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世代の物理学者には少なからず受け入れられず、各地でそれらに反発する声が起こった。もっとも有名なのが、ヨハネス・シュタルク(Johannes Stark.1874 ~ 1957)とフィリップ・レーナルト(Philipp Eduard Anton von Lenard.1862 ~ 1947)、ふたりのドイツ人ノーベル物理学賞受賞者(シュタルクは1919年、レーナルトは1905年に受賞)による相対性理論への論難であろう。彼らはその反ユダヤ思想の故にナチズムを熱烈に支持し、〝ユダヤ人物理学〟たる相対性理論へのその反感をほぼ終生変えなかった(1)。わが国においても、第一高等学校講師であった土井不曇(どい・うづみ.1895 ~ 1945)が相対性理論にたいする批判的見解を明らかにしている(2)。
い ち か わ ひ ろ し ◎ 1957 年、 京 都 市 生 ま れ。 専 攻: 科 学=技 術 史。 主 著:Hiroshi Ichikawa, Soviet Science and Engineering in the Shadow of the Cold War. Routledge. London and New York. 2018.
本誌前号に寄せた拙稿(6)では、「愛国的・唯物論的物理学者」のひとりで、「ハイキン『力学』騒動」の〝仕掛け人〟であった理論物理学者、ヤーコヴ・テルレツキー(Яков Петрович Терлецкий.1912 ~ 1993)を取り上げ、その哲学的論稿における批判の対象が、量子力学そのものではなく、
本稿では、彼以外の、一連の騒動の登場人物に光を当ててみたい。しかし、それなりの学術的業績をもち、教え子に恵まれたものでなければ、満足な伝記的資料は残らない。テルレツキーでぎりぎりのところであろう。ロシア、そしてソ連で最高の知的権威を輝かせた大学の教員とはいえ、多くが顧みられることのない、平凡な物理学者であった彼らのことを伝える資料はごくごく限られている。モスクワ国立大学物理学部には学部史記念室(Музей истории Физического факультета)が附設されている(物理学部本棟1階階段ホールの裏側にある)。そこに備えられたアーカイヴ(通常は「文書館」とするべきであるが、この場合はキャビネットひとつだけである)には、過去にこの学部に勤務した教員の多くに関するファイルが保管されている。ファイルの中身は、勲章の勲記を含む人事書類や主要な業績の抜刷などが比較的多いが、まったくまちまちである。テルレツキーのファイルには、経歴を記した「前書き(Предисловие)」を除くと、A4版大の肖像写真1枚だけが残されている。筆者は、同室の室長であったアレクサンドル・イリューシン教授(Александр
されるわけではないので、「講師」と訳すこともある)などの肩書きを限定辞なしで与えられ、学部の学術会議(教授会に相当)への出席権・審議権を保有することも多かった。また、兼職教員には手当も支払われ、専任教員をかなり上回る所得をえる場合が多かった。1934年の科学アカデミーのモスクワ移転を契機とする有能な人材の科学アカデミーによるリクルート=ヘッド・ハンティング、「大粛清」、なかんづく、マルクス主義科学論の基礎を築いた哲学者でもあった〝トロツキー派〟ボリス・ゲッセン(Борис Михайлович
告発のなかでは、アクーロフのセミョーノフにたいする敵意の強さ、攻撃の執拗さが目につく(19)。彼は、この告発を含め、セミョーノフ告発の書簡を何通か党中央に送りつけているが、そのうち、もっとも体系的なセミョーノフ告発と思える書簡(20) をとってみると、その論点は①学術上のポスト、学術雑誌紙面の〝独占〟、②化学連鎖反応理論確立の過程で、自分が剽窃したロシア人科学者ニコライ・シーロフ(Николай Александрович Шилов.1872 ~ 1930)の名前をあえて糊塗するために、ドイツ人であるエルンスト・ボーデンシュタイン(Ernst August Max Bodenstein.1871~ 1942)に迎合して、彼との間に相互宣伝の協力関係を築いたこと、③データを理論にあわせて捏造したこと、④そのためもあって、理論が実践に結びつかず、現場に混乱をもたらし、かつ、必要な援助もあたえなかった、というものであった。こうした書簡を送りつけられた党機関は、論争整理のための委員会を組織し、両者の言い分を聞いた上で、具体的にアクーロフの告発を否定し、セミョーノフを擁護する結論を出している(21)。
