Top Banner
多文化公共圏センター年報 第4号 1 多文化公共圏センター ( 以下 CMPS) は、本 年度から国際学部附属のセンターとなり、4 目を迎えることができました。私がセンター長 となったのは昨年度 4 月からで、本年度で 2 目となりました。 2011 年の世界は、中東諸国の民主化のうね り、リビアへの NATO の介入とカダヒィ政権 の崩壊、ギリシャ・イタリアなどの債務危機を 含む欧州の金融危機、不安定な国内情勢が続く アフガニスタン、タイの大洪水、イランの核開 発疑惑問題、WTO の貿易交渉や COP17 の地球 温暖化防止交渉の決裂など不安定な状態が続い ています。 一方、 3 11 日に発生した東日本大震災は、 地震、津波、福島第 1 原子力発電所事故により 東北地方や北関東地方に多大な被害をもたら し、日本の政治、経済、社会、生活、文化に危 機的な状況をもたらしました。 このような世界や日本の転換期において、国 際学部や多文化公共圏センターは何をなすべき なのか、年報第 4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に ついて、国際学部の教員と博士後期課程の大学 院生等に執筆してもらいました。 CMPS は、そのような甚大な放射能被害を 受けた福島県の隣の栃木県に位置することか ら、学長支援プロジェクト「福島乳幼児・妊 産婦プロジェクト (FSP)」を立ち上げ、栃木と 新潟等拠点における乳幼児と妊産婦を対象と するニーズ調査、うつくしま NPO ネットワー クとの共同アンケート調査を実施し、7 月と 2 月に活動報告会を開催する他、学生団体 FnnnP Jr. と協力してママ茶会開催等ボランティアを 行い、マスコミにも広く紹介されました。 それに関連して、CMPS では、昨年に引き続 き、学生国際連携シンポジウム「学生とアジア・ 日本の震災復興を考える~大学の専門性を生か した支援のあり方~」を 2011 12 月に 2 名の 海外ゲストを呼んで開催しました。このシンポ ジウムは、「宇都宮大学学生の国際連携教育支 援経費」の予算を活用して、CMPS が宇都宮大 学の学生と教員が一体となって企画し、国際学 部を中心としながら全学レベルで行われまし た。(その報告集は本年報とは別に制作。) その他、活動報告として、「第 3 回グローバ ル教育 / 危機の時代におけるグローバル教育~ ポスト開発 / 脱成長時代における教育の果たす 役割を考える」、連続市民講座「多文化共生に ついて考える VOL.6 / ゲーテと仏教思想」 等を 掲載しました。 CMPS は、本年度も従来の「外国人児童生徒 教育とグローバル教育」を中心として、国際社 会学科と国際文化学科の各教員による企画や運 営を行ってきましたが、国際学部や国際学研究 科として、今後先進的国際学や公共圏の思想や 研究を基盤とする CMPS の使命(ミッション) や理念(ビジョン)について深く模索していく 必要があります。 最後に、この 1 年間 CMPS の活動や運営で ご協力いただいた方々お世話になりました。感 謝申し上げます。 2012 3 は じ め に 多文化公共圏センター長
88

は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい...

Aug 15, 2020

Download

Documents

dariahiddleston
Welcome message from author
This document is posted to help you gain knowledge. Please leave a comment to let me know what you think about it! Share it to your friends and learn new things together.
Transcript
Page 1: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

多文化公共圏センター年報 第4号

1

多文化公共圏センター (以下 CMPS)は、本

年度から国際学部附属のセンターとなり、4年

目を迎えることができました。私がセンター長

となったのは昨年度 4月からで、本年度で 2年

目となりました。

2011年の世界は、中東諸国の民主化のうね

り、リビアへの NATOの介入とカダヒィ政権

の崩壊、ギリシャ・イタリアなどの債務危機を

含む欧州の金融危機、不安定な国内情勢が続く

アフガニスタン、タイの大洪水、イランの核開

発疑惑問題、WTOの貿易交渉や COP17の地球

温暖化防止交渉の決裂など不安定な状態が続い

ています。

一方、3月 11日に発生した東日本大震災は、

地震、津波、福島第 1原子力発電所事故により

東北地方や北関東地方に多大な被害をもたら

し、日本の政治、経済、社会、生活、文化に危

機的な状況をもたらしました。

このような世界や日本の転換期において、国

際学部や多文化公共圏センターは何をなすべき

なのか、年報第 4号では「転換期における国際

学と公共圏」という特集を組み、2011年とい

う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

ついて、国際学部の教員と博士後期課程の大学

院生等に執筆してもらいました。

CMPSは、そのような甚大な放射能被害を

受けた福島県の隣の栃木県に位置することか

ら、学長支援プロジェクト「福島乳幼児・妊

産婦プロジェクト (FSP)」を立ち上げ、栃木と

新潟等拠点における乳幼児と妊産婦を対象と

するニーズ調査、うつくしま NPOネットワー

クとの共同アンケート調査を実施し、7月と 2

月に活動報告会を開催する他、学生団体 FnnnP

Jr.と協力してママ茶会開催等ボランティアを

行い、マスコミにも広く紹介されました。

それに関連して、CMPSでは、昨年に引き続

き、学生国際連携シンポジウム「学生とアジア・

日本の震災復興を考える~大学の専門性を生か

した支援のあり方~」を 2011年 12月に 2名の

海外ゲストを呼んで開催しました。このシンポ

ジウムは、「宇都宮大学学生の国際連携教育支

援経費」の予算を活用して、CMPSが宇都宮大

学の学生と教員が一体となって企画し、国際学

部を中心としながら全学レベルで行われまし

た。(その報告集は本年報とは別に制作。)

その他、活動報告として、「第 3回グローバ

ル教育 /危機の時代におけるグローバル教育~

ポスト開発 / 脱成長時代における教育の果たす

役割を考える」、連続市民講座「多文化共生に

ついて考える VOL.6 / ゲーテと仏教思想」 等を

掲載しました。

CMPSは、本年度も従来の「外国人児童生徒

教育とグローバル教育」を中心として、国際社

会学科と国際文化学科の各教員による企画や運

営を行ってきましたが、国際学部や国際学研究

科として、今後先進的国際学や公共圏の思想や

研究を基盤とする CMPSの使命(ミッション)

や理念(ビジョン)について深く模索していく

必要があります。

最後に、この 1年間 CMPSの活動や運営で

ご協力いただいた方々お世話になりました。感

謝申し上げます。

2012年 3月

は じ め に

重 田 康 博多文化公共圏センター長

Page 2: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

2

目  次はじめに                              重田 康博 ……  1

Ⅰ 特集:転換期における国際学と公共圏 ………………………………………………………………  3「ポスト開発/ポスト・グローバル化時代における国家と市民社会」   重田 康博 ……  5

「3.11把握のための国際学」                     高際 澄雄 …… 13「東日本大震災後の避難対応をめぐる住民・行政・企業・NPOの協働        -栃木県地域における震災後1カ月半の避難所運営-」 中村 祐司 …… 23「グローバル化時代における地域コミュニティについての一考察                -3.11大震災から見えてきたもの-」 舘野 治信 …… 33「原発震災を転換期として見直す開発のあり方                   -公共圏と国際学への示唆-」 阪本公美子 …… 41「新潟県における福島からの原発事故避難者の現状の分析と問題提起」 髙橋 若菜 …… 54

渡邉 麻衣    田口 卓臣    

「エスニシティと多文化主義」を講義して  -ミクロネシア・ヤップ出身者の在外アソシエーションを事例として-」 柄木田康之 …… 70「国際学と国際学部の課題   -新構想学部と『グローバル人材』要請に関する議論を中心に-」 田巻 松雄 …… 79

Ⅱ 福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト ……………………………………………………………… 891 活動報告 ………………………………………………………………………………………………… 912 福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト緊急報告会 ……………………………………………… 1033 福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト2011年度報告会 ………………………………………… 1064 福島県内の未就学児を持つ家族を対象とする原発事故における「避難」に関する合同  アンケート調査 ………………………………………………………………………………………… 112

Ⅲ 活動報告 ………………………………………………………………………………………………… 1271 宇都宮大学生国際連携シンポジウム2011 「学生とアジア・日本の震災復興を考える-大学の専門性を活かした支援のあり方-」 … 129

シャハルル・アブドゥラ、顧林生、吉椿雅道、他    2 連続市民講座 「多文化共生について考える」VOL.6

 「ゲーテと仏教思想」                     講師 粂川麻里生 …… 1323 第3回グローバル教育セミナー 「危機の時代におけるグローバル教育           -ポスト開発/脱成長時代における教育の果たす役割を考える-」 … 138

西川潤、中野佳裕、楠利明、半田好男、他    Ⅳ 論文・視察報告 ………………………………………………………………………………………… 151

投稿論文 「韓国近代文学と日本、そして有島武郎                -国木田独歩を手掛かりとして-」 丁  貴連 …… 153投稿論文 「人道支援 NGOの取組みと課題   -ピナトゥボ火山噴火被災地域のローカル NGOを事例として-」 仲田 和正 … 164視察報告 「グローバル教育における参加型学習              -スリランカ・サルボダヤ運動を事例に-」 重田 康博 …… 175

陣内 雄次    Ⅴ 関連資料 ………………………………………………………………………………………………… 183

1 組織及び活動記録 ……………………………………………………………………………………… 1852 センター年報発行要網 ………………………………………………………………………………… 1863 新聞記事 ………………………………………………………………………………………………… 187

Page 3: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

Ⅰ 特集転換期における国際学と公共圏

Page 4: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に
Page 5: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

5

多文化公共圏センター年報 第4号

1.はじめに

第 2次世界大戦後、先進国、途上国、国連に

おいて、経済成長、経済自由化のための開発が

進められ、開発は東西問題や南北問題に利用さ

れてきた。その経済成長一辺等の開発に対する

問いとして、1973年 E・F・シューマッハによ

る「人間中心の経済学(スモール イズ ビュ

ーティフル)」の考え方が紹介され、以後 1970

年代から 1990年代にかけて内発的発展、持続

可能な開発、参加型開発、社会開発の開発モデ

ルが提唱され、実践された。近年ではグローバ

ル化が世界規模で進み 2000年以降は、その負

の連鎖が進み開発や発展を根本から問い直す

「脱経済成長」、「ポスト開発」、「ポスト・グロ

ーバル化」、「脱国際協力」による経済や社会発

展の考え方が注目されるようになっている。

一方 2011年 3月 11日に発生した東日本大震

災は、地震や津波により東北地方や北関東地方

に多大な被害をもたらした。同時にこの大震災

に伴う福島第一原子力発電所事故は、放射能汚

染による避難や屋内退去された人々だけでなく

農業や漁業、女性や子どもにも深刻な影響を与

えている。この 3.11以後日本や国際社会はど

のように次世代の社会や世界の貧困削減を目指

していけばよいのか、そのためにはどのような

国際開発学が必要なのであろうか。今後の国際

開発学は、これまでの開発や国際協力を通じて

そのあり方を問い、その上で国際開発学の再構

築が求められている。

本稿は、多文化公共圏センター 2011年度年

報の特集「転換期における国際学と公共圏」

の企画を受けて、国際開発学会第 22回全国大

会 (2011年 11月 26日 )企画セッション「ポス

ト開発 /ポスト・グローバル化時代における国

際開発学を問う」(代表:重田康博)の筆者の

報告「ポスト開発 /ポスト・グローバル化時代

における国家と市民社会」を基に加筆・修正し

て作成したものである。本稿では 3.11東日本

大震災後の転換期において、これまでの開発、

経済成長、グローバリゼーションを再考するた

めに、国家と市民社会の関係性に焦点を当て、

ポスト開発 /ポスト・グローバル化時代におけ

る国際開発学のあり方を考えることを目的とす

る。そして、これまでの国際開発を問うことに

より、今後の国際学と公共圏のあり方と課題を

検証する。

2.ポスト開発/ポスト・グローバル化とは

第 2次世界大戦後、先進国、途上国、国連に

おいて、経済成長、経済自由化のための開発が

進められ、開発は東西問題や南北問題に利用さ

れてきた。しかし、1970年代以降その経済成

長一辺等の開発がかつて途上国であった新興国

や途上国の開発に貢献しつつも、特に最貧国や

貧しい人々の暮らしの向上には貢献せず経済格

差を拡大させる等の問題もあり、人間が本来目

指すべき開発ではなく、環境破壊や天然資源の

枯渇をもたらす、という意見や批判も出てきた。

例えば、中間技術や適正技術を提唱した、

ウィーン生まれの経済学者シューマッハは、

1973年その著書『スモール イズ ビューテ

ィフル―人間中心の経済学―(Small is beautiful

- A study of economics as if people mattered -)』の

中で、現代技術が作り上げた現代世界の 3つの

重 田 康 博国際学部教授・センター長

ポスト開発 /ポスト・グローバル化時代における国家と市民社会

Page 6: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

6

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

危機として、第 1に技術、組織、政治のあり方

が本来の人間性を喪失させていること、第 2に

人間の生命を支える生物環境が一部崩壊の兆し

があること、第 3に世界の再生不能資源である

化石燃料資源の浪費と枯渇と述べ、現代文明の

物質主義と科学技術の巨大主義を痛烈に批判した 1。

そして彼は世界中の人たちを救うのは、人間の

顔をもった技術、ガンジーが語った、大量生産

ではなく大衆による生産、すなわち自立の技

術、民主的技術、民衆の技術である「中間技

術(Intermediate Technology)」であるとした 2。

1970年代という経済成長優先型開発が推し進

められたこの時代に、シューマッハが現在のポ

スト開発 /ポスト・グローバル化の考え方にも

通じる「人間中心の経済学」を提唱したことは

大変意義深い。

さらに 1975年にスウェーデンのダグ・ハマ

ーショルド財団によって提起された「内発的発

展論」は、その後鶴見和子らによって理論構築

が進められ、成長優先型経済・西欧近代化への

疑問と非西欧社会の立場からアジアなどの発

展途上国でも内発的発展が可能であると考え

た。鶴見の内発的発展について要訳して説明す

ると、地球規模の様々な諸課題や国内および国

際間の格差を生み出す構造を、人々が地域の自

然生態系と文化伝統を重んじつつ、地域レベル

で協力していこうという理論であり、内発的発

展論はまさに脱開発 /ポスト・グローバル化の

理論や概念とも重なる発展論である 3。1970年

代から 1980年代にかけての時代は、成長主義

の中心の開発に対して環境との調和を訴えた

「持続可能な開発」の理論や途上国の住民や

NGOによる主体的な参加を重視する「参加型

開発」の理論が提案された時代でもあったが、

このような理論と重ね合わせるように「内発的

発展論」の理論が発展拡大したことは、開発の

主役が先進国の開発プロジェクト従事者ではな

く途上国側のリーダーや住民たちであることが

確認された。

続いて 1992年には「力として知へガイドす

る開発辞典」としてヴォルフガング・ザック

ス編(三浦清隆他訳)『脱「開発」の時代 (The

Development Dictionary)』が出版され、和訳で「脱

開発」という用語を使用し、17名の著者たち

によって「開発の時代」や「開発イデオロギー」

が批判された。本書の中で編者のザックスは開

発は時代遅れなので、破産した開発と訣別しよ

うと決意したことを述べている 4。本書の意義

は、1990年代という持続可能な開発を模索す

る時代において、開発論議の限界をあきらかに

し、17名の知的な著者たちによって「開発以

後の時代」を構想したことにある。

さらに、2000年以降グローバル化が世界規

模で進み、2001年 9.11.米国同時多発テロの原

因の一つは、グローバル化による米国の経済の

独り勝ちや米国と途上国の間の貧富の格差によ

る不満の増大だとも言われた。2008年のリー

マン・ショック以後欧米諸国を中心とする金融

危機が起こり、欧米の金融不安はギリシャ、イ

タリアに端を発し EU全体に影響をもたらして

いる。今日の世界の貧富の格差は拡大する傾向

にあり、貧困者の増加による貧困問題はかつて

のような途上国だけの問題だけでなく、日本を

含めた先進国の国内にも存在するようになって

いる。その負の連鎖が進み、これまでの開発や

発展を根本から問い直す「脱経済成長」、「ポス

ト開発」、「ポスト・グローバル化」、「脱国際協

力」による経済・社会発展の考え方 5が注目さ

れている。特に西川はポスト・グローバル化に

1 Schumacher (1993) p.121. ; シューマッハ(2000)p.196。2 Ibid.,p.127. ;同上p204。3 鶴見(1994)p.49-50参照。

4 Sachs (1992) p.4.;ザックス(2004)p.14。5 ラトゥーシュ(2010)、勝俣誠/マルク・アンベール編著(2011年)、西川潤(2011年)、藤岡美恵子・越田清和・中野 憲志編著(2011)。

Page 7: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

7

多文化公共圏センター年報 第4号

ついて「経済・市場のグローバル化を営利思考

からひたむきに進めてきた時代は終わり、これ

からのグローバル化を、人びとが、人権や環境

など意識のグローバル化により見直す時代に入

った」6と述べている。また、このような考え

方と前後して、2001年には社会福祉、医療経

済の専門家である広井良典が拡大・成長する社

会のあり方の外的な・内的な限界を指摘し、

目指すべき持続可能な福祉国家 /福祉社会とし

ての「定常型社会」という社会モデルを紹介し

ているが 7、この社会モデルはポスト・グロー

バル化の社会の到来を予測している。また 3.11

東日本大震災と原子力発電所の放射能事故の

後、日本はどのような社会や文明を目指せばい

いのか、国家主導による一方的な開発のあり方

や原子力エネルギーから自然エネルギーへの転

換を始めどのような開発を進めればよいのであ

ろうかという議論も出てきている。

本稿では、このような 2000年以降の開発や

流れ、および 3.11東日本大震災後のこれまで

の開発、経済成長、グローバル化のあり方を再

考する時代のことを、「ポスト開発 /ポスト・

グローバル化時代」と表現することにする。

3.国家によるグローバル化と市民社会による

ローカル化の2つの異なるベクトルの問題

今日先進国だけでなく発展途上国において急

速なグローバル化が進んでいる。途上国の中に

は開発と経済成長の真っただ中にある国や外国

資本の導入と投資の拡大により軽工業だけでな

く重工業も発展させ、ひたすら経済発展の道を

歩んでいる国が多い。さらにグローバル化によ

り富める国と貧しい国の経済格差が拡大し、一

国内でも富裕層と貧困層の格差が増大している

という現状がある。

さらに、2000年以降から一層の市場の自由

化による急激なグローバル化や世界金融危機の

影響が途上国の都市部だけでなく農村部に押し

寄せ、人々の仕事、生活は大きく変容しつつあ

る。例えば、カンボジアでは中国や韓国等外国

資本が入り、急速な経済成長が進められ、農民

の所得格差の拡大、医療費の支出負担の増加、

農業収入と副収入の減少、農民の借金の拡大、

土地の売却による土地なし農民や出稼ぎ農民の

増大の問題が存在している。

その一方、このようなグローバル化の中で、

途上国の NGOを含めた市民社会がローカルレ

ベルで進めるもう一つの開発の動きがある。

彼らはグローバル化に対する一定の歯止めをか

け、地域レベルでセーフティ・ネット機能を築

き持続可能な社会を維持しようと、貧困削減、

住民参加、伝統文化、適正技術、自然資源と環

境の再生、などの活動を実施している。市民社

会が進めるローカルレベルのもう一つの開発は

途上国の中ではまだ小さいが一つのメッセージ

を出している。例えば、カンボジアの NGOで

ある CEDACは環境に配慮した持続的農業の実

施し、日本の NGO日本国際ボランティアセン

ター (Japan International Volunteer Centre、以下

JVCと記す )は CLEAN(Community Livelihood

Improvement through Ecological Agriculture and

Natural Resource Management、生態系に配慮し

た農業による生計改善)プロジェクトと環境教

育を実施している。特に、JVCは「すべての人々

が自然と共存し、共に生きられる社会」を築く

ために、①困難な状況にありながらも、自ら改

善しようとする人々を支援、②地球環境を守る

新しい生き方を広め、対等・公正な人間関係を

創りだすこと、という長期的な目標に取り組ん

でいる 8。JVCはこのような目標に基づいてカ

ンボジアで活動しており、一貫して貧困層を対

象にした持続可能な農村開発を行っている。

6 西川(2011)p.5。7 広井(2001)pp142-146参照。

8 日本国際ボランティアセンター( J V C)パンフレット(2009)。

Page 8: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

8

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

しかし、この国家によるグローバル化と市民

社会によるローカル化の 2つの異なるベクトル

の問題は、図1の通り、お互い相反する方向に

向かっており、両者の接点は見出しにくい。そ

ればかりか、カンボジアにおいては近年の土地

紛争を契機に土地問題で困難な立場にある農民

を擁護する人権 NGOに対し、カンボジア政府

は NGOに対する法規制でこのような人権 NGO

を管理しようという動きを強めている 9。この

国家によるグローバル化と市民社会によるロー

カル化の 2つの異なるベクトルの両者の間に立

って、問題を克服したり解決したりするための

研究を行うのが「国際開発学」である。

4.ポスト開発/ポスト・グローバル化に対す

る南の国の意識のギャップと南の市民社会との

連動

それでは、国家によるグローバル化と市民社

会によるローカル化の 2つの異なるベクトルの

問題をどのように埋めていけばよいのか。

先進国の中にはグローバル化が世界規模で進

み、2000年以降はその負の連鎖が進みこれま

での開発・発展を根本から問い直す「ポスト開

発」、「脱経済成長」、「ポスト・グローバル化」

による経済・社会発展の考え方が紹介されるよ

うになっている。ポスト開発 /ポスト・グロー

バル化は世界と日本に対する大きな問いとなっ

ているが、国家による開発を進めている途上国

には果たしてこのような発展の考え方が受け入

れられるのであろうか。

ポスト開発(あるいは「脱成長」)/ポスト・

グローバル化とは、開発や経済成長を否定する

理論・概念ではなく、新しい豊かさを求める社

会を創生しようという考え方である。フランス

の経済哲学者・思想家であるセルジュ・ラトゥ

ーシュの「ポスト開発」についての理論的省察

は、「グローバル化した市場社会の危機を明確

に予見し、民主主義的でエコロジカルな自律社

会―「脱成長社会」―の構築という積極的な抜

け道の提案」10 であり、脱成長のプログラムと

は「より公正で、より民主的なエコ社会主義社

会―欲求の自主規制に基づく、つましくも豊か

な社会―の構築」 11と説明している。この新し

い豊かさを求める社会とは、ウィーン生まれの

哲学者・思想家であるイヴァン・イリイチがす

でに提唱した「近代のサブシステンス」という

「経済性に囚われない豊饒な社会」12 、あるい

は「コモンヴィヴィアルな社会(愉しみあふれ

る分かち合う社会)」13 の考え方と共通してい

る。

では、ポスト開発 /ポスト・グローバル化を

進める立場と開発を進める南の国との意識のギ

ャップをどのように埋めるのか。

アフリカ地域研究者の勝俣誠は、「簡素に生

きる」という脱成長・脱開発の論議は西洋やラ

テン・アメカから来た思想であり、ひたすら開

発の道を進むアジアやアフリカの途上国には広

く受け入れられないことに注目して、両者を

9 高橋(2011)pp.203-204。

10 ラトゥーシュ/中野佳裕訳(2010)p.9。11 ラトゥーシュ(2011)p.41。12 ラトゥーシュ(2010)p.12。13 アンベール(2011)p.181。14 勝俣(2011)pp.76-112.

Page 9: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

9

多文化公共圏センター年報 第4号

いかに結びつけるのかを提示している 14。そし

て、「開発」概念を再考する原点として、アジ

アやアフリカの開発の現場から、従来の支配的

「開発」思想を相対化し、追いつき論の限界を

超える新たな社会進歩の形とプロセスを「南」

の人びとと模索することを述べている 15。つま

り、ポスト開発 /ポスト・グローバル化を進め

る立場と開発を進める南の国との意識のギャッ

プを埋めるためには、南の国の追いつき論の限

界を知り、かつての植民地主義や開発主義を乗

り越える北と南の信頼関係に基づく、新興国も

加わった「ポスト開発 /ポスト・グローバル化」

の概念の構築が求められるのである。

また、ヒマラヤの小国ブータンは、2008

年の憲法で、「国民総幸福 (General National

Happiness; GNH)の実現を国是としたが 16 、現

状ではブータンのような「国民総幸福」の国を

除いてこの考え方を受け入れる余裕や余地のあ

る国はまだ少ない。一方、勝俣が述べる通り、

ブータンの事例は、国の規模やその歴史的文脈

の特殊性から慎重に考察する必要がある、とい

う意見もある 17。

次に、ポスト開発 /ポスト・グローバル化を

目指す南の市民社会との連動の例として、スリ

ランカのサルボダヤ・シュラマダーナ運動(以

下サルボダ運動と記す)がある。この団体の設

立のきっかけは、1958年当時コロンボで高校

教師をしていた A.T.アリヤラトネ氏が、高校

生や学校教師を対象にして、僻地の農村でワ

ークキャンプを実施したことに端を発してい

る。サルボダヤの思想的基盤は仏教にあるが、

ガンジーの非暴力の思想にも共鳴している。サ

ルボダヤとは、すべてのものの「覚醒」と「解放」

を意味し、いわば人間の持つ潜在能力を開発す

ることである。シュラマダーナは、労働の分か

ち合いを意味する。つまり、この農村開発運動

は、個々人の潜在能力を開発しつつ、労働の分

かち合いによって農村開発を進め、さらにはそ

の覚醒を個人、村、国家レベルへ、そして地球

レベルへと広げていこうとするものである。

サルボダヤ運動の目指す開発モデルとは、「貧

困のない社会」、「過度の豊かさ、浪費のない持

続可能な社会」で、経済開発だけでなく、文化

的、道徳的、精神的な要素の開発が重要で、伝

統文化、宗教的価値観を見直し、心の開発とい

うアプローチの実施であった。現在サルボダヤ

運動は、スリランカ全土で 13,000以上の農村

において、教育、保健衛生、社会福祉、収入向

上、マイクロクレジット、環境保全、平和構築

など幅広い活動を行っている。活動本部は、コ

ロンボ近くのモラトワにあり、全国に地域セン

ター、地区センター、地域グループ代表組織な

どスリランカ全土にネットワーク体制を確立し

ている 18。このようにサルボダヤは仏教哲学に

基づく人々の「覚醒」と「解放」による農村開

発を進めているが、人間の持つ潜在能力を向上

させる開発とは「貧困のない社会」、「過度の豊

かさ、浪費のない持続可能な社会」、「エコ・ビ

レッジ」を目指す内発的発展モデルであり、そ

れはポスト開発 /ポスト・グローバル化が目指

すべき共通の社会モデルを提示している。

このような市民社会の活動は、他の組織や機

能、さらにポスト開発 /ポスト・グローバル化

の動きと連動し、国家によるグローバル化の動

きに対する一定の歯止めとなっていくことが必

要である。

5.ポスト開発/ポスト・グローバル化時代の

考え方の欠陥や問題点と3.11福島第一原子力発

18 Lanka (1997)pp.1-16.

15 同上 p.104。16 西川(2011年)p.261。17 勝俣誠、2011年度国際開発学会全国大会「企画セッション

1:ポスト開発/ポスト・グローバル化時代における国際開発学を問う」コメンテーターとしての発言、2011年11月26

日、名古屋大学。

Page 10: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

10

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

電所事故

一方、ポスト開発 /ポスト・グローバル化の

考え方には、欠陥や問題点もある。

現在、国連ミレニアム開発目標 (MDGs)に

基いて貧困削減を目指している南の国々から

は、当然批判や議論が出てくるはずである。そ

の考え方の問題点として、①歴史の中で開発や

経済成長の見直しの動きは何回もあったが、

非現実的で具体的でなく結局開発や経済成長が

優先されてきた、②曖昧な理論や概念であると

いうだけでなく、現実の経済システムの中でそ

れがどのように機能するかという経験が不足し

検証が行われていない、③貧困からの脱出が最

大の課題である南の国々にとって、それは空想

であり非現実的な政策である、④独裁国家の中

で環境や人権に対する意識の見直しは困難であ

る、④今日の欧州、米国、日本の財政赤字と政

府債務の増大が更なる増税と成長拡大戦略に拍

車を掛ける、⑤特に日本は、少子化、高齢化、

一千兆円を超す政府債務(借金)と急激な円高

で政府も企業も市民も身動きがとれない、等の

点である。

しかし、少なくとも日本においては、3.11.

