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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 129: 53-81 URL http://hdl.handle.net/10291/1571 Rights Issue Date 2006-12-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/
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シャー・タフマースプⅠ世時代のイラン史研究のため URL DOI...駿台史学 第129号53-81頁,2006年12月 SUNDAISHIGAKU(SundaiHistoricalReview) No.129,December2006.pp.53-81.

Jan 31, 2021

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  • Meiji University

     

    Titleシャー・タフマースプⅠ世時代のイラン史研究のため

    の基本史料

    Author(s) 平野,豊

    Citation 駿台史學, 129: 53-81

    URL http://hdl.handle.net/10291/1571

    Rights

    Issue Date 2006-12-25

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 駿 台 史 学 第129号53-81頁,2006年12月

    SUNDAISHIGAKU(SundaiHistoricalReview)

    No.129,December2006.pp.53-81.

    シ ャー ・タ フマ ー ス プ1世 時代 の

    イ ラ.ン史 研 究 の た め の基 本 史 料

    平 野 豊豆

    要 旨 サフ ァヴ ィ一朝 の第2代 君主 シャー ・タフマースプ1世 は,イ ラ ン史上2番 目に

    長 い52年 間の在位期 間を誇 る同王朝屈指 の名君である。 さまざまな歴 史作品が彼の治世

    を扱 っているが,主 要な年 代記 ・講話集 については,今 日までに版本が ほぼ出揃 った。16

    世紀サ ファヴィ一朝史 の研究 は残念 なが ら活発 とは言えないが,タ フマースプ時代に限 っ

    て いえ ば,も はや史料 的制約 を言 い訳 にで きないの は明 らかで ある。 ただ し,既 刊作 品

    の中 には史料的価値 の低 い もの も混在 してい る。 このよ うな状況 において新 たに重要 性

    を帯 びて くるのは,基 本史料 の絞 り込 みであ ろう。 この時代の歴史研究 に最 も適 した作

    品群を具体的 に示す ことは研究上 の意 義 も大 きいはずであ る。本稿で は,既 刊 のペ ル シ

    ア語 史料の 中か ら情報 の質 ・量 ともに優 れた8作 品を選び,基 本史料 に位置づ けた。

    基本史料 の配列方法 は成立年代順 と した。 各車 ではまず,著 者や作品 につ いての史料

    解題 を改めて まとめた。次 いで,版 本 で底本 とされてい る写 本の書写年代の確認作業 を

    行 った。版 本の価値 は底本 の善 し悪 しによ って大 き く左右 され る。 したが って,同 一作

    品に版 本が複数あ り,し か も双方 の底本 が異 なっている場合 には,版 本の優先順位 を決

    定 した。 また,版 本が1つ しか無 い場合 には,底 本 の素性 に基づいてその評価 を下 し,

    使用上 の注意 点を挙 げた。校訂 テクス トの底本 に着 目し,網 羅的に調べ上げた先行研究

    は存在 しない。 それゆえ,本 稿で はこの作業 を最重要課題 とし,そ の成果は一覧表 に も

    まとめた。最 後に,特 記事項の一節を設 け,こ れ ら基本史料 を実 際の研 究に用 いて いる

    筆i者の私見 を補遺 として記 した。

    キーワー ド:史 料研 究,16世 紀 イラン,シ ャー ・タフマースプ1世

    は じ め に

    サ フ ナヴ ィ一朝 の第2代 君 主 シ ャー ・タ フマ ー ス プ1世(ヒ ジュ ラ暦919年 ズ ー ・ア ル ヒッ

    ジ ャ月26日 一984年 サ フ ァル 月15日/1514.2.22-1576.5.14)は,イ ラ ン史 上2番 目に長 い52

    年 間 の 在 位 期 間(930-84/1524-76年)を 誇 る 同王 朝 屈 指 の名 君 で あ る。 数 多 くの 歴 史 作 品 が

    彼 の治 世 を 扱 って い るが,あ らゆ る研 究 の 基礎 とな る年 代 記 や 講 話 集 に つ い て は,今 日ま で に

    53

  • 平野 豊

    版本がほぼ出揃 った。サファヴィ一朝前半期(西 暦16世 紀)の 研究は残念なが ら活発 とは言

    えず,政 治史の整理すら完全には終わっていない状況なのだが,そ の半分を占めるタフマース

    プ時代については,も はや史料的制約を言い訳にできないのは明らかである。

    ところで,既 刊史料の増加に応 じて,新 たに重要性を帯びてくるのが基本史料の絞 り込みで

    ある。出版物である以上,出 版するに足 らない作品はないはずだが,中 には必ず しも史実描写

    にこだわ らない歴史文学的な作品もある。それらを排除するのは当然として,そ の上でさらに,

    作品自体の史料的価値が高いものについても,同 時代史料 とそうでないものとでは明確に差別

    化を図 らなければならない。むろん,タ フマースプの没後に書かれた作品を完全に排除 して し

    まうと,治 世末期の情報が極端に不足する。生前の彼を知る人間が著 した作品までは条件の範

    囲内とすべきであろう。また,同 時代史料であっても,考 察期間の短 さか ら利用機会が極端に

    限 られてくるもの,例 えば,欧 文報告書などはさしあたり除外すべきである。以上の点を考慮

    して,本 稿では既刊のペルシア語史料の中から情報の質 ・量 ともに優れた8作 品を選び,基 本

    史料に位置づけた。

    これらの作品は,多 くの場合,版 本序文にて書誌情報が整理 されており,そ の幾つかは最良

    の史料解題となっている。ただし,著 者の自筆写本が現存 しない作品の場合,著 者の人物像や

    原典の成 り立ちを知るだけでは,校 訂テクス トの真の理解には至らない。む しろ重要なのは,

    版本の校訂作業 につ いての関心,特 にその中心に据えられている底本(noskhe-yeasas)に

    対す る理解であろう。テクス トの出来は,複 数ある写本のうちの何れを底本とするかによって

    大きく左右されるか らである。文献学的な見地からの史料研究は増えつつあるものの,校 訂テ

    クス トにおける底本 という着眼点は,一 見平凡に見えるためか,一 種の盲点となっているよう

    に思 う(1)。

    そこで本稿では,い かなる写本が底本とされているかの確認を最重要課題 とした上で,改 め

    て史料解題を整理 し直すことにする。校訂者序文があるとはいえ,中 には参考文献を紹介す る

    のみで解題には全く立ち入 っていないものもある。その場合には,Monzavi目 録のような基

    礎文献や,写 本所蔵先機関の図書目録に頼 った。 さらに,特 記事項の項 目も設けたが,そ こで

    は筆者の私見を補遺 としてまとめた。

    なお,作 品の配列は原則 として成立年代順とする。作品名については,正 式名称がある場合

    は総カタカナ表記とし,原 題が無い場合には仮題を訳語で表記す る。また,写 本所蔵先機関名

    については,す べて版本刊行時点のままにしておいた。

    1.『 ハ ビー ボ ッ ・ス ィヤ ル続 篇』(仮 題)

    【ZHS】:AmirMabmUdb.Khwandamir,IrandayR耽g伽 θSh励Es雁7Z槻Sん 醜

    丁αh辮 δsδ一ESα ノ加i,GholamRe多aTabataba'i(ed.),Tehran(1370AHS/1991).

    54

  • シ ャー ・タ フマ ー ス プ1世 時 代 の イ ラ ン史 研 究 の た め の基 本 史料

    【ZHS2】:AmirMaりmnd・eKhwandamir,7五 π肋 ・θS短 んEsη 読DαShah距 ぬ吻sδ 一θ

    Sψ 露ZθyZ一 θ7五 貌 ん一θHabitα 」一S御 名Moりammad'AliJarrabi(ed.),Tehran(1370

    AHS/1991).

