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01.Okinawan music history 01. 沖縄音楽の歴史 時代と共に移り変わる沖縄音楽の歴史を知り 現代のスタイルにあった新事業を構築する 戦後から独特な歴史や文化と共に栄え続けた沖縄音楽。 各時代における沖縄音楽の需要やシーンを理解することで、 現代のスタイルにあった沖縄音楽の活用法を導きだすことができる。 このトピックでは、戦後から現在に至るまでの音楽シーンの概要を紹介したい。 受託事業社:プランニングオフィス Coda
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01. 沖縄音楽の歴史 - okinawaloveweb.jp · ザの街に求め、ハードロックを演奏するライブハウスに向かうのでした。この頃沖縄の二大バンドはディープ

Sep 10, 2019

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01.Okinawan music history

01. 沖縄音楽の歴史

時代と共に移り変わる沖縄音楽の歴史を知り現代のスタイルにあった新事業を構築する

戦後から独特な歴史や文化と共に栄え続けた沖縄音楽。

各時代における沖縄音楽の需要やシーンを理解することで、

現代のスタイルにあった沖縄音楽の活用法を導きだすことができる。

このトピックでは、戦後から現在に至るまでの音楽シーンの概要を紹介したい。

受託事業社:プランニングオフィス Coda

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OKINAWA ROCK HISTORY 前期カテゴリ:沖縄音楽

調査日 2009.12.17調査者員 松崎紀子

【沖縄民謡の概要】

 沖縄は独特の音楽文化を持っている。特に、沖縄県は19世紀まで独立した王国であったことと、第二次世界大戦後も本土とは隔離された状況にあったことから、民謡を土台にしたポピュラー音楽やアメリカの影響の強いロック音楽なども本土のそれとはやや異なった流れの下にあり、その幅を広げる元になっている。王宮の伝統音楽(御座楽)から古典音楽、芝居にかかわるものからお笑いに関するもの、大衆の民謡、お座敷歌謡、流行歌、童謡まで様々なジャンルがある。

 沖縄音楽の最大の特徴は、沖縄音階(琉球音階)である。鍵盤で「ドレミファソラシド」と弾いたときの「レ」と「ラ」を抜く(つまり「ドミファソシド」と弾く)のが西洋音階との最大の違い。この音階はインドネシアなど東南アジア地方にも一部存在する(ガムランなど)。歌詞については、古典作品はほぼ全てが「沖縄口(ウチナーグチ:沖縄方言)」で歌われる。最近の作品でもウチナーグチを使うのが一般的ではある。ただし、沖縄県出身のJ-POPアーティストによる楽曲はこの限りでなく、トラックは沖縄音階を踏襲しつつも、歌詞は「大和口(ヤマトグチ:本土の言葉、標準語とほぼ同義)」を使う曲も増えている。 沖縄民謡の歌詞は、サンパチロクともいわれる琉歌で成り立つことが多い。

(例)きゆぬふくらしゃや    (今日のほこらしゃや)なうにぢゃなたてぃる  (何にぎやな譬る)つぃぶでぃうるはなぬ  (莟でをる花の)ちゆちゃたぐとぅ      (露行逢たごと)

【代表的な民謡歌手】

登川 誠仁 1930年兵庫県生まれ。シンガー。ソングライター。兵庫県尼崎市に生まれ、本島・石川市東恩納(ひがしおんな)に育つ。少年時代から音楽~芸能の才に長け、親に隠れながら歌や三線を独学した。16歳で当時の主要劇団の一つであった松劇団へ「地謡」(じうてー=伴奏者&シンガー)の見習いとして加わり、その後、珊瑚座などの人気劇団で修業に励んだ。この時の先輩に嘉手苅林昌がいる。

●注目したい楽曲・アッチャメー小…三線の早弾きが特徴。・緑の沖縄…ソウルフラワーユニオンの中川とのデュエット曲・ペストパーキンママ…太平洋戦争後、米軍基地で働いていた登川誠仁が、           この時に耳にしたアメリカのヒット曲をカバーしたもの。

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嘉手苅 林昌  1920年、沖縄県越来村(現沖縄市)生まれ。幼少の頃より母の歌に合わせて三線を弾き始める。その後大阪や南洋諸島に移り住み、南洋では軍の雇員として三線を片手に島々を転々とした。旅回りの沖縄芝居の劇団などで全国巡業に活躍。山里ゆき子(現・山里ユキ)との「嘆きの梅」でヒットを出し60年代初頭から評価が高まり、沖縄音楽の代名詞ともなった。琉球民謡協会名誉会長であった99年、79歳で亡くなる。 ●特徴…低音から高音部のファルセットまでの音域の広さが特徴。自由奔放な即興の歌と三味線。●注目したい楽曲

