Top Banner
本名 フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス (Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日 キューバ・オルギン県ビラン生 アメリカは、いまだキューバのカストロ政権を認めない上、 経済制裁を続けている。 キューバはアメリカが恐れるテロ国家なのか、カストロ は悪の独裁者なのか・・・。 真実はおのずと国民の暮らしに露に現し出されている。 医療、教育、福祉をすべて無償にし、有機農園やエネル ギー問題を国家規模で真剣に取り組み、成果と功績を積 み上げ、尚も努力を惜しまないこの国の強靭たるありさま。 このような国民のための国を建国し、政権を維持している キューバにおいて、更にカストロの政策を支持する多くの 国民を前にしても、まだ彼を悪の独裁者だと中傷できるの だろうか? キューバ以外のどこの国に、国家の最高権力者が、一 般の国民と同じレベルの暮らしをしているだろうか? 平等という理想に実に忠実に生き、一般の国民と同じ質 素な暮らしをし続けながらも、彼は未来の平和のために 今日も戦っているのである。 『チェの思想が実現していたら、世界は違ったものになっていただろう。 戦士は死ぬ。だが、思想は死なない 』(フィデル・カストロ) 1950年代、中南米において最も熱い男たちのロマンが繰り広げられた。 そして、1959年、若きカストロが、キューバ革命によって政権を樹立させた。その時、誰もがこの若き青年が、その後 50年近くもの間、政権を存続できるとは信じてはいなかっただろう。しかし、奇跡は起こった。未だカストロの強靭な革 命精神は健在で衰えを知らない。大国アメリカに対抗しながらも、今なお権力を保持する真の勇者フィデル・カストロ。 彼を知るものは、彼の持つ究極の理念にみんな翻弄されてしまうのだ。 Fidel Castro フィデル・カストロ
12

Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

Jul 13, 2020

Download

Documents

dariahiddleston
Welcome message from author
This document is posted to help you gain knowledge. Please leave a comment to let me know what you think about it! Share it to your friends and learn new things together.
Transcript
Page 1: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

本名 フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス (Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, )1926年8月13日 キューバ・オルギン県ビラン生

アメリカは、いまだキューバのカストロ政権を認めない上、経済制裁を続けている。キューバはアメリカが恐れるテロ国家なのか、カストロは悪の独裁者なのか・・・。真実はおのずと国民の暮らしに露に現し出されている。医療、教育、福祉をすべて無償にし、有機農園やエネルギー問題を国家規模で真剣に取り組み、成果と功績を積み上げ、尚も努力を惜しまないこの国の強靭たるありさま。このような国民のための国を建国し、政権を維持しているキューバにおいて、更にカストロの政策を支持する多くの国民を前にしても、まだ彼を悪の独裁者だと中傷できるのだろうか?キューバ以外のどこの国に、国家の最高権力者が、一般の国民と同じレベルの暮らしをしているだろうか?

平等という理想に実に忠実に生き、一般の国民と同じ質素な暮らしをし続けながらも、彼は未来の平和のために今日も戦っているのである。

『チェの思想が実現していたら、世界は違ったものになっていただろう。戦士は死ぬ。だが、思想は死なない 』(フィデル・カストロ)

1950年代、中南米において最も熱い男たちのロマンが繰り広げられた。そして、1959年、若きカストロが、キューバ革命によって政権を樹立させた。その時、誰もがこの若き青年が、その後50年近くもの間、政権を存続できるとは信じてはいなかっただろう。しかし、奇跡は起こった。未だカストロの強靭な革命精神は健在で衰えを知らない。大国アメリカに対抗しながらも、今なお権力を保持する真の勇者フィデル・カストロ。彼を知るものは、彼の持つ究極の理念にみんな翻弄されてしまうのだ。