福島第一原子力発電所事故を契機に国家や企

業主導による一方的な開発や経済成長偏重に

よる開発のあり方に対する批判や疑問が出て

きており、特に福島の乳幼児を含めた子ども

や女性たちや避難者等脆弱な立場にある人々

は、南の国々において強制的に「周辺化され

た立場に追いやられた人々」と共通性が見出

される。前述のシューマッハは、1970 年代

から「人間が、自然界に加えた変化の中で、

もっとも危険で深刻なものは、大規模な原子

核分裂である」19と経済性最優先の原子力の

平和利用を警告し、半減期の長い有毒性の

ある放射性廃棄物処理を子孫に先送りして

いる問題は生命そのものに対する冒瀆であり、

過去のどんな罪よりも重い人間の重罪であると

鋭く批判している 20。

一方、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック

は、『世界リスク社会論』の中で、世界リスク

社会の本質は、予見可能で制御可能であったリ

スクが文明社会における人間の意思決定によっ

て地球規模の問題や危険をグローバルな規模に

増大してしまうことであると述べている 21。例

えば、ベックは原子力発電所事故、気候変動、

金融危機、テロリズムによるリスク社会を警告

している 22。このように、福島の事故における

避難者や南の国々において強制的に周辺化され

た人々は、リスク社会の象徴的な存在であり、

国家や企業の開発による犠牲者でもある。  

6.終りに―ポスト開発/ポスト・グローバル

化時代における国際開発学

それでは、国際開発学はポスト開発 /ポスト・

グローバル化の世界をどのように位置づけるの

か、ポスト開発 /ポスト・グローバル化時代に

おける国際開発学のあり方を問い直すことが求

められる。

そのために、国際開発学は、リスク社会にお

ける脆弱な周辺化された人々の存在を無視して

はならないし、図 2の通り、今後は国家による

グローバル化を進める国々にそのような脆弱な

周辺化された人々の権利擁護をどのように求

めるのかを問いて、その研究や学問を構築し

ていかなければならない。例えば、本稿の主

題の市民社会の担い手の一つである NGOは、

従来のサービス・デリバリーだけでなく、リス

ク社会に備えて国家や企業に対して政策提言を

19 Schumacher (1993) p.177-178. ; シューマッハ(2000)p110。

20 Schumacher (1993) p.189-191. ; シューマッハ(2000)p117-

119参照。21 ベック(2010)pp.24-34参照。22「オピニオン;原発事故の正体、ウルリッヒ・ベック」朝日新聞2011年5月13日朝刊参照。

Page 11: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

11

多文化公共圏センター年報 第4号

行う意義は大きい。その国家が独裁政権である

場合、とりあえず外国の NGOを始め国外にあ

る NGOが提言を行い、その国内にある関係団

体や民間団体を通じて、周辺化された人々やマ

イノリティに対して支援していくことが求めら

れる。ベックは、グローバルなサブ政治の概念

を議論する中で、世界社会には上からのグロー

バル化(国家間や国際機関による国際条約や制

度の育成)と下からのグローバル化(既存の国

家や利益団体を疑問視する新しい超国家的行為

主体)の 2つの行為主体があるとして、世界リ

スク社会に対するグリーン・ピース等世界市民

による抵抗運動を認め、世界社会のサブ政治化

が浸透していると説明している 23。つまり、彼

は、世界リスク社会を回避させるには、原子力

産業のように国家や企業に意思決定や判断を独

占させずに市民社会の関与を進めよと述べてい

る 24。

このように国家によるグローバル化の流れに

対して、ローカル化を進める市民社会は、1990

年代以降グローバル化に転じて世界レベルで抵

抗運動を推進することになる。つまり、ローカ

ル化からグローバル化を進める NGOを含めた

市民社会の役割とは、そのようなグローバル

化を進める国家に対して意見をいい提言を行

い、新しい発展のモデルやオルタナティブな社

会のあり方を提示し、世界社会をサブ政治化し

ていくことだ。

また、今後は大学においても、そのようなポ

スト開発 /ポスト・グローバル化に対する研究

や実践が必要である。宇都宮大学国際学部附属

多文化公共圏センターでは 2011年 11月 11日

「第 3回グローバル教育セミナー /危機の時代

におけるグローバル教育ーポスト開発/脱成長

時代における教育の果たす役割を考える」を開

催し、ポスト開発 /ポスト・グローバル化の研

究や教育を実施しようとしている。また、本セ

ンターによる「福島乳幼児・妊産婦支援プロジ

ェクト」でも国家の開発に対する問い直しと人

間の安全保障の問題を取り上げようとしてい

る。さらに、今後ポスト開発 /ポスト・グロー

バル化の議論から、これまでの国際開発学を問

い直し、国際学、公共圏のあり方を考察してい

くことが求められる。

参考文献:

(日本語文献)

ウルリッヒ・ベック /島村賢一訳 (2010)『世

界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊―』ち

くま学芸文庫、筑摩書房。

勝俣誠 /マルク・アンベール編著 (2011)『脱

成長の道』コモンズ。

勝俣誠(2011)「南北格差と『南』の豊かさ」

勝俣誠 /マルク・アンベール編著 (2011)『脱成

長の道』コモンズ。

セルジュ・ラトゥーシュ /中野佳裕訳 (2010)

『経済成長なき社会発展は可能か?―<脱成

長>と<ポスト開発>の経済学―』作品社。 

セルジュ・ラトゥーシュ(2011)「<脱成長

>の道―つまじくも豊かな社会へ」勝俣誠 /マ

ルク・アンベール編著 (2011)『脱成長の道』コ

モンズ。

2

23 ベック(2010)pp.111-134参照。24『オピニオン;原発事故の正体、ウルリッヒ・ベック』朝日新聞2011年5月13日朝刊参照。

Page 12: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

12

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

高橋清貴「第 5章日本の国際協力 NGOは持

続可能な社会を夢見るか?」藤岡美恵子・越田

清和・中野憲志編著(2011)『脱「国際協力」』

新評論。

鶴見和子、川田侃編(1994)『内発的発展論』

東京大学出版会。

西川潤「日本人が本当に幸福になるためにー

生活の豊かさの測り方」勝俣誠 /マルク・アン

ベール編著 (2011)『脱成長の道』コモンズ。

西川潤(2011)『グローバル化を越えて』日

本経済新聞社。

日本国際ボランティアセンター(JVC)

(2009)パンフレット。

藤岡美恵子・越田清和・中野憲志編著(2011)

『脱「国際協力」』新評論。

広井良典(2001)『定常型社会―新しい「豊

かさ」の構想』岩波新書 733、岩波書店。

マルク・アンベール(2011)「社会主義も資

本主義も超えて」勝俣誠 /マルク・アンベール

編著 (2011)『脱成長の道』コモンズ。

(英語文献)

Lanka, Jathika, Sarvodaya Shramadana Sangamaya

(1997) An Introduction to The Sarvodaya

Shramadana Movement of Sri Lanka.

Sachs, Wolfgang (1992) The Development

Dictionary : A Guide to Knowledge as Power ;ヴォ

ルフガング・ザックス編 /イヴァン・イリッチ

他著 /三浦清隆他訳(2004)『脱「開発」の時

代―現代社会を解読するキイワード辞典―』晶

文社、4刷。

Schumacher,Ernst Friedrich (1993) (Small

is beautiful -A Study of Economics as if people

mattered-) 』;E.F.シューマッハ /小島慶三・酒

井懋(つとむ)(2000) 『スモール イズ ビュ

ーティフル―人間中心の経済学―』、24刷。

Page 13: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

13

多文化公共圏センター年報 第4号

序 国際学の認識

宇都宮大学に国際学部を設立することを議論

していたとき、私の態度は引けていたといって

いい。何より私は大学で英文学を専攻し、曲が

りなりにもその領域で一定の成果を挙げてきた

という自負があり、また教育においては、一般

英語を自分の信念に沿って教え、専門領域で活

躍する学生たちを育ててきたとの確信があっ

た。だから、国際学という新しい領域に踏み出

すことに躊躇したのである。しかし、1993年

6月、いよいよ決定が差し迫り、教育に特徴づ

けるプログラムが必要だとの議論が行われた折

り、自分で経験したもっとも忘れがたい「イン

テンシブ・トレーニング・コース」を設けるべ

きだと主張し、受け入れられてしまったので、

後に引けなくなった。以来、国際学部の立ち上

げに関し、自らの考えに従って対応してきた。

国際学部の創設について自分で考えついた結

論は、学部を実質的に国際化すること、つま

り、教育においても、研究においても、運営

においても、国際化を進めることであった。

そのために、自ら担当することとなった「イギ

リス文化論」は英語で授業を行うように自らに

課し、提案した「英語会話(インテンシブ・ト

レーニング)」も英語だけで授業し、生活する

ことに決めた。さらに初代学部長西村文夫先生

から、留学制度を作るように要請された時、工

学部の徳田尚之先生、粕谷英樹先生、国際学部

の伊藤一彦先生、倪永茂先生のお力を借りなが

ら、中国上海市の復旦大学に 1年生 3人を交換

留学生として送りだすことができた。また短期

海外英語研修制度を作るようにも要請されたた

め、英語教育の経験豊かな鈴木博先生の推薦で

国際教育交換協議会(CIEE)に依頼して、オー

ストラリア・パース市のカーティン工科大学に

おける英語研修制度をつくり、1996年 7月か

ら 8月、15人の学生と 3週間の英語研修を自

ら体験した。こうして教育においては、自らの

基準にしたがって学生と関ってきたのだが、研

究に関して、国際学についての考えには創設か

ら 17年の間に大きな変化があった。

1.国際学部創設時の国際学理解

1994年 10月の国際学部創設時、私は、それ

までの自らの研究成果と、1992年以来のカリ

キュラム作成のための同僚との議論から、国際

学部の概念を自ら作り上げた。

学生時代、専攻に大いに迷った時期があっ

た。大学に入学した 1967年当時は、英文学

科や英文学専攻は多くの大学に設置されてい

た。だから入学試験に合格することに重点あっ

た自分としては、大学に入ってから何をどのよ

うに学んでいくかについてほとんど考えずに入

学してしまったのである。ところが入ってわ

ずかにイギリスの小説を二三作読んだくらい

で、英文学に興味が湧こうはずもなく、3年生

の時に転科を考えて、恩師に相談をしたとこ

ろ、恩師は実にあっさりと、16- 17世紀のよ

うに詩が優勢でもなく、19世紀のように小説

が優勢でもない、18世紀英文学を勉強したら

どうか、と言われ、それならば自分にできるか

もしれないと思えてきて、イギリス小説の興隆

をテーマに、18世紀英文学の大家、櫻庭信之

先生のご指導で卒業論文の研究を始めた。

3.11 把握のための国際学

高 際 澄 雄国際学部教授・副センター長

Page 14: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

14

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

卒論のテーマに選んだのは、イギリス小説の

理論的枠組みを作ったヘンリー・フィールディ

ング(Henry Fielding 1707-1754)の小説『トム・

ジョウンズ』(Tom Jones)で、彼の提唱する「散

文による喜劇的叙事詩」(comic epic in prose)

がどのように実作に反映されているかを見よう

とするものであった。作品の分析には当時文学

作品分析の手法としてほぼ常識的に用いられて

いた新批評(New Criticism)の手法を使ったが、

今にして思うと、ここで歴史的な視野が得られ

ていたのである。新批評は、作品を可能な限り

外部の価値を排除して、文学作品内部にその価

値を見出そうとするものであるが、「散文によ

る喜劇的叙事詩」という考え自体の独創性を理

解するためには、17世紀初頭のスペインで書

かれた『ドン・キホーテ』に言及せざるを得ず、

また叙事詩と喜劇の概念も歴史的なものである

ため、作品内部に閉じることはできないからで

ある。

修論のテーマは、フィールディングと同時

期に活躍し、対照的な作品を書いたサミュエ

ル・リチャードソン(Samuel Richardson 1689-

1761)の大作『クラリッサ』(Clarissa)であった。

作品を読むだけで 2年かかってしまい、留年の

憂き目を味わったが、再び新批評の手法で作品

の特質を掴むことができ、そこに女性の自立、

ひいては人間の自立、国家の自立という理念が

論じられていることを明らかにできたと考えて

いる。

だが、大学を出て就職をし、次に選んだ作家

トバイアス・スモレット (Tobias Smollett 1721-

1771)は難物だった。作品を新批評の手法で分

析し、特質を歴史的に位置づけるという、これ

までのやり方が、どうもうまくいかないので

ある。18世紀英文学研究の先輩、海保真夫氏

も、「スモレットはどうも分からないんですよ

ね。」とつくづく述懐されたことがあった。

スモレット理解のヒントは、アメリカの研究

者ジョン・セコラの著作『奢侈』(John Sekora,

Luxury)から得られた。セコラは理念史(History

of Ideas)の手法で奢侈論の歴史を追い、そこ

にスモレットを位置づけたのである。私の手

法、つまり作品分析から特質を抽出し、歴史的

に位置づけるのではなく、その逆を行うのであ

る。しばらくは、この理念史で研究を続けた

が、それでもスモレットを十分に把握できたと

いう手ごたえは得られなかった。

スモレットの作品の魅力は、フィールディ

ングやリチャードソンの作品の魅力とは異な

る。二人の作家には、喜劇、悲劇の違いはある

ものの、共感が基礎にある。ところが、スモ

レットの作品の価値は、衝撃性にある。例え

ば、第 1作『ロデリック・ランドム』(Roderick

Random)第 25章の最後は、次のようである。

主人公ロデリック・ランドムは、スコットラ

ンドで薬剤師のもとで徒弟生活を送っていた

が、やがてロンドンに出てきて水兵強制徴募隊

(press gang)に襲われ、水兵にされてしまう。

しかし調査で医学の心得のあることが分かる

と、軍艦の船医副助手とされ、薬剤師の手助け

をすることとなる。最初に彼が軍艦の病室に

入ったときの様子がこれである。

At seven a-clock in the evening, Morgan

visited the sick, and having ordered what was

proper for each, I assisted Thomson in making

up his prescriptions: But when I followed him

with the medicines into the sick birth or hospital,

and observed the situation of the patients, I was

much less surprised to find people die on board,

than astonished to find any body recover.Here

I saw about � fty miserable distempered wretches,

suspended in rows, so huddled one upon another,

that not more than fourteen inches of space was

allotted for each with his bed and bedding; and

deprived of the light of the day, as well as of fresh

Page 15: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

15

多文化公共圏センター年報 第4号

air; breathing nothing but a noisome atmosphere

of the morbid steams exhaling from their own

excrements and diseased bodies, devoured with

vermin hatched in the � lth that surrounded them,

and destitute of every convenience necessary for

people in that helpless condition.1

夕方 7時、モーガン(船医)が病人たちを

訪ね、一人一人に合った対処法を命じていっ

たので、私はその処方箋に従って薬を調合す

るトムソン(薬剤師)の手助けをした。でも、

薬をもって後について行き、病人用船室、

つまりは病室だが、そこに入り、病人たちの

状態をよく見て驚いた。これでは、乗船中に

死んで当たり前、治るのが不思議というもの

だろう。ここで目にしたのは 50人ほど

の惨めな病人たちで、列になって吊るされた

ハンモックの中、ギュウギュウ詰めで、寝床

と寝具あわせて 14インチの幅しか与えられ

ていなかった。吸い込む空気は、自分たちの

排泄物と病んだ体から立ち上る病の湯気で汚

れており、体は一面の垢の中の虱にさいなま

れ、弱りきった人たちに必要な用具が欠乏し

ているのだ。

きわめて生々しく、フィールディングやリ

チャードスンの世界とは全く異なる。確かにこ

れを衛生思想などで理念史として扱うことも可

能であろうが、もう一つ踏み込めなかった。

そのうちに、大阪大学の川北稔氏が『工業化

の歴史的前提』2という刺激的な著作を岩波書

店から出版された。川北氏に導かれるままに、

18世紀イギリスの経済史を少しずつ学ぶよう

になると、スモレットが明確に焦点を結んだの

である。

まず作品から歴史にたどり着くというこれ

までの手法は成り立たない。スモレットの場

合、まず歴史的状況が決定的である。『ロデリッ

ク・ランドム』は、スモレットの実体験に基づ

いてか書かれていたのである。水兵強制徴募隊

に誘拐されたというのはフィクションだとして

も、1740年から 1741年にカルタヘナ遠征に参

加して、その経験に基づき、『ロデリック・ラ

ンドム』を執筆したのである。文学から歴史へ

の分析順序を逆転しなければならない事態が生

まれたのであった。

スモレットは、政治的にはきわめて複雑、

それゆえに面白い位置にいた。生まれがスコッ

トランドでグラスゴー近傍のダンバートンで

ある。祖父は 1707年のイングランド・スコッ

トランド合同を進めた進歩派であった。それ

ゆえ、その後のスコットランドの混乱、とく

に 1715年と 1745年のジャコバイトの乱には難

しい立場に立たされたと考えられる。またスモ

レットの修めた学問は医学であって、当時ヨー

ロッパでも最先端の知識と技術を誇っていたか

ら 3、科学者の眼ももっていたのである。

こうした政治的にも科学的にも尖鋭な意識を

もって体験したカルタヘナ遠征であってみれ

ば、そこに新しい視点が加わるのは当然であっ

た。ただ、その歴史的状況が分からなかったの

である。

川北氏は、自らの著書の他に、優れた翻訳

を出版していた。Immanuel Wallerstein, World

System, Vol. 1.の翻訳 4であり、この訳書によっ

1 Tobias Smollett, Roderick Random, Oxford University Press:

Oxford, 1965, p. 149.文中のsick birth は当時の表記で現在では

sick berth となるべきところ。2 川北稔『工業化の歴史的前提帝国とジェントルマン』(岩波書店、1983年)

3 このことについては、川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977年)の第15章「近代医学の編成(上)」第16章「近代医学の編成(中)」第17章「近代医学の編成(下)」に詳しい。

4. I. ウォーラーステイン『近代世界システムI農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』『近代世界システムII

農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』(岩波書店、1981年)

Page 16: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

16

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

てスモレットの書こうとしていることがまるで

手に取るように分かった。なぜスペインにそれ

ほどの敵愾心を燃やすのか。

この著作で初めてスペインからオランダ

へ、そしてイギリスへの中核の移動が明確に把

握でき、イギリスのカリブ海域における覇権確

立の軍事行動の一つがカルタヘナ遠征であった

ことも、そしてその失敗がスモレットにとって

は大きな後退と映ったこともよく理解できたの

である。

川北氏のもう一つの訳業、Eric Williams, From

Columbus to Castro: The History of the Caribbean

1492-1969 の翻訳 5は、スモレットの所有権も

あった奴隷によるサトウキビ栽培、綿花栽培

の現実とその富の行方を如実に映し出してい

て、さらに細部において豊かであった。

ここから、なぜスモレットが晩年、『続万国

史』の編纂に取り組んだかも理解できた。彼は

覇権の交代を目の前にしながら、またその行方

に翻弄される下層民にも目を向けていたのであ

る。

さらに、スモレットの研究で触発された問題

意識は、18世紀の錯綜した社会や文化状況を

学際的に捉えることの重要さであった。すでに

アメリカには 18世紀学会が設立されており、

日本でも 1970年代後期に日本 18世紀学会が設

立された。この学会に対しては、それほど積極

的に関ったわけではなかったが、一定程度の参

加はした。

国際学部の創立に関わってカリキュラムの議

論がされ始めたとき、私の意識としてはこのよ

うな研究経験を踏まえて意見を述べていた。そ

のため、1994年 10月に国際学部が創立された

時、私の意識では、国際学を次のように整理し

ていた。すなわち国際学とは、国際的な問題や

事象を学際的に研究する学問の総称である。そ

こには、外国研究、国際交流研究、比較文化研

究、国際関係論、地域研究、世界研究が包括さ

れる、と。

2.イギリスにおける世界研究の伝統と20世

紀後半の変化

スモレットを研究し、そのイギリスの覇権

について考察してみると、その意識もそれに

見合ったものであることが判明する。イギリ

スではセール(G. Sale)、サルマナザール(G.

Psalmanazar)、バウワー (A. Bower)、シェルヴォッ

ク (G. Shelvocke)、スウィントン (J. Swinton)の

編纂によって、1736 年に『万国史』が出版

された。その英文書名は大変に長く、編纂者

たちの意気込みを感じさせる。An Universal

History, From the Earliest Acount of Time to the

Present: Compiled from Original Authors; Illustrated

with Maps, Cuts, Notes and Chronological and Other

Tables.6 (万国史 時間の最初期の説明より現在

まで 原著者よりの編纂 地図、挿絵、年表、

その他の表による解説付き )。当時の書物とし

てはもっとも豪華なフォリオ判で出版され、

1744年まで出版されたが、結局 7巻 9冊で出

版が止まってしまった。この編纂事業を受け継

いだのが、スモレットたちである。編纂者の詳

しい顔ぶれは分かっていない。しかしスモレッ

トがその中心的人物の一人であることは明らか

である。

書名がその意図を明らかにしていることも

明白である。Modern Part of the Universal History.

Compiled from Original Writers, by the Authors

of the Antient, Which Will Perfect the Work, and

Render it a Complete Body of History, from the

5 E. ウィリアムズ『コロンブスからカストロまでIカリブ海域史、1492-1969』『コロンブスからカストロまでIIカリブ海域史、1492-1969』(岩波書店、1978年)

6 大英図書館に初版本が所蔵されている。Shelfmarks 213.e.1-

14.

7 同じく大英図書館に初版本が所蔵されている。Shelfmarks

Asia Paci� c & Africa W6581.