知名 定男  1945年、大阪生まれ。大阪時代から音楽的才能を認められ、57年、登川誠仁の弟子となる。同年、レコーディング・デビュー(「スーキカンナー」)。若い頃から将来を嘱望されたが、78年の「バイバイ沖縄」に代表されるような批判精神を盛り込み、洋楽とのブレンドを計るなど新基軸を打ち出した。90年代以降、ネーネーズの実質的なリーダーとしても活躍、95年に再開された「琉球フェスティバル」でも総合プロデューサーを務めた。 ●注目したい楽曲・バイバイ沖縄…英語と沖縄口に八重山口の混在した歌。知名定男氏が「ネーネーズ」に歌わせて、レゲー調で味付けをしたところ大ヒット。歌詞は、大和人の「沖縄病」をテーマに作ったとか。沖縄音階(ドミファソシド)をふんだんに盛り込んだ曲

大城 美佐子  1936年、大阪・大正区に生まれ、2歳の時に沖縄へ。絹糸のような声と称される女性シンガー。小浜守栄や嘉手苅林昌のオッカケのような形で先人の歌を覚える。普久原恒勇や上原直彦らに強く勧められ、知名定繁に弟子入りして民謡の道に進む。62年のデビュー・ヒット「片思い」が彼女の未来を決定づけた。嘉手苅林昌、知名定男らのデュエットでも知られる。その魅力を絶賛する高嶺剛が映画『夢幻琉球・つるヘンリー』(98年)で彼女を主演に抜擢。 

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●注目したい楽曲・よなは徹と初共演を果たした"ふたり唄~ウムイ継承"が2009年6月にリリース。沖縄民謡を次世代に継承すべく活動しているふたりに、世界で沖縄の歌をアピールするには、なにが必要かなど、ヒントを得てもいいのでは?

古謝 美佐子  1954年、本島・嘉手納町生まれ。現役の島唄のシンガーとして、現役最高峰の一人とされる女性。小学4年生の時に早くも初レコーディングを果たしたという早熟で、親に頼んで津波恒徳と石原節子に教えを請うほどの熱心さだった。彼女の名を全国に知らしめたのは、オキナワチャンズの一人として参加した坂本龍一のセッション、そしてネーネーズでの活躍だった。95年、脱退しソロに。 ●注目したい楽曲・「童神(わらびがみ)」(1997 作)は、新しい沖縄を代表する子守歌としてブームを呼び、「夏川りみ」「山本潤子」「花*花」「加藤登紀子」など数々の歌手によってカバーされている。この曲を、世界的に有名な歌手に英語バージョンで歌ったらどうか?

坂本龍一のオペラ「LIFE」(1999年)出演、アイルランドの国宝級アーティスト「チーフタンズ」のアジアツア(2001~2002年)に参加するなど、国内海外のミュージシャンとの共演も多数で、沖縄音楽を世界に伝えるヒントが得られるかも。

2004年には「モンゴル800」のアルバムに特別参加していることもあり、若手ミュージシャンとのコラボレーションで、新しい試みができないか?

【その他特記事項】・ハワイアンミュージックの巨匠ともいえる、ケアリイ・レイシェルは、“涙そうそう”のカヴァー曲「カ・ノホ ナ・ピリ・カイ」をリリースし、ヒットていることもあり、沖縄民謡をハワイアン調やアイルランド調などに編曲して海外にリリースすることは出来ないか?・戦後、米軍兵を楽しませるために発展した音楽シーンの同世代で活躍された屋良さん(ジャズピアニスト)と沖縄民謡のコラボは?

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OKINAWA ROCK HISTORY 第1期(1970年~1980年)カテゴリ:沖縄音楽

調査日 2009.12.17調査者員 松崎紀子

【沖縄ロックヒストリー第1期の概要】

 戦後間もなくは本土が米軍に統治され、娯楽に興じられる人も少なく芸能を生業とする人たちは生活に追われていた。しかしこの時息を吹き返し、それまでは敵国音楽として活動を禁止されていたJAZZミュージシャン達は米軍のキャンプを回って演奏することで生活していた。但し米軍の客は要求レベルが高いので、認められる演奏力ないとキャンプ回りは出来なかった。結局これが日本のJAZZのレベルを上げる事となった。何年も経って1970年代。米軍は不毛なベトナム戦争に埋没。その頃ベトナムに行く兵隊は沖縄で出発を待ち、米国に帰る前の兵隊は横須賀などに駐屯してました。明日をも知れない沖縄駐屯の米兵はストレスのハケ口をコザの街に求め、ハードロックを演奏するライブハウスに向かうのでした。この頃沖縄の二大バンドはディープパープルをレパートリーとする「 」とジミヘンをレパートリーとしてコミカルで体当たりな演奏をする「コンディション・グリーン」。この時日本のバンドは沖縄のバンドに演奏力では一切かなうものはないほどの演奏技術をもっていた。

