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39 物語の語りと近代小説 物語の語りと近代小説 『藪の中』 人称と語り 私語りには絶望がある。すでに 「近代 小説の 〈語 〈言 説〉」 (l) という論文で述 ぺたことだが、一人称の語りでは 説の 上で 虚構と事実との断絶 1 1 境界が明瞭に 判別できないのである。その論文の繰り返 しになるが、散文小説の規範は、三人称 過去であることを前提として、日常生活の 過去を表現する言説を考えてみると 固昨日、私は横浜駅にいた。(一人称) とは言えるが、この表出を他者に適用して、 固昨日、君は横浜駅にいた。(二人称) 囮昨日、太郎は横浜駅にいた。(三人 称) と言うことは 踏躇されるのである。「ら しい」 だろう」「そうだ」「ようだ」など と言 った 推最表現なしに、発話できないの 38 一頁 ' [ 和訳、四 ニー 四三 頁。ただし o] ( 13) 葛西善蔵の作 ファ ウラーの前掲 四八ー 八九頁がある。 ( 1 4 ) 日地谷 1 1 キルシュネライト 私小説自己暴露の燐式 島憲一 ほか訳、平凡社、 九九二年、四五五ー四 (15) 同上、 五六頁。正岡子規、「叙 00 年(松井利彦注釈 日本近代文学大系 1 6 正岡子規集 、角 密店、一九七二年 三六一 ー_―- 六九頁)。 ( 1 6 ) Gerard Genette , " Frontieres du recit " , Communication 8 ( 1966 ) , pp . 152 1 8 フィギュ 1 1 、花 輪光監訳 嘗牌 風の囲薇、 九八九年、五七 八一頁)] Genette , " Discours du recit " , in Figures I I I , Paris : Seuil , 1972[: ンェラ ール ジュネッ 語のディスク ール 、花輪光 和泉涼一訳、害騨 風の薔薇、 九八五年 ] . (17) Emile Benveniste , Probl emes de linguistique g~n~rale , P ar i s: Gal , limard , 1966 [エミ バンヴニニスト、 一般 言語 学の諸問題 、岸 本通夫監訳、河村正夫ほか訳 みすずむ房、一九八四年 l (18) Michel Foucault , L'arcMologie du savoir , Paris : Gallimard , 1 969 [-`、シェル ・フーコ 知の考古学」、中村雄 郎訳、河出曹房新社、一 九八 一年]. 本論文は、 Tom i Suzuki Narr a ting the Se l f: Fictions o f J apa , nese Modernity ( Stanford University P r ess , 1996 . 4 f l 5 日*江 g g江刊 Narratives of Japanese Modernity " の訳である。 Translated from NARRATING THE SELF : FICTIONS OF ]APA ' NESE MODERNITY by Tomi S u z uki w i th the permission of the pub l i she r s , Stanford University Press . 10 1 996 by the Board of Trustees of t h e L ela nd Stanford Junior Un i , versity . All rights reser ved . m 疇註疇 5Ha 明治 十年上田萬年博士に て帝国大学文科大学 が創 設さ れてから百周年を迎え 大学 の研究室の問題に止まる 大学における国 語学 の研究態勢の始まりという 周年記 念資料と 関係者七十名による記念論文集 江戸詩歌論塁 江戸時代の 詩をめぐる根源的な 問題を 漢詩を中 心に 、和 と雅 俗という概 念を座標軸にしつつ、諸ジャンルの 間を往遠 しながら解明し、 今後 に画期的な展望を拓く A5 判上 790 本体 12 00 0 高著 絶賛発売 守武千句考証沢井耐=一著 伊勢神宮の神 官荒木 田守武の初期俳諾の代表作『守武千句』の 全句注解ー室町人の生活と 葉、想像力を鮮やかに描き出す。 A5 判上 762 本体 1 8 00 0 梶原正昭著 軍記文学の位相 軍記文学の第 人者、梶原先生の待望の論文集なる。平家物語 を中心に、その前後 の軍 記研究を含め、幅広い視野で軍記文学 の展開を捉える。 A5 判上 500 本体 12 00 0 軍記文学の系譜と展開農正昭編 梶原正昭先生古稀記念論文集平 家物語 太平記をはじめ初期 軍記から後期軍記、さらに謡曲 ・能 への影響まで最新の研究成 果を収めた早稲田大学関係者 4 7 名による全国規模の論文集。 A5 判上製 790 本体 25 00 0 1 0 1 1 OD 束京都千代田区飯田橋ニー五 1 電話 ( -l 九七六四 FAX( - - - ) 八四五 である。だが、小説の 説では、例えば 芥川龍之介の 神神の微笑 或春の夕、 Padre Organtino はたっ た一人、長いアビト(法衣)の裾を引き ながら、南蛮寺の庭を歩いてゐた ( 2) と書き出されるのであ て、他者に推且表 現が使用されていないのである。この 過去でありながら推屈表現が用いられ ていないことは、この言説が虚構 1 1 小説で あることを指標している。と同時に、読者 は「 Padr e Org an tino 」と主人公が三人称 で明記してあるにもかかわらず、伺的に、 この 説を一人称的に読んでしまうのであ る。つまり、小説を読んだ際、読者があた かも主人公になったような錯覚に陥るのは このためで、三人称小説の主人公は、三人 汲古書院 称でも一人称でもある境界に位屈している 言え よう。 もっとも、この理解には欠陥がある。話 者が 実際に横浜駅にいて それを体験し た時には、この固団の表出は成立するから である。その場合 これらの 説は、 ⑮昨日、君は横浜駅にいた(のを私は 見た)。 囮昨日、太郎は横浜駅にいた(ことを 私は知 ている)。 といった自己体験を表現する文を、省略し て表現したものだと了解できるだろう。私 語りつまり 人称小説は、この言説に依拠 して表出されたもので、自己体験であるた 虚構であるか事実であるかの判断が 説の上に刻み込まれていないのである。 かえって、 説の上で うと 自己体験的 な、〈事実 を表現するものなのである。も
5