Fidel Castro

フィデル・カストロ

Page 2: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日にオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行なった。攻撃によって80人以上もが死亡し、カストロは逮捕されて裁判で懲役15年が宣告された。しかし、1955年5月恩赦によって釈放され、2ヵ月後にメキシコに亡命した後革命への野望を胸に再度計画を企てる。そして、メキシコ・シティーにあるカストロの隠れ家であるインペリアル・アパートを拠点に革命を志す最中、盟友チェ・ゲバラが引き寄せられるようにやって来たのが、彼との運命の始まりだ。

カストロは、毎日仲間たちとキューバ侵攻の作戦を練り、ある時決意を露に「来年はキューバに侵攻する。あとはキューバを解放するか死ぬかだ」と宣言した。それから、猛烈に戦闘訓練を重ね、キューバ上陸作戦の準備を整えた後、1956年12月2日、8人乗りのプレジャーヨット“グランマ号“に82人もが乗り込んで、メキシコからキューバへと向かったのだ。しかし、岸の手前で座礁。必死で必要最低限の食料と武器を持って上陸するも、待ち構えていたバティスタ軍の奇襲を受けて、潰滅状態となってしまう。激しい戦闘で多くの仲間を失い、残ったのは12人。その中には、カストロはじめ、チェ・ゲバラやカストロの弟ラウルの姿もあった。彼らは、命からがらシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開するのである。この時、12名の仲間しかいないにも関わらず、カストロは勝利をすでに確信していた。それは、カストロは圧政を受けて貧困に喘ぐ農民たちが、必ず彼らの味方になると確信していたのだ。それは見事的中した。山岳戦を戦う中、近くの農民が彼らに食糧を分け与え、更に医師でもあるチェ・ゲバラは病気などに苦しむ貧困な人々を無償で診断するなど、彼ら真摯な革命家たちは日増しに農民からの支持を受けて、どんどんと貧しい農民たちがゲリラに加わっていったのである。その後、カストロの運動は民衆の支援を獲得し続け800人以上の勢力に成長した。

ガリシア系スペイン移民で鉄道人夫から1万ヘクタールの農園主になった立志伝中の人物である父アンヘル・カストロと母リーナ・ルス・ゴンザレスとの間にフィデル・カストロは生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエスズ会の学校で教育を受けて、野球に熱中した。1944年には、最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学して法律を学ぶ。大学では、政治活動に参加して革命反乱同盟(UTR)に加入する。在学中の1948年には、アメリカのメジャーリーグ選抜チームとハバナ大学とが対戦した際、カストロは投手として出場し、3安打無得点に抑える好成績を残す。1950年に大学を卒業。卒業後は、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。 1952年には、カストロはオルトドクソ(保守)党から議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターは、カストロ・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、カストロは憲法裁判所に政権を牛耳るバティスタ大統領を告発。しかし、請願は拒絶されて、カストロは裁判所を糾弾した。

生い立ち

少年期のフェデル・カストロ

青年期のカストロ

革命への道

チェ・ゲバラとカストロ

シエラ・マエステラでの戦闘の様子

フルヘンシオ・バティスタ (1901~73) 1933年世界恐慌の混乱期にマチャド独裁政権を倒し、その

後実権を握り、1940年大統領に就任。1944年の大統領選で敗れるが、1952年軍事クーデターによって再び大統領の座を捉え、親米独裁政権を樹立した。

Page 3: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

ラウル・カストロ&チェ・ゲバラ

1959年1月 革命成功の瞬間

その後、カストロらが闘う山岳地帯とは別の場所であるハバナなどの都市部でも、彼らに同調する反乱が起き始め、学生たちによる運動や労働者たちによる大規模なストライキが始まった。そして、1958年には、ついに政府軍内部で反乱が勃発。それに危機感を強めたバチスタ率いる政府軍は、1958年5月24日カストロの軍に対して総攻撃をしかけるも、勢力を高めた革命軍の前に敗退。勢いに乗った革命軍は、一気に山を下って都市部へと侵攻を開始する。そして、この年の12月31日、ついにバチスタは自らアメリカへと亡命、1952年から約2万人の国民を殺害し、ラテンアメリカで最悪と罵倒された独裁者の国外逃亡である。それにより、2年に渡る長い戦いは幕を閉じた。カストロ軍の見事勝利である。

