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はじめに 本稿では,言語学史上名高い《プラハ言語学サークル》において実現された「不可思議」と も「未曾有」とも形容したくなるような共生について紹介したい。1926年にわずか17名の研究 者によって結成されたプラハ言語学サークルにあっては,チェコ人のメンバーと革命後のロシ アを離れたロシア帝国出身の研究者 (1) が共存しただけでなく,むしろ後者のメンバーたちが 主導的な役割を果たした,と一般的に考えられている。しかし,そのロシア出身の研究者たち の身分や信条は,実にさまざまであった。常識的に考えれば,同じ空を戴くことなどあり得な い――そんな人々が音韻論の確立をはじめとする多くのめざましい研究成果を達成したという 史実は,あたかも文化相対主義を体現しているかのようでもあり,大袈裟に言えば,20世紀ヨ ーロッパ精神史という観点からも意義ある「共生」の実例である。しかも,プラハ学派の構造 主義言語学に,1920年代はじめに亡命ロシア人の間に生まれた思想《ユーラシア主義》が一定 の影響を及ぼしていた可能性がつとに指摘されているという点でも,この集団におけるチェコ 人とロシア人との関係は,きわめて興味深い。 1.両大戦間期プラハの文化的背景:チェコ・アヴァンギャルドの開花 1920年代のプラハでは,構造言語学に一歩先んじて,アヴァンギャルド芸術が開花した。 1920年10月,世紀の変わり目の前後に生を受けた若い詩人,画家,建築家,写真家,脚本家, 作曲家,批評家たちを糾合し《デヴェトスィル》というグループが結成された。今日ではチェ コ・アヴァンギャルドすなわち《デヴェトスィル》と見なされていると言っても過言ではない ほどだが,当初《デヴェトスィル》はプロレタリア的なプリミティヴィズムを志向していた。 にもかかわらず,結成2年後の1922年6月,グループの理論面のリーダーであったカレル・タ イゲのパリ訪問を機に,《デヴェトスィル》はプロレタリア芸術からアヴァンギャルド芸術へ 研究ノート プラハ言語学サークルにおける共生 ――構造主義とユーラシア主義―― 〔要 旨〕 大戦間期のチェコスロヴァキアで結成されたプラハ言語学サークルは,その メンバーにチェコ人以外のロシア人,ウクライナ人らを含む多国籍集団であったのみな らず,政治的信条や芸術上の趣味などの面でも実に多様でありながら,稀有の集団主義 によって音韻論の確立など言語学史に残る輝かしい業績を残した。このサークルの会員 トゥルベツコイとヤコブソンに焦点を当てることによって,プラハ言語学サークルに見 られるたぐいまれな「共生」の一側面を,大戦間期の亡命ロシア人社会に起こったユー ラシア主義と構造主義言語学との関係の中に浮き彫りにしたい。 〔キーワード〕 プラハ言語学サークル,トゥルベツコイ,ヤコブソン,構造主義,ユー ラシア主義 79
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プラハ言語学サークルにおける共生...はじめに 本稿では,言語学史上名高い《プラハ言語学サークル》において実現された「不可思議」と

Oct 05, 2020

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は じ め に

本稿では,言語学史上名高い《プラハ言語学サークル》において実現された「不可思議」とも「未曾有」とも形容したくなるような共生について紹介したい。1926年にわずか17名の研究者によって結成されたプラハ言語学サークルにあっては,チェコ人のメンバーと革命後のロシアを離れたロシア帝国出身の研究者(1)が共存しただけでなく,むしろ後者のメンバーたちが主導的な役割を果たした,と一般的に考えられている。しかし,そのロシア出身の研究者たちの身分や信条は,実にさまざまであった。常識的に考えれば,同じ空を戴くことなどあり得ない――そんな人々が音韻論の確立をはじめとする多くのめざましい研究成果を達成したという史実は,あたかも文化相対主義を体現しているかのようでもあり,大袈裟に言えば,20世紀ヨーロッパ精神史という観点からも意義ある「共生」の実例である。しかも,プラハ学派の構造主義言語学に,1920年代はじめに亡命ロシア人の間に生まれた思想《ユーラシア主義》が一定の影響を及ぼしていた可能性がつとに指摘されているという点でも,この集団におけるチェコ人とロシア人との関係は,きわめて興味深い。

1.両大戦間期プラハの文化的背景:チェコ・アヴァンギャルドの開花

1920年代のプラハでは,構造言語学に一歩先んじて,アヴァンギャルド芸術が開花した。1920年10月,世紀の変わり目の前後に生を受けた若い詩人,画家,建築家,写真家,脚本家,作曲家,批評家たちを糾合し《デヴェトスィル》というグループが結成された。今日ではチェコ・アヴァンギャルドすなわち《デヴェトスィル》と見なされていると言っても過言ではないほどだが,当初《デヴェトスィル》はプロレタリア的なプリミティヴィズムを志向していた。にもかかわらず,結成2年後の1922年6月,グループの理論面のリーダーであったカレル・タイゲのパリ訪問を機に,《デヴェトスィル》はプロレタリア芸術からアヴァンギャルド芸術へ

研究ノート

プラハ言語学サークルにおける共生――構造主義とユーラシア主義――

〔要 旨〕 大戦間期のチェコスロヴァキアで結成されたプラハ言語学サークルは,そのメンバーにチェコ人以外のロシア人,ウクライナ人らを含む多国籍集団であったのみならず,政治的信条や芸術上の趣味などの面でも実に多様でありながら,稀有の集団主義によって音韻論の確立など言語学史に残る輝かしい業績を残した。このサークルの会員トゥルベツコイとヤコブソンに焦点を当てることによって,プラハ言語学サークルに見られるたぐいまれな「共生」の一側面を,大戦間期の亡命ロシア人社会に起こったユーラシア主義と構造主義言語学との関係の中に浮き彫りにしたい。

