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自分のコミュニケーションを振り返る 山内ゼミ 2011年度前期課題 前期の授業内容や活動をふまえて、自分のコミュニケーションを振り返ってもらいました。内容的にはなかな か読み応えがあるものが多く楽しめました。文章力は、お見事!と驚かせるものから、思ったより書けていると ほっとさせるものまで幅がありますが、今後に向けてよい出発点になると思います。 今回の一つの目標は「ある程度の長さで」まとまりのある文章を書くことでした。目標は40x40=1600字だった のですが、かなりてこずった人もいるようですね。長さに関しては、特効薬は「書く」ことにつきます。書けば 書くほど楽になります。逆に、書くのがしんどいからと言って避けて通っていると、いつまでもしんどいままで す。いざ卒論やエントリーシートを書こうという時になって苦しまないように、 今のうちからどんどん書いてく ださい。 評価は、分量、内容、 文章構成(前後のつながりなど)を中心として評価し、体裁、言葉遣い、誤字脱字、提 出期限についての評価を加味しました。 提出されたレポートを以下にまとめてあります。他の人がどのようなことを考え(内容)、その考えをどのよ うに組み立てているか(文章構成)などに注目して、読んでみてください。分量の多いものから並べています。
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2011 zemi essays

Jul 04, 2015

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Mari Yamauchi

2011 Spring Semester
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自分のコミュニケーションを振り返る�山内ゼミ

2011年度前期課題

前期の授業内容や活動をふまえて、自分のコミュニケーションを振り返ってもらいました。内容的にはなかなか読み応えがあるものが多く楽しめました。文章力は、お見事!と驚かせるものから、思ったより書けているとほっとさせるものまで幅がありますが、今後に向けてよい出発点になると思います。

今回の一つの目標は「ある程度の長さで」まとまりのある文章を書くことでした。目標は40x40=1600字だったのですが、かなりてこずった人もいるようですね。長さに関しては、特効薬は「書く」ことにつきます。書けば書くほど楽になります。逆に、書くのがしんどいからと言って避けて通っていると、いつまでもしんどいままです。いざ卒論やエントリーシートを書こうという時になって苦しまないように、 今のうちからどんどん書いてください。

評価は、分量、内容、 文章構成(前後のつながりなど)を中心として評価し、体裁、言葉遣い、誤字脱字、提出期限についての評価を加味しました。

提出されたレポートを以下にまとめてあります。他の人がどのようなことを考え(内容)、その考えをどのように組み立てているか(文章構成)などに注目して、読んでみてください。分量の多いものから並べています。

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#1: 2386この授業を通して、私はコミュニケーションに関して多くのことを学んだ。以前からそのことについて興味は

抱いていたものの、実際に知ろうとするきっかけがなかったからだ。

まず、コミュニケーションの基本原理から考えると確かに自分は言葉だけでなく、いわゆる非言語非メッセージとして身体の動きも利用してコミュニケーションを取っている。例えば、私が家庭内においてテーブルにあるしょうゆを取ろうとしているとき、その視線と手を伸ばした動きだけで手がとどきにくい位置にあるそれを家族が取って渡してくれることがある。この例一つとってみてもコミュニケーションが知らぬ間に成立していることがわかった。普段は全く気に掛けないことが、コミュニケーションが奥深いことを知った。

さらには非言語メッセージは言語を使ったものより雄弁であるという点に興味を抱いた。これは自らが借りた本の中に記載されていたことだが、実際に口にした言葉より人は表情や行動でその人の本当の伝えたいことを理解しようとする。振り返ってみれば、そのことは日本人の中では日常茶飯事として扱われているのではないかと思う。そう言うのも、日本のような高コンテクスト文化を持つ国では相手と詳しく話さなくてもわかるのが当たり前のような風潮があるし、言語よりもその中の意味を知ろうとするだろう。いわゆる「空気が読めない=KY」という言葉はここからきているといってよいと思う。

近年、流行語にもなったこの言葉は高コンテクスト文化の中だからこそ生まれたものであるし、低コンテクスト文化では一切通用しないものであると考える。同じ文化的背景で育ってきたからこそ、言わずとも伝わる部分が多々あると思う。以上の点を踏まえると、非言語メッセージは言語を使ったものより雄弁であるという点は大変面白いし、低コンテクスト文化ではあまり通用しない見解の可能性もあると思った。勿論、白人同士や黒人同士など同じ文化圏ではこのことが該当するかもしれない。

だが、これは一方で文化が同じではなくとも同じ生活や経験を共にした者同士でも当てはまるのではないか。全く異なる人種や民族であっても家族のように長年ずっと一緒にいれば、自然と相手が何をしたいかということがわかってくるだろうし、そこには文化の壁を越えたコミュニケーションが成立するように感じる。外国へ足を踏み出したことのない自分だから言える井の中の蛙のような意見かもしれないが、ここにこそ戦争を繰り返してきてしまった人類の平和への道が示されているように私は考えるのだ。

平和への道という点について高コンテクスト文化と低コンテクスト文化の違いについて理解がなければ、そこにも誤解や争いが生じてしまうだろう。一方は言葉に表さなくてもわかるだろうという思考であり、片方は口に出したことが全て相手の言いたいことだろうと考える頭脳。これではわかりあえることは難しいし、逆に争いの原因になるかもしれない。コミュニケーションを学ぶことは人類全体の平和にも繋がる。それはスケールの大きいことかもしれないが、自分たちの身近な点で考えれば外国人の友人や会社の取引先の外国人の会社員に変な誤解を生まずに済むだろう。前者では喧嘩になることが少なくなるだろうし、後者では取引が失敗するということも回避できるはずだ。

次に音声言語のチャンネルが合わなければコミュニケーションは全くとれないということに驚いた。「カルピス」という単語が「牛のおしっこ」と間違えられたように、似た発音の時にはいったいどちらの言葉で発言しているのか、どのチャンネルで言語を受け止めるべきかを正しく判断する必要がある。このことは自分の今後のコミュニケーションを考える上で非常に重要なことだと感じた。これは無意識のうちに理解していたことではあるが、改めて文章から学ぶことでよりいっそう自分のコミュニケーションの血肉と成りえただろう。外国人と話す際、本当にその言葉の意味が伝わっているのかを随所随所で確かめる必要があることを理解せざるをえない。自分も十分に気をつけていこうと思う。スケールの大小に関わらずコミュニケーションを学ぶことは大変重要であることを改めて思い知らされた。

また、私は「英語ができないからコミュニケーションできないのではなく、コミュニケーションができないから英語ができない」という橋本さんの著書の中の一文に衝撃を受けた。それというのも今まで自分が思い描いていた常識的な考えをあっさり破ったからだ。言われてみれば、そうである。確かに真にコミュニケーションが得意な人は英語が使えなくてもできる限りのジェスチャーや行動だけで物事を伝えることができるだろう。