Page 17: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

17

多文化公共圏センター年報 第4号

Earliest Account of Time, to the Present.7(万国史

現代編 原著者よりの編纂 古代編の著者によ

る 本著作完成版 時間の最初期の説明より現

代までの歴史の完全一体化)。この現代編は、

1759年から 1766年にかけて、フォリオ判で 16

巻別巻 1冊が出版された。

実際に調べてみると、ページの乱れや誤植が

多く、急ぐあまりに混乱が起きていたことを示

している。しかし最初の試みが途中で止まって

しまったことを考えると、とにかく古代から現

代に至る全世界の歴史を、原著に基づいて提示

しようという意欲が感じられ、まさにそこに

こそ覇権意識の表出があると思われるのであ

る。これはほぼ同時期に進行していた大英博物

館の創設と対をなすものと言えよう。

イギリス文化を研究する者にとって世界研究

で巨木のように聳えるのは、アーノルド・トイ

ンビー (Arnold Toynbee 1889-1975)である。私が

まだ学生の頃来日し、その時の講演記録を読ん

だことがあるが、深い洞察に満ちた言葉に研究

者の偉大さを感じた。多分その時だったと思う

が、当時世界を二分していたソ連の崩壊を予測

した。そのため 1991年にソ連が解体した時、

真っ先にトインビーの予測の正しさを考えたの

だった。

したがって、エリック・ウィリアムズやイマ

ニュエル・ウォーラーステインの研究が自分の

意識にかなり自然に入ってきたのは思えば当然

と言える。ただ、国際学部が創設されてから、

彼らの世界観にもう一つ納得できないことが

あった。それは環境問題との関連である。

個人的に廃棄物問題に関する市民運動に関

わっていることもあって、1990年代の世界的

な環境保護運動の広がりには、強い関心を抱い

てきた。日本では 1970年代から水俣病を始め

とする公害問題が深刻化して、大きな住民運動

の広がりを見せた。ところがその運動の先頭に

立った宇井純氏に見られるように、大学はそう

した運動に関わる研究者を冷遇し、宇井純氏は

最後まで東京大学助手のままで終わり、その後

は沖縄大学教授になるものの、研究界に迎えら

れることはなかった。ところがアメリカでは事

情が違った。ベトナム反戦運動を強力に推し進

めたノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)

もマサチュセッツ工科大学で冷遇されるどころ

か、大学を代表する研究者としてその後も続々

と政府批判を続けながら、旺盛に研究活動を続

けている。したがって、批判的な観点の一部

はアメリカにおいては環境科学として花開い

た。日本の環境科学の教科書が専門家しか寄せ

付けないような無味乾燥なものであるのに対

し、アメリカの教科書には、豊富な写真を使

い、一般読書にも使いたいようなものが出てい

る 8。こうしてアメリカやヨーロッパを中心に

環境科学が台頭してきたのが 1980年代であっ

た。

私がそのことに気付いたのは、1992年にリ

オデジャネイロで開かれた地球サミットに関す

る報道であった。そこで議論された「持続可能

性」と「生物多様性」は、それまで地域でしか

考えていなかった環境問題を世界規模に拡大す

る役割を果たした。以後私は、ワールドウォッ

チ研究所の年次刊行物State of the World(邦訳『地

球白書』)のかなり熱心な読者になった。そこ

には、当面の興味の廃棄物問題の他に、食糧、

人口、土壌、水、漁業、農業、林業、生物多様

性、地球温暖化、交通などの諸問題が鮮やかな

切り口で論じられていた。

そこで疑問になってきたのが、スモレットか

ら始まり、ウォーラーステインの世界システム

論に至りつく、基本的に経済史的な世界論と、

1980年代から台頭してきた環境学的世界論を

どう関係づけるか、ということであった。そこ

に、ジャレッド・ダイアモンドの『銃、病原菌、

8 例えばKaren Arms, Environmental Science (Saunders College

Publishing, 1990)

Page 18: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

18

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

鉄』と『文明崩壊』が現れてきたのだ 9。

3.ダイアモンドの魅力

2010年夏から秋にかけて、ジャレッド・ダ

イアモンドの『銃・病原菌・鉄』を熱心に丹念

に読んだ。著者のダイアモンドは、専門外の者

にも分かるように丁寧に、しかし科学者らし

い明確な論拠に基づいて議論を進めていく。

読書の醍醐味を味わわせつつ、全く新しい世界

観に導いていくのである。出発点は、簡明であ

る。ニューギニアで生物学者として鳥類の進化

を研究していたダイアモンドは、ニューギニア

人の友人ヤリに次のような質問をされる。「あ

なたがた白人は、たくさんのものを発達させて

ニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギ

ニア人には自分たちのものといえるものがほと

んどない。それはなぜだろうか?」10その質問

を受けて 25年間、ダイアモンドは人間の文明

を総合的に研究して、『銃・病原菌・鉄』にま

とめたのである。

ダイアモンドの素晴らしさは、あらかじめ反

論を予想して答えておくことである。彼は、

こうした研究をすることへの反論を3つほど想

定している 11。第 1は、その種の研究がある民

族の支配を正当化するのではないかというも

の。第 2は、この種の研究は西洋優位の正当化

に過ぎないというもの。第 3は、文明の進歩の

賛美になるのではないかというものである。

そして、ダイアモンドはいずれも否定する。

支配、被支配の客観的な過程の解明は、ほかの

科学と同じく、支配を行うことにならない、と

いう。確かに、犯罪学を研究したものが、犯罪

を犯すことを目的としてはいないだろう。さら

に、ダイアモンドは研究の中で西洋人対非西洋

人の研究だけをしているわけではない。西洋人

間にも支配・被支配のせめぎ合いがあり、非西

洋人の間でも同じ争いがあった。ダイアモンド

はそうした過程を歴史の客観的な事実に従って

追っているので、本書を読むにしたがって、そ

のような疑念は消えてゆく。文明の進歩につい

ても、探鳥家として自然に親しんでいるダイア

モンドは、先住民の豊かな生活を知っており、

文明の進歩が必ずしも幸福を生み出してはいな

いことを十分に承知しているのである。

ダイアモンドはまた人種的偏見ももっていな

いようである。彼はニューギニア人についてこ

う述べている。

この問題に関する私自身の見方は、過去

三十三年間、ニューギニア人といっしょに野

外研究活動をしてきた経験からきている。私

は、ニューギニア人達と行動をともにしはじ

めたときから、平均的に見て彼らのほうが西

洋人よりも知的であると感じていた。周囲の

物事や人びとに対する関心も、それを表現す

る能力においても、ニューギニア人の方が上

であると思った。よく知らない場所の地図を

頭の中で描くといった、脳のはたらきを表す

ような作業については、彼らの方が西洋人よ

りもずっとうまくこなせるように思える。当

然のことながら、ニューギニア人は、西洋人

が子供の頃から訓練を受けている作業はうま

くこなせない。だから辺鄙な村に住み、学校

教育を受けたことのないニューギニア人が町

にやってくれば、町の西洋人の目には間抜け

に映るだろう。その逆に、私には、ジャング

ルの小道をたどるとか小屋を建てるといっ

た、ニューギニア人であれば子供の頃から訓

練を受けている作業はうまくこなせない。だ

から、彼らといっしょにジャングルにいると

きは、自分はいかにも間抜けに見えるだろう

9 Jared Diamond, Guns, Germs, and Steel: Fates of Human Societies

(W. W. Norton & Company, 1997), Ibid., Collapse: How Societies

Choose to Fail or Succeed (Penguin Books, 2005)

10 ジャレッド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(草思社、2000年)p. 18.

11 上掲書 p. 22-24.

Page 19: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

19

多文化公共圏センター年報 第4号

と、私はいつも意識させられたものである 12。

この文化相対的な見解は、国際学部の基本的

な立場であるとも言えよう。異文化間コミュニ

ケーションにおいても、文化人類学において

も、このような立場が前面に出されている。

彼はさらに西洋人よりもニューギニア人の方が

知的である可能性が高いとして次のように説明

する。第 1に、西洋では社会が安定した結果、

死因は病気がほとんどだが、ニューギニアの死

因は、人口が稠密でない結果、病気の伝染はほ

とんどなく、戦争や殺人によって死ぬことが多

い。したがって、西洋社会では病気を克服すれ

ば生きながらえることができるが、ニューギニ

アでは戦争や人びとの間の問題をうまく克服で

きないと、生き延びられない。そのため知的な

人が生き残り、遺伝的に受け継がれていく可能

性が高いという。さらに、西洋の受動的な遊び

が子供たちを知的な刺激から遠ざけているた

め、後天的にも知性を損ねているという。卓抜

な見解である 13。

彼は、文明史を展開するにあたって、これま

での文明史の問題点を指摘している。それは、

あまりにも文字文明を偏重していることであ

る。彼は、ニューギニア人がなぜ西洋人のよう

な物をもっていなかという問題を解き明かすた

めには、文字文明が成立する以前に遡らなけれ

ばならないと主張する。結論を言えば、ユーラ

シア大陸は東西に長いために、植物にしろ動物

にしろ豊かな多様性を得たが、アフリカおよび

アメリカは南北に比して東西が短いために、同

緯度での多様性に欠けて、それが文明の発達の

違いを生み出したのだと論ずる。実に不意を衝

いた考えであるが、本書を読めば納得するであ

ろう。

ダイアモンドの文明史がウォーラーステイン

の世界システム論に劣らぬくらいの大きな刺激

を与えた理由は、そこに含まれる豊かな生物学

的知識が議論の展開に密接に関係しているこ

とにある。4万年前の人類の「大躍進」時に、

大型哺乳類が各地で絶滅している現象につい

て、ダイアモンドは独創的な考察を加えてい

る。現在大型哺乳類が生息しているのは、アフ

リカ大陸とユーラシア大陸が主だが、かつては

世界中に生息していた。しかし人類が南北アメ

リカとオーストラリアに渡った後、絶滅してお

り、ダイアモンドは人類によって絶滅された、

と考える。

かつてのオーストラリア・ニューギニアに

は、巨大なカンガルーが棲んでいたし、大き

さが牛くらいあるサイに似たディプロトドン

と呼ばれる有袋類や肉食性の有袋類など、固

有の大型動物が生息していたのだ。また、体

重が四〇〇ポンド(約一八○キロ)もあるダ

チョウに似た飛べない鳥も生息していた。

一トンもある巨大なトカゲ、巨大なニシキヘ

ビ、陸生のワニなどといった、非常に大型の

爬虫類もいたのである…..オーストラリア・

ニューギニアの大型動物は数百万年ものあい

だ、狩りをする人類のいないところで栄えて

きた。人類と出会うことなく長いあいだ生息

してきたという意味では、ガラパゴス島や南

極の哺乳類や鳥類も同様であるが、彼らは救

いがたいほどおとなしい。これらの人間を怖

がることを知らない動物たちは、自然保護主

義者がすみやかに行動していなかったら、絶

滅していただろう。過去数百年内に発見され

た島々のなかには、保護措置が迅速にとられ

なかったため、実際に動物が絶滅してしまっ

たところもある。たとえばモーリシャス諸島

のドードーは、絶滅種の象徴となっている。

また、先史時代に人類が住みはじめた島々を

研究すると、どの島においても人類の登場に

つづいて動物種が絶滅している。そうした12 上掲書 p.27.

13 上掲書 p. 27-29.

Page 20: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

20

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

かたちで犠牲になったものとしては、ニュー

ジーランドのモア、マダガスカルのキツネザ

ル科のメガラダピス、ハワイの飛べない鳥

のハワイオカヨシガモなどがよく知られてい

る。ちょうど現代人が、人間を怖がることを

知らないドードーやアザラシに歩み寄って殺

したように、先史時代の人間も、おそらくモ

アやメガラダピスに歩み寄って、殺したのだ

ろう。14

ここには単に生物学者だけではなく、自然

観察で蓄えた実際知が豊かに織り込まれてい

て、感銘を与える。BBCのドキュメンタリー

番組で、解説を務めるデイヴィッド・アッテン

ボロー (David Attenborough)がアホウドリに接

近して話しているのに、アホウドリが怖がる

様子もなく羽づくろいをしている場面を見て、

不思議に思ったことがあったが、ダイアモンド

のこの説明で納得したのであった。

これに比べて、アフリカやユーラシアの大型

動物が生き残ったのは、長く人類と同じ場所に

棲むことで、人類を恐れることを学んだためで

あるという。「アフリカやユーラシアの大型動

物のほとんどは現代まで生き延びてきている

が、それは、彼らが何百万年もの進化の時間を

初期人類と共有し、人間を恐れることを学習し

たためである。われわれの祖先は最初は稚拙

だった狩猟技術を長い時間をかけて上達させて

いき、その間に動物たちは人間を恐れることを

学んだのである。」15

こうしてアフリカやユーラシアには大型動物

が生息し、オーストラリア・ニュージーランド

からは大型動物がいなくなってしまった。この

ことは、その後の文明の発達に大きな影響を及

ぼす。「これらの大型動物の絶滅は、それらを

家畜として飼いならす機会を人類から奪ってし

まったのである。そのため、現代においてもオー

ストラリア人やニューギニア人は土着の動物を

家畜化していない。」16

植物の栽培化と動物の家畜化がその後の文明

展開に決定的に重要な役割を果たしたと考え

るダイアモンドの議論はきわめて独創的であ

り、それがやがてスペイン文明とインカ文明の

衝突において、銃と病原菌と鋼鉄に象徴される

文明の差異となって現われ、西洋文明の征服と

いう形で現代に至っているとの独創的な世界観

になって現われる。

しかしその征服の様式に大きな不安を抱いて

いることが、さらにダイアモンドの学者として

の深さを物語っている。次作の『文明崩壊』17

では、文明の衰退や崩壊が論じられ、私たちの

現代文明の存続の可能性が議論されているとこ

ろが、私たちに大きなヒントを与えている。生

物多様性の喪失、環境汚染の拡大、地球温暖化

の深刻化に現代文明は耐えられるのか?まさに

ワールドウォッチ研究所が提起した問題を統一

的に論じていることに、世界論としての現代的

魅力を感じるのである。

4.福島原発事故とスターングラス

ダイアモンドに刺激され、環境問題を組み込

んだ世界論を推し進めようとしていた矢先の

2011年 3月 11日に東日本大震災が起こり、福

島第 1原子力発電所で、原発事故史上もっとも

深刻な放射能汚染が引き起こされた。廃棄物問

題に関心を寄せ、原発廃止を目指していたつも

りであったが、いざ放射能汚染が起こり、問題

を調べ始めると、自らの知識の浅さに唖然とし

たのである。なによりグールドの『低線量内部

14 上掲書 p. 59-60.

15 上掲書 p. 60.

16 上掲書 p. 61.

17 ジャレッド・ダイアモンド『文明崩壊』(草思社、2005

年)18 マーティン・ジェイ・グールド『低線量内部被曝の脅威原子炉周辺の健康破壊と疫学的立証』(緑風出版、2011

年)

Page 21: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

21

多文化公共圏センター年報 第4号

被曝の脅威』18とグロイブとスターングラスの

『人間と環境への低レベル放射能の脅威』19に

は、放射能問題の広がりを教えられた。

まず自分の思いこみを恥じた。原爆を作り、

投下し、原発を推進しているのはアメリカなの

で、放射能問題についてそれほど関心を持って

いる科学者がいることをまったく想像しなかっ

たのである。ところが、グールドはそれまで培っ

てきた統計学の知識を放射能の影響を測る疫学

的研究にあて、原水爆の大気内実験、チェルノ

ブイリ事故、原発の影響について、国立癌研究

所のデータベースを解析して、放射能の明らか

な影響をえぐり出している。放射能の影響は否

定することができない。

スターングラスはさらに長い研究歴に基づい

て、放射能のさまざまな影響について論じてい

る。まず彼は自分の立場を明確にする。「世界

各国や専門家たちが公に認めていることである

が、人類は徐々に深刻な窮地に向かっている。

このような事態になった直接の原因は、物質的

な進歩と快楽を盲目的に過大に評価してきたこ

とにある。しかし、もっと深い原因が他にあろ

う。すなわち、過去においてほとんどの期間、

そして 20世紀という決定的な世紀において、

人類が生態学的法則にまったく無知であり、

少なくともそのことを真剣にとりあげてこな

かったことである。」20つまり生態学的な広い

問題の中に放射能問題を位置づけているのであ

る。彼はこう続ける。

我々の経済圏には、産業廃棄物と生産過程

で出される汚染物質に対する分解者が欠落し

ており、加えて自然循環が遮断されている。

我々は人工の肥料を使って、肥沃を保ち得る

農地から収穫しつづけ、廃棄物を農地に返す

ことはできない。都市化はこの問題に貢献し

てきたが、同時に毒性がある生物分解不能

の物質を恒常的に作り出してきた。誤ったや

り方の農業の結果、腐食土の浸食、害虫の攻

撃、過剰な肥沃化、有毒な土壌、不健康な食

品などが生み出された。有機農業こそがこれ

らの問題から脱却する道だが、我々の環境を

汚染物質で満たすことを止めねば、それも効

果がない。汚染物質には、原子力発電所から

の危険な汚染物質も含まれる。21

私はこの件りを読んで、今まで考えてきたこ

と、そしてささやかながら市民運動に関わって

きたことがまちがっていなかったことを確認

し、うれしかった。放射能は樹木にも悪影響を

与えるという。「危険は人間と動物だけに止ま

らない。ラルフ・グロイブは原子力発電所が酸

性雨、地表面のオゾン、森林の死を作りだすと

いう、非常に重要だが、あまり知られていない

事実の証拠を示している。」22

だが私が全く無知だったのは、ペトカウ効果

である。ペトカウは活性酸素が細胞膜を破壊す

ることを突き止めており、しかも活性酸素は放

射線が低いほど細胞膜を破壊するという恐る

べき事実を明らかにしたのだ。「ペトカウは、

X線の短時間における大量照射にも破壊され

ず、何百グレイの放射線量に耐えうることがで

きる細胞膜が、放射線化学物質による弱く、長

時間持続する 10ミリグレイ以下の放射線照射

によってたやすく破壊される、と書いている。」23

放射線が低くても影響のあることは知っていた

が、低い方が危険だとは驚きであった。やはり

勉強しなければ分からないことあることを思い

知ったのである。19 ラルフ・グロイブ、アーネスト・スターングラス『人間と環境への低レベル放射能の脅威福島原発汚染を考えるために』(あけび書房、2011年)

20 上掲書 p.43.

21 上掲書 pp. 47-8.

22 上掲書 p.39.

23 上掲書 p.34.

Page 22: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

22

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

こうして私の中で、国際学を通じて 3.11を

理解しようとする態度が生まれてきた。地震に

ついて言えば、地震学の大家、石橋克彦氏が

1997年に「原発震災」の概念を提出し、早く

から警鐘を鳴らしていたことも、学問を志す者

として心に留めるべきであると考えている 24。

学際的な国際学は、もっと重視されねばならな

いであろう。

結び 国際学部カリキュラムに世界論を

国際学が「国際的事象や問題を学際的に

研究する学問の総称」であるという認識は

変わらないとしても、確かにこれではまと

まりに欠けるので、カリキュラムで宇都宮

大学国際学部として学生たちに統一感をあ

たえることが必要となろう。その時、中心

となるのが、進行しつつあるグローバル

化に対応するような世界論ではないだろうか。

世界論が、イギリスの場合、『万国史』からは

じまりトインビー、さらには生態系を組み込ん

だラブロック(James Lovelock)のガイア理論

があり、エリック・ウィリアムズを経て、アメ

リカのイマニュル・ウォーラーステインの世界

システム論、さらにはジャレッド・ダイアモン

ドの文明史などあり、その他にも数多くあるの

に違いないので、どれを取り入れるかは意見が

分かれようが、これを抜いて国際学を構築する

ことはできないと思う。

最近さらに世界論として考えるべき重要な著

作が現われた。ナオミ・クラインの『ショッ

ク・ドクトリン』25である。これを読むまで、

新自由主義は単なる経済政策の一つと考えてい

たが、豊富な事例にもとづいて新自由主義のイ

デオロギー性を明かした本書を読んで、考え

は 180度転換したと言っていい。イラク戦争の

残虐性の原因をやっと掴んだ思いである。もし

この本が正しいのなら、東日本大震災の復興に

も、十分に気をつけなければならない。さもな

いと、スマトラ沖大地震による津波被害をうけ

たスリランカやタイの二の舞を、日本が演ずる

かもしれないからである。

国際学部は、国際的な問題を解決できる人材

の育成を目標に掲げて設立された。もしこの目

標を真に達成しようとするならば、地域の変化

とともに、グローバル化の動向にも十分な意識

を向けられるように、適切な世界論をカリキュ

ラムの中に組み込むべきある、と私は考える。24 石橋氏の以下の言葉を私たちは深刻に受け止めねばならない。「〇七年七月の新潟県中越沖地震(M六・八)で東京電力柏崎刈羽原発の全七基の原子炉が強振動被害を受けたとき、私は、日本列島が大地震活動期に入っているという認識を踏まえて、九七年以来警告してきた「原発震災」が日本社会の現実的緊急課題になったと確信した。新潟県でそれが生じなかったのは、地震が中型で大余震の続発がなかったなど、運がよかったにすぎないからである。私はリスクの高い原発から順に止めることを訴えたが、原発推進側は放射能漏れが微量ですんだのは日本の原発の耐震安全性が高いからだなどと主張した。/もし、日本社会がこのとき理性と感性と想像力を最大限に働かせていれば、運転歴三〇年を超える福島第一原発の全六基は運転終了したかもしれない。痛恨のきわみである。」(石橋克彦編『原発を終わらせる』(岩波新書 2012年)p.ii)石橋氏は神戸淡路大震災の起こる前年『大地動乱の時代地震学者は警告する』(岩波新書 1994年)を出版している。地震考古学の成果も目覚ましい。寒川旭『地震の日本史大地は何を語るのか』(中公新書 2007年)ではすでに貞観地震について記されている。

25 ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』上下(岩波書店、2011年)

Page 23: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

23

多文化公共圏センター年報 第4号

1.東日本大震災と避難所対応

2011年 3月 11日の東日本大震災は、東北地

方を中心にまさに国難といわれる未曾有の地

震・津波被害をもたらし、栃木県も住宅損壊な

ど多大な被害を被った。さらに震災直後に発生

した福島第一原子力発電所の事故は、放射能問

題や風評被害、エネルギー供給問題など多くの

諸課題をもたらし、今日に至るまでこの国の政

治・経済・社会を揺さぶり続けており、栃木県

においても喫緊な対応が迫られている。

東日本大震災からの復旧・復興という極めて

重い課題に加え、EU諸国で生じた、いわゆる

ユーロ危機と呼ばれる通貨・金融・財政問題

は、グローバル経済の加速化と相俟って、円高

による輸出の停滞や製造拠点の海外移転、それ

らがもたらす税収の不足など、栃木県や県内市

町の行財政活動にも負の影響を及ぼしつつあ

る。

震災前の「平時」においては所与の前提とし

て問われることのなかった様々な政策領域での

危機的な「災時・災後」の諸課題、すなわち、

被災地における行政機能やコミュニティ機能の

喪失、避難所・仮設住宅の設置、雇用や企業活

動の再開、復興計画の策定と実施、原発事故・

放射性物質拡散・風評被害への対応、さらには

多文化共生のあり方 1などが問われている。

本研究では、こうした山積する諸課題のう

ち、とくに地域社会・コミュニティレベルにお

ける避難所対応 2に焦点を当て、とくに震災後

の未曾有の混乱のなかで、住民・行政・企業・

NPO・団体間の連携・協力を実践し、栃木県

内における避難所運営(マネジメント)の二つ

の先進事例(宇都宮市の姿川付属体育館と鹿沼

総合体育館)に注目したい。

2011年 3月 15日の時点で、福島県から栃木

県への避難者数は、当初、大田原市と那須町の

東日本大震災後の避難対応をめぐる住民・行政・企業・NPOの協働―栃木県地域における震災後 1カ月半の避難所運営―

中 村 祐 司国際学部教授

1 東日本大震災と多文化共生とは決して無関係ではない。たとえば、かぬま多文化共生プラン推進委員会(委員長は筆者)と鹿沼市が、「多文化共生講座~はじめの一歩~ 一杯のお茶から世界が見える!」(2011年12月18日。場所は市民情報センター。筆者参加)の第1部意見発表会において、委員の斉藤里花氏(ベトナム国籍)は、同国の仲間たちとべトナム料理の紹介によって得た収益を、赤十字を通じて被災者に提供したと報告している。斎藤氏によれば、「いま、困っている人がいれば助ける」というベトナム人仲間のボランティア活動の考え方は、ベトナム戦争後、人々の生活が苦しいなかで、互いに助け合った経験がもとになっている。その経験が日本での支援団体設立につながり、宮城県仙台市若林区荒浜や気仙沼市へのボランティア活動につながった。被災地ではベトナム人僧侶の通訳として活動したり、避難所でベトナム料理を作り提供したりした。「日本では戦争よりも災害との戦いの方が多い」ことを痛感したものの、震災後の日本人の冷静な対応は世界が見習うべきであると指摘した。

  また、2012年1月10日開催の「かぬま多文化共生プラン推進委員会」における講演(筆者参加)で、田村太郎氏(多文化共生センター・大阪代表理事、内閣府東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官)は、とくに大震災以降は、被災地域の未来をつくっていく上で国籍を気にしてはいられない状況になっている。震災対応において復興が進んでいる被災地の多くは多文化共生を進めている。被災地で外から人を入れないで自分たちでやろうとしているところの多くは、行き詰まりみせている。多文化共生は地域の継続のためにやらなければいけないし、被災地において復興活動が継続しているところは、例外なく「ヒト」と「資源(とくにカネ)」がしっかりしている、と述べている。

2 栃木県災害対策本部のまとめによると、2012年1月10日現在で、福島県などから栃木県への避難者は増加傾向にあり、2,557人に上っている(各市町への登録者のみ)。栃木県内のホテル、旅館など(1次・2次避難所)からは11年末までに全員が退去し、公営住宅や民間借り上げ住宅などへの転居がほぼ完了している。特別養護老人ホームや病院・診療所には240

人が避難している(下野新聞「県内避難者2500人超 震災10

カ月」)。

Page 24: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

24

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

計 2カ所の避難所で 32人であった 3。それが、

翌 16日になると、避難者数は 382人に増加し

た 4。そして 21日には県内 23市町の 56カ所の

避難所で福島県民の避難者数は計 3,089人に達

したのである 5。23日 (15時現在。福島県民の

避難者 2,847人、栃木県民の避難者 104人 )の

時点で、姿川付属体育館には 139人、鹿沼総合

体育館には 434人の福島県民の避難者が集まっ

た 6。両避難所とも県内避難所の受け入れ数で

は上位に位置し、とくに後者は最大規模の受け

入れ数であった。

そこで、関係者とのインタビューを通じて、

それぞれの活動内容を紹介し、そこから読み取

れる大規模災害非常時の際の組織マネジメント

の課題や要諦についても浮き彫りにしていきた

い。

2.住民発案による避難所運営―かぬま市民活

動広場サポーターズによる被災者支援―

(1) 鹿沼市による避難者の受け入れ

かぬま市民活動サポーターズは、栃木県鹿沼

市の内外で活動するボランティア、NPO関

係者による「ネットワーカー集団」7として、

2006年に立ち上げられたまちづくり団体 (メン

バーは 16名 )である。鹿沼市の「まちなか交

流プラザ」(愛称は「かぬま市民活動広場ふらっ

と」)に事務局があり、「研修会(講師による講

義、後援会、討論会、夜なべ談義など)、実践

活動 (イベント実施など )、地域研究・政策提

言、他団体との交流、先進事例視察(国内)、

会報の発行」8を活動内容としている。

かぬまサポーターズは 2011年 3月 18日から

43日間にわたって、鹿沼総合体育館フォレス

トアリーナと菊沢コミュニティセンターにおい

て、福島県からの避難者支援を行った(同年 4

月 30日にフォレストアリーナで退所式)。

大震災発生から 3カ月の時点で、「見えてき

た様々な課題」として、①不規則な日常・生活

環境、②非日常的な食事・栄養の偏り、③精神

的不安・不満、④衛生環境の問題を挙げてい

る。また、①ニーズの把握・対応、②情報の収集・

伝達、③必要な物資の支援、④ボランティアコー

ディネート、⑤支援者とのネットワークといっ

た課題を指摘している。支援内容は太極拳やス

トレッチ、音楽の演奏やミニコンサート、介護

支援・理美容支援、マッサージ・整体・カイロ

プラクティック、子どもたちへの遊びや学習支

援、炊き出しや食材・食品支援、避難所の花飾

り、ミニカフェオープンなどであった。ヨーク

ベニマル鹿沼店、宇賀神新聞鹿沼店、東武鉄道

から、毎朝、「福島民報」と「下野新聞」が避

難所に届けられた 9。

鹿沼市総合体育館フォレストアリーナで

は、福島県飯舘村から、3月 19日に 314人、

3 栃木県「県内避難所一覧表(平成23年3月15日9時00分現在の避難人数等)」(2012年2月現在)。

  h t t p : / / w w w. p r e f . t o c h i g i . l g . j p / k i n k y u / d o c u m e n t s /

hinan20110315_0900.pdf

4 同「県内避難所一覧表(平成23年3月16日9時00分現在の避難人数等)」(2012年2月現在)。この時点で宇都宮市の姿川付属体育館への避難者数は75名。鹿沼市の場合、菊沢コミュニティセンターの7名であった。

  h t t p : / / w w w. p r e f . t o c h i g i . l g . j p / k i n k y u / d o c u m e n t s /

hinan20110316_0900.pdf

5 同「県内避難所一覧表(平成23年3月21日15時00分現在の避難人数等)」(2012年2月現在)。なお、福島県からの避難者がいなかった避難所は2カ所のみで、総避難人数は3,201名であった。避難者のほとんどが福島県民であったことがわかる。

  h t t p : / / w w w. p r e f . t o c h i g i . l g . j p / k i n k y u / d o c u m e n t s /

hinan20110321_1500.pdf

6 同「県内避難所一覧表(平成23年3月23日15時00分現在の避難人数等)(2012年2月現在)。

  h t t p : / / w w w. p r e f . t o c h i g i . l g . j p / k i n k y u / d o c u m e n t s /

hinan20110323_1500.pdf

7 栃木県鹿沼市「かぬま市民活動サポーターズ」(2012年1月現在)。

 http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/cgi-bin/profile/data.