〔キーワード〕 プラハ言語学サークル,トゥルベツコイ,ヤコブソン,構造主義,ユーラシア主義

大 平 陽 一

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と大きく舵を切ることになる。ル・コルビュジエとオザンファン,あるいはラリオーノフらの知己を得たタイゲは,国際アヴァンギャルド運動との接触を――とりわけフランスおよびロシアのアヴァンギャルドとの交流を図るようになったのである。20年代前半に《デヴェトスィル》が講演会や展覧会のために招いた人々には,ピュリスムのル・コルビュジエとオザンファン,バウハウスのグロピウス,マイヤー,そしてモホリ・ナジ,オランダの建築家アウトがいる。ソ連からもエレンブルクが招かれた。画家でも建築家でもないパリ在住のソヴィエト・ロシアの作家イリヤ・エレンブルクがゲス

トとして招かれたのは,構成主義の紹介者としてであろう。彼はアヴァンギャルド芸術論『それでも地球は動く』(1922年)の「構成」と題された章を次のように始めている。

注目! とびきり大切な,たぶん最重要の章。ここに新しい芸術のへそがある。近年,誰もみなひとつのことを理解した。多くの人々が,この「ひとつ」を手短にはっきりと述べた。互いに談合することもなしに。にもかかわらず,さまざまな国で同じスローガンが叫ばれたのだ。フランスの雑誌『エスプリ・ヌーヴォ』(欧州最良の雑誌):創刊号の綱領的論説の中で

「新しい精神,それは構成の精神である」と。オランダの雑誌『デ・ステイル』:

「新たな集団的スタイルは構成的原理よりきたるべし」と。ロシアの雑誌『ウノヴィス』:

「基礎は構成である」等々。(Èrenburg 1922 : 55―56)

周知の通り「構成主義」の意味は一定しておらず,必ずしも1915年前後にタトリンの反レリーフによって始まり,美術からデザイン,さらに建築へと越境していった《ロシア構成主義》を指すとは限らない。タイゲが初めてフランスを訪れた1922年には既にドイツの《バウハウス》など中欧全域に拡がった国際的な潮流を指す語としても用いられるようになっていた。さらに広く,デ・ステイルやピュリスムが国際構成主義運動の一環と見做されることも少なくない。先の引用文からしても,エレンブルクはこうした広い意味で構成主義を理解していたように見受けられる。『それでも地球は動く』が構成主義のアーティストというだけでなく,『構成主義』という著書をものした理論家でもあったアレクセイ・ガンによって批判されたという事実も,エレンブルクの構成主義理解が正統を自負するロシア構成主義者たちとは異なる西欧寄りの理解であったことをうかがわせる。しかし,そうしたソ連の構成主義者たちからすれば西寄りで,「非正統的な」構成主義観こそが,フランス経由で構成主義に接近したタイゲにはむしろ近しかったのであろう。さらに,タイゲのマニフェスト「構成主義と〈芸術〉の清算」(1925年)の中の有名な一節「新しい芸術は芸術であることをやめるだろう」は,『それでも地球は動く』からの引用であったし(Èrenburg 1922 : 17),エレンブルクはタイゲに先立って「芸術の清算」について,次のように語っていた。

個人的芸術と一般的生活とを溶解すること,生活をオーガナィズすること。〈…〉そのことによって芸術を清算することである。(Èrenburg 1922 : 87)

これ以外にも『それでも地球は動く』の書評においてタイゲは,同書について「これら一連

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の論文は,自らの地歩を固めつつある新しい芸術運動について雄弁に語った意義深くもっともモダンな文章に数えられよう」(Teige 1923/24 : 18)と高く評価していること,タイゲの編集した雑誌や彼の評論に,エレンブルクの著書に掲載されているのと同じ図版,酷似した図版(下の図版には共に「アメリカの除雪車」というキャプションが付されている)が使用されていることからしても,タイゲがエレンブルクの構成主義論からかなりの影響を受けていたことは確かである。

しかし,《デヴェトスィル》の活動を広義の構成主義だけで語ることはできない。建築とブックデザインの分野においてこそ構成主義が依拠すべき原理となっていたが,詩において提唱されたのはポエティスムであった。ポエティスムは,構成主義の集団主義的性格に対し,詩的創作の個人的性格を強調し,想像力の自由な領域に軸足を置く。つまり両大戦間期のヨーロッパ・アヴァンギャルドの図式的二分法に従えば,ダダ,シュルレアリスムの系統に属する潮流であった。ダダとシュルレアリスムこそは,ついにソヴィエト・ロシアに移入されることのなかった芸術潮流であるから,ここでのロシア・アヴァンギャルドからの影響などなさそうなものだが,そうでもないらしい。チェコ・アヴァンギャルドを代表する詩人ネズヴァルの詩「ロマン・ヤコブソンへの手紙」は,次のように結ばれている。

メニュー,時刻表ジャム売りの嘘八百ゴーモン社のニュース映画私の夢は再び静かになるだろうはさみと小さな糊のチューブ今日の詩人はモンタージュで詩作する本当に彼は子供に変身したのか?ロマン,すべてのことで君に感謝だ(Toman 1995 : 231)

