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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一)二五ー六一頁
『周易』に関する若干の考察
田 中 侃 刀
緒言
しゅうえき
最近、佐藤一斎の『周易欄外書』の訳注を試みているが、『周易』に関する現代中国の研究書を読む中に、いろいろ
ぼくぜい
考えさせられた事が有ったので、本稿を草した次第である。宋代あたりから、『周易』がト笠の書であるのか、儒教的
道徳の規範を示した書であるのか、という論が有るが、簡単に結論は出せないだろう。そして、『周易』とト笠とを切
り離すことは不可能であると言えるが、それでは、卜笠には如何なる意義が有るのかという点に就いて考えなくてはな
るまい。後述の如く、現代中国に於いては、中国古典の現代的意義(再評価とも言える)に関する研究書の刊行も漸く
盛んとなり、『周易』などは特に脚光を浴びていると言って良い。本稿では、卜笠という問題を中心に、佐藤一斎の『周
易進講手記』に於ける「卜笠」論にも触れて、私見を若干述べて見たいと思う。なお、本稿は中国学の専門家以外の方
々にも読んで頂きたいと思って、専門家には不必要な説明などを加えてあることに就いて御諒承頂きたい。
『周易』に関する若干の考察 二五
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『周易』は、ふつう「握繧」と呼ばれているが、勢代の『蹴雌』、腕代の『辱騰』という易の書に対して、周代の易の
書であるから『周易』とも呼ぶ。又、『連山易』の思想は『太玄経』に、『帰蔵易』の思想は『元包経』に反映して残っ
ているという説も有るが、『連山』も『帰蔵』も、そのものを見ることが出来ないので右の説に関する確証は得られ無
いし、また一方では、『連山』も『帰蔵』も易の書ではないとする説さえ有るらしい。
『周易』の書は、中国に於いても古くから研究されていて、『周易』に関する文献は数も量も莫大であるが、宋代以降
の『周易』に対する学者の見方は、裁然と区別はし難いものの、大雑把に言って、一つは儒教道徳を説いた書とする見
方が有り、一つはト笠の書とする見方が有る。しかし、先述の如く、現代になって、自然科学の立場から、此の『周易』
に新しい意義を認める研究が盛んになって来ている。
さいこうそく
えき
一九八九年に、中村璋八氏と武田時昌氏との手によって、票恒息氏の『易のニューサイエンス』が翻訳され、東方書
店から刊行されているが、例えば、其の序言には、
現代の先端科学である人工知能・遺伝暗号・思惟本質と東洋の神秘主義との間には、統一的な認識が得られる。
情報コ:ド化理論とコンピュータ・シミュレーション、遺伝暗号の二進法コード化、大脳神経伝達物質のオアO
R、アンドAND、ノットNOTのゲート(αq讐o)における通信などには、一つの情報制御システムの統合体が存
在するが、その基本的な機構は八卦システムの中に包含されているのである。
とある。鵡撫というのは、易の基本になる記号であるが、其の基本の構成要素は、陽錫一と隊雍一とから成り立ってい
る。陽交をー、陰交もー、と見ると、八卦の組合せによる六十四卦は、2を基準にしていることになる。
『周易』の「劉龍・上」に、「易に太極有り。是れ両儀を生ず。両儀は四凱籔を生ず。四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を
定め、吉凶は大業を生ず」という言葉が見える。両儀は陽と陰とである。四象は、老陽(一と一)、少陽(二)、少陰
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(}
黶j
A老陰(=)のことであるが、此れに陽交一か陰交}が一つずつ加わって八卦になる。八卦が十六卦、十六卦
が三十二卦、三十二卦が六十四卦になる。太極を2の0乗とすると、八卦は2の3乗であり、六十四卦は2の6乗であ
る。太極は宇宙と同義だと見ていいと思うが、古代中国人の考えでは、陽の気と陰の気とから成り立っている宇宙つま
り太極は、二分の一が陽の気で二分の一が陰の気、という構成ではなく、又、太極が謂わば真空状態にあるものでもな
ちな ヒ そうじ こうそうそ
く、陰陽二気が渾然と一体化したもの、即ち2の0乗(1)なのである。因みに、「宇宙」という語は、『荘子』庚桑楚
篇に「艶つること有って耐も処無き者は争なり。長ずること有って而も載四瓢無き者猛嚇なり」(本剥は、始めと終り、の
意味)とあり、『えなんじ准南子』の斉俗訓には「往古来今、哲を宙と謂ひ、四方上下、之を宇と謂ふ」とある。古くから中国
人は、空間を宇、時間を宙として考えていたことが分かるが、此れは、現代の素粒子論の学者の宇宙生成論にも通ずる
ものが有るように思われる。
[注]平成二年夏に『朝日新聞』に掲載されていたNTTデータ通信株式会社の大きな広告中に、S.W・ホー
キソグ教授の興味深い談話が掲げられていた。其の要旨は、「いまの宇宙の膨張を逆にたどると、百五十億年ほど
前に、ある一点の爆発から始まったことになる。ビッグバンだ。しかし、どうしてビックバソが起きたのかを物理
学は説明できない。宇宙の全質量を一点に凝縮するとなれば〈無限大〉を相手にすることになり、どんな科学法則
も破綻をきたす。新しいアイデアとして、時間と空間とを同じに扱うことだ。虚数(二乗すると負になる数)で測
った虚時間というものを考えると空間との区別はまったくなくなる。虚時間のもとでは、宇宙には始まりも終わり
もない。宇宙の空間も時間も、地球の表面のように、大きさは有限でも、境界も果てもない、連続したものと考え
られる」という談話であった。
ついでに・⊥ハ十四卦とは・八卦・すなわち轍鈴≡・黛卦≡、蜘卦≡、農卦≡、蝿卦≡、撚卦≡、魔卦一=、噺卦≡が、
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二つずつ組みA口わされて構成されている。例えば、六+四卦の;の糞≡≡(てんらいむぽう天雷元妄とも呼ぶ)という卦は・乾卦
≡と震卦≡との組合せである。そして此れを下から上へ陽交一と陰交}との六つの変化を見て行くと、其れは六交と呼
ばれるが、六+四卦には、A・計三百八+四交に加えて、乾卦には用.炬うと坤卦には具という総体的な交も有る・これ等
の「交」は、あらゆる現象を象徴的に意味し、あらゆる問題を解決する指針と成るのである。
右に引いた『易のニューサイエンス』の序言中の言葉を見れば、孔子の頃(西暦紀元前五百年頃)には既に成立して
いたと思われる『周易』の内容は、荒唐無稽として退けられるものではない、ということが近代科学の立場から説明さ
れているのであって、先述の如く、最近の中華人民共和国での『周易』の研究は近代科学の視野に立って新しい局面を
拓きつつある。研究者も哲学者のみならず、医学や数学などの分野に属する人々が『周易』の研究に取り組んでいる。
どうきょう
更に、易と無関係とは言えない「道教」に於いても、道教の宗教としての教義の研究ばかりでなく、錘砺の医学的な解
ちゅうやく
明や、中薬(謂わゆる漢方薬)の理論的根拠を道教と結び付けて、医学や薬学の問題を解明七ようとする傾向も見られ
る。現代中国に於いて、『周易』と、老荘思想を間に置いて関連づけられる道教との現代的意義の発掘は、目醒ましい
ものがある。
もた
近代科学は、人間に便利な生活を齎らしたと思うが、.然し人間を真の意味で幸福にはしなかったのではないだろう
か。地球環境の悪化を云々するまでもないことであろう。又、科学の力が万能であるが如き錯覚に因って、倣慢な人間
の生活が営まれるようになっている。例えば地上に飢えた人々が苦しんでいても、宇宙開発に莫大な費用が投じられて
いるが、その技術は軍事目的に利用されている場合も有るらしい。
阪神淡路大震災は、筆者の親戚.知人.教え子たちが住む地区であったので、極めて筆者の関心を惹いた震災であっ
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た。但し、関係者に家屋の倒壊、半壊、焼失の被害を受けた者が少なくなかったにも拘らず、人身事故が無かったこと
は、筆者にとって不幸中の幸いであった。此の震災に関して、週刊誌の報ずる所では、約十五年間にわたって、国は地
震学者の地震予知の研究に莫大な費用を注ぎ込んで来たというが、地震学者は此の震災の予知をすることが出来なかっ
た。震災の後になってから、活断層がどうのこうのと、地震発生の理由を説明している学者はいたが、震災の後では仕
方がない。既に欧米では、予知は不可能という判断で、研究費は、救助対策と復興対策の研究に費やされているとのこ
とである。
こくこ しゅう
中国の古典では、地震の原因と結果とを如何に説明しているか、を探して見ると、春秋時代の『国語』の中の「周
ご語」に、
鶴罫の二年、齢廠うの三鵬瞥な震ふ。徹陽外曰く、「周は樫に雌びんとす。知れ天地の気は、其の艦を失はず。
も あやま たみ これ よう ふ い あた いん のぼ ここ
若し其の序を過つは、民、之を乱すなり。陽、伏して出つること能はず、陰、迫りて黙ること能はざらしむ。是
お じつ こ おさ あ
に於いてか地震有り。今、三川実に震ふは、是れ陽其の所を失ひて陰に鎮へらるるなり。陽失ひて陰に在る時
せんげん ふさ みなもと つ
は、川源必ず塞がる。源塞がれば、国必ず亡ぶ。(略)夫れ国は必ず山川に依る。山崩れ、川端くるは、亡ぶるの
ちょう も すう き
徴なり。川端くるときは、山必ず崩る。若しくは国の亡びんこと十年を過ぎず。数の紀なり。夫れ天の棄つる所
こ きざん すなわ
うつ
は、其の紀を過ぎず」と。是の歳や、三川端き、岐山崩れたり。十一年に幽王乃ち滅びて、周乃ち東に遷る。
