『ぼくらの七日間戦争』 • 88年,角川映画(昭和)の最後の煌めき • 宮沢りえの完全なるデビュー作(日本ア カデミー賞新人賞受賞) →89年のカレンダーは“褌”姿
J-POP
88年10月1日に,東京地区第二FM局として「J-WAVE」が開局。「国際都市TOKIO発」で音楽番組を主体に構成。英語を駆使するパーソナリティーが洋楽オンリーで選曲そんなJ-WAVEが,「邦楽」でも放送してOKとした音楽に「J-POP」とラベリング。アイドルを含む歌謡曲は除外され,シンガーソングライターのアーティストが中心にこれを受け,外資系大型CDショップでも「J-POP」の売場コーナー名称を採用した
エフエムジャパン
アイドルの“舞台”が消えた活躍する“場”(歌番組)の消滅『ザ・ベストテン』の終了(1989/9)『夜のヒットスタジオ』の終了(1990/10)アイドル・コンセプトの陳腐化(パロディやからかいの対象にしかならない)シンガーソングライターにあらずんば,J-POPの担い手にあらず,という風潮三次元から二次元へ(おたく),にっこり微笑むアイドルから肉感的グラビアアイドルへ(ヤンキー)と「直接的刺激」の時代
アイドルなんかダセエよな!
• 80年代に「工場」で量産された弊害も手伝い,1990年頃には「『アイドルを好きだ』と感じることさえダサい/クラい」という空気が生まれた。つまりアイドル概念そのものの崩壊である
• しかし「アイドル的なるもの」を欲する若者たちの心根は,多様な形態にメタモルフォーゼ(変形)した「アイドル的なるもの」を支持していく
金屏風事件• 金屏風は“慶事”のもの。メリー喜多川は明菜
を事務所から独立させた上,「婚約会見」と欺して会見場に誘ったが,自死未遂の「謝罪会見」を余儀なくされた
• 近藤真彦も現れたが,そこで展開されたのは「自死騒ぎに近藤は関係ない」という“言い訳”(信頼のおける数少ない友人)
• ジャニーズが体現する「ザ・芸能界」の暗闇を多くの人に白日の下に晒され,アイドルへの憧れも硝子のように砕け散っただろう
“アイドル氷河期”到来―昭和から平成へ
メディアとコンテンツ⑬
『雨の西麻布』。詞:秋元康/曲:見岳章。85年9月5日。22.1万枚。とんねるずの5th。ザ・ベストテン400回記念in静岡の公開放送。ファンの手荒い出迎えで衣裳が破け,とくに石橋貴明はマジ切れ。
“アイドル歌手”としてのとんねるずANF,夕ニャンを仕切った“芸人”から,『雨の西麻布』から“アイドル歌手”を目指すと広言(目標は紅白歌合戦への出場)秋元康の歌詞は特定歌謡ジャンルのパロディ(『雨の西麻布』はムード歌謡)で「この曲で初めて演歌の心を知りました」と歌謡ジャンルをしゃれのめすパロディなのにマジメに曲は進行するが,サビは「双子のリリーズ」という無意味さ。マジメとフマジメのシームレスな連動 ※91年の第42回紅白に出場し 「情けねえ」を歌う
作詞するアイドリアンバスター森高千里のパッケージングは,「ヤンキー」を排除した「おたく御用達」のアイドル“風”(アイドルのコスプレ)フィギュアをファンアイテムとして販売作詞を森高自身が手掛け,アー
ティストにシフトただし,『私がオバサンになって
も』を歌う92年ごろからは森高のファンに女性が急増し,おたくは居場所を追われてしまう(梯子を外された)
浜松の至宝! おたく評論家/宅八郎
『ザ・ストレス』
おたくの憧れだったアンナ・ミラーズの従業員の制服。森高の衣裳は似て非なる物だが,記号として類似
詞:森高千里/曲:斉藤英夫/89年2月25日/4.0万枚
レーザーディスクでシングル/アルバムが発売された
3Mの戦略基本はCM・CD・テレビドラマ・映画で,バラエティ番組などはNG。ライブもないCMでアイドル・イメージを徹底的に補強していく短期集中的な売り方はしていないので,息の長い活動が可能その代わり,アイドルとしての認知度も低め
『SANTA FE』の衝撃「清純」なはずのアイドルとして売出し途上で,すべてをさらけ出す従来は「アイドルからの離脱」を意味したヌード写真が,人気の起爆剤になる新展開→ただし誰もが真似できる戦略ではなく,せいぜい菅野美穂がフォローした程度アイドルに“清純さ”を求めていた人たちに,アイドル離れを起こさせる契機となった