【代表的なバンド】

紫 リーダーでキーボーディストのジョージ紫が双子の城間兄弟とともに、72年に結成。影響を受けたアーティストは、ディープ・パープル。その後、下地行男(g)、比嘉清正、宮永英一(ds)が加わり75年に「紫」でデビュー。その8月には大阪に初上陸、10月には東京・日比谷野外音楽堂で頭脳警察と共演し、あっという間にハードロック・バンドの頂点の座を確立した。76年に2ndアルバム「インパクト」、77年にライヴ・アルバム「DOIN'OUR THING」を発表するが、音楽性の相違を理由に解散。現在、「New紫」の名前でジョージ紫と宮永英一を中心に活動中。沖縄市にあるライヴハウス「7TH HEAVEN」(TEL. 098-929-3309)で定期的にライヴを行っている

コンディショングリーン 1971年にボーカルのかっちゃんを中心に結成。「コンディション・グリーン」は台風時に最も警戒を要する警報のこと。ジミヘンばりのシンキのギター・テクや人間タワー、かっちゃんの蛇の頭を食いちぎり鶏の血を啜るというセンセーショナルなステージが評判となり、ベトナム帰りのマリンたちの度肝を抜いた。解散後、かっちゃ

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んは沖縄市のライヴハウスJACKNASTY'S(沖縄市ゲート通り・TEL.098-938-3781)にて活動。 

MARIE WITH MEDUSA Marie(まりー、1951年8月19日- )は、沖縄県中城村出身。ハードロックバンド「Marie with MEDUSA」のヴォーカリストとして、ベトナム戦争時代の沖縄で米兵の人気を集め、オキナワン・ロックの女王といわれた。1979年、CBSソニーよリ歌手デビュー。1986年、ハードロックバンド《Marie with MEDUSA》結成。「喜屋武マリー」(きゃんまりー)として、ミュージカル女優としても活躍した。現在は、芸名を「Marie(マリー)」として、沖縄市を拠点に《Marie's Band》などのユニットで活動している

【その他特記事項】・この時代はハードロックが流行した時代。アメリカやイギリスなど独特のロック文化がある地域に向けて、この時代の楽曲を現在の沖縄ロックアーティストがカバーしたらどうか?サンボマスターとかが、「紫」のカバーを歌ったら面白いかな?

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OKINAWA ROCK HISTORY 第2期(1979年~1989年)カテゴリ:沖縄音楽

調査日 2009/11/26田原政広

【沖縄ロックヒストリーの概要】駐沖軍人を対象とする意識よりも、自分たちのオリジナル曲を生み出そうという意識が強まる。そんな時代の中、コンディショングリーンや紫を聴いて育った世代が沖縄の音楽シーンに新たな風を吹かせるバンドを結成させ、活動を始める。瀬底真哉(Shy)、さきま佐喜真優(Johnny宜野湾)らで結成したハートビーツが1980年に結成された。82年にはシングル「マチルダ」、アルバム『Dance the night away』でメジャーデビューを果たす。紫解散後に城間兄弟はAOR系のバンド、ISLANDを結成する。ライブでカヴァー曲を演奏するのが主だったスタイルから、オリジナル曲を持ち、メジャーレーベルとの契約を獲得した。彼らに続き、タバサ、ヌード、ワルツ、ディジーなど個性的なバンドが誕生し、県内のメディアでも取り上げられ、人気を獲得して行く。また83年、紫は一時的に再結成し、沖縄市でライブを行う。これがピースフル・ラブ・ロック・フェスティバルの第一回となる(当時はピースフル・ラブ・ロック・コンサート)。また、沖縄のアイデンティティをポピュラー音楽にのせて歌う「沖縄ポップス」もこの頃から台頭するようになる。(喜納昌吉「ハイサイおじさん」、知名定男「バイバイ沖縄」など)。

