Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. Buddhism All-Japan Network 無常を観ずるは 菩提心の一なり 仏教の生きる意味を現代へ 通信コース[初級]⑩ この通信コースは、2600 年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で 体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
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無常を観ずるは
菩提心の一なり
仏教の生きる意味を現代へ
通信コース[初級]⑩
この通信コースは、2600年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で
体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より
も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
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通信コース⑩
無常を観ずるは菩提心の一なり
今回は、序盤最後の山場です。
大変深い内容になっています。
ちなみに、映像の背景にある「盆栽」は特に意味はありません。
アメリカの人が作ってくれたのですが、
なぜか盆栽だったというだけです。
背景よりも内容が重要ですが、
ここまでくればお気づきの方もあると思いますが、
このテキストよりも、映像で聞いた方が分かりやすいはずです。
それでも、何度か繰り返し聞かないと、
理解できないかもしれません。
また、無常ということは、もともと知識として知っていたとしても、
どの位心に深く落ちたかは人それぞれです。
少しでも深く理解できるように、
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それが自分にとって何を意味しているのか、
よくよく受けとめて頂きたく思います。
それでは早速始めましょう。
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無常を観ずるは菩提心の一なり
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
この「一」という漢字は、「はじめ」と読みます。
「観ずる」とは、
感覚的に「感じる」ではありません。
観察の「観」が使われています。
これは感じるのではなく、「見つめる」ということです。
無常を見つめるは、菩提心の一なりということです。
「無常」とは、一切のものは続かない、すべて移り変わっていく
ということです。
田舎から出ていく彼氏に
「都会の色にそまらないで」
と思っても、
「ぼくは変わっていく、もう田舎には帰れない。許して」
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となる。
「去る者は日々に疎し」といわれます。
すべて移り変わっていく。
これら一切が移り変わることを見つめるのが
「菩提心のはじめなり」
ということです。
「菩提心」とは、
「菩提」とは本当の幸せですから、
「菩提心」というのは、本当の幸せになりたい心です。
本当の幸福とは?
仏教では本当の幸福か、本当の幸福ではないか、
その決定的な違いは何かといいますと、
「変わらないか、どうか」です。
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変わってしまうものは、本当の幸福ではありません。
本当の幸福とは変わらない幸福であるということです。
この変わらない幸福のことを、
歎異抄には、「摂取不捨の利益」と記されています。
「不捨」とは捨てず、
「摂取」とはおさめとる。
「おさめとって、捨てず」ということですね。
一度、摂取不捨の利益になったならば、
永遠に、捨てられることがない。色あせることがない。
変わらない幸福になれるんだということです。
ところが、普通私たちが、求めている幸せは、崩れる幸せです。
例えば、
「恋人に捨てられる」という言葉がありますが、
恋人は「捨てず」ではありません。
捨てられる時があります。
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また、最近の若い人がみんな分かり易い例に、
記録できるゲームがあります。
ロールプレイングゲームなどで、今までの冒険の記録が残っている。
そして今日また続きをやろう、とゲームを始めると、
今までのプレイの記録が消えている。
最初からやり直し。これは幸せが崩れます。
中には、10年以上もプレイの記録を残して楽しんでいる人が
いるそうですが、10年もプレイの記録が消えてしまったら、
「おれの10年間は一体何だったんだ-」
と苦しみます。
私たちの幸せは崩れる時がくるんですね。
だんだん年をとっていけば、着実に、
記憶力も体力も着実に落ちて、昔できたことができなります。
私たちの幸せは続きません。
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しかも幸せなほど不幸が……
しかも、幸せが大きいほど、私たちは、苦しみ悩みます。
たとえば、昔、結婚して
「恐いほど幸せ」
と言っている芸能人がありました。
「幸せ」と「恐い」ということは、
逆の感情ではないかと思います。
なぜ幸せなのに、恐いのかといいますと、
その幸せが、余りにも大きい為に、
崩れるんではないかと、不安だったということです。
今までの経験上、幸せは続いたことがなかった。
この幸せも、崩れてしまうのではないかしらということで、
幸せの絶頂にいる時を「恐いほど幸せ」と言ったのです。
余程理想的な人と結婚できたのかもしれません。
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もしこれが、それほど好きでもない人と、
妥協によって結婚したのであれば、
「恐いほど幸せ」にはなれません。
