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Meiji University Title �-<�>�- Author(s) �,Citation �, 44: (13)-(23) URL http://hdl.handle.net/10291/11921 Rights Issue Date 1999-02-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/
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『山椒大夫』序説-における鷗外の歴史小 明治大 …...An Introduction to Mori Ogai’s‘Sansho Dayu’ SATo Tsuguo “Sansho Dayu”is a historical

Jan 30, 2021

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  • Meiji University

     

    Title『山椒大夫』序説-における鷗外の歴史小

    説-

    Author(s) 佐藤,嗣男

    Citation 明治大学人文科学研究所紀要, 44: (13)-(23)

    URL http://hdl.handle.net/10291/11921

    Rights

    Issue Date 1999-02-25

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 明治大学人文科学研究所紀要 第四十四冊(一九九九) 縦 =二ー二三頁

    『山椒大夫』序説

      i〈冬の時代〉における鴎外の歴史小説ー

    佐 藤 嗣 男

  • Abstract

    An Introduction to Mori Ogai’s‘Sansho Dayu’

    SATo Tsuguo

       “Sansho Dayu”is a historical novel written by Mori Ogai for the January 1915 issue of the Chuo

    Koron.

       The novel is based on a Japanese legend, but the former has a different ending from the latter.

    The heartless Sansho Dayu and his clan are forgiven at the end of Ogai’snovel although they persecut-

    ed the sibling of Anju and Zushio. Many critics criticizes Ogai for thinking little of the real meaning of

    the legend. They say the legendary deathpenalty for Sansho Dayu is a manifestation of gnldge and

    desire for rebellion against cruel exploiters that were held by the Japanese masses in the medieval

    period and handed down orally.

        However, the criticism is questionable. This treatise will attempt to review‘‘Sansho Dayu”in ord-

    er to answer two questions.The first question is about the historical and social backgrounds of the nov-

    el. The second is concerning what was in the author’s mind when he was writing the novel. These is-

    sues will be colated with Ogai’s method of writing historical novels, which aims to judge modernity by

    reconstructing details of past events(history).Iwill prove that‘‘Sansho Dayu”reflected a real public

    sentiment in the dark ages of the Taisho Era.

  • 〈特別研究〉『

    山椒大夫』序説

    1〈冬の時代〉における鴎外の歴史小説1

    佐 藤 嗣,男

     一九一五(大正4)年一月、「中央公論」誌上に発表された森鴎外

    の『山椒大夫』の原像に迫った好論放の一つに、林屋辰三郎の「『山

    椒大夫』の原像」(「文学」一九五四・二)がある。林屋は、鴎外が作

    品の素材とした「さんせう太夫」民話を検証しつつ、

       鴎外の作品『山椒大夫』は、(略)その年代設定と、この奴碑

      解放という点で、当初の物語の真意に若干ふれ得たのである。そ

      してこの作品はそうしたところに社会的な意義を有ったと同時

      に、この太夫に対して「一族はいよいよ富み栄えた」としたとこ

      ろに、大きな矛盾を犯したとも云える。この一族が富み栄える限

      りは、この民話の真意を徹底的にはくみ得なかったからである。

      そこに鴎外の近代的・人間的立場からする古典評価の限界が、明

      確に現われていたと思われる。

    と、その論放末尾に書き記している。

     林屋の「『山椒大夫』の原像」は、『山椒大夫』論の一大転機をもた

    らしたものであり、今もってその指摘の数々は光を喪ってはいない。

    が、しかし、「鴎外の近代的・人間的立場からする古典評価の限界が、

    明確に現われていた」と結論づけた点は、早期に失したと言わざるを

    得ないであろう。『山椒大夫』における鴎外の「歴史離れ」を容認し

    つつも、そこに歴史学者としての林屋の史実尊重(史料的事実の尊重)