【代表的なバンド】

ハートビーツ79年結成。82年、コロムビアレコードよりアルバム『Dance The Night Away』、シングル「マチルダ」でデビュー。沖縄のバンドによる本土でメジャーデビューの先駆けとなった。翌年後藤次利プロデュースでアルバム『Crazy Dance』シングル「Midnight Call」リリース。ジャッキーチェンの主演映画「天中拳」のテーマソング「カンニングモンキー」リリース。84年からメンバーのソロ活動も目立つようになる。86年バンドは解散。ヴォーカルのShy、ギターのジョニー宜野湾は現在もソロアーティストとして活躍している。代表曲:「マチルダ」「カンニングモンキー」

アイランド紫のメンバーだった城間正男と城間俊雄の城間兄弟が紫の解散後に結成。兄弟で開店した同名のライブハウスを拠点に活動を始める。89年リリースの「Stay with me」がスマッシュヒットとなる。代表曲:「Stay with me」

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喜納昌吉今もなお精力的に活動し続けるオキナワン・ポップの第一人者。48年、米軍占領下のコザ(現・沖縄市)に生まれる。父は沖縄民謡の大家、喜納昌永。70年代、彼が17歳の時に作った曲「ハイサイおじさん」が沖縄、そして日本本土でも大ヒット。この頃、「紫」「コンディション・グリーン」「メデューサ」など、沖縄のロック・バンドが人気を博していたが、昌吉のバンド「チャンプルーズ」は民謡クラブでのラ イヴから火がついた。米国的ないわゆる「ロック」とは一線を画す音楽としてヒットし、以後、沖縄のポピュラー・ミュージックの代表曲として歌い継がれている。「ハイサイおじさん」のモデルはもともと校長先生にまでなった優秀な人だったのだが、沖縄の戦乱の中でアル中になり狂ってしまった実在の人物である。そんな彼を、少年時代の昌吉は沖縄の伝統的共同体のやさしい眼差しで歌っている。昌吉のもうひとつの代表曲が「花(すべての人の心に花を)」。日本のみならず台湾/タイ/ベトナム/アルゼンチンなど、世界各国のアーティストがカヴァーしヒットしている。代表曲:「ハイサイおじさん」「花~すべての人の心に花を~」

知名定男ネーネーズの育ての親として知られ、他にも琉球フェスティバルのプロデュースや自主レーベル<ディグ・レコーズ>の主宰など、オキナワ・ミュージック発展に力を尽くすリーダー的存在。幼い頃より島唄に親しみ、10代前半で登川誠仁に弟子入り。12歳でデビューを果たし、"天才少年"として 一躍脚光を浴びた。そして26歳の時にリリースした「うんじゅが情どぅ頼まりる」が、沖縄で空前の大ヒットを記録。そのまま本土でもデビューを果たすこととなる。知名の魅力は、ストレートに島唄を表現するのではなく、レゲエやロックなどのエッセンスを交配させ、伝統に新たな血を導入して生き返らせている点にある。こうした志向は、後のネーネーズなどのプロデュース・ワークにもよく表れているだろう。近年は裏方業に徹しているが、96年には三線弾き語りによ るライヴ盤『遊び唄・情け節』を発表。沖縄の悠久の歴史が透けて見えるような朗々とした歌声からは、シンガーとしてもまだまだ一流であることを印象付けた。09年、芸能生活50年の節目に発表された「島唄百景」が、第51回 日本レコード大賞で企画賞を受賞した。代表曲:「バイバイ沖縄」「うんじゅが情どぅ頼まりる」

りんけんバンド1977年結成。1985年オリオンビールのCMソングに「ありがとう」が起用され県内でヒットし、87年マルテルレコードからデビューアルバム『ありがとう』をカセットでリリースする。三線や島太鼓など沖縄の楽器とドラムス、キーボードなどの現

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代の楽器とが融合した沖縄ポップスという新しい音楽スタイルを生み出した。オリジナルの全楽曲の作・編曲を林賢が手がけている。1990年5月「ありがとう」全国リリースされ、その後もアルバム制作やツアーを精力的にこなし、国内だけでなく、海外でも高い評価を受けるようになった。1999年までに11枚のアルバムを発表。2000年オリジナルレーベル、「りんけんレコード」「アジマァレコード」を設立し、ソニーレコードからりんけんレコードに移籍。2008年2月、バンド結成30周年コンサートを東京で開催。10月、照屋林賢初のソロアルバム『pause』リリース。ファン層は実に幅広く、6ヶ月の赤ん坊から80歳のお年寄りまで3世代に渡る老若男女が一緒になって楽しめるステージは、南北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど世界各地でいずれも高い評価を受けている。代表曲:「ありがとう」