幸福の絶頂というほどでもないので、
落ちたショックも苦しくありません。
ところが、最高に理想的な人と結婚した場合には、
幸せの絶頂なので、
この幸せ崩れるんじゃないかしら、と不安もついてきます。
これを「恐いほど幸せ」と言います。
実際、この芸能人は、現在、その人と離婚してしまっています。
予感が的中してしまっているんですね。
人は山の頂上にのぼることはできるが、長くとどまることはできない
と言われます。
一時的に幸せであっても、
やがて必ず、崩れ去って行くということです。
これも有名な歌で、
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「あなたのやさしさだけが恐かった」
と言うフレーズがあります。
早稲田大学の学生時代、神田川の近くに同棲していたあの頃を
回想した歌です。
二人で横丁の風呂屋にいったとか、そこは今、
ドン・キホーテになっているとか、色々ありますが、
その一番いいところ、
「若かったあの頃、何も怖くなかった。
ただあなたの優しさだけが恐かった」
と歌っています。
学生が恐いものといえば、
例えば赤点が恐い、留年が恐い。
教授が恐い、親が恐いということがあります。
バイトがなくて、貧乏が恐いというのもあるかもしれません。
ところが、若かったあの頃、何も怖くなかった。
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「留年なんて恐くない、彼さえいれば」
「貧乏なんて恐くない、彼さえいれば」
「親なんて恐くない、彼さえいれば」
ただ一つだけ恐いものがあった
「あなたの優しさ」だけが恐かった。
あまりに優しいので、あなたの一挙手一投足が気になって
この優しさが続かなかったらどうしよう。
幸せの絶頂にいたので、不安だった。
あなたの優しさだけが恐かった。
「恐いほど幸せ」と同じですね。
このように、幸せが大きいほど、一緒に不安もついてくる。
ちょうど酒に酔った人が、
電車の扉によりかかっているとします。
扉をたよりにしている時は、幸せなんですが、
電車は、駅によって
右側の扉が開いたり、
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左側の扉が開いたりして、
やがて必ず、自分のよりかかっている扉が開きます。
その時、酔っていれば酔っているほど、
寄りかかり方が大きいほど、大きくひっくりかえります。
ちょうどそのようなものです。
私たちは、その幸せを強く信じていればいるほど、
裏切られた時、苦しみ悩み、怒りや悲しみが大きくなるのです。
ところが、仏教でいう本当の幸せは
変わらない幸せです。
一切が変わっていく、そういうことが知らされれば知らされるほど、
無常ということが、知らされれば知らされるほど、
無常を見つめるほど、
どこかに変わらない、本当の幸福はないものかと
求める心が強くなってくるということです。
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という歌があります。
「亡びる」とは、移り変わるとか、壊れるということです。
大切なものを失った経験があればあるほど、
変わらないものを求める気持ちが強くなる。
崩れたら崩れた時さというような人は、
まだあまり、崩れた経験がないのかもしれません。
信じていたものに、裏切られれば裏切られるほど、
ではどこかに変わらない幸せはないものかという、
求める気持ちが強くなる、ということです。
歎異抄に記された真実
このことは、日本で最も読まれている仏教書
「歎異抄」にも出ています。
一切の亡びる中に亡びざる
真実求めてただひたすらに
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「この世のすべてはたわごとだ」
だとすれば一見反社会的ですが、一体何を言われているのでしょうか。
「火宅」とは、火の付いた家ということです。
隣の家が火事で、隣から火が出て、
自分の家のひさしに燃え移った状態です。
そんな家では、とても安らかにしていられません。
「火宅」とは、「不安」ということです。
なぜ不安なのかというと「無常」だからです。
すべてが移り変わっていく。
「火宅無常の世界」と言われています。
私たちの世界が不安ばかりなのは、
火宅無常の世界は万のこと皆もって空言たわごと真実あることなし。
(歎異抄)
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無常だからなんだということです。
だから「万のこと皆もって」
「万のこと」とは、すべてのこと。
「皆もって」とは例外なく。
同じことを二度くりかえされて大変強調されています。
例えば「二度と再び」というのも同じことなんですが、
「二度と致しません」と言うよりも、
「二度と再び致しません」と言った方が、
何となくそんな気がするようなものです。
「万のこと皆もって」とは、すべてのこと、例外なく、
「空言たわごと真実あることなし」
真実たよりになるものは、一つもないのだ。
裏切らないものは、一つもないのだと言われているのです。
無常を観ずるは菩提心の一なり
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もう一度最初の言葉に戻りますと、
「はじめ」は、ここで漢字で書くとなぜ「一」なのかというと、
確かに「はじめ」なら他にも色々な漢字はあります。
例えば始業式の「始」とか
初場所の「初」があります。
ところがこれらの漢字の場合は、何度でもある「はじめ」です。
始業式といえば、一年に三回始業式があります。
初場所も何度もあります。
ところが「一」の場合は
一がなければ二がない、
二がなければ三がない。
「第一歩」という意味なのです。
ですから「菩提心の一なり」とは
「菩提心の第一歩である」ということです。
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「無常を観ずるは菩提心の一なり」
まず、無常を見つめることが、本当の幸福の、第一歩である。
無常を見つめないことには、
第一歩が踏み出せないのだということです。
ではどれ位、無常を見つめていますか?