    が、やはり、頭をもたげているからである。

     林屋のみならず、山椒大夫一族の繁栄を描いた点をして『山椒大夫』

    の矛盾・欠陥だとする論はあとを絶たない。が、繁栄させたという一

    事を楯に取って、はたして、それが鴎外の矛盾・欠陥であったと言い

    切ることはできるのだろうか。

     ともあれ、〈矛盾・欠陥〉論の根拠は、「さんせう太夫」伝説の多く

    に共通する「さんせう太夫」一族の処罰という話の結末と『山椒大夫』

    のそれとが、全く相容れないほどに齪酷しているというところにあ

    る。『山椒大夫』の結末は史実に反した夢まぼろしにすぎぬというわ

    けである。しかしながら、史実其儘(11史料的事実其儘)が歴史其儘

    (11歴史の実像)だとは言いがたい。まして、歴史小説という枠組み

    で問題にするとすれば、歴史小説とは、歴史的場面を生きた歴史的人

    間の個々の実感を追求、描写するものであり、史料的事実の一定の拘

             ト タリティ

    束を受けるにしても、全体性としての歴史的社会・集団を反映してあ

    一15一

  •                 イマジネ ショソ        ミ ヘ ヘ へ

    る限り、既存の史料的現実(史実)を想像作用においてはみ出すこと

                             る  う  ら

    は大いにあり得ることなのである。言い換えれば、過去にあった、或

         ヤ  ヘ  ヘ  へ

    いは過去にあり得たものを、観念(-歴史的認識)に支えられたイ

                   フィクショソ

    メージに託して見るという、一つの虚構の産物が歴史小説だという

    ことである。要は、鴎外の〈歴史小説の方法〉の問題なのである。た

    だ単に、作品の結末のありようが、史実に照らして齪酷しているかど

           レペル

    うかなどという段階での問題ではないのだ。

     そこで、わが〈『山敬大夫』論〉では、逆に、鴎外の創造した結末

    の虚構的必然性・正当性を論証してみようと思う。論証の方法として

    は、『山椒大夫』の、①言表の場面規定を押さえ、②素材となった「さ

    んせう太夫」伝説との比較検討の上に、③鴎外の歴史小説の系譜と近

    代文学史とにおける位相を明らかにすることで、『山椒大夫』におけ

    る鴎外の〈主題的発想〉と〈歴史小説の方法〉とのありようを解明し、

    問題の核心に迫るという手段を、当然、とることとなる。その点、林

    屋の論致は、自身が、「鴎外その人の全般的な作品評価は、とうてい

    わたくしのよくするところではない」と語っているように③の側面

    と、合わせて①の側面を欠くものとなっている。また、それに追随す

    る文学研究畑の多くの論放も、ある形で③の側面をとり入れてはいる

    ものの、①の側面への視点を欠落させた解釈(主義)的手法に堕して

    いるとしか思えない。従来の論放の多くに見られる共通項が①の欠落

    という点にあるのであれば、拙論では、まず、①の側面から立ち入っ

    てみるということが得策のようである。

     ところで、〈言表の場面規定〉とは何か。さらに言えば、(言表の)

    場面規定を押さえて読む、とはどういうことなのか。熊谷孝は『芸術

    の論理』(三省堂、一九七三刊)で、「作品のその文章を、それがまさ

                        ヘ  へ

    に人間の行為・行動の代理として用いられたその行動場面に還元し

    て、その文章そのものについて思索する、という意味である。言い換

                    ヘ  へ

    えれば、①作品の文章が媒介する、その社会をある生きかたで生きた

    へ  ら

    その人間主体の現実把握の発想のしかたをつかみ、また、②そうした

    発想法をつかみ取ることで、そうした発想において把握された現実の

    姿、現実の問題を、わたしたちが歴史のパースペクティヴ(遠近法)

    において主体的につかみ直す、という、そういうことなのである」と

    述べている。『山椒大夫』を読むということで、より具体的に言え

       も  ヤ

    ぱ、①その行動場面(生活場面)において実践する人間主体11鴎外が、

    どういった読者(本来の読者)に向けて発した言表(伝え合い)なの

    か、②『山椒大夫』という歴史的個性としての鴎外の、或いは鴎外世

    代の発想と文体をそこにもたらした歴史社会的な必然性は何なのか、

    等々を見きわめつつ読む・思索するということになろう。

     そこで本稿は、わが〈『山椒大夫』論〉の序論として(本論は稿を

    改めて論じることとして)、『山椒大夫』の歴史社会的な(言表の)場

    面規定を押さえるということに専念してみたいと思う。

     まず最初に、年表風に、明治末期から大正初期にかけてを、

    歴史小説を中心に概観しておこう。

    鴎外の

    一八六二(文久2)年一月誕生。

    一八六八(明治元)年七歳。

    一八九〇(明治23)年『舞姫』(「国民之友」1)

    一八九四-五(明治27128)年 日清戦争。

    一九〇〇(明治33)年「鴎外漁史とは誰ぞ」(「福岡日日新聞」

              1)

    一九〇四-五(明治37138)年 日露戦争。

    1

    一16一

  • r山椒大夫』序説一〈冬の時代〉における鴎外の歴史小説一

              ○『号外』(國木田濁歩、明治39)

    一九〇八(明治41)年「夜なかに思つた事」(「光風」12)

    一九〇九(明治42)年「予が立場」(「新潮」12)