1959年1月 革命によって全権を掌握すると、アメリカは直ちにこれを承認。カストロは2月に首相に就任する。その後、カストロ率いる革命政権は、農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。そして、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めたのである。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業をすべて国有化し、農業の集団化を実施するなどの社会主義国家の建設を推進した。この過程で、中流階級以上の人々がアメリカなどへ亡命。企業の財産を接収されたアメリカとの関係は、この時より日増しに悪化する。カストロは革命後の4月にホワイトハウスを訪れて、副大統領のリチャード・ニクソンと会談をしている。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、ゴルフのプレー中であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがカストロを軽視していたことが伺える。同年12月、アメリカ国家安全保障会議は、カストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。所謂「ビッグズ湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。その後、キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバとの国交を断絶。それにより、必然的にカストロはソ連に接近することになり、キューバはソ連との関係を深めていくのだ。その後、カストロとフルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めていくのである。

シエラ・マエストラにて

カストロ政権樹立後

カストロとフルシチョフ

1956年12月2日、メキシコを出航するグランマ号

Page 4: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

フルシチョフの回想録によると、1962年の春にクリミア半島で休暇を過ごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついたという。彼は、この考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、交渉の末ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめたのだ。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を世間に公表する。そして、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行したのだ。キューバ危機の始まりだ。

キューバ危機

アメリカにより発見されたキューバの中距離核ミサイル基地

アメリカ哨戒機に発見されたキューバに向かうソ連船

米ソの交渉はギリギリの駆け引きの中で行なわれた。映画”13デイズ”に観るような張り詰めた緊迫感の中、最終的に折れたのはソ連であった。フルシチョフは、アメリカがトルコにあるミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意。その後、緊張が緩和された後も、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。カストロは、それを機にアメリカとの交渉で妥協を示したソ連に対して不信感を募らせた。フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、カストロはソ連に対する不信感を解消したが、しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になったと言われている。アメリカとの関係については、キューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるものの、反カストロ派のロビイストの影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせず頑なな態度に終始している。

キューバ・ミサイル危機は、人類の生存にかかわる未曾有の事件であった。つまり、米ソが核戦争のまさに瀬戸際で立ちどまった1962年10月の13日の間に匹敵するものは、歴史上存在しない。これほど多くの生命が一瞬にして失われる可能性を世界が感じ取ったことは嘗てなかったほどである。

もしあの時、少しの判断が狂って実際にミサイルが発射されていたならば、人類嘗てないほどの人々が一瞬で死んでいたであろうと予測される。それだけには収まらない。歴史上の最もおぞましい自然破壊や後遺症を今も傷跡として残していたであろう。

Page 5: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

キューバにとっては、歴史上予測できない事態が突然襲い掛かった。1991年に突如起こったソビエト連邦の崩壊である。その頃、キューバの経済はソ連に頼りきっていた。そのため、突然の崩壊はキューバ経済を危機に追い込み、国民の命存続に関わる大波乱を巻き起こしたのだ。

ソ連崩壊、そして決断の時

ソ連崩壊当初、キューバの食料自給率は43%と、現在の日本に匹敵する低さであった。そのため、ソ連に頼っていた貿易量の85%を失い、深刻な石油不足にも追い込まれてしまう。更にアメリカによるキューバ自由民主連帯法(ヘルムズ・バートン法)によって、深刻な事態がキューバに相次ぎ、それまでラテン諸国で一番豊かだった暮らしは崩壊し、一夜にして食糧や医療が滞り、街は壊滅間近の暗黒時代を迎えてしまう。