物語の語りと近代小説 - 福岡大学nakanok/lecture/lecture...Genette, "Discours du recit ", in Figures III, Paris: Seuil, 1972[: ンェラ ール ・ ジュネッ ト 『物

May 18, 2021

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39 物語の語りと近代小説

物語の語りと近代小説

『藪の中』

人称と語り

私語りには絶望がある。すでに、「近代

小説の

〈語り〉と〈言説〉」(

l

)

という論文で述

ぺたことだが、一人称の語りでは、言説の

上で、虚構と事実との断絶11境界が明瞭に

判別できないのである。その論文の繰り返

しになるが、散文小説の規範は、三人称/

過去であることを前提として、日常生活の

過去を表現する言説を考えてみると、

固昨日、私は横浜駅にいた。(一人称)

とは言えるが、この表出を他者に適用して、

固昨日、君は横浜駅にいた。(二人称)

囮昨日、太郎は横浜駅にいた。(三人

称)

と言うことは、踏躇されるのである。「ら

しい」

「だろう」「そうだ」「ようだ」など

と言

った推最表現なしに、発話できないの

38

一頁'[和訳、四ニー四三頁。ただし訳語を少し変えたo]

(13)

葛西善蔵の作品をめぐる啓発的な研究としては、エドワ

ード

・ファ

ウラーの前掲書、二四八ーニ八九頁がある。

(14)

日地谷11キルシュネライト、

「私小説自己暴露の燐式』、三島憲一

ほか訳、平凡社、

一九九二年、四五五ー四六二頁。

(15)

同上、

二五六頁。正岡子規、「叙事文」、一九

00年(松井利彦注釈、

「日本近代文学大系16

正岡子規集」、角川密店、一九七二年、三六一

ー_―-六九頁)。

(16) Gerard Genette, "F

rontieres du recit",

Communications 8

(1966), p

p.

152 1 63[ジェラ

ール・ジュネット「枷切Ill~の岳8

甲介」(「フィギュ

ール11」、花輪光監訳、嘗牌風の囲薇、

一九八九年、五七ー八一頁)]・

Genette, "D

iscours du recit", in Figures III, Paris: Seuil,

1972[: ンェラ

ール

・ジュネッ

『物語のディスク

ール」、花輪光

・和泉涼一訳、害騨

風の薔薇、

一九八五年].

(17) Emile Benveniste,

Problemes de linguistique g~n~rale

, Paris: Gal ,

limard,

1966 [エミ

ール・バンヴニニスト、

「一般言語学の諸問題」、岸

本通夫監訳、河村正夫ほか訳、みすずむ房、一九八四年l

(18) Michel Foucault, L'

arcMologie du savoir, Pa

ris: Gallimard,

1969

[-`、シェル

・フーコ

「知の考古学」、中村雄二郎訳、河出曹房新社、一

九八

一年].

本論文は、

TomiSuzuki著、

Narratingthe Self: Fictions of Japa ,

nese Modernity (Stanford University Press,

1996.

4fl印5

日*江g加g江刊

予定)の序章、••Narratives of Japanese Modernity"の訳である。

Translated from NARRATING THE SELF: FICTIONS OF ]APA'

NESE MODERNITY by Tomi Suzuki

with the permission of the publishers, St

anford University Press.

101996 by the Board of Trustees of the Leland Stanford Junior Uni ,

versity. All rights reser

ved.

m疇註疇嗜昇国語研究論集鰐5Ha

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1011

'OD七二

束京都千代田区飯田橋ニー五1四

電話

(

-l

―――六立)九七六四

FAX(=―-==-=-)一

八四五

を読むあるいは一人称語りの饗宴—|

'