cgi?number=5421

8 同。9 かぬま市民活動サポーターズ『Supportersだより 耳をすませば 第1号(創刊号)』(2011年6月)より。

Page 25: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

25

多文化公共圏センター年報 第4号

20日に 198人の計 512人の集団避難者を受け

入れ、菊沢コミュニティセンターでは、104人

の自主避難者を受け入れ、自然体験交流セン

ターにも一時、避難所が開設された。

県内最大の避難所となったフォレストアリー

ナでは、市防災クラブ、地元犬飼地区、市社会

福祉協議会を窓口に集まったボランティアが支

援活動を行った。鹿沼市総務課防災対策室は、

市内への避難者に栃木県災害対策本部への登録

を呼びかけた 10。

(2) 避難所運営を支えた“かぬまサポーター

ズ”

3月 18日以降、フォレストアリーナにおい

て、43日間にわたってボランティア活動を行っ

たかぬまサポーターズのメンバーとのインタ

ビュー 11にもとづき、一市民あるいは一ボラ

ンティアの目線から、当初の避難所運営がどの

ように映り、メンバーや行政など状況改善に向

けてどのように動いたのかを、本項と次項にま

とめた。

1995年 1月の阪神淡路大震災の際に、耳が

聞こえない人が非常に苦労したという話を聞い

ていたため、以来とくに力を入れて手話をずっ

と習ってきた。また、栃木県の災害ボランティ

ア養成講座などにも積極的に参加してきた。今

回の震災に直面し、社会福祉協議会からの情報

を得て、すぐにフォレストアリーナに行った。

ところが、情報の混乱のなかで現場の動きはな

いに等しかった。そこで行政、社協、そして自

分がボランティア協議会の事務局に急遽入るこ

とになった。鹿沼市では災害対策本部に初めて

「民」が入ったことになる。

現場の行政職員は何をしてよいのかわから

ず、当初は何もできなかったように見受けられ

た。しかし、逆にこのような事態を想定したマ

ニュアルも何もなかったことが、前例踏襲にと

らわれない行政の対応を後に可能にした面も

あったのではないか。

まずは避難者のニーズ把握を行った。避難者

は飯舘村の人々がほとんどで、20班編成 (他

の自治体からの避難者は 2班 )でやってきた。

そこで、班長に集まってもらい、今、困ってい

ること、今、必要なことを聞いた。このような

対応は行政にまかせていてはできなかった。

避難者はまさに着の身着のままで、歯ブラシ

など日常品が足りなかった。その後、物資はた

くさん届いたが、行政は全員分ないと「公正」

に欠けるとして配らない。それが行政のいう公

正なのかととても疑問に思った。たとえば、

「行き渡らないから」という理由で、届いたお

にぎり 50個を配らない。下着なども避難者に

十分に渡らないという理由で配らない。避難後

1週間ほどたって、避難者から小声で申し訳な

さそうに「何かないか」と聞かれた時には心が

痛んだ。こうした対応の仕方は変えなければい

けないと行政と話し合った結果、量が十分でな

くても各班長の判断にまかせて配布することに

10 鹿沼市秘書課広報広聴係『広報かぬま』(2011年5月号、3-4頁)より。

11 2012年1月15日におけるかぬま市民活動サポーターズのメンバーとのインタビューによる。避難所の閉鎖後、市内で避難生活を続ける人々が2011年9月に「鹿沼地区福島震災会(福震会)」を結成したが、サポーターズは福震会の人々を対象に、月1回の定例会をまちなか交流プラザ1階「鹿沼市民活動広場ふらっと」で開催している。2012年1月15日開催の「福震会」(筆者参加)では、40名弱(ほとんどが中高年の人々であったが、若者や子供も若干名参加していた)の福島県からの被災者(ほとんどが南相馬市からの避難者)が集まり、コーヒーで乾杯し、みかんやお汁粉を食べながら和気あいあいと自由に情報交換を行い、ゆったりとした雰囲気の時間を過ごしていた。被災者の一人は挨拶で「マスコミ(栃木テレビ)で注目されて幸せ」と述べ、全体的にユーモア感覚が溢れていた。当日の福震会会長とのインタビューによれば、南相馬市の人々の間でも住宅損壊の有無など明暗が分かれた部分もあり、会長としてはそのあたりのことを気遣いながら、個々の深い事情にはあまり立ち入らずに接している。鹿沼市民には感謝しており、下着、ティッシュペーパーなど、洗濯鋏の提供など、とくにサポーターズのメンバーによる面倒見の良さには「200%感謝している」。ただ、今のところ、生活している市内借りあげアパートでの近所付き合いや自治会との接触はない。

Page 26: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

26

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

した。

偏った物資の山にも悩まされたが、たとえば

水などについて、避難者からここにいない家族

に送りたいという申し出があっても、行政は動

かない。行政としては、いつまでアリーナが避

難所として使われるかわからなかったため、

水をストックしておこうとし、避難者からの申

し出を断っていたが、こうした対応にも疑問を

感じた。賞味期限切れの飲食物の配布をめぐっ

ても意見が異なった(行政は配ろうとしなかっ

た)。

家具・インテリアショップのニトリが敷き布

団と掛け布団を避難者全員分、無償で届けて

くれ大変助かった。避難所閉鎖の際には 100布

団ほどが余ったが、行政は消却処分にするとい

う。行政や社協は他の組織とのネットワークが

なく、ボランティア団体間で被災地に布団を届

けようとしたが、これに対して行政は、公的組

織間のやり取りではないので認められないとい

う対応だった。結局、社協の「善意銀行」が資

金を出し、トラックを出すことになり、相馬市

に布団を届けることができた。

フォレストアリーナ 2階の事務所に県職員が

常駐したが、毎日日替わりで、会議が毎回自己

紹介で始まるような状況であった。行政の担当

は総務課、経済部 (弁当の手配などを担当 )、

教育委員会(フォレストアリーナの管理)であっ

たが、やはり職員が日替わりのため、迅速な対

応ができなかった。

(3) 避難所をめぐる状況変化への柔軟な対応

多くの避難者の切実な願いは「日常生活を取

り戻してほしい」というものであった。食べて

ごろごろ寝ているか、テレビを観ているだけで

は避難者の体も気持ちもまいってくる。炊事・

洗濯をやらせてほしいという申し出があり、

炊事場の設置について、当初行政はそんなこと

はできないと主張したが、3月下旬にようやく

作ってもらうことになった。それでも利用は全

部で 4、5回程度に限られた。炊事に取り組み

避難者はとても嬉しそうだった。

避難者に掃除をやってもらおうとすると、最

初はシルバー人材の関係者から自分の仕事がな

くなると怒られた。そこで企業に出向いて臨時

の仕事をさせてもらうお願いをし、結局、車の

洗車などに 10数人が携わった。トイレ、シャ

ワーは設置してあり、問題はなかった。市の「出

会いの森(温泉施設)」も利用した。

避難所では班長を通じた伝達や指示が有効に

機能していた。ほとんどが飯舘村からの避難者

であったので、非常にまとまりを感じた。避難

者にとってプライバシーを守るのは難しく、支

援者が避難所にどんどん入ってくることに困っ

ていた。そこで、「居住区」と名付け、「居住区

に勝手に入ってこられると困る」という状況を

つくった。

ボランティア側の支援の姿勢に問題を感じる

場面もあった。たとえばある音楽関係者から

は、来てやっているのだからもっと会場内で人

を集めろという要求もあった。ボランティア活

動では、カウンセラー、子供相手の絵本よみき

かせ、マッサージなど多様であった。とくに整

体やカイロプラクティック(整骨)なども含め

て、マッサージは最も人気があった。カラオケ

については避難者の反応は割れ、とても歌う気

にはならないという避難者もいた。

顔なじみになってくると、これからどうなる

のかという避難者の不安が痛いほど伝わってき

た。「死にたい」と打ち明ける人もいたが、こ

ちらから何もいえなかったのが辛かった。被災

者は誰もが非常に我慢強く見受けられた。朝、

昼、晩と同じ弁当なのに、文句は一つも出なかっ

た。フォレストアリーナの周りの散歩は気分転

換になったようだ。飯舘村からは職員がだいた

い 4、5日交代で 3名ずつ派遣されていた (そ

のうち1名は保健士 )。

Page 27: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

27

多文化公共圏センター年報 第4号

4月下旬になると避難者は 100人以下となっ

た。4月に入って入学式シーズンから中旬にか

けて多くの避難者が村に帰っていった。その理

由はこの時期に帰らないと補償が受けられない

といううわさが広まったためである。また、あ

る大学の放射線を専門とする教授がフォレスト

アリーナでの講演で、村に帰っても大丈夫だと

述べ、その影響も大きかった。

避難者は①鹿沼市に残る、②日光市鬼怒川の

第 2避難所に移る、③飯舘村に戻る、の三つの

選択肢を迫られ、多くが③を選択した。①を選

択したのは相馬市あるいは浪江町からの避難者

5世帯で、③を選択したのは 10世帯であった。

行政と社協の対応は何でもマニュアル依存と

いった感じで、非常にもどかしかった。もっと

臨機応変に対応してほしかった。「規則」だと

か「決まり」だとかに固執せず、その場に応じ

た判断をしてほしかったと思う。

今回得られた教訓は、市民ボランティアの中

でネットワークを作っておこうというものであ

る。計画停電の際にトイレが使えなくなった

が、行政では 3台しか用意できなかった。しか

し民間事業者とのネットワークがあればすぐに

揃ったはずである。段ボールが必要になった

時、民間事業者の協力で大量に調達することが

できた。「民」の力の強さを感じた。今から思

えば、そういう時にこそ、行政は支援金を出し

てほしかったのだが。

ただ、たとえば行政の力で炊事場を作って

もらったのは大きかった。避難所という「箱

物」自体を事前に用意できるのも行政の力であ

る。その意味では行政に対して批判ばかりする

のではなく、「うまくつきあっていく」ことが

非常に大切なのであろう。また以前からこれま

での活動を通じて行政や社協の職員には知り合

いが多かったおかげで、自分の考えを避難所対

応に反映してもらうことができた。そのあたり

のところをうまくつないでいくことが重要なの

ではないか。また、鹿沼市における 10万人程

度の人口が災害対応では最適ではないかと実感

した。

3.避難所運営における自治体職員のリーダー

シップ発揮―宇都宮市姿川地区の協働実践―

(1)宇都宮市姿川地区のまちづくり

栃木県宇都宮市姿川地区は、市の南西部に位

置する人口約 4万人の地区である。地区におけ

る 48の単位自治会と 36の団体・機関で構成す

る「姿川地区まちづくり協議会」には、青少年

育成・環境・防災・福祉・生涯学習の 5部会、

防犯ネットワーク特別委員会と将来ビジョン策

定委員会の 2つの委員会が設置されている 12。

まちづくり協議会は、3年間かけ「公募者を

中心とした、住民主体」で、2011年 9月に「姿

川地区将来ビジョン」を策定した。そのなか

で、姿川地区が目指す将来ビジョンを、①地域

の総意でつくる実感できるもの、②地域生活レ

ベル目線でつくるもの、③地域が連携した実行

性(実効性)のあるもの、の三つに設定してい

る 13。また、行政も姿川地区に関する資料・デー

タを冊子としてまとめている 14。

(2) 姿川地区における避難所運営をめぐる連

携・協力

2011年 3月 15日以降、同年 4月 30日の避

難所閉鎖に至るまでの、姿川地区における避難

所運営について、姿川地区市民センター所長と

のインタビュー 15をもとに、本項と次項に以

12 姿川地区まちづくり協議会HP「構成団体」(2012年1月現在)。

  http://www2.ucatv.ne.jp/~tp_sgtik.� ower/sub25.html

13 姿川地区まちづくり協議会『姿川地区 将来ビジョン』(2011年9月)。

14 姿川地区市民センター『地域カルテ』。このなかで、まちづくり協議会の特徴について、「会長のリーダーシップのもと積極的にまちづくり活動に取り組んでいる。各種団体の代表者が集まっているため、姿川地区を多角的に検証でき、活動に活かしている」と記されている(同39頁)。

Page 28: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

28

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

下のようにまとめた。

2011年 3月 14日に福島県いわき市からの避

難者が、市内旭中に隣接する教育センターに到

着した。翌 15日の午後、ちょうど人事異動の

内示をもらいに市役所に行くと、姿川地区市民

センター附属体育館が避難所になりそうだと伝

えられた。耐震構造を調べてから、同日 15時

に避難所の指定を受けた。

体育館は 1週間を 21に区分して貸し出して

いるが、もともと稼働率が高かった。姿川地区

の人口が増加傾向にあり、しかも若い世代の住

民が多く、交通アクセスもよいので、結果とし

て稼働率が高くなる。このセンターに赴任する

前には地区行政課に所属し、姿川地区のビジョ

ン作りには以前から関わっていたので、震災対

応にはその経験が生きた。

3月 15日に避難所を開設するために、体育

館利用者、まちづくり協議会役員、自治会役

員、地元選出の市議会議員に急遽説明する機会

を持った。その際、NPO法人とちぎボランティ

アネットワークのメンバーから、とにかく「温

かい食事、温かい布団、温かい風呂」を提供す

るようアドバイスを受けた。ところが、食料は

アルファ米とクラッカーのみ、毛布も温熱シー

トぐらいしかなく、ましてや寝床と風呂は対応

しようがなかった。

3月 16日午前にまちづくり協議会役員と協

議し、義援金、米・食材の寄付、炊き出し等の

支援を地区として行っていくことを決めた。同

時にとちぎVネットのメンバーが地元ラジオを

通じて布団の寄付と市内外の畳業者に畳の寄付

を要請し、午後には布団の寄付が始まった。ま

た、まちづくり協議会役員が、地元スポーツク

ラブに掛け合って、避難者への浴室無料開放の

承諾を得た。

翌 3月 17日はとちぎVネットメンバーの助

言を受けて、約 230人の避難者を 5班に編成し

た。放射線問題の影響で避難所には子どもが多

かった。メンバーから言われたのは、避難者か

ら出た不満には、とにかく真摯に耳を傾けた方

がいいというものであった。避難者は 8割がい

わき市から、2割が南相馬市から、楢葉町から

は 1名であった。グループ単位で避難してきた

ので、情報を伝達しやすかった。同日には地元

消防団による炊き出しが行われ、以後、地域団

体・ボランティア団体による昼・夕食の炊き出

しが行われた。地区からは 1㌧以上の米と食材

が寄付された。また、地域内一般家庭による入

浴ボランティアが始まり、畳業者から畳の寄付

があった。この段階で、先述の食事・寝床・風

呂が確保された。

3月 18日には企業から食料、雑貨、ガソリ

ンなどの寄付が始まった。そして、3月下旬に

なると、ボランティアによる炊き出しを受けつ

つ、避難者による炊き出しも始まった。また、

とちぎVネットのメンバーが東京都内の建築事

15 2012年1月18日における大竹信久氏(宇都宮市自治振興部姿川地区市民センター所長)とのインタビューおよび大竹氏作成の資料による。大竹氏は、地域住民、NPO、企業、生涯学習団体、学校による各々の支援内容を以下のように類型化している(項目部分網かけ表示)。<地域住民>⇒食料・雑貨・衣料品・義援金・図書館等の寄付、炊き出し、アパート無償貸与(罹病者隔離)、入浴支援(送迎付き)、洗濯支援、送迎支援、離乳食提供、労力提供(片付け)、娯楽提供(茶道、生け花等)。<NPO>⇒運営ノウハウの提供、布団・畳み・パーティションの確保、学習支援、入浴車等。<企業>⇒テレビ・インターネット機・電話・新聞・食料・雑貨・パーティション・ガソリン・入浴の提供、娯楽提供(サッカー教室、紅茶サービス、楽器演奏、漫才等)、マッサージ、散髪、ネイルアート等。<生涯学習団体>⇒娯楽提供(紙芝居、健康体操、ヨガ等)、炊き出し等。<学校>⇒吹奏楽演奏、労力提供、ストーブ・食器等の貸し出し、就学支援等(大竹氏作成の資料による)。

  藤本信義氏(とちぎボランティアNPOセンターぽ・ぽ・ら所長、とちぎ協働デザインリーグ理事長)は、避難者支援の経緯を丁寧に「トレース」した上で、姿川地区の避難所活動の卓越性について、「日常的に蓄えられている地域力のゆえであり、一過性の現象ではない」旨を示唆している(藤本信義「震災対応にみるコミュニティ・NPO・行政の協働―宇都宮市姿川地区の避難者支援を通して―」(『リーグファイル 05』2011年9月号、2-3頁))。

Page 29: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

29

多文化公共圏センター年報 第4号

務所と折衝し、紙パイプ組み立て式のパーティ

ションが寄付された。3月下旬に組み立てを

試し、4月初旬に組み立てた。この効果は大き

く、避難者には最低限のプライバシーが確保さ

れ、大変喜ばれた。

3月末には避難者数は約 100人にまで減少し

た。米が非常に余ったため、地元に戻る人には

持って帰ってもらった。地区内にある民間の

フィットネスクラブ「ラクザ」の協力により風

呂を利用できたことも大きかった。体育館から

は距離があるので、所有権のないものを市で調

達した自転車 25台を移動に使ってもらった。

3月下旬には中・高・大学生等のボランティ

アや、NPO法人とちぎ生涯学習研究会による

学習支援ボランティア(とちぎボランティア

NPOセンター「ぽ・ぽ・ら」の仲介での宇都

宮大学生による学習支援など)も始まった。

避難者の数は減少し続け、4月上旬には約 70

人、同中旬から下旬には 40人となり、同 30日

の避難所閉鎖に至った次第である。

(3) 自治体職員から見た避難所運営の課題

行政職員の日替わりでの避難所派遣では、

適切な対応管理ができないと感じた。担当は市

保健福祉部生活福祉課であるが、入れ替わりで

やってくる若い職員では判断できない。そこ

で、対応をめぐる権限を地区市民センター長で

ある自分に移行するよう自治振興部長と保健福

祉部長を説得した。この案が受け入れられたこ

とが、その後の避難所対応においては大きかっ

たと思う。

基本的には避難所も組織運営の一貫であ

る。判断のできる職員が専属で避難所に張り付

いていなければならない。日替わりで派遣され

る職員は、この運営責任者間の指示のもとで作

業に携わるのが一番良いし、それを実践した。

3月中は避難所にやってくる個々の関係者の

話を聞く時間もなかなか持てないほどで、順番

待ちしてもらうような状況であった。とにか

く、散髪や差し入れなどいろんな話が次々に舞

い込んできた。地区センター職員にかかった負

荷は相当なものだったと思うが、よくやってく

れた。もともとこの地区市民センターは市内に

3つある「拠点支所」に指定されており、保健

師などのサービス機能が他のセンターと比べて

多く充実している。

避難所運営では仕事を分けることを考え

た。すなわち、「行政にできることと、できな

いこと」と「すぐやらなければならないこと

と、延ばせること」との仕分けである。また、

「行政としてやってはいけないこと」以外はや

ろうというスタンスで臨んだ 16。

人事課に 12年間所属した経験があり、職務

上の不祥事や人を使う上での難しい課題などい

ろいろな状況を見てきた。自分はずっと避難所

となった体育館に張り付いていたが、そうする

ことがこれまでの経験から適切な対応だと思っ

たからである。同時に避難所を離れられるよう

な状況ではなかったことも事実である。また、

地区市民センターとしての通常の業務である決

済などもこなさなければならなかった。セン

ターの職員も1カ月半の間ほとんど休まなかっ

た。3月中はまるで火事場のような状況であっ

た。それでも不思議と疲れは感じなかった。

振り返ってみると、姿川地区としての地域の

支援が大きかった。風呂がないなど避難所とし

ての機能が備わっていない点と、今回のような

事態にシステムとしての運営や対応ができてい

ないという点が重要な課題であると感じた。運

営の裁量権を現場に与える。そのためには課長

16 2011年11月12日の日本地方自治学会(福島県会津若松で開催。筆者参加)における共通論題「震災復興と地方自治」において、立谷秀清氏(福島県相馬市長)は、避難所として800人を収容した体育館・教室の運営において、人々の健康管理を最重要視するなかで、「今すぐやる対応と長期的な対応とに分けた」と発言している。この点、大竹氏の指摘と共通するものがある。

Page 30: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

30

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

や地区市民センター長などの管理職が現場に張

り付かなければいけない。

民間事業者によるその他の協力は、地区内に

あるリサイクルショップによる電子レンジ、冷

蔵庫、電気ポット、洋服などの寄付であった。

スーパーマーケットは不足しがちな肉とビタミ

ン含有の食料を提供してくれた。地区外のボラ

ンタリー組織と接して感じたのは、避難者は病

人ではないので、日常生活での作業的なものは

避難者自身で行うようもっていった方がいいと

いうことである。また、居心地をよくするため

には、良い意味での遠慮のない関係を築くこと

が大切である。やってあげるという接し方は良

くない。避難者がお客さんでは避難者自身の居

心地が悪い。したがって、ボランティアの受け

入れには余興的・娯楽的なものを優先するよう

にした。

栃木県との直接的な接触はなかったが、国か

らお金の補助(1人当たり 1日 1,100円の食事

分)があり、これを利用した。避難者のなかに

は、後日、職を確保し、姿川地区あるいはその

周辺に永住のつもりで引っ越してくる人々もい

た(いわき市出身者で 4世帯。南相馬市出身者

で 7,8世帯)。仕事の確保に向け、ハローワー

クに連絡をとって、センターに説明しにきても

らう機会を作った。地区センター所長として受

け止めた要望については、とにかく多くの関係

者に口頭で伝達した。そうすることで、その人

や知り合いが何らかの対応をしてくれるケース

が多々あった。その際、対応の重複は問題にな

らなかった。こうした従来いわれるところの行

政の施策とは正反対な対応スタンスが重要だと

思われる。

「安定・継続性」「スピード」「柔軟性」「多様

性」をキーワードに避難所運営における行政、

NPO、地域住民、企業の特徴を整理すれば、行

政は安定・継続性と多様性の側面で比較優位に

あるものの、スピードと柔軟性では比較劣位に

ある。一方、NPOの場合はスピード、地域住

民の場合は安定・継続性では劣位にあるが、柔

軟性と多様性で優位性がある。企業の場合、安

定・継続性と柔軟性に欠けるものの、企業全体

としての多様性は高いのではないだろうか 17。

4.東日本大震災後の協働・ガバナンス研究の

視点

以上のように、これまで、東日本大震災後

の避難者への対応について、鹿沼総合体育館

フォレストアリーナと宇都宮市姿川地区市民セ

ンター附属体育館における避難所運営の実際

を、主にインタビューを通じて明らかにしてき

た。鹿沼市の場合は、ボランティア活動に従事

しているまちづくり団体のメンバーの経験をも

とに、また、宇都宮市の場合は、地区市民セン

ター所長という自治体職員の立場から、ともに

現場の判断・決定に関わってきた点で共通して

いる。

二つの事例あるいは二人の経験からのみ、避

難所対応をめぐる一般論的な命題や知見を引き

出すことには、多様かつ多数の関係者の存在を

想起するならば、一定の限界があることは確か

である。しかし、本研究の資料的価値に加え、

避難所運営をめぐる先進事例ともいえる両事例

から見出される特質を指摘する意義はあるよう

に思われる。

第 1に、二つの事例とも、震災後約 1カ月半

という期間において、これまで考えられなかっ

たような、その意味でまさに想定外・未曾有の

対応が迫られた災害対策であった。協働をめぐ

る課題が短期間に噴出・凝縮する形で突き付け

られた特異な事例であるといえる。避難所で

は、マニュアル依存では対応できない、その場

その場での判断と迅速な実行が求められる矢継

ぎ早の場面に直面した。換言すれば、政策対応

17 前掲、大竹氏資料による(ただし、強みを「比較優位」、弱みを「比較劣位」という用語表記に変えた)。

Page 31: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

31

多文化公共圏センター年報 第4号

をめぐる強度の混沌・混乱状況が出現したこと

になる。

第2に、第1の指摘と一見矛盾するようだが、

避難所では平時における協働が問われた。二つ

の事例は平時の協働実践の積み重ねこそが、災

時に生きることを例証している。平時における

連携・協力のネットワークの欠如は、避難所対

応の機能不全に直結するのである。

第 3に、既存の管轄組織への異議申し立てな

ど関係者間の摩擦を経た、組織対応の変更がな

ければ、事態を動かすことはできないという政

策上の教訓が明らかになった。個々の関係者や

関係機関が前例踏襲主義、概念上の「公正」へ

の固執、所管・管轄領域の限定、情報の取得や

裁量の行使などをめぐる現場重視から乖離する

限り、避難所運営において突き付けられる瞬時

変動的課題に対応し、数々の難局を一つ一つ克

服していくことはできないということである。

第 4に、避難者も含め避難所運営に関わるあ

らゆる関係者 18が、何らかの形で貢献者にな

らなければいけないということである。たとえ

僅かであっても、避難者は貢献しようと行動を

起こすことで、初めて避難所の一員になり得る。

第 5に、ヒト・モノ・カネ、さらにはネット

ワーク構築能力といった組織資源の発揮と直結

する形で、各セクターの状況把握、判断、立

案、決定、調整、実施、評価といった各段階に

おける資源力(リソースパワー)の組み合わせ

には、あたかもジグソーパズルの個々のパーツ

のような違いや濃淡のあることが明らかになっ

た。仮に完成したジグソーパズルが協働の姿と

するならば、各セクター(関係者・関係機関)

の有する諸資源は個々のパーツではないだろう

か。パーツは共有される場合もあれば、特定の

セクターしか有しない場合もある。パズル同士

の合致は、セクター間の調整がうまくいった場

合である。協働実践はパズルが完成した時にこ

そ、最大限の効力を発揮する。

最後に、宇都宮市姿川地区の事例から導き出

されるところの、大震災後の避難所運営をめぐ

18 本研究ではとちぎVネットやぽ・ぽ・らへの言及は僅かであるが、関係組織には中間支援組織も含まれる。中間支援組織は地域コミュニティ間の情報や活動をつなぐ結節点であり、県域や県外の広域的活動展開の結節点となる重要なコーディネーター組織である。大震災後のこうした中間支援組織が果たす役割についての検討・検証は今後の研究課題である。

  中間支援組織の実践例として、栃木県内に避難している福島県・宮城県・岩手県の被災者同士が一同に会し、交流を図る「とちぎ暮らし交流会」が2012年1月22日に開催された(主催は「とちぎ暮らし応援会」。場所は作新学院大学。JT、ダイドードリンコ、とちぎコープから飲料とお菓子の提供あり。筆者参加)。集会では東北3県の各市町村に分けた出身地域別の交流イベントを実施し、情報交換を進めた。県弁護士会による法律相談、日本カウンセリング学会県支部会による心の相談、福島県災害対策本部(栃木県駐在)、宇都宮大学国際学部多文化公共圏センター・福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクトなどによるコーナーも設けられた(毎日新聞朝刊「3県避難者交流会」2012年1月13日付で報道)。