とはいえ,1920年7月にプラハに移り住んだヤコブソンが,若かりしモスクワ時代にザーウミ(超意味語)の詩を試みていたのは事実ではあるにしても,詩人のネズヴァルに影響を及ぼした,と考えることには誰しも躊躇するであろう。だが少なくとも,若き言語学者とネズヴァル,サイフェルトといった詩人,小説家のヴァンチュラ,そしてタイゲとの深い親交は周知の

『それでも地球は動く』 『革命的論集・デヴェトスィル』

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事実であり,ヤコブソンは《デヴェトスィル》の正式メンバーとして迎え入れられていた。詩学の研究者としてフレーブニコフ論が初めての単行本となったヤコブソン――フレーブニコフと並び称されるロシア未来派の詩人マヤコフスキイの友人でもあったヤコブソンは,《デヴェトスィル》のメンバーにフレーブニコフやマヤコフスキイの名を初めて知らしめたという。ロシア文学研究者のヴラジミール・スヴァトニは「移民の代表的存在のヤコブソンは,チェコにおいて,革命によって弾圧された層の代表者ではなく,革命後の進歩的文学研究の使者として

�迎えられた」(Svaton 2014 : 8)と評したのも肯ける。1920年7月プラハに到着したヤコブソンは,翌8月には,保守的なチェコ言語学界に飽き足らず,内心その刷新を企図していたカレル大学の英語・英文学教授ヴィレーム・マテジウスから招待を受けた。招待の目的は,「あらゆる面にわたる情報に通じ,非凡な洞察力に恵まれている」上に,マテジウスが「もっとも惹かれていた言語学上の諸問題についてすでにモスクワにいる頃から自発的な関心を持っていた」(マテジウス1999:383―384)という気鋭の研究者に,言語研究に関するロシアの実情を詳しく問いただすためであった。こうして知り合ったチェコ人教授とユダヤ系ロシア人の若者の主導により,1926年には言語学史上名高い《プラハ言語学サークル》が結成されることになる。

2.両大戦間期チェコスロヴァキアの亡命ロシア人

一般言語学者としても評価の高い英語・英文学者マテジウスがプラハ言語学サークルを創設し,軌道に乗せるにあたっては,ロシア,ウクライナの研究者たちが決定的な役割を果たしたとされる。その筆頭に挙げられるのがヤコブソンであることは言うまでもない。サークルが正式に発足する約1年前にマテジウスの自宅でもたれた集まりに出席したのは,その後会長になるマテジウスと副会長になるヤコブソン以外には,マテジウスの弟子のトゥルンカと亡命ロシア人のカルツェフスキイであった。マテジウスは1936年に書かれた回想記「プラハ言語学サークルの十年」のなかで,次のように述懐している。

1925年3月13日,私はヤコブソンとトゥルンカ,後にジュネーヴ大学のロシア語の准教授になったが,当時はまだプラハのロシア・ギムナジウムの教授であったセルゲイ・カルツェフスキイを自宅に招いたこと,さらには同年10月14日に再びヤコブソン,トゥルンカ,カルツェフスキイに加えて,当時スラヴ学の准教授資格試験の準備をしていたボフスラフ・ハヴラーネクを招いた,と私の手控えにある。(マテジウス1999:384)

しかし,最初に集まった4人は,よくぞ一緒に研究会を立ち上げることができたと呆れるほど,その社会的地位と政治的立場はかけ離れていた。英国風リベラリストで名門カレル大学に職を得ていた2人のチェコ人,ソ連市民であったがために公安にマークされており,研究者としてはフリーランスだったヤコブソン,そして社会革命党員としての政治活動の故にボルシェヴィキによって国を追われ,プラハで亡命ロシア人の子弟の教育に当たっていたカルツェフスキイというように。先の引用文でスヴァトニは「亡命者」という語を避けているが,実際ヤコブソンは,カルツ

ェフスキィのような亡命者ではなく,ソ連の外交使節団の一員としてプラハに赴任したのであった。ヤコブソンが通訳として働いていたのは,捕虜交換の交渉にあたるロシア赤十字の使節団ではあったが,世間からこの使節団は,ユダヤ人ボルシェヴィキの徒党ではないかと怪しま

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れていた。当時,プラハにやって来たヤコブソンとモスクワのフォルマリストのヤコブソンは別人だ,という噂がまことしやかに流れていたという。しかもプラハのヤコブソンに疑いの眼を向けていた人々の中には,マサリク大統領から亡命ロシア人の支援活動の実務面を任されていたヨセフ・ギルサや私財を投じて亡命ロシア人を支援していたカレル・クラマーシュ首相まで含まれていた(2)。後にサークルの主要なメンバーとなったロシア,ウクライナの研究者たちにしても,その政

治的信条や立場はさまざまだ。ヤコブソン同様ソ連通商代表部に勤務していたフォークロア研究者のピョートル・ボガトゥィリョフと,やはりヤコブソンの招きでチェコにやってきたスラヴィストのドゥルノヴォはボルシェヴィキ政府の許可を得た上での出国だった。他方,農民党の結成に参与した文学研究者のアルフレト・ベムやメンシエヴィキとしてウクライナで投獄された経験のある哲学者ドゥミトロ・チジェフスキイ,ユーラシア主義者としてトゥルベツコイと並び称されたピョートル・サヴィツキイのほか,コペツキイ,アルティモヴィチも亡命者であり,彼らは公然とボルシェヴィキ政権を批判していた。一方で,チェコ人会員のほとんどはリベラリストであったから,テーゼの起草や連続講演など,稀に見る集団主義がどのようにして実現されたのかと,不思議でさえある。1930年12月にプラハで開かれた国際音韻論会議にチェコスロヴァキアから参加した17名はいずれもサークルの会員だったと思われるが,その内訳はチェコ人が10名,ロシア人が3名,ウクライナ人が2名,セルビア人とドイツ人がそれぞれ1名(マテジウス 1999:390)。プラハ言語学サークルは,この種の学術組織としては例を見ない多国籍集団であった。