そんな中、カストロは柔軟な発想を打ち出して、中央管理の社会主義計画経済に見切りをつけると“市場制度付き社会主義経済“という段階的な市場経済導入に踏み切った。同時に共産党一党支配の政治を、底辺の論議を積み重ねて政策を決定していくピラミッド型”末ひろがりの一党体制内複数発想主義“に改造し、民主化を図った。カストロは最優先順位のトップに『食糧問題』をあげていた。そして、その取り組みは、真の革命改革を遂行する上で必然的でもあり、彼の真の理念が問われた成果を表現するに等しい結果をもたらした。人間の力で起こされた本物の奇跡をキューバ人は起こしたのである。

そのひとつが都市農業改革である。ソ連崩壊までキューバでは、近代的な農業作法で不可欠な農薬・化学肥料や機械類を輸入し、大規模な農業を展開していた。しかし、輸入が不可能になってから彼らが選んだ策が、有機化への農業転換である。更に石油が輸入できなくなったために、農業においては極力都市に近づけることで、輸送や冷蔵・貯蔵コストを引き下げようとした。ハバナはキューバ国民の20%である250万人が居住する。彼らは、公共施設や民家で余った土地で作物を育てるよう国民に訴えた。更に民家に雛鳥を配り飼育するよう促すなど、地道な努力をハイピッチで進めていったのだ。

Page 6: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

エコロジー大国への進化

ソ連崩壊後に置かれた苦しい状況から打開するため、政府が中心となり、有機栽培による作物の自給自足を試みた。それまでのキューバは食糧の80%を輸入に頼り、国内の作物に関しても大量の農薬散布をしながら生産してきた。しかし、石油などのエネルギー、農薬や化学肥料などが入手困難な状況に陥ったことで、彼らは環境と調和した画期的な生きる手段を選んだのである。

もしろん、それは簡単ではなかった。年間平均気温が25℃もある亜熱帯気候下での有機栽培、都市の土壌はコンクリートに覆われ、たとえ土があっても有機質の含量が1%以下という耕作に不向きなコンディションである。しかし、そんな悪条件下、彼らは自らの手で奇跡を起こしたのである。彼らは独自で開発した「オルガノポニコ」という技法(コンクリートの枠。枠内に盛り土して耕作地を造る。大きなプランターのようなもの)で、地面を覆ったコンクリートの上で農業をしたり、ミミズ活用で有機堆肥をつくるなどの工夫をした。その結果、たった15年という短い歳月の間に、人口220万人の首都圏で野菜の完全自給を達成させたのである。これこそ人間の力による本物の奇跡である。

彼らは、現在も持続可能な開発を目指すと共に、都市での有機農業を活性化し、更に食だけではなくエネルギー問題や教育、そして医療にも積極的に取り組み続けている 。キューバ国内には、現在66,000人の医師がいる。国民の平均寿命は76歳と先進国並で、医療レベルは欧米をしのぎ、現在では多くの英国医師らがキューバに研修に来るほどのハイレベルを誇っている。更に乳児の死亡率は7.3%と世界193ヵ国中158位。エイズウイルスの感染率は0.07%で世界で最も低い。キューバの医療体制は、5段階に区分けされる。1段階目はファミリードクターといい、1区画(300人程度の住人)にひとつの割合で診療所『コンスルトリオ』が設けられ、ファミリードクターは日ごろからきめ細かく住民の健康状態を把握、普段のちょっとした体調不良ならば診療所で対応する。症状が重くなった患者は、医療段階をあげて対応するのである。

◆◆◆ ◆◆◆成功とは、決して備わった環境を必要とはしない。どんな過酷な状況下でも妥協することなく貫ける信念さえ整っていれば、暗黒を光明な世界へ変えることができる。ただ必要なのは、人の想い、すなわち情熱にしかすぎない。カストロの繰り広げる政権には、常に人々に平等な社会を築こうという理念が伺える。他に類を見ない有機農業大国を実現させ、エネルギー、教育、医療にと国の軍事費を削ってでも人の命を尊重する姿勢こそ、彼が未だ政権を維持し、国民に支持されている結果を招いているのである。