ソ連最初のノーベル賞受賞者に容赦のない攻撃を加えたアクーロフとは、どのような物理学者であったのであろうか。彼もまた、《モスクワ国立大学物理学部の傑出した科学者たち》シリーズに取り上げられている(22)。それによると、彼は、強磁性体の歪みをもった磁化と結びついた一連の現象が、自発磁化現象をもたらす交換力によってではなく、電子スピンと電子軌道の磁気モメント間の磁気相互作用によって規定されることを明らかにしたことで知られた。異方性の物理学的原理は電子相互間の磁気相互作用によって説明されるとした。1930年、ドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会の賞を受賞し、それを機にドイツに留学し、ケーニヒスベルクの R. ハンス(詳細不明.ロシア語の表記をそのままカタカナ表記した)、ライプツィヒのヴェルナー・ハイゼンベルク
(Werner Karl Heisenberg.1901 ~ 1976.1932年、ノーベル物理学賞)のもとで学んだ。1932年、ロックフェラー賞受賞。1929~1930年、ニジニー=ノヴゴロド国立大学准教授。1931年、モスクワ国立大学に磁気教室ができると、その教授に任命された。戦時研究ともなる磁気探傷機開発にも従事した。1941から43年、アシハバードに疎開。1930年代末から化学反応の数学的記述に関心をもち、1943年には化学反応論に関する研究を発表、相転移の動力学に関する基本的な方程式を提案した。このころ、文献研究によって、化学反応速度論の連鎖反応理論がドイツ人ボーデンシュタインではなく、ロシア人シーロフによってすでに1905年に発見されていたことをつきとめた、とされる。そして、ニコライ・セミョーノフがシーロフの業績に口をつぐみ、ボーデンシュタインと相互宣伝の協力関係を築いたとして、猛烈なセミョーノフ批判=攻撃に出たのはすでに述べたところである。アクーロフは、「学生演説事件」のあと、審査の対象となり、1954年8月5日付党中央委員会布告「モスクワ国立大学における物理学要員の養成の改善に関する諸方策について」により、モスクワ国立大学から追放され、2 ヶ月の失業状態ののち、モスクワ物理工学専門学校(核兵器・原子力関連施設に働く要員を養成した)に転じたものの、そこで理論物理学教室をリードしていたランダウがセミョーノフを支持していたことから居づらくなり、翌1955年にはモスクワ化学機械専門学校の物理学教室主任に転じている。そして、1956年、セミョーノフがノーベル化学賞を授与されるに及んで、そのセミョーノフ批判はようやく鳴りを潜めることとなった。
入党したばかりの、若い准教授、フョードル・コロリョフ(Фёдор Андреевич Королёв.1909~ 1979)は、のち「学問分野別討論」キャンペーンが発動されると、ハイキン批判の大論文を執筆し、当時(現在も)、物理学界に大きな影響力をもつ雑誌、『物理科学の成果』に投稿した。そのなかで、コロリョフは「この観点〔社会的・政治的な学問の講義をあまり聞いていない1年次生に与える教科書として、・・・ 市川〕から、初級課程の学生用教科書にはマルクス・レーニン主義の諸問題における首尾一貫した態度が特に要求されなければならないのである。全連邦農業科学アカデミー総会の結果は、マルクス・レーニン主義に有害なブルジョア・イデオロギーをソヴィエトの科学者の世界に浸透させようとすることがどのような有害な結果をもたらすかを、明瞭にしめしたものである。ブルジョア・イデオロギーに屈して、この学者は外国の科学の前に膝を屈するのみならず、ブルジョア科学者の後塵を拝して、専門的科学の歪曲、ブルジョア・イデオロギーの観念論的諸命題への適応の道に立とうとしている。こうした科学者は、科学を歪曲し、社会主義建設の実践から科学を切り離し、科学を形式主義の泥沼に入れようとする。先進的なミチューリン学説にたいするメンデル=モルガン一派の闘争はこの命題を一目瞭然に確認するものである。マルクス主義とは異質のイデオロギーの浸透は、生物諸科学に限ったことではなく、他の諸科学、特に物理学のなかでも見受けられることである。…」(28)としたが、本論部分では、自然の諸法則が人間の認識活動に先行しているとの命題を〝金科玉条〟に、ハイキンの〝不用意な〟用語法、すなわち、「確認」、「確定」、「命題」とも訳される у
ウトヴェルジジェーニエтверждение や「経験」とも「実験」とも訳される о
オープィトпыт など、主観/客観が判
然としない(とコロリョフが見なす)用語法といった、まさに片言隻語をとらえた牽強付会による「観念論」のレッテル貼りだけが展開されており、その水準は著しく低い。それでも、この論文は『物理科学の成果』誌で、セルゲイ・スヴォーロフ(Сергей Георгиевич Суворов.1902 ~ 1994.当時、党中央委員会科学課長)と R. Ya. シュテイトマン(Р.Я. Штейтман.詳細不明)の共著論文
