Top Banner
緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術( TAPP )は、 1990 年に Ger Schultz 1,2により始められ、 本邦では 1991 年に松本ら 3によって開始され た。さらにその後手術手技は改良を加えられな がら 4今日に至っている。全身麻酔を伴う腹腔 鏡下手術であること、腹腔鏡下手術としての手 技的な難易度が高いこと、さらにメッシュプラ グ法をはじめとする所謂前方アプローチの諸手 術の簡便性などの理由から、鼠径ヘルニアに対 する標準手術とするには程遠いというのが現状 であり、日本内視鏡外科学会による内視鏡外科 に関するアンケート調査 5 によると、2011 に行われた TAPP 2453 件で、鼠径ヘルニア 手術全体の約 12 % であった。アンケートに回 答した集団の特異性を考慮すると、実際の比率 はさらに低いものと推測される。 鼠径ヘルニア修復術としての TAPP の臨床的 利点は、Hasselbach 三角、外側三角、大腿輪、 時には閉鎖孔の脆弱部を充分に視認し、脆弱部 を確実に被覆するメッシュを選択し、展開でき ることである。さらに、両側性ヘルニアや複合 型のすべてのヘルニア門を確認して同時に修復 することが可能である。特に複合型( IV 型) 図 1、図 2 )を術中に診断する機会が増すこと は自明で、自験例における複合型は、修復術を 行った全病変の 12.3 % を占め、さらに両側複 合型は全両側ヘルニア症例の 23.1 % にのぼる。 また、術前にヘルニアを診断し得なかった対側 で、腹膜鞘状突起の遺残を含めてヘルニアもし くはその前段階と診断しうる状態に遭遇するこ とがある。当科では原則として術前に症状を認 めなかったものに対してメッシュで覆うことは せず、周辺腹膜の縫縮までに留めることにして 21 Medical Photonics No. 12 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)の理解: 鼠径部腹壁―特に腹膜前腔―の解剖学的理解における映像情報の貢献 a 社会医療法人愛仁会 高槻病院 消化器一般外科、b 神戸大学 食道胃腸外科 植野 a 、岡本武士 a 、朝 倉 a 、東野展英 a 、有 本 a 裏川直樹 b 、細野雅義 a 、吉川卓郎 a 、家永徹也 a 図1 (a)I-1 と(b)II-2 を合併した IV 型ヘルニア。(c) spermatic sheath に覆われ腹膜前筋膜の深葉と浅葉の間に 存在している精管(口絵参照) 図2 I-2 に合併した閉鎖孔ヘルニア(鉗子の先端) (口絵参照)
5

腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

Feb 11, 2020

Download

Documents

dariahiddleston
Welcome message from author
This document is posted to help you gain knowledge. Please leave a comment to let me know what you think about it! Share it to your friends and learn new things together.
Transcript
Page 1: 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

緒言

腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、

1990 年に Ger、Schultz ら 1,2)により始められ、

本邦では 1991 年に松本ら 3)によって開始され

た。さらにその後手術手技は改良を加えられな

がら 4)今日に至っている。全身麻酔を伴う腹腔

鏡下手術であること、腹腔鏡下手術としての手

技的な難易度が高いこと、さらにメッシュプラ

グ法をはじめとする所謂前方アプローチの諸手

術の簡便性などの理由から、鼠径ヘルニアに対

する標準手術とするには程遠いというのが現状

であり、日本内視鏡外科学会による内視鏡外科

に関するアンケート調査 5)によると、2011 年

に行われた TAPP は 2453 件で、鼠径ヘルニア

手術全体の約 12 % であった。アンケートに回

答した集団の特異性を考慮すると、実際の比率

はさらに低いものと推測される。

鼠径ヘルニア修復術としての TAPP の臨床的

利点は、Hasselbach 三角、外側三角、大腿輪、

時には閉鎖孔の脆弱部を充分に視認し、脆弱部

を確実に被覆するメッシュを選択し、展開でき

ることである。さらに、両側性ヘルニアや複合

型のすべてのヘルニア門を確認して同時に修復

することが可能である。特に複合型( I V 型)

