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京都精華大学紀要 第五十二号 223稿西稿調稿
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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介 - Kyoto ......― 222 ― 谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)

Mar 10, 2021

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 223―

  

一、解題

谷崎潤一郎の短編「A夫人の手紙」は、ある女性から届いた三通

の手紙で構成された書簡体小説である。谷崎の戦後第一作として『中

央公論』第六一年第八号(一九四六・八・一発行)に寄稿されたもの

だが、占領軍の検閲により発表禁止となった。作中時間を戦時下に

設定して陸軍の飛行訓練の様子を詳細に描いたために軍国主義的だ

とみなされたからで、のちに『中央公論

文藝特集』第二号

(一九五〇・一・一発行)へ掲載されるまでおおやけにされることは

なかった。近年、GHQによる検閲の資料を収蔵するメリーランド

州立大学プランゲ文庫を対象にした「占領期雑誌記事情報データ

ベース」の公開など研究環境の整備が進むなか、本作はあらためて

注目を浴びている。例えば、『占領期雑誌資料大系

文学編』第二巻

(二〇一〇・一)が検閲済みの校正刷を写真版で掲載するなど、占領

下にあった戦後日本の言論空間の実態を解明する重要な資料のひと

つとみなされているのである。だが、それだけではない。のちに谷

崎が明かしたところによれば、これは「実にそつくり、人の手紙」で、

西 

野 

厚 

志  

谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)

「家内の友達」(すなわち松子夫人の友人)から送られてきたものを

「その人の許しを得て―でも手を入れましたけど―発表した」とい

うのである(谷崎・伊藤整「谷崎文学の底流」『中央公論』

一九五八・四)。つまり、本作は戦後の占領期検閲について証言する

歴史的な資ドキュメント

料であると同時に、戦時下という暗い時代の記

ドキュメンタリー

録でも

あるのだ。

本作の素材については、すでに細江光が「モデル問題ノート」(『谷

崎潤一郎 

深層のレトリック』二〇〇四・三)で、谷崎の遺族(観

世恵美子)から得た情報として「元になった飛行機の絵入りの手紙」

の存在とモデルが「森村春子」である事実を指摘している。しかし、

手紙について「内容は未見」とのことであり、さらに「A夫人」の

モデルに関する情報には一部訂正と大幅な補足の余地がある。そこ

で、その実態を解明すべく、最新の決定版『谷崎潤一郎全集』の編

集に関わる過程で素材となった書簡や自筆原稿について調査を実施

し、さらに遺族への取材をおこなった。本稿は、「A夫人の手紙」

の素材を提供した森村春子と谷崎潤一郎との関わりを明らかにした

うえで、これまで不明であったその素材(谷崎松子宛森村春子書

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 222 ―

簡三通)の内容を初めて公開するものである。

「A夫人」のモデルである森村春子(一九〇六・三・二一〜一九九

三・一・七)は、田所美治とユキ(旧薩摩藩士・貴族院議員の奥山政

敬の三女)の次女として東京に生まれた(以下、類縁関係は次頁の

「A夫人関連家系図」を参照のこと)。父・田所美治は、内務省・文

部省の官僚を務めたのち貴族院勅選議員、大阪電燈(関西電力の前

身のひとつ)・共同火災海上保険(あいおいニッセイ同和損保の前

身のひとつ)社長、順心高等女学校(現広尾学園中高)校長などを

歴任した。春子は女子学習院を卒業後、一九二六年に森村勇と結婚

する。夫・森村勇は、森村財閥(現在のノリタケカンパニーリミテ

ド、TOTO、INAX、日本ガイシなどの母体)の創設者・六代

目森村市左衛門の弟・豊とよ

(現在の森村商事の前身となった森村組

ニューヨーク支店モリムラブラザーズM

orimura Bros.

創業者)の

三男で、兄達が夭逝したため家督を相続した。一九一九年からハー

バード大学でともに学んだ

山本五十六から航空技術の

重要性を説かれ、一九三九

年に民間人初のニューヨー

ク・横浜間の商業連絡飛行

を成功させた際には連日紙

面を賑わせた。作中時間に

あたる一九四四年当時は森村産業・日本陶器・日本碍子取締役や日

東琺瑯社長のほか、大日本航空・中華航空監事も務めている。また、

山本五十六をはじめ海軍の航空関係者に知己が多かったことから、

同年五月より航空機用点火栓を製造する軍需会社・日本特殊陶業の

社長にも就任している。戦後は日本航空創設の立役者となり、航空

界の再生に尽力した。この夫の経歴が、「A夫人の手紙」の素材となっ

た書簡にも記された、春子の飛行機への強い関心に影響を与えたで

あろうことは想像に難くない。

では、春子と松子、そして谷崎潤一郎の関係は、どのようにして

うまれたのか。「盲目物

語」「蘆刈」「春琴抄」と

いった数々の名作にイン

スピレーションを与え、

「細雪」の四姉妹のモデ

ルのひとりともなった谷

崎松子(一九〇三・九・

二四〜九一・二・一)は、

「藤永田造船所の永田の

長女の息子」の森田安松

と「伊豆の豪族伊東祐親

の後裔」の教シヱ

のあいだに

森村春子

春子の結婚を報じる新聞記事(掲載紙未詳)

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 221―

次女として生まれた(谷崎松子『蘆辺の夢』)。「祖母に当る長女が

お松と呼ばれ、長寿を全うしたというので」、そこから「松子と命

名された」のだという(同)。その松子を春子と結び付けたのが、

一九二〇年三月二八日の藤永田造船所社長・永田三十郎(一〇代目)

と田所家長女・登美との結婚であった。春子は素材となった書簡の

一通目で「永田の御兄様」により「永田の姉」と疎遠となった現状

を松子に相談して仲裁を頼み、素材の二通目では「永田の方では松

子様をおいてお話しの出来る方もなく何とも松子様の存在は私共に

燈台の様な光を放つてをり升」とまでいっている。松子の父・安松

は藤永田造船所専務であり、三十郎はその「従弟」(『蘆辺の夢』)

にあたった。すなわち、松子が「兄さんと呼んでいた三十郎さん」(同)

は、春子にとっては義理の兄であったということになる。つまり、

それは一九三五年に松子と結婚してからは谷崎自身も永田家と田所

家、そして「A夫人」すなわち森村春子と類縁関係にあったという

ことを意味する。

さらに、素材の一通目には、「何時ぞや長與と志賀さんの婚礼の

時お目にかゝつたきりその後お変り無きかとお案じ致してをり升」

とある。これは、一九四〇年五月一〇日に挙行された長與又郎(長

與善郎の兄)の長男・太郎と志賀直哉の次女・留女子の結婚式のこ

とである。翌日の重子・信子宛書簡に「志賀家祝言昨日滞りなく相

すみ」(一九四〇・五・一一、『谷崎潤一郎の恋文』所収)とあるよう

に、谷崎は松子と連れだって式に参列、一方、春子は長與又郎夫人・

玉が義理の姉(夫・森村勇の実姉)であった関係からその場に出席

していた。この時の様子を松子は妹・重子に宛てて「きのふ披露

(一〇代目)