    1.作 品

    本 作 品 は,タ フ マ ー ス プ 時代 の記 事 を含 む もの と して は,最 も成 立 年 代 の古 い ペ ル シア 語史

    料 で あ る(2)。サ フ ァヴ ィー 教 団 の 歴 代 当主 に つ い て の 伝 承 を 序 論 と し,西 暦16世 紀 前 半 に サ

    フ ァ ヴ ィ一 朝 と シ ャイバ ー ニ 一朝 との 間 で繰 り広 げ られ た,ホ ラ ー サ ー ン地 方 を巡 る攻 防 戦の

    記 録 を 本 論 とす る講 話 集 。 『ハ ビー ボ ッ ・ス ィ ヤル 続 篇(Zθy地 物 励 α1-S加7)』 は仮 題 の一

    つ に 過 ぎず,正 式 に は無 題 で あ る。 著 者 は高 名 な歴 史 家 ホー ンダ ミール の子 息 ア ミー ル ・マ フ

    ム ー ド。生 没 年 共 に不 明 。 上 記 の仮 題 は父 親 の代 表 作 に因 ん だ もの で あ る。 サ フ ァヴ イ 一 朝の

    支 配 を 嫌 って イ ン ドに移 住 した父 親 とは異 な り,息 子 で あ る彼 は ホ ラ ー サ ー ン地 方 の ヘ ラ ー ト

    に 居 住 して い た 。 本作 品 の執 筆 動 機 は,当 地 の 知事(hakem)モ ハ ンマ ド ・ハ ー ン ・シ ャラ

    フ オ ッデ ィー ンオ グ ル ・タ ッカ ル ーMoりammadKhan-eSharafal-Dinoghl1-yeTakkalU

    (964/1557年 没)か らの強 い 勧 め(tashviq)に よ る(3)。ヒ ジ ュ ラ暦953年(1546-47年)に 編

    纂 が 開始 され,957年(1550年)に 一 応 の完 成 を見 た(4)。

    「一 応 」 と書 い た の は,原 作 品 に は未 完 成 な 面 が 多 々 あ っ たか らで あ る。 著 者 の死 後,書 写

    に 当 た った筆 耕 人 た ち は原 典 に大 胆 な加 筆 補 正 を行 い,各 自が 適 当 と考 え る仮 題 を付 した。 あ

    くまで も善 意 に基 づ く行 為 で あ った が,各 写 本 間 で 記事 内容 が か な り異 な る結 果 を もた ら した。

    こ の た め,例 え ばMonzavi目 録 で は,『 シ ャ ー ・エ ス マ ー イ ー ル と シ ャー ・タ フ マ ー ス プの

    歴 史 』 と 『ハ ビー ボ ッ ・ス ィヤ ル 続 篇 』 の タ イ トル と で二 重 登 録 され て しま って い る(5>。

    2.版 本

    前 掲 の 通 り,Tabataba'i氏 とJarraりi氏 に よ る2種 類 の 版 本 が 存 在 す るが,全 く同 じ年 に

    出版 され た た め,相 互 間 で の 言 及 は無 い 。 だが,【ZHS】 と 【ZHS2】 とで は お よ そ 同一 史料

    と は思 え な い ほ どの 違 い が あ り,そ れ は本 文 に 限 らず,各 章 の 章 題(bnvan)に も及 ぶ 。 し

    た が っ て,ど ち らを正 本 と して使 うべ きか と い う判 断 決 定 が急 務 とな る。

    まず,【ZHS】 の底 本 は,タ ブ リー ズ 国家 図書 館所 蔵写 本No.3614写 本(本 章 で は タ ブ リー

    ズ 写本 と略 記)で あ る。 耳ajlMobammadNakhjavani氏 寄 贈 コ レク シ ョンの一 冊 で,『 ハ ビー

    ボ ッ ・ス ィ ヤル 続 篇 』 の仮 題 が付 され て い る。 巻 末 部 分 が 脱 落 して い る た め正 確 な書 写 年 代 は

    不 明 だ が,同 図 書 館 の 目録 作 成 者YUnasi氏 は,書 誌 学 の 見 地 か ら これ を 「著 者 の手 稿(dast-

    khatt-emo'allef)」 と鑑 定 して い る(6)。も っ と も,こ の見 解 はMonzavi目 録 で は 採 用 さ れず,

    「ヒ ジ ュラ暦10世 紀 書 写 」 とい う慎 重 な見 方 を され て い るの だ が(7),Tabataba'i氏 は 「957-58

    55

  • 平野 豊

    年(1550-51年)頃 筆 写 」 とYnnasi説 に近 い判 断 を下 した上 で,こ れ を底 本 と した(8)。

    一 方,【ZHS2】 の 底 本 は,ヤ ズ ドの ヴ ァズ ィー リー 図 書 館(;ジ ャー メ イ ェ ・キ ャ ビー ル

    図書 館)所 蔵No.393写 本(以 下,ヤ ズ ド写 本 と略 記)で あ る。 同図 書館 の 目録 に は 『シ ャー ・

    エ ス マ ー イ ー ル と シ ャー ・タ フマ ー ス プの 歴 史』の タイ トル で 登 録 され て お り,書 写 年 と して

    1005年 ジ ュ マ ー ダーD月2日(1597.1.21)と い う明確 な 日付 け を有 して い る〔9)。つ ま り,こ

    の写 本 は ヒ ジ ュ ラ暦11世 紀 初 頭 の 作 で あ り,上 記 の タ ブ リー ズ写 本 の 推 定 年 代 よ り も明 らか

    に新 しい こ とに な る。

    さ らに,【ZHS】 は校 訂作 業 に お い て この ヤ ズ ド写 本 も使 用 して い るの に対 し,【ZHS2】 は

    上 記 の タ ブ リー ズ写 本 を用 い て お らず,そ の 史料 的 価 値 に対 す る否 定 的 見 解 も一 切 示 して い な

    い 。 した が っ て,底 本 選 定 の 的 確 さ と い う点 で は両 者 に は 決 定 的 な 優 劣 が 付 け ら れ る。

    【ZHS】 を 正 本 と し,【ZHS2】 を副 本 に位 置 づ け た上 で の利 用 が鉄 則 とな ろ う(10)。

    3.特 記 事 項

    著 者 はヘ ラ ー トの住 民 で あ った た あ,基 本 的に は ホ ラー サ ー ン地 方 中心 の歴 史 叙 述 を行 って

    い る。 た だ し,タ フ マ ー ス プが 当 地 へ4度 も遠 征 して い る関 係 上,宮 廷 軍 到 来 の 際 の状 況 に つ

    い て は非 常 に詳 しい(n)。 ま た,ヘ ラー ト知 事 に はサ フ ァヴ ィ一家 の王 子 が 任 じられ る慣 習 が あ っ

    た た め,王 子 た ちの 中 の誰 か一 人 につ い て の動 向 は常 時 観 察 で き る立 場 に あ っ た。 これ らの 点

    を 本 作 品 の特 性 と評 価 した 上 で の 利 用 が 望 ま しい 。 ただ し,講 話 集 と い う史 料 的性 格 か ら,諸

    事 件 に関 す る 日付情 報 は極 め て 乏 しい。 時 間 軸 に 沿 った 細 か な 検 討 を行 う際 に は,年 代 記 史 料

    の 援 用 が 不 可 欠 で あ る。

    版 本 の 優 先 順 位 に つ い て は 既 に述 べ た が,【ZHS2】 の方 を 優 先 す べ き箇 所 が無 い 訳 で は な

    い 。 例 え ば,【ZHS】 の 底 本 で あ る タ ブ リー ズ写 本 で は,巻 末 の み な らず 本 の 中 程 で も3,4

    葉(串afhe)の 脱 落 が生 じて い る(12)。Tabataba'i氏 は この 脱 落 箇所 や,同 写 本 に無 い講 話 数 章

    を,第 三 の写 本 であ る テ ヘ ラ ンの マ レク 国家 図書 館 所 蔵No.3882写 本(以 下,テ ヘ ラ ン写 本

    と略 記)に 基 づ い て 【ZHS】 に収 録 して い る。 だ が,こ の テ ヘ ラ ン写 本 と は,書 写 年 と して

    1048年 シ ャア バ ー ン月20日(1638.12.27)の 日付 を有 す る,ヤ ズ ド写 本 よ り もさ らに後 代 の

    写 本 な の で あ る〔13)。この 両 写 本 の間 に も記 述 の不 一 致 がか な りあ る の だ が,テ ヘ ラ ン写 本 を 典

    拠 と した 理 由 に つ い て は なぜ か説 明 され て い な い。 加 え て,【ZHS】 に は造 本 の 不 備 や誤 植 が

    多 い な ど の 問 題 点 も あ る。 や は り,【ZHS2】 を 併 用 す る の が 無 難 で あ ろ う。 た だ し,両 書 の

    内 容 が あ ま りに も違 うた め,対 応 箇 所 を見 出 すの に少 々苦 労 す る。 労 力 の節 減 の た め,両 版 本

    の 対 照 表 を 添 付 して お い た(→ 表1)。 是 非 と も参 考 に され た い。

    56

  • シャー ・タ フマー スプ1世 時代の イラ ン史研究 のための基 本史料

    II.『 シ ャー ・タ フ マ ー ス プ の覚 え書 き』(仮 題)

    【Mokaleme】:ShahTahmasp-eSafavi,Mb肋Zθ ηzθッθ1>伽 掘 う一ε.形 ππα'鵜 α尭伽fryθSん 動

    丁αん微 量∫1)わδ1Jc厩yδ π一θ1~um,KarloG.Tabatadze(ed.),Tobilisi(1976).

    【ShT】:ShahTahmasbb.Esma'ilb.耳eydarial-Safavi,7h多 々θ7召ッθS漉 んTα 〃2禰s猷Colo-

    nelD.Phillott(ed.)&AmrollahSafari(sup.),Tehran(1363AHS/1985).

    1.作 品

    オ ス マ ン朝 の ス レイ マ ン大 帝 との 間 で 長 く続 い た戦 いの 経 緯 に つ い て,タ フマ ー ス プが 自 ら

    の見 解 を ま とめ た 覚 え 書 き。 ヒジ ュ ラ暦969年(1561-62年),王 都 ガ ズ ヴ ィー ン に や って来

    たオ スマ ン朝 の 使 節 団 を 前 に,シ ャーが 語 った 講 話(mokaleme)の 筆 録 が骨 子 とな って い る。

    上 記 使 節 団 の 来 朝 は,そ の1年 半 ほ ど 前 か ら イ ラ ン に亡 命 して い た 大 帝 の 子 息 バ ヤ ズ ィ ド

    SehzadeBayezidの 身 柄 引 き渡 しを 求 め て の こ と だ った が,タ フ マ ー ス プ の側 で は 大 帝 に 自

    らの言 い 分 を 伝 え る絶 好 の 機 会 と捉 え て い た(【Mokaleme】3-5)。 講 話 の 筆 録(原 稿?)は

    使 節 団 に よ って本 国 に持 ち帰 られ た と思 わ れ るが,残 念 な が らイ ス タ ンブ ル に は現 存 せ ず,タ

    フ マ ー ス プ の言 い分 が首 尾 よ く大 帝 に伝 わ った か ど うか は不 明 で あ る。

    本 作 品 は序 論 と本 論5章 か らな る。 本 論 の 内訳 は次 の 通 りで あ る。

    第1章:オ ラ マ ・タ ッカ ル ーOlama-yeTakkalUに つ い て

    第2章:ガ ー ズ ィー 。ハ ー ンGhaziKhanに つ い て

    第3章:ア ル ガ ー ス ・ ミー ル ザ ーAlqasMirzaに つ い て

    第4章:イ ス ケ ンデ ル ・パ シ ャEskandarPashaに つ い て

    第5章:バ ヤ ズ ィ ド王 子SoltanBayazidに つ いて

    1~4章 で は,オ スマ ン朝 遠 征 軍 に よ る 計4回 の イ ラ ン侵 攻 そ れ ぞ れ に つ い て論 じ られ,章

    題 に は それ を招 い た最 も悪 しき人 物 の名 前 が付 け られ て い る。 ま た,第5章 の章 題 に は前 述 し

    た バ ヤ ズ ィ ド王 子 の名 が付 け られ て い る が,彼 も また,962年(1555年)に 両 国 間 で締 結 され

    た 和 平 協 約(=ア マ ス ィヤ の講 和)を 揺 るが しか ね な い軽 率 な 行 い を した悪 しき人 物 とい う位

    置 づ けな の だ ろ う。

    本 作 品 の成 立 年 代 は,本 論 部 分 に つ い て は969年(1561-62年)と 考 え て 間 違 い な い。 問題

    は序 論 で あ る。 前 掲 の二 つ の版 本 で は全 く異 な る内 容 にな って い るか らで あ る。 結 論 か らい え

    ば,本 論 が 成 立 した経 緯 に つ い て簡 潔 に 述 べ られ て い る だ け の 【Mokaleme】 の方 が原 型 に近

    い と思 わ れ る。 も う一 方,す な わ ち,通 常 は本 作 品 そ の もの とみ な され て い る 【ShT】 の 方 の

    序 論 は,明 らか に 後 付 け さ れ た もの で あ る。 即 位 の 年 か ら938年(1532年)ま で の8年 間 に

    つ いて,十 二 支 ・ヒ ジ ュラ暦 併 用 の年 代 記 形 式 で タ フマ ー ス プが 一 人 称 で叙 述 す る ス タ イ ル の

    57

  • 平野 豊

    興味深い記事なのだが,少 なくとも本論と同時期に成立 したものではない。 この件については,

    他史料 との絡みもあるので次章 にて詳述 したい。 したがって,本 章では特記事項は割愛する。

    2.版 本

    本 作 品 の 版 本 と して 最 も広 く利 用 さ れ て い る 【ShT】 は,1912年 に カ ル カ ッタ(現 コ ル カ

    タ)で 出版 さ れ たColonelD.Phillot氏 校 訂 テ ク ス トの 「第 二 版 」 で あ る。AmrollahSafari

    氏 の 名 前 が 冠 され て い る が,氏 は監 修者 と して正 誤 表 や 索 引 等 を付 した だ け で あ り,オ フセ ッ

    ト印 刷 さ れ た 本 文 につ いて はPhillot氏 が 校 訂 者 で あ る事 実 に 変 わ りは な い。 い か な る写 本 を

    用 い た か に つ い て は,巻 末 収 録 の 「初 版 序 文 」 に記 さ れ て い る(【ShT】82)。 た だ,Phillot

    氏 の説 明 は あ ま りに も簡 素 で,ベ ンガ ル ・ア ジア 協 会 図 書 館(当 時)が 所 蔵 す る二 写 本 に 基 づ

    い て い る こ と,D.Lumsdenな る人 物 の た め に作 成 され た写 本 を 底 本 と して い る こ とが判 る程

    度 で あ る。

    そ こ で,WiadimirIvanow氏 が 作 成 した 同協 会 の ペ ル シ ア語 写 本 目録 を 調 べ て み る と,

    【ShT】 の底 本 とは,『 タ ー リー へ ・タ フ マ ー ス プ(丁 観 肋 一27励 磁sρ)』 の 仮 題 が 付 さ れ た

    同協 会 所 蔵No.87写 本(配 架 番 号D101)で あ る こ とが判 明 す る('4)。書 写 年 代 は1212年(1797-

    98年)で あ り,残 念 な が ら,作 品 成 立 か ら2世 紀 以 上 も後 世 の 作 と い う こ と に な る 。

    【ShT】 に は 人 名 ・地 名 等 の 綴 りの誤 りが 非 常 に 目立 つ の だ が,Phillot氏 の 力 量 不 足 とい う よ

    りは,底 本 自体 に問 題 が あ る の か も知 れ な い。 い ず れ にせ よ,考 証 に緻 密 さ を要 す る研 究 には

    不 向 きな 版 本 といえ よ う。

    一 方,【Mokaleme】 は,厳 密 に は校 訂 本 で はな くTabatadze氏 に よ る手 書 き テ ク ス トで あ

    る。 学 術 目的 で の利 用 に は賛 否 が分 か れ る所 だが,1010年(1601-02年)の 書 写 年 を有 す る旧

    ソ連 所 蔵 のDorn302写 本 を 底本 と して い る。 こ れ は現 存 す る全 写 本 の 中 で 最 も古 い写 本 な の

    で,や は り こ れ を利 用 しな い手 は な い('5)。さ しあ た って は,【ShT】 ζ 【Mokaleme】 を併 用

    す る の が 最 善 で あ ろ う。

    皿.『 ニ ザ ー ム ・ シ ャ ー の 使 節 の 歴 史 』(仮 題)。

    【IN】:Khurshahb.Qobadal-IJoseyni,丁 肋 肋 一θIZcんi-yθNθ 麺 彿Shah,MohammadRe多a

    Nasiri&KoichiHaneda(ed.),Tehran(1379AHS/2000).