              ○『それから』(夏目漱石、明治42)

    一九一〇(明治43)年五月 大逆事件。『あそび』(コニ田文学」8)『沈

              黙の塔』(同11)『食堂』(同12)『青年』(「昴」

              明治43・3144・8)

    一九一一(明治44)年 「森鴎外氏の文芸未来観」(「毎日電報」1・

              4)「文芸断片」(「東洋」4)

    一九一二(大正元)年 乃木希典殉死。『興津弥五右衛門の遺書』(「中

              央公論」10)

    一九=二(大正2)年『阿部一族』(「中央公論」1)歴史小説集『意

              地』(6、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一

              族』『佐橋甚五郎』収録)『護持院原の敵討』

              (「ホトトギス」10)

    一九一四(大正3)年『大塩平八郎』(「中央公論」1)『堺事件』(「新

              小説」2)『安井夫人』(「太陽」4)

              ○『徳川文芸類聚』第八巻(大正3・10、太

              夫未詳「さんせう太夫」〈享保7刊V収録)

    一九一四-八(大正317)年 第一次世界大戦。

    一九一五(大正4)年『山椒大夫』(「中央公論」1)「歴史其儘と歴

              史離れ」(「心の花」1)『余興』(「アルス」

              8)『最後の一句』(「中央公論」10)

              ○柳田國男「山荘太夫考」(「郷土研究」4)

    一九一六(大正5)年 『高瀬舟』(「中央公論」1)『寒山拾得』(「新

              小説」1)『渋江抽斎』(「東京日日新聞」1

              15)

     概観して眼につくことは、鴎外の歴史小説の発表が大正元年十月か

    ら五年一月の間に集中していることである。つまり、鴎外の歴史小説

    は、大逆事件以後の〈冬の時代〉にあって初めて書かれ、そして、集

    中的に書きつがれたものだったということになる。

     鴎外は、一八七二(明治5)年、十一歳の時、旧藩主に従った父に

    伴われて上京、ドイツ語を学ぶとともに、西周邸に寄寓。西周をとお

    して、鴎外が、渡欧以前に既にハウプトマンに接していたことは、柳

    田泉によって指摘されたとおりであるが、若い時期の早くから近代的

    ・西欧的教養に触れ、それを摂取した鴎外の精神形成を決定的なもの

    にしたのは、一八八四(明治17)年から八八年にかけての、四年にわ

    たるドイツ留学であった。帰朝後の鴎外は、近代的教養を身につけた

    先駆的知識人として、明治藩閥政府下の現実に対し、その前近代的な

    るものを批判して啓蒙的活動を精力的に展開する。

     が、そうした鴎外の眼前にあった日本的近代は、守屋典郎の言葉

    (『

    坙{資本主義発達史』)を借りれば、「封建的なものに反対し、個人

    の自立と自由な発展を基礎とした資本主義ではなかった」のである。

    一八七三(明治6)年の地租改正が「寄制地主制確立の起点」となり、

    「明治の絶対権力のよって立った基礎」としての「本質において封建

    的な搾取関係」である地主口小作の関係が再生産されていき、「解放

    されたとはいえ、いぜんとして半封建的な農民にたいする収奪の関

    係」や社会関係が長く続いている。日本の近代は、西欧とは異にし

    て、寄生地主制的土地所有を下部構造とする半封建的資本主義そのも

    のだったのである。

     そうした前近代を内包した日本独得の近代を前にして、鴎外の活動

    は壁にぶち当らさるをえない。『舞姫』の太田豊太郎の挫折である。

    そして軍部官僚らによる森林太郎(鴎外)の小倉への左遷(明治32)