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OKINAWA ROCK HISTORY 第3期(1990年~1997年)カテゴリ:沖縄音楽

調査日 2009/11/26田原政広

【沖縄ロックヒストリー第3期の概要】当時は全国的にバンドブームと呼ばれ、ブルーハーツやユニコーン、エックスなど個性的なバンドやシーンが数多く登場した。BEGINがテレビのオーディション番組でグランプリを獲得し、メジャーデビューを果たす。さらに、坂本龍一が87年の『NEO GEO』に続き、『ビューティ』(99年)を発表。前作に引き続き琉球民謡を取り上げ話題となる。レコーディングだけでなく、ツアーにも古謝美佐子、我如古より子、玉城一美が参加。95年にペルー日系3世のアルベルト城間来日、91年にディアマンテスを結成。92年に「ガンバッテヤンド』がオリオンビールCMソングに起用され話題となる。93年、沖縄限定でアルバムを発売し、同年全国デビューを果たした。また、ロックやファンク、ジャズ、レゲエなど様々なジャンルをミックスさせ独自の世界を築いた新良幸人パーシャクラブも95年にデビューした。

【代表的なバンド】BEGIN

BEGIN沖縄県石垣市出身の3人組。1989年9月、TBS系オーディション番組『平成名物TVいかす!!バンド天国』に出場。「恋しくて」を演奏して審査員全員の絶賛を受ける。結果的に12代目イカ天キングとなる。1990年3月に「恋しくて」でメジャーデビュー。日産自動車のCMソングに採用され、オリコン3位を記録する。2001年より県内にて慰霊の日近くに「うたの日コンサート」を始める。2007年より「うたの日カーニバル」と名称を改め、入場無料になる。2002年5月「島人ぬ宝」、2003年2月「オジー自慢のオリオンビール」が県内で大ヒットを記録。アコースティック楽器を中心とした編成で、ジャズやブルースなどのルーツ・ミュージックを島唄的に解釈して人気を博す。2003年、世界一簡単に弾き語りができる四弦楽器 「一五一会」を考案した。代表曲:「恋しくて」「島人ぬ宝」

ディアマンテス95年に来日したアルベルト城間が、89年のトリオ・ディアマンテス経て91年にディアマンテスを結成。ライブを中心に活動を続け、93年に『オキナワ・ラティーナ』でメジャーデビュー。「ガンバッテヤンド」、「勝利のうた」、「片手に三線を」、「魂をコンドルにのせて」、「野茂英雄のテーマ」など数々のヒット曲を生み出した。現在も沖縄を拠点に全国各地でライブを展開している。代表曲:「ガンバッテヤンド」「勝利のうた」「片手に三線を」

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新良幸人沖縄民謡若手歌者きっての二枚目声の持ち主。67年石垣島・白保に生まれ、幼い頃より民謡家の父(新良幸栄)から八重山古典民謡を厳しく教えられた。85 年に最年少で最高賞を受賞した後、進学のために那覇市に居を移す。現在は沖縄県那覇市を拠点に、パーシャクラブのヴォーカル&三線奏者として活動中。平行して同バンド・メンバーの「サンデー」こと仲宗根哲と2人で、唄・三線・太鼓による活動も行っている。JTA(日本トランスオーシャン航空)のCM ソングの他、95年にTBS『筑紫哲也のニュース23』のエンディング・テーマに採り上げられた自身作詞による「ファムレウタ(子守唄)」は、03年に同郷の歌手夏川りみのミニ・アルバム『ファムレウタ~子守唄~』にも収録された。代表曲:「月ぬ美しゃ」

パーシャクラブ新良幸人率いるパーシャクラブは八重山民謡の旗手である。彼らは沖縄音楽にロック/ファンク/ジャズ/レゲエ/ラテン・ミュージック……を巧妙に融和させ、既定の枠を遥かに越えた独自の音世界を構築している。そのメンバーは、三線&ヴォーカルを務める新良幸人を始め上地正昭(g)、神村英世 (b)、津波古慈乃(dr)、仲宗根哲(per)の計5人。今までにすこぶる多くの作品を産出している、この沖縄音楽界のパイオニア・グループに今後とも注目だ。代表曲:「海の彼方」