  出身地域別交流会では、参加人数の関係から当初の予定が変更され、「岩手県・宮城県・南相馬市・相馬市」(筆者が見た限り、参加被災者数は40数名。以下同じ)、「富岡町・双葉町・大熊町」(10数名)、「田村市・広野町・川内村・川俣村・飯舘村・楢葉町・いわき市」(10名程度)、「福島市・伊達市・郡山市・白河市・西郷村」(20名程度)、「浪江町・葛尾町」(10名程度)の被災者が教室ごとにわかれ、NPOスタッフの進行で話し合いの機会が持たれていた。また、たとえば福島県災害対策本部活動支援班の県外避難者支援チームの職員やいわき地域絆づくり支援センター長なども参加していた。「福島市・伊達市・郡山市・白河市・西郷村」の教室では、ある被災者からは、「新たな仕事も確保できないなかで、会場までの交通費など身銭を切ってやってきたのに、それに見合う会合であったのか疑問が残る。交通費を食費に当てればよかった」といった厳しい発言もあった。

  交流集会を主催した「とちぎ暮らし応援会」は、栃木県内のボランティア・NPO36団体、大学2団体、企業3団体、中間支援センター8団体、社会福祉協議会4団体、行政3団体、個人ボランティア1名の合計56団体、1個人(2012年1月現在)で構成される(当日の入手資料「とちぎ暮らし応援会参加団体一覧」より)。栃木県内への避難者支援に関わるNPO・ボランティア、栃木県、福島県災害対策本部が呼びかけ人になり、避難者の栃木県での生活支援を目的に創設された。こうした緩やかな県内広域連携組織の機能や課題、可能性などについては今後の研究課題である。

19 中村祐司「ネットワーク・ガバナンスの基礎類型」(宇都宮大学国際学部研究論集30号、2010年9月)29-31頁を参照。

Page 32: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

32

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

るネットワーク・ガバナンス 19、すなわち、住

民・NPO・団体・企業・行政の協治による避

難所対応活動を大枠・中枠・小枠レベルで位置

づけておこう。

地区を単位とする大枠(マクロレベル)の基

礎類型では、姿川地区が自律性かつ一体性を

もって集中的に対応に当たったという意味で

「自律・集中型」に該当する。

地区内の組織・団体(自治会、NPO、団体、

企業、学校など)を単位とする中枠(メゾレベ

ル)の基礎類型(政策・制度・管理のネットワー

ク)について、まず、避難所対応政策の面では、

立案・調整・決定・実施・評価の各段階で、地

区市民センター(所長)をトップとする指揮系

統が構築・作動したがゆえに、「政策の依存」(=

政策の他律・集約)に該当する。次に、避難所

対応制度の面では想定・マニュアル外の大規模

緊急事態に直面し、既存の制度対応は不可能で

あったという意味で、「制度の分散」(=制度の

他律・拡散)に位置づけられる。そして、避難

所対応管理の面では、政策以上にセンター (そ

れを代表する所長 )への裁量権限移行がなされ

た。その意味で「管理の依存」(=管理の他律・

集約)として捉えられよう。

小枠(ミクロレベル)の基礎類型では、組織

の構成員に焦点を当て、その人的関係や人的配

列に注目し、質・量・正当性・原動力・継続力

の面から、人的配列が生み出すところの避難所

対応というパフォーマンス成果(活動成果)の

強弱について考察する。ここでは、正統性こそ

脆弱(希薄な制度的・法的根拠)であったもの

の、それ以外の質・量・原動力・継続力の点で

はいずれも強固なパフォーマンス成果を発現し

た。

要するに、東日本大震災に直面して、姿川地

区は自律・集中した避難所対応を一体的に行う

一方、地区内の組織・団体関係では政策と管理

をめぐる地区市民センターへの依存が顕著で

あった。そして、正統性を除けば、強いパフォー

マンス成果を発揮した人的配列であった。ガバ

ナンスの自律・集中、依存、そして強固なパ

フォーマンス成果は、これからの協働研究の

キーワードになるのではないだろうか。

Page 33: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

33

多文化公共圏センター年報 第4号

1.はじめに

地域コミュニティ 1は大災害時に称揚される

ことも多い。本稿では、グローバル化という大

きな流れと、東日本大震災という巨大な衝撃を

手掛かりに地域コミュニティを再考する。グ

ローバル化と個人の意識変化 2は地域コミュニ

ティを脆弱化方向に導くと考えられる一方、地

域コミュニティの再生を期待する声も少なくな

い。行政機関は統治の補完として、また地域住

民からは地域福祉の担い手の一つとして地域コ

ミュニティへの期待がある。地域コミュニティ

は、そのような実利をもたらす存在としてのみ

意義があるのであろうか。地域コミュニティで

なくては果し得ない、あるいは最もよく果し

得る役割はないのであろうか。それはグローバ

ル化とどのように関係している(あるいは関係

していない)のであろうか。関連する組織、ア

クターなどとの関係の中で考えてみたい。そし

て、東日本大震災では、津波と原発事故による

地域の壊滅が地域コミュニティに大きな動揺を

与えた。長年の地域でのつながりを失い、新た

な地域で昨日までと異なる隣人との近隣生活は

どのようなコミュニティを生み出すのであろう

か。

地域コミュニティと 3.11大震災の関わりに

ついては、震災前後の 16ケ月間の新聞報道を

参照し、検討の材料とする。非常時の議論が定

常時に成立するかについては慎重さ求められる

が、グローバル化時代における地域コミュニ

ティについて考察し、その展望を試みる。

2.新聞報道に見る3.11大震災と地域コミュニ

ティ

3.11大震災と地域コミュニティを検討する素

材として、新聞記事を取り上げる。ここでは、

2010年 9月1日から 2011年 12月 31日までの

3.11大震災を含む 16ケ月間の朝日新聞記事か

ら地域コミュニティに関わる記事を抽出・調査

した 3。地域コミュニティに関わる記事は、総

数で 1321件であった。以下、記事について検

討し、大震災と地域コミュニティの関わりにつ

いて管見する。

先ず地域コミュニティ関連の記事数の推移

を見る(図1)。2010年 9月 1日から 2011年 3

月 10日の大震災以前では、49.7件/月、震災

以降では 79.3件/月で、約 60%増加している。

大震災が地域コミュニティの存在感を大きくし

たことの反映とも解し得よう。また、当然のこ

とながら 2011年 3月以降では、大震災に関連

した記事が 80.2%を占め、特に震災発生直後か

らの 6カ月では、約 90%と大多数を占める。

これらの記事の 88.9%は地方面の記事であり、

基本的には当該県内版に掲載されたものであ

り、特定都県内の読者を対象としたものである。

グローバル化時代における地域コミュニティについての一考察-3.11 大震災から見えてきたもの-

舘 野 治 信国際学研究科博士後期課程

1 本稿での地域とは、自治会・町内会の対象地域から小学校区程度を、またコミュニティは、ヒラリー(G.A.Hillery)の指摘する「地域性・共同性・共属感情を有する存在」を想定している。

2 NHK放送文化研究所 『日本人の意識構造(第7版)』 2010 日本放送出版協会 p.88

3 朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」により、検索した。検索キーワードは、「地域+コミュニティ+自治会+町内会+町会+区会」である。また、東京本社版の朝夕刊記事(主に東日本地域)の全国面記事と地域面記事が対象である。

Page 34: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

34

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

次に、記事の内容について、震災以降に絞っ

て見てみる。先ず、地域コミュニティの主体性

を見る。ここでは、記事の対象となった事象

が、地域コミュニティのアクターが自主・自律

的に行ったものであるかどうかを見る。記事中

の 39.7%は地域コミュニティが主体性をもった

ものであった。一方で、他のアクターが主体と

なる代表事例として、地域コミュニティの役

割がいわゆる行政補完的活動である記事は、

36.9%であった。これは地域コミュニティが主

体性を有する比率と拮抗するものであり、興味

深い。限られた情報から断定することはできな

いが、地域コミュニティの有する性格として、

自主自律的なものと行政補完機能の並立を指摘

したい。

行政補完に関する記事の主たる内容は、震災

の復旧・復興計画等への地域意見の統合・調整

と行政情報の伝達である。地域意見の調整・

統合は必ずしも震災関連に限定されないが、地

域への大型施設建設に関するものが多い。具体

的には、ゴミ処理施設の建設についての意見統

合・具申があげられる。ここでは、自らもその

受益者であるが、その負担を最少化、ないしは

忌避したいとの地域エゴも垣間見られる。

地域コミュニティが主体性を有している記事

の内容は、日常生活での互助、イベントの開

催、防犯・防災活動、地域の見守り、地域づく

りなどであり、特に震災後の避難所生活での貢

献を報道した記事が多く見られた。そこでは、

高齢者、独居者等への身守りも含め、互助が有

効に機能しているようである。平常の日常生活

では、生活手段やコミュニケーションのほとん

どを地域社会以外との関係が占めているが、非

常時にはそれが失われ、あるいは大幅に機能が

低下した結果、地域コミュニティの働きが求め

られた結果が反映したのであろう。それは、

形骸化が進行したとは言え自治会などの地域コ

ミュニティのアクターが存続していたことの有

効性の反映とも考えられる。

上述の災害時における地域コミュニティの有

用性の記事と同時に、仮設住宅における自治会

の設立が難航しているとの記事がある 4。そこ

では、被災前の居住地が混在する居住者の間の

つながりの弱さなどにより、組織作り・役員

選任に苦労しているとの報告がされている。

住民自らの生活に有用なものであるにも関わら

ず、組織形成への努力や役員就任を忌避するの

は何故であろうか。これは、平常時の地域コミュ

ニティの形成や活動にも共通する課題であると

思われる。

次に主体性の表れの一つである意見・意思・

オピニオンの表明に関した記事を見る。この分

類には全体の 9.0%が相当した。しかし、その

ほとんどは震災時の地域コミュニティの重要性

を抽象的に論じたものであり、全国面に掲載さ

れた論説と研究者などの主張であった。地域コ

ミュニティから発信された意見(行政への要

請・抗議などを除く)は皆無であった 5。地域

コミュニティの外部との関係のほとんどは行政

機関であるが、グローバル化という環境下で、

生活の場である持続可能な地域を維持するに

は、地域外部の他のアクターとの関係を構築・

強化することは重要な課題であろう。

0

20

40

60

80

100

120

4 2011年10月12日朝日新聞総合面 「自治会結成 仮設住宅の6割」

5 「地域コミュニティからの意見」は新聞記事では確認できなかったが、不存在とは断定できない。

図1 地域コミュニティ関連の朝日新聞記事数

Page 35: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

35

多文化公共圏センター年報 第4号

3.3.11大震災と地域コミュニティ

3.11大震災のような非常時に地域コミュニ

ティはどのような特性を表出し、またその課題

は何であろうか。さらには、平常時のそれと、

どのような関係があるのであろうか。前述の新

聞報道も手掛かりに考察する。

宮台真司は「非常時には、巨大システムは

機能できない 6」と言っているが、3.11大震災

でもその妥当性は検証された 7。巨大システム

の一つである公的機関も、十分には機能でき

なかった。システムを機能不全に陥れた要因

は以下のようなものである。第一には、シス

テムを成り立たせているインフラを喪失した

ことである。活動基盤である建屋や設備の損

壊、情報ネットワークの切断などにより、現代

の科学技術に支えられたシステムは機能しな

かった。次に、巨大システムは平常時における

動作・成果創出を主眼としており、非常時へ

の想定・対応は十分ではない。システムの重

要な要素である人間の行動がその代表である。

人間には正しい状況の把握とそれに基づく意思

決定が求められるが、3.11大震災でも、その不

可能性を証明した。不十分な情報、状況の認識

や意思決定を行うための専門知識やマネージメ

ント能力の欠如、さらには所属組織や自己の近

視眼的な利益擁護などにより、適切な行動がで

きなかったことも多かった。非常時にシステム

は、より大きな処理能力が求められるが、むし

ろ大幅に能力が低下してしまうというある種の

パラドックスが発生するのである。また、巨大

システムは、即応性が乏しい点も問題である。

法規・前例の制約や複雑な組織構造内の煩雑な

手続きは、緊急時に必要な柔軟で素早い行動を

困難にする。

大震災時の巨大システムや公的システムの機

能不全に対し、地域コミュニティやボランティ

アなどの市民組織が有効性を発揮する可能性

を持つ。地域コミュニティの有する機能とし

て、以下の 3分野を挙げる。第一に、生活基盤

の形成である。これは生活を維持・継続するた

めの、環境整備・共同防衛や相互扶助などを含

む。第二に、社会関係資本の形成である。これ

は、いわゆるソーシャルキャピタルの形成であ

り、地域での親睦活動などが含まれる。第三に

は、行政補完機能であり、行政の下請けや行政

への圧力団体機能などである。これらの機能の

必要性、あるいは重要性は状況により異なる。

表1に、筆者の私見による地域コミュニティ機

能の必要性・有用性について表した。現在の日

常生活では、地域コミュニティの必要性・有用

性を感ずることは少ないが、何らかの役割は果

たしていると認識されている 8。生活基盤形成

は個人責任の領域とされ、個人の裁量の下で、

公的機関の利用や市場からの調達で生活が維持

されている。また、社会関係資本の形成は、

目先の実利性に乏しく、形而上的存在でもあ

り、日常生活の中で認識・実感されることは少

ない。日常生活での相互の認識や交流は容易に

実現できそうな平易な事象であるが、限定的な

ものである。行政補完機能は、行政機関と地域

住民の双方の必要性を充足するため存在してお

り、住民の多くからは地域コミュニティの主た6 大塚英志、宮台真司 『愚民社会』 2012 太田出版 p.19

7 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 『中間報告』 2011年12月 内閣府 pp.45-75

8 内閣府 『国民生活白書(平成19年度版)』 2007 財団法人時事画報社

Page 36: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

36

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

る役割と認識されている。

3.11大震災のような非常時にあっては、前述

のように、「非常時には巨大システムは機能で

きない」ことから、生存の維持のために私的対

応では対応困難な領域で互助が求められる。

また、震災からの復興過程や社会インフラの整

備などの大きな費用を必要とし、長期間の継続

事業は行政機関しかなし得ず、そこでは地域コ

ミュニティは行政補完的機能を果たさざるを得

ない。また、社会関係資本の形成は、特に高齢

者を中心とした独居者などの弱者に必要性が

大きい。2004年の新潟県中越地震後の調査報

告では、大規模災害後に生活不活発病が増大

し、高齢者の心身が弱っていくことが報告され

ている 9。自主的に社会とのつながりを構築で

きない独居者が、持続的社会関係資本(あるい

は絆)を形成しているかどうかで、大きく生

活、あるいは健康が左右されることも実証され

ている 10。災害ユートピア 11と称されるような

人間性の発露による地域コミュニティ活動の高

揚は市民活動の活発化とともに有意義なもので

あることは明らかであるが、人間の生存に関わ

る重要な存在として地域コミュニティがあると

言えるのではないだろうか。社会関係資本の構

築は、人間の心身の健康保全に不可欠な他者と

の持続的つながりや交流を実現する。これは地

域コミュニティのみが担い得る機能である。

大川は、震災時の高齢者の健康について報告し

たが、地域コミュニティにおける人のつながり

は、平常時の高齢者以外の年齢層の心身への影

響とも相関があり得る。今後の検討課題とした

い。

4.地域コミュニティの課題と展望

(1) 地域コミュニティは必要か

グローバル化という社会システムの大きな変

動と、大震災という生存基盤への衝撃の二面か

ら地域コミュニティについて考察する。

グローバル化は、市場原理に基づく活動を

ボーダーレスに展開する経済活動と言えよ

う。地域コミュニティはグローバル化と対極的

位置にある。そこは市場とは異なり、競争原理

に基づかず、また限られた領域の人間関係に基

盤を置くものである。対極にあるが故に、存在

価値があるとも言える。すなわち、必ずしも進

歩・成長・拡大や変化を求めず、持続する人間

の生活に関わる一つの存在として捉えることが

できる。

大震災は、多分発生しないだろうとの希望的

期待にも関わらず、確率的には必ず生ずる自然

環境の大きな変動である。そこでは、日常生

活での予測を大きく超えた暴力的破壊が発生

し、生命も危機に瀕し、財産も喪失・損壊の危

機に陥る。

グローバル化は人間が意図的に作り出したも

のであり、一方大震災は自然現象であり人間の

制御の外にある現象であるが、個人の生存や生

活に対し、不可避的に作用を及ぼす点では共通

性がある。このような巨大なものへの対峙が必

要な個人の生活は、継続性・持続性が重要な特

性である。これは、グローバル化の動きの中で

は保証されず、リスクの存在が当然視されてい

る。また、大震災は、生存や生活を根底から揺

るがすものであり、グローバル化と相関性はな

いが個人の生活に大きな影響を与える。これら

の二つの外部要因に対し、国家は無視できない

重要な存在である。国家の基本的責務の一つ

は、個人の生存の保障である。しかし、大震災

のような非常時にはその機能を十分に発揮する

ことは困難である。さらには、平常時において

も、憲法でも謳われている「健康で文化的な生

9 大川弥生 「災害時の生活不活発病の重要性」『医学のあゆみ』 vol.239 No.5 2011年 医歯薬出版 pp.492-496

10 2012年2月7日朝日新聞 「足腰弱る被災のお年寄り」11 レベッカ・ソルニット(高月園子訳) 『災害ユートピア』 2010 亜紀書房

Page 37: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

37

多文化公共圏センター年報 第4号

活」の確保を国家のみに依拠することは困難で

ある。費用負担の問題を措いても、その責務の

遂行には大きな障碍がある。第一に、経済や物

質の充足の問題だけではない点がある。精神的

満足なしには、健康や文化は成立しない。さら

には、即応性への問題がある。国家のような公

的機関に多様な状況での即時対応を求めること

はできない。そもそも即時対応するための情報

を得ることができない。また、多様な状況と特

性を有する個々の課題に柔軟な対応を、公的機

関に求めることは困難である。このような背景

からも、地域コミュニティの必要性・有用性が

あるのである。すなわち、「市場の失敗」と「政

府の失敗」に対し、地域コミュニティは一定の

役割を果たし得る重要な存在である。

グローバル化と大震災に覆われた今日の社会

の中で、地域コミュニティを考える背景は以下

の三点である。第一に、生存・生活の基盤の脆

さ・危うさ・不全さが露呈してきたことであ

る。日常生活では必ずしも認識していないか、

軽視していたことが、大震災のような大きな衝

撃により現れてきたか、あるいは直視せざるを

得ない状況になったのである。それらは、自然

現象であるか、人間由来の社会現象であるかを

問わず個人で甘受せざるを得ないが、個人のみ

では受容困難なことも多く、地域コミュニティ

の存在意義にも関わる。

第二には、巨大システムや国家の非常時にお

ける脆弱性が明らかになったことが挙げられ

る。3.11大震災や突発的アクシデントが、巨大

システムに損傷を与えたのではなく、そのよう

な特性が本性であり、またある種の不完全さを

内包していたのである。これらは全てを改善で

きるものではなく、人間が作り上げ、また参画

するシステムにおいては、システムの不完全性

は不可避なものである。

第三に、地域社会の変容である。家族形態は

大家族、核家族、独居者増へと変化し 12、血縁

への依存も減少し、生活のリスクは個人責任が

原則となり、一部を行政が支える構図が定着し

た。家族員数の減少は地域での他者とのつなが

りの機会を低下させる一因でもある。日常生活

の多くを地域外に依存し、地縁性の薄くなった

個人には、地域コミュニティへの参加は煩わし

い拘束感を与える忌避したいものであり、地域

コミュニティの空洞化は進行している。

上述のような背景の中で、個人の生活を持続

的に維持するための担い手についての再考が求

められる。担い手としては、個人(家族や個人

的ネットワークを含む)、地域コミュニティ、

市民(ボランティア、NPOなどを含む)、国家(中

央政府、地方公共団体、その他の公的機関を含

む)、および市場がある。これらの担い手を、

その活動の継続性と機能の包括性の二面で分類

し、その特性を考察する(図2参照)。個人の

生活は、継続性や包括性からは市場とは対極的

位置にあり、市民アクターと行政機関がその中

間にある。NPOやボランティア活動の多くは、

特定の活動領域や目的を有し、持続性・継続性

においても地域コミュニティと異なる特性を

持っている。住民サービスを大きな目的とする

基礎自治体を中心とする行政機関は、幅広い活

動と多様な特性を有するが、その巨大さと硬直

性のため、個人生活の継続性や包括性に全面的

に対応することはできない。図2の縦軸は、活

動領域を指標としたが、対象地域の広狭とも強

く相関している。すなわち図の上方、包括的活

動は狭い生活空間を対象とするものであり、下

方のテーマ限定的活動空間はより広域での活動

が前提となっている。

地域コミュニティや地域での人間関係の希薄

化の進行が言われているが 13、グローバル化と

3.11大震災は地域コミュニティの必要性を明ら

かにした。これは、大災害が起きたから必要な

12 総務省統計局 「家族類型別一般世帯数」『平成17年度国

勢調査結果』

Page 38: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

38

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

のではなく、またグローバル化が進展し、個人

の生活のリスクがより大きくなったが故にそう

なのではない。これらの大きな現象が、地域コ

ミュニティの必要性をより鮮明に顕在化させた

のである。大震災に関連した報道でも確認でき

たが、地域コミュニティの多様な機能・活動

は、個人の生活の包括性と継続性に対応する貴

重なものである。個々の生活のニーズ(たとえ

ば緊急の食料品の提供)は、いくつかの代替ア

クターにより担うことは可能であり、実行もさ

れている。しかし、その継続性や他のニーズと

の連携性の確保は困難である。また、継続性は

人間関係の確立に不可欠なものである。人と人

の「つながり」や「絆」は、この継続性なしに

は成り立ち得ない。

前述した地域コミュニティの三機能では、「社

会関係資本形成」は他の存在では代替できない

ものである。「生活基盤形成」は、基本的に補

完性原理の適用が有意義な機能であり、地域コ

ミュニティも一定の存在意義がある。また、「行

政補完」機能においては、地域コミュニティは

主体ではなく、住民と行政機関の双方の便宜の

ためであり、従たる機能である。

(2) 地域コミュニティの課題と展望

グローバル化と大震災を念頭に、地域コミュ

ニティの課題と展望について検討する。第一の

課題は、個の尊重である。地域コミュニティの

代表的存在である町内会・自治会の基本的特性

の一つは世帯単位の加入である 14。これは、行

政補完機能との整合性に優れてはいるが、家族

形態の変容(大家族から個化へ)と意識の多様

化(同一家族内でも)を考慮すれば、家族の代

表ではなく、一市民、あるいは一住民としての

地域コミュニティへの参画が必要である。そこ

では、地域コミュニティは当然に存在するもの

ではなく、創っていくもの・進化させるものと

の思念が必要である。前述した新聞報道では、

3.11の被災者の仮設住宅での独居老人の孤立化

に関する記事も多く見られた。また、2004年

の中越地震に関して大川弥生も同様の実態を報

告している 15。仮設住宅での孤立化の背景には

地域コミュニティ、あるいは自治会は当然にあ

るもの、あるいは行政が指導し、作られるもの

との思念も感じられる。何よりも自分自身、

あるいは自分たちに関わることであり、主体的

に行動することを望むのは酷であろうか。ま

た、長らく地域コミュニティを形成してきた住

民が分離されると、新しい人間関係の構築が困

難なであることも報じられている。ここでも同

様の思考と行動が求められるのではないかと思

う。被害者意識と行政機関への依存と苦情の申

し立て者という受動的姿勢のみからは、期待す

る地域コミュニティは生まれない。より良い生

存・生活を実現するには、自らが唱道し、必要

な行動を起こすことが必要であろう。

第二の課題は地域コミュニティの主体性の確

立である。地域に存在するアクターのほとんど

は任意団体であり、組織・意思決定・活動など

14 倉沢進、小林良二 『地方自治政策Ⅱ』 2004 放送大学教育振興会 p.209

15 前掲 大川弥生13 前掲 『国民生活白書(平成19年度版)

図2 地域アクターの特性

Page 39: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

39

多文化公共圏センター年報 第4号

に曖昧性を多分に含む存在であり、自主性や自

立性が欠けることも多い。たとえば自治会の活

動の多くが行政補完(ないしは行政の下請け)