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 220 ―

で田所の小父様小母様森村さんの春さんにあひ久〻に話しまし

た 

長与家の母君は森村家から嫁がれたさうであちらの主人側

でした」(一九四〇・五・一一、同前)と報告している。志賀直哉が

日記に「式、写真、招客二百七十人程、無事

大変気持ち良し」(『志

賀直哉全集』第一五巻)と記すその光景のなかに、谷崎と松子、森

村春子の姿があった。そして、この日、森村家・長與家と志賀家が

結ばれたことで、松子や春子たちを介して、谷崎は志賀直哉や武

者小路実篤らと共に一枚の系図の片隅を占めることとなったので

ある(太郎と留女子は翌年に離婚)。

それから四年たった

一九四四年四月一五日、

谷崎は一家を挙げて熱

海へ疎開することにな

る。その日に先立って

上京した際、一月二一日

付け渡辺重子宛書簡に

「田所さん、中央公論、

竹田、偕楽園へも寄り

ます」(『谷崎潤一郎の

恋文』所収)とあるよう

に、谷崎は田所家を訪

問している。直後の一月二八日付け谷崎宛松子書簡に「転校の事に

ついて田所小父様におあひ下さいましたよし」(同)とあり、順心

高等女学校校長を務める田所美治に娘・恵美子の疎開後の転入先を

相談していたようである。さらに、同年三月三日にも田所家を再度

訪問しており、同日の日記には次のようにある。「家人を起こし、

九時十六分上りにて二人上京、十二時少し前品川下車、田所美治氏

方に至れば主人夫婦は順心女学校雛祭にて出かけようとするところ

なり、予、転校の事に付種々配慮を忝うしたるを謝し伊東高女に入

学したることを報告す」(「疎開日記」)。実際、遺族の元には、「贈

呈/田所乃奥様/著

者」とある『盲目物語』

(一九三七・二、創元社)、

「田所美治様/著者」

とある『都わすれの記』

(一九四八・三、同)が残

されており、戦前から

戦後にかけて両者のあ

いだに直接的・間接的

な往き来のあったこと

が窺える。

森村春子の三女・木

前列左より純子氏と春子(大磯、1940 年頃)

森村勇、長女・綾子、次女・輝子、春子(1930 年頃)

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 219 ―

村純子氏によれば、永田家の親類同士ということもあってもともと

松子と春子の母・田所ユキが親しく、やがて松子と春子のあいだで

も手紙のやりとりがはじまった。そこで、「日頃母が思っている事

を松子夫人に書き記して送ったところ松子夫人から「谷崎が小説の

題材にすると言って参りましたので大事に手文庫の中にしまつてお

きます」と申されてやがて小説になり、本を下さった」のだという。

純子氏の手元には、松子から春子に宛てられた「主人から著書をお

送り申し上げましたが貴女様から材料を頂きました「A夫人の手紙」

も初めて単行本に上梓されましたのでお目に懸けたいとの事呉〻も

よろしく申しました」(一九五六・一二・五、全文を本稿末尾に掲載)

という書簡と、「著者/森村春子様」とある「A夫人の手紙」収録

の『過酸化マンガン水の夢』(一九五六・一一、中央公論社)が、

いまも大切に保管されている。

あらためて、「A夫人の手紙」の素材となった書簡を見てみよう。

執筆に用いられたのは、「昭和一九(一九四四)年二月(日未詳)

付け谷崎松子宛て森村春子書簡」(便箋裏表二枚、封筒なし)、「同

年四月五日付け同書簡」(便箋二枚、封筒あり)、「同年七月一〇日

付け同書簡」(便箋六枚、別紙五枚=図解、封筒あり)の三通である。

内容を確認すれば、高橋健二訳『子供部屋』(一九四三・四、生活社)

やロダン『フランスの聖堂』(一九四三・一一、二見書房)といった

同時代の書物への言及と引用、不足してゆく食糧と配給制度、同人

誌の統廃合のような戦

時下の出版事情など、

分量にして実にテクス

トの四分の三(約

六七〇〇字のうち約

五一〇〇字)が素材か

らの引用だとわかる。

さらに、戦闘機の飛行

訓練の図解はそっくり

そのまま小説へとうつ

されている(純子氏に

よれば、春子が自宅二

階の物干し台から戦闘

機に合図する様子を実

際に目撃したことがあるという)。ここに記録されているのは、非

常時下におかれた日常生活の細部へと向かう一人の女性の眼差し

だ。この書簡は、戦時下の松子が記した書信、すなわち「物資の欠

乏を嘆きながらも、どこか上品で優雅な大らかさを示し」、「身辺に

起った出来事を語り、近所のうわさ話に興ずる松子の手紙はいかに

も溌剌としている」(千葉俊二『谷崎潤一郎の恋文』解題)と評さ

れる書簡群と併せて読まれるべきであろう(実際、春子の手紙は松

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 218 ―

子と一組の往復書簡になるはずだが、残念ながら松子の書簡は残っ

ていない)。まさに、「書簡のエッセンスを抜き出して凝縮させたな

らば、それはそのまま「細雪」の世界が現出する」(同)ように、

春子の書簡はそのまま「A夫人の手紙」となったのである。そして、

この新資料から浮かび上がってくるのは、谷崎をはじめとする文学

者達を巻き込んだ華麗なる一族の系図であり、そのなかで描かれる

人間模様である。さらに、小説との比較を通じて加筆・修正個所を

明らかにすれば、谷崎の創作の手法も見えてくるだろう。

以下、「A夫人の手紙」の素材となった三通の谷崎松子宛て森村

春子書簡三通について、日付順に全文を翻刻し、決定版『谷崎潤一

郎全集』第二二巻(二〇一七・五)所収の「A夫人の手紙」のテク

ストとの異同を比較して併記する(網掛け=テクストと素材の一致

箇所、〈 

〉=素材にはない表現が加筆された箇所、〈↓

〉=素材

からテクストの表現へ記述が改変された箇所)。ただし、三通目は

便箋六枚の本文と図解入りの別紙五枚に別れているが、テクストと

同じ順序に配列し直した。また、適宜、人名や書名、時代背景につ

いて注釈を加えた。なお、仮名遣い・漢字など表記の差異、句読点

の有無、改行など内容に関わらない異同は割愛している。

二、翻刻・比較・注釈

  

  〈第一信〉※

昭和一九(一九四四)年二月(日未詳)、便箋表裏

        