(図 1、図 2)を術中に診断する機会が増すこと

は自明で、自験例における複合型は、修復術を

行った全病変の 12.3 % を占め、さらに両側複

合型は全両側ヘルニア症例の 23.1 % にのぼる。

また、術前にヘルニアを診断し得なかった対側

で、腹膜鞘状突起の遺残を含めてヘルニアもし

くはその前段階と診断しうる状態に遭遇するこ

とがある。当科では原則として術前に症状を認

めなかったものに対してメッシュで覆うことは

せず、周辺腹膜の縫縮までに留めることにして

21Medical Photonics No. 12

MAIN TOPICS腹腔鏡映像を通じた腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)の理解:鼠径部腹壁―特に腹膜前腔―の解剖学的理解における映像情報の貢献

a 社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科、b 神戸大学食道胃腸外科

植 野 望 a、岡 本 武 士 a、朝 倉 悠 a、東 野 展 英 a、有 本 聡 a、裏 川 直 樹 b、細 野 雅 義 a、吉 川 卓 郎 a、家 永 徹 也 a

MAIN TOPICS

図 1 (a)I -1 と(b)I I -2 を合併した IV 型ヘルニア。(c)spermatic sheath に覆われ腹膜前筋膜の深葉と浅葉の間に存在している精管(口絵参照)

図 2 I-2 に合併した閉鎖孔ヘルニア(鉗子の先端)(口絵参照)

Page 2: 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

いる。

先に述べた、TAPP について、その臨床的な

利点が強調されるべきことは当然であるが、加

えて、手術手技や鼠径ヘルニア発症のメカニズ

ムの理解において肝要となるべき解剖学的確認

事項の視認において、腹腔鏡の貢献は多大なも

のであると考えている。特に鼠径部腹壁を構成

する筋膜・腹膜ならびにその他の筋膜: fascia

と称される構造物の視認には、昨今の HD 機能

を備えた腹腔鏡の映像が極めて有用である。上

記の手術操作の中で、特に映像による理解が有

用とされる部分について概説する。

腹膜前筋膜深葉・浅葉の存在・分布(図 3)

精管と精巣動静脈は spermatic sheath と呼

ばれる薄い膜からなる袋に覆われ、腹膜前筋膜

深葉・浅葉の間に存在する。この空間は腹膜前

腔(狭義)と呼ばれ、腹膜前脂肪織が含まれる。

精巣動静脈の走行を中枢側へ辿ってみると、い

わゆる後腹膜において、深葉は腎筋膜前葉(腹

膜下筋膜深葉)へ、浅葉は腎筋膜後葉(腹膜下

筋膜浅葉)につながることが確認できる。この

部分は、腹腔鏡下結腸切除術の際に内側アプロ

ーチにて腸間膜背側を剥離する際に視認するス

ペースに相当する。

TAPP においてはメッシュを腹膜前腔に配置

するとされているが、厳密には、内側では膀胱

前腔(Retzius 腔)に、外側では腹膜と腹膜前

筋膜深葉との間隙に配置するのが原則であり、

この二つの空間の境界となるのは spermat i c

sheath の内側もしくは内側臍ヒダの外側と考え

ている。この境界となる部分では、腹膜に沿っ

て外側から続いた腹膜前筋膜深葉が膀胱の前外

側方向へ向きを変える。メッシュを配置するた

めの腹膜前腔の操作の際に最も注意しなければ

ならない合併症は、膀胱ならびに血管損傷であ

り、これらを回避するためにはこれらの構造物

がどの fascia に包まれているかということを理

解し、視認できなければならない。膀胱は腹膜

前筋膜深葉と腹膜との間に、下腹壁動静脈は横

筋筋膜と腹膜前筋膜浅葉との間に(図 9)、そし

22 Medical Photonics No. 12

MAIN TOPICS

1

図 4 spermatic sheath に覆われ腹膜前筋膜の深葉と浅葉の間に存在している精管(口絵参照)