世の中には、無常に敏感な人もいれば、
鈍感な人もいます。
普通の直感と違って、なぜか年がいくほど鈍感になっていき、
若いほど敏感なようですが、個人差がありますので、
その限りではありません。
その無常に対する感度を、
お釈迦様は四通りの馬にたとえて教えられています。
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「鞭影を見て驚く馬」とは
乗っている人が、振りかざした鞭の影をみて驚き、走り出す馬。
大変な駿馬です。
「鞭、毛に触れて驚く馬」とは
鞭が毛に触れただけで驚いて、走り出す馬です。
「鞭、肉に当たって驚く馬」とは
鞭がばしっと肉にあたって走り出す馬、普通です。
「鞭、骨にこたえて驚く馬」とは
四馬の譬喩
(1) 鞭影を見て驚く馬。
(2) 鞭、毛に触れて驚く馬。
(3) 鞭、肉に当たって驚く馬。
(4) 鞭、骨にこたえて驚く馬。
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鞭が肉に当たっても、感じない。
だから、ばしばしばしばし打たれて、やがて肉が切れ、血が出て
骨まで見えてきた。その骨にあたってはじめて驚き、走り出す。
大変な駄馬です。
では一体、どんな人をたとえているのかといいますと、
「鞭影を見て驚く馬」とは
落ちる花や、火葬場より立ち上る煙を眺めて、
やがて我が身にも襲いかかる死に真剣に驚く人。
「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、
葬式の行列や、霊柩車を見て、我が身の無常に驚く人です。
霊柩車を見て、自分もやがてあの霊柩車に乗って、
運ばれてゆく時がやってくるのだと我が身の無常に驚く人ですね。
「鞭、肉に当たって驚く馬」とは
親戚や、隣の家の人の葬式で、我が身の無常に驚く人です。
近所の葬式を手伝いに行った時、昨日まであんなに仲良く話を
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していたのに、今日はもう死んでしまった。
しかし、今日は人の身、明日は我が身、
やがて自分の葬式を他の人が手伝いに来る時があるのかと驚く人です。
また「眼前の無常」、目の前で人が死んで行くのを見て、驚く人。
例えば、駅のホームに立っていたら、目の前で飛び込み自殺が
起きた。これ自体はとても驚きます。
そして死んでしまった人を目の当たりにして、
自分もこうやって死んで行く時がくるのか、
我が身の無常に驚く人です。
「鞭、骨にこたえて驚く馬」とは
肉身の死にあってようやく自分の無常に驚く人です。
自分を生んで、育ててくれた、母親が死んでいった。
火葬場から、母親の遺骨、灰になったひとつまみの白骨となった
遺骨を持って火葬場を出てくる時というのは、
どんな遊び人であってでも、
「自分を育てる為に、働いて働いて苦労して、死んで行ってしまった。
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一体母親の人生は何だったんだろう。
自分は一体母親のために何ができたんだろう
自分は一体何のために生きればいいんだろう」
誰しも考えるものです。
自分もやがて死んで行かなければならないが、
一体生きている間に何をすればいいのか、生きる目的は何か。
妻や夫、子供など、肉身の死にあえば、我が身の無常に驚きます。
ところが、私たちは、しばらくすれば、
そのショックも忘れて、もとの日常に戻ってしまいます。
一年もたてばまた何事もなかったかのような
日常に戻るのではないでしょうか。
一時はさあ大変と驚くのですが、それもしばらくの間。
お釈迦様は、四通りに分けて教えられていますが、
5番目が必要な位ではないでしょうか。
私たちは、無常に対して非常にに鈍感なのです。
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さらに恐ろしいことに……
「無常」は、大変恐ろしいことです。
100%確実に死んで行きますので。
ところが、もっと恐ろしいのは、真剣にそう思わない心なのです。
という歌があります。
一日中歩き回って疲れたのか、鹿が寝ていると、
ガサガサッと落ち葉のふれあう音がします。
ピクッと起きて見ると、何もいないので、また寝てしまう。
しばらくすると、またガサガサッと落ち葉のふれあう音がする。
そこでまたピクッと起きて見渡すと何も見えないので、
また寝てしまう。
そういうことをくりかえしているうちに、
近づいてきた猟師の射程距離に入って
ズドーン
起きて見て また寝る鹿の 落ち葉かな
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銃声が響く。
落葉の音と思い違いした油断から、鹿の命が落葉となってしまった
というのが、
「起きて見て また寝る鹿の落ち葉かな」
という歌です。
これは、愚かな鹿だけのことではありません。
私たちも、無常を見つめ、一時は、驚くのですが、
すぐにまた元通り、自分が死んでいくなんて全然考えなくなってしまう。
そしてまたある時、近くの人が死んだりして、また驚く。
ところがしばらくすると、また元通りになってしまう。
油断してそういうことを繰り返して
あっという間に自分が死ぬ時が来てしまうんだ、
ということです。
確実に死んで行くことは、大変恐ろしいんですが、
真剣にそう思わない心はもっと恐ろしい。