となっていることにも見られる。しかし、不確

かな部分を含むことからこそ、主体性を確保

し、その存在意義を全うする必要があるのであ

る。グローバル化の環境下で不可欠な「社会関

係資本の構築」を担う存在として、地域コミュ

ニティの自立的活動は重要である。第一の課題

で言及した個の尊重にも関わるが、自ら考え、

提言し、行動する必要がある。自らの地域に関

わる問題や課題について、自ら提言し、発信し

なければ誰がその任に当たれるであろうか。

第三に、地域外部のアクターとの連携・協働

を挙げる。ここでは、行政機関と市民活動組織

が主たる相手である。現状は、行政との連携

や、行政を媒介した市民活動との連携が主体で

ある。地域コミュニティと大きく異なる特性を

持つ市民活動との協働は双方に意義あるもので

ある。近年、多くの地方自治体は、市民・住

民との協働を重要な政策として掲げている。

主権者たる住民(あるいは国民)と公僕たる行

政機関の協働に異を唱える声もあるが、併せて

協働の中身が問われなければならない。単な

る財政危機の弥縫策や選挙のキャッチフレー

ズではなく、協働の実をあげるには、参加す

るアクターはそれぞれに固有の優位性を持ち、

主体性を発揮しなければ、パートナーシップと

は名ばかりで、主従・下請け関係が表れるのみ

である。

第四の課題として、地域自治について述べ

る。近世以前には存在した日本の地域自治は、

明治維新以降の集権融合型の統治システムに吸

収され、今日に至っている 16。地域自治の具現

化は、以下の二要件の超克の先にある。一つ

は、地方分権改革推進会議などでも検討されて

いる地方分権改革であり、もう一つは、上述の

第一・第二の課題の達成である。

現代社会はグローバル化の影響も含め、生活

手段の分業化、外部依存が進んだ。しかし、広

域に亘る多くの活動やサービスは地域で統合化

され、個人の生活を成り立たせている。生産活

動の場や消費活動の範囲は、地域を超えること

が多いが、生活の場での社会関係資本の維持と

強化なしには健康な個人生活を営むことや、健

全な社会の維持はない。そして、地域コミュニ

ティは市場とは異なるルールの下、個々の成員

の参加と貢献により成立するものである。

おわりに

3.11大震災を手掛かりに、グローバル化時代

の地域コミュニティについて考察した。地域コ

ミュニティについては、その衰退が指摘される 17

一方、その有意義性も主張されている 18。大震

災と地域コミュニティの関わりについて、新聞

報道を参照したが、そこでは地域コミュニティ

が有意義な存在であり、行政機関と連携しつつ

災害に対応する状況が確認できた。同時に、

津波や原発事故の影響で居住地を奪われた人々

が、主体的に地域コミュニティを形成できない

事例の報告もあった。

本論では地域コミュニティの有する機能

を、生活基盤形成、社会関係資本形成、および

行政補完機能に大別し、その意義について考察

した。これらの中で、社会関係資本形成機能が

行政機関や市民活動組織などでは代替できない

重要なものであると述べた。三機能は、必ずし

も独立的なものではないが、生活基盤形成と行

政補完機能は、その実利性と実証の容易性の故

に論じられることも多い。一方、人と人のつ

ながりや信頼感を醸成する社会関係資本形成

16 岩崎信彦 「政策としてのコミュニティの危うさ」『まちむら』 2012年1月 あしたの日本を創る協会 pp.37-39

17 前掲 『国民生活白書(平成19年版)』18 吉原直樹編著 『防災コミュニティの基層』 2011 御茶の水書房

Page 40: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

40

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

は、平常時・非常時を問わず地域コミュニティ

の重要な機能である。

グローバル化の進展する環境下での地域コ

ミュニティの課題は、より主体的存在への進化

である。個々の地域住民の自主自立性が前提と

なる。外部から与えられる恩恵や災害に受動

的、あるいは事後的に対応する存在からの脱皮

が必要である。これにより、異なる特性を有す

る市民活動組織や行政との協働を有意義なもの

にすることが可能になる。

3.11大震災の発生以降、行政機関を中心に

「復旧」でなく、「復興」をとのキャッチフレー

ズが多用化されている 。正確な定義は抜きに

して、復興は多くの被災者の望むところであろ

う。問題は、その内容である。地域のインフラ

や生活環境の整備、さらには経済活動の環境整

備も含まれているものと推定されるが、地域コ

ミュニティへの言及は少ない。あっても、行政

機関の指導による従来型の地域コミュニティの

再生が志向されている 。グローバル化や大震

災の発生の可能性を睨み、社会環境の変化に対

応した地域コミュニティの復興を期待したい。

参考文献

岩崎信彦 「政策としてのコミュニティの危う

さ」『まちむら』2012年1月 あしたの日本

を創る協会

大塚英志、宮台真司 2012 『愚民社会』 太

田出版

倉沢進、小林良二 2004 『地方自治政策㈼』

放送大学教育振興会

高橋英博 2010 『共同の戦後史のゆくえ』 

御茶の水書房

東京電力福島原子力発電所における事故調査・

検証委員会 『中間報告』 2011年12月 内

閣府

内閣府 2007 『国民生活白書(平成19年

版)』 財団法人時事画報社

吉原直樹編著 2011 『防災コミュニティの基

層』 御茶の水書房

レベッカ・ソルニット(高月園子訳) 2010

『災害ユートピア』 亜紀書房

参照情報

朝日新聞記事データベース 「聞蔵㈼ビジュア

ル」

19 例えば、2011年10月28日の野田首相の所信表明演説。20 2011年10月12日 朝日新聞 「仮設暮らし 自治会作り 専門家が指導」

Page 41: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

41

多文化公共圏センター年報 第4号

はじめに

2011年 3月 11日の震災は、地震や津波といっ

た天災だけでなく、原発震災という人災をもも

たらした。これまで筆者は、放射能汚染の影響

にもっとも脆弱な乳幼児や妊産婦の不安への共

感から、有志教員とともに宇都宮大学国際学部

附属多文化公共圏センター (CMPS)において福

島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト (FSP)を立

ち上げ、避難希望者や避難者に寄り添い、活動

に関わってきた。対象者のニーズにささやかな

がら直接貢献できた・できる面もあるが、その

経緯からも、国際開発学・アフリカ研究を専門

とする研究者としても、社会のあり方、開発・

発展のあり方そのものを見直す必要性もある。

例えば、国際協力にもかかわってきた研究者

である真崎は、「当面のニーズに応える」こと

と「根本的な問題に向き合う」ことを、切り離

したり、対立したりしていることとして扱うの

ではなく、「当面のニーズに応える」中で「根

本的な問題に向き合う」重要性を議論している 1。

本論では、プロジェクトを通して、福島の乳

幼児家族や妊産婦の当面の状況やニーズに接

し、可能な範囲内で応えてきた中で、研究者と

してより長期的に根本的な問題に向き合いたい

と考える。このことは、公共圏のあり方、そし

て国際学のあり方への示唆にも関連する考察で

もある。

本論文では、第一に、FSPの一環として接し

てきた乳幼児家族や妊産婦の状況やニーズを紹

介する。第二に、ローカル、サブ・ナショナル、

ナショナル、グローバルといったさまざまなレ

ベルにおいて組み込まれているさまざまな根本

的かつ構造的な問題を明らかにする。第三に、

筆者がこれまで研究してきたアフリカ・モラ

ル・エコノミーの研究も参照し、近代日本社会

の問題性にも言及する。その上で、社会のあり

方、開発・発展のあり方を考察するとともに、

公共圏と国際学への示唆を述べる。

1.原発震災の影響を受ける乳幼児家族や妊産

婦の状況やニーズ

福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト (FSP)

では、福島県に隣接する栃木県に位置する大学

として、原発震災にもっとも脆弱である乳幼児

や妊産婦に焦点を当て、避難中の、あるいは避

難を希望する乳幼児家族や妊産婦の状況やニー

ズを把握し、可能な支援をコーディネートして

きた。本プロジェクトは、姉妹プロジェクトで

ある福島乳幼児・妊産婦ニーズ対応プロジェク

ト (FnnnP)、並びに学生ボランティア団体であ

る FnnnP Jr.と連携し、ニーズ把握、状況把握、

ニーズ対応、情報提供、ネットワーク化、アド

ボカシーなどを行ってきた。

福島県から県外への避難者は、登録されてい

るだけでも 62,267人にのぼり、そのうち栃木

には 2,649人避難している(2012年 1月 12日

現在 2)。本論文は、福島乳幼児・妊産婦支援プ

ロジェクトの活動の一環として、そのうち主と

原発震災を転換期として見直す開発のあり方―公共圏と国際学への示唆―

阪 本 公美子

1 真崎 2010、10-36頁。

2 福島県、県災害対策本部県外避難者支援チーム(2011年1月12

日,18日)「福島県から県外への避難状況」http://www.pref.

fukushima.jp/j/kengaihinanuchiwake0112.pdf(2012年1月30日閲覧)。

国際学部准教授・センター員

Page 42: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

42

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

して栃木県に避難してきた乳幼児家族や妊産婦

の一部の状況を出発点として議論している。

栃木県内の支援状況は変化してきたが、乳幼

児家族や妊産婦のニーズもそれとともに以下の

とおり変化してきた。

(1) 避難・避難所期(2011年3月~6月頃)

津波・地震・原発震災直後から数ヶ月は、被

災地(放射能汚染地を含む)からの避難がもっ

とも多かった時期であり、栃木においても 4月

には、24市町 48ヶ所の避難所において 1,040

人の避難者を受け入れていた 3。そのうち 23ヶ

所に 137名の乳幼児、2ヶ所に 4名の妊産婦が

含まれており 4、その他 20名の妊産婦が、妊産

婦専用住宅にいた 5。この段階では、栃木県は「避

難指示の有無で差別をしない」としており、実

際、さまざまな地域からの避難者を受け入れて

いた。また、行政が把握しきれていない自宅避

難者も多数いた。

本プロジェクトでは、4月 16日~ 5月 10日

の間、乳幼児・妊産婦がいる避難所すべてに電

話で状況把握をした上で、避難所ならびに本人

と都合が合う限り、状況やニーズについてイン

タビューをし、適宜ニーズに関連する情報を提

供した。その結果、栃木県内の 6避難所におい

て、13世帯にインタビューを行った。それぞ

れの世帯のインタビューは、30分~1時間程

度行った。インタビュー相手の詳細は、以下の

とおりである 6。

・避難所(10世帯)、県営・市営住宅(3世

帯)

・母親(11人)、妊産婦(2人)、父親(3

人)

・乳幼児(21人)、就学年齢児童(2人)

・避難家族構成:拡大家族(夫含む3世帯、

夫残して3世帯)夫婦核家族(4世帯)、夫を

残して母子(2世帯)、母子家族(1世帯)

・出身地:双葉郡(5世帯)、南相馬市(4世

帯)、いわき市(3世帯)、郡山市(1世

帯)

・原発からの距離:10キロ圏内(1世帯)、

10-20キロ圏内(3世帯)、20-30キロ圏内

(5世帯)、30キロ圏外(4世帯)

 

避難所などでインタビューした乳幼児家族や

妊産婦以外にも、プロジェクト公式ブログを見

てメールや電話での避難の相談も郡山市・福島

市・白河市などから 10件ほどあり、避難を希

望している妊産婦や乳幼児家族の状況を把握す

る機会もあった。

(A) 避難所などにおけるニーズ

インタビューした 4月の時期は、一次避難所

が閉鎖され、栃木県・福島県が二次避難所に誘

導している時期であった。そのため、一次避難

所が閉鎖された後の生活の不安が多かった。以

下、具体的な項目別に、衣食住、社会サービス、

経済(就職、義捐金、賠償・補償)、情報に関

するさまざまなニーズを見る。

まず、インタビューの中では、栃木県内の避

難所における住環境、食事、物資に関しては、

とりたてた不満は少かった。ただし、公営住宅

などへ入る場合、特別に案内された妊産婦用住

宅にて家財道具などの支援がなく、家財道具を

一から揃える必要があり苦労した妊産婦もい

た。

社会サービスについては、乳幼児家族は、

とくに子どもの保育園や幼稚園などの教育や

3 栃木県4月13日発表。4 筆者の問い合わせに対する栃木県・福島県4月1日~4日調べ。

5 栃木県4月14日発表。6 訪問インタビューは、筆者に加えて、学生ボランティア(小林ひとみ、秋元明日香、須田千温)、福島乳幼児ニーズ対応プロジェクト関係者(津田勝憲、舩田クラーセンさやか、吉村健吾)が行った。

Page 43: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

43

多文化公共圏センター年報 第4号

保育の関心が高かった。一次避難所にいた際

には、託児ボランティアなどのサービスもあっ

たが、誘導先の二次避難所などに関する情報が

全くなく、先行きが不安な母親も少なくなかっ

た。その他、子どもや本人の心のケアが必要な

状況もあったが、公的な相談先など存在するか

どうかわからないケースが多く、情報が充分で

なかったようにも見受けられた。他方、避難所

における医療ケアについては、検診や予防接種

も受けられた、といった声もあり、行政による

役割が果たされていた印象を受けた。

避難所における衣食住や社会サービスと比較

し、生活基盤や補償などに関する情報提供につ

いては不満が多かった。栃木市など一部の自治

体では就職情報を避難所で積極的に情報提供し

ていたが、多くの避難所では、避難者の積極的

な要求がない限り、就職に関する仕事は提供し

ていなかった 7。この点について、栃木県は「避

難所」という性質上、仕事を積極的に斡旋して

いない、と説明しており、ハローワークも自治

体や避難所の要請がない限り情報提供はできな

い、という立場をとっていた。

義捐金、賠償や補償に関する情報もこの時期

までほとんど入ってきておらず、その対象にあ

る家族ですら、先行きに不安があった。

このような物的なニーズの他、家族や友人と

さまざまな形でバラバラになってしまっている

弊害も見られた。両親を残して避難せざるをえ

なかったケース、両親や姉妹も避難したが異な

る場所に避難したケース、夫を福島に残して母

子で避難したケースなどさまざまであった。

また、友人とも、地震直後は頻繁に連絡をとり

あっていたが、携帯電話の費用がかさみ、冷静

になってきた経緯の中で、お互い連絡が途絶え

てしまった、というケースもあった。いずれに

せよ、原発震災は、人びとを地域から引き離し

ただけでなく、家族や友人間の分裂を招いた。

(B) 地域による多様なニーズ

福島第一原発から 20キロ圏内は、3月 12日

に政府から「避難」指示がでたが、20~ 30キ

ロ圏内は、3月 15日に「屋内退避」指示、25

日に「自主避難」区域と政府によって指定さ

れた状況であった。その後、2011年 4月 22日

に、20キロ圏内が「警戒」区域と指定され、

飯館村の全域、浪江町・葛尾村・南相馬市・川

俣町の一部が「計画的避難」区域に指定され、

20~ 30キロ圏内では広野町の全域、楢葉町・

川内村、南相馬市・田村市の一部が「緊急時避

難準備」区域に指定された。それ以外の地域に

ついては、避難指示は出ていない状況であった。

避難所内では、避難指示によって状況の差が

あるため、「状況については避難所内であまり

話さない」と言っていた 30キロ圏外の母子避

難者もいた。他方、義捐金がもらえる避難区域

の避難者の中には、被害が大きいにもかかわら

ず、義捐金がもらえることをねたむ発言をする

人が周囲にいることをもらしていた人もいた。

① 原発から20キロ圏内

原発から 20キロ圏内の地域において、原発

事故から全生活・全財産に匹敵する多大の被害

を受けており、帰宅の目処は立っていない。

賠償・補償・義援金などの権利が他の地域より

も補償されていると考えられるが、いまだ支払

われていない状況では、それらに関する情報が

重要である。また地震や津波などの人的被害も

多かったため、安否情報も重要である。そのた

め、福島県を離れているものの、県と自治体の

情報が重要視されていた。

② 原発から20~30キロ圏内

原発周辺の 20~ 30キロ圏内の住民は、3月

15日に「屋内退避」指示に続き、3月 25日~

7 また、特殊なケースとして、自ら積極的にハローワークで求職をし、仕事を得た男性は、移転費が、福島県内の家からではなく、栃木県内の避難所からしか出ないという制度に遭遇した。

Page 44: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

44

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

4月 22日の間「自主避難」区域というあいま

いな位置づけがなされた経緯があり、原発事故

後、苦労してきた地域である。南相馬市の避難

準備区域からのインタビュー対象者は、充分に

補償されるのかどうか確約が持てないと訴えて

いた。それでも、20キロ圏内の人びとと同様、

福島の行政からの情報を必要としていた。

また、栃木県の二次避難所に誘導されている

が、それは 7月下旬までであり、その後の希望

は聞かれるものの福島県内に建設されている仮

設住宅へ誘導されることが危惧されていた。南

相馬市の仮設住宅は、原発から 30キロ近くに

建設されていた。インタビュー対象者は、放射

能の影響を考えると仮設住宅には子供とはとて

も帰れず、それ以外の選択肢は用意されていな

い現状において将来の行き先について不安を抱

えていた。

③ 原発から30キロ圏外

原発から 30キロ圏外の指定区域圏外の乳幼

児世帯や妊産婦は、放射性物質による子供や胎

児への影響に強い不安を持っているものの、公

的な支援が受けられないため、やむなく自宅へ

の帰宅を決めざるをえなかった母子もいた。子

供たちが避難所近辺の学校に入学したため、な

るべく移動は避けたいが、補償なども無く、中

長期的な避難生活を支えるための資金・住居・

家財道具・仕事などが見込めない状態であった。

現地の首長は「安全」を宣言するなどして、

多くの福島県内の学校も平常通り始まり、大半

の世帯が帰郷している中で、あえて避難生活を

継続することは、必ずしも家族・親族や地域コ

ミュニティの理解、自治体・福島県・栃木県な

どの行政的サポートを得られていないため、大

変な挑戦となる。実際、夫を残して母子で避難

してきたインタビュー対象者の 2世帯は、避難

所の閉鎖の機に、帰宅せざるをえないと判断を

していた。

4~ 7月頃に、メールや電話による福島県か

らの避難に関する相談もあり、ほとんどが福島

市 ・ 郡山市・白河市など原発から 30キロ圏外

のからの相談であった。公的な支援が限られて

いる中、私的に住宅物件を無償提供している情

報や、限られた被災者公営住宅の情報を提供す

ることにより、栃木県に 2件、宮城県に 1件、

避難を実現した事例もある。しかし、不安に関

わらず、公的支援、家族・コミュニティの理解

がないなか、実現しなかった例も多い。

(C) 家族形態による多様なニーズ

家族形態はさまざまであったが、20キロ圏

内の場合、家族全員での避難を余儀なくされた

ことにも起因し、ニーズの違いは特に 20、30

キロ圏外の避難者の間で顕著であった。同じ

30キロ圏外でも、福島に夫を残して母子で避

難してきた家庭、夫婦子供世帯で避難してきた

家庭、シングル・マザーが母子で避難してきた

等、その家族構成で、状況は異なってくる。

上記の通り、夫を残して母子で避難してきた

世帯は子供の健康への影響を考えて避難してき

たにもかかわらず、福島にいる夫や親戚は必ず

しも同様の価値観をもっておらず、家族内での

意見の不一致があった。避難が長期化し、一人

で子供の世話をする苦労や孤独感とともに、夫

や親戚が帰郷を強く促すという重圧も見受けら

れた。

他方、夫婦世帯は、もともと妻の両親と仕事

を一緒にしていたが、両親が避難をすすめ、核

家族で避難していた。家のローンもなくアパー

トであったため、避難後福島県以外での生活再

建を決めており、既に仕事もアパートも決定し

ていた。

シングル・マザーの場合、生活の糧が必要な

上、保育園や託児所といったサービスがない限

り、就職どころか求職も困難な状況であった。

このような観点からみると、世帯構成によっ

てもニーズが異なる。シングル・マザーのよう

Page 45: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

45

多文化公共圏センター年報 第4号

に育児と仕事の両方に責任を持っている母親へ

は、託児や求職など双方においてサポートが必

要である。他方、母子で避難してきた乳幼児家

族や妊産婦への心理的サポート、夫婦世帯への

サポートなど、異なるニーズに対しても敏感で

ある必要がある。

(D) 妊産婦

避難所における本インタビューの相談の話

を聞いて、すでに県営住宅や市営住宅に避難

している 2名の妊産婦が応じてくれた。この点

は、特別な施設を用意されている妊産婦にとっ

て、外部者と話をする機会も有益だった可能性

もある。

うち一人は、夫が福島で仕事の整理を行って

いるため、単身の生活で孤独感がある。そのう

え、県営住宅に居られる期限が出産前までであ

り、出産までの不安がある。もう一人は、出産

後の居住地域について福島に帰りたい夫や夫の

両親の意向があり、意見が一致していなかった。

(E) 避難所閉鎖後

栃木県では、4月に多くの避難所の閉鎖に伴

い、5月~ 6月の間、主として那須や日光など

県北にある旅館を二次避難所に指定し、二次

避難所や雇用促進住宅などに避難者を誘導し

た。このとき、すでに栃木に避難していた人に

関しては、避難指示に関わらず受け入れる方針

を栃木県はとっていたが、茨城県や福島県から

新たに避難を希望していた避難者は受け入れて

いなかった。例えば、茨城の避難所から栃木へ

の避難所へ移りたい希望者がいたが、栃木県は

受け入れを拒否していた。また、放射能汚染の

不安のため乳児をかかえてすでに栃木県に自主

避難をしていた母親が、福島県の担当者に、福

島に帰っても大丈夫なのではないですか、とい

うような発言をされた、という証言もあった。

インタビューした 13世帯のうち、避難所

閉鎖を受け、5月以降栃木県などの公営住宅

に移った・いたのは 6世帯(20キロ圏内 3世

帯、20~ 30キロ圏内 3世帯)、栃木県北の二

次避難所に指定された旅館に移ったのは 3世帯

(全員 20~ 30キロ圏内)であり、全員、何ら

かの避難指示が出ていた地域の世帯であった。

他方、避難指示が出ていなかった地域から、夫

を福島に残して避難してきた母子 2世帯は福島

県にもどり、核家族で避難してきた家族 1世帯

は栃木県内で仕事を見つけアパートに移り、母

子家族は一旦、栃木県北の二次避難所に入った

が、その後、親戚を頼り中部に避難した。

(2) 避難の長期化(2011年6月頃~)

2011年 6月 30には、年間積算量が 20mシー

ベルトである地域が「特定避難勧奨地点」とし

て指定されたが、その後、9月 30日には、20

~ 30キロ圏の「緊急時避難準備」区域が解除

され、とくに 20~ 30キロ圏内から避難してき

ている世帯に動揺があった。2011年 12月 6日

には、福島市・郡山市などを含む福島 23市町

村を対象とした賠償が、子ども(18歳以下)、

並びに妊婦に 40万円、それ以外には 8万円支

払われることが決定した。

本プロジェクトでは、避難所で聞き取った

対象者に、必要に応じて情報(場合によって

FnnnPを通じて市民や企業提供の物資)提供す

るととともに、対象者が迷惑にならない状況の

場合、随時、筆者・コーディネーター・他教員・

学生ボランティアなどが声かけなどのコンタク

トをとり続け、状況確認を行った。それととも

に、学生ボランティア団体 FnnnP Jr.が中心と

なり、乳幼児家族や妊産婦を対象とする交流会

を 3回(6月に「ママ茶会」:参加者 5世帯 11

人、9月に「ちびっこキャンプ」:参加対象者

3世帯 13人、12月に「クリスマスママ茶会」:

参加者 3世帯 10人、2012年 3月に「ママ・パ

パ茶会」:参加者 5世帯 15人)を主催し、相談

Page 46: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

46

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

窓口や語り合う場などを通して、対象者の状況

やニーズの把握を行った。また、7月から、福

島県内の連携団体であるうつくしま NPOネッ

トワークと FnnnPと共同で、福島県内の未就

学児家族へのアンケート調査に着手し、9月~

10月には 238世帯に対してアンケートを行っ

た 8。2011年 1月 22日には、とちぎ暮らし応

援会主催のとちぎ避難者集会では、相談窓口を

担当し、3世帯の相談を受け、5名のアンケー

ト協力を得た 9。追加的なメール・電話などの

相談を加えると、本プロジェクトでは主として

栃木県で延べ 53世帯、累計 48世帯(無記名の

アンケートを含めると 47名)コンタクトがあ

り、福島県内の 238世帯からアンケートを通し

て状況を把握した。

7月に入り、栃木県で民間住宅借り上げが、

以下の条件で開始した。

・条件:住宅の全壊等により居住する住宅が

ない世帯、又は、原発事故による避難指示

等により長期の避難が必要な世帯、自らの

資力では賃貸借契約の継続が困難である世

・罹災届、被災届必要

開始初期は、罹災届や被災届を必須とし、

6月に栃木県内数箇所で開催した説明会でも

栃木県の担当者は「ただ単に放射能が怖い、

という理由での避難者はダメ」と説明してい

た。その後、本プロジェクトでも、「自主避難

者」への対応について報告会などでも問題提起

し 10、栃木テレビ 11などの地元のマスコミにも

その趣旨は報道された。その後、8月になり、

栃木県は方向転換をし、「自主避難者」も民間

住宅借り上げの対象とし、実際、自主避難者

もその恩恵を受けることができた。しかし、

早々に 9月末に民間住宅借り上げを締め切り、

情報が周知されていなかったためその対象に

申請する機会を得られなかった自主避難者や、

不動産のトラブルなどによって 2ヶ月間支給さ

れなかったといった不遇も発覚している。こう

いったトラブルは複数あっため、2012年 1月

から栃木県は、本県にすでに避難してきてい

た避難者については対応をはじめ、不動産の

トラブルについても個別対応もはじめた 12。し

かし福島県内の未就学児を持つ家族の中には、

不安を抱えているにも関わらずなんらかの事情

で避難できていない家族も多数存在する 13。本

プロジェクトにも 2012年になってからも福島

県からの新規避難相談がある。しかし、栃木県

は、新規の避難希望者を民間住宅借り上げの対

象者としておらず、受け入れの対応ができてい

ない現実がある 14。

8 結果については、宇都宮大学国際学部附属多文化公共圏センター(CMPS)福島乳幼児妊産婦支援プロジェクト(FSP)・うつくしまNPOネットワーク(UNN)・福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)(2012年2月20日)「福島県内の未就学児を持つ家族を対象とする原発事故における『避難』に関する合同アンケート調査」(http://cmps.utsunomiya-u.ac.jp/

news/120220fsp.html) 、ならびに年報掲載の要約も参照。9 相談窓口では、清水奈名子、田口卓臣、小林ひとみ(看護士)、加瀬智恵子(栄養士)、阪本が担当し、須田千温、田中えりも協力した。

10 阪本公美子(2011年7月13日)「栃木における福島から乳幼児・妊産婦さんのニーズと取り巻く環境」福島乳幼児妊産婦支援プロジェクト報告会。

11 とちぎテレビ(2011年7月)ニュースにて放映。12 筆者の問い合わせに対して栃木県担当者(2012年1月22日)並びに対象者の連絡による。

13 宇都宮大学国際学部附属多文化公共圏センター(CMPS)福島乳幼児妊産婦支援プロジェクト(FSP)・うつくしまNPOネットワーク(UNN)・福島乳幼児妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)(2012年2月20日)「福島県内の未就学児を持つ家族を対象とする原発事故における『避難』に関する合同アンケート調査」によると、2011年9月~10月の時点、238

人中218人の親が放射能汚染で子育てに関して不安を持っており、そのうち49人が「今いるところより放射線の少ないところに避難したい」、76人が「避難を考えているが、周囲の様々な事情がある」(複数回答)。「今いるところより放射線の少ないところに避難したい」「避難を考えているが、周囲の様々な事情がある」のは、98人(重複回答27人除く)である。年報掲載の要約も参照。