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加えて、コミュニケーションは一方的ではいけないということを知った。これも同じく、個人的には衝撃的な内容であった。自分の主張や話をするだけでなく、相手のこともしっかりと「聴く」こと。ここで橋本さんはあえて「聞く」という漢字ではなく「聴く」というこちらの文字を使用している。相手の関心や心に目を向けてこちらが意識を持っていってあげること、それが「聴く」ということであるし、そこにこそ私は本当のコミュニケーションの大切さと真実があるように思えてならない。

この点を踏まえると私はこの大学に来てからというもの、本当の意味でコミュニケーションをしたことが少ないのではないかと思った。そう考えるのも、最近では相手の話をただ一方的に聞いているだけな気がしたからだ。相手の言葉をしっかり「聴く」、その上で言葉のキャッチボールを交わす。このことが果たしてできているのかと聞かれれば、首をひねりそうなところである。私としても相手の心にも「聴く」努力を惜しまないようにするべきだし、自分のコミュニケーションを見直すきっかけになったと思う。(2386字)

#2: 1741私は自己中心的である。このレポートの全体像を考えるためしばらく悩んだ末に出てきた言葉が、「自己中心

的」という言葉であった。何気なく生活をしている中で、私はよく自分を優先しているということがわかった。

自分にとってマイナスになるようなことを口にしない。気分によって態度を変える。自身にとって嫌なこと、苦手なことは避ける。このようなことから私は自己中心的思考であることがわかった。自分の失敗談を話すということができない。それによって自分の欠点を改め反省しようとしない。また失敗談を話したことにより他者からの指摘をされたくない。ということからマイナスになることを口にしないのである。自分の機嫌がいい時は積極的に話しかけたりしてコミュニケーションを取ろうとする。これにより、他者からの反応があり自分が退屈しない。また、苛立っているときなどは、苛立った原因とは全く関係ない人に対しても無口になってしまいコミュニケーションを取ろうとしない。こうすることにより自身が孤立し反省や落ち着くことができるからである。態度に出やすいとよく言われるのはこの点からなのではないかと考えた。コミュニケーションを取る上で私は無意識に見た目で人を判断してしまっていることがある。服装、顔つきなどの視覚的データから、私は赤の他人に今までの経験を元に、全く当てになるはずがないデータを植え付けその人の中身を決め付けている。こんな服装をしている人は昔出会った人はこうであった。よって私とは話をしても合わないだろう。それならば話さないように避けよう。このような一連の流れが初対面の人と出会うと無意識に行われている。このようなことから私は自分を最優先して物事を考えて行動しコミュニケーションを取っているのではないかと考えた。

自己中心的思考であることはコミュニケーションを取るなかで重大な問題である。そもそもコミュニケーションとは他者との交流やお互いに伝え合うことが目的であるはずなのに対し、自己中心的思考の私はコミュニケーションをする対象が居るにもかかわらず、私自身、つまり私の内部のみでコミュニケーションを取り解決している。果たしてこれが良いコミュニケーションといえるのか?自己満足の世界で終わり、結局のところ私は他者の良いところ、悪いところも把握できず自身のために他者を利用し感情をコントロールしているだけではないか?と考えた。

このままでは当然良いわけがない。この自己中心的思考を変えるため、いくつかの改善策を考えた。まずは私自身のマイナスになることも話すということである。指摘を恐れ欠点を隠すのではなく指摘されたことにより自分を改めるということが大事である。欠点を直さずに生きてきた私がこのような結果である。他者の意見を取り入れ視野を広げていくという意味でもこれは重要なことである。次に気分で態度を変えるという考えを変えることである。気分がいい時におけるコミュニケーションは現状維持でかまわないと思うが、問題は気分が悪い、苛立っている時などである。無口になることにより孤立すると、結局のところ自己解決をするしか手段がなく溜め込みすぎてどうしようもなくなってしまう事がある。これを他者に話すことによりコミュニケーションにもなり自己解決だけでは解消できなかった問題も他者の意見を取り入れることにより改善できることもある。ということから改善すべき点の一つである。最後に自身にとって嫌なこと、苦手なことであっても積極的に挑戦してみる

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ということである。嫌いなこと、苦手なことであるため、失敗も沢山してしまうはずである。しかし、一度失敗したことにより次に行う時は原因を把握しつつ改善策を見つけ再び挑戦することができる。私にとって苦手である、と思う外見の人であっても同じ格好をしている全ての人がそういうわけではない。まずは自分から話しかけるという一歩を大事にし今まで以上に沢山の人と交流をし、色々な事を取り入れて自身を成長させ、自身の内部だけで終わっていたコミュニケーションを他者との交流、伝え合うことによりお互いを理解しあうコミュニケーションに変えていくことが私のコミュニケーションにをするにあたり求めるべきであるところだと考えた。

(1741字; 改行 by 山内)

#3: 1368山内ゼミに入りたての頃は、正直、コミュニケーションなんてただ会話するだけの単純作業だと思っていまし

た。なので「簡単そうだからこのゼミでいいや」という考えがあったことは事実です。しかし、実際に授業を受けてみると思っていたよりも難しく、かつ奥が深いことに驚きました。

第一回目の授業では、クラスメート内での自己紹介。「なんの意味があるのか・・・」と思っていましたが、これはコミュニケーションをとる上で最も重要、必要な「準備」だということがわかりました。「相手がまずどんな人なのかを知ることから」というなんとも単純で忘れかけていることでした。何事も初めの段階が肝心というのを改めて感じさせてくれる最初の授業でした。

第二回目以降の授業から、段々とパソコンを使う授業が増えてきました。「会話することだけがコミュニケーションではない」というのを感じ始めたのもこの時くらいからです。他大学のゼミの紹介ムービーを見た時には「自分もこのゼミを終える頃にはこんな風になれているのだろうか」と考えたこともありました。そのあとにおこなった「日本から文化力」の気になるポイントをグループで発表しあう、これはゼミが始まってから初めてのコミュニケーションだったのではないでしょうか。

この発表をした時、皆それぞれが似ているようで少し違う意見をだしたり、あるいは全く逆の意見だったりと人それぞれが違う意見をしっかりと持っていることに気付きました。外人がお茶を出されることに不快感を持つのはなぜなのか・・・という質問に対して「外人の文化がまず違う」「日本人特有の習慣なのでは 」といった様々な意見が飛び交っているのは聞いているだけでも楽しく、そして多いに参考にもなりました。

そのあとの授業以降、自分はコミュニケーションについて色々と考えてみるようになりました。

大阪の学校の生徒達と交流すると知った時は「顔を知らない上で、どうすればうまく自分を知ってもらうことが出来るだろう」と考えたり「どう文章を書けばわかりやすく伝えられるだろう」などと自分なりに考えるようになりました。ゼミで学ぶまでは絶対になかったと言っても過言ではないくらいだと思います。