    である。鴎外の心を倦怠感がとらえてくる。

    一17一

  •  倦怠の心情は、日露戦争を契機として、多くの人々の間に国民的な

    規模をもって徐々に蔓延して行く。未熟な資本主義を天皇制絶対主義

    で補完・一体化させながら帝国主義への道を一路すすんでいた「日本」

    は、まだ未熟な資本主義の未分化のなかに存在する国民的要素、つま

    り愛国的熱情を、扇動し利用して、日露戦争に一応の勝利をおさめる

    のである(守屋、前出)。日本史上はじめてと言われる、社会主義や

    キリスト教の立場からの反戦運動に対する弾圧と圧殺を代償として、

    であった。そして自分たちの利になる戦争を期待した国民に、戦中・

    戦後、反動的に襲いかかってきたものは、肉親知人の戦死や傷病、重

    税と窮乏、不満への抑圧であった。戦後の、高揚的心情を喪失した知

    識人の姿を國木田猫歩は、「三十七年から八年の中頃までは、通りが

    かりの赤の他人にさへ言葉をかけて見たいやうであつたのが、今では

      も  と

    亦た以前の赤の他人同士の従来になつて了つた」(『号外』)と描いて

    いる。それは、わが愛国心の対象としていた自己の国家像と現実の牙

    をむいた国家像とのどうしようもない懸隔のなかで、孤独感と孤立感

    にさいなまれ始めた知識人の姿でもあった。そうした観念と現実との

    離反したなかにあって浮遊する知識人のやるせない無力な心情をく

    アソニュイ

    倦怠Vと呼んだのは夏目漱石である(『それから』)。ほぼ十九世紀か

    ら二十世紀の間を境として帝国主義段階に突入していった欧州に生ま

    れた世紀末思潮の一つを現わすo目巳という言葉を、小説の世界で日

    本の現実に適用したのは、漱石がはじめてであった。

     観念と現実とのギャップを埋めようとして実践すればするほど、現

                             アンニュイ

    実の壁は大きくその前に立ちはだかってくる。そして、倦怠の心情

    が拡大再生産されてくる。ありのままの悪しき現実の流れに抗して闘

    い実践する老、実践しようとする者にとっては、もはや、倦怠と孤独

    の心情をまぬがれることはできない。そうした、日露戦争後の倦怠の

    問題を、さらに回避し得ない問題として決定的なものにしたのは、明

    治四十三年に勃発した大逆事件(幸徳秋水事件)とその後の裁判のな

    りゆきであった。

     寄生地主制は、この頃、さらに政府の保護と指導のもとに強化され

    全国的に発展し、農民の階層分化が最も進行するなかで、天皇制は独

    占資本と地主の権力として、帝国主義の権力へと発展していたのであ

    る。ここに当然激化してくるのは階級闘争で、労働者や農民の運動が

    ひろく展開されることとなる。そうした状況にあってフレーム・アッ

    プされたのが、大逆事件であった。「天皇制政府はこの弾圧によって

    労働者・人民大衆の権利をことごとくおしつぶし、この基礎のうえに

    天皇制と帝国主義とをさらに強く発展させようとした」(守屋、前掲

    書)のである。こうした大逆事件と、その後の、〈冬の時代〉という

    命名に象徴される大正初期の、民衆の権利の圧殺と精神の抑圧という

                          メンタリティ 

    時代閉塞の状況は、精神の自由を求めて闘う人々の心的状況の問題と

    して、言いかえれば、文学的課題として倦怠の問題をより顕在化させ

    たのである。

     鴎外の一群の歴史小説はそうした課題意識のもとに、政治的事象と

                               ブシコ

    しての大逆事件というよりは、文学的事象としての大逆事件を心的イ

    デオロギー的契機の中核として生み出されて行ったものであったと言

    えよう。

     小倉に左遷された鴎外は、「鴫外漁史はここに死んだ(略)鴎外は

    殺されても予は決して死んでは居ない」(「鴎外漁史とは誰ぞ」)と書

    いた。が、負けまいとする一方で、倦怠の想いは、色濃く頭をもたげ

    てくる。

       さ様さ。世には多少本当に感じた事を書いてゐる人がないでも

    一18一

  • 『山椒大夫』序説一く冬の時代〉における鴎外の歴史小説一

      ない。(略)併し是はみんな遠い、遠い西洋の事だ。(略)そこで

      若し日本で、人生に対し、芸術に対し、文部省の展覧会に対し

      て、何か感じて、其の感じた所が、世間普通の感じと相違してゐ

      たら、果してそれが正直に無遠慮に書けようか。(略)そんなら

      書けるのはどんな事が書けるのか。世間普通の感じと一致してゐ

      る事なら書けるだらう。それは誰にも書ける。誰にも書ける事な

      ら、殊更に私が書くには及ばない筈だ。 (「夜なかに思つた事」)