3.言語純化主義論争:プラハ言語学サークルとアヴァンギャルドの共闘

サークルのメンバーのうち,ヤコブソンのようにチェコのアヴァンギャルディストたちと密接な交流をもったのは,ボガトゥィリョフとチェコ人の美学者ムカジョフスキーだけのようだ。しかし,プラハ言語学サークルは,1932年に勃発したピュリズム論争において組織としてアヴァンギャルドを支援していた事実がよく知られている(3)。論敵は『国語』誌の編集長イジー・ハレル。1929年にチェコ・アヴァンギャルドを代表する

詩人ネズヴァルが『ミレニアムの終末から遡る年代記』なる小説を発表した時,ハレルはこの作品を『国語』誌で取り上げた。実は文学作品の書評はこの雑誌では異例のことだったのだが,規範的な言語観にたつハレルは,次のようにネズヴァルを評し,彼の小説を取り上げる意味のあることを示唆した。

ネズヴァルが信奉する新しい詩は,美しい理念を完璧な文体で提示することよりも,イメージや印象の世界を恣意的に描くことを課題としている。そのためには,奇妙な事物,些末な理念,風変わりな隠喩をゆるやかに結びつけるだけで事足りる。(Toman 1995 :

163)

ここに指摘されている特徴はネズヴァル自身が詩「ロマン・ヤコブソンへの手紙」で述べたことと重なっているが,ハレルがそれによって示唆したかったのは,ネズヴァルのような作家が小説を書こうとすれば,必ずや失敗するだろうということ,つまりは『ミレニアムの終末から遡る年代記』が小説として成功していないということであった。ハレルが確信するところによれば,小説を書くには言葉に対する真摯な態度と揺るぎない国語力が詩作以上に必要なのだ

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から。そして,ネズヴァルはそのいずれをも持ち合わせていないという。このようにネズヴァルの小説を酷評した後,ハレルは自分が誤用と見なす文法形態をいちいち列挙しているのだから,何とも念が入っている。次に俎上にあげられたのは,プラハ言語学サークルのメンバーであった文学研究者フィシェ

ルの著作『魂と言葉』であった。ハレルはここでも独りよがりな正誤表を添付した。彼によれば,少なくとも200はある間違いの多くがドイツ語からの外来語であり,それはチェコ語の乱れにほかならないのだという。『国語』誌に掲載されたこれら二つの記事を重くみたプラハ言語学サークルは,1932年の1

月と2月にチェコ文語(標準語)と言語文化についての3回の講演会を開催した。登壇したのは,マテジウス,ボフミル・ハヴラーネク,ヤコブソンら5名。外来表現・新語などを排し,文法的に厳格な態度を貫こうとする純粋主義を機能言語学の立場から批判した。この連続講演は,圧倒的な反響をもたらし,一躍サークルの存在はチェコスロヴァキアの教養人士の間に知れ渡った。フィシェル自身の言葉を借りれば,「プラハ言語学サークルの会員たちの方法を特徴づけるのは,その集団的な行動であり,彼らの戦術や闘争の集団性」だったのである(Toman 1995 : 164)。

4.トゥルベツコイの未来主義批判:スフチンスキイ宛書簡(1922年)

チェコスロヴァキア国内においてプラハ言語学サークルの名を高めたのが,チェコ文語と言語文化に関する連続講演であったとすれば,国際舞台においてプラハ言語学サークルを有名にしたのは音韻論であり,サークルの中心人物と見なされていたのは,音韻論の確立に寄与した2人のロシア人,ニコライ・トゥルベツコイとロマン・ヤコブソンであった。マテジウスが回想記「プラハ言語学サークルの10年」(1936年)のなかで「サークルのロシア人トゥルベツコイおよびヤコブソンの功績にもよるが,音韻論は間もなく我々の主要な闘争スローガンとなった」(マテジウス 1999:390)と述懐するほど,2人の活躍はめざましかった(4)。特にトゥルベツコイは,1926年の発足から39年ナチスに追われてチェコスロヴァキアを去る

までの間ずっと副会長として実務面においてもサークルを支え続けたヤコブソンとはちがって,ウィーンから会合に通うだけのメンバーでありながら,誰よりも大きな理論的影響力を持つ,プラハ言語学サークルの顔と言ってもよい存在であった。しかしその一方でトゥルベツコイは,当時の亡命ロシア人の間において,ロシア人をヨーロッパ人ともアジア人とも異なる「ユーラシア人」と規定するユーラシア主義の提唱者として知られていた。西欧的な民主主義をはじめとするヨーロッパ文化を徹底的に批判するトゥルベツコイの思想は,およそマテジウスの信じるリベラリズムとは相容れないものであったはずだ。一時期ユーラシア主義に傾斜し,ユーラシア主義的な言語論をものしたヤコブソンと比較しても,その政治観,芸術観の保守性は明らかであり,言語論以外の分野において共通点があったのかと訝しく思えるほどだ。公爵家の嫡子ニコライ・トゥルベツコイが,モスクワ大学総長を父に,高名な哲学者を伯父に持つきわめてアカデミックな環境に育ち,その思考法や芸術的趣味が19世紀の伝統に根ざしているのに対して,ヤコブソンの思想的,美学的成長にとってもっとも重要な役割を果たしたのは20世紀のアヴァンギャルド芸術であった。ヤコブソンにとっての世界のモデルは未来主義の芸術的信条とロシア・フォルマリズムの方法によって規定されていたのであり,彼の最初の雑誌論文が「未来主義」であったのも故なしとしない。言語学上の関心以外に2人に共通点があったのかという疑問は,まだソフィア在住だった