二枚、封筒欠

如月の寒さは却て身に沁みる様感ぜられ二度迄も雪に見舞はれて了

ひました。何時ぞや注1長與と志賀さんの婚礼の時御目にかゝつたきり

その後御変り無きかと御案じ致してをり升。此年夏には兄を亡くし

た折は御衣等御供へ頂きました由私少々静養中にて上京出来ず子供

等より耳に致し有難く存じてをりました。私はもう殆ど全快にて五

月には帰京致す予定にしてをり升。兄は長い事患ひ本当に気の毒致

しました。永田の姉等細くても丈夫なのは何よりと遠く離れて居る

丈㐂こんでをり升。此頃はリヨママ

ウマチで手が痛い様な話軽くて済め

ばよいがと念じて居り升。戦局は愈々重大な時に当り注2常次郎さんも

出征でもされるのではないかと案じてをり升。出征前には一度どう

しても会はせて頂き度く松子様に御願致しておき升。永田の御兄様

も良い方では御座い升し私も色々御世話になりましたが姉との文通

すらさせて頂けず誠に「生きた牢獄」とでも申しますか京風にして

は余り残酷に覚え升。実の姉妹が文通も出来ぬとは大阪はいざ知ら

ず東京辺りでは絶無と申しても差支へなく近頃は子供も今年学習院

を卒業致し升のが長女、次女は女学校三年になり升。三女は当地で

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 217―

弱かつたので六年生で御座い升が大阪の叔母様とは仲が悪いかとか

色々尋ねられ私も教育上も面白くなく又従兄弟等にも御目にもかゝ

り度き様に姉を之以上の不幸に陥れ度くないと云ふ私共の考へから

何もかにも黙つて参りましたが出征となりまして二度と会ふ事なく

若き生命を国に捧げましてからでは後の祭にて是非その折は御骨折

り頂き上京致します様御取り計らひ下さいませ。私も子供等もその

日を楽しみに致しており升。今迄も時々手紙出しましても開封され

ずにそのまゝ姉より帰て参りますし美くしいハンドバツクを上げ度

く一度御送り致しましたがそれもそのまゝ帰て参り何か淋しい気が

致し升。然しこんな事を御兄様に申し上げて下さつては又々悪化す

る恐れもあり何年も御病弱な御兄様を御羞めにしない様には御注意

下さいませ。然し永田の子供も変な教育を受け家庭内の不思議な状

態を何と解釈致しますか。何時まで待てば姉妹の交際も自由にさせ

て頂けるのか。誠に悩ましい現実で御座い升。追々松子様の御力で

良き方に迎いますれば幸と気長く待ちませう。然し余り御急ぎにな

りません様に御願致し升。私共逆効果を非常に恐れるので御座い升

ので。では此事は御頼み甲斐ある松子様に御願ひ致しまして今度は

別の御話致しませう。(清三郎さん少々御体御悪い由お見舞の一通

も上げたら㐂ばれると思ひ升が)

御主人の御作「注3初昔」「きのふけふ」で御座いましたか新聞広告が

出ると直ぐ読ませて頂きました。松子様の御懐妊の事御ソウハされ

るまでの御悩みの御気持等拝見して本当に御気の毒に存じました。

然し御主人様の温かい行届いた御親切など本当に松子様は御幸福だ

と何時までも御幸福の御続きになり升様にと念じ上げてをり升

近頃御主人様は何を御書きになつてをられるので御座い升か

春琴抄の様な素晴らしいローマンスは御書き遊ばさないので御座い

ますか。度々熟読させて頂きましたが、――

〈↓いよ〳〵熱海へ御疎開になります由、事に依るともうお移りに

なつたのではないか知ら。宅の主人も戦局の見透しについては全く

静子様の御主人様と同意見にて東京の郊外が安全だなんて思つたら

飛んでもない、注4今年の夏頃には帝都の空が襲撃されるやうになり、

東京ぢゆうが焼け野原になるのは訳なしだ、田園調布なんかもブル

ヂヨア階級の高級住宅地として狙はれるから案外早いかも知れない

なんて申してゐるのでございます、だから静子様御一家が阪神間を

お逃げ出しになることにも賛成で、それを慌て者だなんて笑ふ者が

あればその人達こそ笑ふべきだつて云ふのですけれど、宅は会社が

ございますので仕方なしに東京に踏みとゞまつてをり升、そんなに

日本の敗けることが分つてゐるならイツソ会社なんか止めて田舎に

引つ込んだらどうかと存じますけれど、やつぱりそこ迄は決心が付

かないのでございますね、それに子供の学校のこともございますし、

………長女は今年学習院を卒業致しますが、次女は二年、日大へ行

つてゐる長男も昨今は徴用で群馬県太田へ行つてをりますが時々帰

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 216 ―

つて参り升………私だけは海岸の空気が必要と云ふ訳で此処に静養

させられてをりますけれど、もう殆ど全快致しましたし、何しろ此

処では退屈でたまりませんから五月には帰京致す予定にしてをり升

/長男と云へば、きつと静子様の坊ちやんなんかもさうだと存じま

すけれど、注5今の青年はコチ〳〵の忠君愛国で死ぬなんてことを何と

も思つてゐないのでございますね、どうしたらあんな心理状態にな

れるのか実に不思議でなりません、長男の云ふことを聞いてをりま

すと一日も早く前線へ出て死にたい、死にたい〳〵と云ふやうに聞

えるのでございますが、それが口先だけでなく本心からさう思つて

ゐるらしいのには全く驚いてしまひ升、馬鹿なことを仰つしやいと

云ふと、お母さんそれは間違つてますと此方がアベコベに意見され

てしまひ升、日本が敗けると云ふ考なんかテンデ頭から受け附けま

せん、どんなことがあつたつて絶対に勝つと信じ切つてゐるので、

たまに東京へ帰つて来ますといつも父子喧嘩が始まつて晩御飯の食

卓の騒々しいことゝ云つたらないさうでございますが、彼奴にはい

くら云つて聞かしても駄目だと主人も匙を投げてをり升/それはさ

うと私、昨今急に小説が書いて見たくなつたのでございますが、静

子様どうお考へになつて?〉

〈実は〉先日注6高橋健二訳の注7子供部屋とか云ふドイツ短篇小説を読み

ました中に飛行将校と城主の娘とのローマンスを見て〈↓がござい

ましたので〉感じた事で御座いました〈↓す〉が日本には未だ飛行

将校との素晴らしい小説は〈↓が〉無い様に思はれ〈↓ひますので〉

文〈↓ナシ〉筆がたてば私でも書いて見度いと云ふ欲望を起し初め

ました、と云ふのは私事毎日外気療法の意味をかね又飛行家激励の

為退屈ざましにハンカチを降り初めましたのが動機で〈ござい升

が、〉戦闘機の練習生は別として先生〈↓教官〉になる方の性格が色々

現はれ物凄い熱情家が来て居られる事も〈↓が〉段々わかつて参り

〈ましたので、〉

注8大磯〈↓当地〉の美しい〈空と海を〉背景に御主人

様の情熱で春琴抄の様なのを御書きになつた〈↓描写しました〉ら

日毎自爆に未帰還に明日をも知れぬ命を翼に託して元気を振ふて

〈↓ナシ〉居られる飛行家達が〈↓への〉手向ともならうかと大そ

れた空想を致してをり升〈↓抱くやうになりました、〉大分〈↓練

習生でも〉上手な方達は〈↓の〉急降下の練習〈↓はとても〉物凄

く五機位の音が一つになりますとまるで地獄の響の様に刻々死に迫

る準備の様に悲しく聞え、たそがれ時等自ら涙を催してをり升〈↓

参ります〉。何やかや色々〈↓つまらぬことを〉書きつらねました

が御判読御願ひ致し升。末筆乍ら御主人様へも何卒よろしく御伝

へ頂きます

かしこ

〈二月十日〉

春子〈↓泰子〉

松子様〈↓静子様〉

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 215 ―

御もとに〈↓ナシ〉

〈第二信〉※

昭和一九(一九四四)年四月五日、便箋二枚

【消印】○.○.5(五銭切手)