バラエティ要員のアイドルバラエティ番組で“汚れ仕事”も厭わないアイドル=バラドル全盛期のアイドルもコントを演じるなどバラエティ番組でも活躍したが,本務はあくまでもレコード歌手。バラドルは本務を失い,投錨する母港もないままに芸能界をさすらうバラドルはアイドルをパロディにする(自己戯画化)
バラエティSMAP「アイドル歌謡」の枠組がなくなり,ミュージカル(少年隊),ライブ(光GENJI)という柱を持たないSMAP以降のアイドルは,(深夜枠の)バラエティ番組というサブカル的領域からスタートせざるをえなかったSMAPの場合,『夢がMORIMORI』(92/4~,フジ,土曜23:30)が代表的番組(そこでの蓄積が『SMAP×SMAP』で生きる)。森口博子と森脇健児が司会デビュー曲(Can‘t Stop !!-Loving-,91/9)から13thまでは低空飛行。14th『がんばりましょう』(94年)でようやく72万枚のヒット
SMAP『Can’t Stop!!-Loving-』
1st。詞:森浩美/
曲:
馬飼野康二。九
一年九月九日。売上は不調。事務所の
力か異例の大抜擢で、紅白歌合戦には
デビュー年から出場。六人グループ
究極の“あやつり人形”
振付はぎこちなさが目立つ歌唱・受け答えを通して,二人とも無表情。きわめて無機質アイドルなのに笑顔を振りまくことはないバックにいるオトナに言われるがまま,何の抵抗もせずに存在する印象20年間以上にわたり培われてきた「アイドルの文法」を徹底的に破壊した
渡瀬マキ
1986ヤングジャンプクイーングランプリでアイドルとしてデビュー。シングルを3枚リリース(渡瀬麻紀)バックバンド・メンバーとその音楽仲間とでバンド「LINDBERG」を結成1989年に再デビューアイドルとして成功しなかったボーカリストがバンドとして生き残ったケース
芳賀ゆい
90年,伊集院光の「ANN」のプロジェクト。アイドル現象へのアンチテーゼだったが,結果的にはアイドルの幕引きに寄与?「芳賀ゆい」のキャラクター作りには多くのリスナーが参画。声・写真・握手などで57人の「芳賀ゆい要員」が動員される非実在だけど,ラジオだけにリスナーの多くの脳裏には実在する。未確認だけど,実体は確認できる。顔だけは誰も知らない
ZARD(坂井泉水)『In My Arms Tonight』は92年9月9日発売の5th。詞:坂井泉水/曲:春畑道哉
92年ごろまでは,バンドメンバーと宣伝のためにテレビ出演していたが,それ以降はCD・PVのみで,姿を見る機会も乏しかった
日清カップヌードルレーシン
グチームのRQ(
九〇年)
。岡
本夏生は同期。
『教えてMr.Sky』藤崎詩織 (1st single) ゲーム『ときめきメモリアル』ヒロインが歌う! 1996/12/5 詞:森雪乃丞/曲:財津和夫。15万枚。バーチャルアイドル! 中に人なんかいないよ!!
『ときめきメモリアル』94年にPCエンジン版。95年にPlayStation版が発売されてブレイク。CD-ROMフルボイスで,キャラクター曲も発売された
ライブアイドル
90年代初頭,専用劇場,都市郊外の小さなホールなどで頻繁にライブを開催し,「ライブ会場に行かないと会えないアイドル」が生まれたアイドルは「片方向」の存在ではなく,観客からも意志を伝える「双方向」の関係に進化した(おたくに潜在するプロデューサー願望)
「いかにアイドルに見せないか」小室哲哉がプロデュースし,TPD在籍の篠原涼子は『愛しさと せつなさと 心強さと』(94③)を162万枚売る。「with t.komuro」と,アイドルとしてではなく,小室の音楽的パートナーとして篠原涼子は売り出された。その手法は,「with t.komuro」とは,もはやつかないものの,華原朋美のプロデュースにも応用された。華原朋美のステージには,楽器で伴奏する小室哲哉が必ずいた。『I’m proud』(96⑧・137万枚)は,華原が「売れないアイドル」だったことからは画期的。
水野あおい『あおい伝説』
詞・曲/
沢田聖子、九四年一二月一六
日。『見つめていたい』C/w。ライ
ブハウスなど「地下」で、過剰なアイ
ドル的意匠を守り続けたが、メディア
の表舞台に彼女の居場所はなかった