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1922年8月に,トゥルベツコイが盟友P・スフチンスキイに宛てて書いた手紙を読むとさらに深まる。そこではチェコのアヴァンギャルディストでヤコブソンの盟友カレル・タイゲの高く評価した『それでも地球は動く』が,「貴兄の親しいエレンブルクの著作『それでも地球は動く』を読んだ。忌まわしく,汚らわしい著作,全編これ勝ち誇ったユダヤ人の凱歌だ」(Trubeckoj 2008 : 28)と酷評されているのだから。手紙はさらに「一読後,未来主義の本質と起因がまさに機械的・セメント的・石油的な現代

ヨーロッパの賞揚にあることを,それ故に信奉者を集めているのだとの揺るぎない確信を抱いた」(Trubeckoj 2008 : 31)と続く。エレンブルクが賞揚するのがモダンの美,機械の美であることを指摘した上で,実はそれがリアリズム――アヴァンギャルディストたちの嫌うリアリズム――にほかならないと述べ,それ故に未来主義をあえて評価するという,我田引水とも言えそうな逆説をトゥルベツコイは弄するのである。

こうした未来主義芸術は単にリアルというに過ぎない。ヨーロッパの生活は醜く,芸術家はこの醜さを強調することで,赤裸々な真実を提示しているに過ぎないのだ。ヨーロッパを深く憎悪する私は,こうした芸術を評価するのだが,それはヨーロッパの忌まわしさを丸ごとはっきりと描き出しているからにほかならない。(Trubeckoj 2007 : 29)

このほか,タイゲの主張する芸術の清算についても,「芸術を破壊するための武器になっているのが未来主義」(Trubeckoj 2007 : 29)と正反対の立場から肯定する。「未来主義は美にとって不倶戴天の敵」であり「それ故に現代的なのである」(Trubeckoj 2007 : 30)と評するが,言うまでもなく,エレンブルク=タイゲとはちがって現代的であることを評価するわけではない。トゥルベツコイにとってはヨーロッパの現代文化全体が醜いのである。こうして前衛芸術批判が持論のヨーロッパ文化批判に拡大されただけでなく,さらにユダヤ

人批判の方向にも敷衍されてゆく。

彼らユダヤ人はいま破壊の欲求に溢れんばかりだ。それは,自分たち自身の文化の不毛を痛感して異教徒たちを妬むあまり,自分たちにはない芸術,科学,国家,文化というものを他の民族が持つことも許せないためなのだろうか。(Trubeckoj 2007 : 28)

そしてたどり着くのが,「考えれば考えるほど,未来主義とユダヤ人ボルシェヴィキとのつながりが(そして彼らを介して悪魔,アンチキリストとのつながりが)単なる偶然ではないという確信が深まる」(Trubeckoj 2007 : 29)という結論なのである。ユダヤ人のボルシェヴィキとは,プラハ移住直後のヤコブソンの背後で囁かれた陰口ではなかったか。しかし,この手紙の一見激烈な調子は半ば演じられたものなのだろう。「最近,貴兄の親し

いエレンブルクの著作を読んだ」(Trubeckoj 2007 : 28)と始まり,「貴兄に対する警告は『未来主義については余計なことは言わぬよう注意されたい』ということ」と,さらに「もし私がエレンブルクを正しく理解しているのなら,貴兄にとって愉快ではないことになるだろう」(Trubeckoj 2007 : 28―29)と述べられていることからして,エレンブルクと親しく,未来主義に共感を抱いていたスフチンスキイに対する親しみを込めた挑発,一種の擬態と読むべきなのだろう。ただトゥルベツコイが,広義の構成主義も含め「未来主義」と十把一絡げにしたアヴァンギ

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ャルド芸術を好まなかったのは,おそらく事実である。先にも述べたように,公爵家の嫡子であったトゥルベツコイの思考法や芸術的趣味は19世紀の伝統に根ざしているのだから,それも当然であろう。ただ,ヤコブソン宛の書簡を読む限り,学問上の盟友としてのヤコブソンに寄せたトゥルベツコイの友情に疑問の余地はまったくない。トゥルベツコイのユダヤ人批判にしても,額面通り受けとることはもちろん,本心では反ユダヤ主義者だったと考えることは,下衆の勘繰りというものであろう。

5.反純化主義の背景:反比較文法と言語連合

ユーラシア主義にとっての最初のマニフェストとなったトゥルベツコイの小冊子『ヨーロッパと人類』(1920年)は,その表題からして19世紀のスラヴ主義者ニコライ・ダニレフスキィの著書『ロシアとヨーロッパ』を連想させるというだけでなく,ロシアとロマンス・ゲルマン世界との対立せしめたことでも両者の考えには共通点が認められる。しかしながら,西欧ではないロシア,西欧と対立するロシアが組み込まれる枠組みがダニレフスキィとトゥルベツコイでは異なる。前者の場合それはスラヴ世界であるのに対して,後者にあってはユーラシア世界の盟主としてロシアは位置づけられる。スラヴ世界が印欧語族スラヴ語諸語に属する言語が話されている地域であるのに対して,ユーラシア世界は東に大きく拡大され,ロシア帝国内のフィン・ウゴール語族の諸言語やチュルク語族の諸言語の話される地域が繰り込まれた。その一方で,西スラヴ諸語が話されているチェコ,スロヴァキアや南スラヴ諸語の話されているセルビア,クロアチア,スロヴェニアなど西欧と隣接するスラヴ語圏はユーラシアに含まれない。ユーラシア世界は,ロマンス・ゲルマン世界ともスラヴ社会ともちがって,同一の起源に遡ることのできない(すなわち同系ではない)諸言語の話されている地域,異なる系統の民族の居住域にまたがっており,ユーラシア社会に属する言語,民族の関係は発生論的ではなく地理的隣接に基づいていることになる。したがって「ある地理的に連続した地域で,同系関係に基づかない一連の言語特徴を共有す