    1.作 品

    天 地 創 造 か ら ヒジ ュ ラ暦971年(1563-64年)に 至 る広 範 な イ ス ラー ム 世 界 史 。 序 説,本 論

    7講 話(maqale),結 語(khateme)か らな る講 話 集 で,サ フ ァ ヴ ィ 一朝 史 は第6講 話 の 第3

    説(goftar)に て 扱 わ れ て い る。 著 者 フー ル シ ャー は エ ラー グ地 方 の生 ま れ で あ った が,お そ

    58

  • シャー ・タ フマー スプ1世 時代の イラ ン史研究 のための基本 史料

    ら くは イ ス マ ー イ ー ル 派 の 信 徒 で あ った た め に イ ン ドに移 住 ㈹,デ カ ン五王 家 の1つ で あ るニ

    ザ ー ム ・シ ャー朝 の 宮廷 に 仕 え て い た。 主 君 に よ って サ フ ァヴ ィ一朝 へ の外 交使 節 に起 用 され

    再 び イ ラ ンの 地 を 踏 ん だ の は,952年 ラ ジ ャ ブ月(1545年9-10月)の 事 で あ った。 翌 月 にタ

    フ マ ー ス プに 拝 謁 して 以 来19年 もの 間 領 内 に と ど ま り,サ フ ァ ヴ ィ一朝 社 会 を 幅 広 く観 察 し

    た 。971年(1563-64年),ク トゥブ ・シ ャー 朝 へ の 使 節 派 遣 に帯 同 を許 され,よ うや くデ カ ン

    へ の 帰 還 が 叶 った 。 だが,主 君 で あ るニ ザ ー ム ・シ ャー の 許 に は 戻 る こ と な く,972年 ズ ー ・

    アル カー ダ月25日(1565.6.24)に ゴル コ ンダ(Golkonda)で 没 した(17)。

    本 作 品 は,デ カ ンへ の帰 還 直 前 に一 旦 書 き上 げ られ,タ フ マ ー ス プ に よ る査 読 を受 け て い た

    こ とで知 られ る。 査読 後 シ ャー か ら下賜 され た新 た な参考 文 献 こそ,前 章 に て紹介 した 『シ ャー ・

    タ フマ ー ス プ の覚 え書 き』(以 下,『 覚 え書 き』 と略 記)の 写 本 なの だ った。 著 者 は そ の翌 年 に

    亡 くな るが,同 書 の記 事 内容 は本 作 品 に充 分 に盛 り込 まれ て い る。 成 立 年 代 は完 全 に は確 定 さ

    れ て い な い が,以 上 の経 緯 か ら,972年(1564-65年)に ク トゥブ ・シ ャー朝 領 内 で 成 立 した

    と考 え るの が 妥 当 で あ ろ う。 序 説 に は主 君 へ 献 じ る意 図 を もって 執 筆 さ れ た 旨が 明記 さ れ て い

    る。 欄 筆 に至 る ま で の慌 ただ しさ を反 映 して か,本 作 品 は正 式 に は無 題 で あ る。 な お,『 ニ ザ ー

    ム ・シ ャー の 使 節 の 歴 史 』 は大 英 図 書 館 で の 登 録 名 で あ り,写 本 所 蔵 先 の機 関 に よ って は,

    『ク トゥブ ・シ ャー[朝]の 歴 史 』 の 仮 題 を 付 して い る所 もあ る(18)。

    2.版 本

    【IN】 の底 本 は 大 英 図 書 館 所 蔵Or,153写 本 で あ る。 これ は 分冊 本 の 「第二 冊 」 で あ り,第6

    講 話 の 第3~5説 と第7講 話 の1~5説 ま で しか収 録 さ れ て い な い。 した が って,こ れ を 底 本 と

    す る 【IN】 に も,ア ク コユ ンル 朝 以 前 の 各 講 話 と 二.ザー ム ・シ ャー 朝 を 扱 っ た第7講 話 の第6

    説,お よび 「結 語 」 は収 録 され て い な い(L9)。写 本 末 尾 には,書 写 年 で あ る972年 ズ ー ・ア ル カー

    ダ 月20日(1565,6,19)の 日付 と,そ の5日 後 に著 者 が 亡 くな った 旨が 記 さ れ て い る(【IN】

    320)。

    【IN】 で は本 文 校 訂 の た め,テ ヘ ラ ン大 学 中央 図 書 館 所 蔵No,4323写 本(以 下,テ ヘ ラ ン写

    本 と略 記)も 使 用 され た。 ヒ ジ ュ ラ暦10~11世 紀 の 間 に 複 数 の 筆 耕 人 に よ り書 写 さ れ た この

    写 本 に は,欄 外 余 白(hasiye)に タ フ マ ー ス プ の母 后 追 放 に 関 す る比 較 的 長 文 の 書 き入 れ が

    あ る。 後 世 の書 き入 れ で あ るた め 史 料 的 価 値 の 判 断 は難 しい が,校 訂者 は これ を 参 考 資 料 と し

    て 序 文 に収 録 して い る。 紙 の 劣 化 に よ り判 読 は非 常 に 困難 な の だ が,見 事 に テ ク ス ト化 さ れて

    い る(【IN】 序 文pp.26-27)。

    た だ し,こ の 版本 に は1カ 所 だ け,極 め て 不 可 解 な記 述 が見 出せ る。 本文 中 に あ る 「[史家]

    エ ス キ ャ ンダル ・ベ イ ダEskandarBeygが 『アー ラム 。ア ー ラ ーG4Zα ηz-and)』 にお い て …」

    と い う一 節 が それ で あ る(【IN】81)。 この 「ア ー ラ ム ・ア ー ラー 』 が,西 暦17世 紀 前 半 に成

    59

  • 平野 蔓

    立 した ア ッバ ー ス1世Shah'AbbasI(第5代 君 主:在 位995-1038/1587-1629年)に 関 す る

    有 名 な一 史 料 を 指 す こ と は明 らか で あ る。 脚 注 を見 る と 「テ ヘ ラ ン写 本 に は無 し」 と あ る が,

    で は な ぜ 底 本 に は あ るの か。 書写 年 代 を考 え るな らば,読 者 は必 ず や 困惑 して しま うで あ ろ う。

    校 訂 者 序 文 に は 本 作 品 の 典 拠 が 列 挙 さ れ て い る が,も ち ろ ん そ こ に上 記 の 史 料 の 名 は な い

    (【IN】 序 文pp.23-24)。 後 世 の人 間 の 書 き 入 れ で あ る可 能 性 が 高 い が,万 が一 そ うで な い場

    合 に は,底 本 の 信頼 性 自体 が 大 き く揺 ら ぐ こ とに な ろ う。

    3.特 記事項

    既に述べた通 り,本 作品は 『覚え書き』を主要な情報源の1つ としている。この史料の記事

    内容は本作品にほぼそのままの形で引用 されているのだが,そ れらの引用箇所の極端な片寄 り

    に着 目するな らば,前 章で保留 した上記史料の原初形態について,1つ の明確な仮説を導き出

    すことができる。まずはこの史料を下賜 された経緯について,フ ールシャー自身の説明を見て

    みよう。

    小 生 は そ の 頃(=971/1563-64年),神 の 御 加 護 に よ りこ の 小 冊 子 の執 筆 に従 事 して い

    た。 世 界 の 隠れ 家 に して 神 の 影 た る陛 下(=タ フ マ ー ス プ)は 草 稿 を お読 み に な られ た 後,

    か の 貴 な る写 本(annoskhe-yesharif)を ノ」、生 に下 賜 さ れ た 。 か の写 本 に お書 き に な ら

    れ て い る幾 つ か の 情 報 と物 語 が,同 じ よ うな 形 で この 小冊 子 に も記 述 され る よ うに との御

    配 慮 か らで あ る。(【IN】ll5)

    引 用 文 中 に あ る 「か の 貴 な る写 本 」 とは,も ち ろん 『覚 え 書 き』 の事 で あ る。 本 作 品 で は,

    「[シ ャー]御 自身 の 称 え る べ き 内 容 の 覚 え 書 き(aりval-esotUde-kh閃a1-ekhwish)」(【IN】

    121),あ るい は,単 に 「御 自身 の 覚 え 書 き(aりval-ekhwish)」(【IN】127)な ど と も表 記 さ

    れ て い る。 こ の写 本 につ い て は,現 状 で は前 章 で 紹 介 した 【ShT】 そ の もの と ほ ぼ 同一 視 さ れ

    て お り,【IN】 の校 訂 者 も該 当箇 所 に は す べ て,脚 注 に 【ShT】 で の 頁 番 号 を記 して い る。

    だ が,下 賜 さ れ た写 本 が 【ShT】 φ 底 本 と 同様 の 形 態 で あ っ た と仮 定 す る な らば,直 ち に 不

    自然 な 点 が 浮 か び上 が る。 【IN】 で は 【ShT】 の 本 論 部 分 こそ 十 全 に活 用 され て い る反 面,

    【ShT】 の 序 論 部 分 の記 事 内容 が 反 映 さ れ た 箇所 が1つ もな い の で あ る。 一 例 を 挙 げ・る と,か

    つ て 筆 者 が 《タ ッカ ル ー 部 の 禍 》 とい う937年(1531年)に 発 生 した 政 治 史 上 の 大 事 件 を 調

    べ た 際,【ShT】 の序 論 は関 連 情 報 が 比 較 的 豊 富 だ った の に対 し,【IN】 の 方 は,内 容 が極 め

    て乏 しい上 に事 実 誤 認 が多 く,情 報 源 と して 殆 ど役 に立 た なか っ た ㈲。 外来 者 で あ る著 者 の 経

    歴 に 鑑 み る な らば,952年(1545年)以 前 の宮 廷 事 情 につ いて は,他 者 か らの情 報 に頼 る ほか

    無 か った はず で あ る。 ま して や タ フ マ ー ス プ は最 大 の 当事 者 で あ る。 そ の彼 が 自 ら述 懐 した 一

    60

  • シ ャー ・タ フマースプ1世 時代 の イラ ン史研究 のための基本 史料

    級 史 料 を 本 論 部 分 の み利 用 し,序 論 の方 は一 切 利 用 しなか った可 能 性 な どま ず あ り得 な い ので

    あ る。

    そ う した 上 で 改 あ て 精 査 して み る と,【IN】 の 当 該 記 事 自体 も,【ShT】 よ りむ しろ 【Moka・

    leme】 に近 い 文 体 で あ る こ と が 了解 され る。 序 論 を含 め て の 『覚 え書 き』 の 原 初 形 態 と は,

    【Mokaleme】 に 近 い もの だ っ た可 能 性 が 極 め て高 い と考 え る。

    IV.『 ノ サ へ ・ ジ ャ ハ ー ン ・ ア ー ラ ー 』

    【JA】:Q的iAhmad-eGhaffari-yeQazvini,7〕 δ甥 ん々一θノ8短 η一δ短,IJasanNaraqi(ed.),Te-

    hran(1343AHS/1964).