【表】熱海市西山/谷崎松子様/御もとに

【裏】四月五日/神奈川県大磯山ノ手七二〇/森村春

此頃私俳句がとても好きになりました松子〈↓静子〉様も遊ばし

てはいか

 ゞ

小説では第二信末尾へ移動

松子様〈↓静子様〉

過日は長い御文を賜り有難く御礼申し上げます。早速御返事をと存

じつつ丁度折悪しく風邪をひき引っ籠中の所〈へ〉子供等〈↓達〉

春休みにて〈↓出かけて参り〉主人も当地より通ひましたり、一度

に賑やかになり又気遣ひ等にて漸く〈昨日今日〉自分の体になつた

様で御座います。桃の花も七分咲き、鶯の声に飛行機に朝の眠りを

覚まされてをり升。之で食糧難さへ無く〈↓けれ〉ば天国の思ひで

御座い升。三月上旬までは魚類肉類も少ない乍らも入手致してをり

ましたが此程隣組配給になりゴマカシが利かなくなりました

御地は割合豊富でいらつしやいます由何よりと御羨ましく存じてを

り升、又御干物でも沢山御座いました節は御送り願へれば幸に存じ

ます

さて永田の事に就き色々御配慮頂き有難く存じてをり升。永田の方

では松子様をおいて御話しの出来る方もなく何とも松子様の存在は

私共に燈台の様な光を放つてをり升。私も丈夫で始終大阪へ会ひに

いけばよろしいので御座い升が―何れ帰りましたらいき度いと存じ

てをり升〈↓ナシ〉

常次郎さんも十月頃との事私もそれまでに十分体を鍛へて皆で楽し

い一時を過ごし度いものと今から楽しみに致してをり升故何卒御骨

折頂き度く願ひ上げます〈↓ナシ〉

四月からは熱海との事もはや御越しの御事と存じ升、〈↓今度お近

くなりました故私も一度〉御目にかゝり色々積る御話も致し度いの

で御座い升が五月末頃〈↓勝手ながら近日〉御出で頂けたら御目に

かゝれるか〈↓ナシ〉と存じてをり〈↓ナシ〉升、何れ又〈↓改め

て〉御都合伺ひ御待ち申上げます、私〈の〉方からは年内は〈↓ま

だ〉少し無理かと存じます〈、此の頃又ちよつと微熱が出たり致し

ます〉故

飛行将校の小説はいかゞ。谷崎様の御意見は?〈↓ナシ〉此非常時

に馬鹿なと御笑ひでせう〈けれど、………静子様は谷崎潤一郎氏を

御存じの由谷崎氏が書いて下さるなら喜んで材料提供致しますが、

静子様聞いて下さらなくつて? 

自分で書いても見たいのでござい

ますが、本職の方が立派な作品を書いて発表して下されば何よりと

存じ升、でも〉近頃は注9紙も節約で急がぬ本は中々出版してくれぬと

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 214―

の話新聞紙上で見まして聊かシヨゲてをり升 

相変らず飛行機は雨の日も風の日も参り升。二月末より知り初めた

素敵な情熱将校は一日も休みなく来てをり升。三月八日の満月の日

は夜十一時呼ぶかの如くエンジンを鳴らし〈ますので〉外へ出まし

た所三度許り月をよぎつて〈↓り〉何処かへ消え去りました。毎日

〳〵感情をそのまゝエンジンの音で表はす巧妙さに〈↓ナシ〉は実

に驚き入つたもので御座い升。よくも〳〵こんな雅び〈↓やう〉な

音が美しく出るものととても飛行機がなつかしいものになつて了い

ました

ではくだらぬ事を書きつらね大文豪に笑はれない様よろしく御取り

なし〈↓お笑ひにならないで〉下さいませ

右延引ながら御返事まで

かしこ

〈三月三十一日〉

春子〈↓泰子〉

松子様〈↓静子様〉

  

御もとに

〈第三信〉※

昭和一九(一九四四)年七月一〇日、便箋六枚、別紙

     

五枚=図解

【消印】19.○.○(七銭切手×2)

【封筒表】熱海市西山五九八/谷崎松子様/御もとに

【封筒裏】七月十日/神奈川県大磯山ノ手七二〇/森

村春子

1〈↓ナシ〉

松子様〈↓静子様〉

御手紙嬉しく拝見致しました。愈注々 10熱海へ〈↓ナシ〉御移転になり

ました由〈↓後は〉何かと御忙がしく当分御淋しい事で御座いませ

う。然し御友人〈↓お友達〉も追々御増しになる事と存じ升。余り

一度に御用遊ばして御疲れになりません様に

大変御礼おそなはりましたが過日は何よりの御干物とても当地のと

は品も違ひ美味しく頂きました、又椎茸は一家中大好物にて近頃は

絶体に入手致さず台所の垣根に(栗の木)少々出て来るのを楽しみ

にして居る位にてバタ焼にしてとても美味しゆう御座い升。未だ大

切にしてをり升

椎茸は腐らぬ品で御座い升から又折々御手数恐れ入りますが御送り

頂け〈れ〉ば幸で御座い升、これから御代を教へて頂かねば困り升、

今は何の品も頂く事は止めに致してをり升、御魚は漸く近頃鯵が取

れる様になり先づ困らなくなりました

果物も昨日漸くリンゴ入手致し当分楽しめる事と存じ升、色々御親

切に有難う御座い升、私方から何をさし上げたらよろしいかしら、

ジヤムに飴なら少々御分け出来ますが一寸御送りは困難にて御目に

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 213―

かゝつた折さしあげ度く思つてをり升、が――、此御話は之位に

して、

2〈↓ナシ〉

同封のペン画とは名のみにて、絵を御笑覧下さいませ、お可笑しい

でせう〈↓ナシ〉

今日は飛行機の御話材料になるならぬは別として色々書いて見ま

せう

御主人様〈↓谷崎氏〉は書いて下さるのですの?〈↓せうか〉勿論

筋は御自由だけれど兎も角〈も〉その将校(教官)が何処かで聞い

たり、見た〈↓読んだ〉りした時自分だと朧気乍ら分る様だと尚面

白いと思ふので御座い升、が、余り分り過ぎればニラマレルかも知

れないし、御出しになつたら直ぐ知らして下さいませ、之から先生

〈↓谷崎氏〉の御作品は必ず読む事に致し升が近頃雑誌を取らない

ので分らないので御座い升が〈↓、いつも〉何に出していらつしや

るの?