14 雇用促進住宅での対応に限られている。

Page 47: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

47

多文化公共圏センター年報 第4号

10月には、新規にとちぎ暮らし応援会が立

ち上がり、行政・民間が一丸となった避難者の

支援には着手しつつある。2012年 1月 22日に、

とちぎ暮らし応援会主催によるとちぎ暮らし交

流会が主催され、FSPも相談窓口をたてた。相

談内容は、医療情報(夜間対応や医療機関の口

コミ情報)や、子どもと遊ばせる場所などの情

報が糸口となっていたが、福島県から避難して

いることを隠したいため、地域で孤立化する危

険性のある母親もいた。この点は、とちぎ暮ら

し応援会(2012年)が栃木県内で避難中の 860

世帯に配布し、151件から回答を得たアンケー

ト調査でも、63%が「住んでいる地域・自治会

の人と交流がない」、37%が「身近に相談でき

る人がいない」という回答をしていることと共

通している 15。避難者が孤立しないよう、避難

者相互並びに地元でのネットワーク化などの対

応が必要な状況である。

また、4月~ 5月の避難所でのインタビュー、

6月でのママ茶会での相談などと比較し、9月

のちびっこキャンプや 12月のクリスマスママ

茶会、継続的なコンタクト、福島県内でのアン

ケートを見ると、緊急を要する物資や情報提供

という段階から変化し、より長期的な問題への

変化もある。

まず、避難指示に関わらず、もとの生活にも

どれる目処がない。避難指示のある地域では故

郷にもどる目処がない。他方、避難指示が解除

された地域においては、除染が不充分ななか帰

郷が奨励され、避難者への支援がなくなること

が不安要素となっている。また、賠償をもらっ

ても、これまでの生業をそのまま再開すること

は容易ではない。さらに「自主避難」への支援・

賠償も不充分・不安定であることは言うまでも

ない。

「家族とも友達ともバラバラ」という点につ

いては、さまざまな立場の避難者が訴えてい

る。特に、夫が福島で仕事、母子が避難という

二重生活を強いられている家族は、避難が長期

化するなか経済的負担、精神的ストレスに加

え、夫婦関係・家族崩壊の危機を感じている家

族もいる。栃木県と福島県との二重生活で、政

府・行政が「安全」を強調し、福島県で放射能

の危険性について話すことがタブーになってい

るストレスもある。生活基盤については、母親

が求職したいにもかかわらず、保育へのアクセ

スが容易でない場合が複数ある。他方、避難時

期についても確定できず、求職に踏み切れない

場合もある。新しい環境における生活情報(医

療・子どもの遊び場)にも充分アクセスできて

いないこともあり、さらに一部、避難先(学校、

職場、ネット上)で嫌がらせも報告されている。

立場はさまざまであるが、原発事故に関する

収束宣言を首相がする中(2011年 12月 16日)、

これまでの生活や人間関係の喪失感や、生活基

盤の不安定化に加えて、国・行政の政策に対す

る深い怒りやあきらめが感じられる。プロジェ

クトとして、これらの状況やニーズに対応でき

る短期的な選択肢を可能な限り提供していくと

ともに、研究者としても社会のあり方を問い直

していく必要性を実感する。

2.ローカル、サブ・ナショナル、ナショナ

ル、グローバルな視点から見た原発問題

本節では、原発問題をローカル、サブ・ナショ

ナル、ナショナル、グローバルといった異なる

レベルでみてゆく。その中で、重層的・構造的

な問題の一端を明らかにする。

(1) ローカル:家族・親族の分裂

これまでプロジェクトで接してきた対象者の

状況をみても、マスコミ報道や先行研究(例え

ば除元 2011、高橋 2012)をみても、原発によ

15 東京新聞(2012年1月31日)「地域の人との交流は―非難世帯の6割が『ない』」、栃木版、p.22。とちぎ暮らし応援会10月~12月調査による。

Page 48: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

48

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

る放射能汚染と国による「安全」基準は、家族・

親族内、コミュニティ内、世代・性別といった

違いによっても「避難」や生き方をめぐる分裂

を促した。放射能汚染の影響に対して、妊産婦・

乳幼児・子ども・若年層はより脆弱であること

は先行研究で明らかである(田口・阪本・高橋

2011)が、国の基準は必ずしもそういった脆弱

性を充分に考慮してこなかったことに大きな要

因がある。さらに、インターネットなどのアク

セスの有無による情報格差によって、状況判断

の前提条件の差異も生み出してきた。

こういった分裂は、実際の避難による地理的

な分裂もあれば、意識の違いによる分裂もある。

前者については、夫を残しての母子避難、

祖父母を残しての核家族の避難などによって地

理的な住居の分裂を促し、それが長期化してい

る。避難する理由は子どもの健康であり、残る

最大の原因は、仕事などの生活の糧である。警

戒区域以外の地域は、経済活動を概ね平常どお

り行なうことを前提としている国や県の判断が

あり、代わりとなる生活基盤や賠償も到底不充

分なため、容易に仕事をやめられない人びとが

多数いる。

他方、放射能汚染に関する認識の違いによる

意識の分裂もあり、夫婦間で安全性について意

識の不一致が生じ、原発離婚にも達している例

もあると言われている。また、妻が放射能汚染

を不安に思っているにもかかわらず、夫や義父

母などに福島県内につれもどされた例もみてき

た。さらに、コミュニティ内で放射能汚染やそ

の危険性について話すことがタブー化されるよ

うな雰囲気も醸成されている。

(2) サブ・ナショナル:地域の分裂

原発の存在によって、サブ・ナショナルな既

存の構造の上に、事故によって新たに対立構造

も生み出されてしまった。

すでに原発を立地することによって補助金を

受ける「周辺」と、受けない「周辺」の関係が

あった。福島県内は大まか分けて見た場合、原

発にもっとも近く、今回その住民の多くが避難

した浜通り、高濃度の放射能汚染を受けたにも

かかわらず避難指示が出なかった福島市、二本

松市、郡山市などの中通り、そして避難者を多

く受け入れた会津である。さらに、浜通りの中

でも、原発が立地している地方自治体、それら

に隣接している地方自治体、県の財政と、全く

恩恵を受けていなかった地方自治体との差もあ

る。経済的・財政的に貧困地域とみなされてい

た会津地域では、観光において「風評被害」を

受けながら、これまで潤っていた浜通りから避

難者を多数受けいれることによって、避難者と

住民の間の軋轢も報告されている。また、中通

りも多くの避難者を受け入れながら、従来の住

民は放射能汚染に不安を抱いた場合も、充分な

支援をうけることができず、避難できた場合も

「自主避難者」として避難先では位置づけら

れ、出身地域では「逃げた」と非難されること

すらある。

このような従来の構造の上に、「警戒」区域、

「屋内待機」・「自主避難」・「緊急避難準備」区

域、「計画的避難」区域、「特定避難勧奨」地点、

などの避難指示によって明暗をわける線引きが

なされるようになった。行政として対象者を明

らかにする必要性はあるが、乳幼児や妊産婦の

健康リスクに対する不安を過小評価した線引き

であり、指示が出ていない地域の対象者には「安

全」神話の押し付け、地域内の分断を生み、地

域間でもわだかまりも生んできた。

半年近く後に、福島県の「自主避難者」

は複数の県で住居が提供されられるようにな

り、一部地域ではようやく妊産婦と子どもに

40万円の賠償が決定されたが、避難をするに

あたって、到底、充分な額とは言いがたい。

さらに、茨城、栃木、群馬、千葉などにおい

て放射能汚染に対する不安があった場合も、

Page 49: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

49

多文化公共圏センター年報 第4号

避難に対する公的支援はほとんど皆無である。

また、食べ物の検査体制、健康調査、除染など

の対策も遅れているのが実情である。

(3) ナショナル:国としての問題

国の政策は、ローカル、サブ・ナショナルな

分裂を生んできた。ローカルレベルにおける家

族などの分裂は、原発事故後の政府の「安全」

宣言が起因となっている。またサブ・ナショナ

ルな分裂は、これまで政府が構築してきた「中

心」と「周辺」の従属関係に主たる原因がある。

原発事故後の対応をみると、国が、人びとの

健康や生活よりも経済成長を優先している構図

が露呈した。国は、「安全」基準で線引きをす

ることによって、避難すべき人びとを最小限に

とどめ、避難する必要がない人びとを仕分け

し、地域や家族を分断した。さらに、健康リス

クは、必ずしもエネルギーを集中的に消費して

いる「中心」である首都圏ではなく、「周辺」

に押し付けられている。

エネルギー消費者としても、地方を「周

辺」化した自らの生活やエネルギー政策ではな

く、電気不足を憂い、「フクシマ」の問題を他

人事のように扱う「中心」のあり方にも問題が

ある。

(4) グローバル:世界の問題

さらに原発は、原料調達や廃棄の過程にも問

題があり、それを海外に輸出するというグロー

バルな側面もある。

日本は、オーストラリア、カナダだけでな

く、ナミビアやニジェールなどのアフリカ諸国

からもウランを調達してきた 16。オーストラリ

アでも、先住民の被ばくが環境団体に問題とし

て取り上げられているが、ニジェールにおいて

も植民地時代から労働者の被ばく対策が不充分

な中、ウランが採掘されてきた。そのような

中、新たにタンザニア国も、住民や環境団体の

反対を無視する中、ウラン開発に着手しつつ

あり 17、日本もタンザニアでの開発にかかわり

はじめている 18。このような状況にもかかわら

ず、多くの日本国民は、自らが使用する電気を

原発によって発電するまでのプロセスとして

のウラン発掘現場における被ばくについては、

無関心である。

また、原発使用後に排出される核廃棄物に関

しても未解決な問題が多い。現在、国内で計画

されている処理方法には問題があり、われわれ

が使用する電気の結果、排出される核廃棄物の

一部は、アメリカなどに処理を依頼し、劣化ウ

ラン弾という兵器に活用され、イラクなどでの

健康被害を生み出しているという報告もある 19。

さらに、ベトナムやヨルダンなどへの原発輸

出の話しがすすめられている 20。国内で、福島

県からだけでも避難民を 6万人以上排出するよ

うな原発事故を起こし、乳幼児や妊産婦に健康

リスクを与え、人びとには生活の喪失をさせな

がら、真摯に対応をできず、放射性廃棄物や核

廃棄物の処理方法についても解決策がない最中

にである。

以上のように、原発震災、そして原発の存在

そのものが、ローカル、サブ・ナショナル、ナ

ショナル、グローバルといった重層的かつ構造

16 経済産業省 自然エネルギー庁「ウラン資源確保戦略」http://www.enecho.meti.go.jp/policy/nuclear/ppt� les/0602-4.pdf

(2012年1月21日閲覧)、Ecoは本当にエコなのか「ウラン資源」http://eco.mu-sashi.com/uranshigen.htm(2012年1月21

日閲覧)。17 鶴田格・藤岡悠一郎・坂井真紀子(投稿中)18 WISE Uranium Project “New Uranium Mining Projects –

Tanzania”, http:/www.wise-uranium.org.uptz.html (2011年12月20日閲覧).

19 鎌仲ひとみ(2006)『ヒバクシャ』(映画)。20 伊藤正子(2011年10月7日)「ベトナム原発輸出:国情や安全を考え見直しを」朝日新聞。東京新聞(2011年11月23

日)「「原発輸出」現地ベトナムでは」「日本官民で海外に活路」。東京新聞(2011年12月1日)「安全相手国まかせ」、24頁。

Page 50: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

50

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

的な問題を抱えている。こういった重層的な構

造を、「在る者(たち)の利益が、他のもの(たち)

の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)

を犠牲にして生み出され維持される」「犠牲の

システム」(高橋 2011, p.27)とみる視点もある。

そしてその「犠牲のシステム」の構造の中で、

放射能汚染により脆弱な乳幼児や妊産婦、そし

て国内外の周辺地域が周縁化され、犠牲になっ

ている。

3.近代日本社会とアフリカ・モラル・エコノ

ミー

筆者は、アフリカ研究者として、サブ・サハ

ラ・アフリカ(以下アフリカ)の「停滞」の裏

には、以下の3つの特徴があると考え、アフリ

カ ・ モラル・エコノミーに基づく内発的発展の

可能性についてこれまで議論してきた。本論で

は、福島の乳幼児・妊産婦の等身大の理解、ロー

カル、サブ・ナショナル、ナショナル、グロー

バルな重層的・構造的な問題を検討したが、今

後は、アフリカにおける生活のあり方も参照し

ながら、近代日本社会のあり方も改めて問い直

す作業をしたいと考えている。ここでは、アフ

リカ・モラル・エコノミーに基づく内発的発展

の基本的な特徴を述べ、それとの比較で近代日

本社会の問題性を問い直していく場合の主な論

点を課題提起的に述べておきたい。

(1) アフリカの「停滞」の裏からローカルな視

点で問い直す開発のあり方

アフリカ・モラル・エコノミーの特徴として

は、以下の 3つ特徴が挙げられる 21。

第一に、自給的生活圏によって、国家に「捉

われず (uncaptured)」「退出 (exit)」が可能 (Hyden

1980)である状況である。多くのアフリカの農

村においては、自給的な食糧生産を行ってきた

ため、必ずしも国家に重度に依存することなく

生活が可能であった。そのため、必ずしも国家

に「捉われず」、国家の政策から「退出」が可

能であったという。

第二に、必ずしも財の蓄積を最優先しないこ

とである。このことは、生態人類学研究で議論

されてきた狩猟採集民の平等主義や分配の重視 22

や焼畑農耕民の生産における「最小努力・平均

化」23や共食による平準化 24にもその根拠は見

出される。人びとは、財を蓄積することによっ

て安心をするのではなくむしろ畏れを感じ、財

を分配したり、共同体として消費したりするこ

とによって、人間関係へ蓄積するのである。

この人間関係への蓄積が第三の特徴であ

る。生産物などを蓄積せず、協働労働や祭りな

ど、ともに時間を共有する時間を通して、人間

関係へ蓄積する。そのことによって、社会関係

が構築され、相互扶助も機能するのである。多

くのアフリカ農村において他者を助けることは

当然のモラルとみなされており、人間関係の紐

帯となっている。

これらの特徴が、内発的発展につながる可能

性があることを議論してきた。

(2) 近代日本社会の問題性

上記の3つのアフリカ・モラル ・ エコノミー

の特徴と比較し、近代日本社会はどうだろうか。

これまで筆者は、一般的に、「停滞」してい

るとみなされているアフリカ社会と比較し、経

済成長を最重要視する日本の開発・発展のあり

方には根源的な問題があると感じていた。さら

に、震災・原発事故に直面し、近代日本社会の

問題性は、とくにアフリカ・モラル・エコノミー

の特徴と比較することで、より明白になると思

われる。

21 阪本 2007。

22 市川1991。23 掛合1991、1993。24 杉村2004。

Page 51: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

51

多文化公共圏センター年報 第4号

第一に、近代日本社会は、国家に「捉われ

(capture)」れた社会であるという点である。

震災に直面し、日本社会は、重度に国家に依

存している暮らしであることが明らかになっ

た。問題となった水や電気などのライフ・ライ

ンを見ても、公的な「ライン」によって支給さ

れなければ「命(ライフ)」が成り立たない 25。

さらに、農漁村社会における限られた自給的

生活圏も、放射能汚染により奪われた。しか

も、奪った国家は、一定基準以上の被害の極一

部に関しては賠償などを行うことを言及してい

るが、大多数については手付かずである。多く

の農産物に関しては「風評被害」として汚染そ

のものは無視し、購入する消費者には健康リス

ク、購入しない消費者にはその行動に対して筋

違いな倫理的責任を押し付けている。

第二に、人間の健康よりも経済成長偏重のエ

ネルギー消費が顕著である。人間、それも将来

の世代の健康を害するエネルギー政策に基づ

き、経済成長が優先されている。このことは、

原発事故後の人間の安全保障よりも、復興を重

視した政策にも共通している。

第三に、人間関係の分断である。日本の地域

社会における人間関係の希薄化もこれまで問題

として存在してきたが、国の基準によってロー

カルな人間関係が意識・実態の上でも分断され

るだけでなく、将来の世代の健康のリスクを負

わせながら地域に縛る例も見られている。国家

に縛られることによって、人が生きるためのモ

ラルではなく、国家存続のためのモラルを人が

犠牲となり守らされている現状である。但し、

このような地域限定的なローカルな人間関係を

埋めるような形で、市民による支援や連帯、避

難先でのネットワークの構築など横の繋がりに

よる新しい人間関係の構築も見られる。

むすびに

本論では、福島乳幼児・妊産婦支援プロジェ

クト、ならびに福島乳幼児・妊産婦ニーズ対応

プロジェクトの一環として接してきた乳幼児家

族や妊産婦のニーズや状況を概観し、放射能

汚染に対する不安とともに、喪失した生活基

盤や人間関係を垣間見た。このようなローカ

ルなレベルでの子育て世代の不安や喪失感は、

政府の「安全」宣言や「収束」宣言に支えられた

行政の立場と大きく乖離しており、政府や行政

によるリスクの過小言説によって家族やコミュ

ニティ内の亀裂もつくられている。さらに、

このような分断は、原発の立地の時点から、原

発をめぐる補助金の差をつけることによって、

地方へ健康リスクを押し付け、原料や廃棄の過

程のリスクは主として海外に押し付けてきた。

このように健康リスク、そして避難者を生み出

し、従属構造を形成する問題が解決していない

原発を、さらに、ベトナムやヨルダンなどへ輸

出する話しがすすめられている。またアフリカ

農村社会と参照しても近代日本社会のあり様の

問題もあると考えられる。

このような社会、そして開発のあり方が、重

層的な従属構造を是とする「犠牲のシステム」

を構築し、放射能の影響をもっとも受けやすい

乳幼児家族や妊産婦の苦悩を生み出す結果を生

んだのである。

宇都宮大学国際学部附属多文化公共圏セン

ターは、国内の国際問題ともいえる外国人児童

生徒を対象とする HANDSプロジェクトなど、

脆弱な社会層を内包する公共圏を目指してき

た。では、原発震災という世界的にも大きな危

機を転換期と捉え、本論で議論した論点から、

国際学と公共圏に関してどのような言及ができ

るだろうか。

まず、国際学についてである。本論文でみて

きたように、もっとも脆弱な「周辺」化された

25 電気の有無によって「ライフ(命)」が維持されるという発想に対する疑問もある(ベトナムについては吉井2012も参照)。

Page 52: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

52

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

人びとの現実から、地域、そして国際的な構造

が見出される。そして、アフリカといった一見

「後れた」社会と参照することによって、む

しろ近代化がすすんできたことに対する警鐘

が、放射能汚染に脆弱な乳幼児や妊産婦の状況

と呼応する。公共圏は、このような脆弱な層や

「周辺」から真実を見出し、創造してゆく必要

がある。

謝辞

本稿は、FSPならびに FnnnP活動の過程で接

してきた乳幼児ご家族や妊産婦さんから学んだ

ことに基づく。彼女ら・彼らの声や状況を社会

に発信し、少しでも権利や生活を回復できる社

会形成を望む。

これまで、本論の一部を国際開発学会全国大

会(阪本 2011年 11月 26日)、同学会研究部会(阪

本 2011年 12月 23日)、アフリカ・モラル・エ

コノミー研究会(Sakamoto2011年 12月 23日)

にて発表してきた。

本稿を完成するにあたり、2011年 2月 1日

論文発表会において、田巻松雄教員、柄木田康

之教員、中村祐司教員、重田康博教員から貴重

なアドバイスやコメントを頂いた。それらを参

照し改定した2つの論稿について、FnnnP Jr.の

代表としてともに活動してきた須田千温に読み

比べを求め、コメントを得た。さらに最終稿に

対して、改めて田巻教員から詳細なアドバイス

を得た。上記の多くの方のコメントを得、本論

の改定を試みたが、アドバイスやコメントに対

して充分に咀嚼・反映できていない点について

は、筆者に全面的な責がある。

参考文献

市川光雄(1991)「平等主義の進化史的考察」

田中二郎・掛谷誠編『ヒトの自然誌』平凡

社、11-34頁。

掛谷誠(1991)「平等性と不平等性のはざま」

田中二郎・掛谷誠編『ヒトの自然誌』平凡

社、59-88頁。

掛谷誠(1993)「ミオンボ林の農耕民」赤坂

賢他編『アフリカ研究』世界思想社、18-30

頁。

阪本公美子(2007年)「アフリカ・モラル・エ

コノミーに基づく内発的発展の可能性と課

題」『アフリカ研究』第70号、133-141頁。

阪本公美子(2011年6月20日)「福島乳幼児・妊

産婦支援プロジェクト、福島乳幼児・妊産婦

ニーズ対応プロジェクト、栃木県避難所合同

調査報告(4~5月)」。

阪本公美子(2011年7月13日)「栃木における

福島から乳幼児・妊産婦さんのニーズと取り

巻く環境」福島乳幼児妊産婦支援プロジェク

ト緊急報告会(於、宇都宮大学)。

阪本公美子(2011年7月19日)「東日本大震災

-福島の乳幼児・妊産婦支援」宇都宮陽東

ロータリークラブ例会卓話。

阪本公美子(2011年11月26日)「ポスト開発・

ポストグローバル化時代における国際開発学

を問う―3.11原発震災を受けて、アフリカ研

究者・親として」国際開発学会第22回全国大

会 (於名古屋大学)。

阪本公美子(2011年12月23日)「原発震災の影

響―福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト

(FSP)&ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)にお

ける福島からの若年原発避難者の把握状況

―」国際開発学会「原発震災から再考する開

発・発展のあり方」第1回研究部会 (於東京

外国語大学本郷サテライト)。

杉村和彦(2004)『アフリカ農民の経済』世界思

想社。

田口卓臣・阪本公美子・高橋若菜 (2011年 )

「放射能の人体への影響に関する先行研究

に基づく福島原発事故への対応策の批判的

検証」『宇都宮大学国際学部研究論集』第32

号、27-48頁。

Page 53: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

53

多文化公共圏センター年報 第4号

高橋哲哉(2012年)『犠牲のシステム―福島・

沖縄』集英社。

とちぎ暮らし応援会(2012年1月7日)「東日

本大震災避難者 アンケート調査集計結

果」。

鶴田格・藤岡悠一郎・坂井真紀子(投稿中)

「アフリカにおけるウラン鉱山開発」『アフ

リカ研究』。

真崎克彦(2010年)『支援・発送転換・NGO

―国際協力の「裏舞台」から』新評論。

除本理史(2011年11月1日) 「福島原発事故の

被害構造に関する一考察」OCU-GSB Working

Paper No.201107。

吉井美知子(2012年)「電気が来ることを前

提としない生活―ベトナムでの経験から」

『市民の科学―共生社会の市民科学』2012第

4号、73-74頁。

Hyden, Goran (1980) Beyond Ujamaa in Tanzania,

Berkeley, University of California Press.

SAKAMOTO Kumiko (2011年12月10日)“The

African Moral Economy and Modern Japan” ア

フリカ・モラル・エコノミー研究会 (於京都

大学)。

Page 54: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

54

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

序:本稿の目的

2011年 3月 11日の東日本大震災に伴う福島

第一原発の事故から、すでに 10か月の歳月が

過ぎようとしている。この間、とりわけ福島県

からの避難を決断する住民たちが後を絶たな

い。避難者たちはいつどのようにして県外へ逃

れたのか、そこでどのような生活をし、どのよ

うな思いを抱えているのか。2011年末に発表

された原発事故終息宣言とは裏腹に、世間的な

印象とはかけ離れた過酷な実態は今もなお進行

中である。

本稿は、2011年 6月に発足した福島乳幼児・

妊産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)新潟

チーム(以後、「新潟チーム」と略称)のこれ

までの活動から得られた材料をもとにして、

福島県から新潟県に避難してきた住民たちの動

向をできるかぎり正確に報告することを目的と

する 1。まず、新潟県が多くの避難者を受け入

れるにいたった背景を考察したうえで、新潟県

への避難動向を県発表データに基づいて分析す

る。次に、新潟チームが行なった個別ヒアリン

グや、「ふくしまママ茶会」で寄せられた母親

たちの声、また同ママ茶会の場で実施したアン

ケートの結果を紹介し、さまざまな危機・葛

藤・分断・対立などの諸問題に直面する避難家

族の現状を浮き彫りにする。最後に、これらの

考察を踏まえながら、本稿による避難動向の把

握からどのような問題提起をなしうるのかにつ

いて、若干の素描を試みる。

1.避難と受け入れの動向:新潟県の場合

1.1.新潟県の諸特徴

原発事故以降の福島県から県外への避難者の

総数は、全国の自治体が把握している限りでも

59,993名(避難者登録済み)にのぼる。ところ

で、この福島原発避難者の大きな受け入れ先と

なっているのが、山形県、東京都、そして新潟

県である 2。新潟県が一大受け入れ先となった

背景には、この県が本来的に備えている地理

的・社会的な条件、そして 3.11以降に整備さ

れた受け入れ態勢の充実などの諸要因が控えて

いる。

第一に、新潟県は福島県の西側に隣接する県

であり、県庁所在地の新潟市は、福島第一原発

から見ても、直線距離にしておよそ 200km程

度しか離れていない。それにも関わらず、1,000

~ 2,000m級の山々が連なる越後山脈に遮られ

ているため、距離の割には空間の放射線量がか

髙 橋 若 菜渡 邉 麻 衣田 口 卓 臣

1 FnnnPは、東京外国語大学、宇都宮大学、茨城大学、福島大学、群馬大学の女性研究者が中心となって取り組んでいるプロジェクトで、福島第一原発事故後、放射能汚染による健康被害の不安を抱える乳幼児や妊産婦を含む家族、および現在避難中の乳幼児や妊産婦を含む家族を対象としたサポートおよびニーズ対応を行なっている。このうち、新潟チームは、次の四つの柱に基づいて活動を展開してきた。1.避難者ヒアリングに基づくニーズの把握、2.避難者間のネットワーク形成のサポート、3.避難者のニーズへの対応、4.避難者同士の交流会――その大多数は母子のペアで占められているため、本プロジェクトでは「ふくしまママ茶会」と命名――の開催。

2 東日本大震災復興対策本部によれば、震災で甚大な被害を経験した宮城、岩手、福島の3県を除けば、全国の避難者数(避難者登録を行なっている避難者数)は多い順に、山形県13,711名、東京都9,033名、新潟県7,095名となっている。東日本大震災復興対策本部「全国の避難者の数」平成23年12月21日、[http://www.reconstruction.go.jp/

topics/20111221hinansya.pdf]平成24年1月22日閲覧。

新潟県における福島からの原発事故避難者の現状の分析と問題提起

国際学部准教授

福島乳幼児・妊産婦ニーズ対応プロジェクト新潟拠点事務局

国際学部准教授

Page 55: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

55

多文化公共圏センター年報 第4号

なり低いレベルに留まっている。とりわけ福島

県からの避難者たちにとって、距離の近さ、汚

染の低さという二つの条件は、大きなアドヴァ

ンテージになっていると言える。

第二の要因として、多災害県という新潟県の

特徴を挙げることができる。もともと新潟県

では、中越地震(2004年 10月)、中越沖地震

(2007年 7月)、頻発する水害(三条・新発田・

長岡・南魚沼等)に際し、中越防災安全推進機

構を中心とする様々な中間支援組織が設立され

るなど、災害に備える制度が発展をみた 3。こ

れらの諸組織・制度の存在が、3.11後の迅速な

受け入れ態勢の整備を容易にしたのである。こ

れに加えて、過去の新潟県内の災害時には、隣

接諸県から様々な支援を受けてきたという認識

も広く共有されてきた。新潟県が他県よりも早

い時期に避難者支援に乗りだしたのは、そんな

恩義に報いるという意識が働いていたからであ

ると考えられる。さらに付言すれば、いくつか

の市町村に固有の事情も、県をあげての避難者

支援の促進に相応の寄与を果たしたと言えるだ

ろう。たとえば、柏崎・刈羽原子力発電所を抱

える柏崎市は、東電関係の避難者の受け皿とし

て機能してきたし、また昔から温泉街や有数の

スキー場として訪問客馴れした湯沢町では、

NPO等との連携の下、ホテルを利用した乳幼

児の一時避難プロジェクトがいち早く立ちあげ

られ、顕著な成果を挙げてきた。

第三に注意すべきは、上記とも関連するが、

新潟県に元々存在するソーシャルキャピタルの

質の高さである 4。新潟県は、社会福祉協議会

や自治会・地域協議会のほか、新潟 NPO協会

等の各種市民団体、育ちの森に代表される子育

て支援団体など、官民双方に及ぶ重層的なセー

フティーネットが充実している。これらの豊富

なソーシャルキャピタルゆえに、新潟県は緊急

時に素早く対応できるだけの基礎体力を有して

いたのである。

第四に、福島県と同様、新潟県も東京電力が

保有する原子力発電所の立地県であるという事

実を見逃せない。2007年の中越沖地震の折に

柏崎・刈羽原子力発電所の深刻な危機を経験し

た新潟県民にとって、福島の原発事故は決して

他人事ではない 5。今回の事故以降、原子力事

故時の避難計画、原発の運転期間をめぐる規

定、検査中の原発再稼働等に関する記事が、

県内で購読率トップ(63%)の地方紙『新潟日

報』の一面を何度も賑わしてきた。この他人事

ではないという感覚こそが、官民をあげての避

難当事者に寄り添う姿勢を後押ししたと言えよ

う。また、新潟県の泉田裕彦知事は、原子力発

電所の再開やがれき処理等についても慎重な姿

勢を崩さず、積極的な発言をくりかえしてき

た。同知事のリーダーシップが、避難者支援を

含む放射能対策全般について、県全体の前向き

な取り組みを方向づけているようにも思われ

る。

こうした大小様々な事情が相乗的に重なっ

て、新潟県はこれまで活発な避難者支援を展

開してきた。たとえば、2011 年 7 月に開始

された民間借上げ仮設住宅制度は 6、福島か

3 中越大震災等から得られた教訓を広く伝えようとする調査研究も蓄積が進んでいる。代表的な著作として、長岡市復興対策本部(2005)、松井克浩(2011)等が参考となる。