    1.作 品

    本 作 品(1>b∫ α々 ん一¢ノ碗 伽 一働 の は,宇 宙 の創 造 か ら ヒジ ュ ラ暦972年(1564-65年)に 至 る,

    イ ラ ンを 中心 と した イ ス ラ ー ム通 史。 序 説2話(hart),本 論3篇(noskhe)か らな る。 サ ファ

    ヴ ィ 一朝 史 は本 論 第3篇 で 扱 わ れ,十 二 支 ・ヒジ ュ ラ暦 併 記 に よ る年 代 記形 式 で 叙 述 され てい

    る。

    著者 は ガ ー ズ ィー ・ア フマ ド ・ガ ッフ ァー リー ・ガ ズ ヴ ィ 一二 ー。919年 ズ ー ・ア ル ヒ ッ ジャ

    月(1514年2-3月)に レイ 地 方 テ ヘ ラ ンで 生 ま れ(【JA】277)(21),975年(1567-68年)に 没

    した。 ガ ッフ ァー リ一家 は サ イ エ ドで は な い が,そ の 家 系 樹 を遡 る と預 言 者 ム ハ ンマ ドの 教友

    (頭 りeb)の 一 人 だ った ア ブ ー ・ザ ル ・ガ ッ フ ァー リーAbuZaral-Ghaffariに 達 す る と い う

    古 い 家 柄 で あ る(【JA】"va")。 代 々 カ ー デ ィ ー(ガ ー ズ ィー)や 学 者 を 輩 出 す るな ど エ ラー

    ゲ ・ア ジ ャ ム地 方 屈 指 の 名 家 で あ っ た。 父 親 の ガ ー ズ ィ ー ・モ ハ ンマ ドQa年iMobammad

    (932/1525年 没)も レイ の町 の カ ー デ ィー で あ り,《 ヴ ァ ッサ ー リーVa$$ali》 の雅 号 を持 つ詩

    人 と して,タ フマ ー ス プの 父 王 で あ る エ ス マ ー イ ー ル1世 の 宮 廷 に も出入 り して い た。

    息 子 で あ る彼 も長 じて カ ー デ ィー とな った が,そ の 前 半 生 につ い て は不 明 な 点 が 多 い 。959

    年(1552年),タ フ マ ー ス プ に 献 呈 し た史 話 集 『夕 一 リー へ ・ネ ガ ー レ ス タ ー ン(丁 鷹 肋 一e

    飽g砂 θs励)』 が好 評 を 博 した こ とで歴 史 家 と して の 名 声 を得 た(22)。そ の後,さ ら に本 格 的 な

    イ ス ラ ー ム 通 史 と して書 か れ た の が 本 作 品 で あ る。 成 立 年 代 は972年(1564-65年)頃 で,同

    じ くタ フ マ ー ス プ に献 じ られ た と され る㈱ 。

    2.版 本

    歴 史 書 で あ る こ と を強 調 す る た め か,『 タ ー リー へ ・ジ ャハ ー ン ・ア ー ラー 』 の書 名 で 刊 行

    され た。 校 訂 者Naraqi氏 の 言 に よ れ ば,「MojtabaMinovi教 授 が テ ヘ ラ ン大 学 の た め に将

    来 した イ ス タ ンブル 写 本 の写 真 印画 」 を底 本 と して い る。 そ れ以 上 の説 明 は無 い が,こ の 「イ

    61

  • 平野 豊

    ス タ ンブ ル写 本 」 と は,版 本 序 文 に も転 載 されて い る 『テ ヘ ラ ン大 学 文 学 部 図 書 館 所 蔵 写 本 目

    録 』 の 当 該 項 目の解 説(【JA】"he")と 本 文 末 尾 に 明記 され て い る書 写 年 の 日付(24)か ら判 断 す

    る に,「Tauerl58写 本 」 と して も知 られ る イ ス タ ンブ ル の バ ヤ ズ ィ ド図 書 館(当 時)所 蔵

    WelieddinEfendi2397写 本 と みて 間違 いな い。 そ して,校 訂 作 業 で用 い られ た写 真 印 画 と は,

    テ ヘ ラ ン大 学 中 央 図 書 館 文 書 セ ン タ ー所 蔵 マ イ ク ロ フ ィル ムNo.444(フ ィル ム 番 号266)か

    ら焼 か れ た もの と思 わ れ る㈱ 。

    書 写 年 代 は990年 ラ ビー ウ1月(1582年3-4月)で あ り,現 存 最 古 の善 本 で あ る。 しt:が っ

    て,底 本 の 選 定 は的 確 で あ り,作 品 全体 が 版 本 に 収 録 され た こ と も幸 いで あ っ た。 校 訂 作 業 で

    は他 に 「碩 学Qazvinl氏 の傍 注 入 り写 本 」(26)とマ レ ク国 家 図 書 館 所 蔵No.3889写 本 も用 い られ

    た。 特 に 後 者 は,未 完 な が ら ヒ ジ ュ ラ暦10世 紀 の古 写 本 で あ る た め,本 文 に も[]で 括 ら

    れ る形 で 頻 繁 に挿 入 され て い る。

    3.特 記事項

    著者 はタフマースプと同年同月の生まれであり,同 時代の観察者として特に依拠すべき存在

    である。シャーの即位直後に勃発 した大アミール位を巡る部族間抗争の記事か らして早 くも非

    常に詳 しいが,こ れは彼の父親が抗争の巻き添えとなって殺害 されたためである(【JA】282)。

    治世初期の情報源として外せない史料である。サファヴィ一朝史部分については年代記形式の

    ため,日 付情報が非常に詳細である。要人の本名(esm)や ラガブに詳 しく,宮 廷社会での広

    い交遊が生かされている。

    V.『 タ ク メ ラ トル ・ア フバ ー ル 』

    【TA】:`AbdiBeyg-eShirazi,Tα 〃々zθ♂α'αあ41~ん∂畝`Abdol-HoseynNava'i(ed.),Tehran

    (1369AHS/1991).

    1.作 品

    宇 宙 の 創 造 か らヒ ジュ ラ暦978年(1571年)に 至 る,イ ラ ンを 中心 と した イ ス ラ ー ム通 史 。

    序 説,本 論4部(bab),結 語 か ら な る。 サ フ ァ ヴ ィ一 朝 史 は本 論 第4部 ・第2講 話 の 第3節

    (sahife)に て 扱 わ れ,十 二 支 ・ヒジ ュ ラ暦 併 用 の 年 代 記 形 式 で叙 述 され て い る。

    著 者 は ア ブデ ィー ・ベ イ ダ ・シー ラー ズ ィー こ と ホー ジ ェ ・ゼ イ ノル ア ーベ デ ィー ン ・ア リー

    KhwajeZeynal一'Abedin'Alib.'Abdal・Moumen。 本 業 は書 記 系 官 僚 だ が,詩 人 と して も知

    られ,《 ノ ヴ ィー デ ィーNovidi》 の筆 名 で 多数 の詩 作 品 を残 して い る。921年(1515年)に 生

    ま れ た 彼 は,17歳 の 頃,ま ず は 大 ア ミー ル の ホ セ イ ン ・ハ ー ン ・シ ャー ム ル ーHoseyn

    Khan-eShamluの 配 下 に加 わ り,そ の 後,宮 廷 文 書 局(daftarkhane-yehomayOn)勤 務 に ・

    62

  • シャー ・タフマースプ1世 時代 のイラ ン史研究のための基本史料

    転 じた(【TA】73)⑳ 。 以 後,30年 以 上 もの間,主 に税 計 算 や帳 簿 作 成 な どの 仕 事 に従 事 した。

    973年(1566年)に 退 職 後 は アル デ ビール の町 に移 住 し,隠 遁 生 活 に入 った 。

    本 作 品 の 編 纂 は,タ フマ ー ス プの 王 女 パ リー ハ ー ン ・ハ ー ノ ムPariKhanKhanomに 献 じ

    る意 図 を も って,967年(1559-60年)に 開始 され た と さ れ る(【TA】30)(mil。 ア ル デ ビ ール

    移 住 後 は,サ フ ァ ヴ ィー 王 家 の 始 祖 で あ る シ ェイ プ ・サ フ ィー オ ッデ ィー ンの 聖 廟 の す ぐ近 く

    に隠 宅 を構 え た。 当時,同 聖 廟 附 設 の 図 書 館(ketabkhane-yeboq'e-yeSheykhSafial-Din・e

    Ardebili)に は歴 史 文献 が 多 数 所 蔵 さ れて い た の だ が,そ れ らは編 纂 作 業 で大 い に 活 用 さ れた

    と思 わ れ る。978年(1571年),当 地 に て 成 立 に至 っ た(29)。彼 は981年(1573-74年)に 王 都,

    ガ ズ ヴ ィー ンを訪 れ,数 年 間 滞在 して い るが,本 作 品 は こ の 際 に上 記 の王 女 へ献 呈 され た と思

    わ れ る。 没 年 は988年(1580年)で あ る。

    2.版 本

    本 作 品 の 写 本 は,マ レク 国家 図書 館 所 蔵No,3890写 本1点 しか 現 存 しな い。 さ ら に悪 い こ

    と に,こ れ は作 品成 立 か ら1世 紀 以 上 経 た ヒ ジ ュ ラ暦12世 紀(西 暦17世 紀 末 ~18世 紀 末)

    に 書写 され た写 本 で あ る(3D)。こ の よ うな場 合,校 訂 者 は さ らな る条 件 悪 化 を避 け る べ く,原 本

    を 直 接 披 見 す べ き所 で あ ろ う。 少 な く と も,テ ヘ ラ ン大 学 中央 図 書 館 文 書 セ ンタ ー に収 め られ

    て い る マ イ ク ロ フ ィル ムNo.1981(フ ィル ム番 号58)(31)を 利 用 す る こ と は不 可 欠 だ っ た とい

    え る。

    しか しな が ら,校 訂 者Nava'i氏 が 実 際 に 底 本 と した の は,こ の写 本 そ の もの で も写 真 印画

    で もな く,氏 の 学 友 だ ったJalalMobaddethArmUy氏 の 子 息MirHashemMohaddeth氏

    に よ る部 分 筆 録 で あ る と い う(【TA】31)。 した が っ て,版 本 【TA】 は少 な くと も二 つ の問

    題 を抱 え て い る こ と にな る。 一 つ は,言 う まで もな く,底 本 に さ らな る誤 写 や 書 き漏 ら しが発

    生 して い る危 険性 で あ り,も う一 つ は,原 本 全 体 を通 覧 して い な い こ と に よ り,本 作 品 に 関す

    る校 訂 者 の理 解 が充 分 で な い 可 能 性 そ あ る。

    【TA】 に 収 録 さ れ て い る の は,サ フ ァ ヴ ィー 王 家 の歴 史 を扱 っ た上 記 の 「第3節 」 と,同

    時 代 に お け る近 隣 諸 国,境 域 諸 地 方 の支 配 著 た ち を扱 っ た第4部 ・第2講 話 の 「補 遺(zeyl)」,

    そ して最 後 の 「結 語 」 の み で あ る。 確 か に,史 料 的 価 値 を有 す る の は これ らの部 分 に ほぼ 限 ら

    れ よ うが,Mobaddeth氏 が筆 写 した部 分 を そ の ま ま 活 字 化 した だ け とい う感 は否 め な い 。 こ

    れ らの部 分 の作 品全 体 の 中 で の位 置 づ けに つ い て は あ る程 度 説 明 され て い る もの の,序 論 の具

    体 的 内容 が 不 明 な の は 問題 とい え よ う。 この 点 に関 して は,今 の所,筆 者 自身 が直 接原 本 を披

    見 す る ほか な い。

    63

  • 平野 豊

    3.特 記事項

    著者はタフマースプとほぼ同年代の生まれであり,し かも青年期か ら壮年期に至る三十余年

    間を,同 じ宮廷内で過ごしていた。官僚としての地位はさほど高 くなかったが,詩 人としての

    名声があったので,宮 廷内の要人たちとも近 しい関係にあったと想像される。つまり,史 書執

    筆者 としては非常に有利な環境にあった。

    本作品の特徴 としては,大 事件等の叙述において,個 人的な逸話を頻繁に挿入 している点が

    挙げられる。また,有 力者の本名やラガブ,兄 弟親子関係にも明るいため,系 図作成時には大

    ,い に参考になる。比較的平易な文体で叙述されている上,独 自性の高い情報を数多 く提供 して

    くれる有 り難い史料である。

    その一方で,【ShT】 と同様に,後 世の人間が理解 しやすい表現に書き改められている危険

    性がある点にも充分注意する必要がある。同時代における術語や官職名の検討など,特 に緻密

    さを要するテーマでの利用には適さないといえるだろう。

    VI.『 ジ ャ ヴ ァー ヘ ロル ・ア フ バ ー ル 』

    【Javaher】:BUdaq-eQazvini,∫ α掘 〃27α 」一、4々hうδπTδ γ落々 ん一eξ;α弄z麗yθ αzδgん 砿to984、 θQ,

    MoりammadRe孝aNa§iri&KoichiHaneda(ed.),Tokyo(1999),

    【Javaher2】:BOdaq-eMonshi・yeQazvini,ノ 伽 動27αZ一 ・4 肋々 δπBα 傭々h-e71δ 貌 ん一eIranα9

    Qα 短Q御 伽Z配 δSdZ-e984、 厚Q,MoりsenBahram-Nezhad(ed.),Tehran(1378AHS/2000)

