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山麓臨時駐車場経由 本郭まで徒歩10分(急坂) 林道経由 郭2~本郭まで徒歩10分 〒355 - 0396 埼玉県比企郡ときがわ町大字桃木32 ときがわ町教育委員会生涯学習課 TEL.0493 - 65-2656 (直通) 平成30年9月発行 史跡比企城館跡群小倉城跡パンフレットvol.1 東武東上線 武蔵嵐山駅  ときがわ町路線バス せせらぎバスセンター行 田黒バス停下車 徒歩20分 関越自動車道 東松山・嵐山小川インター下車 国道254線 嵐山渓谷交差点経由20分 交通案内 電 車 自動車 発行・お問い合わせ 周辺案内図 曲輪を使う場合もある。土塁、柵、塀、自然地形に より囲まれ隔てられた場所。大小さまざまな大き さがある。城の中心となる場所は主郭又は本郭と 呼ぶこともあり、腰郭は小さなものもある。 土居(どい)とも呼ぶ。主に郭の周りなどに土を 盛って侵入をさまたげる防御施設。柵や塀、盾と組 み合わせて使用する場合もある。 城や郭の出入り口のこと。門が普請される場合 もある。城の攻防の要で坂や食い違い、前後の進路 に折れをもつなど様々な工夫が施された。 山城(やまじろ)に使用される堀。斜面の上下方 向に掘って横方向への移動を困難にしたもの。 山城(やまじろ)に使用される堀。尾根筋に設け て通行を分断して進路を遮るもの。 城の郭や虎口、土塁、堀などの配置。またその設計、 計画を言う。 (くるわ) 土塁 (どるい) 虎口 (こぐち) 竪堀 (たてぼり) 堀切 (ほりきり) 縄張り (なわばり) 城郭用語 年号 出来事 長享2 (1488) 永正2 (1505) 永正12 (1518) 天文6 (1537) 天文15 (1546) 永禄5 (1562) 永禄6 (1563) 12世紀 後半 13世紀 前半 13世紀 後半 14世紀 15世紀 16世紀 そ の 他 元亀・天正 1570~1592天正15 (1587) 天正18 (1592) 須谷原合戦。山内上杉、扇谷上杉相争う。 記録上、最も小倉城近くで行われた合戦。 扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に和を請う。 長享大乱終結。 遠山寺開山漱恕全芳示寂。 北条氏綱、河越城を攻略。扇谷上杉氏松山城へ 退去。松山城争奪戦はじまる。 河越夜戦。北条氏により松山城落城。 以後、北条氏康と太田資正の攻防により松山城 守将はめまぐるしく変わる。 和睦により上杉憲勝、松山城を退去。 北条氏は上田朝直を松山城守将とする。 再び太田氏側の手に落ちていた松山城を北条、 武田の連合軍で攻める。上杉輝虎(謙信)救援 のため出陣するも松山城落城。以後北条領国内 他国衆として上田氏が三代にわたり松山城主 となる。 遠山氏、小倉城に居城すると言われる。 (新編武蔵風土記稿) 上田□□□(安楽斎)朝直の隠居城ともいわれる。 (武蔵誌) 小倉城主遠山光景逝去。法名「桃雲宗見」。 (遠山寺過去帳) 豊臣秀吉による小田原攻めがはじまる。とき がわ町にも前田利家軍などからなる北国勢が 襲来。小田原攻めに伴い松山城も落城。 伝承では小倉城もこの折に正山より石火矢を 撃ち込まれて落城したとも伝わる。 略年代 遺物 備考 小倉城跡内最古。 伝世の可能性も。 小皿(本郭と山麓部) 瓦(山麓付近の熊野社に伴うもの板碑(本郭石積みとして転用) 板碑(意図的に破砕か) 古瀬戸後4新(山麓部) 渥美焼大甕 手づくねかわらけ 瓦、板碑 古瀬戸合子、 板碑片、陶磁器類 壁土、鉄製品、銅製 品、碗型滓、破砕礫 土壁立ちの建物・鍛冶作業・ 宗教施設などが想定される 遺物など。 陶磁器類( 白 磁・ 染付・瀬戸美濃焼・ 常滑焼)、 ロクロかわらけ 大窯1(山麓部・本郭) 大窯2~3(本郭) 白磁C、E群、染付C、E群(本郭) 年表 出土考古遺物年表 遠 景 空 撮 戦国時代の山城で、小田原北条氏の重臣遠山氏、 或いは松山城主上田氏がかかわりを持ったと言わ れています。発掘調査の成果では、天文から永禄 年間 ※1 頃に盛期を迎え、天正年間 ※2 後半頃に使わ れなくなったものと推定しています。 地元の石材下里石(緑泥石片岩など)により後 世の改修を受けていない戦国時代に限定される 大規模な石垣(石積み)が随所に見られる関東地方 ではまれな存在となっています。 城は、関東山地の西突端にあって、蛇行する槻川 と大平山、正山(塩山)に囲まれた天険の地に拠って います。東方眼下には菅谷館や大蔵宿、遙か遠くに は松山城を望み比企戦国史で絶好のポジションを とっています。また槻川・都幾川の河川交通と鎌倉 街道上道、山の辺の道(現在の八高線のルートに 沿うもので八王子城-鉢形城-高崎方面を結ぶ もの。)の陸上交通に密接にかかわりを持って存立 した城でもあります。比企地域に小田原北条氏が 進出する前後の時期で優れた縄張りを今に伝える 山城としても評価が高いものです。平成20年には、 比企城館跡群の一つとして国指定史跡となりました。 山麓部には城下集落が存在したようで山麓の 集落と中腹以上の要害の二元構造が予想され、今後 の調査の進展によりその解明が期待されます。 ※1天文から永禄年間(1532~1570) ※2天正年間(1573~1592) 小倉城とは 谷川橋 小倉林道入り口 至田黒バス停
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戦国時代の山城で、小田原北条氏の重臣遠山氏、 (1488) … · 2018. 10. 31. · 山麓臨時駐車場経由 本郭まで徒歩10分(急坂) 林道経由

