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Title 沖縄県那覇高等尋常小学校附属幼稚園の設立に関する一 考察 : 1879年頃から1893年頃までを中心に Author(s) 喜舎場, 勤子 Citation 保育学研究 = RESEARCH ON EARLY CHILDHOOD CARE AND EDUCATION IN JAPAN, 39(2): 8-14 Issue Date 2001 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/10089 Rights 日本保育学会
8

CARE AND EDUCATION IN JAPAN, 39(2): 8-14 Issue …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/...Naha-Koto-Jinjo Elementa1' Y School in Okinawa: Focus on the App1' oximate

Jul 29, 2020

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Title 沖縄県那覇高等尋常小学校附属幼稚園の設立に関する一考察 : 1879年頃から1893年頃までを中心に

Author(s) 喜舎場, 勤子

Citation 保育学研究 = RESEARCH ON EARLY CHILDHOODCARE AND EDUCATION IN JAPAN, 39(2): 8-14

Issue Date 2001

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/10089

Rights 日本保育学会

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「保育学研究」第39巻第 2号 2001年

原著く論文〉

沖縄県那覇高等尋常小学校附属幼稚園の設立に関する一考察-1879年頃から1893年頃までを中心にー

喜舎場勤子

A Study of the Establishment of a Kinde1'ga1'ten Attached to

Naha-Koto-Jinjo Elementa1'Y School in Okinawa:

Focus on the App1'oximate Pe1'iod of 1879-1893

Isoko Kishaba

This a1'ticle attempts to reveal why the Meiji government established the first publicly organized

kinde1'gart疋nin 1893 in Okinawa attached to Naha-koto-jinjo elementa1'Y school. First, the paper su1'veys

the political situation in Japan and the international circumstances of the middle of the M巴ijiera. Next, it

outlines the local巴nvironmentof the 1'esidential a1'eas where most children attending the kindergarten

p1'obably lived. Then, the educational policy of the government of that e1'a is examined. The field of women's

education and the elementa1'Y courses offered at the time a1'e especially analyzed, and a connection is made

between them and the establishment of the kindergarten. The results of the research indicate that the Meiji

government probably used the kindergarten for th巴 processof assimilation because of militarism or

nationalism.

キーワー ド:沖縄県,幼稚園,明治中期, 軍国主義 (国家主義),同化

Okinawa, kindergarten, the middle of the Meiji era, militarism 01' nationalism, assimilation

はじめに

沖縄県における初の幼稚園 (Kindergar-

ten) は, 1893 (明治26)年に附設された那覇

高等尋常小学校附属幼稚園であるとされてい

る九しかしながら,幼稚園教育が義務教育体

系からはずされていたことと相侠って,沖縄戦

(1945 (昭和20)年〕による資料の焼失や散逸

という事情により,明らかにされていない点が

多く残されている。

同幼稚園設置時の明治中期における本県は,

廃藩置県に際し明治政府による政治が執行され

たものの,依然として日清両属的状態にあった。

県庁設置後も,清国からの救援を待望する者が

沖縄女子短期大学教育学

(144) 8

多く ,教育においても 明治政府の布いた小学校

就学(新教育あるいは普通教育)を拒否し,家

庭で従来どおり儒教を中心とする学問(旧教

育)を学ぶ者が多かった九このように,概し

て,明治中期の本県の教育状況は,小学校教育

の普及さえ難航しており ,幼稚園の設立に至つ

ては,その要望が皆無に近かったであろう こと

が推測できる。

そこで,本稿では,なぜこの時期に,またな

ぜ同小学校へ附設されたのかを分析することで,

本県初期の幼稚園の設立が当時の社会でどのよ

うな意味を持っていたのかを明らかにしたい。

方法としては,明治中期の圏内 ・県内における

社会状況を概観し,同幼稚園が対象とした地域

の特色を抽出する。更に,附設された幼稚園と

女子教育や小学校教育との関連を探ることで,

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i中縦県司rs新高等尋常小学校附属幼稚閣の設立にl到する一考察