Page 7: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

柔軟な指導者カストロの素顔

カストロは政権樹立後現在に至るまで、質素な暮らしを続けている。住居の警備こそ厳重であるが、通常の住宅である。また、要人が使用している車はいたって普通で、クーラーも設置されていない車も多く、カストロこそ数十年前に寄贈されたベンツを使用しているが、それ以上の贅沢は見られず、実子などには一切優遇措置を取らず、みな自費で車を購入し、下着は穴が開くほど着回しているという。

そんなカストロの母の逸話がある。過去カストロが農業革命を起こした際、年老いた母は農地の没収に抗議して、息子のフィデルであっても土地を取り上げることはできないと銃を取った。彼は母に銃を下ろさせるために、兄のラモンを母の元に送って説得に当たらせねばならなかったといわれている。年をとってからのカストロの趣味は孫と遊ぶこと。日曜日にはパジャマで朝食をとったり、映画を鑑賞したり、また公務では一切私生活を持ち込まず、日夜スピーチ用の原稿を自分で書いたり、政治について友人や要人と語るなど、世の中の権力者では見ることの出来ない人間らしい暮らしを続けているのだ。

フィデル・カストロの人間性で言えるのは、彼は非情に柔軟な考えの持ち主ということである。カストロは、目的をしっかり見据えて決してぶれることはない。しかし、その手法や手段に関しては、常に柔軟に対処してきたといえよう。

政策の変更に関しては、毎日行なわれる演説で国民に理解を仰ぎ、自ら説明にあたる。更にハリケーンの多いキューバ国民を案じるように、自ら天気予報の番組に出演し、国民に予防と対策を呼びかけたりもする。

1998年は、カストロはローマ法王ヨハネパウロ二世をキューバに迎え、国内での宗教を名実ともに公認した。

ラテンの陽気な性格はカストロにも顕在で、街を歩けば気さくに一般の国民と戯れる姿も目にすることができる。それに、食糧品に関しても同じで、一般の人たちが行き来する一般のレストランで食事をすることもお構いなしで、彼を見かけた若い世代のキューバ人からは、まるで日本でのマイケルジャクソン騒ぎのようなアイドル的な扱いを受けることもあるほどだ。そんなカストロの素顔はあまり知られてはいない。若い頃は料理が好きで、食への拘りは人一倍強かった。カストロにとって料理は女性と結び付いていた。料理は母マリア・メディアドーラを彼に思い起こさせた。

Page 8: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

チェ・ゲバラとの友情

20世紀半ば、崇高な理念の下、愛国精神をあらわに祖国革命を企てるフィデル・カストロに魅了された男がいた。それが、チェ・ゲバラである。ふたりは1955年、メキシコで運命の出会いをする。

彼らの出会いこそが、歴史を大きく揺るがせた。出会って間もなく、ふたりは寝る間も惜しんで夜通し、革命について、また理想社会について熱く語りあった。中級階級で育ち、医師としての資格を持ちながらも放浪を続けたチェ・ゲバラの旅の矛先がカストロとの出会いを機にキューバへ向けられた。

その後、チェ・ゲバラは革命家としてキューバで戦い、命をかけて貧富の差のない平等な社会を築きあげた。これほどの情熱を持って革命に身を投じた人物は彼をおいていない。 メキシコシティーでのカストロとチェ・ゲバラ

革命後、ソ連崩壊後のカストロ政権に不安を徐々に積もらせながら、チェ・ゲバラは自分の役割を全うするかのごとくに、キューバでの自らの実権をすべて放棄し、手紙を残して姿を消した。

「自らをとがめるとしたら、当初君のことをあまり信用していなかったことや、指導者として、そして革命家としての君の資質を見抜けなかったことくらいだ。(中略)

この世界の他の土地で、私のささやかな努力が求められている。キューバの指導者として責任があるために君には許されないことが、私にはできる。別れの時が来たのだ」

チェ・ゲバラは、中南米全土の革命のためボリビアへ渡り、その地で捕らえられ間もなく射殺される。

伝説の革命家チェ・ゲバラの短くも鮮烈な生涯に対し、現在も盟友カストロは常に尊敬の念を忘れてはない。

チェ・ゲバラは死後も尚、キューバに多大な影響を与え、現在もその大いなる存在感は、カストロ政権に革命というロマンを与え、薄れ行く革命精神を市民に想起させる役割を担っている。