    1.作 品

    宇 宙 と人 類 の 創 造 か ら ヒ ジ ュ ラ暦984年(1576年)に 至 る,イ ラ ンを 中 心 と した イ ス ラ ー

    ム通 史 。 前 言(dibache),第1序 説,第2序 説,結 語 か らな る講 話 集 。 サ フ ァヴ ィー 朝 史 は

    「結 語 」 に て扱 わ れ,タ フマ ー ス プの 治 世 全 体 を考 察 範 囲 に収 め て い る。

    著 者 は書 記 系 官僚 で あ っ た ブ ー ダー グ ・ガ ズ ヴ ィー二 一。916年(1510-11年)頃 ガ ズ ヴ ィー

    ンに 生 ま れ た 。 彼 自身 の 述 懐 に よれ ば,14歳 で 宮 廷 文 書 局 に 入 り,ま ず は5年 間 そ こで 働 い

    た(32)。次 い で,935年(1529年6月)か らの5年 半 は,1章 で も登 場 した シ ャラ7オ ッデ ィー

    ンオ グ ル の 書 記(monshi)と して,当 時 この人 物 が 知 事 職 を務 あ て い た バ グ ダ ー ドの 地 で過

    ご した(33:。941年(1534年11月 末),ス レイ マ ン大 帝 率 い る オ ス マ ン朝 遠 征 軍 に よ り この地 が

    占領 され る と,再 び宮 廷 に戻 った 。 実 は こ の時,シ ャラ フオ ッデ ィー ンは オ ス マ ン側 か ら再 三

    に わ た り投 降 の 誘 い を受 け て い た の だ が,タ フマ ー ス プへ の忠 誠 を 曲 げず 自軍 を宮 廷 に 合流 さ

    せ た 。 タ フ マ ー ス プ は これ を 大 い に喜 び,長 男 の モハ ンマ ド王 子 の師 傅 役 を任 せ るな ど,最 大

    級 の 厚 遇 で も って応 え た。 一 躍 寵 臣 とな っ た この 主 君 の 下 で,ブ ー ダ ー グ も補 佐 役(vazir)

    の地 位 に昇 進 して いた。 したが って,こ の頃 の 宮廷 内 に お け る彼 の権 威 もま た,相 当 な ものだ っ

    64

  • シャー ・タ フマースプ1世 時代の イラ ン史研究 のための基本史料

    た と思 わ れ る。

    しか しな が ら,943/1536年,シ ャ ラ フオ ッデ ィ ー ンが ヘ ラ ー ト知 事 に任 じ られ る と主 従 関

    係 に終 止 符 が 打 た れ た。 そ して,次 の十 余 年 間 は,タ フ マ ー ス プ の 同腹 の弟 パ フ ラー ム ・ミー

    ル ザ ーBahramMirza(923-5E/1517-49年)の 書 記 と して過 ごす こ と とな った。 主 従 関 係 と

    い う よ りは,朋 友 の よ うな 間柄 だ った とい う。 この 王 子 は兄 王 に対 す る絶 対 的 な忠 誠 心 で 知 ら

    れ,特 に 晩 年 は殆 ど行 動 を 共 に して い た 。 著 者 が西 暦16世 紀 中葉 に お け る宮 廷 事 情 に精 通 し

    て い るの は そ の た あ で あ る。 そ の 後,1550年 代 前 半 に は 王 都 ガ ズ ヴ ィ ー ン近 郊 の 複 数 の 町 で

    キ ャ ラー ンタル(kalantar)を,1550年 代 後半 か らは,ホ ラー サ ー ン地 方 の諸 都 市 で ヴ ァズ ィー

    ル 職 を務 め て い た。 パ フ ラー ム の死 を境 に宮 廷 か らは距 離 を置 い て い た もの の,比 較 的 情 報 を

    得 や す い環 境 で は あ った よ うで あ る。

    本 作 品 は,遅 くと も982年(1574-75年)に は執 筆 が 開 始 さ れ,タ フ マ ー ス プ が 逝 去 した

    984年(1576年)に 成 立 した。 この 年 に 即 位 した エ ス マ ー イ ー ルII世 に献 じ られ た と 目 され て

    い る(糾)。没 年 に つ い て は不 明 で あ る。

    2.版 本

    現 存 す る写 本 は1点 の み だ が,幸 い な こ と に著 者 の 自筆 写 本 で あ る。 サ ン ク トペ テ ル ブ ル ク

    の ロ シア科 学 ア カ デ ミー東 洋 学 研 究 所 に所 在 す る この写 本 は 「Dorn288写 本 」 の 名 で知 られ,

    書 写 年 代 と して984年 ジ ュマ ー ダ ー1月 末(1576年7月 下 旬)の 日付 を 有 して い る。 近 年,

    ほ ぼ 同時 期 に2種 類 の版 本 が刊 行 され た 。 いず れ も原 写 本 そ の もの で は な く,テ ヘ ラ ン大 学 中

    央 図 書 館 文 書 セ ンタ ー が 所 蔵 す る マ イ ク ロ フ ィル ム か らの写 真 印 画(No.3514~3517)(35)を 底

    本 と して い る(【Javaher】 序 文p.20,【Javaher2】48)。 ・底 本 が 同 一 に もか か わ らず,文 字

    の滲 み の 目立 つ判 読 困難 な 写本 で あ るた あ,箇 所 に よ って は テ クス トの 不一 致 が か な り あ る。

    サ フ ァ ヴ ィー 朝 史 研 究 を 目的 とす る場 合 は,本 文 校 訂 が よ り的確 な 【Javaher】 を正 本 と して

    用 い るべ きで あ ろ う。

    た だ し,【Javaher2】 に も,ア ク コユ ンル 朝 史 の章(第2序 説 ・第4部 の 第2章)が 含 まれ

    る上,原 写 本 に あ る 目次 が収 録 され て い る とい う利 点 が あ る。 特 に,こ の 目次1ま,サ フ ァ ヴ ィ一

    朝 史 の部 分 が 作 品 全 体 の 中 で どの よ うに位 置 づ け られ て い るか を知 る上 で不 可 欠 な 資 料 な の で,

    是 非 と も参 照 す べ きで あ る(【Javaher2】58-60)。

    さ らに,【Javaher2】 の 校 訂者 は,こ の よ うな貴 重 な写 本 が な ぜ ロ シ ア国 内 に あ るの か,そ

    の歴 史 的 経緯 につ いて も丁 寧 に解 説 して い る。 そ れ に よ る と,こ の写 本 はか つ て アル デ ビール

    の シ ェイ プ ・サ フ ィー オ ッデ ィー ン聖 廟 の 図書 館 に収 め られ て いた 。 だ が,ガ ー ジ ャー ル朝 の

    フ ァ トフ ・ア リー ・シ ャ ーFatり`AliShat(在 位1797-1834年)の 時 代,ロ シ ア帝 国 軍 に よ

    るア ル デ ビー ル 市 占領(1828.1.19)に よ り,テ ィ フ リス 経 由 で 当時 ロ シア の首 都 だ っ た ペ ト

    65

  • 平野 豊:

    ロ グ ラ ー ド(現 サ ン ク トペ テ ル ブ ル ク)へ と持 ち去 ら れ た 。 ま た,写 本 巻 頭 に は,1017年

    (1608-09年)の 日付 を有 す る ア ッバ ー ス1世 の ワ クフ ナ ー メ が 記 され て お り,上 記 の 図 書 館

    ヘ ワ ク フ され る以前 は上 記 の シ ャー の蔵 書 だ った事 実 が判 る とい う(【Javaher2】48-50)。

    3.特 記事項

    本作品について特筆すべきなのは,タ フマースプの治世全体を考察範囲に収めた最初のペル

    シア語史料であるという点である。 しかも,著 者はタフマースプよりも3,4年 ほど前に誕生

    していた。 したがって,記 事内容の多 くは同時代史料 としての価値を有する。基本史料の中で

    も特に中心に据えるべき作品といえよう。

    また,著 者の経歴紹介の過程で,シ ャラフオッディーンオグルの名前が再び登場 した点にも

    注目される。 タフマースプ時代における史書編纂活動を考える上で,こ の人物が果た した役割

    は決 して無視できないように思 う。

    さらに,著 者の書記系官僚という経歴,ま た,自 筆写本 とい う史料的価値から,16世 紀中

    葉のイラン社会における中央 ・地方の官職名やその職務内容に関す る情報についても,特 に高

    い価値を認めることができる。ただ し,講 話形式であるため日付情報はあまり詳 しくない。諸

    事件の 日単位での展開を追 うためには,年 代記史料の援用が不可欠である。

    VD.『 ア フ サ ン ノ ッ ・タ ヴ ァ ー リー フ 』

    【Ahsan】:Hasan・i-R{1mlU,.4ChronicleoftheEarlySafawisbeingtheノ 彫8α ππ協 αωσ毎々1乙

    C.N.呂eddon(ed.),voL1(PersianText),Baroda(1931).

    【AT】:HasanBeyg-eROm10,.舶sα ηal-7〕 α厩 短肋,`Abdol一 月oseynNava'i(ed.),Tehran

    (1357AHS/1979).

    1.作 品

    天 地 創 造 か ら ヒ ジ ュ ラ暦985年(1578年)に 至 る,イ ラ ンを 中心 と した イ ス ラー ム通 史 。

    全12巻 の う ち,現 存 す るの は807年(1404-05年)か ら899年(1493-94年)ま で の 出来 事 を

    扱 う第ll巻 と,900年(1494-95年)か ら985年(1577-78年)ま で を扱 う第12巻 の2巻 の

    み で あ る。 共 に ヒ ジ ュラ暦 に よ る年 代 記 形 式 で叙 述 され て い る。 両 者 の識 別 の た め,こ こで は

    前 者 を 『11巻 』,後 者 を 『12巻 』 と表 記 す る。

    著 者 は ハ サ ン ・ベ イ ダ ・ル ー ム ル ー。 その 名 が 示 す通 り,ル ー ム(ア ナ トリア)か らや って

    来 た トル コマ ン系 遊 牧 部 族 の 出身 で あ る。937-38年(1531-32年),ち ょ う ど 《タ ッカ ル 一部

    の禍 》(→ 皿章)が 発 生 した 頃 に ゴム の 地 で誕 生 した(【AT】313)。 祖 父 ア ミー ル ・ソル タ ー

    ン ・ル ー ム ル ーAmirSoltan-eRUmlO(946/1540年 没)は か ズ ヴ ィー ン知 事 を 務 め る有 力 者

    66

  • シャー ・タ フマース プ1世 時代の イラ ン史研究 のための基本史料

    だ った。 だ が,父 親 を早 くに亡 く して い た こ と もあ り,祖 父 の死 後,彼 は部 族 内で拠 り所 を失 っ

    た。948年(1541-42年),お そ ら くは 母 親 の 意 向 で,シ ャー の近 衛 集 団 た る コル チ 軍 に入 隊 し

    た。

    こ の事 は,結 果 と して,武 人 の視 点 で の 歴 史 書 が 執 筆 され る き っか け とな った。 著 者 自身 の

    言 に よ れ ば,タ フ マ ー ス プ が デ ズ フ ー ル(Dezf田)遠 征 に 出 立 した 時 点(949/1542年10

    月)(35)か ら980年(1572-73年)ま で の30年 間,「 す べ て の戦 役 に お い て 軍 営 に 同 行 し,殆 ど

    の 事 件 を そ の 目で 直 に観 察 して 来 た 」 と い う(【AT】389)。 ま た,そ れ 以 前 の合 戦 や 彼 自身

    が 参 加 して い な い遠 征 等 に つ い て も,信 頼 で き る筋 か ら聞 き取 り調 査 を 行 った と して い る。

    本 作 品 は,980年(1572-73年)時 点 で ほぼ 完 成 して い た が,タ フ マ ー ス プ の 在 世 中 に は欄

    筆 さ れ な か った 。985年(1578年),さ らに5年 分 の 出来 事 が追 加 され て よ うや く成 立 に 至 っ

    た 。 その 後 の著 者 の動 向 につ い て は き わ め て記 録 が 乏 し く,没 年 も不 明 で あ る(37)。

    2.版 本

    まず,【Ahsan】 の校 訂 者Seddon氏 が 底 本 に選 ん だ の は,「Ouseley232写 本 」 と して も知

    られ る ケ ンブ リ ッジ大 学 ボ ドレア ン図 書 館 所 蔵No.287写 本 で あ る㈹ 。 書 写 年 代 と して1010

    年(1601-02年)の 暦 年 が 明記 され た 美 写 本 で あ るが,913年 か ら932年 ま で(1508~26年)