さてエンジンの音が平凡と〈↓ナシ〉は普通の所謂通りすがりのは

何の魅力もないの〈↓く平凡〉で御座い升が二月以来の〈↓ナシ〉

知り合ひになつた教官は朝と夕方は挨拶して通り升、音楽的の音を

出したり又は低空や〈↓とか〉旋回とか何かそれと分る様にして行

き升、それから私も初めて知つたのですが全然音を無くして飛ぶ事

の〈↓が〉出来ると云ふ事、松子〈↓静子〉さんもきつと御存じな

いわ、音無し飛行機等気持ちが悪いわ

静かに近くまで来て突然音を出したり又音をやかましくさせて来

て、当方にて手を挙げたり合図すれば音を無くしたり、それは様々

で素敵よ、とても口では音の真似は〈↓ナシ〉出来ないわ、一日此

処で聞いて下されば成程と御思ひになる事よ、御聞かせ出来ない

のは残念――交響曲〈↓楽〉も音楽的才能さへあれば可能だと思

へる位

それからお天気との関係で機体の色が様々に代り升

3〈↓ナシ〉

光線の工合でも〈↓ナシ〉とても同じ〈も〉のでは無いと思ふ位よ

真黒の〈↓な〉怪物じみたり、銀ねず色の時は日の丸がはつきり見

え銀色にピカ〳〵〈↓ナシ〉夕陽うけたときは素晴らしく然し何か

玩具の様な気もするわね

乳白色の空に溶け込む様に時々機を認められる時、薄雲(雨雲)か

ら機体がすけて見える時等一寸魅惑的殊に此飛行機は翼の両方に発

動機が一つづゝついて居て之が特にピカ〳〵光ります

外の飛行機も色々通りますが、之が一番スマートの形です、何と云

ふ名か調べねば分りません

注 11急降下爆撃機ではないかと思ひ升

兎も角私が一日ブラ〳〵読書したり手紙書いたり藤〈の〉寝椅子を

廊下に出して寝て居たりするので病人と云ふことは分つて居るらし

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 212 ―

く、食事を一人でして居ると慰めの〈↓る〉つもりかよく向から私

の窓目がけて低く飛んで来ます、こんな時は随分やさしい人だと有

難く思ひ升

それから陸軍だと云ふ事は分かりました、此間昼間〈↓は〉海へ落

ちて〈一人〉惨死、戦地から帰つた人だと云ふのは〈↓に〉注 12残念し

ました〈↓ナシ〉、武運に恵まれなかつたのでせうね、又二度目は

四五日前月も半過ぎた夜私と子供と〈↓十日程前夜〉九時頃まで物

干で〈↓に出てゐましたら〉探照燈も高射砲も私の家の前で丁度し

ますので〈↓、〉飛行機が星と寸分違はぬ電気〈↓燈〉つけて盛ん

に訓練して居ました、初め星かと思つて居たら点が動くので分りま

した、突然山の遠くで妙な音がしました

4〈↓ナシ〉

何だらうと思つて居ましたら翌日きく所によると落ちて火を吐いて

二人惨死、本当に事故は気の毒です、それからと云ふものは私がハ

ンカチ振るのはをかしいと申して居た人もこれからは沢山振つてお

上げなさいと申す様になりました

遠く故国を離れて両親にも会はず日々訓練して居る人をせめて通る

時丈でも慰さめられゝば〈↓て上げられたらば〉と思つてをり升

今日は散歩に出て丁度三機が通りましたからハンカチ例の如く振り

ましたら分かつたと云ふ印に初めは二機編隊で一機はおくれて居て

振つたら直ぐ三機編成になりましたり、又初め三機編隊で来てハン

カチ振ると段々三機が離れます、そして3図の様に並んで向ふへ行

つて了つたりよく見えるらしいのです

昨日からは陽気の加減か朝四時から来る様になりウルサクテ〳〵昨

日は十八台、今日は四台でした、出ないと何時迄も居るので仕方な

く出て上げますと上を通つて立去ります、暁のヒン〈↓イ〉ヤリし

た空気や淡い雲のある水色の空、黒々とした遠く〈↓遠く黒々とし

た〉編隊の様はさながら天国そのものゝ様に感じられ升

春曙や…とでも作り度いので御座い升が余りよ過ぎても出て来ま

せん

今日は度々四台で二台づゝ上図の様に通りますから私も何とか二人

にし〈↓なり〉たいと思ひ、張子の〈↓ナシ〉玩具の大きな熊があ

ります、人形の様に大きくて可愛いのでそれを持つて朝日のよく当

る様にして見せて上げましたら何と思つたのか〈↓ナシ〉上図の様

に代へました、何しても飛行機程、搭乗員の性格が現はれるものは

ないとの事全く感情そのものと申しても過言では無いと思ひます

ここから別紙、なお図中に書き込まれている文言は小説と同様

に整序した。

〈(第一図)〉

画ガ下手デお分カリニナリマセンデセウ〈↓可笑シイデセウ〉

〈以下〉絵物語リヨ 

小説では「第一図」の前に移動

今度ペン画ト俳句〈↓ナシ〉ヲ是非〈↓ナシ〉習フツモリペン画ト

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 211 ―

俳句ガ上手ニナレバ旅行シテモ面白イト思ヒマス

私の家〈ハ〉山の中腹で海がよく見えます

〈(第二図)〉

急降下ノ練習、先生 

敵機のつもりで――〈↓A 

教官機、B 

想敵機、〉

三台一組デ三機ガ順々ニスル時ハトテモ美シイノデス

音モヨイ音

ガシマス(遠クノ方程)

銀白色デ曇リノ日もピカ〳〵トテモ美くしく光つて居マス

時々暖カイ日ニハ之ヲ三倍〈グラヰ〉ノ長サニノバシテ山カラ家ノ

庭ノ上ヲ廻ツテ海ヘ出テハ幾度モクリカヘシ、全クフザケテ居マス、

空バカリデ退屈スルノデセウ

〈C〉コレハノロシカシラ、ヨク分カリマセン、赤クテトテモ奇麗

デシタ、花火ノ様デス

〈D〉コレハ照明弾ダト思ヒマス、金色デス、トテモ明ルク海ノ上

ノ時ハソレハ美クシユウゴザイマス

コレヲ私ノ部屋ノ前ノ海デシマス、又物見台ヘ行ケバ行クデ丁度前

ヘ落シマス

〈一体ニ上ル時ヨリ〉下ガル時ハ〈↓ナシ〉ヨイ音ヲ出シマス、其

外〈↓ナシ〉先生〈↓教官ノ〉将校ハ色々音ヲ研究シテ居マス、私

モ〈↓ノ〉今迄聞イタ事ノナイ様ナ音楽的ナ音デス絶体外ノ飛行機

ハ出シマセンガ、―――コチラデ何処カ分カラズサガシテ居タ〈↓

ル〉時ハヨク

右の〈↓E〉

図ノ様ニ縦ニ

円ヲ画キ

ビュー〳〵音

ヲ出シマス

此外散歩ニ出

タ時原ノ上デ

音ガシマシタ

カラシヨール

ヲ振ツテ居マ

シタラ分ツタ

ト見エ物凄ク

〈↓イ〉急降

下ヲシテ飛ビ

去リマシタ、

ヨク見エルモ

ノト見エマス、顔マデ見エルト水兵ガ申シテ居リマシタ

〈(第三図)〉

美ニ対スル観念モ相当アリマス

美シイ空ノ時ハ編隊デ〈↓ナシ〉色々シテ見セテクレマス

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 210 ―

〈A〉太陽

〈B〉白雲

〈C〉瑠璃色ノ空

此時ハ訓練中デハナイノデス

〈(第四図)〉

落日の時 

白銀色ノ雲

美シイ雲ノ上ヲ通ル時、注 13芭蕉ノ句ノ

馬ホクホク我ヲ絵ニ見ル夏野カナ

ダツタカシラコ〈↓ソ〉ンナ気持デ飛ンデ居ルノデハナイカ〈シラ〉

ト思ハレマス

〈(第五図)〉

此時ハトテモ奇麗デシタ(私ノ家ノ屋根カラ出テ)陸地カラ水平線

上の雲ヲ目ガケテⅢⅡⅠノ形デ水平線ヘ〈↓ナシ〉消エテ行キマシ

タ、夢ノ様でした

〈(第六図)〉

〈A〉灰色ノ雲 

クモ〈↓ナシ〉 

クモ〈↓ナシ〉

度度雲ノ中ヘカクレルノデ私モガラス戸ニ〈↓ノ中ヘ〉カクレマシ

タラモウ出テ来マセン、随分茶目気ノアル人デス

〈B〉コレハ煙幕ヲ細ク線ノ様ニ出シマス、紺碧ノ空ニハツキリト

テモ奇麗、銀線ノ様ニ見エマス(丁度私ノ食事中)