「地球上には、以下のような人々が求められている・よく働き、人の悪口を言わない・創造し、破壊しない・言う前に実行する・人からもらうより、人にあげることを望む

・明日のことより、今のことを考える」(チェ・ゲバラ)

Page 9: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

2003年 広島訪問

フィデル・カストロは、クアラルンプールで開かれた非同盟諸国会議に出席した後中国とベトナムを訪問し、帰路の途中、日本に“給油“目的の非公式訪問を果たした。しかし、目的はただの”給油”ではなかった。カストロは、最初から日本政府に対して広島訪問を希望している旨を述べ、入国許可を打診をしていたのだ。しかし、アメリカへの配慮から日本政府がとった配慮の策は、単なる給油を目的とするものであった。それも羽田からの入国。そして、2003年3月1日、カストロは長年念願だった広島を訪問するため日本に降り立った。そして、小泉元首相をはじめ要人との対談を済ませると、一路東京から広島へと向かった。

2003年3月3日カストロは、広島原爆慰霊碑を訪れ献花した。その際、カストロを広島に呼び寄せたのは、嘗ての盟友チェ・ゲバラが残した一枚の写真と手紙からだと自ら述べた。初めて語られる写真の存在。その話に衝撃を受けた南々社は2005年季刊誌がんぼで特集を組み、遺族から借りたその写真をはじめて世に知らしめたのだ。

チェ・ゲバラは、1959年外交のために日本に来日した。その際、外務省との打ち合わせで第二次大戦で死んだ無名戦士の墓に詣でる予定が組まれていたにもかかわらず、彼は、「行かない。数百万のアジア人を殺した帝国主義の軍隊じゃないか。絶対に行かない。行きたいのは広島だ。アメリカ人が10万人の日本人を殺した場所だ」と言って、大使館員の反対を押しのけ自費で広島へ行った。そして、広島原爆慰霊碑に献花した後、資料館で様々な写真を見て回り、案内役に訴えた。「米国にこんなにまでされてなお、君たちは米国の言いなりになるのか」

その際のエピソードがある。当時、日本ではチェ・ゲバラは無名であった。広島に訪れたときも、各マスコミ関係者はキューバ大使が広島に来ると聞いて慰霊碑に集まったのだ。その時、軍服を着た若い男が大使に指示する姿に、日本のマスコミ関係者は驚いた。その後、チェ・ゲバラがボリビアで亡くなったことで、彼は一躍有名人となり、原爆資料館には館内を見学中のゲバラの写真が展示されるようになった。

カストロは献花した後、資料館を見て回った際に、慰霊碑の前に立つチェ・ゲバラの古ぼけた写真を見つけた。その写真を見て、もし先にこの写真の存在を知っていたら、このパネルと並んで献花したのに・・・、と呟いた。そして、原爆資料館の芳名録へは「このような野蛮な行為を決して犯すことのないように」と書き綴り、また昼食会の挨拶では、「1962年のミサイル危機の時に、私たちももう少しで核の犠牲になるところだった。広島の皆さんと危機感を分かち合えると思う」と述べた。

翌3月4日にカストロは離日しキューバに戻った。

『人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある 』

季刊誌 がんぼVol..12掲載分より

チェ・ゲバラが残した一枚の写真(季刊誌がんぼ掲載分より)