るような言語群」(亀井・河野・千野 1996:500)を指すためにトゥルベツコイが考案した《言語連合》の概念は,ユーラシア主義と本質的な関係があったと考えられる。同系統言語――すなわち祖語と呼ばれる一つの親から分岐したと考えられる一群の言語族に対象が限定される19世紀の比較言語学に対する批判の背後には,思想的な問題が隠されているのである。一般に,言語連合という用語は「トゥルベツコイが第1回国際言語学者会議(1928年,ハーグ)に出した『提案』の中で初めて用いた用語」(亀井・河野・千野 1996:500)であるとされるが,実際にはそれより早く,1923年にベルリンで刊行された『ユーラシア紀要』所収の文化論「バビロンの塔と言語の混合」において言語連合という用語が提案されていた(5)。この事実ひとつとっても,ユーラシア主義との深いつながりがうかがえるであろう。ユーラシア主義に根を持つ反発生論的な言語観は,先に触れた言語純化主義批判とも無縁で

はない。当該の表現がその言語にとって必要か否かを問い,その表現の歴史的な純粋さについては問題としなかったという機能的見地にしても,20世紀に入ってもなお歴史的純粋性が言語の「正しさ」の決定的な規準であるとする保守的な国語学者の見解に対するアンチテーゼあり,その背後には19世紀比較文法,比較言語学の言語観に対する批判があり,さらにトゥルベツコイやヤコブソン,サヴィツキィといったロシア人メンバーの場合は,比較言語学批判の根にユーラシア主義があった。構造主義言語学は,青年文法学派を批判することを通じて形成されていったが,青年文法学

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派の印欧比較言語学の基礎となったのが,同じ系統の諸言語を――つまり同じ祖語から分岐されたと思われる一群の言語族だけを研究対象にする比較文法と呼ばれた研究領域であった。この比較文法という用語を初めて用いたとされるドイツ・ロマン派の巨匠フリードリヒ・シュレーゲルは,「一つの語根からいろいろの名詞や動詞の語幹を派生し,母音交代を伴った屈折をおこなっていく有様が,植物が根から枝をはり,葉を茂らせると同じ生態の変化を予想させる」(風間 1978:36)屈折タイプの言語を有機体と見ていた。ここから「屈折をしないタイプの言語は生命も,精神も通わない未発達な下等な言語だ」(風間 1978:36)という価値判断までもが生み出された。比較文法がシュレーゲルによって創設されてほぼ100年間の成果を集大成したのが,ロマン

主義時代の最後にして最大の学者シュライヒャーである。彼は言語を有機体と見なしただけでなく,言語類型についてもシュレーゲルの評価的態度を引き継ぎ,「鉱物から植物,そして動物への進化になぞらえて,孤立語から膠着語,そして屈折語という言語のタイプの発展」(風間 1978:129)を想定していたのだという。印欧祖語こそは,究極の発展形態である屈折語として最も完成された状態にあったのであり,「言語は歴史時代に入る前に発展の極に達し,それ以後は堕落の道しかない」(風間 1978:129)というのがシュライヒャーの見方であった。歴史時代に入って堕落期を迎えるという言語史観からすれば,長らく歴史を持たなかった多くの言語,屈折語でもない諸言語が評価されるはずもない。印欧語族に属さぬ諸言語は最初から眼中にないのである。シュライヒャーの言う「歴史時代に入る前に発展の極に達し」ていた言語とは,印欧祖語以外の何ものでもない。そして,堕落期にはいるや,この祖語から「いくつかの言語が発生し,言語史の過程を通じて一つの言語がいくつかの言語に分化していく」という(風間 1978:131)。つまりシュライヒャーによれば,言語は際限なく分岐して行くのであり,それを図像化したのがかの有名な系統樹であった。そうした言語史観が,ある言語が他の言語と接触することによって構造的変化を蒙る混合や,

異なった言語が接触することによって互いに類似した特徴を発達させ,互いに接近し合う方向で(つまりは分岐とは反対の方向で)変化する収束的発達を容認するはずがない。逆に言えば,混合や収束の否定が,同じ根を持つ樹木が先にゆくにつれて枝分かれしていくという言語史観を保証しているのである。実際シュライヒャーは,「混合した有機体が存在しないように,混合した言語など存在しない。あらゆる有機体は中心と境界を併せ持つ,自己完結しエネルギー的統一体なのである」と主張する(Seriot 2001 : 141)。こうした言語観からすれば,外来語は言語の純粋性を汚すものにほかならない(6)。たしかにチェコ文語と言語文化をめぐる連続講演で実際に登壇したロシア派の会員は,ヤコ

ブソン一人であった。しかし,ユーラシア主義者のトゥルベツコイやヤコブソンだけでなく,他の会員たち,チェコ人の言語学者たちも,シュライヒャーのような言語史観に対しては批判的であった。地元プラハで開催された第1回国際スラヴィスト会議にサークルが提出した世に名高い「テーゼ」(1929年)の第1項のd)「言語発達の諸事実の連関の法則」は次のように主張している。