けいすい い らく さ
とある。「三川」は、浬水、滑水、洛水を指す。「数の紀」は、十年の一区切りをいう。右の地震の解説は、地殻エネル
ギー説に近いが、地震の原因は国民全体の生活の頽廃ぶりにあると見ている。又、前兆としては、川の水源が澗れると
している。右の文中の省略の箇所では、鰍水・洛水が澗れて勢王朝が亡びたとし、黄河が澗れ-藍王朝(臓のことであ
る)が亡びたとしている。阪神淡路大震災の前年は、関西方面は極端な水不足であった。「周語」の地震の記事は、現
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象的には阪神淡路大震災と符号する所が有るとも言えよう。
「周語」的な見方をすれば、あの震災は、金儲けと遊ぶこととに狂奔している日本国の現状に対する天の警告と言え
るかも知れない。それにも拘らず、昨今の日本の農村では、生産者の減少や、食糧生産の制約など、様々な問題を抱え
ている。而も農村の振興策と言えば、観光資源の開発とか観光客の誘致による経済的な利益の追求とかが主な計画にな
き
っている。此れで来たるべき震災による食糧不足に対応出来るだろうか。
唐代の詩人の献厭励(らくてん楽天)の「贈友五首」と題する詩の二首目の詩句には、「艦暉、かな撰るに繭畷し。相張搬。へて
襲と侮りて、告な金銀を求むと迩ふ。畢彰金と銀とは、何ぞ泥と塵とに環ならん・恥つ衣食の物に非ず・襲の人
すく
を済はず」とある。金銀は食べられないし、着物の代わりに着られない、という詩句である。食糧が無ければ、金銀が
有っても買えないのである。緊急事態が発生してから、急に農作物を育てることは出来ないし、輸入食糧に依存するこ
とも甘い政治的判断であると思う。阪神の震災の場合も、港湾の荷揚げ作業が出来なくなっていた。
「周語」の記事は、古代中国の知識で地震を解明したものであるが、国民の頽廃的な一面を指摘している点に注意す
べきであって、『周易』に道徳の書としての性格を認めようとする立場とも共通するものが有る。また、週刊誌の記事
等で見ると、最近の地震学者の中には、例えば、東京地方には大震災が、いつ発生してもおかしくないと警告する人が
いるが、それは、いつ発生するか分からないと言っているのと同じで、予知にはならない。また、百年以内には必ず発
生する等と警告する人がいるが、そのように長期間の予測で、地震発生の時期を特定出来ないことは、もはや予知と言
えるものではなく、「予言」である。それこそ、キルケゴールが『現代の批判』の中に引用している言葉を借りれば、「わ
れわれが予言することは、起こるか起こらないか、どちらかだろう」(桝田啓三郎氏訳)ということでしかない。
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一一
g笙
ぼくぜい らいき きょくれい
ト笠とは、約三千年の昔に中国で行なわれていた占いの方法をいう。『礼記』の「曲礼・上」に、
ト峯諾に過ぎず。卜笠楡ひ襲らず。蝕を腰と瀞し、舞を欝と為す。卜笠は先聖王の、民をして、時日を信じ、惣
概を敬し、法令を躍れしむる晦騨の者なり。民をして鍬疑を決し、鍔争を定めしむる所以の者なり。故に鴎く、疑
ぜい そし よし
これ
って之を笠すれば、即ち非らさるなり。日にして事を行へば、則ち必ず之を践とす、と。
きこう ぼく し
とある。卜笠は三回迄で、其れ以上は占うべきではないとしている。亀甲獣骨に依る占いは「卜」と呼び、著(めどぎ、
ぜい
ぜいちく
笈竹)に依る占いは「笠」と呼ぶのである。トの結果が不吉な時に笠し、笠の結果が不吉な時にトすることを、「ト笠、
よ しょぜい けが
相ひ襲る」という。但し、『周易』の蒙…≡の卦辞に、「初笠は告ぐ。再三すれば涜す。涜せば告げず」とあり、『礼記』
えき さく
の「表記」にも、「易に曰く、初笠は告ぐ、云々」と、此の『周易』の言葉を引いている。引用の「曲礼」の箕は、笠
と同じ意味の文字である。『周易』の「初笠は告ぐ。再三すれば涜す」というのは、自分に都合の良いような結果が出
つ
ない時には、何度もト笠をやり直す人が多かったのであろう。人間の弱さを衝いた言葉であるが、繰り返してト笠をす
るならば、卜笠の神秘性も稀薄になる。なお最近、卜笠を技術的な面から検討した論文としては、山下龍二氏「易の確
しぶん
率論」(『斯文』第一〇四号、平成八年三月刊)が有る。
卜笠の必要性、もしくはト笠をする心理を考えて見ると、人間の叡知の限界外にある事柄を知るために、即ち直面し
きんみらい
ている危難を避ける方法とか、近未来に於ける危難の回避や自己の運命の予知のためにト笠を行なっているのであっ
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て、過去の既に経験した事柄や既に解釈出来た事柄に就いてト笠することは、一般的には有り得ないことであろう。と
言うことは、人間が現在から未来をト笠の力を借りて知ろうとしていることである。では、卜笠が告げていることは、
誰が告げてくれているのか、ということになる。此れは極めて大きい問題であって、簡単には結論を出せない事であろ
う。ト笠が告げているものは、天の言葉か、神の啓示か、天とは何か、神とは何か、そしてト笠は宗教の儀式なのか、
否か、というような疑問の解明は非常に難しいと言えよう。
卜笠の内容を調べる必要も有るが、貝塚茂樹氏編『古代駄帝国』(みすず書房、昭和三十二年十二月刊)所収の白川
ぼくじ ぼくちょう ふしゅく ちょう
静氏の説では、股櫨出土のト辞に就いて、王がト兆の判断者(王が巫祝の長たる性格を持っている)であるとし、また、
占いの内容は、祭祀、戦争、狩猟・農業など経済生活に関するもの、王および王族の行為と安否の問題、の四項目に要
約される、としている。
こうこつぶん
股嘘出土の亀甲獣骨文字(略して甲骨文)はト辞を刻んだものであるが、採取された約三千字の解読は半分も出来て
いないようである。然し、卜辞の内容は、白川氏の指摘する五項目に尽きると思われる。即ち、古代中国人は此れ等の
内容に就いて占ったのである。卜兆は王が判断したとしても、そのト兆を誰が示したものであるかは疑問である。ま
た、恐らく、こういうト笠の内容は、『周易』の内容とも関連すると推測されるが、『周易』に於ける六十四卦・三百八
十四交の卦辞・交辞として、『周易』書という形になった経緯は現段階では十分に解明されていない。
『古代股帝国』の中で、白川静氏は、「うらないとは、一言でいえば神の啓示を求める行為である。古代の社会、また
は未開の社会ではどこでも、うらないによって神意を確かめることが行われている」と述べ、また、亀トに用いた亀
えん ほう
は、其の形状から天円地方の宇宙の象徴と考えていたのではないか、と推測している。ただ、白川氏のいう「神」とは、
宗教的な意味での神なのだろうか。天とは如何に蹴わり合うのだろうか。其の神は、個人または国家の恥たるべき運命
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の予知を告げていることは確かであろうが、一個人や人類の苦悩や銀難を救済するものなのであろうか。
現代の一般人から見れば、卜笠そのものが何の根拠も無い愚かな行為のように見えるかも知れないし、専門学者中に
も・そういう見解の持ち主がいる。『中国古代亀卜文化』(広西師範大学出版社、一九九二年刊)の著者鮎騨ぎ蒋懲氏は、
亀トに関して綿密な研究を行なっているが、一方、「占トとは、昔の人々が吉凶禍福を予測した種々の迷信的な活動を
指すもので、凶を避け吉に趨くのは、人間の天性である」と述べ、更にエンゲルスの言葉を引いて、「あらゆる宗教と
同じ様に、其の根源は蒙昧な時代の、狭い上に愚昧な観念に在る」と記している。
ただ、卜笠は果たして無知蒙昧な迷信的行為と言えるだろうか。鳥獣のような予知能力を喪失してしまった人間は、
人類の長い歴史の中で得た経験や知識の中で、卜笙という手段を考え付いたのかも知れない。また、何が吉で何が凶で
あるかという問題を宗教的に解釈できるのだろうか。更に近年になって、『周易』に現代的意義が見出だされたことは、
か じ
卦辞に対して、単に迷信として切り捨てられない「何か」を感じさせられるのである。
三 天と神と
古代の人々は、卜笠の結果によって未来を知り、其れに依って当面の行動が規定されたのであるが、それでは、卜笙
きぼく
によって示されている内容は誰の意志なのであろうか。亀トの場合で言えば、卜辞の発言者は誰なのか、ということに
なる。天とか神とかの啓示である、と説明は出来るが、そこに果たして宗教的な意味での天または神が、古代人に意識
されていたか如何かは、甚だ疑問である。
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古代中国に於ける天や神という言葉は、今日では、キリスト教的な天や神と混同されて使用されることが有るが、全
こと
く異なるものである。此れはキリスト教側からも区別されるであろう。新教出版社編『聖書辞典』(新教出版社、一九
六八年十二月刊)に要領良く説明している事項を、更に抜き書きすると、聖書の「神」は、「人間に対して、自身をあ
らわし、人間の歴史に働きかけて、これを救いの完成へと導く。又、預言者たちは、神の世界的支配の思想を深めて、
天地の創造者、唯一の神の信仰を確立した。」と述べられている。「天」は、同辞典に拠れば、もろもろの天(雲の天、
鳥の天、天の大空)が有って、その上に神が居住し、顕現する天が有り、また、その天は神によって造られたものであ
るという。有名な『詩篇』第十九篇(『旧約聖書』所収)の「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわさ
をしめす」という詩句は、『聖書辞典』の解説をマそう端的に説明しているように思われる。
『創世記』(『旧約聖書』)の第一章の冒頭に「はじめに神は天と地とを創造された」とあるが、中国古典では、万物を
ぞうか えなんし
創造化育するという意味で「造化」という言葉が用いられている。例えば、『准南子』(『准南鴻烈解』藝文印書館刊本
しきゅう い かな
に拠る)の「精神訓」に子求という者の話が有るが、「偉なる哉、造化者、其れ我を以て云々」という言葉が有って、
しゅうぼくおう ろうたん ゆ かえり よ
注に「造化は天を謂ふなり」としている。又、『列子』の「周穆王」にも、「昔、老駒の西に狙くや、顧みて予に告げ
て副く、彬罫の気、有形の状倭属“鰯なり。造化の始むる所、隙陽の裂ずる所の者は、蔭を罫と謂ひ、之を殖と謂ふ。
すう きわ よ
いえき か
数を窮め変に達し、形に因りて移易する者は、之を化と謂ひ、之を幻と謂ふ。造物者は、其の巧妙にして、其の功深
し、云々」などと造化という言葉が使われている。古代中国人たちの考え方としては、造化者は天であり、天が万物を
造ったと考えているらしいのであるが、先述の如く、その天を造った者に就いての研究成果は、寡聞にして、現段階で
は未見である。
恐らくは、卜笠が行なわれる以前に、宇宙の法則としての、謂わば宇宙の支配的な力としての「天」を古代中国人は
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しょうせいりょう ふうう
認識していたと想像される。然し、それはキリスト教的な天地創造の神とは異質のものである。数年前に向世陵・漏禺
りょう両
氏の著『儒家的天論』(斉魯書社、一九九一年十二月刊)という書物が公刊された。此の書は、執筆者の分担区分がは
っきりしていないが、興味深い書で、その中には、先ず「天人合一」は中国の伝統哲学の根本観念であるという所から
説き起こしている。又、天を祭るということは中国古代の各種の祭祀や儀式の中で最も重要なものの一つであった、と
も述べている。
右の見解に沿うて若干の検討を試みたいと思うが、先ず手始めに『論語』を見ると、『論語』の中には、孔子が天に
就いて発言している箇所が幾つか見える。
ようや えい れいこう なんし し ろ
「雍也第六」に、孔子が衛の霊公夫人の南子に会ったことを門人の子路が不愉快に思っていると、孔子は、自分が間
た しかん
違った行為をしたのだったら「天これを厭たん」(天が見捨てるだろう)と言った、とある。「子牢第九」には、孔子が
やまい とこ
重い病の床にある時、子路が門人を家臣に見立てて立派な葬儀が出来るように準備していると、孔子は盛大な葬儀の必
要は無いとして、門人を家臣に見立てるなどとは、「葎れ、講を饒かん。天を欺かんか」と立腹したという話が見え
る。「彊嵐第十一」には、可愛がっていた弟子の離滞が死んだので、孔子は「ああ、冠、諌を灘ぼせり(ああ天は私を
ようか や しこう
滅ぼした)」嘆いている。「陽貨第十七」には、孔子が、今後は言葉で教えることを止めようと言うと、子貢が其れでは
おこ ひぐくぶつ
先生の教えを継承出来なくなる、と言ったので、孔子は「天、何をか言ふや。四時行なわれ、百物生ず。天、何をか言
ふや(天は何も言わずに運行しているではないか)」と述べているのである。他にも幾つか例は有るが省略する。右に
挙げた「天」は、自然界をも人間をも支配する大きい力を指している。それは人間の行動を規制するほどの道徳的な力
を持っているかも知れないが、人間の苦悩や不運を救済するような事とは関わり無く存在している。また、孔子が宗教
じゅつじ
的信仰の対象として天を見ていたようにも受け取れない。『論語』の「述而第七」に、孔子の病気が重くなった時、子
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路が鶴りたいと孔子に願うと、孔子は「祷る理由があるか」と尋ね、子路が「講の言葉に、磁を上下の概橡に祷る、と
言っています」と答えると、孔子は盈うの祷ること久し」(丘は孔子の名)と言ったという記事が有る。徽褥は、天の
徽と地の樵だと解されているが、此の神祇は先の例に見える天とは異なると考えられる。
いせい
なお、『論語』には「天命」という言葉も見える。「為政第二」の「五十にして天命を知る」は有名な言葉であるが、
「拳再第十六」にも、孔子が「君子に三跡有り。天命を躍れ、赫罵を畏れ、聖人の読を畏る」と述べている。天命とは、
天が人間に与えた命令の意味である。人間は、天から与えられた使命を遂行すべく此の世に生まれて来ているのであ
る。現代的解釈の、運命または宿命という意味とは、少し喰い違ったところが有る。
『儒家的天論』には、天は人格化された至上神であり、また、宇宙の発生、或は宇宙の構成の中に位置づけられるも
のであり、天と人との問には、天命と人力、天理と人欲というような感応が存在すると見ている。更に、天の範疇は広
いため、或る人は神を指すと言い、或る人は地に対する自然界を指すとし、或る人は命を指すとしている、と説いてい
るのである。
天が、理とか心とかを意味するようになるのは、かなり後世のことであると推測されるが、古代中国人にとっては、
自然界に於ける天、そして地に対する天、として認識されたのが最初ではなかったかと推測される。
亀トの時代よりも孔子の時代は新しい時代になるから、孔子の天は、文献的にもかなり明確に把握できると思うが、
先述の如く、『論語』の中の孔子の言葉から、孔子の天は、自然界の天を意味していると考えられ、更に其の天に道徳
あざな
うしな
われ
の根拠を見ようとしていると思われる。特に門人の顔回(字は淵)を喪った時の嘆きの言葉「ああ、天、予を喪ぼせり」
じゅん
は、天が宇宙の支配者であるかも知れないが、人間の幸運の庇護者ではないことを物語っている。時代は下るが、筍
みは昊は人の寒さを繋が鵜に冬を軸めず、地は人鮎選憲を悪むが為に広きを綴めず・繋賎傭鷲忽触鱗たるが為に
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おこな や
行ひを綴めず。云々」(『筍子』天論篇)と述べている。天は、人間が寒さを嫌うからと言って、冬にするのを止めない
し、地は、人間が広くて遠いのを厭がっても狭くしたりしない、ということは、天も地も人間の意志を超えていること
を意味しているし、人間の幸運や利益を守るものでもないことを意味している。守らないのではなく、人間の幸運や利
益とは関係の無い、働きと力とを持つ存在なのである。
天地自然および人間世界を包み込む宇宙を考えると、何かが天地や宇宙の運行を支配していると考えられるが、古代
しん しんめい
の人々は其れを神とか神明とか呼んだのではないかと思われる。又、天に道徳的な意味が付与されると、神は至善なる
ものであり、聖人は至善なる人間とされ、神格化されるようになる。
「かみ神」という言葉は、中国の古典に幾例も見えている。白川静氏の『字統』の神の字の説明には、「神は颪徽、すなわ
ち自然神」とし、また、「神の観念の展開は、古代宗教思想の中心的な課題をなしている」と述べている。確かに宗教
思想と切り離しては神を考えることは出来ないであろうが、儒教に於ける神が謂わゆる宗教的な神であるかどうかは、
なお詳しく検討する必要が有るであろう。
はちいつ
いま さいし
『論語』の「八傍第三」に、「祭ること在すが如くし、神を祭ること神の在すが如くす」という言葉が有る。祭祀とい
ようや はんち
う儀式の対象が神と呼ばれているのである。また、「雍也第六」には、奨遅が知(智者の意味に解される)に就いて尋
セしん これ とお
ねると、孔子は「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂ふべし」と答えている。鬼は祖先の霊と解されるで
あろうが、いずれにせよ、右の神は祭祀による崇敬の対象になってはいるが、人間の個人的な苦悩や国家的危機の救済
等とは直接には結び付かず、謂わゆる宗教的信仰の対象としての神とは考え難い点が有る。
『しょきょう ぐしょ書経』の「虞書」の訊珊蝋」には、「八部、尭く響て鰍を相ひ奪ふことなくば、襯鷲以て秒せん」(八音は、八種
類の楽器の音をいう)という言葉も見える。ここでは、神と人とは同格である。
.『周易』に関する若干の考察 三七
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 三八
しん
『春秋左伝』にも「神」という言葉は幾例も散見するが、一例だけを挙げて置く。荘公三十二年の伝に、七月に神が
職に轡たという。竹添進一郎氏の『蛋藝』では、此の神は襯の声だと注している。此の神の声に就いて周の恵王
の問に答えた瞭史避が、「国の機に鍵らんとするや、昧徽蔭に隊る。其の徳臨馨みるなり。将に亡びんとするや、概又
者に降る。其の悪を齢るなり、故に、神を得て以て興るあり。亦た以て亡ぶるあり。云々」と述べている。此の続きの
記事には・饗の臣の暴が、「吾れ之を聞く、国擁に興らんとせば、民に聴く。将に亡びんとせば、概に聴く、と。
せいちまく いつ
神は、聡明正直にして壼なる者なり。人に依りて行なふ。云々」と述べたことが見える。此の神は、.人よりは高い位置
にいる神であるが、人を救済したり、人に幸運を齎らすようなこととは無関係に見える。
『周易』に於ける「天」という語の例は非常に多く、「神」という語の例もかなり見えている。「天」の例を挙げるな
らば、轍(けんいてん乾為天)≡≡の九五に、「独聾天に葎り。ガ鷲を見るに穫し」とある。此の天は上空に在る天を指すと考
てんこう すこ くんし みず つと や
えられる。また、乾為天の象伝には「天行、健やかなり。君子、以て自から強めて息まず」とあるが、此の天は、天体
さ