Page 10: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

帰国後、カストロの演説にて

「中国から日本に渡った。日本で我々は歓待と敬意をもって受け入れられた。単なる立ち寄りであったけれど、昔からの揺るぐことのない友人たちが歓迎してくれた。日本キューバ経済懇話会近藤智義会長と長時問の会合をもち、綿貫衆議院議長、三塚友好議連会長とも交流した。橋本龍太郎元首相を表敬し、小泉純一郎首相とも会談した。日本側のイニシアティブのもと、誰もが関心を抱いている朝鮮半島の緊張状態に関する問題について話し合われた。その詳しい内容については朝鮮民主主義人民共和国政府に伝えるつもりである。同国とは、キューバ革命勝利の時から友好的な外交関係を保ち合っている。三月三日我々は広島に行った。平和記念資料館を視察し、慰霊碑に献花した。また、広島県知事主催の歓迎昼食会に出席した。広島の一般市民に対してなされたジェノサイドについて、我々が受けた衝撃を述べるいかなる言葉もなく、いかに多くの時間を費やしても足りない。あそこで起こったことは、いかなる想像力をもってしても理解することができない。あの攻撃はまったく必要性のないものであったし、モラル的にも決して正当化できない。日本は既に、軍事的に打ち負かされていた。太平洋地域、東南アジアの日本占領地や日本の統治地域までもが、既に奪還されていた。”満州”では赤軍の進攻が進んでいた。戦争はそれ以上米国人の生命を奪うことなしに、数日で終わらせることができた。最後通牒で事足りたはずであり、最悪の場合、あの兵器を戦場で、もしくは一つか二つの日本の厳密な意味での軍事基地に対して使用することで、戦争はただちに終わっていたはずである。強硬派の圧力と主張がいかに強かったとしても。私の考えでは、日本が正当化できない真珠湾攻撃によって、戦争を始めたのであったとしても、子供、女性、老人、そして罪のないあらゆる年代の市民への、あの恐ろしい殺戮を弁解する余地はない。気高く寛大な日本国民は、加害者に対して一言も憎しみの言葉を発しなかった。それどころか、そのようなことが二度と起こらないようにと、平和を願う記念碑を建てた。何があそこで本当に起こったのかを人類が知るために、幾百千万の人々があの地を訪れるべきだと思う。私はまた、資料館でチェ・ゲバラの写真を見て感動した。それは、人類に対する最悪の犯罪の一つを記憶する、慎み深くはあるが不滅の慰霊碑に彼が献花している写真であった」

季刊誌 がんぼVol..12掲載分より

チェ・ゲバラが残した一枚の写真(季刊誌がんぼ掲載分より)

慰霊碑の前に立つチェ・ゲバラ(左)

Page 11: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

カストロは試合前、キューバ選手団に電話をかけて「試合に勝てとは言っていない。ただベストを尽くせ」と言い渡す。そして試合は、キューバは善戦したが、結局は日本に敗れて日本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わった。キューバ選手の帰国の日、カストロはキューバ選手団を空港まで出迎え、その後に首都ハバナで開かれた政府主催の式典で「金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けた事が素晴らしいんだ!」と言って、「何百万人の市民と同様、わたしも皆さんの偉業に胸を躍らせた」とのねぎらいの言葉をかけた。更に選手全員に「おめでとう」との文字が書かれた記念の特製バットをプレゼント。選手らはカストロにサイン入りのボールを贈ったという。セペダ選手は「われわれは日本に負けた決勝から学ばなければならないが、この歓迎は誇りに思う」と話していた。