史的言語学をそのうちに含む,発達を扱う諸言語において,諸事実が――たとえそれが絶対的な法則性をもって実現されたとしても――恣意的で偶然的な所産であるとする考えは,今日では発達する諸事実の法則にしたがって連関するという考え(定向進化説)に,一歩を譲ったと見られる。文法的および音韻論的な諸変化の説明に際して,収束的発達の理論

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が,機械的かつ偶然的な分岐という考えを背景に押しやったのが認められるのも,この故である。(テーゼ:354)

括弧の中の「定向進化説」とは“nomogenesis”の訳語。シュライヒャーには「ダーウィンの理論と言語学」という論文があるほど,ダーウィンの進化論の影響が強いとされるのだが,この“nomogenesis”という語は,ダーウィニズムを徹底的に批判したロシアの生物学者レフ・ベルクの主著の表題にほかならない。

6.論文「人種主義について」(1935年)

スフチンスキィ宛の書簡で,どこまで本気か分からない,しかし字面だけは激烈なユダヤ人批判を展開してみせたトゥルベツコイは,1938年,オーストリアを占領したナチスによって自宅を家宅捜索され,1930年代に入ってから書き継いできたユーラシア主義論の集大成とも言えるモノグラフを押収されている。彼の死は,公式には持病の心臓病によるものとされているが,実は「ナチス・ドイツのオーストリア併合後間もない1938年6月,ウィーンでナチスの官憲の追跡を逃れる途中,事故死したものと信じられている」(亀井・河野・千野 1996:1480)。すでにトゥルベツコイは,ドイツにおけるナチス独裁権力の成立後に発表した評論「人種主

義について」(1935年)の中でナチスの人種主義と,その人種理論を鵜呑みにするロシア人の反ユダヤ主義者たちを断固として批判していた。同時代の人類学のもたらすデータの信頼性は決して証明された訳ではない上に,反ユダヤ主義者たちがユダヤ人を拒むのは,彼らの肉体的特徴のためではなく,ユダヤ人に特有だと信じられている心理的特徴の故であるからには,この問題で最終的な発言権を有するのは人類学ではなく心理学である,とトゥルベツコイは強く主張した。そして「所与の個人の性格的特徴すべてを遺伝によってのみ説明してはならないのと全く同じで,民族性のような複雑な問題を研究するにあたって,所与の民族の性格的特徴すべてが十把一絡げに人種によって決定されるなどという仮定から出発してはならない」(Trubeckoj 1995 : 451)と,トゥルベツコイは反ユダヤ主義の理論としての弱さを衝く。才能と気質が民族的特徴をなすとは言えても,その才能や気質がむかう方向が遺伝するとの証明はなされていないし,個人心理学は,個人の才能のむかう方向は後天的特徴に属すとの結論に達していると,人種理論に基づく反ユダヤ主義を批判した。つまり「ユダヤ的性格の中に『先住民』にとって破壊的に作用するような有害な特徴があるとしても,それらの特徴は,ユダヤ人が遺伝的に受け継いだ心理的傾向が獲得した方向性によるものだ。生得的でなく後天的なものであるが故に,ユダヤ的ユーモアがもつ破壊的方向性は,人種とは無関係であり,環境によって決定される」(Trubeckoj 1995 : 452)というのである。だが,こうした考え方の萌芽は,1920年に刊行された自著『ヨーロッパと人類』についてト

ゥルベツコイが語ったヤコブソン宛書簡(1921年3月7日付)にも読み取れる。

「私」も私以外の誰かも決して世界の中心ではなく,すべての民族は等しい価値を持ち,民族に上下などないのを理解してもらうことが,私の著書が読者に要求する全てだ。(Jakobson 2004 : 13)

ユダヤ人問題については,「トゥルベツコイの文化哲学の中でもっと興味深く,その特色をよく示す部分が,彼の言うところの『セム語系文化類型』に対する態度だ」(Gasparov 1987 :

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60)と,ボリス・ガスパロフが指摘していることが注目に値する。

トゥルベツコイによれば,セム的類型は,そのあらわれのすべてにおいて,ユーラシア文化類型の対極にある。しかし彼の態度は,やはりユーラシア的精神の対極であるロマンス・ゲルマン的文化世界に対する場合とはまったく異なる。〈…〉セム語的類型に関しては,それがユーラシア的伝統の対極なるが故のオルタナティヴであり,互恵性の原理に基づいて行動することが可能なのだという。そうした行動の結果,両者はお互いにとって各々の文化社会の一面性への固着を避けるために必要な刺激になりうる。(Gasparov1987 : 61)。

ガスパロフは,こうしたセム的文化類型についての見解が,トゥルベツコイ個人の精神生活の「神話」と密接に結びついていたと考える。

2人の偉大な学者の関係は彼らの見解の「近さ」や「類似」というより,むしろ「相補性」の原理に基づいていたと――互いが互いにとって創造的な(そして一部個人的でもあり,しかも“ego”よりも“alter”に力点の置かれた)“alter ego”の役割を果たしたと結論できるのではないか。(Gasparov 1987 : 62)

トゥルベツコイが,ヤコブソンとの性格や生い立ちの違いだけでなく,思考法や創造上の潜在能力の向かう方向の相違を感じていたことは,ヤコブソン宛の書簡からも読み取れる。しかし,こうした差異こそが彼自身の精神世界に必要欠くべからざる一部を成すと感じていたらしい。両者の創造力の向かう方向のちがいなどは,ガスパロフが指摘する次の点にも端的にあらわれているのではないか。