の運行を指していると見られる。
また、「郊副伝」に、「知れ赫凝は、天地と其の徳を合はせ、日月と其の卿を合はせ、四時と其の駅を合はせ、懸徽と
さき たが おく か たが しか いわん お
其の吉凶を合はせ、天に先だちて天違はず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違はず、而るを況や人に於いてを
や、況や鬼神に於いてをや」とある。此の大人は九五を讐えていると考えられるが、大人と天とを同格としており、鬼
神という言葉も見えるが、天と大人の行動とは相違しないと言っている。
「劉評・上」に、「搦に臨く、天より着を襟く。吉にして穫しからさることかし、と。彩の日く、棚は脇くるなり。天
の助くる所の者は藤凝り。人の助くる所の者は傲なり。云々」とある。錯簡説も有るが、齢構(かてんたいゆう火天大有)≡≡の上九
の亙辞の説明であって、天の助ける者は天道に従順なる者である、と孔子が説明したと解釈されている。
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また、鰍(鷹態鰍)===の蹴静に、「天の神道を観るに四時麟はず。聖人、神道を以て教へを設けて、天下腰す」と
あるが、此の場合、天の神道というのは、春夏秋冬の自然界の推移であって、且つ「神道」としているのは、其の運行
が、運行を支配する神の力に依って推移していると見ているとも推測され、其の神は謂わゆる人格神よりも寧ろ理、も
しくは宇宙の法則、乏いうような形で捉えられていたように推測されるのである。
四 『周易』の成立事情
えき なぞら よ びりん み ふ
『周易』の「繋辞・上」に、「易は天地と準ふ。故に能く天地の道を彌論す。仰ぎて以て天文を観、傭して以て地理を
察す。匙の撚に幽明の故を知る。始めを麟ねて、終りに癩る。故に死生の説を知り、精気は物を瀞し、遊魂は蛮を為
す、是の故に鬼神の情状を知る。天地と檸ひ似たり、故に翻はず。無、万物に腰ねくして、道、天下を澱ふ、故島避た
ず。藁物く行きて流れず、天を楽しんで鋼を知る、故に郵へず。云々」とある。右の引用文中の「彌論」は、あまねく行
き渡る、という意味である。大意は、『周易』は天地を標準にして作られており、天地の道を包括している。天体を仰
いで観察し、地勢を眺めて考察するから、目に見えないものも見えるものも知ることが出来る。物事の始めを探求し、
物事の終末に至る過程を反省するから、死生の理論を理解できる。純粋な元気は物を造り、さまよう魂は物を変化させ
るから、鬼神の状態を知ることが出来る。易に説く所は天地と似ているから、天地との差異は無い。易の知は、万物に
行き渡り、易の道は天下を救済するから、天下を過つことはない。どこにでも行動するが安易に流れず、天の道を楽し
み天命を知るから何も心配しない、ということを述べているのである。「繋辞.上」の、此の天地は、自然界を指して
『周易』に関する若干の考察 三九
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 四〇
おり、人間の存在を超えた大ぎな力を想定している。ただ、其の捉え方は、現実に此の世に生存している人間が認識し
得る範囲内での天地であり、且つ天地と人間とを対立させるものではなく、人間は天地に合致し、天地に包括されるも
のとして捉えられていると見られる。
また、『周易』の「繋辞・下」には、易の成立に就いて説いている。第六章とされる文は、「升曰く、轍堀は其れ易の
たい こと
門か。乾は陽物なり。坤は陰物なり。陰陽、徳を合せて、剛柔、体有り。以て天地の撰を体し、以て神明の徳を通ず。
云々」という言葉で始まっている。此の言葉に続いて、「寿れ易は、往けるを韓はして、藤れるを蕉劃bかにし、畷れた
かす かす ひら わきま げん じ さだ そな
るを微かにして、幽かなるを闘き、開いて名に当り、物を辮へ言を正しうし、辞を断むること則ち備はれり。云々」と
いささ
ある。此の章の総ての言葉を孔子の言葉と見るのは、些か躊躇させられるものも無いわけではないが、「往けるを彰は
す」という言葉に注目したい。此れは易が、過去の現象や体験に基づいていることを示していると考えられる。即ち此
の言葉は、過去の現象や体験から易が展開し、易の言葉(名)として成立したとしていると見られるのである。
第七章は「易の鍵るや、其へ膀ぎに於いてするか。易を作る者は、其れ麩蹴有るか」(憂患は、将来の災禍を憂える
意味)その他、『周易』の成立および内容に就いて説明した言葉が多凌見られるが、第十一章には「易の興るや、其れ
臓の末世、職うの盛徳に翌るか。妃鵬髭繰との事に当るか。燈の故に其の舐祠鰐し。解ぶむ者は聯らかならしめ、搦き者は
かたむ すた おそ しゅうし よう とがな
傾かしむ。其の道甚だ大にして、百物廃れず、催れて以て終始し、其の要、各元し。此れを之れ易の道と謂ふなり」と
ノ
ある。成立年代の確定できない文献に就いて、其の記事を其のまま受け取ることは無謀であろうが、然し、毅の末世
(紺王の頃)・周の盛徳の時代(文王・武王の頃)に、今に伝わる『周易』が成立していたことを推測させる。「其の辞
き ぐ
危し云々」の大意は、「文王の編纂したという易の言葉には、状況を危惧する言葉が有り、危惧する者は安心させ、物
事を容易だと悔る者は倒してしまう。此の易の道は非常に大きくて、あらゆる物を駄目にすることなく、いつも慎重に
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行動するもので、要するに、何の失敗もないものであって、此れが易の道と呼ばれるものである」ということである。
がた
『周易』一書の編纂意図は明確に把握し難いものが有ると言えるが、六十四卦の卦辞はそれぞれに独立していながら、
同時に轍…≡から塩≡≡へ・そし筏蛭≡=から鶉≡≡へ、更に需≡≡か臥諺≡=へというように、其の展開には繋がりが
ぜん
きまい
ひ
ぜいこう
有り、展開の順序は定まっている。また、嘘噴≡=一と責一三=と対し、両卦は漸≡≡と帰妹=≡一とに対している、という
ように、先の卦と後の卦とが関連づけられることもある。従って、『周易』一書が一つの物語を構成するように主張す
る説も有るらしいが、筆者は先人の多くの経験から得られた原則を、誰かが集大成し体系化したものであろうと推測し
ている。
しゅ セ
蛇足ながら、本項の始めに引用した「繋辞・上」第四章に就いて、南宋の朱煮の『周易本義』の注には、「易は、陰
み
陽のみ。幽明・死生・鬼神は、皆な陰陽の変にして、天地の道なり。云々」とある。死生を陰陽の気の離合聚散と解釈
したものであろう。此の死生観は、儒教の立場からは極めて一般的な見方であろうが、朱子は人間の生命もしくは死生
を易の理で解明している、と考えられる。
五 吉凶禍福
亀トの時代から始まって、『周易』成立の時代も、其の後も、占い(卜笠)によって求めるものは、個人でも団体で
も、吉と福との未来であり、避けたいものは凶と禍であったのではないか、と考えられる。そこで、先ず吉凶禍福の文
.字の意味から調べて見よう。
『周易』に関する若干の考察 四一
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 四二
「吉」は、衝灘の諾鰍の『諾蹴鰍≠』に拠ると、「吉は、善なり」とある。善い結果が得られることを、吉というので
しょうげん
ある。瀟元氏編『周易大辞典』(中国工人出版社、一九九一年)には、『周易』に、吉・中吉・終吉・貞吉・大吉・元吉
・引吉などが在るとし、どれも善と読めて、福祥・吉祥の意味だ、としている。「凶」は、『説文解字』に「凶は悪なり。
うが こうかん かたど
地の穿たれて其の中に交陥するを象るなり」とある。悪い結果になることを、凶というのである。右の辞典には、『周
かおう
易』に、凶・終凶・有凶・貞凶などが有るとし、どれも悪と読めて、禍映・凶険の意味だとしている。「禍」は、『説文
たす
解字』に、「禍は、害なり。神の福せさるなり」とし、「福」は、『説文解字』に、「福は、祐けなり」としている。
[注]現今の日本や中国の文字学者には、『説文解字』の説を否定的に扱う学者が少なくないが、筆者は一概に否
定し得ないとする立場を執る者で、敢えて右に引用したが、『説文解字』の吉凶禍福の解字の問題に就いては、こ
こでの言及は避けたい。
中国古典に、「吉」または「吉」を使った語が見えるのは、『周易』、『春秋左伝』、『書経』、『儀礼』、『礼記』、『詩経』
たん しょう こう へん
等である。中では、『周易』に其の例がかなり見えるが、「繋辞・上」第三章に、「象は、象を言ふなり。交は、変を言
ふなり。吉凶は其の先織を言ふなり。像叡は其の山醤源を言ふなり。暢かしとは善鮎避ち魚襟ガなり」とある。(悔吝の
字義は、間違っていたことを後悔して口惜しく思う、の意)。此の「吉凶は其の失得を言ふ」は、其の占いに依って得
た卦辞が、悪い結果(凶)か善い結果(吉)かを示していることだ、としている。いずれにせよ、現実世界に於ける境
遇の吉凶を指していると見られるが、神仏から与えられる吉凶のような宗教的な意味での吉凶とは受け取り難いのでは
あるまいか。いま腕嬢甲骨文のト辞は、戦争に勝つか負けるか、狩猟の成果が有るか無いか等を占っていたことと関連
しているとすれば、吉凶と得失とが結び付いても不自然ではあるまい。それは、兼好法師の『徒然草』に見える「驚鶴
そう
の想」のような考え方に依る吉凶、人々が吉とするものが真の吉ではなく、凶とするものが必ずしも真の凶ではない、
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よ あ
とするような吉凶ではなく、,現実に於ける境遇の善し悪しを吉凶とするのは、宗教的信仰の立場とは言えないように思