なぜこの年に同小学校へ初の幼稚園が附設され

る必要にあったのかを解明したい。対象時期は,

廃藩置県の頃から附設された1893(明治26)年

前後とする。

1.明治中期の社会状況

1.社会的背景

本県では,行政管轄が薩摩藩から明治政府直

轄 (1872(明治 5)年〕へ移行された後,

1879 (明治12)年に廃潜置県が布かれた。それ

以前は,薩摩藩の支配下にありながらも清国と

の冊封関係を維持し, 1854年には米国と「琉米

修好条約」を締結,翌年には仏国そして1859年

には蘭国とも条約を結ぶ等,一国家的形式を保

っていた。このような事情により ,当時の明治

政府においても,本県の取り扱いは外交問題の

ひとつと位置づけられていた。ところが,後の

いわゆる「台湾事件J3)の原因となった宮古島

民の台湾遭難 (1871(明治 4)年〕を機に,当

局は日清両属という暖昧な琉球藩の地位を明確

にする必要に迫られ, 1874 (明治7)年には事

件を起こした台湾へ兵隊を派逃ーしている。けれ

ども,このような一連の流れの背景には,琉球

藩の帰属といった外交問題のみならず,内政的

な事情も含まれていたようである。日本本土に

おいては,明治政府樹立以来の特権回復を狙う

いわゆる「不平士族」が蔓延しており,新政府

を揺さぶる重大問題と化していた。そのため,

台湾出兵によりこれら「不平士族」の目を国外

に逸らそうという意図とともに,あわよくば台

湾をも領有しようという政府の思惑もあった。

しかし,台湾の領有は諸事情により実現せず,

清国側と激しく対立することとなった。その後,

日本国民(宮古島民)殺害に対する台湾出兵の

正当性を主張する日本側と清国との聞を,英国

が取り持つ形で清国側lが償金を支払っている。

そして,この償金の支払いにより ,清国もまた

琉球が日本の一部であると認めたものと明治政

府は解釈した。このように,琉球問題は,日本

における内政及び外交の「結節点」叫として捉

9

えられてもいた。更に,その頃,欧米諸国の植

民地支配はアジアの国々へも波及し, 日本も治

外法権を認め不平等条約 (r日米和親条約

(1854年)J, r日米修好通商条約」及び「貿易章

程 (1858年)J 等〕下に置かれるという苦しい

立場にあり,これら諸条約の改正や領土画定と

いった問題は,日本にとって重要課題と位置づ

けられていた。明治政府は,上述の問題を近隣

諸国を取り込むといった外交手段で乗り越えよ

うとしたとも考えられており,いわゆる「琉球

処分」もこの一連の流れの中で展開されていた

ことになる 5)。

一方,本県内部では置県に際し作成された

「琉球藩処分案J6)の中で,いわゆる「旧慣温存

政策」が打ち出され,政治が執行された。これ

はその後,対沖縄政策における基本方針として

定着する。しかし,沖縄県民の帰属をめぐる迅

速な転換は図れず, 日清戦争(1894(明治27)

年〕で清国が敗戦するまで,依然として清国と

の緊密な関係復活に望みを託す者も多く,混乱

した状況であった。このような事情を反映し,

明治政府が布いた普通教育も極めて緩慢に普及

している。しかし,普通教育の普及が難航した

要因については,廃藩置県以前に,社会階層と

結びついた教育意識が形成されていたため,一

般庶民の教育に対する意識が希薄で、あったとの

指摘もある九また, 1894 (明治27)年頃とい

えば,これまで反発していた本県の旧支配勢力

が,県庁に代表される明治政府へ傾きはじめた

時期ともみられており,教育イデオロギーにお

いても何らかの分岐点になったと考えられる 8)。

本県初の幼稚園が設置された当時, 日本と清国

とはかなりの緊張状態にあり,那覇高等尋常小

学校へ幼稚園が附設された翌年には日清戦争が

勃発した。

2.地域的特色

次に,同幼稚園創設時の対象地域9)であった

那覇 4町(東 ・西 ・泉崎 ・若狭)・久米村 ・泊

村の特色を抽出することで,同幼稚園が知何な

る社会階層の子弟を対象としていたのか,ある

(145)