〈C〉コレモ煙幕、山ヘ入ラウトシタノデ私ガ部屋ヘ入ラウトシマ

シタラ何ダカ変ナモノヲ出シテビツクリシマシタ、又入ラウトスル

ト又出シマス、初メテノ〈↓ナシ〉煙幕ヲ見タノデ驚イテシマヒマ

シタ

〈(第七図)〉

コレハヨク帰

ル時イタズラ

〈ヲ〉シマス

〈A〉暫ラク

ハ一ツニ見エ

マス、物見台

ノ私ノ前ヘ来

ルト二台デ驚

カセ〈↓シ〉

マス

〈B〉初メハ

二台デ来マ

ス、ソシテ重

ネテ見タリシ

マス【

図の補足】

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 209―

先生〈↓教官〉 

先生〈↓教官/教官〉

〈(第八図)〉

〈A〉青〈電燈〉 

〈B〉赤〈電燈〉 

〈C〉見晴台ノ様ナモノ、簡単ナ物干シ見タイナ

電気〈↓燈〉ヲツケテマルで電気仕掛ノ飛行機見度イデシタ、七日

〈↓ナシ〉一昨日モ〈↓ノ〉満月デ八時頃電気〈↓ニモ電燈〉二箇

ツケテ来マシタ、此絵ハ妙デゴザイマスガ、――

ここまで別紙。

5〈↓ナシ〉

飛行機は此位にして、又申上げます

松子さん〈↓静子様〉はフランス語なさるの、御偉いわね、私も女

学校時代少ししたきり、主に英語だつたので―最近考へる所あつて

独逸語したいと思つて独学の本を見て居り升が一格、二格、三格〈↓

ナシ〉、四格等あり中々むづかしくて、五年計画ならいかゞかと思

つてをり升

今注 14ロダンの「フランスの聖堂」と云ふのを読み初め、丁度「空と雲」

の事が出て居て嬉しくなつて了ひました、一寸書き抜いてお見せし

〈↓見〉ませう、所々抜かして

神ハ空ヲ我々ニ見エナイ様ニハオ造リニナラナカツタ.科学ハ帳

デアル.帳ヲカカゲヨ.ソシテ見ルガイヽ!美ヲバ探シ求メヨ!

以下抜カシテ.遠クニ雲ハ眼ニ見エヌ千百ノ流レニ形ヅクラレタ.

愉シイ.白イ羽飾ニ変ツテ行ク…同ジ様ニ思想モ円熟ノ域ニ達ス

ルト突然光リ輝ク.シカモソノ根源ハ分ラナイママデアル.

雲ノ変ルノハ,軽快デ自由無碍ナ精神ヲ持ツタ人々ノ間ノ会話ノ

様デアル.雲ハ影ヲソコココニ撒キチラス.丁度園丁ガ如露ノ水

ヲ撒クヤウニ右ニ左ニ必要ナトコロヘ涼シサヲ注ギツヽ――.ト

突然雲ハ滑ラカナ白イ肩ニナル.上ノ方デハ薄彩ガ晴レ渡ツタ空

ヲ輝カセテ居ル.下ノ方デハ樹ノ繁ツタ丘ノ上ニ光ノ上塗。

雲ガドンナ風ニ拡ツタリ小サクナツタリ散ラバツタリ集ツタリス

ルカヲ視察スルノハ面白イ.――人間ノ生ノ営ミモ愛モ之と同

ジデアル.

私ハコノ空ヲヨク知ツテヰル.ムードンノ空デアル.光線ノ穏ヤ

カナ日ハイツデモ空ハ地平線全体ヲ二度ト同ジ様ニハナラナイ斑

ノナイ輝カシサデ満タス.―――

ホンノ今シガタ雲ハ空ニアカンサスノ白イ葉ヲ描キ出シテヰタ.

彫刻ノヤウニ鮮カニトコロガ今ハ,ソレハ水彩画デアル.唐墨ノ

素描。

大分抜カシテ

空ハ雲ニ満タサレテヰル.雲ハ一ツハ一ツヨリマルクフクランデ

這フ様ニ進ミ.ソノ容積デ光ヲ加減シ.光ヲ置キ換ヘ.ソシテイ

ツモ巧ミナ効果ヲ生ミダシテ行ク。

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 208 ―

雲の事は此位よ、飛行機と関連して私は面白う御座いました

6〈↓ナシ〉

随分長い手紙になつて、一日で書いたのではないのよ

松子さん〈↓静子様〉も俳句遊ばすの、私もう初めて三四年になる

のよ、田園生活にはモツテコイの楽しみ、退屈も之で忘れるといふ

もの

御存じないかしら、「注 15ちまき」〈↓「梔くちなし子」〉と云ふ月刊雑誌の漸く

同人になれたのよ(名のみの)先生は注 16川村柳月〈↓中島雪人〉と申

して注 17小川芋銭〈↓蘆竹〉の〈お〉弟子〈よ〉、会員になつて下され

ば幸よ、近頃紙不足で今度から「注 18石楠」〈↓「百日紅」〉と合併しま

す上手デハ無イケレド少々書いて御批評下さいませ〈↓願ひます〉、

季は不順よ

初難や神代に告げる此大捷(ハワイノ事ヨ)

トランプの手品あかしや花の宵

 

右二つは傑作との事誉められましたが――

とぼ〳〵と父母に暮れ初む芒かな

会ふ毎に老いぬる父母や蝉悲し 

 

二人で見えた時

 

兄ノ逝去デ

兄の名を呼びても空し法師蝉

忍び泣く枕ぬらすやちゝろ虫

何かなし話かくるやちゝろ虫

月今昔波の響の悲しけれ

 

三年前奈良にて

顔寄せて群れ来る鹿や春寒し

 

東大寺門前

土産売る媼は真によそ〳〵し

 

奥日光ニテ

夕霧に麓ばかりの杉木立(土佐絵ノ様ダト云ハレマシタ)

 

檀原神宮

春霞山めぐらして宮尊と

  

三年程前

病める身に夕焼淋し蜩の

蜩にせかれて戻る山路かな

我下駄のこだま小さし秋の山

春光にまばゆきばかり富士せまる

〈↓

注 19 梅が香にめざしを干してゐたりけり

提燈にさはりて消ゆる春の雪

湯上りの素足真つ赤に夜寒かな

転地して垣の野菊を頼みけり

閉ぢ込めし蝶の弱りや今朝の秋

天井の蜘蛛動かずに夜長かな

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 207 ―

凍る夜の廊下を猫と通りけり

厠遠き渡り廊下やほとゝぎす

  