う。
儒教とは思想的立場を異にするが、『荘子』の内篇「栽蹴出第四」の終わりに、孔子が楚に行った時、掛櫛興が孔子の
所へ来て話した言葉の中に、「福は羽よりも軽し、着を騨するを知ること鄭し。禍は地よりも重し、之を避くるを知る
あ
こと莫し」(「之を載ぐるを」と読む説も有る)という言葉が有り、吉凶とは直接結び付かないが、禍福に就いて特色有
こうそうそ
る見解を示している。また、『荘子』の雑篇「庚桑楚第二十三」(雑篇が荘周の言葉を伝えているかどうかは暫く措き)
えいせい けい よ いだ な しか
に、老子の言葉として、「衛生の経は、能く一を抱かんか。能く失ふこと勿からんか。能くト笠すること無くして、而
も吉凶を知らんか」、或は「静れ蹴より汝に告げて剛く、能く懸予たらんか、と。児子は動けども瀞す所を知らず。行
ゆ み こうぼく しかい ごと かく わざわい ま さいわい
けども之く所を知らず。身は槁木の枝の如くにして、而も心は死灰の若し。是の若き者は、禍も亦た至らず。福も亦た
かふく いずく
じんさい
き来たらず。禍福有ること無し。悪んぞ人災有らんや」とかの言葉が有る。右は儒教とは異なった無為自然の立場からの
吉凶禍福観である。
『荘子』の「内篇・養齢卦第三」の最後の説話は、老子(巻職)が死んだ時、薫鬼という男が弔問に行き、三度号泣
して退出した。門人が「先生の友人なのに、余りに簡単な弔問の仕方ではないか」と言うと、秦失は「そうだ。始めは
じんぶつ たた
老聴を大人物だと思ったが、そうではなかった。老人も若者も彼の死を嘆いている。弔問に集まった人々は、讃えずと
もよいものを讃え、嘆かなくてよいものを嘆いている。老駒が生まれたのは、ちょうど生まれて来る時だったからで、
死んだのは、ちょうど死ぬ順序だったからだ。時に安んじ、順序に従っているなら、哀楽が入り込むことなど無かった
ノ
はずだ」と答えている。『荘子』には此の説話の終りに、「指窮於為薪、火伝也、不知其尽。」とある。此の語句の解読
きわ たきぎ ゆび つた
は区々であるが、小柳司気太氏は「窮まるを薪たるに指さす、火の伝はるや、其の尽くるを知らさるなり」と読み、「薪
『周易』に関する若干の考察 四三
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 四四
は尽きることが有るが、其の燃えた火は薪より薪に伝わって消えない。生を養う者も同じで、生死有無を混同しないか
ら、死も生と同じ事で、意に介さない」と解している。「為」には「つくる」の他に「進める」という意味も有る。市
川安司氏は「指は薪を為るに窮し、火の伝はるや、其の尽くるを知らず」と読み、「指で薪を取るには限界があるが、
でんヱ
火の伝播は果てしなく続く」としている。右の解釈の問題点は「指窮於為薪」の解読であろう。特に「指」を如何に読
ゆび
むかが難関である。もし、指を「ゆびさす、かぞえる」の意に解して、小柳氏の読みを改めて「薪たるものを指さし窮
のこ
むれども」と読めば、意味がより明瞭になるのではないだろうか。此の説話は、肉体は滅びても生命は遺っている、と
主張しているように思われる。即ち、人間の生命と死後の世界との関連を根抵とした論である、と考えていいのではな
いかと思う。
六 生と死
古代中国の人々が、吉凶を得失だと受け止めていたとすれば、生命の得失が吉凶に繋がっていたと推測される。即
ち、生き長らえることが吉で、死ぬことが凶ということになるであろう。そこで想起されるのが「不老不死」という言
葉である。白居易(楽天)の「歎老」と題する詩の詩句に、「人生百に満つるは藤なり。長く歓楽することを徐ず。講
か講ふ。天地の心、千紺を魯離に纏ふることを。吾れ聞く、圓を善くする者、今古、職讃藍秘す。万病、皆な潅すべ
ただ お くすり
し。唯、老いを治する薬無し」とある。
更に不老不死に関連して、古代中国人の生と死とに関する考え方を見ることにしたい。
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どうきょう
そこで、中国の民間に浸透している宗教である「道教」では、生と死とを如何に考えているかを概観しよう。
びんちてい りようせい
先ず、閾智亭・李養生主編『中国道教大辞典』(台湾東久企業有限公司、一九九六年刊)を参考にして、「道教」の教
義の基本的な概念に就いて見ることにしよう。道教は勿論、それが宗教として確立したのは儒教や仏教よりも後のこと
しんせん
であるが、古くから中国の民間に根を下ろした宗教である。道教では、修行して、不老不死の神仙に成ることが理想で
ある。また、道教の仙人は現世に存在しているものだから、生命は絶えないことになる。然しながら他方では、生死に
かいたい
就いては特別な考え方をしている。「人間は、死んでから、懐胎して、形が出来て、人となり、幼児から、老人となり、
きょ しん か
死んで行く」という風な生死の型を繰り返すというのである。即ち「虚は神に化し、神は気に化し、気は血に化し、血
は形に化し、形臨に化し、嬰感聾に化し、童は爽e化し、少は構に化し、壮は巻に化し、老は殖に化し、死は衡た化
きょ な しん りんね
して虚と為り、虚は復た化して神と為り、云々」という具合に繰り返すのである。仏教の輪廻にも似ているようである
たきぎ
が、生前死後を通じて生命は不滅であり、『荘子』の、薪(肉体)は尽きても炎(生命)は滅びない、という説にも似て
いる。
璽徽主編の『中華道教大辞典』(中国態耳科学出版社・一九九五年刊)に拠・て・道教の昊Lを見ると・①人格
神、②自然界、③必然性を帯びているものを形容するのに用いる、としている。又、「天命」は、①人格神である天の
命令のことで、起源は古く、原始宗教の観念と関連する。②自然界の天の規律、自然界の運動の法則、と説明してい
る。更に、「神」に就いては、神と、心・意・性は、時には通用して、人の意識・精神・大脳の記憶と思惟の働き、更
に一歩を進めて意識の人格化と凝集体とを指している、としている。
せい な み
『中華道教大辞典』には、「生」は、即ち生命存在の意味だとし、「道教の宗旨は、鍛練と養生とを通じて、生ま身の
身体を仙人と成し、命を延ばして長生きすることだ」と説明している。此の辞典には、「生」に対応する「死」の説明
『周易』に関する若干の考察 四五
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 四六
は見られない(外丹黄白術の死の項目などは有る)。
かつ
『中国道教大辞典』には、「死」に就いても説明している。即ち、①本来は生物が生命を失うことで、「活(いきる)」
き
と対している。道教では人は死んで鬼と為り、鬼は霊が有って道に帰する、と謂う。(道教の「道」は、天地万物に先
立って生まれた、宇宙の根源のことであるとする)。②死とは、受けている身(肉体)を捨て去ることである。それは
しゅみょう
二種類有って、一つは寿命が尽きて死ぬ場合、もう一つは進んで死のうとする場合である。寿命が尽きて死ぬ場合も、
寿命は尽きても福は尽きない者、福は尽きても寿命は尽きない者が有る。進んで死のうとする場合も、自己の本分を守
き
らずに自殺する者、不幸にも他人に殺害される者が有る。③人生の過程に於いて、不幸にも不治の病を得て、効く薬が
あ
無くて治らず、或は思いがけない危険に遭って、生命を失い、或は自分の天寿が尽きて、肉体の生理機能が自然に停止
してしまう。以上の三種の状況の一つが有りさえすれば、すべて「死」と呼ぶ。概ね以上のように説明している。なお、
「死生」に就いては、予蹄が死に就いて問うた時、孔子が「恭だ郵を知らず、磯んぞ死を知らんや」と答えた話を引い
て、生が有るから死が有り、死が無ければ生も無いのだから、性命の大事を知ることは死生を重んずることで、死を知
ろうとするならば、必ず先に其の生を知れば、自然に死を知ることになる、と説明している。
せんしん
右の孔子の言葉は、正確には『論語』の「先進第十=第十二章の、
諜、惣概に転へんことを問ふ。孔曰く、飛だ人に薪ふること解ず・識んぞ鰺く惣に事へん」・劉M・轟へ
て死を問ふ」。曰く、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」。
※傍線の「日く」は、何曇集解・邪禺疏の『論語注疏解経』(十三経注疏所収)に拠る。朱烹集注本には無い。
さ
の子路(季路)と孔子の問答を指す。此の孔子の「未だ生を知らず」の解釈は、孔子自身が知らないのか、子路が知ら
ないのか、という問題が有る。「孔子のような立派な人物でも死までは知らない」と解するか、或は「子路は生すら知
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らないのに」と解するか、ということが解釈の差になる。此の他に「先進第十一」には、孔子が「蹴や齎で私と苦労し
た門人は、いなくなった」とか、季鷹予の間に答えて「門人に、艦國という学問好きがいたが、不幸にも短命で死んだ」
われ ほろ
とか、顔回の死に際して「ああ、天、予を喪ぼせり」と歎いたとか、門人たちが顔回を厚く葬ろうとした事に反対した
え きょう
とか、子路のような男には普通の死に方は出来まい(其の死を得ざらん)と言った事とか、孔子が匡の土地で危ない目
に遭った時、遅れて来た顔回に、「お前は死んだかと思った」と言った事とか、幾つかの死に関する孔子の言葉が見ら
れる。ただ、死後の世界に就いて言及したものは見られない。
『論語』の「斌徹第八」第七章に、孔子の門人の鰯獄の言葉が記録されている。
鰯静曰く、卦は以て弘毅ならざるべからず、俄重くして道遠し。α以て酸れの任と捨す、かた重からずや。死し
や
て後に已む、亦た遠からずや。
つまり、仁を自分の任務として、死に到るまで努力するのである。曾子(曾参)の言葉ではあるが、儒教の立場では、