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「保育学研究」第39巻第 2号 2001年

いはその附設が社会的に如何なる意義をもった

のかを究明する手がかりとしたい。

まず,那覇 4町は,「浮島」と呼ばれる地域

が発展するに伴い東と西に分離され,更に隣接

する若狭及び泉崎が包括された町の総称であ

る10)。この地域一帯は,琉球王府時代から「那

覇 4町 ・久米 ・泊」と称され,その直轄地とし

て発展してきた。東には後に那覇市役所として

使用されるようになった天使館(中国から冊封

使来琉時の宿泊施設)があり,西には県庁や会

話伝習所(通訳養成所)11)が開設される等,置

県後の行政中心地を形成していく 。このように,

首里王府から東 ・西を中心とした那覇へ行政が

移行する中,泉崎は早くから,これらに関わる

他府県出身官吏らの居住地域として賑わってい

たi九 また,同地域は他府県から移住した寄留

商人らが大規模な商業活動を展開し,後に近代

資本主義経済の拠点となった場所でもある。こ

れらの寄留商人に関しては,初の幼稚園設置の

気運醸成との関連も看取できるが,紙幅の都合

上ここでは触れないこととする。

久米村(クニンダ)は,他町村と若干その趣

を異にして発展してきた。1392年,中国福建省

福洲県の匡三凶方から移住した人々により形成

された村落であるとされている I九琉球王朝時

代,久米村人は, 主に進貢使及び謝恩使の随

員・外交諸文書の作成者 ・教育者 ・航海者 ・船

大工等,琉球王府が円滑に外交を推進する上で

重要な役割を担っており,「教育界の権威J14)と

も位置づけられていた。このような歴史的背景

の故,明治期の普通教育普及は困難を極め,依

然として旧教育を支持するものが多数を占めて

いた。「内地語ニ概通スル者調査表(明治18年

以降ニ於ケル調査)J 15)によれば,同村は内地語

(普通語)を理解する者が他地域に比べ極端に

少ない。当時を知る者の談話として,明治政府

が推進した小学校へ通う者は少なし依然とし

て家庭に教師を招き勉学に励んで、いたことや,

小学校へ進学したものの,漢学を主とした旧教

育に対し学校教育(普通教育)は平仮名ばかり

(146) 10

でやさしすぎると学校を去る者が多かったこと

等が述べられている 16)。このように,久米村は

支配者階級としての教育意識が高かったが,そ

の教育意識は旧教育に根ざしていたため,廃藩

置県以降も明治政府の布いた普通教育受容に対

して強い抵抗を示した。そして,それは日清戦

争において日本が勝利するまで尾を引くことと

なる。

一方,泊村はその大半を士族が占め, 家屋形

態は首里に準じていたが,地理的には首里 ・那

覇の中間に位置していたことで「中庸」がその

地域の特徴となっていたようである川。また,

同村においては,官吏雇用試験に合格し官更に

なることが那覇士族の本分であるとされ,儒教

に基づく「勤勉」を身に付けることに価値が置

かれていた。 しかし, 一方で、は首里の権力と那

覇の経済力との狭間で,泊村の独自性をも形成

していたと考え られる。つまり,上述した「中

庸」と「勤勉」きが何らかの形で相互に関連し,

いわゆる「立身出世」観と結合する形態で明治

政府の推進する新教育を受容していったのでは

ないだろうか。これは,前掲の「内地語ニ概通

スル者調査表」の結果にも現れている。すなわ

ち, 20歳未満については,内地語 (普通語)を

理解する者が他地域に比べ多く, 15歳未満に関

しては,内地語(普通話)を理解する者が久米

村の約 8倍にも上る等,その柔軟性が看取でき

る。内地語(普通話)の普及は, 普通教育の受

容とも密接な関連があり,同村では比較的柔軟

に明治政府の布いた普通教育が受け入れられた

と考えられる。

以上,いわゆる「琉球処分」から本県初の幼

稚園が設置された明治中期までの,圏内動向及

び県内の状況を概観してきた。次にこれらを踏

まえて,明治政府の執った教育政策を初等教育

及び女子教育をとおして検討し,那覇高等尋常

小学校附属幼稚園設立の社会的意味を明らかに

したい。

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i中純l県那覇高等尋常小学校附属幼稚閣の設立にl到する一考察