である。だが、小説の言説では、例えば、

芥川龍之介の

「神神の微笑」は、

或春の夕、

PadreOrgantinoはたっ

た一人、長いアビト(法衣)の裾を引き

ながら、南蛮寺の庭を歩いてゐた(2)。

と書き出されるのであ

って、他者に推且表

現が使用されていないのである。この三人

称/過去でありながら推屈表現が用いられ

ていないことは、この言説が虚構11小説で

あることを指標している。と同時に、読者

は「PadreOrgantino」と主人公が三人称

で明記してあるにもかかわらず、伺的に、

この言説を一人称的に読んでしまうのであ

る。つまり、小説を読んだ際、読者があた

かも主人公になったような錯覚に陥るのは

このためで、三人称小説の主人公は、三人

汲古書院

称でも一人称でもある境界に位屈している

と言えよう。

もっとも、この理解には欠陥がある。話

者が、実際に横浜駅にいて、それを体験し

た時には、この固団の表出は成立するから

である。その場合、

これらの言説は、

⑮昨日、君は横浜駅にいた(のを私は

見た)。

囮昨日、太郎は横浜駅にいた(ことを

私は知

っている)。

といった自己体験を表現する文を、省略し

て表現したものだと了解できるだろう。私

語りつまり

一人称小説は、この言説に依拠

して表出されたもので、自己体験であるた

め、虚構であるか事実であるかの判断が、

言説の上に刻み込まれていないのである。

かえって、

言説の上で言うと、自己体験的

な、〈事実〉を表現するものなのである。も

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41 物語の語りと近代小説

っとも、そのために、

仙昨日、太郎は横浜駅にいた。そのこ

ろ花子は東京駅にいた(3)。

とは言えないのであって、太郎か花子のど

ちらかに推位表現を付けなくてはならない

のである。つまり、

一人称の表現では、

時間11異空間の表現は

r

推兄表現なしに表

出することができないのであ

って、自己体

験ではない時空には推量を示す言葉を使用

する必要があるのである。

このような現象は、現代語では、時の助

動詞が「た」のみであることから生成して

いる。古典語では「つ

・ぬ

・たり

・り

き・けり」という時の助動詞があり、この

ような現象は起こらないのだが、そのため

に、古代の物語では、本来は一人称でしか

用いなかった〈気付き/発見〉の「けり」を、

三人称に使用して、つまり〈語り〉の「け

り」を生成させて、虚構の指標としている

のである(4)

一人称的言説は、事実と虚構との差異を

言説の上に表出することができない。古代

後期の日記文学は、和泉式部日記などを除

けば、一人称の言説で叙述されているため、

蜻蛉日記の祓文で、道網母が「さてもあり

ぬぺきことなむおほかりける」と杏いてい

ても、どこが「ありぬぺきこと」か判明し

図のように表現できるだろう。語り手の声

に、登場人物の視点が、二声的に混在する

ことで、読者は、あたかも自分が薫に同化

して垣間見をしているかのような錯党に陥

るのであって、一人称/現在的にこの場面

を読んでしまうのである。

その場合、「にほひやかなるぺし」とい

う文は、語り手の場合、「べし」は推量の

意味であるから、語り手の判断が混入して

いるので、

この言説は草子地となる。語り

手の言説は、再現の言説である地の文のみ

ならず、自己言及的な文である草子地にも

表象されているので、このように草子地に

も自由間接言説が現象することになるので

ある。この他

にも、源氏物語では一人称的

言説が混在している。

例えば、桐壺巻の前

半部には、

0ものの心知りたまふ人は、

〈かかる

人も世に出でおはするものなりけ

り〉と、あさましきまで目を驚かし

たまふ。(m

|九七)

0

「なくてぞ」とは、〈かかるを

りに

ゃ〉と見えたり。

(m

|

IO I)

0このごろの御気色を見たてまつる上

人女房などは、〈かたはら

いたし〉と

聞きけり。

(m_-―二)