人間の生命は此の世限りのものと考えていたことを示している例である。
呼鍵昧氏の『中国人的死亡心態』(上海文化出版社、一九九三年刊)は興味深い書であるが、同氏の論の基底に在る
考え方は、「中国人の生きる知恵の最も根本的な特色は、死亡に対する意識的な回避をすることである。」という考え方
であって、「中国人の人生観の中には、死亡ということが無い」としている。同氏の立論の主旨を略述すると、「中国人
いま いずく
さかのぼ
みなもと
の数千年来の生きる知恵の思想の源は、孔子まで一筋に遡るることが出来るし、孔子の”未だ生を知らず、焉んぞ死を
知らん”は有名な生存観である。総遊恥后の整った学説の基礎は、謂わゆる”都識説躍即ち生存することが苦難である
という理論である。仏教の説く苦しみ、最も根本的で深刻なものは、命が亡びる痛苦である。実際、死亡はすべての悲
しみと苦しみの最も深刻な根源であり、中国化された仏教では明確に具体化されて、中国の詩人が”人生は幻の如く化
『周易』に関する若干の考察 四七
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 四八
つい まさ くうむ き
し、終には当に空元に帰すべし”等と嘆息しているのは、すべて此の種の生きる悲しみの体験を詩的に解釈したもので
ある。」と説いている。
しょくさい
また、何顕明氏は、「キリストは人類を救済し、人が餓悔し瞭罪することを求めたが、それは、人が死後に復活した
時に、神性を得て、天国に入り、不朽の生命を獲得する為である」とも述べている。更に、「孔子は、仏祖(釈迦牟尼)
・プラトン・キリストとは、はっきりと、同じ(思想)ではない。孔子の哲学は、死という現実から出発したものでは
なく、世俗的な生命それ自身から、現実の感性的な生命の愉悦と責任とから出発している」と述べている。また、「『易
伝』の中心の主旨は、宇宙間に充塞している自然の生命を肯定すること、つまり此の自然の生命を良しとし離れ難いと
する基礎の上に一つの総体的な宇宙観念を形成している。”天地の大徳を齢と日ふ”“購鰍、之れを盛徳と謂ひ、罫郵、
之れを握と謂身”大なるかな難、万物聲りて始む。鷹ち天を紛ぶ”。」とも述べている・何顕明氏は・中国人の意識
の中に、死に対する悲観が隠されており、死は永遠に徹底的に否定する意味を持っているとしている。また、天災や人
禍によって古代中国人が極めて短命であったことが、この様な死生観を引き出したと見ており、且つ此の中国人の死生
びょう
観の中へ宗教が入り込む余地は無い、と見ている。なお、同氏は、中国人の信仰が大雑把で、例えば、一つの廟の中に
かんこう まつ
孔子・観音・老子・関公を一緒に祀っても何とも思っていないことを挙げている。
ど う
先述の、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という孔子の言葉が、孔子自身が死を知らないということか如何か
に就いて、解釈上の疑問は有るものの、儒教に於いて、死と死後の世界とを不可知的に扱って来たことを示す例にはな
るであろう。
古代の中国人にとって、また、儒教に於いて、人生の終末は死であったし、彼等が抱いた世界観は現実世界に於ける
ものであった。卜笠は、過去の経験を基礎として、その中に見出した法則性のようなものを基礎として考えられたもの
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きぼく ひび
であろう。全くの推測に過ぎないが、恐らくは亀トですら、亀甲の騨割れに経験的に判断の型を考案したのではないだ
ろうか。何回かト笠をやり直している点からそういう推測を試みたくなるのである。
卜笠を行なうのは現在であるが、卜笠に拠って知ろうとするのは未来である。但し、其の未来は、現在から死までの
こと
時間的な距離を指している。ト笠のト笠たる所以も、其の点にあると考えられる。そして、其れは宗教とは異なるもの
と言えよう。宗教ならば、人間の死を起点として、現在から過去(誕生)までが人の一生涯であり、更に死後の世界ま
で其の生涯が延長されて行くはずである。卜笈による未来予知のみならず、儒教も其の点では宗教の範疇には入り難
い。宗教と認め得る道教の教義と儒の思想とを比較しても、此の差異は歴然としていると言えよう。
七 佐藤一斎のト篁論
こ よ
東京都立中央図書館蔵(河田文庫旧蔵)の佐藤一斎著『周易進講手記』という本文二十七丁の写本が有る。紙磋りで
簡単に綴じてあって、いかにも覚え書き風のものであるが、成立年代は不明である。しかし、一斎七十歳の、天保十二
年(一八四一)十一月二十六日に、一斎は特例として幕府の儒臣と成った。(佐藤一斎は、安政六年〈一八五九〉に八
十八歳を以て没している)。記録では、天保十三年四月、特旨を以て、将軍の前で『易経』の講義をしたと謂われる。
ふくれき めつけ
一斎の日記『腹暦』を見ると、四月廿四日に「進講御沙汰、御目付申越」とあり。廿六日には「進講」とあるから、多
分、此の時のことであろう。そして、「進講手記」という題名から、此の時の進講の草案ではないか、と推測される。
『周易進講手記』の内容は、「周易」「四徳之説」「ト笠」「吉凶悔吝」「四聖之易」の五章から成り立っている。一斎は、
『周易』に関する若干の考察 四九
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 五〇
『周易』をト笠の書と見るのも、道義の書と見るのも、天の道よりすれば、『周易』の一面しか見ていないという見解を
示している。此の『周易進講手記』は、全文が『佐藤一斎全集・第八巻、欄外書類⑤』(明徳出版社、一九九六年刊)
に収められており、注は筆者が施した。なお、同書は和文を以て記されている。
そこで、『周易進講手記』の第三章「卜笠」の章に示された佐藤一斎の見解を採り上げて見よう。
ふっき
一斎は、卜笠の起源に就いて、「上古の民が事に当って自分で判断しかねている時、伏義が、迷っている者の為にト
ぜいほう
笠して正しい道を示したのが起源だ」としている(伏義は上古の帝王の名である)。ただ、一斎は「笠法によって得た
かこう
卦麦を判断するのは容易ではなく、上古の淳朴な民には難しいことであっただろう。」と考えて、「上古の民が諸事の処
理に忙しかったと言っても、するか、しないか、の二つの方法が有るに過ぎず、天地の変化にしても奇数の交(陽交一)
と偶数の交(陰交皿)とに過ぎないのだから、占う場合には、奇数ならば実行、偶数ならば中止、というような判断の
仕方であっただろう。後世になると、占法は複雑になって来たが、其の判断は、するか、しないか、の二つ以外には無
い。また、卜笠というものは、卜笠をすることに意味が有るのではなく、迷っている心を決断させる為のものである」
と主張する。
くんし
一斎は、「心に考えて決断するなら、心がト笠であり、心に考えて決断出来ず、君子に問うて決断するなら、君子が
ト笙である。後世の、知識が発達して理非の判断が出来るようになった者は、事ある毎にト笠の力を借りる必要は無
しんめい
い。自分の考えや、師友の意見でも決断しかねる場合は、卜笠に依って神明に尋ねるべきである。神明とは何か。それ
りょうち
は自分自身の神のことで、良知のことである。六十四交に依って調べれば、人の身の上に起こる問題が数限りなくて
あ はま
も、どれかの交の内容に当て嵌らないものはない。例えば、訴訟の問題が起こって、勝とうとする心が有れば、良知の
し
神明が暗くなってしまうが、易の占いに拠って交を得て、自身で反省すれば、自分の神明に叛くことが無い。著に拠っ
Page 27
て占うべきだという考え方もあるが、神明の働きが無ければ、著の結果が人に通ずること無く、人に良知が無ければ、
著の結果から得られるものは無い。著が告げる占いの結果は、天の神明であり、神明がその場に現れるものが人の良知
である。だから、易を学ぶ者は、卦交を良知によって理解し、良知を曇らせる所が無かったならば、著の結果を借りる
へん
ことは無い。此れが心でト笠することである。著に依るト笠に偏して道理を尊重しなかったり、道理を尊重して著に依
かたよ
るト笠を嫌うのは、偏った見方である。天地広大の易の道ではない。朱子のト笠に対する考え方は、人間の知恵に依ら
てい し
せん
ずに天命に一任するという気持ちであるが、平生のト笠に就いては説明不十分なところが有り、程伊川の場合は、平生
こま
のト笠に関しては得るところが多いと言っても、細かい点にこだわっていて、天の道と神明とが結び付いた微妙な境地
には説明に欠けたところが有る。いま私(一斎)は、昔の立派な学者の説ではなく、自分の新しい意見を開陳する次第
である」と述べている。
『周易進講手記』の「卜笠」の章の次の章の「蔀殴う慨剖」に、一斎は、『周易』の「辮諏・上」の「吉凶とは失得の
禁aなどを引用して、後世になると、吉を鼎誇(良い獲し)と見て福の義とし、凶を築ど見て禍の義としているが、其
れは四聖(儂霧・妃甥・職う備・指彩)が易を作った本意を知らないからで、「得」は道を得ること、「失」は道を失うこ
とだ、と述べ、更に、得失に依って吉凶が有るのではなく、吉凶が得失を顕現するのだとしている。また、程伊川が
こせき まさ
「卜笠は古昔、将に以て疑ひを決せんとす」と言ったように、こうしたら福が有るか、こうしたら禍が有るだろうか、
と占うことではない、と一斎は述べている。一斎は、易に依って占うことは、道理が如何かを求めるもので、報応・禍
ふしゅく れいばいし たぐい
福を調べる巫祝(霊媒師)の類ではない、と主張する。
くみ
こういう点から見ると、一斎は、朱子にも程伊川にも与しない立場のようではありながら、易を道徳の書とした程伊
川の見解に近い考えを抱いていたように見える。