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気づかないうちに、無常が忍び寄っているのだということです。
命の消えゆく速さ
四十二章経というお経には、
釈尊が修行者たちに命の長さについて尋ねておられます。
「そなた、命の長さは、そなたがた、どれくらいだと思うか」
と聞かれると、修行者Aは
「命の長さは五・六日間でございます」
と答えました。お釈迦様それには満足されず、
他のお弟子に尋ねました。
修行者Bは
「命の長さは五・六日なんてありません。
まあ食事をする間位のものでございます」
5~6日も食事をする間も大変早いと思います。
ところがそれにもお釈迦様は、満足されず、
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修行者Cは、
「いやいや命の長さは一息つく間しかありません、
吸った息がでなかったらそれでおしまいです」
と答えました。
この答えにお釈迦さま、大変満足されたと言われています。
一息つく間、どれくらい時間かかるかというと
ほとんど時間はかかりませんね
あっという間に終わってしまうということです。
お釈迦様は、最後の答えを賞賛されて
「そうだ、そなたのいう通り命の長さは吸うた息が出るのを
待たぬほどの長さでしかないのだ、
命の短さが段々に身にしみて感じられるようになるほど、
人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」
と、言われています。
命の短いことについて、お釈迦様が、
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「そなたもこの頃では命の短くもろいことが
だんだんうなずけて来たらしいな」
と言われました。
「本当に、そうでございます。たちまち消え失せてしまいます」
お弟子が答えると、
「たちまちといっても、そのたちまちの感じ方に色々あるが」
とお釈迦様は言われました。
お弟子は、
「はい、世尊がお感じなされている、
それは、どれ位の速さでございましょうか」
とお尋ねすると
「その速さは、とてもそなたには納得できない速さだ。
たとえば、ここに弓の名人が4人いるとする。
1人は東方に向き、1人は南方、1人は西方、1人は北方に、
心を合せて一度に矢を放つ。
そこに足の速い男がいてサッと走り出したと見る間に
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四人の弓師が一度に 放った矢を全部とらえてしまった。
どうだこの男の足は速いだろう」
四人の弓の名人が、同時に四方に放った矢を、さっととってしまう。
弓矢でさえ、見えないかもしれないのに
この男は、全然見えないかもしれないですね。
見えないほど速い。
「それは速いです。とても速いです」
とお弟子が答えると、お釈迦様は、
「それよりも、もっともっと速いのが人間の命なのだ、
命は実に足が速い」
と言われたそうです。
人間が人間らしい生活を営むようになるのは命の消えゆくことに
身ぶるいするところからであると言われています。
死について考えてもいないうちに、
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あっという間に人生終わってしまいますので、
まず無常を見つめることが、大切なのです。
無常を観ずるは、菩提心の一なり。
この一大事の自覚が出発点なのです。
それでは、次回は新展開ですので、よく復習して
ここまで理解しておいてください。
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まとめ
無常を観ずるは菩提心の一なり
私たちの幸せは、必ず崩れて行きます。
しかも幸せが大きいほど、崩れた苦しみが大きくなります。
しかも死んで行く時には、すべてに裏切られます。
無常を見つめることが、本当の幸福の第一歩である
ということです。
無常に対する感度をお釈迦様は四通りの馬にたとえられています。
私たちも、無常を見つめ、一時は、驚くのですが、すぐにまた元通り、
四馬の譬喩
(1) 鞭影を見て驚く馬。
(2) 鞭、毛に触れて驚く馬。
(3) 鞭、肉に当たって驚く馬。
(4) 鞭、骨にこたえて驚く馬。
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自分が死んでいくなんて全然考えなくなってしまいます。
100%確実に死んで行くことは大変恐ろしいんですが、
真剣にそう思わない心は、もっと恐ろしい
お釈迦様は、弓の名人が、一度に四方に放った矢を、
パパッととってしまう足の速い人よりも、命は足が速いのだ
と教えられています。
危険な所にいるのに、その危険に気づいていないことほど
危険なことはありません。
この一大事の自覚が、出発点なのです。
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覚えましょう
(1) 鞭影べんえい
を見み
て驚おどろ
く馬う ま
。
(2) 鞭むち
、毛け
に触ふ
れて驚おどろ
く馬う ま
。
(3) 鞭むち
、肉にく
に当あ
たって驚おどろ
く馬う ま
。
(4) 鞭むち
、骨ほね
にこたえて驚おどろ
く馬う ま
。
○無常むじ ょ う
に対たい
する感度か ん ど
を四通よんとお
りの馬う ま
に譬たと
えて表あらわ
されたもの。