三年前岐阜へ旅行した時、車中所見

羞らひて鮎の鮨喰ふ女かな(鮎ガ自由ニ食ベラレタ昔ガナツカ

シウゴザイマス)〉

以上

〈四月九日〉

〈泰子〉

〈静子様/御もとに〉

〈此の短篇は昭和廿一年の夏に書いた旧稿で、予が終戦後

の最初の創作であるが、或る事情があつて今日まで発表を

見合せてゐたものである。何卒そのつもりで読んで戴きた

い。(注 20昭和廿四年十二月記)〉

  注 1

長與と志賀さんの婚礼……詳細は解題を参照のこと。なお、このときの

「一苦労のパアネント(…)資生堂へ参りました 

五時間もかかりまし

た 

レコードです」(一九四〇・五・一一、重子宛松子書簡、『谷崎潤一郎

の恋文』)という挿話は、「細雪」の創作ノート「続松の木陰」(『谷崎潤

一郎全集』第二五巻)にも「M夫人、志賀家の婚礼の日の朝、銀座資

生堂へパーマネントをかけに行く」と記され、「細雪」下巻第三〇章に

転用された。

常次郎さん……永田三十郎と春子の姉・登美とのあいだには、長男・常

次郎をはじめ、書簡に名前の見える次男・清三郎ら四男がいた。「永田

の子供も変な教育を受け家庭内の不思議な状態」とあるが、三十郎が

病気がちであったこともあり、両親は大阪、子供らは蘆屋に離れて暮

らしていたという(永田常次郎『藤永田二七八年補遺』)。

3「初昔」「きのふけふ」……「初昔」(『日本評論』一九四二・六〜九)、「き

のふけふ」(『文藝春秋』同・六〜一一)、のち、『初昔

きのふけふ』(限

定版、一九四二・一二、創元社/普及版、一九四三・四、同)。「初昔」に

は、一九三八年九月に松子の妊娠が発覚してから一〇月二日に中絶す

るまでの経緯が記されている。この出来事は、「細雪」上巻二七章に幸

子(松子がモデル)の「流産」として転用された。

今年の夏頃には帝都の空が襲撃される……自筆原稿と検閲済み校正刷

りでは、「今年の夏までには帝都の空に敵機がやつて来る」となってい

る。

今の青年はコチ〳〵の忠君愛国で……自筆原稿と検閲済み校正刷りで

は、「今の青年は感心と云はうか何と云はうかコチ〳〵の忠君愛国で」

となっている。

6 高橋健二……一九〇二〜九八。ヘルマン・ヘッセやエーリッヒ・ケスト

ナー、ナチス政権下の文学の翻訳・紹介で知られる独文学者。旧制第

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 206 ―

一高等学校時代に尾崎秀実や渡辺一夫と親交を持ち、東京帝国大学独

文科在籍時より山本有三に私淑した。一九四二年、岸田國士の後を継

いで大政翼賛会文化部長に就任。のち日本ペンクラブ会長。著書に『美

しい日本への道

反省と発足』(一九四五・一一、大日本飛行協会)、訳書

にヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(一九三八・六、岩波文庫)、『ドイツ戦

歿学生の手紙』(同・一一、岩波新書)など多数。

子供部屋とか云ふドイツ短篇小説……高橋健二編訳『子供部屋 

ドイツ

現代短篇傑作集』(一九四三・四、生活社)。「飛行将校と城主の娘とのロー

マンス」とは、ルドルフ・ビンディングの「不死」で、筋書きは以下

の通りである。飛行将校に反発しながらも心惹かれる城主の娘が、戦

闘中に海の藻屑となった彼の死後身籠ったにもかかわらず、高波にさ

らわれる事故にあってから将校が自分の子の父親だと確信するように

なり、ついに自らも入水する。

大磯……三通目に「陸軍だと云ふことは分かりました」とあるが、春子

が療養していた大磯付近には、熊谷陸軍飛行学校の分教場、相模陸軍

飛行場が存在した。飛行学校は一九四四年七月に閉鎖、以後は戦闘基

地となって特攻隊員の訓練と出撃も行われた。

紙も節約で急がぬ本は中々出版してくれぬ……第二次近衛文麿内閣の

新体制運動を背景に、内閣情報部を改組して関連部局の一元化を目指

した情報局設立(一九四〇・一二)と前後して、新聞雑誌用紙統制員会

が内閣情報部に設置(同・七)、書籍内容の審査により用紙配当を調整

する日本出版文化協会(のち日本出版会)が結成(同・一二)、続いて

取次業者を統合した日本出版配給会社(のち日本出版配給統制株式会

社)が発足(一九四一・五)。この出版新体制によって流通・配給を一元

化し、物質的な側面から言論統制が押し進められた。一九四四年三月

以降、企画審査が強化され、用紙激減への対策として緊要な出版理由

を認め難いものには発行一時中止の措置が取られた。

10

熱海へ……一九四四年四月一五日、谷崎は兵庫県武庫郡魚崎町魚崎(現

在の神戸市東灘区魚崎中町)から熱海市西山の別荘に疎開。その後さ

らに「米軍が駿河湾か遠州灘辺に上陸するのではないか云ふ懸念」(「三

つの場合」)と、「中央公論が軍の圧迫で取り潰されてしまつてからでも、

なほ当分は嶋中前社長の好意で個人的に「細雪」の稿料を支払つて貰

つてゐたけれども、それも既に途切れてしまつてゐた」(同)という経

済的理由により、一九四五年七月七日に岡山県真庭郡勝山町(現在の

真庭市)へ再疎開、当地で終戦を迎えた。なお、義妹の信子夫婦に留

守を任せていた魚崎宅は、一九四五年八月六日深夜に焼夷弾の直撃を

受けて焼失した。

11

急降下爆撃機……「翼の両方に発動機が一つづゝついてゐて」(双発機)、

「一番スマートの形」(軽爆撃機)、さらに「陸軍」所属であるという記

述から、川崎航空機開発・製造の九九式双発軽爆撃機、特にエアブレー

キを装備した二型乙以降の機体、あるいは各地の飛行学校に配備され

た立川飛行機開発・製造の一式双発高等練習機かと思われる。なお、

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 205 ―

九九式双発軽爆撃機は大戦末期になると特攻機としても使用された。

(防衛庁防衛研修所戦史室編『陸軍航空の軍備と運用』第三巻、

一九七六・五、朝雲新聞社)

12 残念しました……自筆原稿と検閲済み校正刷りでは「残念しました」と

いう文言はいかされているが、初出時に削除された。

13

芭蕉ノ句……芭蕉庵が焼失したのちの天和三(一六八三)年に甲斐路で

詠んだ句「夏馬の遅行我を絵に見る心かな」が初案、数回の改作を経

てこの形となった。「夏の馬に乗つて徐行してゐる自分を画中の趣と感

じた」の意。

14

ロダンの「フランスの聖堂」……François-Auguste-René Rodin, Les

Cathédrales de France, Lib airie Armand Colin, 1914.