40

文脈と読みの多義性

ないのである。かえって、蜻蛉日記で言え

ば、道綱母自身を「わ」「われ」「あれ」な

どとして表出している以外に、「ひと」な

どと表現しているところに問題はあるだろ

う(5)0

ところで、物語文学は原則として三人称

/過去の言説で叙述され

ている。にもかか

わらず、物語文学には一人称/現在の言説

が紛れ込んでいる。例えば、橋姫巻には、

薫が、八の宮が不在の時に、宇治山荘を訪

ね、月下に姫君たちの姿を垣間見する有名

な場面がある。その垣間見場面の冒頭部分

を引用すると、

あなたに通ふべかめる透垣の戸を、

すこし押し開けて見たまへば、月をか

しきほどに霧りわたれるをながめて、

配が短く捲き上げて、人々

5が引。配

子に、

いと寒げに、身細く萎えばめる

童一人、同じさまなる大人などゐたり。

内なる人、

一人柱にすこしゐ隠れて、

琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりに

しつつゐたるに、雲隠れたりつる月の

にはかにいと明かくさし出でたれば、

「犀がらで、これしても月はまねきっ

ペかりけり」とて、さしのぞきたる顔、

いみじくらうたげににほひやかなるべ

などといった言説が鍍められている。あた

かも現場にいた女房の発話であるかのごと

き言説なのである。その場面に同席した、

このような女房の一人称視点も、読者をそ

の場面の傍らにいるかのごとき錯覚に導く

のである。このようにして、源氏物語は随

所に

一人称的視点を鍍めることで、他者の

眼差しに読者を誘い、多視点的で多陪的で

多義的な世界を実現してゆくのである。

三人称/過去の言説では、虚構を表象で

きるのだが、私語りの一人称/過去言説は、

自己体験を表出する言説であるため、事実

囮的な表出しか生成できない。その私語り

言説の文法を、逆説的に利用した近代小説

の代表が、芥川龍之介の「藪の中」である

と言ってよいだろう。同一の出来事に対し

て、三人の私語りを併四することで、事実

と虚構の境界を錯綜としてしまうのである。

藪の中に、出来事を導いてしまうのである。

この題名は「八幡の藪知らず」などの諺な

どから想起されたものなのだろうが、この

小説は、一九二二(大正一―)年一

月一日発

行の「新潮』第三六巻第一号に掲載され、

後に「春服』『沙羅の花」『将軍」にも収録

され

ている。まず、多典丸の私語りを分析

すると、その告白の前に、

「検非違使に問はれたる木樵りの物語」

「検非述使に問はれたる旅法師の物語」

「検非違使に問はれたる放免の物語」

「検非違使に問はれたる姫の物語」

が置かれていることを確認しておこう。初

出では、「木樵りの話」「旅法師の話」「放

免の答」「媚の話」となっていたのだが、

後に「物語」に統一したのである。

この四人の「物語」の聞き手が、検非違

使であることを強調しておこう。「物語」

は、他者に語りかけるものなのである。と

するならば、続く「多漿丸の白状」の聞き

手も、検非違使であることに疑問を持つ必

要がない。検非違使別当は重職で、京中の

取締

.訴訟

・裁判・刑務など警察と司法を

兼ね、公卿で衛門督や兵衛督あるいは中納

言を兼ねている人がなる場合が多い。都の

庶民が会うことができる最高級の只族だと

言ってよいだろう。そ

れゆえ、冒頭文が

「さやうでございます」と、「ある」の丁

寧な言い方で始まっているように、四人の

「物語」は、丁重に検非違使に向かって語

られているのである。「多痰丸の白状」も

「ございます」ほど丁寧ではないものの、

「です」「ます(「ません」が多い)」調で語

語り手(三人称/過去)

読者(二つの声)

登場人物(一人称/現在)

かれている。会話文の主格"主語

まり琵琶を弾いている姫君は誰かという問

題など、こ

の場面は、源氏物語研究ではさ

まざまな課題を抱えている個所なのだが、

それらの課題は回避して、国宝源氏物語絵

巻にも描かれているこの場面の、引用文に

付した傍線部分のみを分析してみよう。

傍線部分の「ゐたり」「にほひやかなる

べし」と判断しているのは、誰であろうか。

語り手の判断であると解釈できると同時に、

垣間見している登場人物煮の視点から述ペ

られているとも理解できるのである。「た

り」は、語り手の立場から言えば完了の意

で、蕉から言えば存続の意味になるし、

「ぺし」も、

推足の助動詞だが、語り手の

判断は当然そうなるというもので、薫から

言えば自然な様子を表出していることにな

る。こうした二つの声が聞こえる文を、自

由間接言説と言う(7)。実は、竹取物語か

ら、

この自由間接言説が、物語文学では使

用されており、物語文学の多視点的な世界

を生成して

いたのであ

る。図式化

すれば、上

し。

(固ー

一三一)(6)

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43 物諾の語りと近代小説 42

られ、四人とは異なり、検非迩使を丁寧に

敬っているものの、不遜な態度もあるとい

うアクセントで叙述されているのである。

検非違使が聞いたのは、四人の「物語」と

「多漿丸の白状」で語られる多襄丸の告白

のみなのである。

つまり、.権力者検非違使にとって、被害

.. ご

者で行方不明の真砂の「清水寺に来れる女

の懺悔」や、死骸となった金沢武弘の「巫

女の口を借りたる死霊の物語」は聞こえな

いのであって、この殺害事件の犯人は多嬰

丸以外に考えられず、事実、彼が事件を克

明に自白しているのである。国家権力にと

って、「懺悔」や「死霊の物語」は、証拠

とはならない、蔑視すべきものなのである。

犯人の自白調書の

みが証拠となるのである。

しかも、この調相は、「あの男を殺した

のはわたしです」と始まっており、自白調

書という、私語りの形式で述ぺられてい

のである。権力にと

って、「仏への懺悔」

や「死塁の物語」は必要ではない、無駄な

もの、おぞましいものなのだ。

「多漿丸の

白状」があれば、この事件の証拠は完璧で、

決闘だという弁解がのぺられているものの、

「若狭の国府の侍」を殺害したのだから、

多製丸という盗人は死刑として処罰された

と判断してよいだろう。自分の行為が悪い

口意の三業のすべてに渉

っているから、仮

に虚偽の懺悔ならば、観音による厳罰が下

ることになる。その懲罰は、権力によるも

のよりも、さらに籾神的な苦痛を伴うもの

になるだろう。読者の読みは、こうした確

信に到る。この懺悔は、

……兎に角わたしはどうしても、死に

切る力がなかったのです。小刀を喉に

突き立てたり、山の裾の池へ身を投げ

たり、い

ろいろな事もして見ましたが、

死に切れずにかうしてゐる限り、これ

も自慢にはなりますまい。(寂しき微

”)