1955年にピノス島の監獄から釈放されたカストロたち

いつでも幸運の女神はフェデルに微笑んでいる

史上最強の幸運を持つ男、フィデル・カストロは、現在政権樹立から間もなく50年を迎えようとしている。 1953年7月26日モンカダ兵営に対する攻撃を行い、逮捕されたものの、1955年5月には恩赦によって釈放され、更に1956年たった82名で始めたキューバ革命で政権を勝ち取り、その後、間もなく大国アメリカを敵にしてから波乱な運命を辿るものの、1961年4月17日、約1500人の武装したキューバ亡命部隊が、アメリカからキューバ・ビックス湾に上陸し、政権を打倒するためにキューバに攻撃を仕掛けるも、キューバは大きな痛手を負うことなく危機から免れ、その後も、あらゆる手段でCIAによる暗殺計画が立てられるもカストロの生命には問題など起こらなかった。彼は国内で厳重な警備や武装はほとんどしていない。若い時には、演説台まで自転車で行くこともあったぐらい無防備を装い、現在では、彼の側近にいるボディーガードは年のいった男性が一人雇われているぐらいだ。そんな背景からも、フィデル・カストロにはいつも幸運が付きまとっていると言える。彼はキューバが自給自足できるよう有機野菜の農作やエネルギー問題に真剣に取り組んだ。それは、長年の構想でも計画でもない。ただ、ソ連崩壊というキューバにとって深刻な危機に直面したことで、彼は必然的に取り組んだのだ。しかし、全ては、彼の理想的社会主義と国民の幸せに結びついている。

2006年ワールドベースボールクラシック WBC

2006年3月に開かれたWBCワールド・ベースボール・クラシックの第一回大会では、メジャーリーガーを多く抱える強豪国を抑え、キューバは決勝に駒を進めるも、日本に10-6で敗退した。しかしながら、カストロは選手達を賞賛した。この大会の出場までには、数々の波乱が起こった。アメリカ国内でキューバが経済活動を行うことを禁止した経済制裁を理由に、アメリカ財務省がキューバの参加を拒否する姿勢を示した。しかし、キューバ政府や国際野球連盟からの強い抗議があり、MLB機構とメジャーリーグ選手会もキューバの参加を目指して折衝を続けた。結局、キューバが得た賞金は2005年のハリケーン・カトリーナによるアメリカ国内の被災者に全て寄付するという条件で、アメリカへの入国が認められた。

政府主催の式典にて

Page 12: Fidel Castro本名フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz, ) 1926年8月13日キューバ・オルギン県ビラン生

『コマンダンテ』 フィデル・カストロ

この夏、日本でもオリバー・ストーン監督自身がフィデル・カストロにインタビューするドキュメンタリー映画が公開される。その名も”コマンダンテ”最高指揮官。アメリカではテレビ上映や劇場公開が禁止されたが、各国の映画祭などでは上映された。キューバの政情や社会事情について、終始カストロ本人の言葉で語られるこの映画では、滅多に見ることのない彼の素顔が窺える。30時間に及んだというインタビューでは、チェ・ゲバラとの別離やキューバ危機の真相、知られざる私生活といった部分にも踏み込んでいる。そのフィルムに対してキューバ側は、一切のチェックを求めず、すべてオリバー・ストーン監督の編集に委ねることを了承したのだ。

コマンダンテ監督:オリバー・ストーン出演:フィデル・カストロオリバー・ストーン

オリバー・ストーン監督が迫るカストロの本当の姿。ドキュメンタリー作品

不死身の男の復帰をかけた戦い

昨年7月31日(現地時間)、キューバ国営のテレビやラジオはカストロが腸内出血により緊急手術を受け、現在入院中であるとの議長声明を報じた。声明では、カストロの容態は安定しているが、数週間の安静が必要であること、これまでカストロが掌握していた権限を一時的に実弟のラウル・カストロ国家評議会第一副議長や他の複数の国家幹部等に委譲したことも併せて発表している。スペイン紙パイス電子版によると、カストロは昨年7月に大腸の手術を受けた際、通常に比べて難しい措置を自ら選択したが、この手術が結果的に失敗し、合併症を起こしたという。 カストロは大腸の壁に小さな袋ができ、そこに炎症が起きる「憩室炎(けいしつえん)」を患った。当時の病状から、手術で腹部に人工肛門を設ける措置が一般的とみられたが、同議長は「回復に時間がかかり、職務復帰が遅れる」として、これを拒否。結腸と直腸を接合するという、より困難な手術を希望したという。この手術の後で傷口が順調に回復しないなどの問題が起き、腹膜炎なども併発。少なくとも2回の追加手術が必要になった。

そして最近は容態も順調に回復し、公務復帰まで近いと噂されている。