     日露戦争にも参戦し東京に戻った鴎外は、明治四十年の十月から大

    正七年まで、文部省美術展覧会(文展)の洋画審査委員を務めている。

    引用文は、その文展の感想を求められて書いたものである。ユーモラ

    スな語り口で、けっこう言いたいことを言っている。けれども、そこ

    に、日露戦争後の精神的抑圧のなかで口を封じられた人間の苦渋の声

    が漏れ伝わってくる。

     次に引くのは、鴎外の国oωおp讐oロの説として名高い「予が立場」

    の一節である。

       昨今は私が何か云ふと、愚痴とか厭味とか云つてからかはれる

      ことになつてゐる。それ丈で何の効果もない。何の役にも立たな

      い。人に利益は与へずに、自分が不愉快な目に逢ふのみです。そ

      んなことは私だつてしたくはないのです。(略)私の考では私は

      私で、自分の気に入つた事を自分の勝手にしてゐるのです。それ

      で気が済んでいるのです。人の上座に据ゑられたつて困りもしな

      いが、下座に据ゑられたつて困りもしません。(略)私の心持を

      何といふ詞で言ひあらはしたら好いかと云ふと、図Φωお冨けごロだ

      と云つて宜しいやうです。私は文芸ばかりではない。世の中のど

      の方面に於ても此心持でゐる。それで余所の人が、私の事をさぞ

      苦痛をしてゐるだらうと思つてゐる時に、私は存外平気でゐるの

      です。勿論園①ω一αq冨ぎpの状態といふものは意気地のないものか

      も知れない。其辺は私の方で別に弁解しやうとも思ひません。

     この時点で鴫外の言う図oω凶σq轟二〇ロとは、現実への黙従としての

    講翻のことではない。こうした現実に生まれあわせざるをえなかった

    ことを真に実感する者のみが抱く、その限り、神の前での、運命の前

               レジグナシオン

    での忍従・甘受としての諦観である。言い換えれば、倦怠と孤独

    に苦悩し、その脱出口を真剣に模索し続けている人間が必然的に選び

    取った廻り道である。悪しき現実を前にした闘う鴎外のメソタリティ

    ーそのものを言い表わす言葉であった。だからこそ、「苦痛」にくず

    折れずに、「存外平気で」いられるのである。が、そうした鴎外も、

    大逆事件を前にして、存外平気ではいられなくなってくる。

     「ダアヰンが出た。そのために或る古い世界観が動かされる。それ

    だからと云つて、ダアヰンのした事をしない前に戻すことは出来な

    い。世道人心を維持して行かうと思ふものは、ダアヰンを目中に置い

    て、進化論の研究をば進むが儘に進ませて行つて、其問に人心を繋い

    で行く方法を講じなくてはならない。(略)レアクシヨンをするもの

    は、そこへ応病与薬の積りで古い物を持ち出して来る。文化の跡戻り

    をさせやうとする」(「森鴎外氏の文芸未来観」)からである。大逆事

    件後に生じた「レアクションの風潮」に黙ってはいられなくなる。「誰

    にも書ける事」ではないことを、いかに他人がばかにしても、「私は

    私で、気に入つた事を自分の勝手に」書こうと思う、つまり、精神の

    アマチュアリズムが許さないのである。アマチュアリズムの精神に支

    えられた鴎外のくあそびVの精神が許さないのだ。

     いわば、子どもが何であれ楽しみを見出しながら全身全霊をかけて

    遊びに熱中するように、真剣も木刀もない〈あそび〉の精神を鴎外が

    はっきりと宣言するのは、大逆事件のフレーム・アップが進行するさ

    なかで発表された、その名も『あそび』という作品においてであった。

    『あそび』について熊谷孝は、『太宰治1「右大臣実朝」試論』(鳩の

    一19一

  • 森書房、一九七九刊)の中で、「“あそび”という言葉は、いわば、こ

    の事件(大逆事件、佐藤注)を契機に以後ますます激しさを加えて行

    くであろう体制側のしめつけの中で、息切れすることなく粘り強く民

    衆の抵抗を支えてゆく、民衆自身の人間主体内面の精神のありように

    ついて語ったものにほかならない」と指摘している。即oωにロ曽ユo口の

    状態にあるだけに、鴎外は〈あそび〉に徹して行こうというのだ。

     大逆事件を前にして鴎外は、抵抗の精神としてのくあそびVの精神

             レアクショソ

    に徹しながら、その反動への怒りを、『沈黙の塔』『食堂』『青年』

    と、言わば石川啄木などに代表される次代を担う世代に期待を託し

    て、次々とぶつけて行くのである。けれども、鴎外が「それに青年が

    なんで附いて行くものか」と非難した「レアクションの風潮」は、逆

    に、ますます強固なものとなってくる。

       無政府主義と、それと一しよに芽ざした社会主義との排斥をす

      る為めに、個人主義と云ふ漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加

      へるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸

      術の自由発展とを妨げる国は栄える筈がない。  (「文芸断片」)