    の 出 来 事,す な わ ち,エ ス マ ー イ ー ル1世 時代 の大 部 分 ど タ フマ ー ス プ1世 時 代 の最 初 期 の記

    事 が 欠 落 して い る。 こ の大 き な空 白部 分 を 補 うた め に,A.G.Ellis氏 所 蔵 写 本 が も う1つ の底

    本 と して 利 用 され た。 こ の写 本 は,巻 頭 と巻 末 の数 葉 が 脱 落 して い るた め書 写 年 代 は不 明 な の

    だ が,前 述 の写 本 と ほ ぼ 同年 代 の作 と推 定 さ れ て い る。 残 念 な が ら,【Ahsan】 は 学 術 書 に し

    て は 転 写 の 誤 りが 目立 つ 上,時 に数 行 に わ た る 脱落 が発 生 す るな ど,極 めて 欠 陥 の多 い版 本 と

    な った(39)。

    そ こ で,『ll巻 』 の校 訂 者 で もあ ったNava'i氏 は,よ り完 成 度 の 高 い テ ク ス トを 目指 し,

    新 た な 写 本 に 基 づ く 『12巻 』 の 校 訂 作 業 に 着 手 した(40)。こ の 【AT】 の 底 本 に は,か つ て

    Tauer,Storey両 氏 に よ り著 者 自筆 写 本 の可 能 性 を説 か れ た こ と もあ っ た,イ ス タ ン ブ ルの

    ヌー ル ・オ ス マ ニ エ 図 書 館 所 蔵No.3317写 本(4i)が選 定 され た。 「Tauerl62」 と して も知 られ

    る書 写 年 代 不 明 の この写 本 か らは,Minovi氏 の手 配 で か な り前 に マ イ ク ロ フ ィル ムが撮 られ,

    テ ヘ ラ ン大 学 に 所 蔵 され て い た㈲ 。 校 訂 作 業 に は そ の写 真 印 画 が 利 用 され た 。

    だ が,こ の 選 定 は上 記 の 写 本 に特 別 な史 料 的価 値 を認 め て の こ とで は 必 ず し も無 か った。 と

    い うの も,Nava'i氏 は 『11巻 』 の校 訂 作 業 に お い て既 に こ の写 本 を 利 用 して お り,そ の 過 程

    で そ れ が著 者 の 自筆 写 本 で はな い確 実 な証 拠 を掴 ん で しま って い るか らで あ る㈹ 。 氏 が 作 業 に

    用 い た も う1つ の 写 本(44)が1087年(1676-77年)の 書 写 年 を有 して い る こ とか ら,少 な くと

    もそ れ よ りは古 い写 本 と考 え て い た はず だ が,成 立 年 代 に 関 す る言 及 は 一 切 な い㈹ 。 した が っ

    67

  • 平野:豊

    て,【Ahsan】 の底本よりも史料的価値の高い写本かどうか も判断が難 しい所である。結局の

    所,早 期刊行が待望 されていたこともあり,欠 落箇所が少なく判読 も容易なこの写本が,『12

    巻』で もそのまま底本 とされたというのが実情であろう。

    以上の経緯をふまえるならば,テ クス トの完成度という点ではもちろん優っているものの,

    【AT】 の記事が 【Ahsan】 よりも原典の文面に近いとまで考える積極的な理由は見当たらな

    い。両者間に著 しい異同(当 該記事が無いことを含む)が 生 じている箇所では,【Ahsan】 の

    記述 を採用すべき場合 も当然ありうる。【AT】 では脚注にて 【Ahsan】 の異同記事がこまめ

    に引用紹介 されているので,照 合の労を厭わないことが肝要である。

    3.特 記事 項

    本 作 品 の最 大 の特 徴 は,著 者 が トル コ マ ン系 遊 牧 部 族 の 出身 者 で あ る点 だ が,例 え ば ゲゼ ル

    バ ー シ ュ(qezelbash)の 有 力 者 の兄 弟 親 子 関係 な どに つ いて,特 別 に 詳 しい と い う訳 で は な

    い。 また,尚 武 の気 質 を反 映 して か,女 性 に 関す る情 報 は,王 家 の 成員 を 含 め 殆 ど記 され て い

    な い。 内 容 面 で 特 筆 され る べ き 最 良 の 部 分 は,各 年 次 の末 尾 に 付 され て い る 「死 亡 記 事 」

    (motavaffiyat)と 「そ の他 の 出来 事 」(vaqaye'一yemotanaVve'he)で あ る。 これ らの項 目

    に は,そ の年 に お け る特 記 事 項,す なわ ち物 故 した要 人 の 略歴 や大 地 震 の 発生,疫 病 の 流 行 な

    ど,当 時 の社 会 を知 る上 で有 益 な 情 報 が ま と め られ て い る。

    た だ し,原 典 は既 に 消 失 し,現 存 す る十 数 点 の写 本 はす べ て 西 暦17世 紀 以 降 に書 写 され た

    もの で あ る。 写 本 の 性 格 上,筆 耕 人 の 手 を複 数 回 経 れ ば テ ク ス トに は必 ず や 変 化 が 生 じる 。

    【AT】 の 利 用 時 に は,な るべ く他 史 料 との 併 用 を 心 が け るべ きで あ ろ う。

    V皿.『 ホ ラ ー サ ト ッ ・ タ ヴ ァ ー リ ー フ 』

    【KhT】:Qa写iAhmadb.Sharafal-Dinal一 耳oseynal一 月oseynial-Qommi,Kんo読sα`al

    Tα短 γ漉 ん,EりsanEshraqi(ed.),2vols.,Tehran(1359-63AHS/1980-84)。

    1.作 品

    本 作 品 は 全5巻 構 想 だ った と思 わ れ う が,『 第5巻 』 の み が 現 存 す る。 実 際 に全 巻 が 執 筆 さ

    れ た か ど うか も不 明 。 サ フ ィー オ ッデ ィー ンの時 代 か ら ヒジ ュ ラ暦999年(1590-91年)に 至

    るサ フ ァヴ ィー 教 団 とそ の 王朝 の 通 史 。 さ らに2年 先 ま で の記 事 を 有 す る写 本 もあ るが,そ の

    部 分 は後 世 の筆 耕 人 に よ る追記 で あ る。 建 国以 前 の 出来 事 に つ い て は講 話 形 式 で,建 国 以 後 の

    出来 事 は十 二 支 ・ヒ ジ ュ ラ暦 併 用 の 年 代 記 形 式 で 叙 述 さ れ て い る。 さ らに,タ フマ ー ス プ時 代

    に つ いて は即 位 年 か らの年 次 も併 記 され て お り,暦 に対 す る非 常 な る こだ わ りが 特 徴 で あ る。

    著 者 は ガ ー ズ ィー ・ア フ マ ド ・ゴ ン ミー 。953年 ラ ビー ウ1月17日(1546.5.18),ゴ ム の

    68

  • シ ャー ・タ フマース プ1世 時代の イラ ン史研究 のための基本史料

    地 で フ セ イ ン系 サ イ エ ドの 家 系 に誕 生 した。 父 親 は 《ミー ル ・モ ン シーMirMonshi》 の うガ

    ブ で知 られ る高 級 官 僚 で あ った 。ll歳 の時,父 と共 に マ シ ュハ ドの 地 に移 住 し,以 後 お よそ

    20年 間 を そ の地 で暮 ら した(46)。初 め て歴 史 の表 舞 台 に登 場 した の は974年(1566年),著 者 が

    20歳 の 時 で あ った 。 この 年,オ ス マ ン帝 国 で は ス レイ マ ン大 帝 が逝 去(1566.9.6)し,子 息

    の セ リムII世 が 即 位 した の だ が,こ の 報 を 受 け た タ フ マ ー ス プ は,直 ち に哀 悼 と祝 賀 の意 を表

    す る外 交 書 簡 を送 付 す る こ とを 決 め た 。 多 数 の 文 人 た ちが 王 都 ガ ズ ヴ ィー ンに集 め られ,長 文

    の 書 簡 が 作 成 さ れ た が,最 も重 要 な 箇 所 は彼 ら親 子 に よ っ て書 かれ た とい う。 両 国 間 の和 平 は

    さ らに10年 以 上 継 続 した が,あ るい は こ の外 交 書 簡 の 効 果 もあ った か も しれ な い。 な お,こ

    の 書 簡 の 写 しは本 作 品 に も収 録 され て い る。

    本 作 品 の 編 纂 は,984年(1576年)に タ フマ ー ス プが 病 没 し,次 男 の エ ス マ ー イ ー ルH世 が

    第3代 君 主 の座 に就 い た こ とが 契 機 とな った 。 新 玉 は 弱 冠30歳 の 著 者 に対 し,初 代 君 主 エ ス

    マ ー イ ール1世 か ら当 代 に至 る サ フ ァ ヴ ィ一 朝 史 を書 くよ う命 じた 。 だ が,1年 半 後 この 君主

    が 急 死 す る と,次 な る支 援 者 が 現 わ れ な か っ た こ とか ら,編 纂 作 業 は 一 時 中断 とな った 。994

    年(1586年)に は ゴ ム の ヴ ァズ ィー ル 職 を 拝 命 す る な ど,官 僚 と して の 出世 も果 た した 。995

    年(1587年),ア ッバ ー ス1世 が 王 位 に就 く と内 乱 は急 速 に収 束 へ と向 か い,編 纂 作 業 も漸次

    再 開 さ れ た。 そ して,ア ッバ ー ス を献 呈 先 と して,999年(1590-91年)よ うや く成 立 に 至 っ

    た の で あ る 。1015年(1606年)に は,有 名 な 書 家 ・画 家 列 伝 『ゴ レス タ ー ネ ・ホ ナ ル

    (θ0♂θ∫`伽一θπ0ηαγ)』(47)も著 した が,没 年 も含 め そ の 後 の 動 向 に つ い て は一 切 知 ら れ て い な

    い(48)。

    2.版 本

    Eshraqi氏 校 訂 の 【KhT】 は ま さに 理 想 的 な 版 本 で あ る。 底 本 と して 用 い られ た の は,作

    品 成 立 年 と 同 じ999年(1590-91年)の 日付 を 有 す る,テ ヘ ラ ンの イ ラ ン考 古 学 博 物 館 所蔵

    No.3726写 本(全2冊)で あ る。 写 本 の 冒 頭 頁 に は ワ ク フナ ー メ が 記 さ れ て お り,そ の 来歴

    が 次 の よ う に述 べ られ て い る と い う。

    この 書 物 は,ア ブ ー ・タ ー リ ブの 子 息 ア リー'Alib.AbiTalebの 聖 域 の 番 犬 で あ るサ

    フ ァ ヴ ィー 家 の ア ッバ ー ス が シ ャー ・サ フ ィー の 聖 廟 に ワ ク フ した もの で あ る。 希 望 す る

    者 は 誰 で も読 ん で よ ろ しい。 た だ し,聖 廟 か ら外 に持 ち出 さな い こ と を条 件 とす る。 禁 を

    犯 して 帯 出 す る者 はす べ て,イ マ ー ム ・フ セ イ ンEmamHoseyn殺 害 者 と同 等 とみ なす

    こ と とす る。(【KhT】 序 文p.24)