図 3 鼠径部腹膜における腹膜前筋膜深葉・浅葉の分布と、(a)内・外鼠径ヘルニアの形態、(b) 腹膜切開剥離の手順(口絵参照)

ヘルニア嚢

恥骨結節

膀胱前腔

膀 胱

下腹壁動静脈 精索、精管 横筋筋膜

腹膜前筋膜浅葉

内側臍ヒダ(臍動脈)

腹膜前筋膜深葉

腹膜

恥骨結節

膀胱前腔

膀 胱

下腹壁動静脈 精索、精管 横筋筋膜

腹膜前筋膜浅葉

内側臍ヒダ(臍動脈)

腹膜前筋膜深葉

腹膜

内鼠径ヘルニア

外鼠径ヘルニア

(1)

(2)

(a)

(b)

Page 3: 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

て精管と精巣動静脈は先にも述べたとおりに

spermatic sheath に覆われ腹膜前筋膜の深葉

と浅葉の間に存在している(図 1、図 4)。また、

膀胱前腔において腹膜前筋膜浅葉は疎性結合組

織として同定される(図 5、図 6、図 10)。腹

膜ならびに腹膜前筋膜深葉・浅葉、横筋筋膜の

位置関係を充分に理解することが、TAPP の手

術手技の理解のカギと言って過言ではない。

当科では、spermatic sheath の内側かつ内側

臍ヒダ外側で腹膜切開を開始し、最初に膀胱前腔

を開放し膀胱を腹腔側に充分に向かって外した後

に(図 3(b)①、図 6)、spermatic sheathの前

面を外側に向かって腹膜前筋膜深葉と腹膜との間

隙の剥離を進めていく(図 3(b)②、図 7)こと

にしている。

ヘルニア門(内鼠径輪)の腹側では、内側の

精管の上方から概ね外側の上前腸骨棘へ向けて、

腹膜と腹膜前筋膜深葉が合流している(図 8)。

メッシュの配置に当たり、ヘルニア門周辺の充

分なオーバーラップはヘルニア再発防止の意味

で極めて重要で、我々は 3 cm 以上のオーバー

ラップを心掛けている。ヘルニア門腹側におい

て腹膜前の剥離を進める際、上記の合流のため

腹膜と深葉との間隙を剥離することは困難で、

23Medical Photonics No. 12

MAIN TOPICS

腹腔鏡映像を通じた腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)の理解

図 5 腹膜前筋膜浅葉(組成結合組織)の切離。(a)腹膜前脂肪織と(b)膀胱とが明瞭に区別できる(口絵参照)

図 6 腹膜切開の開始の際に腹膜前筋膜深葉を同時に切開し、同浅葉の組成結合組織(*)を視認することにより膀胱前腔に入れたことを確認する(口絵参照)

図 7 腹膜を腹膜前筋膜深葉からはずすように外側に向けて鈍的に剥離する(口絵参照)

図 8 ヘルニア門(内鼠径輪)の腹側では、腹膜と腹膜前筋膜深葉が合流しているのが観察できる(↑)(口絵参照)

Page 4: 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

深葉を切開しメッシュを配置するスペースを確

保せざるを得ない(図 9)。症例によっては浅葉

もが合流していることがあり、この際には腹側

縁において横筋筋膜が露出することになる。こ

の部分を例外に、背側ならびに側腹部では深葉

を腹壁側に温存し、腹膜のみを剥離するよう努

めるべきである。

外鼠径ヘルニアにおける腹膜鞘状突起の存在

腹膜鞘状突起の遺残を伴う外鼠径ヘルニアに

対する手術において、腹膜鞘状突起を切離して

おくことは再発予防にとって極めて重要である。

腹膜鞘状突起は腹膜面に観察でき(図 10)、腹

膜前で確実に切離することができる(図 11)。

ヘルニア分類以外のヘルニアの病態把握

当科では日本ヘルニア学会ヘルニア分類に基

づいてメッシュを選択することにしている。例

えば、ヘルニア門の小さい外鼠径ヘルニア(I-1)