Александрович Марков.1908 ~ 1994)の論文「物理学的知識の本質について」が量子力学の弁証法的唯物論による把握にかなりの程度成功するなど、現代物理学者たちの哲学的探求が進んだことが背景にあった(36)、ということになり、またポロックによれば、カフターノフがアインシュタインを大作家、レフ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой.1828-1910)に例えて、本人の思想と作品(科学研究)の内容とを区別する必要を説いた中間発言が大きく流れを変えた(37)、ということになる。いずれにせよ、その激しい言葉遣いにもかかわらず、哲学者、「愛国的・唯物論的物理学者」の相対性理論、量子力学にたいする哲学的批判はほとんど未展開に終わった。1949年3月7日の準備会議でのノズドリョフの発言が「愛国的・唯物論的物理学者」集団最後の発言の機会となった。カフターノフは唐突に、(全員)「ソヴィエト物理学の発展のために努力せよ」と一般的・抽象的な激励で会議を結んだ。最後の準備会議が3月16日に開催されたあと、21日に予定されていた「全連邦物理学会議」本会議は準備不足を理由に5月10日まで延期されたが、その5月10日にも開催されず、結局。この会議は開かれなかった(38)。
(Марийский государственный педагогический институт им. Н.К. Крупской)の副校長に(ことばの真正な意味で)左遷された(1960年には校長に昇格。そのころからいくつかの勲章や栄誉を与えられている。時期不詳ながら、のちにモスクワの師範学校に転任したようである)(43)。彼は義務教育課程在学中から詩作を発表していた詩人でもあり、彼のひときわだった愛国心(その裏面の反ユダヤ主義)は詩作を通じても広く知られていた(44)。1972年には、詩論集『抒情詩、風刺詩、ユーモア』を出版している(45)。イラショナルでパセティックな、そしてエクセントリックなこの人物にとって、最大の不幸は、長命を保ったがゆえに、愛してやまなかったソヴィエト連邦の崩壊と献身の限りを尽くしたソ連共産党の解散を見届けてしまったことであろう。1995年、モスクワで永眠した(46)。
ゲッセンは、言うまでもなく、1931 年、ロンドンで開催された第 2 回国際科学史・技術史会議 での講演、「ニュートン『プリンシピア』の社会的経済的根源(B. Hessen, “The Social and Economic Roots of Newton’s Principia’”)」によって、マルクス主義の科学論・科学史方法論を打ち立てたとされている(詳細な解説を附した邦訳がある。ベ・エム・ゲッセン/秋間実・稲葉守・小林武信・澁谷一夫訳『ニュートン力学の形成―『プリンシピア』の社会的経済的根源―』法政大学出版局 1986 年)。なお、イリューシン教授はゲッセン逮捕・銃殺のモスクワ国立大学における余波について以下のように書いている:「1936 年、ゲッセンの銃殺のあと、一連の大学の同僚たちがこの『人民の敵』を裁く、ミーティングや集会をおこなった。1936 年 12 月、『研究所の状態と反革命トロツキスト=ゲッセンの敵対的活動の結果について』を審議する、物理学部附属物理学研究所の教員と院生の全体集会が開催された。集会決議には、科学研究機関での、諸学派、諸学派成員間の、日常的な闘争が煽られ、ぞっとするほどの規模となり、一方のグループの研究室(I.E. タム、G.S. ランズベルク、L.I. マンデリシュタム、S.E. ハイキン)が特権的な状態にあって、研究所を圧迫している一方で、ほかの研究室(A.S. プレドヴォジーチェレフ、S.T. コノベーエフスキー、N.S. アクーロフ)は必要な支援を受けることができず、通常の活動のために然るべき科学的批判も与えられていないことが、ゲッセンの指導の重大な結果である、と述べられていた」(アー・エス・イリューシン/市川 浩訳「ある本と人間の運命―【解説】エス・エ・ハイキン著『力学』をめぐる討論の資料:その党中央宛書簡について―」、広島大学大学院総合科学研究科紀要Ⅲ『文明科学研究』第2巻,2007 年、46 ページ)。
(10) A. B. Андреев, «Физики не шутят: Страницы социальной истории Научно-исследовательского института физики при МГУ –
1922-1954 - », Москва, Прогресс-Традиция, 2000г. C. 102-106.(11) A. A. Померанцев, “Александр Савич Предводителев (К восьмидесятилетию со дня рождения).” «Успехи физических наук».