ネーネーズそれぞれが島唄の名手であった古謝美佐子/吉田康子/宮里奈美子/比屋根幸乃の4人を知名定男がプロデュースする形で90年に結成。沖縄音楽専門のインディー・レーベル<ディスクアカバナー>の第1弾としてアルバム『IKAWU』(91年)でデビューを飾り、2作目『ユンタ』(92年)よりメジャーに移籍。本拠地である沖縄県宜野湾市の民謡酒場「島唄」での地道な活動はもとより、国内外で多くのライヴをこなし、94年には初のヨーロッパ公演も実現させた。95年末に古謝が抜け、翌年、當眞江里子が加入。そして99年11月14日、渋谷公会堂での「さよならコンサート」で惜しまれつつ解散した。そのときの模様は『オキナワ~メモリアル・ネーネーズ~』(00年)に収められている。沖縄には多くのガールズ・グループが存在するが、前述のように円熟した唄者で構成されワールドワイドな成功まで果たしたネーネーズは稀有なグループだ。高度な歌唱力と知名の絶妙なプロデュース・ワークが相交り、りんけんバンドと共に"オキナワン・ポップ"なる新ジャンルを確立させたパイオニアである。98年、英国のタルヴィン・シンのヒット曲「O.K.」で大々的にフィーチャリングされ、世界のクラブでネーネーズの歌声

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が流れたという事実などは特筆すべきだろう。なお現在は、小山良子/伊計季代花/宮城江利奈/平田桂子の4人が「二代目ネーネーズ」として、民謡酒場「島唄」で活躍している。代表曲:「黄金の花」

古謝美佐子1954年嘉手納町生まれ。幼少の頃から沖縄民謡に親しみ、小学生から舞台に立ち、9歳でレコードデビュー。1986年に坂本龍一のレコーディングとツアーに参加。1990年からネーネーズにリーダーとして参加。6枚のアルバムを発表。1995年にグループを脱退し、翌年よりソロ活動を再開。歌だけでなく、作詞や三線、琉琴や三板などの演奏もこなす。2001年、アルバム『天架ける橋』発表。収録曲の「童神」が大ヒットを記録。夏川りみ、山本潤子、加藤登紀子など多くの歌手がカバーしている。初代ネーネーズの宮里奈美子、比屋根幸乃とともにさんさらを結成、2004年にはモンゴル800のアルバムに歌と三線で参加するなど、その活動は多岐に渡っている。代表曲:「童神」

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OKINAWA ROCK HISTORY 第4期(1996年~2002年)カテゴリ:沖縄音楽の歴史

調査日 2009.12.17調査者員 山城祥子

【沖縄ロックヒストリー第4期の概要】

 沖縄インディーズバンドの概要

安室奈美恵やSPPEDなど、沖縄出身のアーティストの楽曲がヒットし一躍スターとなる。2000年には「沖縄サミット」も開催され、沖縄県が世界的にも注目される。次第に方言への拘束がない世代や、戦争体験のない親の子供がバンド活動を始めるなど、沖縄へのコンプレックスや偏見が無い時代へと変化し、全国的にも沖縄のアーティストや文化などが注目される。また、NHKで放送された「ちゅらさん」など、沖縄が題材となる番組も多く制作され、瞬く間にブームが広がった。

県外では「Hi-STANDARD」や「HAWAIAN6」などのハードコア、メロコアブームが到来。インディーズバンドが全国的に人気の地位を得る。 そんな中、県内でも「地獄車」「BLEACH」「IN-HI」「MONGOL800」などの新しい世代のインディーズバンドが自主企画イベントを積極的に開催したり、CD制作をしたりし、急速に沖縄インディーズアーティストを応援するファンが増えていく。また、そんな県内で頑張っているアーティスト達を応援しようと、CD店やイベンター、マスコミ関係者、雑誌媒体などが後押ししたのも、インディーズバンドがブレイクした大きな結果である。

インディーズバンドの音源を集めたコンピレーションアルバム「飛薬」や「Clap Hands!」なども発売され、アーティストの活動の幅を広げた。

【代表的なバンド】

地獄車 1996年11月、大学で知りあったメンバーで結成。1997年頃から沖縄で全国のコア系バンドのライブが盛んになり、地獄車の存在が全国に知れ渡るようになる。1997年、6曲入りのデモテープ『象殺し、地獄拳』を発表、500本瞬く間に完売。1999年1月、1stアルバム『地獄車』を発表、県内チャートでSPEEDを抜いて初登場1位を獲得。その後、本土で7000枚を約1カ月で売り切る。●注目したい楽曲・空手バカ☆一代…1stアルバム『地獄車』の1曲目。勢いのある楽曲・元…地獄車with伊是名尚円太鼓とのコラボレーション曲・鉄拳制裁…1stアルバム『地獄車』に収録されている曲。iTunesでの地獄車トップランキング1位。