や内鼠径輪側に限局した内鼠径ヘルニア(II-2)

に対しては比較的小さなサイズ(おおよそ

13 × 10 cm 以内)のメッシュを使用すること

24 Medical Photonics No. 12

MAIN TOPICS

3

図 10 腹腔側より腹膜上に視認できる腹膜鞘状突起痕。同浅葉の疎性結合組織(*)膀胱前腔ならびに腹膜前筋膜浅葉の疎性結合組織(口絵参照)

2

図 12 右側の I-1 病変であるが、内鼠径輪(ヘルニア門)の外側へ向けて、腹壁の弛緩が認められる(口絵参照)

図 9 腹膜と腹膜前筋膜深葉との合流が低い位置にある場合には、ヘルニア門腹側のメッシュのオーバーラップを確保するために深葉を切開する。腹膜前筋膜深葉・浅葉越しに下腹壁動静脈が透見される(←)(口絵参照)

図 11 腹膜鞘状突起を索状物として同定し、確実に切離する。(口絵参照)

Page 5: 腹腔鏡映像を通じた 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復 …緒言 腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)は、 1990 年にGer、Schultz ら1,2)により始められ、

になる。しかし、症例を重ねていると、I-1 に併

せて外側三角がヘルニア門の周辺へ弛緩が広が

っている(図 12)、II-2 においてヘルニア門周

辺の横筋筋膜が蒼白色に変性し弛緩しているな

どといった症例に遭遇することがある。これら

のような症例では、メッシュ辺縁の緩みに起因

した再発が懸念されるため、弛緩・脆弱部位も

充分に覆うべく比較的大きなサイズを使用する

ことにしている。大きなサイズのメッシュを装

着するためには、腹膜前にそのサイズに相当す

る充分なスペースを確保する必要があり、この

ためには先に述べた腹膜前の膜構造を充分に理

解し剥離操作を行う必要がある。

結語

腹腔鏡下手術各術式の近年の急速な進歩は、

腹腔鏡の映像の分析の上に成り立っているとい

っても過言ではない。特に腹腔鏡下鼠径ヘルニ

ア修復法(TAPP)においては、鼠径部腹壁の

解剖学的理解に映像がその術式の高難易度を克

服するのに大いに貢献している。今後映像技術

の進歩により新たな解剖学的知見や手術技術の

向上が期待される。

参考文献1)Ger R. et al : Management of indirect hernias by a

laparoscopic closure of the neck of the sac. Am J Surg1990 159 : 370

2)Schultz L. et al : Laser laparoscopic herniorrhaphy: Aclinical trial. Preliminaly results. J LaparoendoscopSurg 1991 1 : 41-45

3)松本純夫 : 腹腔鏡下鼠径ヘルニア手術.手術 1993 47:645-650

4)早川哲史ら:経腹アプローチ TAPP(transabdominal pre-peritoneal repair)法による腹腔鏡下鼠径部ヘルニア修復術-手術のコツと日本ヘルニア分類を使用したメッシュの選択- 外科治療 2009 100:653-661

5)日本内視鏡外科学会学術委員会 :内視鏡外科手術に関するアンケート調査 -第 1 1 回集計結果報告 .日鏡外会誌 2 0 1 217:571-694

25Medical Photonics No. 12

MAIN TOPICS

腹腔鏡映像を通じた腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術(TAPP)の理解

植野 望(うえののぞみ)

社会医療法人愛仁会 高槻病院消化器一般外科部長

岡本武士(おかもとたけし)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科

朝倉 悠(あさくらゆう)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科

東野展英(ひがしののぶひで)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科

有本 聡(ありもとあきら)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科

裏川直樹(うらかわなおき)

神戸大学食道胃腸外科

細野雅義(ほそのまさよし)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科

吉川卓郎(よしかわたくろう)

社会医療法人愛仁会高槻病院消化器一般外科医長

家永徹也(いえながてつや)

社会医療法人愛仁会高槻病院院長