話は授業から離れますが、先生が提案してくださった「ゼミパーティ」も十分コミュニケーションの場となっていたと思います。自分が場所をセッティングしなければならないことに、少しめんどくささを感じましたが・・・今ではやってよかったと心から思っています。この集まりによってもっとゼミの皆のより多くのことが知れたと思います。

最後になりましたが、自分はこれまでの授業で多くのことを知り、そして改めて実感させられることが本当に多かったと思います。単純だと思っていたものがとても奥深いことだったり、忘れかけていたコミュニケーションの「基本」に気づけたりと本当に充実した内容を学べた春学期だったと思います。もちろん、秋学期以降もまだまだゼミは続きますから、また多くのことをこれから学べると思うと楽しみでもあり、そして不安でもあります。けれど、今回までの春学期で努力してきたように秋学期も頑張っていきたいと思っています。これからも色々と迷惑をかけることもあるかも知れませんが、ゼミの代表としても頑張っていきたいと思っていますので、よろしくおねがいします。(1368字; 字下げ by 山内)

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#4:1283コミュニケーションのIngredients(8構成要素)であるBehavioral Sorce(発

信元)行動を起こす元、Encoding(信号の作成)言葉を形作る、Message(伝達)口から実際に言葉が出ること、Channel(伝達手段)話す場合は空気のこと、Responder(受信元)伝達を受ける人、Decoding(解読)耳に入った言葉をメッセージとして音から意味を解読する、Response(反応)言葉なら言葉の意味を理解した時、Feedback(返信)発信者に対してコミュニケーションを受け取って反応を示すこと。

この8つの要素から自分のコミュニケーションについて振り返ってみると、私はまず話す内容・言葉を頭の中で考え、形作っても相手に伝えることができませんでした。「恥ずかしい」「反応がなかったらどうしよう」「知らなかったらどうしよう」といった相手の反応が気になり、不安になってしまうからです。それ以前に典型的な「何を話したらいいかわからない」ことで話す内容を考えること自体が止まってしまい、誰かが向こうから話しかけてくれてないかといつも受け身になりがちで発信者になることをためらってしまいます。

しかし、高校や大学などといった新しい環境で、周りは知らない人だらけで知り合いは一人もいない知らない人だらけという状況は何度もありましたが、その中で友人をつくることができたのはその時は「部活動」があったからです。私の場合は漫画研究部でしたがそこにいけば同じ趣味・目的の人が集まっているということがわかっていたので近づきやすく、話す内容が見つけやすかったです。この経験は「チャルディーニ氏の考え方」のうちの二つ③Similarity(類似性)自分と似た文化のもの、同じ常識・価値観の人に影響されやすい。言語の違う、まったく異なった文化の人には、影響を受けにくい。「類は友を呼ぶ」。と⑦Liking(好み)好きな人に影響を受けやすい。常識・価値観が自分と似ているから好きということもあります。例えば年齢が同じ、趣味が同じ、そういう人のほうが好きになりやすい。コミュニケーションが取りやすいから好き。に一致していると考えます。

私は昔はあまり意識していませんでしたが、まず自分が何が好きかなど自分のことを話すのではなく、相手のこと聞いてから話すようにしています。自分の好きなものが相手の好きなものではないかもしれませんし、もし取り上げた内容のことを相手は知らないかもしれないからです。知らないなら、好きではないならそのことをその良さ教えれば良いのですがなんとなく気まずい感じになってしまうのでそこで終わりにして別の話に変えてしまいます。加えて自分のことばかり話していないかちゃんと相手の話を聞いているか気をつけるようにしています。これらのマイナス思考は自身がよく使ってしまっている曖昧な表現にも関連しています。日時ややり方、他者について質問された時「間違っているかもしれない」という考えから「・・・かもしれない」や「たぶん」、「・・・のはず」などとよく言ってしまいます。 (1283字)

「日本から文化力」 ジェフ・バーグランド 2003年 現代書館

#5: 1277私は、このゼミを通してコミュニケーションのことが少しだけ分かった。カルピスをcow pissと聞き間違えを

したり、日本では来客にお茶を出すという習慣があるがアメリカ人にとっては逆に良く思えないことなのである。カルピスに関しては、一度も見たことも聞いたことも無いだけで牛のおしっこと勘違いしてしまうのは驚いたし、アメリカは飲み物を日本人のようにさりげなく出すのではなく、はっきりと自分の好みを言うという文化の違いだけで両方のとも感じ方や受け止め方が違うというのが分かった。

人は外見、持ち物、髪型などで、判断する。私も初めて会った人には外見で判断してしまう。この人は、どういう性格なのかとか考えてしまう。これは、一見、見た目によるコミュニケーションに思えるが下手をすると、ひどい差別になってしまう。

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コミュニケーションには、8つの構成要素と4つの様相というものがある。その中でも、私が気になったのはIrreversible(取り消し不可)というものだ。これの意味は、一度喋った言葉・内容を取り返したい、撤回したいという意味である。私もこのような経験がある。例えば、話しているうちに感情が昂り、調子に乗って恥ずかしいことや秘密にしていた話をしてしまったりだとか度々ある。そういう時に、撤回したいと思う。

以前に、授業でやった高コンテクスト文化と低コンテクスト文化について勉強した。恵子は、ジェーンに勉強するから邪魔しないでと言ったつもりだが、彼女には分かってもらえなかった。そのためジェーンは音楽を恵子に聞こえるぐらいの大音量で流してしまった。高コンテクスト文化である恵子は、ジェーンにはっきりと物を言わずに遠回しに言った。それは、直接言うと空気が悪くなると思ったのではないかと思う。逆に、低コンテクスト文化であるジェーンは、はっきりと物事を伝えないと伝わらないから恵子が言ったことを理解出来なかったのだと思う。結果、高コンテクスト文化は空気を読んで相手と争わないように物事を進める事だと思った。日本人は特に多いと思った。私も空気を読んで、間違いや反対意見を言わ無かったりすることがある。反対に、低コンテクスト文化は、はっきりと物事を言う習慣がついており自分の意見は真っすぐ貫き通す感じである。だから、何か伝える時ははっきりと伝えなければお互いが何を考えているのか、何をして欲しいのか分からないのである。

あるアメリカの学生が、卵かけご飯やちりめんじゃこに頭がついていることに気持ち悪いと感じたり、ごはんやお茶碗を見たことがなく綺麗だと感じた。また、アメリカでは飲み物以外は、お皿を持ち上げない。背筋を曲げないで、食べ物をお皿から口に運ぶ。できるだけ音を立てないというのがルールである。このようなことは、日本では当たり前に起きている出来事である。だけど、アメリカではおかしいことなのである。また、日本ではペットとして飼われている犬は、ある国では働き手として飼われたり、食用としても飼われることもある。だから、500人いたら500通りの文化または考え方がある。(1277字)

