39 物語の語りと近代小説 物語の語りと近代小説 『藪の中』 人称と語り 私語りには絶望がある。すでに 、 「近代 小説の 〈語 り 〉 と 〈言 説〉」 (l) という論文で述 ぺたことだが、一人称の語りでは 、 言 説の 上で 、 虚構と事実との断絶 1 1 境界が明瞭に 判別できないのである。その論文の繰り返 しになるが、散文小説の規範は、三人称 / 過去であることを前提として、日常生活の 過去を表現する言説を考えてみると 、 固昨日、私は横浜駅にいた。(一人称) とは言えるが、この表出を他者に適用して、 固昨日、君は横浜駅にいた。(二人称) 囮昨日、太郎は横浜駅にいた。(三人 称) と言うことは 、 踏躇されるのである。「ら しい」 「 だろう」「そうだ」「ようだ」など と言 った 推最表現なしに、発話できないの 谷 邦 明 38 一頁 ' [ 和訳、四 ニー 四三 頁。ただし o] ( 13) 葛西善蔵の作 ー ド ・ ファ ウラーの前掲 書 、 二 四八ー ニ 八九頁がある。 ( 1 4 ) 日地谷 1 1 キルシュネライト 「 私小説自己暴露の燐式 』 、 三 島憲一 ほか訳、平凡社、 一 九九二年、四五五ー四 (15) 同上、 二 五六頁。正岡子規、「叙 00 年(松井利彦注釈 、 「 日本近代文学大系 1 6 正岡子規集 」 、角 川 密店、一九七二年 、 三六一 ー_―- 六九頁)。 ( 1 6 ) Gerard Genette , " Frontieres du recit " , Communication 8 ( 1966 ) , pp . 152 1 の 岳 8 甲 介 」 ( 「 フィギュ ー ル 1 1 」 、花 輪光監訳 、 嘗牌 風の囲薇、 一 九八九年、五七 ー 八一頁)] ・ Genette , " Discours du recit " , in Figures I I I , Paris : Seuil , 1972[: ンェラ ール ・ ジュネッ ト 『 物 語のディスク ール 」 、花輪光 ・ 和泉涼一訳、害騨 風の薔薇、 一 九八五年 ] . (17) Emile Benveniste , Probl emes de linguistique g~n~rale , P ar i s: Gal , limard , 1966 [エミ ー ル ・ バンヴニニスト、 「 一般 言語 学の諸問題 」 、岸 本通夫監訳、河村正夫ほか訳 、 みすずむ房、一九八四年 l (18) Michel Foucault , L'arcMologie du savoir , Paris : Gallimard , 1 969 [-`、シェル ・フーコ ー 「 知の考古学」、中村雄 二 郎訳、河出曹房新社、一 九八 一年]. 本論文は、 Tom i Suzuki 著 、 Narr a ting the Se l f: Fictions o f J apa , nese Modernity ( Stanford University P r ess , 1996 . 4 f l 印 5 日*江 g 加 g江刊 Narratives of Japanese Modernity " の訳である。 Translated from NARRATING THE SELF : FICTIONS OF ]APA ' NESE MODERNITY by Tomi S u z uki w i th the permission of the pub l i she r s , Stanford University Press . 10 1 996 by the Board of Trustees of t h e L ela nd Stanford Junior Un i , versity . All rights reser ved . m 疇註疇 5Ha 明治 三 十年上田萬年博士に っ て帝国大学文科大学 室 が創 設さ れてから百周年を迎え 一 大学 の研究室の問題に止まる 大学における国 語学 の研究態勢の始まりという 周年記 念資料と 関係者七十名による記念論文集 。 江戸詩歌論塁 江戸時代の 詩をめぐる根源的な 問題を ` 漢詩を中 心に 、和 ・ 浪 と雅 ・ 俗という概 念を座標軸にしつつ、諸ジャンルの 間を往遠 しながら解明し、 今後 に画期的な展望を拓く 。 ▼ A5 判上 製 / 790 頁 / 本体 12 00 0 円 高著 絶賛発売 中 守武千句考証沢井耐=一著 伊勢神宮の神 官荒木 田守武の初期俳諾の代表作『守武千句』の 全句注解ー室町人の生活と 言 葉、想像力を鮮やかに描き出す。 ▼ A5 判上 製 / 762 頁 / 本体 1 8 00 0 円 梶原正昭著 軍記文学の位相 軍記文学の第 一 人者、梶原先生の待望の論文集なる。平家物語 を中心に、その前後 の軍 記研究を含め、幅広い視野で軍記文学 の展開を捉える。 ▼ A5 判上 製 / 500 頁 / 本体 12 00 0 円 軍記文学の系譜と展開農正昭編 梶原正昭先生古稀記念論文集平 家物語 ・ 太平記をはじめ初期 軍記から後期軍記、さらに謡曲 ・能 への影響まで最新の研究成 果を収めた早稲田大学関係者 4 7 名による全国規模の論文集。 ▼ A5 判上製 / 790 頁 / 本体 25 00 0 円 1 0 1 1 ' OD 七 二 束京都千代田区飯田橋ニー五 1 四 電話 ( -l ― ― ― 六 立 ) 九七六四 FAX( = ― - = = - = - ) 一 八四五 である。だが、小説の 言 説では、例えば 、 芥川龍之介の 「 神神の微笑 」 は 、 或春の夕、 Padre Organtino はたっ た一人、長いアビト(法衣)の裾を引き ながら、南蛮寺の庭を歩いてゐた ( 2) 。 と書き出されるのであ っ て、他者に推且表 現が使用されていないのである。この 三 人 称 / 過去でありながら推屈表現が用いられ ていないことは、この言説が虚構 1 1 小説で あることを指標している。と同時に、読者 は「 Padr e Org an tino 」と主人公が三人称 で明記してあるにもかかわらず、伺的に、 この 言 説を一人称的に読んでしまうのであ る。つまり、小説を読んだ際、読者があた かも主人公になったような錯覚に陥るのは このためで、三人称小説の主人公は、三人 汲古書院 称でも一人称でもある境界に位屈している と 言え よう。 もっとも、この理解には欠陥がある。話 者が 、 実際に横浜駅にいて 、 それを体験し た時には、この固団の表出は成立するから である。その場合 、 これらの 言 説は、 ⑮昨日、君は横浜駅にいた(のを私は 見た)。 囮昨日、太郎は横浜駅にいた(ことを 私は知 っ ている)。 といった自己体験を表現する文を、省略し て表現したものだと了解できるだろう。私 語りつまり 一 人称小説は、この言説に依拠 して表出されたもので、自己体験であるた め 、 虚構であるか事実であるかの判断が 、 言 説の上に刻み込まれていないのである。 かえって、 言 説の上で 言 うと 、 自己体験的 な、〈事実 〉 を表現するものなのである。も