    引 用 文 中 の 「サ フ ァ ヴ ィ一家 の ア ッバ ー ス」 と は ア ッバ ー ス1世 を,「 シ ャー ・サ フ ィーの

    69

  • 平 野 豊

    聖 廟 」 と は ア ル デ ビー ル の シ ェイ プ ・サ フ ィー オ ッデ ィー ン聖 廟 を指 す 。 した が って,こ の写

    本 が シ ャ ー ・ア ッバ ー ス の 旧蔵 書 だ った こ と,し か も,一 族 の 始 祖 の 聖 廟 に ワ ク フ され た ほ ど

    の貴 重 書 で あ る こと が 明 らか で あ る㈲。 校 訂 者 は 慎 重 に も判 断 を 保 留 して い るが,著 者 が ア ッ

    バ ー ス に献 呈 した原 作 品 そ の もの か,そ れ に準 じ る善 本 で あ る こ と は疑 い な い。

    ま た,Eshraqi氏 は本 文 校 訂 の た め4点 の 別写 本 を用 意 した が,有 名 な ベ ル リ ン国 立 図書 館

    所 蔵202202写 本(以 下,ベ ル リ ン写 本 と略記)に つ い て は,賢 明 に も校 勘 の 材料 か ら外 した 。

    な ぜ か1001年(1592-93年)ま で の 出来 事 が 記 さ れ て い る こ の写 本 は,か つ て,テ ヘ ラ ンの

    上 院 議 会 図 書 館(当 時)所 蔵No.6518写 本 と 同 じ筆 耕 人 に よ り,同 じ1050年 サ フ ァル 月

    (1640年5-6月)に 書 写 さ れ た 写 本 と理 解 されて き た(50)。だ が,氏 は この写 本 に は 書 写 年 も筆

    耕 人 名 も一 切 記 され て い な い こ と,最 後 の2年 分 だ けで な く,そ れ 以 前 の 記 事 につ いて も他 写

    本 と の整 合 性 に著 し く欠 け る こ とを確 認 した 。 そ して,校 訂 作 業 に使 用 しな い代 わ りに,巻 末

    に後 註 の 形 で 異 同記 事 を ま と め る とい う工 夫 を施 した。 これ は,利 用 す る側 に と って 実 に有 り

    難 い配 慮 で あ る。

    な お,本 作 品 は極 め て 浩 潮 で あ る た め,2つ に分 冊 され て い る。 タ フ マ ー ス プ 時 代 の 記 事 は

    第1冊 に,ベ ル リン写 本 に の み見 られ る異 同 記事 は 第2冊 に収 録 され て い る。

    3.特 記事項

    著者は本稿で挙げた基本史料の著者 としては最 も遅 く生まれた人物である。 しか しながら,

    父親が書記系財務官僚 として王家の複数の成員に仕えていたことから,16世 紀中葉の宮廷事

    情についても独自の情報を有 していた。生誕の地であり,一 時は統治にもかかわっていた聖都

    ゴムの情勢については特に詳 しく,ま た,そ の地が戦時におけるハレムの女性たちの疎開先に

    指定されていたためか,王 家の女性たちの動向にも明るい。 さらに,建 築物にも高い関心があ

    り,宮 廷地区の諸建築の描写は極めて精巧である。

    本作品の編纂にあたっては,先 行諸史料が充分 に活用されている。 とりわ けVD章 で扱 った

    『アフサンノッ・タヴァー リーフ』の記事内容は,時 に丸写 しに近い形で収録されている。だ

    が,結 果的にこれはむ しろ幸いな事だった。【KhT】 の底本は上記史料のいかなる写本よりも

    製作年代の古い善本だか らである。西暦1560年 代以降の出来事を伝える基本史料は限られて

    くるので,【AT】 の記事を最大限に生かすために も 【KhT】 の援用は不可欠と考える。

    お わ り に

    以上セ,作 品個々の特性についての説明を終える。著者の中には君主か ら直々に作品を依頼

    された者 もいたが,い ずれ も史書編纂の専門職に就いていた訳ではない。すべて私撰史料であ

    るわけだが,作 品どうしを読み比べてみると同一記事 もかなり目立つ。 これは,先 行作品の記

    70

  • シャー・タフマースプ1世 時代のイラン史研究のための基本史料

    事 を下地とした上で,異 説なり独 自情報なりを適宜挿入するという方法が,ど の作品でもある

    程度共通 して採用されていたためである。本稿では基本史料を成立年代順に配列 したが,こ れ

    は同一記事が見つかった場合,オ リジナ リティの所在を容易に判断できるよう配慮 したもので

    ある。

    冒頭で最重要課題に掲げた版本の底本についても,所 蔵先機関と書写年代の確認をひととお

    り済ませた。この件については一覧表にまとめたのでご確認頂きたい(→ 表2)。 一応の結論

    としては,基 本史料の中で も特に中核に位置づけるべき数点の版本,例 えば 【Javaher】,

    【KhT】 などの高い信頼性を確認できた。逆に,【ShT】 や 【TA】,【AT】 等は,原 作品の史

    料的価値は高いものの,底 本に問題を抱えているために利用の際には充分な注意を要すること

    が解 った。

    また,全 作品の成立年代を通覧 してみると,16世 紀中葉における対外戦争の終息を潜在的

    な契機 として編纂されたという共通性 も見出せる。『ハ ビーボッ・スィヤル続篇』の成立が最

    も早か ったのは,東 方の大国シャイバーニ一朝による領内侵攻が一足先に終息 したためと思わ

    れる。紛争が一区切 りついた時期が,東 部境域では若干早か ったのである。そもそも,こ の作

    品にはホラーサーン地方中心の歴史叙述という,他 作品とは異なる特性がある。

    一方,他 の7作 品はといえば,西 方の超大国オスマン朝との間でアマスィヤの講和が締結さ

    れた後に成立 している。 しか もその時期 は,こ の和平協約 が有効 だった四半世紀の間

    (1555~78年)に 集中していることが確認できる。 これ らの作品は宮廷中心の歴史叙述 という

    点で共通 している。実は,こ の時期にはそれまでの移動宮廷の伝統が一時的ながらも廃 され,

    宮廷が王都ガズヴィー ンに完全に定着するという文化史的にも極めて興味深い変化があった。

    まさに時代を画する大きな転機を迎えていた訳だが,時 代が変わったというこの意識 こそ,そ

    れまでのタフマースプの事績を総括 し,史 書に記録 しようという動きをもたらした根本的な要

    因だったように思 うのである。

    最後に,研 究テーマによっては,史 料的適性 という面でこれらを凌 ぐ作品 ももちろんある。

    例えば,文 化史研究に好適な作品群としては,詩 人伝などの列伝史料 を挙げることができる。

    ただし,そ の多 くは未刊であ り,既 刊作品の史料的価値が未刊作品のそれよりも上であるとは

    必ず しも言えない。史料的性格という面で も相当な差異が見 られるので,そ れらはまた別の機

    会に一括 して論 じられるべきであろう。だが,い かなるテーマを扱うにして も,タ フマースプ

    時代に関係する場合には,本 稿で挙げた基本史料が必須文献 となる事:実は動かないと確信する

    ものである。

    (1)邦 語 による基礎文献 としては,本 田実 信 「ペル シア語史料解説」『モ ンゴル時代史 研究』,東 京大

    学出版社,1991年,535-594頁(初 出:同 「イ ラン」『アジア歴史研究 入門』4,同 朋舎,1984年,

    71

  • 平野 豊

    593-662頁)が 挙 げ られ る。 西 欧 諸 国 にて 蓄 積 され た当 該 研 究 の ダ イ ジ ェス トと して非 常 に 有用 。

    サ フ ァ ヴ ィ 一朝 時 代 に 考 察 対 象 を絞 った研 究 と して は,SholehA.Quinn,研s`o万cα`Writingduy一

    句9theReignqプS加12ン1わ わαs'昭 θo'09:v,Imitation,andLegitimacyinSψ 加(オChronicles,Salt

    LakeCity(2000)が あ る。 た だ し,こ ち らは歴 史 叙 述 の 時 代 的 変 化 と い う もの に関 心 が移 って お

    り,史 料 解 題 の よ うな 基 礎 的 研 究 を さ らに 深 く掘 り下 げ た もの で は な い。

    (2)こ れ よ り先,948年(1542年)の 時点 で,ミ ー ル ・ヤ フ ヤーMirYahya著 『ロ ッボ ッ ・タ ヴ ァー

    リー フ(ム0δ δα護・Tai;δπ ん々)』 が 既 に 成 立 して い た 。 しか しな が ら,こ の作 品 は内 容 的 に は 初代 君

    主 エ スマ ー イー ル1世 の 時 代 ま で を扱 う もの で あ り,タ フ マ ー ス プ の治 世 は ま だ 考 察 対 象 と され て

    い な い 。

    (3)名 目 的 に は,タ フ マ ー ス プ の 長 男 ソル タ ー ン ・モ ハ ン マ ド ・ ミー ル ザ ーSoltanMonammad

    Mirza(後 の第4代 君 主)が ヘ ラ ー ト知 事 であ っ た。 西 暦16世 紀 に お け る 同 王 朝 の ヘ ラ ー ト知 事

    職 は,王 子 の師 傅(1ale)を 務 め る有 力 ア ミール が 代 行 す る形 を と って いた 。 な お,シ ャ ラ フオ ッ

    デ ィ ー ンオ グル の経 歴 に つ い て は 下 記 の論 考 を参 照。MariaSzuppe,KinshipTiesbetweenthe

    SafavidsandtheQizilbashAmirsinLateSixteenth-CenturyIran:aCaseStudyofthePoliti・

    calCareerofMembersoftheSharafal・DinOghliTekeluFamily,S吻 加4Persia,Charles

    Melville(ed.),London・NewYork(1996),pp.79-104,

    (4)本 史 料 の 基本 情 報 に つ い て は,Karang氏 の下 記 の論 文 を 参 照 す る こ とが 望 ま しい 。`Abdol一'Ali

    Karang,Tarikh-eShahTahmasb,ハ 他sん吻 θッθκθ`訪肋 伽 θ一yθM¢ 漉ッ27〕 αδπz7(1343AHS/

    1964).残 念 なが ら,筆 者 はKarang論 文 を直 接 利 用 で き なか っ た た め,Ma'ani氏 の著 作 の 当該 項

    目 を 参 照 し た(AbmadGolchinMa'ani,7〕 厩 肋 一θ7h錦 θ箔θ・肱ryθ 翅7s歪,voL2,Tehran(1350

    AHS/1972),pp.540-544)。 な お,上 記 項 目で はKarang論 文 が ほ ぼ丸 ご と転 載 さ れ て い る。Ma'ani

    氏 個 人 の知 見 は特 に加 え られ て い な いの で,利 用 時 に は 注 意 が 必 要 で あ る。

    (5)A阜madMonzavl,Fθ 加 θs陀 ハ1bs肋 ε一擁 ッθκ肱 雄:yθ 磁7s属vol.E,Tehran(1353AHS/1975),p.

    4249,pp.4326-4327.

    (6)MirVadUdSeyyedYOnasi,F2加2sか θκθ`訪始 動 θッθ伽 〃重層y2Tα δπ属vol.2,Tabriz(1350

    AHS/1971),p.704,

    (7)Monzaviop.cit.,p.4249,p.4326.

    (8)【ZHS】 序 文p.15.

    (9)【ZHS2】 序 文pp,33-39.お よ び,【ZHS】 序 文p.16を 参 照 。 なお,本 来 な らば,同 図書 館 所 蔵

    写 本 目録 の 当該 項 目(Mo恥mmadShirvani,Fε ん70s`一θ1>bs肋 ¢一肱 一yθK肱'`i・y¢1(θ励 励 磁 θ一yθ

    悔g歪短一yθ距zd,vol.1,Tehran(1350AHS/1972),pp.357-359)に 最:も依 拠 す べ き所 だ が,作 品 成

    立 年 やNo.393写 本(=ヤ ズ ド写 本)の 書 写 年 と い っ た最 重 要 事 項 に つ い て 事 実 誤 認 や誤 植 が見 ら

    れ る の で,本 稿 で は 採 用 しな か っ た。

    (10)た だ し,【ZHS】 の書 名 は,史 料 の校 訂 本 と して は明 らか に不 適 切 で あ る。 底 本 に 『ハ ビー ボ ッ ・

    ス ィヤ ル 続 篇』 の 仮 題 が 付 され て い る の な らば,当 然 そ れ を用 い るべ き だ った。 逆 にい え ば,た と

    え 副題 で あ って も,【ZHS2】 には 『ハ ビー ボ ッ 。ス ィ ヤ ル続 篇 』 の タ イ トル を用 い る資 格 は無 か っ

    た こ と に もな る。 混 乱 しや す い の で要 注 意 。

    (ll)【ZHS】 の校 訂 者Taba⑫ba'i氏 は,サ フ ァヴ ィ 一 朝 後 半 期 に成 立 した 浩 潮 な ペ ル シ ア語 史 書

    『ロ ウ ザ トッ ・サ フ ァ ヴ ィー イ ェ』 の 版 本 校 訂 者 で もあ る。 氏 も指 摘 して い る通 り,同 書 中 の エ ス

    マ ー イ ー ル1世 の 治 世 後 半(チ ャル デ ラ ンの戦 い以 後)か らタ フマ ー ス プ1世 の 治 世 前 半 まで の 部

    分 は,『 マ フ ムー ドの書(κ θ励 一θル勧 ηz認)』,す な わ ち,本 作 品 を 主 要 な 情 報 源 と して 書 か れ た

    も の で あ る(【ZHS】 序 文pp.1-2.;MirzaBeyg-eJonabadi,Roπ ζα'α`一Sα知 ηiy¢,GholamRe3a

    Tabataba'iMajd(ed.),Tehran(1378AHS/1999),pp.902-903)。

    (12)Ma'ani,opc鉱,p.541.

    (13)【ZHS】 序 文p.16.お よ び,【ZHS2】 序 文pp.34-35を 参 照 。

    72

  • シャー ・タフマースプ1世 時代の イラ ン史研究 のための基本 史料

    (14)WladimirIvanow,Concisel)escriptiveCatalogueofthePersianManuscriptsintheCollection

    q]ftheAsiaticSocietyofBengal,Calcutta(1924),PP27-28.