#6:1182私がこの授業や借りた本から学んだことの一番大きなことは、異文化というものが思っていた以上に身近にあ

るということだ。同じ日本でも地域が違えば文化が違うということはある程度理解していたが、同じ地域内、同じ世代間同士でも、考えが違えば異文化コミュニケーションになるということに気付いた。例えば、自分の趣味について、経験について、夢について、価値観について、いろいろな話題をいろいろな方法で自己開示していっても、一つの物事に対して、いろんな見方や考えがある以上、異文化=異国でなくても、それが起こるということを学んだので、それを頭に入れたうえでこれからは人とコミュニケーションをとっていこうと考えた。

また、言葉によるコミュニケーションよりもはるかに、見た目、第一印象によるものや、無意識に行っているコミュニケーションの方が重要だということに気付かされた。今まではコミュニケーションをとるというと、お話をすることにばかり気を取られ、第一印象などは二の次だったが、今回の研究でいかに非言語によるコミュニケーションが大事か分かった。これからは礼儀作法にも気を付けて相手とコミュニケーションをとっていきたい。

また、普段話したり聞いたりする言葉が、いかに身の回りの環境に影響されているかということも学んだ。今、現実に地域に住んでいる若者の人たちの会話が、マスメディアを通じて流れる東京語でのカジュアルなスピーチスタイルによって形が変わってきている、ということを本から学び取ったが、それはなにもマスメディアに限ったことではなく、東京語圏にいても、身近に方言や独特の口調の人物がいて、頻繁にその人とコミュニケーションをとっていれば、自然と影響を受けるものだとわかった。実際、さまざまな人とコミュニケーションをとっているうちに、印象に残った人の言い回しがいつの間にか身についてしまったり、頭に残っていたりすることは良くあることだった。更にいうと、地方出身で東京に出てきてもまだ方言が残っている著名人、有名人を自分が好きになり、その人の出る番組を見たり、もっと詳しく調べたりしているうちに、自然と好きになった著名人の方言をある程度覚えていた、あるいは興味を持っていたということもある。私の場合は、大阪出身の有名人を好きになるケースが多かったので、知らず知らずのうちに関西弁に興味を持っていた。さらにいうと、アニメ

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の世界に登場する人物のセリフなども、自分が興味を持てば、一つの「言葉」として自分の中に取り入れられていたことが分かった。言葉遣いは、身の回りの環境と自分次第だということを学んだ。

そしてコミュニケーションをとるということは、当たり前だが、受け手が反応して初めてコミュニケーションが成立するということも学んだ。このことにも気を付けながら、コミュニケーションスキルを高めていきたい。

(1182字)

#7: 1177このゼミの授業で、コミュニケーションを学んでみて己のコミュニケーションを振りかってみて思ったこと

は、普段自分が友達と話したり、初対面の人と話したりした時に、コミュニケーションで大事なことがまったくできていなかったんだなと感じた。相手のことをしっかり理解して聞いたり話したりしていないと、誤解や困難が生じたり、きちんと相手がわかるように伝えないと、まったく違う意味で解釈されてしまったり、言葉や会話というのは、とても大事で重要なことなんだなと感じた。己は今までそうゆうことをまったく考えていなかったので、誤解をされてしまったり、違うように解釈されてしまうことが時々ありました。自分が求めていることが、相手にはちゃんと伝わっていなくて、まったく違うように解釈されてしまっていたことがありました。日本人同士でこんなことがたくさんあるし難しいので、外人と話したりコミュニケーションしたりする時は、もっと難しくて大変なんだなと感じた。己が、この授業で、先生の話を聞いたり、コミュニケーションの本を読んで思ったことは、異文化コミュニケーションや、大阪の人のことなど、コミュニケーションには、様々な種類があって、難しいものだなと感じた。

己は、初対面の人と話したり、会話をすることが、恥ずかしくないし、人見知りをしないので、コミュニケーションに関しては、けっこう自身がありました。でも、こうやって勉強してみると、足りないことや、できていないことがたくさんありました。一番、印象に残っていることは、大阪人の話でした。大阪の人は、いきなり刀で攻撃をしたりすると、知らない人でも、リアクションをしてくれたりすると聞きました。

他にも、日本人が当たり前のことようにやっていることが、他の国の人にとっては、まったく意味がわからなかったり、伝わらないことがたくさんあって、すごくおもしろいなと感じました。己は、人間は、やっぱりまずコミュニケーションが一番大事だと思っています。コミュニケーションがしっかりできなかったら、相手ときちんと話すことができない。コミュニケーションがしっかりできなかったら、アルバイトや仕事だってうまくいかないと思います。だから、具体的な勉強をするより、まずコミュニケーションをきちんとできるようにしたほうがいいと思います。今までまったく考えないでやってきたので、頑張りたいと思います。

とにかく、自分の今までのコミュニケーションを振り返ってみると、人とただ話していることだけが、コミュニケーションができていることだと思っていました。でも、外国の文化をしっかりわかっていないとダメだし、日本のことだけをわかっていてもダメだと思います。なので、これからは、まず本を読む習慣をつけて、友達と話す時も、勉強したことを意識してコミュニケーションをしていきたいと思います。(1177字; 字下げ by 山内)

#8: 1116私は、身近に起こるコミュニケーションを振り返ってみたいと思います。

自分自身、コミュニケーションを取るのは苦手な方だと思います。会話中に沈黙になったり、どんな風に話したり、接したりしていいのかが時々わからなくなります。会話中の沈黙について振り返ってみると、会話中、喋り続けたら会話が止まり、沈黙が続きます。それは、話す話題が無いのか、相手と話すのが飽きちゃったのかは、わかりません。でも、なぜ会話中に沈黙ができちゃうのでしょうか。

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聞き方が下手なのか、話し方が下手なのかがよくわかりません。なんとなくとってるコミュニケーションだが、相手にどんな印象を与えているのか不安になる時があります。聞き上手、話上手になるには何が必要なのか、夏休みに調べてみようかと思っています。上手いと下手の違いについて調べるのは楽しいと思っています。コミュニケーションを取るのは難しいと改めて思いました。

友達が多くいる人はコミュニケーションを取るのが上手いのか、少ない人は下手なのか、コミュニケーションに関して詳しく調べてみようかなと思います。

コミュニケーションは話すだけがコミュニケーションではないと思います。服装や髪形といった見た目や、行動などからも、この人はこうゆう人なんだってなんとなくわかると思います。私は、見た目が怖い人とは話せないと思います。私の中で、見た目怖い=話せないって言う法則がなぜかできています。見た目怖い人は喋り方も怖いのかなって思っています。声のトーンも怖いかなと思います。