     「個人主義」の名のもとの個の抑圧と文化への迫害。それは、個の

    自覚に眼覚めた、或いは眼覚めつつある民衆の主体内面の精神の自由

    を躁踊するものであった。こうした状況にあって、人間はいかにある

    べきか  そこに、鴎外の歴史小説が書き出される文学史的必然性が

    あったのである。

    おれ己

    の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に

    一人のそれを理解してくれる人がなくたつて、己はそれに安んじ

                   てんぜん

    なくてはならない。それに安んじて悟然としていなくてはならな

      い。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだらう。独りで煩悶す

      るか。そして発狂するか。

     一群の歴史小説の狭間で書かれた、いわば鴎外の心境小説と目され

    る『余興』に登場する〈私〉の述懐である。個を自覚した自分にとっ

    て、今日は孤独と孤立に安んじなければならぬ日々の連続なのだ。ま

    さに幻①ωお轟口oロである。が、傍観者の諦観ではない。ただ、へんに

    あがいたら、……煩悶と発狂が、倦怠の奈落が待っている。「馬鹿

    な」。〈私〉は叫ぶのである。そして、鴎外が……。倦怠感にとらわれ

    るからこそ、自己を大切にしようと思うのだ。自己を凝視するのであ

    る。己は己に出来る方法で己の道を行く。よしとする道を真剣に、と

    同時に楽しみを見出しながら進んで行く。〈あそび〉である。けれど

    も、それは利己的個人主義ではない。利他的個人主義である。「我と

         ノ

    いふ城廓を堅く守つて、一歩も仮借しないでゐて、人生のあらゆる事

    物を領略する。(略)そんならその我といふものを棄てることが出来

                      たしか

    るか。犠牲にすることが出来るか。それも惜に出来る。(略)生が万

    有を領略してしまへば、個人は死ぬる。個人主義が万有主義になる。

    遁世主義で生を否定して死ぬるのとは違ふ」(『青年』)のである。つ

    まり、それは普遍につながる個としての自己の精神の自由を賭けた闘

    いの道なのだ。まさに、「民衆の抵抗を支えてゆく、民衆自身の人間

    主体内面の精神のありよう」を問い続ける道であったと言えよう。そ

    してまた、それは、「万有を領略」するために「我」を犠牲にすると

    いうことでは、竃餌ほ胃貯ヨ(殉教・殉難・献身/懊悩・苦悩)の一つ

    の姿・あらわれであったとも言えよう。

     ところで、竃母け質言ヨという言葉は、『余興』のニケ月後に発表さ

    れた、『最後の一句』で用いられた言葉である。『最後の一句』は、享

    保期(II享保の改革)に続く元文年間の大阪を舞台とした作品であ

                         も  へ

    る。平野町のおばあ様に育てられた民衆の子11いちが、罪に問われた

    一20一

  • 『山椒大夫』序説一〈冬の時代〉における鴎外の歴史小説一

    父の桂屋太郎兵衛(ー廻船業・米の運送)を一徹に救おうとするそ

    のζ◎誹貿冒日の姿が描かれている。幕藩体制動揺期の民衆の抵抗の

    精神のありようが、典型像として、文学的イデオロギーにおいてみご

    とに形象化されている。一徹にわが冨母蔓ユロ巳の道を行く、そうし

    た精神は、たんに外側から観念的に誘発されたといったものではな

    く、鴎外が歴史小説を書き貫くなかで、自己の内側からの文学的イデ

    オロギーとして豊かに結実させていったものだったのである。

     例えば、『阿部一族』『護持院原の敵討』『高瀬舟』、それに『最後の

    一句』などは、材料を江戸幕藩体制下にとっている。鴎外は、「そこ

    で過去を描くというよりは半封建的資本主義体制下の現在的現実を描

    いている」(前出、熊谷『太宰治』)のである。つまり、「過去に材を

    とって現在を裁くという歴史小説の方法」をとって、鴎外は書くので

    ある。そうした方法のもとに、既に動揺期を含み込んであるところ

    の、幕藩体制の確立期に取材して、倦怠感のなかで陣吟する人間のメ

    ソタリティーを描いた『阿部一族』が生み出されてくる。そして、遠

    い過去の問題としてではなく、現在につながる問題として、幕藩体制

    の確立期・動揺期・解体期といった歴史の位相のもとに、「個の自覚

    における真の心づくしとしてのマルチリウム」(同前)を示した「人

    間として面白みのある人間」のメンタリティーとその行動様式を、『阿

    部一族』をオリジナル・ポイソトとして上記の作品群をとおして、鴎

    外は追求して行くこととなる。

     鴎外は、そうしたく人間として面白みのある人間Vの、各々の歴史