笑)わたくしのやうに腑甲斐ないもの

は、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放

しなすったものかも知れません。しか

し夫を殺したわたしは、硲ばの手ごめ

に遇ったわたしは、

一体どうすれば好

いのでせう?一体わたしはーーわた

しは、_|(突然烈しき如船5

という場面で終わっている。死という罰を

受苦するために、観音菩薩に虚構の自己体

験を告白したという解釈も成立しないわけ

ではないが、それはあまりにも穿ちすぎで

あろう。「一体わたしはー|わたしは、

(突然烈しき駄欲)」という文は、洸惚

ことだと気付き、神仏に告白する懺悔も、

口寄せによる死者の霊の告白も、権力から

は排除すべきものなのであって、自白とい

う証拠が、処罰の根拠なのである。

この意味で、このテクストは、

〈権力〉を

主題群の一っとして設定していると言える

だろう。「多狸丸の白状」のなかで、多製

丸は、

何、男を殺すなぞは、あなた方の思

つてゐるやうに、大した事ではありま

せん。どうせ女を奪ふとなれば、必、

男は殺されるのです。唯わたしは殺す

時に、腰の太刀を使ふのですが、あな

た方は使はない。唯権力で殺す、金で

殺す、どうかするとお為ごかしの言葉

だけでも殺すでせう。成程血は流れな

い、男は立派に生きてゐる‘|ーしか

しそれでも殺したのです。罪の深さを

考へて見れば、あなた方が悪いか、わ

たしが悪いかわかりません。

(皮肉な

る微笑)

と述ぺている。意図的に、このテクストの

主題の―つが〈権力〉であることを、盗人の

言葉を通して述べているのである。一

九一

O(明治四三)年の「大逆事件」のフレーム

とした歓喜の気配はなく、判断中止の絶望

が標っているだけなのである。仏にさえ見

放され、茫然自失としている女の様子が表

出されていると了解できるのである。

ところで、「多漿丸の白状」では、

・:Iその太刀打ちがどうなったか

は、申し上げるまでもありますまい。

わたしの太刀は二十三合目に、相手の

胸を貫きました。二十三合目に、ーー

どうかそれを忘れずに下さい。わた<

しは今でもこの事だけは、感心だと思

つてゐるのです。わたくしと二十合斬

り結んだものは、天下にあの男一人だ

けですから。(快活なる微笑)