態度が大きい人とのコミュニケーションも苦手です。

苦手が多いと思います。社会にでたらいろんな人がいると思います。その為にも、今からいろんなタイプの人とのコミュニケーションを少しずつとっていきたいと思っています。楽しい人生を送りたい・・・。

マシンガントークの相手をしていると疲れます。段々と聞いているのが辛くなります。マシンガントークをする人の特徴として、自分の事しか話さないと思います。自分のことを話したいなら、「私の事知ってる?」って言うと良いよって知り合いが言っていました。マシンガントークっていうのは好きな友達とかとするのはいいと思うんですが、あまり好きじゃない人とのマシンガントークは詰らなくて、苦痛なだけだと思います。

そうゆうことから、話す相手、仲良くする相手っていうのをちゃんと選んだ方がいいのかなって思います。コミュニケーションは一時的な事ではなく、これからもずっと取らないといけないものだと思うので言葉遣い、行動に気を配りながらコミュニケーションを取っていけたらいいなと思います。

これからは初対面の人ともコミュニケーションを取れるよう、相手の話を聞きつ、自分自身のことも知ってもらう積極的にコミュニケーションを取っていければいいと思います。(1116字)

#9 :1157日本人というのは、曖昧な表現を使うことが多い。 しかしそれは、人間関係を悪くさせないための知恵だとい

う。日本に住んでいる外国人のほとんどは、「日本の一番嫌いなところは」と聞くと、「曖昧文化が嫌い」と返ってくる。しかし、曖昧文化がいいという外国人もいる。その人は、もし世界中の人が曖昧表現を用いれば、国家間での摩擦や紛争、戦争が減るのではないかと思っている。私はその人の考えは当たっていると思う。曖昧表現は人間同士のぶつかり合いの中で、角が立たないように、クッションのような役割がある。私は物事をはっきり言うよりは、曖昧な表現を使ったほうがいいと思う。なぜかというと、人間関係というのは、とても大事だと思うからだ。はっきり言われたほうがいいと思う人は、日本ではすごく少ないと思う。私自身も、なんでもはっきり言われるのは嫌である。

見た目によるコミュニケーションというのもある。例えば、 ジャラジャラしたアクセサリーを身に着けてる若者がいる。それに対して、いろいろな反応が考えられるが、姿・外見だけのコミュニケーションが成されていることになる。人を外見だけで判断してしまう場合がある。私もたまに人を外見で判断してしまうことがある。それは私がアルバイトをしている時のことだったのだが、店内に首や腕に思いっきり墨を入れている人が入ってきて、私はそれを見て、「すごいけどあまり近づきたくないな」と思った。このように、見た目によるコミュニケーションを日ごろからやっているが、相手の本質を知らずに外見や持ち物だけで評価したり、決め付けている場合がほとんどである。 この習慣は下手をすると、差別につながってしまうこともある。

高コンテキスト文化、低コンテキスト文化というものがあると知った。日本人は高コンテキストな考え方で、外国人は低コンテキストな考え方である。高コンテキスト文化では、聞き手の責任が大きい。この場合、話し手

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から伝えられるメッセージに曖昧な表現が多くてもしっかり理解しなければならない。逆に低コンテキスト文化では、話し手の責任が大きい。誰でも理解できるような明確なメッセージを聞き手に伝えなければならないからである。私はこのことを知ったとき、自分は完全に高コンテキスト文化の人間だと思った。実際に私は人に何かを伝えるとき、適当に伝えていることが多いからだ。逆に、私が聞き手になる場合に同じような感じで適当に伝えられたとしても大体は理解できる。これからの人生で外国人と話すことはそんなに無いと思うが、機会があったときはしっかりと伝えられるようにしたい。

私はまだゼミのほとんどの人とのコミュニケーションが外見だけでの判断という形になってしまっているので、これからは、ちゃんとしたコミュニケーションをとっていきたい。(1157字)

#10: 1112異文化コミュニケーションを調べてみて世界各国のたくさんの文化を知ることができました。本を読んでコ

ミュニケーションをとるのが難しかったり国によってニュアンスの違いで相手の受け取り方が違って相手に不快な思いをさせたりすることがあることがわかりました。日本人同士でもニュアンスの違いによって相手に不快な思いをさせることがあるので、やはり違う国の人とコミュニケーションをとるのは本当に大変なことだとわかりました。

その反面自分が違う国の人とコミュニケーションとれたらすごい楽しいんだと思いました。今自分は違う国の人とコミュニケーションをとる機会があります。ガソリンスタンドでアルバイトをしていて接客するときにごくまれに違う国の人が来て英語であったり違う言語で話してくるお客がいてこういうときにもし話ができてコミュニケーションが取れたらお客も助かるしお店側や自分自身も助かるので接客的にコミュニケーションをとっていきたいと改めて思いました。言葉が通じなくてもジェスチャーで思ってることが伝わることもあるので話すことだけがコミュニケーションではなく自分の思っていることを伝えたり、相手の思っていることを感じとったりすることがコミュニケーションなのかなと思いました。

授業の感想としてパソコンの操作わ難しいと感じることがありました。自分は千葉県の名所として東京ディズニーランドを調べました。一見東京ディズニーランドと聞くと千葉県ではなく東京都だと思うけれど東京ディズニーランドは浦安市にあります。自分は小さいころからディズニーランドによくいってるんですけど調べてみると全然知らなかったことがあったりしてとても楽しかったです。隠れミッキーがあったり、知らないアトラクションがあったり、知らないキャラクターが増えていたり新たな発見もできました。あとレジェメ作成やブログにコメントしたりブログに投稿したり高校では習わなかったことが習えてとても勉強になりました。Gメールのアカウントを作ったり普段やらないことをやったり戸惑うこともあったけどGメールのアカウントだったりブログの使い方はこれからも使う機会があると思うのでしっかり覚えといてこれからの生活に役立てたいと思いました。

この授業を振り返って今の自分はドイツ語を履修してるんですが、正直ドイツ人と会ったときに話せるかというというと全く話せないと思います。履修している以上ドイツ人ともし会ったときにしっかり会話できるようになりたいと思いました。普段の授業からコミュニケーションを意識して生活していけば自分自身も成長できると思うので、これからはコミュニケーションを意識して生活していきたいと思います。(1112字; 改行 by 山内)

#11: 1102  今までの自分のコミュニケーション能力仕方を改めてみるとえてみると、基本は人見知りが強く積極的に会話

を始めるほうではないと思う。小学生時代、父の勤め先がよく転任するところであったため、自分もまた新たな学校に転校するたびに新たな友達を作ることが普通だった。自分の記憶では人見知りのはずだったが、友達を作ることになんの弊害もなかった気  今までの自分のコミュニケーション能力仕方を改めてみるとえてみると、基

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本は人見知りが強く積極的に会話を始めるほうではないと思う。小学生時代、父の勤め先がよく転任するところであったため、自分もまた新たな学校に転校するたびに新たな友達を作ることが普通だった。自分の記憶では人見知りのはずだったが、友達を作ることになんの弊害もなかった気がする。