ユーラシア言語連合に関する論考においてもヤコブソンはいつもの彼のアプローチ法に忠実だ。ユーラシア陸塊の境界領域に――すなわち西方のバルト諸国,西スラヴ,ルーマニア,東方では日本に――その注意を集中する。相異なるシステムに属する特徴が衝突したり組み合わさったりしている状態にある,そんな周縁にヤコブソンの関心は向かう。一方トゥルベツコイにとって,ユーラシア的現象を把握するのに最良の方法は,ユーラシアの内陸にその起源を有し,ユーラシアの一般的特徴がもっとも明瞭に示す中心領域(トゥラン語族の居住域)に着目することなのである。(Gasparov 1987 : 66)

千野栄一がプラハ言語学サークルにおいて言語の構造の面を強く主張した立場を代表する研究者として名を挙げるトゥルベツコイとヤコブソン(亀井・河野・千野 1996:1161)――戦後プラハ学派の使徒ともいえる存在となったヨゼフ・ヴァヘクの講演録(1966年)においても,機能的側面に注目したマテジウスを初めとする《チェコ派》に対して,「《ロシア派》の研究は言語の機能的側面を看過しなかったものの,言語の構造的な構成により重点を置いていた」(ヴァヘク 1999:427)と評されたトゥルベツコイとヤコブソンであるが,両者の研究法にも差異があったとするガスパロフの指摘は,具体的で説得力がある。しかも,構造を抽出しようとする場合にも,トゥルベツコイは中心領域にある典型例からシステムを組み立てていったのに対し,ヤコブソンは当該システムが,それとまったく異なるシステムと衝突し,二つのシ

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ステムの対比があらわになっている周縁に注目することによって対象の構造の輪郭をつかみ出そうとしたというガスパロフの議論は,「今日のプラハ学派の信奉者たちは,言語がそのより高次のレベルにおいても平衡に達することのないという事実を追求し,一般に各々の言語レベルにおいて構造的な法則性が明確に一貫して適用される中心的領域と,そのような明確さと一貫性が著しく減少する周縁的領域を措定することができるという結論に達しつつある」(ヴァヘク 1999:432)という指摘を考え合わせると,なおのこと興味深く思われてくる。

7.結びにかえて

この紹介文に結論めいたものは用意されていない。アヴァンギャルドの時代の亡命ロシア社会に起こった幾つかの事実を紹介したに過ぎない。それも個々の事実を深く掘り下げることもない,文字通り上滑りな紹介であることには内心忸怩たるものがある。ただ今さらながらではあるにしても,学問のアヴァンギャルド《プラハ言語学サークル》における不思議な共生と集団主義には驚かされる。「共生」という語は,まさにマテジウス自身が回想記で使用している語なのである。

時折我々に好意を持たない人々は,我々がロシアの若い研究者たちと研究上の共生(symbiosis)をしていることを引き合いに出し,我々の仕事はロシアの言語・文学研究の流派をチェコに応用しているに過ぎないという主張を証明しようとする。よしんばこれがまったく正しかったとしても,何ら非難されるべきことはないであろう。(マテジウス1999:396)

それに,異民族の共生の可能性は,もっとも保守的なメンバーでコスモポリタニズムを批判したトゥルベツコイでさえ主張するところであった。

[本研究はJSPS科研費24520380の助成を受けたものです。]

[注](1) 当然ながら,そこにはロマン・ヤコブソンのようなユダヤ系ロシア人もドゥミトロ・チジェ

フスキィのようなウクライナ人も含まれていた。(2) マサリク大統領はヤコブソンに信頼を寄せていたらしく,何度も面談したことがあるし,マ

サリクの80歳の誕生日の祝賀会では,ムカジョフスキーと2人,サークルを代表して講演を行っている(マテジウス 1999:392)。

(3) ここにいう「ピュリズム」とは,上述のフランスの芸術潮流ではなく,言語純化主義の方である。

(4) 「プラハ学派は,チェコ国外では多かれ少なかれ2人の傑出したロシア人会員トゥルベツコイおよびヤコブソンと同一視されている。これらの真に天才的な言語学者のすぐれた業績は,たしかにいかなる疑問の余地もないが,それにもかかわらずプラハ学派の活動を彼らのみの活動と同一視するのは公正ではない」(ヴァヘク 1999:424)。サークルの戦前会員ヴァヘクのこの主張は,必ずしも愛国的なものではなく妥当なものと言える。亀井・河野・千野『三省堂言語学事典:術語編』の「プラーグ学派」の項目も参照されたい。

(5) 「バビロンの塔と言語の混合」の次の箇所を参照されたい:「地理的に隣接し合う諸言語は,

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系統的に無関係な言語同士の場合でも,しばしば言語群を形成する。同一の地理的,文化・歴史的地域で話されているいくつかの言語が特別な類似を示すことがよくある。しかも,その類似は共通の起源によってもたらされたのではなく,長期間隣り合っていたことによる並行的発達に起因するのである我々としては,発生的原理に基づかないこうした言語群を《言語連合》と呼ぶことを提案したい」(Trubeckoj 1923 : 116)

(6) さらにシュライヒャーは,「種の混合あるいは言語の相互交換と呼びうるような事例を,私はほとんどまったく見たことがない」(Seriot 2001 : 142)と述べている。ここにいう「種」が「人種」を含む可能性は否定できないであろう。

(7) ヤコブソンが公然とユーラシア主義に接近したことを示す論文の一つで,トゥルベツコイが提唱した言語連合の関する古典的な論考と見なされている小冊子『ユーラシア言語連合の性格づけについて』(1931年)を指す。このモノグラフは,パリのユーラシア主義関係の出版社から刊行された。

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