    的時点における内在的意味を問うのである。それはまた、〈冬の時代〉

    という現在的現実の意味を問うと同時に、脱近代の糸口を人間のりあ

    ように求めようとした鴎外の、まさに鴎外的な文学的営為であったの

    だ。

     鴎外は、〈冬の時代〉に象徴される〈前近代を内包した日本的近代〉

    のもたらす倦怠からの脱出(門脱近代)を志向して、歴史小説を次々

    と発表して行く。悪現実にくず折れずに生きて行くための人間のあり

    よう・生き方を、過去(歴史)に求め、そこに発見した〈人間として

    面白味のある人間〉たち、例えば、『阿部一族』の細川忠利や柄本又

    七郎、『護持院原の敵討』の山本九郎右衛門、などなどの生き様に触

    れることによって、彼らの各歴史的位相におけるその内在的意味を追

    求し、わが脱近代の道を追求するのである。鴎外の歴史小説群は、煎

    じ詰めて言えば、そうした主題的発想の展開の軌跡であったと言い得

    よう。

     『山椒大夫』もまた、そうした主題的発想、ー人間としてあり得

    べき人間11人間として面白みのある人間の追求という線上で創作の筆

    がとられている。詳細な作品論は本論として別稿にゆずらざるを得な

    いが、一応ここでは結論めいたものを箇条書き風にまとめておくと、

    ほぼ、次のようなこととなろう。

    (一

    j鴎外の歴史小説のオリジナル・ポイソトとも言える『阿部一族』

    が細川忠利の生前・死後を通しての、彼を中心とした人間関係を中核

    として作品のプロヅトが構成されているように、『山椒大夫』もまた、

    安寿の生前・死後を通しての人間関係を軸として構成されている。

    (二)宿命とも言わざるを得ない歴史社会的状況の制約の中で矛盾を

    感じ苦悩しながらも、そうした問題に誠実に対応・対決しながら倦怠

    に耐えて人間的に生きるための人生コースを模索する『阿部一族』の

    細川忠利や柄本又七郎、『護持院原の敵討』の山本九郎右衛門などに

    共範しつらなるところで、安寿の人間像が追求され造型されている。

    一21一

  • (三)個の自覚における真の心づくしとしての、他者(相手)への真

              マ ル チ リ ウ ム

    の愛情に裏打ちされた献身的行為  それが個としての自己を真に生

    かす生き方だという、鴎外の言う意味での、(利他的)個人主義の止

    揚された万有主義に立つ人間群像(『阿部一族』の柄本又七郎夫妻と

    島徳右衛門、『護持院原の敵討』の山本九郎右衛門と文吉、『最後の一

    句』のいち、など)の一人として安寿が造型されている。

     そうした意味あいから言えば、『山椒大夫』は安寿の人間性(ー

    自他の相互関係におけるメソタリティーのありよう)追求を軸として

    織り成された作品であったと結論づけることができるのだ。過酷な奴

    隷的状況に身を落とされても、そこから脱出する道を安寿は模索し続

    ける。安寿はわが身の不遇を嘆き悲しみ、あきらめ、自己を放棄して

    しまうということをしない。考えに考えるのである。信己の存在証明

    の別名でもある持続せる思考。安寿の個の自覚をうながしたものは、

                              も  ヘ  ヘ  へ

    確かに状況の激変がもたらしたものではあったが、そうした持続して

    という強靭な精神にまで高めたものは、小萩や潮汲み女たちに象徴的

    に代表される、下人(11奴隷)も含めての下層民を中心とした生産と

    労働の担い手である民衆の生活感情(11階級感情)であったと言える。

    真の民衆の持つ協同性や連帯感、現状脱出志向などを、安寿は、貴族

    の子として身につけた良き意味での教養をベースとして培われた感受

                    も  ら

    性によって受けとめながら、それをてことして自己の感受性を民衆の

      へ  ぬ

    子のそれとして組み変えて行ったのである。姉弟二人の逃亡はほとん

    ど不可能である。ならば自己を犠牲にしても厨子王を逃がす。厨子王

    への絶対的なまでの愛と信頼、  わが精神は厨子王の精神ともなっ

    て厨子王の内部に生き続けて行くであろう可能性への確信でもある。

    死して生きるのである。死生一如である。真の民衆精神( 人間相

    互の連帯性への信頼)に根ざした安寿のマルチリウムであった(こう

    した民衆の子としての安寿の発見が、『最後の一句』の民衆の子とし

      ヘ  へ

    てのいちの姿に、民衆の抵抗精神としてのマルチリウムを見出だして

    いく源泉となっていくことはもはや言うまでもないことであろう)。

     ところで、こうしたあり得べき人間の追求という主題的発想の展開

    は、同時にまた、人間が人間を裁くとは可能なのかどうか、そこまで

    言わないにしても、人間が人間を裁くとはどういうことなのか、ー