なぜそうだったのかと考えると、相手のほうから気さくに話しかけられていたことがコミュニケーションの始まりかたであり、話しかけられた自分は何も臆せずに話しに応じていたという事が思い当たる。一番印象に残っているのは小学2年になる前に転校を経験したときだ。入学して半年以上がたっていること、また幼稚園からの付き合いなどから、ある程度集団ができているころであり、いま考えてもその中に入って行けるほど、率先的な性格ではなかった。そんな自分が一人取り残されずその輪に入ったきっかけは、集団登校時で一緒だった近所の子に話をかけられた時だ。会話の内容までは覚えていないが、その流れでクラスのみんなとも言葉を交わすようになった。そして一番最初に声をかけてくれた彼は、自分が思う小学校時代の交友関係の中では親友だったと言える。

そして中学校に上がると同時に父の転任が決引まり小学校卒業後、引っ越しをすることになる。次に暮らす土地は絵に描いたような田舎であったため、全校人数が100人前後の学校だった。また人数の少ないことからその土地の小学校一校から、中学校にあがることになる。自分の一人を除いて、全員が友達、顔見知りだった。まあ転校ってそいうものだが、それを知ったときはアウェー感を大きく感じた。やっぱり消極的な自分は、最初のホームルームが終わるまで席を立つことがなかった。そこでもきっかけ作りをしてくれたのは地元の子たちからの一声である。まるこめの図体の大きい子がやたらにやにやしながら「剣道部入らない?」、という第一声で声をかけてきた。もちろん取り巻きもいたしふざけて声をかけてきたのだろうが、「おお入る入る」なんて返して意気投合した。全く剣道に興味もなくもちろん入らなかったが、そのクラスとはなぜか仲が良くなった。その次の日には遊びに混ざっていた。

高校、大学も似たようなものになっている。そして日常生活でのコミュニケーションも特別親しい人を除く限り、また気分がいい時以外はこれらと同様だ。つまり自分のコミュニケーションの開始となるきっかけはほぼ全て相手に頼っていることになる。ただ会話が始まればそれとなく返せるだけである。将来的にももっと社交性ある対人能力に改善すべきであろう。 (1101字)

#12: 1040自分のコミュニケーションがいままで、どんな感じだったのかを、振り返り、このレポートで述べる。

自分は、今まで色々なコミュニケーションをしてきましたが、一番コミュニケーションをとるのが大変だったのが、高校時代の修学旅行の時に台湾に行って、現地の高校生たちと交流したことです。その時使った言語は英語だったのですが、当時も今も英語が苦手だった自分は、英語でコミュニケーションをとることができず、とても苦労しました。身振り手振りのジェスチャーでコミュニケーションをとろうと試みましたが、ジェスチャーだと相手と簡単な会話しかできず、コミュニケーションには、言語(英語)が、とても大事なことがわかりました。しかし自分の友人の1人は、言語(英語)ができなくても、コミュニケーションがとれていると言っていたので、びっくりしました。友人いわく言語が少ししか話せなくても、恥ずかしがらず、不安にならず、ちゃんと伝わっているかなどは、気にせずにやっていくと、簡単な英語でもコミュニケーションをとることができるらしいので、言語は、話せるにこしたことはないが、なくても一応、コミュニケーションはとれるらしい。

ちなみに台湾に行った時に、日本と違い驚いたことは、電車に乗る時は日本でいう切符のような役目を果たす丸いプラスチックみたいなものを、 suicaのようにかざして乗るところで、台湾料理は自分の口には合わず、とてもまずいものでした。(チャーハンはおいしかった。) あと市場が、ものすごく臭かった。台湾のコンビニのレシートは、宝くじの番号が書いてあり、宝くじになる。異文化は、おもしろい。

日本人は、高コンテキスト文化(言語を省略する。)だと言われています。実際に自分も高コンテキスト文化だと思う。

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実際に自分があった例 自分がいつも見ている番組を、その日は用事があり見れず、前の日に明日用事があって見れないなあ的なことを言って録画を促す。

実際に自分があった例 お金がないといって、おごってくれと促す。

外国人は、低コンテキスト文化だと言われています。日本人には、あまりいません。自分の考えでは、高コンテキスト文化よりもコミュニケーションをとっているイメージがある。なので、できれば自分は、高コンテキスト文化ではなく、低コンテキスト文化をとりいれていきたい。

今回、自分のコミュニケーションをふりかえってみると、まだまだコミュニケーションをとれていない気がする。これからは積極的にコミュニケーションをとっていきたい。(1049-字; ナンバリング削除 by 山内)

#13: 1036授業で習うコミュニケーションはただしゃべって終わるだけの会話だと思っていたがこんなにもいろんなコ

ミュニケーションの取り方があるなんて知りました。その中でも自分が少し興味が湧いたのはこの3つです。

1、マスコミュニケーション

2、言語コミュニケーション

3、非言語コミュニケーション

1、のマスコミュニケーションは、新聞やテレビなどの情報でコミュニケーションを取り合いみんなで共感する。また、インターネットを使えば世界の人たちともコミュニケーションを取ることができる。2、言語コミュニケーションは、普段みんなが話してるのが言語コミュニケーションです。発信者が言葉を使って相手に伝え発信者の気持ちや表情も伝えることができる。 3、非コミュニケーションは、言葉以外のことをやってコミュニケーションをとる。

また、そのやり方は多く手振り、表情、目、体、などでコミュニケーションをとっている。よく見るのがヤンキーやる腕をあげて強そうにして歩いてるのを見てこれも非コミュニケーションだと思いました。言葉を使わないで相手を威嚇してると思う。

授業でコミュニケーションの本を借りてどんなことを学んだか。人間にとって、コミュニケーションは基礎的社会過程である。また、個人の発達にとっても集団や組織の形成と存続にとってもコミュニケーションは必要不可欠である。本を読んでいくうちに多くのコミュニケーションがあると知りました。

1、経営のコミュニケーション

2、ビジネスコミュニケーション

3、動物のコミュニケーション

1、経営のコミュニケーション とは、金や人、情報、物など経営に必要なものとしてその中心にマーケティング・コミュニケーションがある。2、ビジネスコミュニケーションとは、お客様が何を求めているかなど

しっかりと把握してるか、また要求を聞き出すコミュニケーションテクニック。ビジネスコミュニケーションは相手に合して話していき丁寧にコミュニケーションをとる必要がある。3、動物のコミュニケーションは種に共通しているが固定的ではなくその発信者の置かれた状況によっていろんな動物とも会話ができる。