Oct 05, 2020

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Page 1: 戦国時代の山城で、小田原北条氏の重臣遠山氏、 (1488) … · 2018. 10. 31. · 山麓臨時駐車場経由 本郭まで徒歩10分(急坂) 林道経由

山麓臨時駐車場経由 本郭まで徒歩10分(急坂)林道経由 郭2~本郭まで徒歩10分

〒355-0396 埼玉県比企郡ときがわ町大字桃木32ときがわ町教育委員会生涯学習課

TEL.0493-65-2656(直通)平成30年9月発行 史跡比企城館跡群小倉城跡パンフレットvol.1

東武東上線 武蔵嵐山駅 ときがわ町路線バス せせらぎバスセンター行田黒バス停下車 徒歩20分

関越自動車道 東松山・嵐山小川インター下車国道254線 嵐山渓谷交差点経由20分

交通案内

電 車

自動車

発行・お問い合わせ

周辺案内図

 曲輪を使う場合もある。土塁、柵、塀、自然地形により囲まれ隔てられた場所。大小さまざまな大きさがある。城の中心となる場所は主郭又は本郭と呼ぶこともあり、腰郭は小さなものもある。

 土居(どい)とも呼ぶ。主に郭の周りなどに土を盛って侵入をさまたげる防御施設。柵や塀、盾と組み合わせて使用する場合もある。

 城や郭の出入り口のこと。門が普請される場合もある。城の攻防の要で坂や食い違い、前後の進路に折れをもつなど様々な工夫が施された。

 山城(やまじろ)に使用される堀。斜面の上下方向に掘って横方向への移動を困難にしたもの。

 山城(やまじろ)に使用される堀。尾根筋に設けて通行を分断して進路を遮るもの。

 城の郭や虎口、土塁、堀などの配置。またその設計、計画を言う。

郭(くるわ)

土塁(どるい)

虎口(こぐち)

竪堀(たてぼり)

堀切(ほりきり)

縄張り(なわばり)