高村光太郎訳「フ

ランスの自然」(『ロダンの言葉』一九一六・一一、阿蘭陀書房)がすで

にあったが、ここでは新庄嘉章訳『ロダン・フランスの聖堂』

(一九四三・一一、二見書房)から三三〜三七頁が断続的に引用されて

いる。

15

「ちまき」……川村柳月主催の俳句雑誌(一九二八・六〜五六・一二)。全

三〇四号。内在的心理作用と外在的宇宙の実在を新象徴の表現手法に

よって描写することを掲げ、誌上では「航空俳句」など革新的な試み

もあった。「名古屋日陶俳句会は「ちまき」へ合流」(「ちまき俳人往来」

一九三五・一)、「東陶俳句会ちまき支部(新設)」が発足(「ちまき誌友

倍加運動の成果発表(第二回)」三六・一)、「日陶俳句会では女子部が設

けられ」る(「編輯室にて」三八・一〇)など森村財閥系企業との関係が

あったことから、森村春子も同人になったと思われる。戦後の同誌には、

春子作の句として、「月今宵波のひゞきの悲しけれ」(「日本再建祈願/

弘福寺観世音/奉讃俳句短冊献納」一九四六・九)、「口つけて憂ひささ

やく菫かな」(「俳句藝術祭/愛吟抄」同・一〇)、「母の日や涙に唄ふ母

にあり」(「新季題『母の日』提唱」一九四七・四)、署名記事「聖・母の

日」(同・六)などが掲載され、一九四九年一月号巻頭の新年挨拶欄に

も名前が確認できる。また、川村柳月「聖園」(一九四七・一〇)には「大

磯の森村春子様は、その別荘の庭園にハレルヤ基督教会を建設され、美

しい教会堂の献堂式を長女綾子様のお誕生日である九月七日に挙行遊

ばされた」とある。なお、谷崎は「A夫人」自筆原稿で最初「はゝそ」

としたのを、のちに別紙を貼り付けて「梔子」と修正している。

16

川村柳月……一八九九〜一九七四。俳人。本名・健三。佐々木濤月(大

波会)門下、一九二二年より長谷川零余子の『枯野』編集を経て、

一九二八年から俳句雑誌『ちまき』主催。句集に『草丘』(一九五七・九、

ちまき俳書刊行会)など。

17

小川芋銭……一八六八〜一九三八。画家、俳人。本名・茂吉。当初は洋

画を学び、『朝野新聞』『平民新聞』の挿絵や漫画、『ホトトギス』の表

紙絵を手掛けた。のち日本画へ、川端龍子らと珊瑚会結成、横山大観

の推挙で日本美術院同人となる。『ちまき』の表紙絵を手掛け、同誌も「小

川芋銭画伯古稀祝賀記念号」(一九三七・六)、「小川芋銭先生追悼号」

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谷崎潤一郎「A夫人の手紙」素材・周辺資料紹介(翻刻・比較・注釈)― 204 ―

(一九三九・二)を発行している。

18

「石楠」……臼田亜浪主催の俳句雑誌(一九一五・三〜五一・一二、

五二・一一〜五六・一)。なお、谷崎は「A夫人」自筆原稿で最初「椰」

としたのを、別紙を貼り付けて「馬酔木」(水原秋桜子主催の実在する

雑誌)と修正、のちに朱筆で抹消して「百日紅」としている。

19

梅が香にめざしを干してゐたりけり……自筆原稿には(コレハ傑作ダト

云ハレマシタ)と挿評があるが、初出時に削除された。なお、この句

と「提燈にさはりて消ゆる春の雪」は、ともに谷崎作の一九四五年の

句で、後者には「二月七日の雪の夜」と詞書がある(『谷崎潤一郎家集』

一九七七・五、湯川書房)。また、私家版『細雪

上巻』(一九四四・七)

に添付された山内金三郎宛て葉書(年月日不詳)にもこれら二句が記

載されている(「「細雪」軍の圧力嘆く句?」『朝日新聞』二〇一四・七・五)。

20

昭和廿四年十二月記……初出では、「谷崎生記」となっている。

三、周辺資料

森村春子宛谷崎松子書簡

  【封筒表】神奈川県大磯山の手 

森村春子様 

御人に

  【消印】 

31.12.5 

前0‐8

  【封筒裏】十二月五日 

京都市左京区下鴨泉川町五 

谷崎松子

朝夕はめつきり冷え込み又冬が訪れて参りました 

ながい御無沙汰

に何からお話申し上げてよろしいやらまどふて了ふのでございます

が貴女様も御機嫌お美はしくお暮しでいらつしやいますか 

御母上

にもすつかり御ぶさたぐせがつき全く申し訳も何もございません 

たゞお赦し願ふ許りで貴女様より御詫の御口添え頂きます様懇願致

します 

お寒さにお暑さに心にかゝりながらこの始末なので自分で

も厭になります 

血圧ももう御安定でいらつしやいませうか 

こな

た主も昨今漸く健康を取り戻しどうやら落付いて参りました 

随分

月日がうつりました

さて主人から著書をお送り申し上げましたが貴女様から材料を頂き

ました「A夫人の手紙」も初めて単行本に上梓されましたのでお目

に懸けたいとの事呉〻もよろしく申しました

近日愈〻京都の家を譲り熱海へ引き揚げることになりました 

今更

名残が惜しまれ是まで見過してゐたお庭の一木一草にも心惹かれま

す 

熱海へ帰りましてからぜひ一度お訪ね申し上げ精々御話も申し

上げたく存して居ります

末筆にて恐れ入りますが御母君へ呉〻よろしくおとりなしねがひ上

げます

向寒御自愛専一に 

かしこ

松子

春子様 

御前に

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京都精華大学紀要 第五十二号 ― 203 ―

《主要参考文献》

『人事興信録』第一版(一九〇三・四、人事興信所)、第四版(一九一五・一、

同)、第五版(一九一八・九、同)、第六版(一九二一・六、同)、第七版

(一九二五・八、同)、第一四版(一九四三・一〇、同)

『財界家系図』(一九五六・四、人事興信所)

共同通信社編『森村勇』(一九八一・五、株式会社日本特殊陶業・株式会社

森村商事)

谷崎松子『蘆辺の夢』(一九九八・一〇、中央公論社)

永田常次郎『藤永田二七八年補遺』(二〇〇一・四、私家版)

『志賀直哉全集』第一五巻(二〇〇〇・四、岩波書店)

『谷崎潤一郎全集』全三〇巻(一九八一・五〜八三・一一、中央公論社)

『谷崎潤一郎全集』全二六巻(二〇一五・五〜一七・六、中央公論新社)

千葉俊二編『谷崎潤一郎の恋文』二〇一五・一、中央公論新社)

※引用に際し、重子宛松子書簡(216頁、書簡番号22)について、

内容から判断して日付を一九四〇年五月一一日に訂正した。また、巻末

の「森田・根津家系図」の森田安松と永田三十郎の関係が又従兄弟になっ

ているが、本稿では、谷崎松子『蘆辺の夢』の記述等によって家系図の

空白部分を埋め、従兄弟とした。

小谷野敦『谷崎潤一郎

堂々たる人生』(二〇〇六・六、中央公論新社) 

※「森田安松は、幕末以来の藤永田造船所という会社の社主・永田三十

郎のはとこに当たり同社専務」(187頁)とあり、「森田家系図」(188

頁)でも又従兄弟になっているが、本稿では従兄弟とした。

細江光『谷崎潤一郎

深層のレトリック』(二〇〇四・三、和泉書院) 

※「恵美子さんから伺った所では、A夫人は、東洋陶器と日本陶器の社長・

森村はじめ夫人・春子で、田所義治の娘」(971頁)とあるが、正し

くは「森村勇夫人」、「田所美治の娘」である。

川崎賢子・十重田祐一・宗像和重編『占領期雑誌資料大系

文学編』全五巻

(二〇〇九・一一〜一〇・八、岩波書店)

附記本

稿の執筆にあたり、資料調査の過程で、元中央公論社秘書室長の前田

良和氏に、大変お世話になった。また、森村春子の遺族である木村純子氏

には、多くのご教示をいただいた。二〇一六年三月八日、三月二五日、九

月一六日の三度にわたり取材に応じていただき、森村春子の貴重な写真や

谷崎松子書簡を提供していただいた。さらに、「A夫人の手紙」のもとになっ

た書簡の公開を快諾して下さった。以上を明記して、両氏に感謝申し上

げたい。

なお、本稿は科学研究費若手研究B「谷崎潤一郎の自筆資料を用いた生

成論的研究」(研究課題番号17K13400)の成果の一部である。