11 .明治中期の教育状況

1.明治中期の女子教育

置県後は,いわゆる '1日慣温存政策」により

県政が執行されていた。しかし,教育面では例

外的に急激な改革が行われた形跡があり,教育

による日本本土同化への促進を図ったものとみ

られる。県内部の治安を維持するため政府は旧

慣旧制を保っていたが,当時の国内外の諸問題

を迅速に処理しなければならず, 沖縄の人々を

一刻も早〈日本本土へ「同イヒ」させる必要があ

ったと考えられるからである。中でも婦女子18)

に関しては,置県当初は旧慣を踏襲する形でそ

の積極的対象から外されていた。しかし,その

後,明治中期の国家主義教育への傾斜に伴い,

「同イヒ」教育は女子教育をも包括していったと

思われる。まず,政府の中枢を担う人物が,

1887 (明治20)年前後に相次いで来島している

ことからも,政府当局が並々ならぬ意欲を本県

の教育へ注いで、いたことが読み取れる。大雑把

に概観しただけでも,以下のとおりである。

1886 (明治19)年には,時の内務大臣山県有朋

が来島し,県内の師範学校及び中学校の教育状

況を視察している。また,その翌年 2月,時の

文部大臣森有礼が来県し同様に県の教育状況を

視察している。更に,同年11月には当時の内務

大臣伊藤博文,陸軍大巨大山巌,及び海軍大臣

西郷従道が来島し,彼らもまた同様に師範学校

及ぴ中学校を視察しているのである川。特に,

1887 (明治20)年に文部大臣森が来島した際に

は,教育関係者らを百集し女子教育の推進を促

している。そして,森の来県から数年後の

1893 (明治26)年,那覇高等尋常小学校女子部

は,男子と同様に教育を受けることができるよ

うになった20)。更に,同年11月には,本県初の

幼稚園が同小学校へ附設されることとなった。

女子教育と軍国主義あるいは国家主義教育と

の 関 連については, 文 部 大 臣 森 が 来 県

(1887 (明治20)年〕した際の演説を 中心に分

析した次のような指摘がある。森の女子教育推

11

進の背景には,単なる良妻賢母思想、にのみ留ま

らず,軍人を養育する母親養成といった視点が

含まれていたとするものである 21)。つまり,近

代の人間観に基づく女性解放といった視点でな

く,いずれは結婚し子を産み母となるという点

においても女子も男子同様,教育を受けるべき

であるという発想に基つ‘くものであった。また,

同時期の中園地方学事巡視の際,女子教育は国

家の存亡に関わる重要事項であるとし,女子教

育とともに国民へのナショナリズム養成もすみ

やかに行われるべきであるという趣旨の演説も

行っている問。将来の強靭な軍人を養育する母

という視点の女子教育は,ここにきて新たな意

義を見いだされていたことになる。このような

動向は,幼稚園の役割が近代的人聞を育成する

ための家庭教育に代わる補助的代行機関という

見方から,国家主義あるいは軍国主義思想と結

びっく形で‘国民全体の教育水準引き上げに利用

されていったという全国的な流れとも重なって

くる問。 しかし,当時の幼稚園は,有産階級子

弟の教育機関との見方により大衆化されていな

かった。そこで,幼稚園教育が一般大衆に見合

うものとなるために,その教育目的は 2元化を

余儀無くされる。つまり,本来の幼稚園におけ

る目的は一部の有産階級の子弟を対象とし,そ

の他の国民に対しては,異なった教育の目的が

用意されていたというのである。そして,一般

大衆向けに 2元化された教育目標は,軍国主義

あるいは国家主義思想をその中に含みつつ,国

民の教育水準の底上げに利用されていくことと

なる。このような中央での動きとほぼ時を同じ

くして,本県初の幼稚園は附設されていた。

2 .明治中期の小学校教育

明治中期の「小学教則大綱J (1891 (明治24)

年〕を受け,本県では「小学教員IJJ24) (県令第

27号/1893(明治26)年 7月〕が公布された。

同教則は,教育勅語に基づく道徳教育と国民教

育を柱とした内容となっており, 言語教育面を

強調するという特徴的な形態で実践されていく。

これは,置県直後の1880(明治13)年,時の文

(147)