城郭用語

小倉城跡

小倉城跡

史跡

比企城館跡群

史跡

比企城館跡群

年号 出来事長享2

(1488)

永正2(1505)

永正12(1518)

天文6(1537)

天文15(1546)

永禄5(1562)

永禄6(1563)

12世紀後半

13世紀前半

13世紀後半

14世紀〜

15世紀

16世紀

そ の 他

元亀・天正(1570~1592)

天正15(1587)

天正18(1592)

須谷原合戦。山内上杉、扇谷上杉相争う。記録上、最も小倉城近くで行われた合戦。

扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に和を請う。長享大乱終結。

遠山寺開山漱恕全芳示寂。

北条氏綱、河越城を攻略。扇谷上杉氏松山城へ退去。松山城争奪戦はじまる。

河越夜戦。北条氏により松山城落城。以後、北条氏康と太田資正の攻防により松山城守将はめまぐるしく変わる。

和睦により上杉憲勝、松山城を退去。北条氏は上田朝直を松山城守将とする。

再び太田氏側の手に落ちていた松山城を北条、武田の連合軍で攻める。上杉輝虎(謙信)救援のため出陣するも松山城落城。以後北条領国内他国衆として上田氏が三代にわたり松山城主となる。

遠山氏、小倉城に居城すると言われる。(新編武蔵風土記稿)上田□□□(安楽斎)朝直の隠居城ともいわれる。

(武蔵誌)

小倉城主遠山光景逝去。法名「桃雲宗見」。(遠山寺過去帳)

豊臣秀吉による小田原攻めがはじまる。ときがわ町にも前田利家軍などからなる北国勢が襲来。小田原攻めに伴い松山城も落城。伝承では小倉城もこの折に正山より石火矢を撃ち込まれて落城したとも伝わる。

略年代 遺物 備考

小倉城跡内最古。伝世の可能性も。

小皿(本郭と山麓部)

瓦(山麓付近の熊野社に伴うもの)板碑(本郭石積みとして転用)

板碑(意図的に破砕か)古瀬戸後4新(山麓部)

渥美焼大甕

手づくねかわらけ

瓦、板碑

古瀬戸合子、板碑片、陶磁器類

壁土、鉄製品、銅製品、碗型滓、破砕礫

土壁立ちの建物・鍛冶作業・宗教施設などが想定される遺物など。

陶磁器類( 白 磁・染付・瀬戸美濃焼・常滑焼)、ロクロかわらけ

大窯1(山麓部・本郭)大窯2~3(本郭)白磁C、E群、染付C、E群(本郭)

年表

出土考古遺物年表

遠 景

空 撮

 戦国時代の山城で、小田原北条氏の重臣遠山氏、或いは松山城主上田氏がかかわりを持ったと言われています。発掘調査の成果では、天文から永禄年間※1頃に盛期を迎え、天正年間※2後半頃に使われなくなったものと推定しています。

 地元の石材下里石(緑泥石片岩など)により後世の改修を受けていない戦国時代に限定される大規模な石垣(石積み)が随所に見られる関東地方ではまれな存在となっています。

 城は、関東山地の西突端にあって、蛇行する槻川と大平山、正山(塩山)に囲まれた天険の地に拠っています。東方眼下には菅谷館や大蔵宿、遙か遠くには松山城を望み比企戦国史で絶好のポジションをとっています。また槻川・都幾川の河川交通と鎌倉街道上道、山の辺の道(現在の八高線のルートに沿うもので八王子城-鉢形城-高崎方面を結ぶもの。)の陸上交通に密接にかかわりを持って存立した城でもあります。比企地域に小田原北条氏が進出する前後の時期で優れた縄張りを今に伝える山城としても評価が高いものです。平成20年には、比企城館跡群の一つとして国指定史跡となりました。

 山麓部には城下集落が存在したようで山麓の集落と中腹以上の要害の二元構造が予想され、今後の調査の進展によりその解明が期待されます。

※1天文から永禄年間(1532~1570) ※2天正年間(1573~1592)