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Bleach 1998年、沖縄で結成。瞬く間に沖縄NO.1ガールズバンドとしてその地位を確立。日本各地でライブをし、その演奏力とライブパフォーマンスで一躍その名をとどろかせる。2000年10月ロックの聖地NYのCBGBでライブ。2001年メジャーデビュー、3月SXSW初参加を含め全米6ケ所で弾丸ツアーを敢行し各地でBleach旋風を巻き起こす。 2009年、結成11年目にして惜しまれながら解散。 ●注目したい楽曲・カナリヤ帝国の逆襲…アルバム「Bleach」の中からシングル化された曲。・Sun-dance(Moon-dance)…ライブで盛り上がる楽曲。

MONGOL800 1998年、高校のメンバーで結成。『GO ON AS YOU ARE』でインディーズデビュー。2001年9月に、2ndアルバム『MESSAGE』を発表。発売から7か月後のオリコンアルバムチャートで、インディーズながら1位を獲得。「あなたに」が洗剤のCMでオンエアされ、一躍注目を浴びる。インディーズとしては前代未聞の280万枚以上を売り上げ、大きく話題を呼んだ。2009年には初のアリーナ、日本武道館でライブを開催する。●注目したい楽曲・あなたに…全国のCMで起用され、瞬く間にモンパチの名を世に知らしめた曲。・小さな恋のうた…オリコンカラオケチャートで14週連続2位を記録!・琉球愛歌…沖縄について歌われた楽曲で、沖縄と反戦を強く意識した楽曲。

IN-Hi 1997年結成。1stアルバム「沖縄CORE」が、2000枚を完売。パワフルなライブパフォーマンスが話題を呼ぶ。メロディックハードコアを特徴とするロックバンド。楽曲に

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は、沖縄の方言や言葉を用いたものが多い。2003年にメジャーデビューするも、2007年1月活動休止。 2008年12月に再び活動再開。●注目したい楽曲・チバリYo!…メジャー第一弾シングルとなった作品・ハイサイ兄さん…沖縄の方言を用いた楽曲

【沖縄ロックヒストリー第5期の歴史】1996年kiroroが1stシングル「長い間/青のじゅもん」をリリース。沖縄地区限定のインディー盤であったにもかかわらず、1万枚以上の好セールスを挙る。

1997年地獄車が6曲入りのデモテープ『象殺し、地獄拳』を発表。500本瞬く間に完売。

1998年kiroro「長い間」でメジャーデビュー。

1999年地獄車が1stアルバム「地獄車」をリリース。県内チャートでSPEEDを抜いて1位に。ちなみに、この時のSPEEDは、ベストアルバム「MOMENT」をリリース。、全国でミリオンを達成している。

2000年沖縄サミット開催。イメージソングに、県出身・安室奈美恵の「NEVER END」起用。

2001年モンゴル800が2ndアルバム『MESSAGE』を発表。オリコンアルバムチャートでインディーズながら1位を獲得。その後、インディーズとしては前代未聞の280万枚を売り上げる。

HYが沖縄限定でリリースした1stアルバム『Departure』が、あっという間に完売。

【その他特記事項】・MONGOL800「琉球愛歌」→沖縄の反戦を強く意識した歌。

・HY「そこにあるべきではないもの」→沖縄の海が汚れている現状を歌った曲。ごみ問題をテーマにして作られた。

沖縄の平和や自然、沖縄について歌われた曲をクローズアップして、なにかコラボレーションはできないか。(写真集やエコな商品、沖縄やちむんなどとのコラボなど)

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OKINAWA ROCK HISTORY 第5期(2003年~現在)カテゴリ:沖縄音楽

調査日 2009.12.17調査者員 山城祥子

【沖縄ロックヒストリー第5期の概要】

 MONGOL800がインディーズバンドながら全国的に爆発的な人気を集める中、それに続けと数々の沖縄インディーズバンドが一気に盛り上がりをみせはじめる。そして、2001年にデビューした「HY」や、2003年に大ブレイクした「ORANGE RANGE」、2004年には「D-51」など、数多くのアーティストがメジャーへとステップする。彼らはMONGOL800とは違い、地元のプロダクションに所属して拠点を沖縄に置きつつ、県外のメジャーレーベル会社との提携により、全国規模で活動するという方法で成功を収めた。アーティストは県外へのネットワークが構築でき、県外ライブやイベントに出演するのが非常に容易になった。これは、とても大きな進歩である。しかしながら、県外へとアーティストがメジャーデビューするにつれ、沖縄の音楽業界やレーベル会社にお金が落ちないシステムとなっているのが、今の現状。