    こうした問題を派生的に引き出してくることは大いにあり得ることで

    ある。ましてや、大逆事件の裁判を眼にした鴎外にとって、そうした

    問題への関心が歴史小説執筆の直接的なモチーフとなっていることは

    否めない事実でもあったろう。とりわけ、『最後の一句』や『高瀬舟』

    などはある意味で真正面からその問題を取り上げた作品であったと言

    えようし、まさに、『山敬大夫』の結末(大夫一族の処置と繁栄)の

    問題こそ、そこに関わるものだったと言えるのである。

     山椒大夫のもとを逃亡した後の厨子王は、同行二人ではないが、安

    寿とともにあったと言っても過言ではない。安寿の内なる声をわが心

    の声として苦難を乗り越えて行くのである。安寿は厨子王の中に生き

    ている。その意味では厨子王のその後の行動選択は安寿のそれでもあ

    ったと言えよう(『山椒大夫』が安寿を中心として構成された作品だ

    とする根拠の一つでもある)。では、安寿の民衆精神に基いて山椒大

    夫一族を裁くとなると、どうなるのか。丹後の国守となった正道(厨

    子王)のとった裁きは、丹後一国での人身売買の禁止日奴脾(奴隷)

    の解放であり、\その結果としての大夫一族の繁栄であった。

     丹後の由良の山椒大夫は、「石浦と云ふ塵に大きい邸を構へて、田

                 かり            すなどり       こがひ

    畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさ

      はたおり            すゑもの

    せ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぐの職

                    ぶげんしや

    人を使つて造らせる」(『山椒大夫』)分限者として、奴隷主・収奪者

    ではあれ一方では「由良という土地を発展させた」実力者・在地開発

    者(岩崎武夫『続さんせう太夫考』/平凡社、一九七八刑)の面を持

    一22一

  • 『山椒大夫』序説一〈冬の時代〉における鴎外の歴史小説一

    つ者として描かれている。鴎外が「さんせう太夫」伝説のどこまでを

    材料としたかは今後の課題だが、上記岩崎が指摘する、「さんせう太

    夫」伝承の素地の一つとなった、土地の人々(民衆)の「開発者に対

    する畏敬の念」を、鴎外がいかにかしてキャッチしていた証しとして

    の、山椒大夫像の造型・描写だったと思われるのである。中世の説教

    節「さんせう太夫」は非情な奴隷主・収奪者への民衆の怨嵯と報復の

    想いをベースとした厳罰主義に貫かれているが、江戸・享保期の浄瑠

    璃『三荘太夫五人嬢』(竹田出雲作)になると、三荘太夫は有情の人

    として描かれている。そしてまた、「説経節正本以前の山椒太夫伝承

    を伝えていると考えられる、津軽イタコの語る祭文『お岩木様一代記』

    では(略)山叡太夫が餓悔することによって、物語の主人公である安

    寿が救われ」(酒向伸行『山椒太夫伝説の研究』/名著出版、一九九

    二刊)るのである。こうしてみると、歴史的には民衆の「さんせう太

    夫」像が一義的なものではなかったことは明白であろう。鴎外はこう

    した民衆の、歴史の各時点での民衆の想いを反映しながら受け継がれ

    てきた「さんせう太夫」伝説を総括しつつ(その限り「歴史其儘」に)、

    大正期の〈冬の時代〉の「さんせう太夫」伝説を新たに『山椒大夫』

    として(その意味での「歴史離れ」をしながら)創造したのだと言い

    得る。

     こうして見てくれば、正道のとった裁きの結末が、山椒大夫に対す

    る民衆の畏敬の念と怨嵯・報復の想いとをあわせ持った民衆の子11安

    寿にして選択し得る、人間を一義的にとらえて切り捨てるといった報

    復主義・厳罰主義とは全く異なった、別個のものとならざるを得なか

    ったということは、容易にうなづけるものとなろう。さらに言えば、

    〈冬の時代〉の伝説として、真の民衆の立場に立った鴎外が、思想・

    信条の立場を異にする人間を裁く場合に真に民衆の立場に立って裁い

                          イメ ジ

    てほしいという想いと願いを込めて、その結末を構想し創造したの

    だ、と言えるのである。民衆弾圧の象徴的一環としての大逆事件処理

    に対する闘う鴫外の真向からの体制批判である。何故、幸徳秋水らを

    死刑にはせず許すことはできなかったのか、1過去に材を取って現

    在を裁くという鴎外の歴史小説の方法の直裁に現われた場面でもあっ

    た。 

                            〔序説・了〕

     注.本文中の引用文における旧漢字は全て新漢字に改めてある。

    (さとう・つぐお 商学部教授)

    一23一