と語られていた。「太刀打ち」という決闘

で、二十三合も太刀を合わせて、胸を突い

て殺傷したと言うのである。

〈権力〉は、こ

の自白を事実として承認している。

しかし、〈権力〉が、排除し、無視してい

る、真砂の観音への「懺悔」は、

……しかし幸ひ小刀だけは、わたくし

の足もとに落ちてゐるのです。わたし

はその小刀を振り上げると、もう

一度

夫にかう云ひました。

「ではお命を頂かせて下さい。わたし

もすぐにお供します。」

夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇

を動かしました。勿論口には笹の落葉

が、一ばいにつまつてゐますから、声

は少しも聞えません。が、わたしはそ

れを見ると、忽ちその言葉を覚りまし

た。夫はわたしを蔑んだ儘‘r殺せ」

ほとん

と一言云ったのです。わたしは殆ど、

はなだ

夢うつつの内に、夫の線の水干の胸へ

づぶりと小刀を刺し通しました。

と述べられているのであって、金沢武弘は、

妻の真砂によって、組打ちの際、敵を刺す

のに用いる短刀で、胸を刺されて死んだと

言うのである。

王法という〈権力〉の前で有

罪となった多製丸は、仏法の前では無罪と

なっているのである。仏法も〈権力〉の一っ

であろうが、ここでは〈信仰〉の文脈という

用語を用いるが、

〈信仰〉というイデオ

ロギ

ーの前で、真砂は殺人者なのである。彼女

は、観音という仏法によって、死ぬこと

えもできない、絶望の淵に四かれているの

であって、殺生という不殺生戒を犯しなが

ら、それなりに武弘殺害の必然を抱えてい

る真砂は、いわば半殺し状態になっている

のである。

アップが想起されると記すと、考証がない

と批判されるだろうが、「皮肉なる微笑」

を浮かぺた盗人の口を借りて、〈権力〉批判

を試みていることは事実であろう。これは

近代の〈権力〉批判にも連続しているのであ

る。〈権力〉という文脈のなかで、多製丸は

有罪で死罪に当たるのである。

その権力が排除し、

一顧の配慮もしない

真砂の「懺悔」が、次に「清水寺に来れる

女の懺悔」として叙述される。聞き手は、

清水寺の観世音菩薩なのである。

この「藪の中」は、お伽草子

「三人法

師」や近世初期の

「七人比丘尼」r二人比

丘尼」の系譜に連なる懺悔物語の一っだと

言ってよいだろう。その痕跡が「懺悔」と

いう言葉に示唆されてい

るのである。懺悔

物語は、源氏物語帯木巻の「雨夜の品定」

でもバロディ的に用いられており、堤中納

言物語の「

このついで」にも見られ、伝統

のある形式なのである。

ところで、こ

の「酒水寺に来れる女の懺

悔」は、仏前に自己の罪過を告白する言葉

なのであるから、小説内では虚構の疑いが

もっとも少ないものだと理解できるだろう。

真砂の懺悔は、清水寺で清水観音に告白し

たものなのだから、誤りがないと了解できし

るのである。真砂の懺悔は、その罪過が身

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45 物語の語りと近代小説

三弥井書店〒108-0073東京都港区三田 3-2 -39 云 03(3452)8069 Fax 03(3456)0346

内容見本送呈

44

〈信仰〉という文脈のなかで、真砂は、戒

律を犯した、罪人なのである。この罪過か

らの救済は、この「懺悔」からは読み取れ

ないのだが、真砂自身が、観世音菩薩とい

う仏前で、自覚的に懺悔告白しているとこ

ろから、懺悔それ自体が救済であると判断

できるかもしれない。超越的なものへ語り

かけることが、慰撫にもなっているのであ

る。「巫女の口を借りたる死霊の物語」は、

多製丸の自白とも、真砂の懺悔とも異質な

世界に所屈している。語り手は、巫女であ

り、その背後にいる武弘の死霊なのであろ

うが、前二者とは異なって聞き手がだれか

が判明できないのである。真砂の母である

「姻」や、金沢武弘の両親やその親属など

が想定できないわけではないが、

おれはやっと杉の根から、疲れ果て

た体を起した。

小刀が一っ光つてゐる。

おれはそれを手にとると、

一突きにお

“重ぐさ

れの胸へ剌した。何か握い塊がおれの

へこみ上げて来る。が、苦しみは少

しもない。唯胸が冷たくなると、一膀

あたりがしんとしてしまった。ああ、

何と云ふ静かさだらう。この山陰の藪

の空には、

小鳥一羽囀りに来ない。唯

違ない。一人称小説とは、いかがわしい不

可解な巫女たちの欺賜に満ちた虚偽と、同

様なものに他ならないのである。「中有の

閻へ沈んでしまった」死者である作家芥川

龍之介が、巫女といういかがわし

い語り手

を通じて語る虚構「物語」、それも自死を

選択した、盗人と妻に侮辱され同時に同情

されるような「物語」が、〈文学〉なのであ

る。そしてその〈文学〉という文脈こそが、

虚構であるから、真実を内包できるのであ

る。武弘の「物語」には、「この男の云ふ

事を真に受けるな。何を云つても嘘と思

へ」という文がある。「真」と「嘘」との

融通無碍な世界が、このテクストを形成し

ているのでぁる。

この章の冒頭で三人の私語りが併置され

ていると述べたが、この「白状」と

「懺

うら

杉や竹

の抄に、寂しい日影が漂つてゐ

る。日影が、ーーそれも次第に薄れて

来る。もう杉や竹も見えない。おれは

其処に倒れた儘、深い静かさに包まれ

てゐる。その時誰か忍び足に、おれの

へ来たものがある。おれはそちらを

見ようとした。が、おれのまはりには、

何時か薄閤が立ちこめてゐる。誰か、

ーーその誰かは見えない手に、そ

つと

胸の小刀を抜いた。

同時におれの口の

中には、もう一度血潮が溢れて来る。

おれはそれぎり永久に、中有の閥へ沈

んでしまった。

という巫女の口を借りた武弘の霊魂による

私語りを読むと、口寄せで、親族に武弘の

自害を語るのは奇妙に思える。巫女などの

巫覗

・霊媒は、そ

の場に集う招魂を依頼し

た人々の意識を解釈して、託宣するからで

ある。殺害したのはどのような人物である

かを示唆しているならば、聞き手は、その

回答に満足する、

真砂の母ゃ武弘の両親あ

るいはその親属である可能性があるのだが、

明瞭に自殺を指示する語りは、親属を前に

した巫女の語りとは言えないのである。

〈権力〉や〈信仰〉さえ排除する、いかがわ

しい巫女による口寄せの聞き手は不在なの

悔」と「物語」は異なった位相に位置付け

られている。あえて言うならば、入籠型に

なっていると判断できるのであって、事件

を中軸に、〈権力〉の屈がとり囲み、さらに

〈信仰〉の層があり、その外側に〈文学〉の唇

が囲んでいるのである。しかも、外側に行

くにつれて、いかがわしさが増殖し、にも

かかわらず、そのおぞましい外側

が、〈権

カ〉という中心の言説を繋つのである。

『藪の中』について分析しなければなら

ない課題は多い。特に、話型が、三人の告

白とどのように関連しているかといった問

題は、別に論じなければならないだろう。

とにかく、

〈示すこ

と〉に対して〈語ること〉

よって異議申し立てを行なう物語学の視座

から、

このテクストを把握してみると、

〈文学〉という主題が浮上してくる。

〈文学〉

・・・シリーズ全十巻完結・:

