSA就職支援情報サービス 会員登録受付中! 外国人留学生向け求人情報 ホームページに多数掲載中! www.ifsa.jp/index.php?K-info 非公開求人も多数。まずはご登録下さい。 特定非営利活動法人 国際留学生協会 東京電機大学 (東京千住キャンパス) JR線/東京メトロ ほか 北千住駅 (埼玉鳩山キャンパス) 東武東上線 高坂駅・北坂戸駅 くわしくは国際センターへお問い合わせください TEL:03-5284-5208 E-mail: [email protected] HP: http://www.dendai.ac.jp/ 今月の留学生紹介 左:チョウ シウさん(中国・工学部情報通信工学科2年) 中:リク ギさん(中国・未来科学部情報メディア学科2年) 右:ハク ショテイさん(中国・未来科学部情報メディア学科2年) オープンキャンパス開催 東京千住キャンパス 6/18(日)、8/5(土)、8/6(日) 埼玉鳩山キャンパス 6/17(土)、7/16(日)、8/5(土)8/6(日) 2018年4月に、理工学部に3学系が新設! 東京千住キャンパスに新校舎5号館完成!