まとめで、コミュニケーションのとり方は無限にあると思いました。コミュニケーションは基礎的社会過程で必要不可欠なもので生きていくのに必要なものだと感じました。いろんな情報を得ることで自分の成長にもつながると思いこれからもコミュニケーションについて調べていきたいです。今回までの授業でコミュニケーションの深さを知りました。(1036字; 改行 by 山内)

 

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#14: 1011私は山内先生のゼミに入る以前、コミュニケーションについてはある程度理解をもっているつもりでした。コ

ミュニケーションとは、人と人とがある議題を持ってその議題について話し合うことで両者が満足できる。このように考えていました。

しかし、実際に深く勉強してみるとコミュニケーションとは簡単なものではなく、むしろ複雑にできていると知りました。その中でもミスコミュニケーションなどが非常に興味深く感じました。

その前にコミュニケーションの定義について確認しておくと、「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。」となっています。これだけを見ると簡単そうに見えますが実際はそう簡単ではありませんでした。まず、コミュニケーションを行うには同じ人間でなければなりません。そして、同じ言語というツールを用いることも必要です。そして共通の話題を持たないといけません。このようにコミュニケーションは非常に難しいものだということを知りました。

そこで繋がってくるのがミスコミュニケーションです。授業でも取り上げられた例として「カルピス」を外国人が「牛のおしっこ(cow piss)」と勘違いした例がありました。相手とのコミュニケーションを成功させるためには、まず自分と相手との間に共通の言語と基礎知識が必要です。また、相手の社会や文化のコンテクストも考慮に入れないとなりません。さらに、相手の文化に卑屈せず文化間の間で平等意識を持つ必要があり、相手に対して理解してもらう姿勢を持つことが必要となります。このようにコミュニケーションは非常に多くの過程を持つ必要があること。自分と相手に共通のツール(言語)を使用すること。相手に対し配慮を持つ必要があること。これらの過程を踏むことで初めてコミュニケーションが成功したと言えるでしょう。

私はこのゼミを通して、まずコミュニケーションはどういったものなのか。そしてコミュニケーションを円滑に進めるにはどうしたら良いのか。といったことについて知ることができました。私はこれから数多くのコミュニケーションをすると思いますが、この事業で知った、コミュニケーションの大原則を念頭においてそつなくこなしていこうと思います。その為には、まだまだ知識が足りない。実際の経験も足りないと感じました。そこで、前期では知ることができなかったコミュニケーションの具体例をより深くより詳しく知りたいと思いました。(1011字)

参考文献

http://aplac.info/memo/maki3.htmlhttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/06833200/異文化コミュニケーションハンドブック 石井 敏 有斐閣

#15 : 966この春学期のゼミを通していろいろなことを学びました。自分はこの授業に出会う前は コミュ二ケーションの

ちゃんとした意味も知りませんでした。 この授業を半年受けてまず自分の今までのコミュニケーションを振り返ってみたいと思います。自分の過去を振り返ってみて友達はそれなりにいたと思います。その友達と接するときに、自分の中で決めていたことがあります。それは自分がされて嫌なことは友達にはしないようにしようです。他人とコミュ二ケーションをとるときに自分はこれは大事だと思います。

私は小学一年生から野球をやっていました。小学生のときを振り返ってみると自然に他のチームの子とも自然に友達になっていたと思います。ですが、中学、高校と進学していくと自然とチームメイトととしかしゃべらなくなりました。小学生のときにはできたコミュニケーションが大人になるにつれできなくなっていました。ですが高校ではいろいろなことを学びました。高校の顧問の先生があいさつや礼儀にはとても厳し方だったので、コミュニケーションに必要なことをたくさん学ぶことができました。今振り返ってみると高校野球にはいろいろなコミュニケーシが普段からあったんだなと思いました。野球部の先生方には在学中はあまり感謝していなかった

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けど今思うと野球以外のこともいろいろと教えてくれたと感謝しています。

大学に入学して、一番最初に苦労したのは友達とのコミュ二ケーションでした。クラスの教室に入ったときの静寂は今でも忘れません。初日から友達も作ろうと思っていたのですがクラス全員が一言もしゃべらなかったのでコミュ二ケーションどころではありませんでした。他のクラスも初日はそんな感じだったそうです。二日目は絶対誰かとコミュ二ーションを取ろうと思っていたら教室に入ってすぐ話をかけられ仲良くなり連絡先を交換しました。日本人は基本的に恥ずかしがり屋なんだと思いました。大学に入って改めてコミュ二ケーションは大事だと思いました。

そして、二年になりこのゼミに入りました。このゼミでは本を読んだり大阪の学生と交流したりコミュ二ケーションの幅がとても広がりました。自分はコミュニケーションを取るには飲み会をするのが一番だと思いました。お酒を飲むと自然と会話がはずみました。またゼミで飲み会をやりたいです。

これからもこのゼミでコミュ二ケーションについてしっかり学びたいと思います。(996字; 字下げ by 山内)

#16: 9532011年の春学期はいろいろなコミュニケーションを、いろいろな角度から学んできました。初めにやったの

が、英語による自己紹介でした。自分はドイツ語を履修しており、長らく英語の世界から離れておりました。先生の知識等をお借りし、なんとか自分でも納得の自己紹介文を書くことができました。しかし、あの時気付かされたコミュニケーション能力の差が、世界共通語となっている英語力のなさです。たとえ、1年近く英語の世界から離れていたとはいえ、他の国の人とコミュニケーションを交わす必要最低限の知識が英語であり、自分はそのライン(=コミュニケーション交わすだけの英語力があるかないか)に立ってなかったと思います。

次にやったのが、グールプによる討論でコミュニケーションについて考えさせる内容でした。初対面の人とグールプになったため、色々苦戦しました。敬語で話すべきか、タメ語で話すべきか・・・。仕切る人が出てこなく、なかなか意見がまとまりませんでしたが、最後はなんとか他のグループに発表できるだけの意見をまとめることに成功しました。

グループによる活動終えて次に行ったのが、個人による異文化コミュニケーションに関連する資料集めとそのレジュメ作りでした。周りに力を借りることができないのがこんなにも苦だとは思いませんでした。また、周りのレジュメ作成スピードや完成度の高さに焦りも感じていました。先に完成した人のレジュメを参考になんとか完成しましたが、そこはやはり自分の力のみで完成したかったというもどかしい気持ちが最後に残ってしまいました。

授業内容にそって振り返ってみましたが、どの課題(Task)をとっても他に遅れをとり、それを取り戻そうと必死に頑張っても能力が足らず、結局は他に頼ってしまっていた自分がいたような気がしました。これは、異文化の人とコミュケーションをとる以前に、身近な人とのコミュケーションが著しく欠如しているということを 表していると思いました。秋学期に入る前に、身近なコミュケーションの課題を明確にし改善し、異文化コミュケーションを語る上で必要最低限のマナーのラインに立っていたいと思いました。また、提出や発表、グループによる討論なども率先的に参加し、いい意味で授業を盛り上げていけたらいいなと思っています。(953)