幸若舞鼎研究第十巻

〔文部省助成出版〕

A

5判・上製本

.. 10485円

全巻セット本体

92065円

H本語文末詞の歴史的研究

藤原与一•佐々木峻編

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判・

上製•8800

である。

なお、

この

口寄せを、聞き手が、妻真砂

であるとする読みも可能であろう。苦悩の

末、巫女を訪れ、武弘の霊を招魂し、自己

を慰撫したのである。そうならば武弘自身

が自殺したと聞き、それなりに納得し、

慰されたのである。だが、この解読は、彼

女の「懺悔」と矛盾することになる。仏前

に自分が武弘を殺害したと告白しているの

だから、それが武弘自身の自害だという、

巫女の託宣を聞いても、慰撫されることは

ないだろう。

とするならば、この巫女の物語は

「藪の

中」の語り手による小説内虚構なのだ。つ

まり、

この口寄せの聞き手は、

このテクス

トの読者であり、

この託宣は、巫女による

騒りであることが示唆されているのである。

「白状」「懺悔」に対して、こ

の武弘の霊

の私語りが「物語」と書かれて

いるのも、

その証拠となるはずである。つまり、一

称/過去という自己体験を述べる私語りが、

事実と虚構の判読ができないという文法を

利用して、

虚構の中に虚構を設定したので

ある。なぜこのような自己言及的な「物

語」を設定したかと言うと、〈権力〉と〈信

仰〉の文脈に拮抗して、一人称の散文小説

つまり〈文学〉の文脈を生成したかったに相

とは、文字通り「巫女の口を借り足る死霊

の物語」なのであり、語り手も信用できな

い、聞き手も特定することのできない、い

かがわしい、おぞましい世界に属している

のだが、同時に、

〈権力〉や〈信仰〉を無化す

る可能性を宿しているのである(8)。

すでに、「日記文学としての梁陸秘抄口

伝集巻第十(定稿)ー院政期における男の仮

名日記あるいは「こゑわざ日記」と〈書く

こと〉1(9)」で引用したように、フィリッ

・ルジュンヌは「自伝契約」(IO)で「つま

り自伝は、著述のタイプであるのと同程度

に読解様式であり、歴史的に変化する契約

的効果なのだ」と述べているように、自伝

という認識の契約なしに、一人称叙述では

事実と虚構の判別はできないのであって、

「読解契約」つまりジャンル認定が、テク

民間芸能や民間伝承に深くかかわり形成された幸若冥曲を実地

調査と、諸本探索によって研究する。その実態に論考・注釈・

資料を持っ

て迫まる。幸若舞曲研究、初の全集。

【目次】

^論孜編〉幸若舞曲作品における民衆性/絵入り版本

「舞の本」の挿絵の形成/「美女丸」の在地伝承/幸若舞曲の語法

ーその四、助詞ー

^注釈編〉大日本記/入鹿大臣たひし記/

大織冠/百合若大臣/信田太郎軍功記/多田の満中一代記/馬

揃/夜討曽我/張良軍術記/新曲/三十記/本能寺/みやこいり

歴史的な背景を主眠に、日本詣の特徴ともいえる文末詞を多角的に考察・論究。

一目次】上古の文末

m/平安時代和文語文末詞について/近古の文末籾/現代日本

語における女性の文末訳/漱石作品の文末印/琉球宮古西原方言の文末詞他七編

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47 子どもがたり

時に、大人にとってありふれた現実が、

子どもに理解できないことがある。子ども

の視点から語られた小説、殊に一人称小説

において、かつて子どもだった読者は、そ

うした誤解、理解不能のありようを、ほほ

えましく読むことだろう。子どもを語り手

とした山岸荷葉の小説は、まさにそのよう

なものであった。

r蛍籠」(署名「かえふ」、明26.7

「詞海」)

は、蛍をもらった「僕」による現在進行形

の語り(発話と心内語)であるが、幼児の

「僕」は、鳥と同様蛍は「羽あるものなれ

ば同じく縞もて獲るにや。」と考えている。

また

「お灸」(「かえふ」、明29.7「少年世界」

13)の「私」(「幼稚園」入園前)は、身体の中

には虫がいて、「姉様見たやうな直泣く児

だと言ふと、虫が馬鹿にしてお即の中の井

戸から、水を掻出しては運んで来るから、

目から涙が出て、仕舞にはとう

L\目が浪

れる。」(六)という祖母の教えを素直に信じ

ている。

「おぽえ帳」(加賀のや著/紅葉山人補。明

30.9「新作文庫」一巻四号)は、姉妹作

「紅

巴(明30.7「新著月刊」)同様、少女が読者

に向かって直接語りかけるという形式を取

っているが、十一歳の「叫]が‘隣の下宿

の刈田を大鎌いというと、「国虹.の

声は丸

で変つて了つて、而して霞へてゐる。〔略〕

-』は

それは/\可恐い顔をして私を眠めるの、

それは今日に限った事ではない、刈田つて

人の事を悪く言ふと、いつも姉様は真赤に

ぉこ

なって憐るの。」(三)。「私」には、姉がな

ぜ怒るのかわからない。仲働のお瀧が、

「「是でございますよ。」と親指を出して見

子どもがたりー明治二十年代一

人称小説一斑ー

せる。「親指?」つて聞けば、明定いと見

えて↓ぢ笑つて、「岳‘叡印の旦那様

ー姉様はあの方の奥様におなりなさりた

いのでございますよ。」」(四)と言われて驚

く、という風なのである。

これらは、「童の幼い魂をレンズに据え

て、人情、世態、風俗を新鮮な目でとらえ

ようという」手法(

1

)