小倉城とは

谷川橋

小倉林道入り口至田黒バス停

宗教的利用時代

城時代

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郭1:二段構成で、三方向に開く虎口がある。川側の一部と上段郭を除いて1.5m前後の土塁が巡る。南虎口から東虎口の間の土塁内側に雛壇状に石積みが普請されていた①(埋戻し)。郭内には、5棟以上の建物と虎口に門が建つことが柱穴と礎石の存在から想定されている。

郭1:

櫓台状の高まり。架橋部分に横矢が掛る。櫓台状の高まり。架橋部分に横矢が掛る。

大堀切:クランクした横堀と竪堀を組み合わせたもの。大堀切:クランクした横堀と竪堀を組み合わせたもの。

❾郭5:下方に伝井戸跡を控える水の手郭的な要素も持つ。平場前面の見事な切岸。竪堀による進路規制と平場間を縫うつづら折れ通路。

❾郭5:下方に伝井戸跡を控える水の手郭的な要素も持つ。平場前面の見事な切岸。竪堀による進路規制と平場間を縫うつづら折れ通路。

❻郭3から本郭東虎口前の平場へは架橋して渡っていた。

郭3から本郭東虎口前の平場へは架橋して渡っていた。

❺郭3切岸面に積まれた下里石(結晶片岩・緑泥石片岩)による大規模な石垣。郭先端は直角ではなく隅丸に積む。 発掘調査にて総延長約130m、最大高5m確認後埋戻し。

郭3切岸面に積まれた下里石(結晶片岩・緑泥石片岩)による大規模な石垣。郭先端は直角ではなく隅丸に積む。 発掘調査にて総延長約130m、最大高5m確認後埋戻し。

大福寺平場:現地蔵堂の載る境内地の調査では直下に江戸期の寺にかかわる生活面があり、約1m下に戦国期と思われる面が確認されている。平場の東は、緩やかに傾斜して、段々畑のように造成されていて大福寺境内前遺跡として登録されている。トレンチ調査で、段切り遺構や柱穴などが確認されている。

大福寺平場:現地蔵堂の載る境内地の調査では直下に江戸期の寺にかかわる生活面があり、約1m下に戦国期と思われる面が確認されている。平場の東は、緩やかに傾斜して、段々畑のように造成されていて大福寺境内前遺跡として登録されている。トレンチ調査で、段切り遺構や柱穴などが確認されている。

現在は細長い湿地で、かつては田んぼ。 田んぼ以前は、大福寺平場に対する構堀であったことがトレンチ調査で判明。    墨書カワラケなどが出土。

現在は細長い湿地で、かつては田んぼ。 田んぼ以前は、大福寺平場に対する構堀であったことがトレンチ調査で判明。    墨書カワラケなどが出土。

郭3郭3

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郭1(本郭)郭1(本郭)

郭5郭5腰郭腰郭

腰郭腰郭虎口虎口

土塁土塁

土塁土塁

史跡 小倉城跡案内史跡 小倉城跡案内

虎口虎口

虎口虎口

竪堀竪堀

連続竪堀連続竪堀

二重堀切二重堀切

腰郭群腰郭群

井戸の沢(江戸田)井戸の沢(江戸田)

腰郭群腰郭群

熊野神社跡熊野神社跡

大福寺平場大福寺平場大福寺平場大福寺平場

横堀横堀

竪堀竪堀

竪堀竪堀

郭4郭4

槻川槻川

郭2郭2

郭4から郭2腰郭への通行は大堀切に架橋して渡っていた。

掘立柱建物跡柱痕掘立柱建物跡柱痕掘立柱建物跡掘立柱建物跡

郭1出土遺物1郭1出土遺物1

郭1出土遺物2郭1出土遺物2 井戸跡井戸跡 ❽❽東虎口東虎口

郭3石垣郭3石垣

桝形虎口桝形虎口

北虎口北虎口南虎口石積み南虎口石積み土塁内側雛壇石積み土塁内側雛壇石積み

郭1出土遺物3郭1出土遺物3 ❻❻橋台橋台