#17: 866私が春学期授業を聞いて感じたのはやはり日本人と他国の人とのコミュニケーションの違いがそんなに違わな

いと思っていたが実際はほとんどといっていい程違うものだと思い知らされました。また日本人同士でも全く違うコミュニケーションをしていることもわかった。

授業で、色々なコミュニケーションについて聞いてきて一番興味を持った内容はミスコミュニケーションの話だった。

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具体的にミスコミュニケーションとは発信源から始まり信号の作成、伝達、伝達手段、受信元、解読、反応、返信の8つで成り立っていると聞き私は自分がいつもコミュニケーションを失敗するとしたらどの部分だろうかとその時考えて伝達の手段がほとんどだと思いました。

何故そう感じたかというと大体がうまく相手に伝えたい内容どのような順序で話すのか考えずに話していた。もっとしっかり考えればスムーズにコミュニケーションできるし、グダグダにもならず自分も相手もあたふたすることないと思った。

レジュメ作成のとき私は多文化社会と異文化コミュニケーションという本について書こうと思ったのだが、理由は多文化社会とついてるのを見て日本人と海外の人のコミュニケーションの違いについてもと詳しく知ろうと思った。

この本を読んでほとんどの章の内容に同感できたり、興味を持った内容が多く自分が調べた異文化コミュニケーションと誤解の接点というところを呼んで日本のコミュニケーションとアメリカのコミュニケーションでも違いがあり、自分は読んでで誤解じゃないと思っていたところがあったがそれは他国の人にとってみれば誤解となってしまう。でもそのような誤解は人間として普通でありそういう誤解をして違ったコミュニケーションを取り入れれば新しいコミュニケーションを覚えられると感じた。

自分のコミュニケーションは今はほとんど日本人がメインだが社会にでればいろんな人とコミュニケーションすることになるし、同じ国の人とのコミュニケーションも大事でもあるが他国の人とのコミュニケーションの少しは考えてみる必要があるかもしれないと感じた。(866字)

#18 : 759今期の異文化コミュニケーションの講義を振り返ってみると、私のコミュニケーションには様々な癖があるこ

とに気がついた。まずは日本人によくある自分を押し殺したコミュニケーションを若干好んでいること。これは私が日常の中で友人と話す場合などに、あまり自ら多く話そうとはせずに 相手から話しかけてもらおうとすることが多く、自分からはあまり話題を振らない。つまり、相手のほうをまず立ててから、自分のことに入ろうとする。次に、リアクションが若干オーバーなきらいがあること。これも日常の中でよくあることなのだが、私は人の言葉への反応手段として言葉よりもリアクションをとることが多い。私はこれを直感的なコミュニケーションとして扱っており、言葉よりも先にリアクションで反応、応対するのだと考えた。

また、人と会話するときにも相手の反応をうかがってみた上でコミュニケーションをつなげる癖がある。これは私が自分を主張するよりも相手に合わせるだけのコミュニケーションを好んでいるということがわかる。これらを総合して考えてみると、私のとるコミュニケーションは非常に日本人らしいものだと考えられる。

私はこれまで自分は消極的な人間だ、と考えていたが、実際にこのようにピックアップしてみるとあながち間違いではなかったことがうかがえる。

講義の中で行った<言語による自己開示>のエクササイズでは、興味、趣味、嗜好の部位がよく開示されていて、一方、意見・主張の部位はあまり開示されていないという結果が出ていた。これは、周りとコミュニケーションを取る際に相手が興味を持っていることを優先して聞く姿勢をとり、自分からはあまり話を振らずにいる、いわゆる聞き専のスタイルをとっていることも明らかになった。総合して、私は消極的な人間であり、主体性を持っていないと断言できる。(759字; 字下げ by 山内)

#19: 723自分のコミュニケーションはいったいどんな風に今までとってきたのか?正直20年間でコミュニケーションに

ついて考えたことがなかったのでとってもいい機会である。ちょうど成人を迎える年なので、見直したり・分析するのも良い。自分で感じる事はあんまり喋らない事である。思っている事・感じた事を言わないことが多い。

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特に初対面の人・そんなに親しくない友人etc。しかし、自分が心を開いてる人にはだいたい言える。この前、図書室で借りたコミュニケーション関係の本には、ぴったり当てはまる事が書かれていた。日本人は公共的場面ではおとなしく、仲間内だとべらべら話をして盛り上がるらしいです。まさしく自分に当てはまる事が書かれていたので驚きました。自分では仲間内でのコミュニケーションはそれなりに出来ていると思っているので良いんですが、1番の悩みと言うか上手にできるようにしたいなと思っている事があります。それは、初対面の人に対するコミュニケーションです。凄い苦手意識があります。しかし、同じ共通する趣味などがあれば別なんですが、自分は高校生まで野球をしていたので、相手が野球をやっていた人だと凄い話し掛けやすかったりするので、助かります。高校時代に部活動していればなんとかコミュニケーションはとれますが、全く共通の話題がない人とのコミュニケーションは辛いものがあります。

コミュニケーションってどうすれば、上手にできる様になるのか?この前、本を借りて思った事は自分に必要な情報が沢山詰まっている事がわかった。普段は、本を読むことをしないんですが、自分の力になるなら読んでみようと思いました。ゼミを通してコミュニケーションを上手くできる様にしていきたいです。(723字;字下げ)

#20: 634自分のコミュニケーションを振り返ると自分が思ったことは出身地によって言葉の発音や方言がいっぱいある

のだと思いました。長野県出身の人は語尾に疑問文でもないのに上がるということを気づきました。青森県の人とかは言葉自体がなまっているのだと思いました。コミュニケーションではないのですが、大富豪というトランプのゲームでそれぞれのローカルルールがあるのだと気づきました。

教習所であった大阪の人と話したことは東京の人はもの少し寂しいと言っていました。大阪の人は道を尋ねたら最後まで教えてくれるのだそうです。自分も大阪に行きたいと思いました。

授業の中では外国の文化と日本の文化にそれぞれのちがいを学びました。日本人は言わなくてもわかるけどアメリカ人は言わなければわからないことがあると学びました。この内容ではどちらが悪いということはないと思います。この場合お互いの文化を理解することが大切なのだと思いました。アメリカ人だけでなく他の外国人の文化も理解することが大切なのだと思いました。  

日本人は、受け身で講義を聴くことに慣れていて、とくに立派な意見でもないのに、わざわざ人前で言うほどじゃない、とか、個人的な質問をして、他の人の時間を取ってしまうのは申し訳ない、と思っているのだが、そういう態度は歓迎されないということも学びました。文化の違いというのは、現地に行ってその国の習慣に合わせることが必要なのだと思いました。日本人は人前で自分の意見を堂々というのが難しいということです。

(634字; 字下げ by 山内)