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「保育学研究」第39巻第 2号 2001年

部大臣田中不二麿が来島した際,通訳の必要を

感じたことに端を発する。すなわち,沖縄での

日本語普及を目的とした「会話伝習所」が設置

され,これが後に「沖縄師範学校」へ,そして

1886 (明治19)年には「沖縄県尋常師範学校」

へ改称されたという経緯があった。このように

変遷した同師範学校は,明治中期に入り,単な

る教員養成所的な意味合いにとどまらず,初等

教育に携わる教員を輩出すること等により,普

通教育界の中枢的性格をも帯びてきた。

既述のとおり,当時の日本は国際的にも圏内

においても様々な問題を抱えており,沖縄の帰

属をめぐる問題はそれらを解決する上で重要な

鍵ともなる事項であった。ところが,その歴史

的背景の故,本県は他府県と異なる特徴を有し

ており,それは急激に軍国主義あるいは国家主

義へ傾斜していく政府当局にとって,必ずし も

歓迎されるべきことではなかった。そこで,当

局はいわゆる '1日慣温存政策」による統治と平

行し,教育を日本本土への同化に利用したと考

えられる。すなわち,教育においては例外的に

改革を遂行し,幾世代にもEって着実に浸透さ

せようとの意図があったとも読み取れるからで

ある。そして,それは極端な「言語教育」とい

う形態で表出した。

更に,前述の師範学校は,軍国主義教育にお

いても効率よく利用された。すなわち,他府県

にほとんど先駆けて,沖縄県尋常師範学校へ御

其影が下賜 [1887(明治20)年 2月)25)されて

いること等も,これらを如実に物語っているか

と思われる。本県の普通教育は極端なまでの

「言語教育」という特徴により推進されていっ

たが,この「言語教育」も女子教育同様,明治

中期になってより明確化され強調されていく。

『普通話』附という熟語は,前述した「小学教

WJJにおいて初めて公文書中に現れたともみら

れており,「言語教育」の積極的推進が看取で

きる。更に「小学教則」中,発音や方言説りに

関する詳細な規定が盛り込まれる等,普通語教

育の徹底は徐々に早期化していったと考えられ

(148) 12

る。「同教則」発布の約 4か月後には,本県初

の幼稚園が附設された。

おわりに

このようにみてくると,本県初の幼稚園が設

立された明治中期は,様々な社会的変化という

意味においても 「結節点」であった。すなわち,

19世紀末期からの欧米侵略の余波を変局的に受

ける形態で廃藩置県が執行され, 更に,県内部

では明治政府の諸々の思惑の中,いわゆる「旧

慣温存政策」が布かれた。しかし,県民の急速

な思想的転換は図れず,依然として日清両属的

心境にあった。ところが,明治中期になり,こ

のような状態に変化が起こりはじめる。すなわ

ち,寄留商人らの急激な流入による近代資本主

義社会の萌芽である2η。通貨の流通及び露天や

行商に代わる大型商庖街の形成,更に,当時の

社会的性役割観に支えられた商いは女性の仕事

であるという,商業そのものに対する思想的転

換の必要にも迫られていた。また,旧支配層ら

の一部(開化党=親日派)が,明治政府へ傾き

はじめる等,これまで対立関係にあった新・旧

支配層の聞にも変化の兆しが見えはじめてくる。

一方,庶民間では,四民平等思想の広がりととサムレー

もに「でき士 J28) (,学問をすれば士族と同様

になれる」との意)と呼ばれる人々が出現し,

教育による経済保障といった観念と結びっく形

態で,いわゆる「立身出世」観が醸成されつつサムレー

あった。これら「でき士」の出現は,結果とし

て普通教育の普及促進という効果をもたらして

いった。このように,諸々の社会事象が明治中

期に集結する形態で熟成し,初の幼稚園を受容

する社会的基盤になったと考えられる。

しかし,一方で、は,明治中期の急速な軍国主

義への傾斜の中,幼稚園教育が国家主義あるい

は軍国主義思想と結びついた,全国的な潮流を

汲む形で,沖縄県における初の幼稚園は附設さ

れていた。すなわち,既述のとおり女子教育が

まずその対象として取り込まれ,軍人の母を養

成するという発想と結びっく形態で幼稚園が捉

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i4'縦l県那覇高等尋常小学校附属幼稚園の設立に関する一考察