『周易』に関する若干の考察 五一
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 五二
じんりょ さくい い あら かこう
「卜笠」章の原文を挙げると、正しい占いの結果に就いて、「人慮の作意より出でたるに非ず。天命の自然なり、卦交
にあらはるΣ所、此の乱籍ありて、哉鹸ぽ鳳鰍して爽しく齢はず。匙れ徽隙の教へなり。神明は即ち我が心の2琢矩なり、
み あ こ し
故に千万人、皆な同じ」と述べ、また、「天地の神明、人に在りて是れを良知と云ふ。物に於いては著とす。著の徳、
えん しん ぜ ひ
円にして神なるを以て、よく神明の徳を人に通じて是非を良知にわかたしむ。〈中略〉著の告ぐる処は、即ち天の神明
のぞ みず ママ
なり。神明、臨む処は、即ち人の良知なり」と述べており、更に、「易の卦交、示す処によらずして、自から想像・憶
あか ともしぴ しょうけい か
断せんと欲する者は、日光を捨てて明りを燈にとり、良知によらずして小慧を行ふ者なり。故に其の事を其の卦に考
えき
ふ。是れ易を学ぶの正法なり」と述べている。
一斎の見解の特色は、もし正しく占った結果であれば、誰が占っても結果は同じだ、としている事と、占いは神明の
告げるものであり、神明とは心の良知である、としている事である。「良知」という言葉は、『孟子』から出ているもの
おうようめい
であるが、王陽明の学説の影響を感じさせる言葉である。神明は良知、良知は神明という説明は、其れなりには理解で
きるものの、「天の神明」「天地の神明」という語も用いられており、著に現れるものが天の神明で、其の場に現れるも
のが人の良知というが、一斎のト笠観による神明の意味に就いては、明確に説明されてはいない。
しせいのえき てんしん じんぽう
此の『周易進講手記』の第五章「四聖之易」には、「著は、天神を人へ告ぐるの使ひなり」とか、「人謀・師君の及ば
ざる所は、神に問ふの道あるべし」などの言葉も見える。
さて、『周易進講手記』以外の一斎の書に於ける一斎の見解を見ると、『周易進講手記』成立以前に一斎が書いた漢文
げんしろく
の随筆の『言志録』(文政六年十二月、一八二一二、一斎五十二歳までには成立)には、「天」「造化」「鬼神」「神」など
の語が見える。即ち
たいじょう けい
太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。(第二章)
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み み こと おこな
静かに造化の跡を観るに、皆な其の事無き所に行はる。(第十七章)
きしん あつ
酒の用に二有り。鬼神は気有りて形無し。故に気の精なる者を以て之を聚む。老人は気衰ふ。故に亦た気の精な
る者を以て之を養ふ。〈下略〉(第五十五章)
せい これ う くかく すなわ
性は諸を天に稟け、躯殻は諸を地に受く。天は純粋にして形無し。形無ければ即ち通ず。乃ち善に一なるのみ。
地は駿雑にして形有り。形有れば即㌦縦ぴ。故に善悪を兼ぬ。地は加と鰺く天に蜘けて以て功を成す者、風雨を趣
こ
こし以て万物を生ずるが如き、是れなり。〈下略〉(第百八章)
せいさ ち を よく ま
人の生気は、乃ち地気の精なり。故に生物には必ず欲有り。地は善悪を兼ぬ。故に欲にも亦た善悪有り。(第百
十一章)
きまうおく しんこう
胸臆虚明なれば、神光発す。(第百六十一章)
じもく すべ しんひき たい
耳目手足は、都て神帥ゐて、気従ひ、気導きて、体動くを要す。(第百六十二章)
人、舞蹴に隣れば惣概に齢りて、以て蔭を麗ふ。い硫醤誠を以て祷らば、あ麟は以て職を徐ぺし。鴛れども狸ほ麗ふ
およ すう すうひ あた たと
なり。凡そ天来の禍福は数有りて、趨避すべからず。又、趨避する能はず。鬼神の力、縦ひ能く一時之を穰ふと
つい まぬか
も、而も数有るの禍は、童に免るる能はず。〈下略V(第二百一章)
轍、搦を以て知るは、良知なり。噺、鰍を以て静くするは、麟う鰐なり、乾坤、赫さ響紛ぺらる。知能は一なり。
(第二百四章)
〈前略〉静の徳は、畷にして徽。故に其の七を七にす。鈴の徳は、捕以て律。故に其の八を八にす。七を用ひて
八を求め、九と六とを得て、以て吉凶悔吝趣ぐ所を撫す。凡そ之れ魏理の穂なり。狸り易の鴛りと瀞すのみなら
すうロ ま み
ずして、万物の数も、亦た皆な此れを越えず。(第二百四十六章、『言志録』最終章)
『周易』に関する若干の考察 五三
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 五四
右に挙げた章以外にも、天や神明などの語の見える章は若干有るが省略する。右の例の「神」は、人間の存在を超えた
者の意味にも、人間の体内に宿る精神の意味にも用いられているように考えられ、明確な定義の下に用いられていない
ように思われる。
「言志後録』(文政十一年九月九日起筆、天保八年、一八三七、に成立か。一斎六十六歳)には、天や神明に関して、
特に論じた章は無いように思われる。ただ、次の章などは特色有る見解というべきであろう。
物に蜘椿有り、人に殖郵有り。即ち齢齢の暴なり。孫ぐ知るぺし、躯轍は匙れ地、性命は是れ天なることを。天
いま かつ なん た しょうそくえいきょ
地は未だ曾て死生有らず。即ち人と物と何ぞ曾て死生有らん。死生栄枯は、只だ是れ一気の消息盈虚なり。此れを
ちゅうや
知れば即ち昼夜の道に通じて知る。
「生生の易」は、絶えず生成変化する易の理を指し、人間の肉体は地から、精神は天から受けたとしている。そして、
そく み か
死生や栄枯は、気の消滅と増殖(息)、満ち欠けなのだとして、此れが分かれば、死生が昼夜の道に通ずることが分か
でんしゅうろく
る、としている。昼夜の道という語は、もともと『周易』の「繋辞・上」に見える語であるが、王陽明の『伝習録』
しょうけい
には数ヶ所見えている。例えば、同書・上巻に、瀟恵が死生の道を王陽明に尋ねると、「昼夜を知れば即ち死生を知る」
と答えており、また、「昼夜の道」という語も使っている記事も有り、一斎が『伝習録』に触発された可能性も高い。
一斎の記述で、死生と天地とを「気」を媒介として結び付けている点に注目すべきである。
『言志晩録』(嘉永二年、一八四九、二月に成る。一斎七十八歳)になると、
えき こ ちゅうきヤく し しょ
易は是れ性の字の註脚なり。詩は是れ情の字の註脚なり。書は是れ心の字の註脚なり。(第四十五章)
天を以て感ずる者は、雇麟の知なり。天を以て動く者は、恥戦の鱈なり。(第八十三章)
野卿の心は、即ち天地齢齢の心なり。草木を靴郵し、飯戯勅を飼養するも、かた犠、此の心の掴なり。(第百八十
Page 31
八章)
などの言葉が見える。『言志晩録』は、易の卦交に関する感想や、兵法や政治に関する感想が多い。従って、『言志後録』
と同様に、直接、天や神明を論じた記事は無い。
げんしてつろく
『言志垂録』(嘉永六年に成る。二斎八十二歳)には、
こえき ふく
けず もと
朱文公、易に於いては古易に復し、詩に於いては小序を刷る。固より是れ巨眼なり。〈下略〉(第八章)
麟から鍵がず。之を天に郭ふると謂ふ。(第百六章)
畷遡は、散て匙れ吉凶惚剖にして撰なり。人情は、都て是れ国風堕騨にして詩なり。〈中略V即ち知る、人道は
りくけい お これ つ
六経に於いて之を尽くすを。(第二百二十章)
水火は劉伽なり。民は、水火に非されば、即ち生活せず。水火は、又、鯉く人を轍膝す。天地の罫総の緻、全く
水火に在り。(第二百四十五章)
などという言葉が見えるが、やはり天や神明に就いて具体的に述ぺた記事は無い。ただ、晩年の著述であるだけに、生
死に関する一斎の見解はかなり述べられている。
以上、通称「言志四録」を概観したが、一斎が天や神明を如何に把握していたかに就いては、余り明確には出来なか
った。また、『言志録』は、執筆開始が、第一章の末尾に記されているように、文化癸酉五月念六日(文化十年五月二
十六日、一八=二、一斎四十二歳)であって、欄筆まで約十年の歳月を経ているから、「天」や「神」に関する記事が、
『後録』『晩録』『垂録』より多く見えることは無理も無いと思われるし、また、成立年代は不明であるが、一斎の著し
た十巻六冊の『周易欄外書』が有り、『言志録』以降は、此の『周易欄外書』の著述に易に関する研究の精力を注いた
とど
結果、「言志四録」には卦交に就いての見解が幾らか見られるに止まったのではないかと推測されるのである。佐藤一
『周易』に関する若干の考察 五五
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(}九九八・一) 五六
斎の嗣子(三男)の巖・佐藤楯(明治+八壬ハ月没、六+四歳)の著した「皇考故儒員佐薩郡行状」の一節に・冥
の著述は、即ち大抵は震ピ廊す所にして、毎夜、隙熾箋、襟を正して馨し・或は姦に至りて轡聾く・其の
馨する・と此の如し。箏の緻に於ける、最も周易に轡。周易欄外圭早巻・啓蒙欄外豊巻・図童巻象す・L
と記している。即ち一斎が、晩年に至るまで易を好んでいたことは確かであろう。
八 一斎の死生観
いわゆる
論題が、本稿第六章の「生と死」に戻ってしまうのであるが、一斎の所謂「言志四録」を採り挙げた以上、「言志四
録」に於ける一斎の死生観に就いて略述して置きたい。
先ず、『言志録』第百九十八章を見ると、
此の心、劉,黙嚇にして、壁難はり裂貯つ。熟たして鼻よりして豪得たるか・愛郵の前・此の心・剛
れの処に、響せしか。吾が撃るの麗、此の心、何れの処に・盤麟するか・果たして鍵有るか・無きか・趨
そうここ りんりん みず おそ
想此に到れば、凛凛として自から蜴る。吾が心、即ち天なり。
だいがくもん
とある。「霊昭不昧」は、王陽明の『大学問』に見える語であるが、心の霊妙な働きを形容している。一斎は、自分が