    (15)本 作 品 の 諸 写 本 ・諸 版 本 に つ い て は,下 記 の 文 献 案 内 に も簡 単 な説 明 が あ る。C.A.Storey,

    PersianLiterature.ABio-bibliographicalSurvey,II/2,London(1936),pp.305-306.な お,

    【ShT】 の監 修者Safari氏 は,タ フ マー ス プの 生 涯 に つ い て は 詳 し く解 説 して い る もの の,肝 心 の

    史 料 解 題 に は 殆 ど立 ち入 って い な い 。

    (16)`Abdol・HoseynNava'i氏 の 寄 稿 文 を参 照(【IN】 前 言p.12)。

    (17)【IN】 序 文pp.21-23.お よ び,CharlesRieu,Cα ∫α'ogπθOfthePersian福 αηπsc吻's勿the

    BritishMuseum,vol.1,London(1879),pp.107-108.を 参 照 。 な お,【IN】 に は 「ヒ ジ ュ ラ暦972

    年 に至 る サ フ ァ ヴ ィ ー朝 史 」 と い う副 題 が付 され て い るが,本 文 中 に 「972年 」 と い う暦 年 は 出て

    こ な い は ず で あ る。 また,Rieu目 録 で は本 作 品 を 「970年(1562-63年)に 至 る通 史 」 と して い る

    が,執 筆 時現 在 と して 「971年 」 の 暦 年 が あ る以 上,こ ち ら も正 確iさ を欠 い て い る。

    (18)Monzavi,のo鉱,pp.4103-4104.

    (19)Rieu,op.c鉱,pp.110-111.な お,Monzavi目 録 に よ れ ば,【IN】 に 収 録 され て い な い 全3集

    (majles)の 「結 語 」 に は,著 者 が イ ラ ン滞 在 中 に交 遊 した サ イ エ ド,ウ ラ マ ー,詩 人 等 の 名 士 列

    伝 が ま と め.られ て い る と い う(Monzavi,op.cit.,p.4103)。

    (20)こ の 件 に つ い て は右 の小 論 を 参 照 され た い。 拙 稿 「《タ ッカ ル ー 部 の 禍 》 の 夕 一 リー フで 知 られ

    る部 族 間 内証 に つ い て」 『明大 ア ジア 史論 集 』10,2005年,55-67頁.

    (21)Quinn氏 は 「910/1504-05年 頃」 の 誕 生 と して い る が,そ の 典 拠 は 版 本 【JA】 で あ る。 単 な る

    不 注 意 に よ る誤 記 で あ ろ う(Quinn,op.c鉱,p.17)。

    (22)『 ネ ガ ー レス タ ー ン』 で は サ フ ァ ヴ ィ一朝 期 の 出 来事 は 扱 わ れ て い な い。 【JA】 の 校 訂 者Naraqi

    氏 は,序 文 の大 半 を なぜ か こ の作 品 の解 説 に費 や して お り,肝 心 の 『ジ ャハ ー ン ・ア ー ラー 』 につ

    い て は 自 ら の見 解 を殆 ど示 して い な い(【JA】"be"一"he")。

    (23)Rieu,oρ.c舐,pp.111-115.;Storey,PersianLiterature,H/1,London(1935),p.ll6.;Monzavi,

    op.c鉱,pp.4136-4137.

    (24)版 本 で は,暦 年 の ア ラ ビア数 字 は正 しい も の の,な ぜ か文 字 表 記 の 方 が 「ヒ ジ ュ ラ暦970年 」 と

    誤 記 さ れ て い る(【JA】310)。 こ の誤 植 はMonzavi目 録 に も引 き継 が れ て し ま っ て い る の だ が,

    上 記 の 年 に は ま だ作 品 自体 が 成 立 して い な い こ と に注 意 。 「990年 」 が 正 しい(Monzavi,op.c鉱,p.

    4136)。

    (25)Monzavi,朔 風;FelixTauer,LesManuscritsPersansHistoriquesdesBibliothさquesde

    Stamboul(1),447cん 勿0ガ θη∫6厩3(1931),p.117.;MobammadTaqiDanesh-PazhOh,Fθ んzθs`一θ

    ハ1bε肋 θ一擁 ツθK彪 αμi-yθ κθ頗δ勉 励 θツθ 、oδηθs1ε々α(オθ一yθノ1(オαわ護yσ"物@〃 θ一yθ1)伽gs海 α々4θ一yθ

    、4δdαδ勾配一e1)δπθ∫んgδh一θToん 短 η,V皿/1,Tehran(1339AHS/1961),pp.195-196.

    (26)テ ヘ ラ ン大 学 文 学 部 図書 館(当 時)所 蔵 写 本Jim-248(1)~(3)を 指 す もの と思 わ れ る(Danesh-

    PazhOh,op.cfム,p.196)。Monzavi目 録 に よ れ ば,こ の 写 本 は 「Mir'AliNaqiKashaniが ロ ン ド

    ン にて 大 英 博 物 館 所 蔵Or.ll4写 本(×Or.ll41写 本)を 筆 写 し,Qazvin三 が 校 正 した もの」 との

    こ と。 つ ま り,西 暦17世 紀 に 書 写 され たOr.ll4写 本 か ら,さ ら に20世 紀 の人 間 が筆 写 した もの

    で あ る(Monzavi,ibid.)。

    (27)ホ セ イ ン ・ハ ー ンは938/1531年 に 大 ア ミール に就 任 し,941/1534年 に処 刑 さ れ て い る。 著 者 が

    宮 廷文 書 局 勤務 に転 じた 時 期 につ いて は,上 記 期 間 内 の後 半 と想 定 され る。

    (28)Monzaviop.cit.,p.413:.

    (29)成 立 年 代 に つ い て は,か つ て,漠 然 と985年(1577-78年)か ら988年(1580年)ま で の 間 に 比

    定 され て い た(Monzavi,ibid.)。 しか しな が ら,校 訂 テ クス ト本 文 に は 「一 部 は978年,一 部 は

    979年 で あ る所 の ひつ じの年 の 初 め[に 成 立]」(【TA】132)と い う明 快 な 記 述 が 見 出 せ る。 イ ラ

    ン世 界 で の 十 二 支 は春 分 を起 点 とす るの で,具 体 的 に は978年 末(1571年4-5月)頃 で あ ろ うか。

    73

  • 平野 豊

    (30)書 誌 情 報 につ い て は,マ レク 国 家 図書 館 の 写 本 目録 を参 照(IrajAfshar&MobammadTaqi

    Danesh-PazhUh(ed.),Fθ ん7gs`一θ κθ緬δ一hδッθKん α'葺ッθ κθ頗δ々 hδηg-y2ル 惣〃多yθMα1θ 々,vo1.2,

    Tehran(1354AHS/1975),p.165)。

    (31)Monzavi,め ∫d.

    (32)本 作 品 に は,著 者 が 自 らの 経 歴 を 詳 細 に綴 っ た 興 味 深 い一 講 話 が 設 け られ て い る(【Javaher】

    100-03,【Javaher2】187-91)。 官 僚 と して の 職 務 内容 や 俸 給 額 が具 体 的 に記 され た 史 料 と して 貴

    重 だ が,併 記 さ れ て い る年 次 と歴 史 上 の 出来 事 と の整 合 性 に は や や 欠 け る。 こ の件 につ い て は,

    Savory氏 に よ る右 の訳 注 付 き論 説 も参 照 。RogerM.Savory,ASecretarialCareerunderShah

    TahmaspI(1524-1576),IslamicStudiesH(1963),pp.343-352.

    (33)シ ャ ラ フ オ ッ デ ィ ー ンオ グ ル は933年(1527年)か ら2年 間,ガ ズ ヴ ィ ー ン知 事 を務 め て い た。

    この 時,彼 は 自 ら の補 佐 役(vezaratovekalat)に この 都 市 の有 力 者 で あ った 著 者 の母 方 の お じ

    (khal)を 充 て て い た。935年(1529年6月),バ グ ダ ー ド知 事 へ の 転 任 を 命 ぜ られ る と,シ ャ ラ

    フ オ ッデ ィー ンオ グル は この 人 物 に 同行 を求 め,彼 もま た,甥 で あ る著 者 を バ グダ ー ドに伴 った の

    だ った(【Javaher】100,【Javaher2】188)。(Savory,opC21.,p.350.;Szuppe,oμc鵡pp.81-82)

    (34)Monzavi,o動c鉱,p.4136.

    (35)MoりammadTaqiDanesh-PazhOh,Fθ んzos`・eM漉7q声 価 一んσ一y2κ θ`動航 伽2-yθ ル勉7々αz歪"α

    ルたz7陀αz一θノ1s瓶d-E1)々 ηθsんg畝一θTehran,VoL3,Tehran(1363AHS/1985),p.225.

    (36)デ ズ フー ル 遠 征 の 記 事 は,本 作 品 で は 「ヒ ジュ ラ暦948年(1541-42年)の 出来 事 」 の 条 に記 さ

    れ て い るが,他 史料 の 当 該 記 事 を含 め て総 合 的 に検 討 す る な らば,949年 秋(1542年10-ll月)の

    出来 事 と判 断 され る。

    (37)C.N.Seddon,耳asan-i-RUmlU'sAbsanu't・tawarikh,ノ θπ㍑ α`oftheRoyalAsiaticSoc∫ θご:yof

    GreatBritainandIreland(1927),pp.307-313;【AT】 序 文pp.22-2"r.

    (38)Storey,Pθrs毎 ηム歪`θ7α伽72,II/2,p.307.;【Ahsan】1-11.

    (39)Seddon氏 に よれ ば,ボ ドレア ン写 本 の筆 耕 人 に は極 め て大 胆 な 省 略 癖 が あ っ た。 しか も,校 訂

    作 業 に 用 い られ た三 写 本 はい ず れ も 同一 の写 本(た だ し,原 典 で は な い)か ら書 写 され た 可 能 性 が

    大 き い と い う(Seddon,め 砿)。 氏 が 底 本 の誤 記 や 省 略 を 復 元 し切 れ な か った 根 本 的 な原 因 は,こ

    れ らの 点 に あ る もの と思 わ れ る。

    (40)非 常 に紛 らわ しい こ と に,『11巻 』 と 『is巻 』 の版 本 の書 名 は全 く同一 で あ る。 著 者 名 の 微 妙 な

    違 い に よ り識 別 さ れ て い る。 「ベ イ ダ」(Beyg)の 称 号 が な い方 が 『11巻 』,あ る方 が 『12巻 』 で

    あ る([AT]VOA.11:Hasan-eRUmlU,、4加 απαZ-Tα掘 π々h,`Abdol-HoseynNava'i(ed.),Tehran

    (1349AHS/1970))Q

    (41)Tauer,01).c鉱,P118.;Storey,ibid.

    (42)テ ヘ ラ ン大 学 中 央 図 書 館 文 書 セ ン タ ー 所 蔵 マ イ ク ロ フ ィ ル ムNo.176(フ ィル ム 番 号4)

    (Monzavi,のc鉱,p.4091)。

    (43)[AT]VO'..ll,序 文p.28.

    (44)イ ラ ン国 民 議 会 図書 館 所 蔵No.2266写 本 。 「ヒ ジ ュ ラ暦984年(1576-77年)の 出来 事 」 の 条 の

    途 中(【AT】611)で 終 わ る未 完 写 本 で あ る(【AT】 序 文p.26)。 書 写 年 代 等 の 詳 細 に つ い て は 同

    図 書 館 の 目録 を 参 照(Sa'idNafisi,F餉72s陀 κ¢励 雁々 η¢一yθル勿'2s-ES初 篇 δ・yθル惣Z'歪,vol.6,

    Tehran(1344AHS/1965),pp.223-224)。

    (45)『ll巻 』 出版 後 に執 筆 さ れ たMonzavi目 録 の 当 該項 目で は,漠 然 と 「ヒ ジュ ラ 暦11世 紀(西 暦

    16世 紀末 ~17世 紀 末)」 の 書 写 と記 さ れ て い る(Monzavi,op.c鉱,p.4091)。

    (46)964年(1556-57年),タ フマ ー ス プ は甥 のエ ブ ラ ー ヒー ム ・ ミー ル ザ ーEbrahimMirzaを マ シ ュ

    ハ ド知 事 と して 派 遣 した 。 この 時 ,著 者 の父 ミー ル ・モ ン シー が エ ブ ラー ヒー ムの 補 佐 役,す な わ

    ち,マ シ ュハ ドの ヴ ァズ ィー ル と して土 地 と徴税 に 関す る諸 業 務 す べ て の 責 任 者 と さ れ た。5年 後,

    彼 は解 任 さ れ 王 都 ガ ズ ヴ ィ ー ンに 戻 るが,子 息 で あ る 著 者 は 同行 せ ず マ シ ュハ ドに と ど ま っ た

    74

  • シャー ・タフマースプ1世 時代