●メジャーへと進んだ沖縄アーティストティンクティンク、RYUKYU DISCO、HIGH and MIGHTY COLOR、やなわらばー、ZUKAN、U-DOU&PLATY、多和田えみ、砂川恵理歌、下地勇、しおり、ji ma ma、All Japan Goith、耳切坊主、かりゆし58など

【代表的なバンド】

HY 2001年、沖縄限定でリリースした1stアルバム『Departure』が、あっという間に完売。翌年には沖縄・宜野湾海浜公園で初のワンマンライヴを開催。2000人を超すファンが殺到するという大盛況となった。同年、『Departure』が全国発売され一気に注目度が高まる。03年にリリースした2ndアルバム『Street Story』では、初登場1位を記録、しかもインディーズアーティストとしては史上初の4週連続1位を獲得するという偉業を果たした。●注目したい楽曲・そこにあるべきではないもの…沖縄のゴミ問題に着手した歌・Song for…泣ける!!!!!!!!!!

・ホワイトビーチ…HYが注目されるキッカケとなった曲

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ORANGE RANGE  インディーズの頃は、地元沖縄を中心にストリートライブなど数多くの ライブを行い、着実に動員を増やし話題騒然となった所でメジャー・デビューのきっ かけを作る。2003年「キリキリマイ」でメジャーデビュー。2004年にリリースした5thシングル「ミチシルベ~a road home~」にて自身初と なるオリコンシングルチャート初登場1位を獲得。2006年にリリースした13thシングル「チャンピオーネ」まで、9作連続オリコ ンシングルチャート連続1位を獲得した。●注目したい楽曲・上海ハニー…ORANGE RANGEが注目されるキッカケとなった曲・花…映画の主題歌となっており、PVが沖縄の城跡で撮影されている・ミチシルベ…インディーズ時代から温めていた曲  

D-51  インディーズ時代に販売していた自主盤「LET‘s TRY」が、瞬く間に5,000枚売り切り、口コミで人気が広がる。2004年「STREET BREEZ」をインディーズリリース。県内TOWER RECORDSにてインディーズチャート1位を記録。そして同年、シングル「TOP OF THE SUMMER」でポニーキャニオンよりメジャーデビュー。3rdシングル「NO MORE CRY」はTVドラマ「ごくせん」の主題歌に抜擢され、50万枚を超える大ヒットを記録。●注目したい楽曲・NO MORE CRY…「ごくせん」の主題歌に抜擢され、50万枚を超える大ヒットを記録

かりゆし58 2005年4月に沖縄で結成された4人組バンド。 沖縄音階にロック、レゲエをチャンプルーしたサウンドと、かざらない言葉でメッセージを発信し、世代を超え人気を呼んでいる。2006年2月アルバム「恋人よ」でデ

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ビュー。同年7月にシングル「アンマー」をリリース。母への感謝の気持ちをストレートに唄ったこの作品が多く の共感を呼び、日本有線大賞新人賞を受賞。●注目したい楽曲・アンマー…日本有線大賞新人賞を受賞。誰もが涙する母に贈った唄。

【沖縄ロックヒストリー第5期の歴史】2003年ORANGE RANGEが「キリキリマイ」でメジャーデビュー。HYがリリースした2ndアルバム『Street Story』が、初登場1位を記録。しかもインディーズアーティストとしては史上初の4週連続1位を獲得するという偉業を果たした。

2004年D-51やHIGH and MIGHTY COLORなど、沖縄インディーズで活躍しているアーティストが、ぞくぞくとメジャーデビュー。

2005年ハイカラが「PRIDE」でメジャーデビュー。「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」の 第2期オープニングテーマになり、オリコン初登場2位を記録するヒットシングルとなった。

2006年かりゆし58が「アンマー」をリリース。母への感謝の気持ちをストレートに唄ったこの作品が多く の共感を呼び、日本有線大賞新人賞を受賞。

2007年やなわらばー1stアルバム『歌ぐすい』をリリース。ドラマ主題歌に抜擢された『「拝啓○○さん」』・『いちごいちえ』や『空をこえて海をこえて』等の全13曲が収録され、オリコンウィークリーチャート6位を記録

2008年音楽配信が除々にメインとなり、CD販売が落ち込む。不況により、音楽業界全体、さらに沖縄のインディーズ業界も落ち込む。