生まれて来る前に「心」は何処に在ったのか、自分が死んでから「心」は何処に行ってしまうのか、「心」に、生きる
とか死ぬとかいうことが有るのか、と問い掛けて、自分の心は「天」であると悟っている。天と言うのは、此の世に生
み もと
を稟けた人間は、皆な天命に依るものだという儒教の考え方に基づくものであろう。即ち、天命を受けて此の世に生ま
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れた人間であるから、其の心は天と同じだ、というのである。一斎は、天に対して、人間を始め、万物を支配する宇宙
の法則であると漠然と感じていたように推察されるが、心と肉体的な生命とは分けて考えていたようである。そして、
すなわ みち
一斎の考え方は、やはり、『伝習録』上巻に見える王陽明の「心は即ち道、道は即ち天なり。心を知れば即ち道を知り、
天を知る」という言葉などに影響されているように思われる。
『言志後録』第二十七章に就いては、先に述べたので言及はしない。同じく『後録』の第九十九章には、
古鑓硫聯、罫蟹愈まず。精気物を瀞すも、天地栽だ鶴て一拗を尊さず。潔菰変を為すも、天地未だ嘗て一気を灘
ぜず。
とある。此の「天地」は、宇宙の法則、乃至は支配者、の意味で用いられているようである。つまり、天地が物を作っ
ても、物を消滅させても、天地間の気に増減は無いとしているのである。気を受けて、人が此の世に生まれるとするな
らば、其の気は人の生命に他ならず、生命は肉体以前の過去、肉体を有する現在、肉体の滅亡する未来を通じて、天地
たセぽ
の間に存在していることになる。此の考え方も『荘子』の薪の唇えに似たところが有る。
『言志晩録』第二百五十八章は、人生に就いて述べた言葉であるが、
か す よう つつし
昨日を送り今日を迎へ、今日を送り明日を迎ふ。人生百年、此くの如きに過ぎず。故に宜しく一日を慎むべし。
しゅう しんこ のこ
一日を慎まされば、醜を身後に遺さん。恨むべし。〈下略〉
しんしろく
とある。貝原益軒(正徳四年没、一七一四、八十五歳)の、漢文の随想録『慎思録』(正徳四年に成る)巻一の中にも、
人生、百歳に満たず。艶に据翻にして日を幟しくして翌しく欺の郵を趣こすことを惜しまさるべけんや。左栽の
いわ ばんこ え た す やす かん う
日く、天地は万古有り。此の身は再び得ず。人生は只だ百年、此の日、最も過ぎ易し。幸ひに其の間に生まるる者
ゆうせい きょせい うれ いだ かえり
は、有生の楽しみを知らざるべからず。又、虚生の憂ひを懐かさるぺからず、と。此の言、時に省みるぺし。
『周易』に関する若干の考察 五七
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 五八
という似た言葉が有る。人生百年は肉体を伴った人生の限界を指している。虚生の憂いとは、死である。死有るが故
に、生が充実するとも言える。
『言志晩録』第二百八十三章には、
まえ せんこばんこ あと せんせいばんせい たとい しゅ たも ま
我れより前なる者、千古万古。我れより後なる者、千世万世。仮令、我れに寿を保つこと百年なるも、亦た一呼
かん こいねがわ ひと な こ
ここ
吸の間のみ。今、幸ひに生まれて人たり。庶幾くは人たるを成して終らん。斯れのみ。本願、此に在り。
とある。地球規模の時間でさえ、自分の出生以前の時間は数千万年の長い時間であり、自分の死亡後の時間も数千万年
の長い時間である。其の問に自分が百年の寿命を得たところで、其の長い時間から見れば一瞬間のことである。
『晩録』第二百八十五章には、
せい こ し しょう せい もと
生は、是れ死の始め、死は、是れ生の終り。生ぜざれば即ち死せず、死せされば即ち生ぜず。生は固より生、死
もかた生。生生者を易と謂ふとは、即ち比れなり。
とある。人は生まれると同時に死に向かって歩いて行く。「死せされば即ち生ぜず」は、死ななければ生まれることも
無い、という意味であろう。「死も亦た生」は、肉体的に生命が有るからこそ、そこに生と死が有ることを指摘してい
るのである。
『晩録』第二百八十七章には、
しのち
まさせい
み ちゅうや せいすい
死の後を知らんと欲せば、当に生の前を観るべし。昼夜は死生なり、醒睡は死生なり。呼吸は死生なり。
め
とある。「昼夜は死生」というのは、先述の如く『周易』の「繋辞・上」の「昼夜の道」を出典とするのであろうが、
王陽明の『伝習録』に基づく言葉だと考えられる。仏教が死後の世界を説くのに対する発言とも考えられよう。『晩録』
む しょう ゆう
には、右の外にも、「無は無より生ぜずして有より生ず。死は死より死せずして、生より死す」(第二百八十八章)など、
Page 35
生死に関する随想が幾つか見られるが、省略する。
佐藤一斎のト笠論や死生観は、長い儒学の成果の上に立って一斎が思考した結論であって、特色有るものと言えよ
う。ただ、古代中国の人々の考えていだト笠や死生観や『周易』と何処まで一致するかは、嵩かに結論を出し難いとこ
ろである。
九 結び
『周易』は、さまさまな角度から研究出来る古典であって、実際、今日に至るまで研究され続けているものである。
本稿では、『周易』の持つ新しさを紹介すると共に、卜笠というものの意義を考えて見た。一つは、何の為に占うかと
’いうことで、此れは予測できない未来(文献では、近未来の予測が多いように思われるが)を知ることが目的だと思わ
きしん
れた。いま一つは、卜笠の結果は誰が告げているのか、という事で、天とか神とか鬼神とかが告げていると考えられた
が、例えば、天とは宇宙を支配する法則、乃至は力なのか、或は自然界なのか、人格神なのか、地とはどういう関係に
ある天なのか、等々、簡単には解決出来ない問題であった。ただ、キリスト教に於ける天地創造の神とは、性格を異に
するものである事は確かであった。
また、吉凶禍福を知るためのト笠ではあるが、吉凶は得失に関わることであって、其の吉凶は宗教的な意味は持って
いなかった。
吉凶の問題から、更に生と死とに就いて見たが、道教の不老不死に就いても言及した。道教は、徽蹴歴凹に易の八卦の
『周易』に関する若干の考察
五九
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明治大学教養論集 通巻三〇六号(一九九八・一) 六〇
ね づ
理論を応用したり、或は『周易』に基づいてト占を行なったりしているものであるが、道教は民間に根付いた宗教であ
る。それは、儒教と同じように現実の世界を中心に考えてはいるが、道教では、死んでから生まれ変わる道筋を考えて
いる。儒教は、死を死として受け止めるが、死者の復活などは考えていない。
儒教は、「教」という字で呼ばれるため、宗教として受け取られやすいが、死後の世界が論じられていないし、他の
宗教で言えば、神や仏に相当する人間を超えた存在が、個人の苦悩の救済をしないこと、宗教的な教義が明確でないこ
と等々、極めて宗教的な要素に乏しいと思われる。勿論、祭祀(例えば郊祭)を行なわないわけではないが、原始的な
形態を考えると、宗教的な儀式の形態を取るのは、儒教の原型ではなかったように推定される。但し、天を祭り、祖先
の霊を祀ることと儒教とが、いつ頃、如何なる形で結合したのかは、現段階では未詳である。
でんしまう
ろ あいこう
『荘子』の外篇「田子方、第二十一」に、荘子が魯の哀公に会った時、哀公が「魯には儒者が多いので、儒服した者
を多く見かける」と言うと、荘子が「儒服した者は死刑にすると命令して御覧なさい」と答え、哀公が命令を出すと五
日間で儒服の者がいなくなり、一人だけ儒服していた者を捕らえて調べて見ると、それは立派な儒者だったという話が
有る。寓話には違いないが、宗教の信者ではこういう状態にはならないであろう。儒学が盛んであった江戸時代でも、
儒葬をした例は少なく、政令の為とは言え、儒者の墓地は寺に在るのが普通である。
そもそも宗教的信仰者にとっては、占笙は必要ではない。信仰者には神仏の加護が有るし、未来が死であっても何も
恐れないはずである。占笠を必要とする者は宗教的信仰を持たないからである。
『周易』を中心とする占笠のト辞を告げている者は、人間の貧弱な予知能力を超えた大きい存在である。其れを冠と
てんしん きしん
呼び、天神と呼び、鬼神と呼んだようである。それは人間の想像を超えた存在であった。近代科学の発達に伴って、卜
笠は迷信の類として顧みられなかったが、漸く『周易』が理論的に再評価され始めた。近代科学は、証明し得ない現象
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を偶然だとする。然し、宗教的信仰者には偶然は無い。総て神仏の手による必然しかないのである。又、神仏は偶然を
もた齎
らさない。近代科学は、神仏の手によって行なわれて来た事柄をも、代わって成し遂げようとする。例えば、クロ!
ン羊だの、頭の無い蛙だのが誕生している。しかし、まだ生命までは創造出来ないらしい。近代科学は実は、人間の頭
脳の限界を超えることは出来ない。まして神仏の力(或は宇宙の法則、または支配力)を超えることは出来ないのであ
る。
予知能力を失った人間が、卜笠に依って未来を占うことが根拠の無い迷信だとするならば、当たらない天気予報や台
風情報や地震予知や経済動向の評論なども迷信ではないだろうか。筆者はト笠が確実に未来を予見している等と言うつ
もりは無い。人間を超えた大きい存在に素直に未来の道を求めた古代の人々の姿を思い浮かべているだけである。
本稿は、『周易』をめぐる幾つかの間題を採り上げただけの事であるが、原始儒教に就いても少し触れているつもり
である。こういう形の論稿なので、結論は無い。 (以上)
『周易』に関する若干の考察
六一