であり、早川美由紀

「山岸荷葉の一人称小説ーー

子供の視点の

発見ーー」(2)が的確に分析したように、

「子供のあどけなさや無邪気さを、第三者

の語り手が口を挟まず、直接読者に読み取

らせることによって強調し表現する事を可

能にし」た一人称小説であった。

「紅箪」の「私」は普段から芸者に接す

る機会が多く、「まだよく分らないけども、

46

ストを決定するのである。また、ルジュン

ヌは「自伝が前提とする語り手と主人公の

同一性は、大抵の場合、一人称の使用によ

って示される」とも書いて

いる。自伝と表

裏する一人称小説も、読者の「読解契約」

つまりジャンルの認定によって虚構と判断

されるのであって、言説の上に虚構を刻み

込むことは不可能なのである。

しかし、

「藪の中」

の「多漿丸の白状」

などを事実聞として読むことはないだろう。

1レーム

それは枠があるからで、芥川龍之介という

著者名

・文庫などの判型

・表紙・題名

・帯

など、小説であることを指示する外的な徴

候が多数刻み込まれているからである。そ

うしたジャンルを示唆する枠によって、辛

うじて虚構であると認識した読者は、

「藪

の中」を祐種する。しかし、

〈示すこと〉を

軸に解読するかぎり、このテクストは姿を

現さないだろう。

いくつかの

「藪の中」論を読むと、推理

小説であるかのごとき認識で、

犯人探しの

謎解きがいくつもあった。しかし、その犯

人探しの決定的な証拠などないのである。

小説の中での、一人称/過去の言説は、小

説内的事実であり、三人の鮒鮨している事

実を統率する視点はないのである。しかし、

〈語ること〉に注視すると、このテクストが

描いている主題群が新たに浮上し、各私語

りの多義的で重屈した構造が明晰化されて

くる。一人称/過去の言説を、最高に利用

した小説が、ここに誕生したのである。こ

のテクストは、私語りという一人称/過去

言説の饗宴なのである。

(l)

三谷邦明編〈双物語学を拓く2〉「近

代小説の〈語り〉と〈言説〉」

所収。

(2)

「芥川龍之介全集」(岩波布店)第八巻。芥

川龍之介のテクストの引用は、すべてこの全

集を用いている。

(3)

現代では、テレビや電話などもあり、こ

の表現も成立するという批判があったが、そ

の場合も、どちらかに「と電話で知った」な

どと付け加えないと、話者は日本語を知らな

いと馬鹿にされるだろう。

(4)

「けり」につ心ての筆者の説は、「「物語」

r小説」は同じかー助動詞「た』と「けり」

あるいは虚構の言説—」(『国文学」一九九七

年二月号)を参照してほしい。

(5)

錆蛉日記の「ひと」という表現について

は、

「源氏物語と語り手たちー物語文学と被

差別あるいは源氏物語における〈語り〉の文学

史的位相ー」(r物語文学の言説」第三部第六

章)を参照してほしい。

(6)

源氏物語の引用は、日本古典文学全集。

記号などを改訂している。

(7)

自由問接言説は、使用する言語や研究者

によって、自由間接話法、描出話法、再現話

法、体験話法、自由間接体などの用語で研究

されている。私は、

freemd1rect discourse

の訳語として用いている。なお、自由間接言

説については、

国「源氏物語の言説分析ー語り手の実体化あ

るいは澪揉巻の明石君の一人称的言説をめ

ぐってー」(「国文学研究』百十二集所収)

伽「源氏物語の〈語り〉と〈言説〉ー〈垣問見〉の

文学史あるいは混沌を増殖する言説分析の

可能性ー」(三谷邦明編〈双芭物語学を拓

く1〉r源氏物語の〈語り〉と〈言説〉』

所収)

などの一連の論文で論じている。また、

近代文学に関しては、

囮「『羅生門」の言説分析ー方法としての自

由間接言説あるいは意味の重庖性と惇徳者

の行方ー」(注(1)

に所収)がある。

(8)

芥川龍之介のテクストでは、実体的な語

り手を設定する傾向があることは注(7)の囮

を参照してほしい。

(9)

今西浩子編著

『こゑわざ日記[梁陛秘抄

ロ伝集巻第+]総索引」所収。

(10)

花輪光監訳井上範夫・

住谷在稚訳。

〈追記〉この論文を作成するために、いくつかの

「藪の中」論を読んだが、論旨と差異がある

ため、あえて引用するのをさけた。ただ、読

まなかった論文に、本論の指摘と重なるもの

があるのを恐れている。