Том 150 вып.3, ноя. 1971. C.611. コノベーエフスキーは、1947 年 10 月 26 日付でスターリンに、モスクワ国立大学の人材不足に対する措置を要請する書簡を送り、そのなかでマンデリシュタム(Леонид Исаакович Мандельштам.1879 ~1944)とその教え子たちの功績を強調している(Визгин, Указ. соч., С. 1372)。彼は、モスクワ国立大学の専任教員であったが、相対性理論や量子力学を擁護する立場を貫いた。
(13) И.П. Базаров и П.Н. Николаев, «Анатолий Александрович Власов I, II [Выдающиеся учёные физического факультета МГУ.
Выпуск II]». Москва. Физический факультет МГУ, 1999. ここでの記述は、おもに第 II 巻の 8 ~ 16 ページに依拠している。(14) Российский государственный архив социально-политической истории (ロシア国立社会・政治史文書館:РГАСПИ) Фонд (Ф.)
(「еоргий Максимилианович Маленков.1902 ~ 1988)に伝えているが、そこでは、告発に根拠がないことが具体的に示され、(告発者たちは)「自分たちの活動の結果として、…(中略)… ソ連邦の指導的科学者とみなされなくなった」と厳しい評価を与えている(РГАСПИ Ф. 17 Оп. 125 Д. 275. л. 99.)。彼らの告発が権力によって取り上げられることはなかった。
(15) Там же, лл. 55-58.(16) Там же, лл.19-54. なお、イーザン・ポロックによれば、コボゼフは、自身のスターリン賞受賞を科学アカデミーの某
会員に妨害されたと思い込んでいたようである(Ethan Pollock, Stalin and the Soviet Science Wars. Princeton University
Press, Princeton and Oxford. 2009.74)。ロシア語版 Wikipedia の情報(https://ru.wikipedia.org/wiki/%...)では、コボゼフは晩年、密かに反体制派の作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Александр Исаакиевич Солженицын.1918 ~ 2008.1970 年、ノーベル文学賞受賞)を援助していた、とあるが、確証はないようである。複雑な人物ではある。
(17) РГАСПИ Ф. 17 Оп. 125 Д. 275. лл.59-65.(18) Там же, лл.69-78.(19) Там же, лл.66-68.(20) РГАСПИ Ф. 17 Оп. 125 Д. 449. лл.127-139.(21) Там же, лл.141-152.(22) Н.С. Перов, «Николай Сергеевич Акулов [Выдающиеся учёные физического факультета МГУ. Выпуск VI]». Москва. Физический
АлександровичКарчагин.1887 ~ 1948)」である。お詫びして、訂正したい。(24) «Летопись Московского университета». № 939. (http://letopis.msu.ru/peoples/939).(25) Центральный архив общественно-политической истории Москвы (モスクワ中央社会・政治史文書館:ЦАОПИМ) Фонд (Ф.)
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●特集:学問史の世界 佐々木力と科学史・科学哲学
478, Опись (Оп.) 1, Дело (Д.)92. лл.4, 6, 8-б, 50-б, 51-б, 53. イリューシン、前掲注 (9)、45 ~ 47 ページ。(26) «Предисловие» к делу Э.М. Рейхруделя. Архив Музея истории физического факультета МГУ.(27) «Предисловие» к делу С.Д. Гвоздвера. Архив Музея истории физического факультета МГУ.(28) Ф.А. Королев, “О методологических ошибках в книге проф. С.Э.Хайкина «Механика».” «Успехи Физических наук.» 1950. Т .
XL. Вып .3. C.388, 389.(29) “К обсуждению книги С.Э. Хайкина «Механика» (Обзор материалов, полученный редакцией УФН)”. «Успехи Физических
наук». 1950. Т. XL. Вып.3. сс. 476-483. イリューシン教授によれば、『物理諸科学の成果』誌編集部には、コロリョフの論文に反対し、ハイキンをイデオロギー的誤りという論難から守ろうとする手紙も寄せられていた。ヤロスラブリ工業専門学校理論力学上級講師、I.V. イストミン(Н. В. Истомин.詳細不明)、タルトゥス国立大学物理・数学博士候補、P.G. カルド(П. Г. Кард.詳細不明)、トビリシ大学物理・数学部の教員、V.S. キリー(В. С. Кирий.詳細不明)らの手紙である
(イリューシン,前掲注 9、50 ページ)。(30) С.Э. Хайкин, “О методологических недостатках моего учебника «Механика» (письмо в редакцию).” «Успехи Физических
наук.» 1950. Т. XL. Вып.3. C.483-490.
(31) «Предисловие» к делу Ф.А.Королёва. Архив Музея истории физического факультета МГУ.