えられていったからである。事実,国家主義教

育を強力に推進していく過程において,まず普

通教育界の中枢的性格を付与されていた沖縄県

尋常師範学校に附属する小学校へ女子部が設立

され,更にこの女子部が那覇高等尋常小学校

[1890 (明治23)年〕へ移された。そして,そ

の後,同女子部内に初の幼稚園 [1893(明治

26)年〕が附設されたという経緯からも,幼稚

園教育及び女子教育が互いに密接な関係にあっ

たことが読み取れる。また,同時期,本県の小

学校では,言語教育面を強調するという特徴的

な形態で学校教育が行われていた。すなわち,

「普通話」の普及をその目的として設立された

「会話伝習所」が,沖縄県尋常師範学校へと変

遷し,明治の中頃には普通教育の中枢的役割を

担う等,軍国主義教育において利用されていた。

このように,国民全体の統合及び同化を急ぐ政

府当局は,巧みに女子教育を取り込み,更に小

学校教育における言語教育の早期化とも何らか

の関連を持たせ,本県における幼稚園教育を導

入したものと考えられる。そして,これは,翌

年 [1894(明治27)年〕に勃発した日清戦争の勝

手IJによりますます強化されていくこととなった。

}王

(1)山固有慶 『開校四十年記念誌那覇尋常高等

小学校J,pp.1-39,大同印刷, 1928 現在

の那覇市立天妃幼稚園の前身である。幼稚園

が附設された当初,母体となった小学校は那

覇高等尋常小学校と称されており, 1893年

(明治26年)11月,その女子部内に幼稚園を

仮設し30余名を収容している。先行研究を含

め,一般的には天妃尋常高等小学校附属幼稚

園との名称が用いられる場合もあるが,本稿

では附設当時の名称を用いることとする。先

行研究については,阿波根直誠「第 4編初等

教育」沖縄県 『沖縄県史~ 4教育,図書刊行

会, 1989 (復刻版),及び,宜保美恵子 「沖縄

県幼児保育史(第 1報)J, r琉球大学教育学部

紀要』第28集第二部, 1985年 2月, 等がある。

13

(2)真境名安興 「沖縄教育史要~ p.141 大同

印刷 1931

(3)詳細は,比嘉春潮 『沖縄の歴史~ pp.361-

366 沖縄タイムス社 1959を参照されたし。

ここでは,「台湾遭難事件」と表記されてい

るが,一般的には 「台湾事件」あるいは「宮

古島民遭難事件」とも称されており,拙稿に

おいては 「台湾事件」を用いる(沖縄県 『沖

縄県史』別巻沖縄近代史辞典, p.349, p

515 サン印刷 1977)。

(4)田港朝昭「第 2章琉球処分J,沖縄県 『沖

縄県史~ 1通史 p.137 図 書 刊 行 会

1989 (複刻版)

(5)沖縄県『向上書~ 1通史 p. 151

(6)州立ハワイ大学琉球所属問題関係資料 『第

七巻琉球処分』下 pp.103-104 本邦書

籍 1980

(7)阿波根直誠 「沖縄における教育意識の変遷に

ついての試論的研究.-1870年代から1890年代

における教育意識の史的分析一J,r琉球大学

教育学部紀要」第23集第一部 pp.254-356

1979年12月 藩置県以前の身分制社会の中で

は,士族層にのみに学問が許され,労働を兵

民の本分とする儒教的影響による教育意識が

一般に浸透しており,普通教育普及の阻害要

因となっていたことを明らかにしている。

(8)西 里 喜 行 『論集沖縄近代史J pp.11-12

沖縄時事出版 1981

(9)山固有慶前掲誌(1)p. 20 同幼稚園の対象

地域に関する直接的な記述はないが,設立母

体である小学校の対象地域を考察の対象とす

る。

(10)東恩納寛|享「東恩納寛惇全集~ 6 pp.137-

139 琉球新報社 1979

(11)西里喜行 「総説J,那覇市 『那覇市史J 2通

史篇 p.23 琉球新報社 1974 1880年 2

月,那覇西村 2番地に設置。「国語伝習所」

とも称されるが, 一般的には「会話伝習所」

とされており,本稿では 「会話伝習所」を用

いる。

(149)

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「保育学研究」第39巻第 2号 2001年

(12)山固有慶前掲誌(1) p.38

(13)横山重 『琉球史料叢書』第 1巻 p.55 東

京美術 1972 (復刻版)

(14)山固有慶前掲誌(1) p. 4

(15)山固有慶前掲誌(1) p.37

(16)福地唯方「二 しつけj,那覇市 『那覇市史』

2中7民俗篇 p.658 サン印刷 1979

(1カ国吉真哲 i(四)泊村j,那覇市 『向上書J 2

中7民俗篇 p.35

(18)置県直前の本県は,身分に関わらず女子が教

育を受ける慣習に無いことが中央政府へ報告

されている(河原田盛美「琉球備忘録j,沖

縄県 町中縄県史J 14雑纂, p.224 国書刊行

会 1989 (復刻版))。このような背景には,

儒教思想に基づく厳格な身分制度とともに,

女性は家計の担い手という強い社会的期待が

あった。

(19)真境名安興前掲書(2) pp. 141-142

側山固有慶前掲誌(1) p.26 しかし, 『同記

念誌』中にある「男女共学」という記載の実

態については,明らかにされていない。。1)同論稿の中で,阿波根は,森の全体的な,思想、

の中で捉えるべきだとして,沖縄県内の演説

だけでなく,同時期の他府県における演説も

含め考察している(阿波根直誠「第 3章第 4

節教育の諸問題j,沖縄県 『沖縄県史J 1

通史, p.325 沖縄県教育委員会 1976)。

仰大久保利謙 『森有礼全集」第 1巻 pp.611-

612 宣文堂 1972

側宍戸健夫 「近代日本の保育思想、の形成j,r教

育学研究』第35巻 3号 p. 15 1968年 9月

例沖縄県尋常師範学校 r学事規定全書J pp.

249-272 秀英会 1894

側佐藤秀夫「わが国小学校における祝日大祭日

儀式の形成過程j,r教育学研究』第30巻 3号

p.46 1963年 9月(復刻版)

側阿波根直誠 「第 3章第 4節教育の諸問

題j,沖縄県 「沖縄県史J 1通史 pp.308

同時期, 「中央」ではこの 「普通語」という

熟語は必ずしも使用されていなかったようで

(150) 14

あり,この言葉が本県において 『大大和の言

葉,大和口,東京の 言葉,普通語J,更に

『標準語,共通語』といった変遷を辿り,明

治中期の軍国主義教育の潮流の中で熟し表出

してきた「画期的な事象」であったと位置づ

けている。

仰西里喜行前掲書(8) pp. 143-154

側安里彦紀「第 1編第10章 新教育の受容と

抵抗j,那覇市 「那覇市史J 2通史篇 p

221

その一例として,沖縄県尋常師範学校の前

身である「会話伝習所」では,弁当料の支給

があり,寮においては月々の学資 ・蚊帳 ・火

鉢及ぴ炭に至るまで支給されるほどの厚遇に

あったことや(沖縄県師範学校 r創立五十周

年記念誌J p. 214ほか参照大同印刷

1931) ,置県以前には,教育を受けられなか

った農業従事者の子弟らが師範学校へ進学す

ることにより,士族のような装飾品を身に付

けることができ,破格の学資金で家計を支え

ていたこと等も述べられている(山固有慶

前掲誌(1) p. 9参照)。従来の身分制社会で

は不可能であった階層移動が可能となり,そ

れが教育という子段により行われていった。

付記

引用文中の旧字体は新字体に改めた。また,

現在使用されていない漢字については,カタカ

ナで表記し口で囲った。

本稿は, 2000年度日本保育学会研究奨励賞を

受賞した 「沖縄県における幼稚園教育受容形態

ー那覇高等尋常小学校附属幼稚園の創設を中心

に-j に加筆 ・修正したものである。

謝辞

本稿は, 1998年 2月に琉球大学教育学研究科

修士論文として提出したものの一部に再検討を

加え,継続して行った研究である。指導教官の

阿波根直誠教授(現 名桜大学特任教授 ・琉球

大学名誉教授),そして,ご助言下さいました

石川清治教授(現琉球大学名誉教授)へ心よ

り感謝を表したいと思います。