4 ソーシャルキャピタルの定義については、Putnam(1993)は、「協調行動を促すことで社会の効率性を改善できるような、信頼、規範、ネットワークなどの社会組織」と定義している。このテーマに関する代表的な先行研究として、このほかに、佐藤(2001)、パットナム(2006)、リン(2008)、Grootaert(2011)等がある。ただし後述するように、新潟県内のソーシャルキャピタルが「自主避難者」の受け皿として機能する一方で、国レベルの不作為が原因となって、福島県内のソーシャルキャピタルは「自主避難」の動向を抑制するような機能を持つようになったことには、十分に注意する必要がある。

5 中越沖地震に伴う原発トラブルの経緯等については、新潟日報社特別取材班(2009)が参考となる。原発7基すべてが止まり、放射性物質が漏洩した経緯や、そのような非常事態が引き起こされるに至った背景要因が鋭く描かれている。

Page 56: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

56

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

らの避難者全員に対して門戸を開いている。

罹災届けの有無を問わず、福島県からの避難

者受け入れに踏みきった県は、当初は山形県

(2011年 4月実施)のみであったが、2011年

7月に新潟県がこれに続いたのである。同制度

は、親戚などの身寄りのない原発避難者、な

かでも罹災届を持たない自主避難者にとって、

まさに命綱のような役割を果たしてきた。

新潟県が上記の事情を深く理解しているとい

うことは、いくつかの事例からうかがい知るこ

とができる。たとえば、2011年 12月、福島県

は各県に対して、同制度の新規受付を月末には

停止するよう要請した。このとき、新潟県広域

支援対策課は、「福島県民から年明けや来春以

降に避難したいという声が今なお寄せられ」

ているため、「新規受付を停止した場合、避難

希望者にどう対応するのか」、「きちんとした代

替措置を」示すよう、逆に福島県に照会しなお

している 7。その結果、福島県が制度停止の申

し入れを撤回し、新潟県は受け入れを継続する

にいたっている。またたとえば、2011年 11月

には、新潟市と新潟県の協力に基づいて、新潟

NPO協会が新潟県避難者交流所ふりっぷはう

すを開設したり、新潟県と中越防災安全推進機

構が共催で避難者支援連絡会議を開催したりす

るなど、県を中心とするきめの細かい避難者支

援は現在も継続中である。

1.2.新潟県における避難者受け入れ状況のデー

タ分析

本項では、新潟県における避難者受け入れの

状況、その推移、および避難者たちの内訳につ

いて、新潟県災害対策本部によるデータをもと

に一瞥しておきたい。

図1.避難者受け入れ推移の折れ線グラフに

も示されているように、新潟県は事故当初、全

国で最大の避難者受け入れ県となり、2011年

3月 19日の時点で実に 9,623名の受け入れを達

成していた。その後も県内への避難者総数は

さほど減少することなく、最少の 6,486名を記

録した 9月 2日以降は改めて漸増傾向に転じ、

2012年 1月 20日現在、7,050名の受け入れを

実現している。

なかでも避難者の出身県の変遷には注意を払

う必要があるだろう。というのも、原発事故当

初の新潟県における避難者の出身内訳は、宮

城、岩手、福島など複数の東北各県にまたがっ

ていたのに対し、現在は福島県からの避難者が

全体の 97%にまで達しているからである(後

述)。このデータの変遷は、新潟県の視点から

見た 3.11以降の状況が、いわゆる「大地震・

大津波による被災」から「福島原発事故による

被災」へと明確にシフトしたことを物語ってい

る。

では、問題の福島県からの避難者受け入れ状

況は、どのような変遷をたどってきたのだろう

6 当該制度は、災害救助法第23条1項1号(「収容施設(応急仮設住宅を含む。)の供与」)の弾力運用によるもので、受け入れ都道府県が民間賃貸住宅を借り上げ、避難者に提供するものである。その費用は避難者の出身県と国で折半されるが、最終的にはほとんど国費で負担されることになっている。福島県は、全県が災害救助法の適用範囲に含まれている。新潟県の制度概要については、以下のホームページで公開されている。新潟県広域支援対策課「東日本大震災により避難している方へ、民間住宅を借り上げて提供します」:[http://www.pref.niigata.lg.jp/bosai/kariagejyutaku.

html]2012年1月18日更新、2012年1月22日閲覧。7 『新潟日報』2011年12月4日付、第27面、「福島県 県外避難者家賃立替 月末で受付停止要請―本県 疑問点を照会」

図1.避難者受け入れ推移

出典:新潟県公表データに基づき作成

Page 57: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

57

多文化公共圏センター年報 第4号

か? 図 2.市町別避難者推移を示す表を見る

限り、少なくとも三つの市町に有意な変化を読

み取ることができる。

前項でも述べたように、主に東京電力の関

係者を受け入れてきた柏崎市では、5月 10日

の時点で受け入れがほぼピークに達し(2,178

名)、それ以降は減少傾向にあるものの、それ

でも 1,600名ほどの受け入れ人口を維持しつづ

けている。このことは、東電関係者の柏崎市へ

の避難が 4月中に一定の区切りを迎えていたこ

と、また同社の関係者たちがその後も同市に留

まりつづけていることを裏づけているように思

われる。

一方、新潟市のデータは、事故以来、恒常的

に避難者受け入れが漸増傾向にあることを示し

ている。とりわけ 7月以降に着実な増加が見ら

れ、1月 20日の時点では受け入れ総数 2430名

に達しており、現在は県内最大の受け入れ自治

体となっている。明らかに同月から開始された

民間借上げ仮設住宅制度が、相応の成果を挙げ

たためであろう。

これに対し、湯沢町の受け入れ状況に関して

は、7月以降に激減していることが分かる。湯

沢町は震災直後に「赤ちゃん一時避難プロジェ

クト」を誘致し、避難者の受け入れを積極的に

進めていた。3月 26日の時点で受け入れがピー

クに達し、減少傾向となったが、4月下旬から

増加傾向に転じ、結果として 700名前後を受け

入れている。7月以降の激減の原因は、民間借

上げ仮設住宅制度の開始とともに上記の避難プ

ロジェクトが完了し、避難世帯が一斉に同町か

ら別の地区への住み替えを行なったことにあ

る。

次に新潟県における避難者たちの内訳を、住

所、男女、年齢という三つのポイントに即して

考えてみることにしよう。

前項でも確認したように、新潟県の避難者名

簿調査(図 3.避難者住所構成)によれば、福

島県からの避難者は、避難者全体の 97%とい

う圧倒的多数を占めている。ここで注意を要す

るのは、7月 8日時点では警戒区域 4996名、

警戒区域外 2,044名であったのに対し、12月

16日には警戒区域は 3,780名に減少し、警戒区

域外は 2,910名に増加している点である。つま

り、避難者全体に占める警戒区域外避難者の割

合は、29%(7月)から 43.5%(12月)へと増

加傾向にあるのである。なかでも中通りの 30

万人都市、郡山市や福島市からの避難人口が増

加していることは注目に値する。そこには、こ

の二大都市から新潟まで車を使った場合にかか

る所要時間が、2時間程度に過ぎないという事

情が関係しているように思われる。郷里から遠

く離れることを嫌う避難世帯が、低汚染にして

近距離の新潟というロケーションに魅力を感じ

ているのではないだろうか。

一方、避難者名簿調査の別表(図 4.避難者

男女構成・図 5.避難者年齢構成)から読み取

福島県警戒区域:南相馬市

福島県警戒区域:双葉郡

福島県警戒区域:他市町村

福島県警戒区域外:南相馬市

福島県警戒区域外:いわき市

福島県警戒区域外:福島市

福島県警戒区域外:郡山市

福島県警戒区域外:他市町村

他県(宮城、岩手、栃木、茨城、青森)不明

出典:新潟県公表データに基づき作成

出典:新潟県公表データに基づき作成

図2.市町村別避難者推移

図3.避難者住所構成

Page 58: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

58

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

れるのは、以下に掲げる三つのポイントであろ

う。1.男性よりも女性が多い。2.子供、特

に未就学児の割合が多く、しかもその割合は増

加傾向にある。3. 高齢者の割合は低く、ま

た減少傾向にある。

二つ目、三つ目のポイントに関しては、世代

の分節の仕方が雑駁になっており、分析に際し

て一定の注意を要することは確かである。しか

し、震災前の福島県年齢別人口割合と比べる

と、乳幼児の割合が圧倒的に多く、6-14才(小・

中学生)がこれに続くという傾向が顕著にう

かがえる。一方、15-17才の避難割合が落ち込

んでいることは、大学受験を控えた高校生の転

出の困難さを再確認させてくれる。いずれにし

ろ、これらのデータは、母子世帯の避難が多い

こと、そして父親は職場のある福島県内に留ま

るケースが多いことを裏づけている。こうした

現状は、後述するように新潟チーム独自のアン

ケート調査からも浮き彫りになっており、ジェ

ンダー(男女差)による住空間(福島・新潟)

の棲み分けが避難家族の内部にもたらす様々な

火種の存在を示唆していると言えよう。

2.避難家族の現状~FnnnP新潟チームによる

ヒアリング・ママ茶会アンケートから

前節では、新潟県が福島原発事故避難者の一

大受け入れ先となった要因を整理し、受け入れ

状況のデータ分析を行なった。その結果、依然

として警戒区域外からの「自主避難者」が増加

傾向にあること、また従前の年齢別人口割合と

比べれば、乳幼児の避難割合が圧倒的に高いこ

と、男女比では女性の方が大幅に多いことが明

らかになった。筆者たちはすでに別稿におい

て、放射線に関する先行研究の蓄積を踏まえな

がら、「乳幼児・児童・若年層、妊産婦・胎児、

女性といった社会集団が放射線による影響を受

け易いことは疑問の余地がない」ことを確認し

ているが(田口・阪本・高橋、2011、41頁)、

福島からの避難当事者たちがまさにこうした

社会集団を中心に構成されていたという事実

は、どれほど強調してもしすぎにはならないだ

ろう。

以下では、放射線に脆弱な社会集団としての

乳幼児・妊産婦を含む家族に焦点をあて、福島

から新潟県へ避難してきた住民たちの動向を浮

き彫りにしていきたい。

2.1. FnnnP新潟チーム個別ヒアリングからみ

た避難家族の状況

本項では、新潟チームによる個別ヒアリング

からみた避難家族の状況を確認していく。2012

年 1月現在までに、新潟チームが個別にコンタ

クトを取った福島県からの避難家族は、総計

35世帯にのぼる。その大半を占めるのは、湯

沢町と三つの NPOの協働運営によって実現し

(5 )2011 7 8 12 16 0-5 6-14 15-17 18-64 65

3 1[http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=26018]2012 1 20

図4.避難者男女構成

図5.避難者年齢構成(縦軸は全人口に占める各年齢人口の割合(%)を表している)

出典:新潟県公表データに基づき作成

Page 59: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

59

多文化公共圏センター年報 第4号

た「赤ちゃん一時避難プロジェクト」の避難者

27世帯であった。これ以外にも、別ルートで

新潟県に避難した世帯、さらに福島県在住で新

潟県に避難を希望する世帯など、計 8世帯と別

個にコンタクトをもった。

これらの世帯に共通する特徴として、次の 2

点を挙げておきたい。①多くは数か所を転々と

した末に、ようやく現在の避難先にたどり着い

ている。②ほとんどの場合、父親は福島県内に

留まり、母親と子供のみが新潟県に避難しにき

ている。なお、35世帯のうち、1世帯がシング

ルマザーを、1世帯が祖母と孫のみのペアを、

そして 2世帯が妊婦を含んでいた。ただでさえ

立場の弱い自主避難当事者のなかに、社会的に

見て最も保護を必要とする世帯が含まれていた

ことに留意しておかなければならない。

さて、新潟チームが活動を開始した当初(2011

年 6月)、福島県からの避難家族の緊急のニー

ズとして浮上していたのは、次の 5点に大別さ

れる。① 7月 25日以降の移転先ないし滞在先

に関する情報(後述)。②ダイニングセット、

ガスコンロ、食器棚などの家具に関する情報。

③引っ越し先での病院、子育て、インターネッ

ト施設に関連する情報。④住民票移転や保育

園・幼稚園探しなどの手続きに関連する情報。

⑤就職情報。

最初に挙げたニーズに関しては、若干の注釈

が必要だろう。当初、湯沢町の「赤ちゃん一時

避難プロジェクト」は 4月 25日の終了予定を

延期し、7月 25日に閉会式を計画していた。

一方、大半の避難家族は、7月に受付開始され

た新潟県の民間借上げ仮設住宅制度の利用を見

込んでいた。同制度では、申し込みの段階で希

望を表明した世帯に対して、赤十字社からの家

電 6点セットが提供されることになっていた。

しかし、実際に家電セットが提供されるまでに

は、1か月程度の時間を要したため、借上げ住

宅への入居が 8月以降に延期されるケースが相

次ぎ、その間のつなぎとなる短期滞在先につい

ての情報が、緊急のニーズとして浮上すること

になったのである。幼児を抱え、1か月先の居

場所の確保すらままならない避難家族の不安が

いかばかりであったか想像に難くない。

無論、一口に「避難」と言っても、それが多

様な背景を抱えていることを見落としてはなら

ないだろう。当事者のプライバシーに関わるの

で詳細を明かすことはできないが、今後のニー

ズ対応のあり方を考える際に有用と思われる事

項について、新潟チームが直面したいくつかの

ケースのなかからピックアップしておきたい。

ケース①:震災直後に避難してきた Aさん

は、やがて子供の予防接種のために福島県内に

戻らざるを得なくなった。子供も自分も体調が

悪化したため、再度の避難を決断したが、その

代わりに母乳が出なくなってしまった。

ケース②:子供を抱えて数か所を転々とした

Bさんは、子供を放射能リスクから守るために

できるだけ長く県外に滞在したいと願ってい

る。しかし、避難期間をめぐって夫との合意が

得られないばかりでなく、夫の親戚からも福島

県内に戻ってくるように要求され、強い不安を

抱えている。

ケース③:Cさんは数か所の避難先を転々と

した末に 8月に移住先を見つけたものの、地域

での孤立化を心配していた。そこで、新潟チー

ムによるママ茶会に参加し、いつしか当事者同

士のネットワークの中核を担うようになった。

ケース④:福島県内の自宅が高濃度の汚染(庭

2.4μ sv/h、雨樋 20μ sv/h)に見舞われた Dさ

んは、子供の顕著な体調悪化(下痢、鼻血、嘔

吐、飛び火)を受けて、一度は避難を決意した

が、移住予定先で不本意な出来事に遭遇し、避

難そのものを断念するにいたった。

2.2 ママ茶会からみた避難家族の状況

この項では、新潟チームによるママ茶会を通

じて浮上した、乳幼児・妊産婦を含む避難世帯

Page 60: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

60

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

の困難な現状について報告していきたい。

実のところ「ふくしまママ茶会」は、新潟チー

ムが最も力を注いだ活動であった。個別ヒアリ

ングにおいてたびたび寄せられたニーズを踏ま

えた結果、新潟チームは、孤立を強いられやす

い避難世帯、特に母親たちの交流の機会をつく

ることを目的として、2011年 10~ 12月まで

の間に、新潟市 4施設、五泉市 1施設において、

合計 9回に及ぶママ茶会を開催してきた。この

ママ茶会は、各回ごとに親子 10組程度の規模

とし、のべ 83名の参加者数を数えることになっ

た。そこでは誰もが本音で会話できるよう、事

前にお互いのプライバシーに関しては他言しな

いという約束を確認したこともあって、率直に

悩みや心情を吐露する参加者が多かった。以下

に、彼女たちの悩みの内容をまとめてみること

にしよう。

ママ茶会参加者にほぼ共通してみられたの

は、福島原発事故に由来する放射能汚染への不

安、その不安を家族や友人と共有できないこと

から来る疎外感、そして新潟という慣れない土

地での生活に関する悩みである。複雑に絡み

合ったこれらの感情は、ともすれば母子双方の

精神状態を蝕んでいく危険性さえ見受けられ

た。なかにはみずから育児ノイローゼを告白す

る声もあり、オブザーバーとして参加した子育

て支援組織からは、DVの危険性を懸念する所

見も相次いだ。

ある母親は、自分がしばらく政府発表を鵜呑

みにしていたことで、わが子を不必要に被曝さ

せてしまったという強い後悔の念を抱えてい

た。そのことをほかの参加者たちに打ち明ける

過程で、彼女は自身のなかにくすぶってきた激

しい動揺の感情を隠そうともしなかった。また

子供の健康に関する不安に留まらず、将来、彼

らが「被曝」を理由に差別を受けてしまうので

はないかという深刻な悩みも複数の母親たちか

ら表明されることになった。

福島にはどの程度の放射線量があるのか、

住み慣れた場所に一時帰宅しても大丈夫なの

か、新潟の食は安全なのか、自主避難者への

補償はどうなるのか、といった質問もくりか

えし寄せられた。避難世帯の多くは、福島と

新潟とを行き来する二重生活ゆえに出費全般

を切り詰めており、インターネットにアク

セスしづらい当事者も決して少なくなかった。

そこで新潟チームは、放射能情報については官

民の公表情報を要約し、データを示して解説す

るとともに、必要に応じて新潟弁護士会等の支

援組織に関する情報の紹介も行なった。

ママ茶会の参加者たちが直面してきた困

難、今も福島に留まる親戚や友人たちとの

間に感じている断絶感は、主催者側の予

想をはるかに超えていた。両親や義母に

反対され、長年の友人にも理解されない

まま(場合によっては黙って)福島から避

難してきたことで深く傷つき、自己紹介

の際に言葉に詰まる参加者も数多く見られた。

ある母親は、外との接触を断たれた環境のなか

で、常に子供との一対一の対峙を余儀なくされ

ており、精神的に追い詰められている様子があ

りありとうかがえた。こうしたケースは新潟県

に限らず、どの自主避難世帯にも潜在的に付き

まとうもののように思われる。

慣れない土地での子育てをめぐる生活上の不

安が大きな比重を占めていたことも見逃せな

い。ごく常識的に考えても、乳幼児を育てる時

期は、母親たちにとって未知の困難の連続にほ

かならない。ましてや身寄りのない場所で、24

時間子供と孤独に向き合う彼女たちの状況がい

かに切迫したものであるかは察するに余りある

と言えよう。こうした局面では、どれほど些細

に見えようと、子育てに従事する母親たちに特

有のニーズを掘り起こし、そのひとつひとつに

きめ細かく対応していく必要がある。

事実、母親たちの質問内容は、遊び場、子連

Page 61: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

61

多文化公共圏センター年報 第4号

れで行けるレストランや美容院、さらには夜間

緊急時の医療機関など多岐に渡っていた。とり

わけ新潟県のような豪雪地帯において、遠くの

夜間診療所まで具合が悪くなった子供を連れて

いくことは決して容易ではない。なかでも雪に

慣れていない浜通り出身の母親たちにとって、

雪道での走行方法や注意点等を知ることは喫緊

の課題でもあった。この意味で、ママ茶会の共

催団体(育ちの森、ドリームハウス、すてきネッ

ト五泉、新潟県立大学)が、有意義な地域情報

の提供者として果たした役割はきわめて大き

かった。これらの諸団体は、それぞれ独自の企

画に基づく支援プログラムも展開しており、

新潟における豊かなソーシャルキャピタルが、

福島からの自主避難世帯に対して手厚いセーフ

ティーネットとして機能していることを物語っ

ている。

2.3 ママ茶会アンケートからみた避難家族の

状況

前項で述べたとおり、新潟チームは 2011年

10月 19日から 12月 14日までの間に、新潟県

内の子育て支援組織や市民団体等の協力を得

て、計 9回のふくしまママ茶会を開催した。マ

マ茶会では無記名方式のアンケートを毎回実施

し、のべ 83名の参加者のうち 81名から回答を

得ることができた。ここではこのアンケート集

計結果をもとにして、新潟に逃れた原発避難世

帯の実態にせまりたい。

アンケートの内容は 5項目に分類することが

できる。すなわち、①一避難世帯あたりの家族

構成と参加者の子供の年齢、②福島県内の住所

と避難時期、③これまでの避難場所とその数、

④ママ茶会に参加した理由、参加してよかった

点、⑤今後欲しいサポートや情報。それぞれの

結果はグラフ①~⑤に示した。

以下、各グラフから読み取れることを記述し

てみよう。

ほとんどの場合、回答者本人(母親)と 5

歳以下の乳幼児のペアのみで避難しにきている

ことが浮き彫りになった。アンケートの最後に

設けた自由記述欄の内容も踏まえると、回答者

の配偶者(父親)は、普段は職場のある福島県

内に留まりながら、週末や休暇を利用して新潟

県の母子のもとに会いに来ているという現状が

うかがえる。この結果は、本稿 1節で紹介した

新潟県の避難者男女構成や年齢分布の結果と合

致する。ただし、11月から 12月にかけて、母

子の避難先に父親が合流しているケースも散見

された。こうしたケースにおいては、父親が福

島県内の勤め先を辞めてきているため、家族が

一緒にいられるというメリットの反面で、避難

先での新たな職探しに一方ならぬ苦労を味わっ

ていることも明らかになった。

何よりも注意すべきは、政府の指定した警戒

区域等の圏外から「自主的」に避難した世帯

1.0

0.2

1.6

0.1

本人(ママ) 配偶者 お子様 父母

36

0 5 3 7 106 2

010203040

2028

18

0

1914 14

2

16

グラフ①-1.一避難世帯あたりの家族構成

グラフ①-2.参加者の子供の年齢

グラフ②-1.参加者の出身市町村

グラフ②-2.参加者の避難時期

Page 62: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

62

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

が、参加者の圧倒的多数(98%)を占めていた

ことである。本稿 1. 2. でも考察したように、

県発表データは、警戒区域外からの避難者が増

加傾向にあることを示していたが、それでも避

難当事者の半数以上は、警戒区域内からの世帯

で占められていた。このことを念頭に置くな

ら、ママ茶会参加者のほとんどが「自主避難

者」であったという事実はきわめて示唆的であ

る。というのも、それは彼ら自主避難世帯の孤

立化の現状を如実に反映しているように思われ

るからである。実際、ママ茶会の会話の場面で

も、警戒区域外からの避難者は警戒区域内から

の避難者に比べて受けられる支援が限られてい

ること、また特に母親たちが家族や友人からの

理解を得られずに一人で苦しみを抱えこんでい

ることが確認された。なお具体的な出身地の分

布を見ると、最も多かったのが郡山市 39名、

これに続いて、福島市 14名、いわき市 9名、

二本松市 5名…となっている。自主避難者の出

身地域の内訳は、本稿 1.2の図 3で紹介した県

提供データの結果と大枠において一致を示して

いる。

一方、避難時期のグラフを一瞥すると、回

答者の半数近くがすでに 3月の時点で新潟県

内に避難しにきていることが分かる。逆に言

えば、原発震災から時間が経過すればするほ

ど、諸事情のために福島県からの避難が困難

を増していると推測されるのである。もっと

も 2011年 7~ 8月に限って言えば、それまで

とは異なり顕著な増加が見られたことにも留意

しておかなければなるまい。そこには、この時

期に先述の民間借上げ仮設住宅制度が開始さ

れたことに加えて、ちょうど小学校の一学期

が終わり、学校に通う児童が転出しやすかっ

たという事情も控えている。事実、ママ茶会

参加者のなかには、夏休みに小学生の娘や息

子を連れて避難したというケースも見られた。

この観点に立つなら、2012年度末、つまり小

学校児童の学年が替わりクラスも再編成される

時期を目途に、避難希望世帯が再び増加するこ

とも十分に予想される。すでに新潟県にはその

ような避難希望者からの声も寄せられていると

のことである。

ふたつのグラフを照らし合わせると、ただ

ちに現在の居住先に避難できた回答者は全体

の 3割に留まっており、少なからぬ避難世帯

が、ホテル・旅館、親戚・友人宅などを転々と

した末に、やっとのことで落ち着き場所を見つ

けるにいたったという事情が浮かびあがってく

る。一言で「避難」と言っても、それがどれほ

どの経済的・社会的・精神的な負担を当事者た

ちに強いるかということを明白に物語る結果と

45

825

2845

323

2530

3450

5660

115

2224

3036

4041

6467

1か所目32%

2か所目34%

3か所目15%

4か所目以上19%

グラフ③-1.これまでの避難先(複数回答あり)

グラフ③-2.避難場所数

グラフ④-1.参加理由(複数回答あり)

グラフ④-2.参加してよかったこと(複数回答あり)

Page 63: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

63

多文化公共圏センター年報 第4号

言えよう。

ふたつの回答結果を見る限り、新潟チームの

提示したコンセプトは、避難世帯の母親たちの

潜在的なニーズを掬いあげる機能を果たしたと

言ってよいのではないだろうか。現に他の参加

者たちと交流できたことや、子供の保育があっ

たことを高く評価する声が数多く寄せられてい

る。そしてこのことは、避難当事者たちのニー

ズに即した交流の場づくりがいかに重要である

かを再確認させてくれるものである。

避難当事者たちが望むサポートや情報は多岐

に渡っている。自主避難者への支援に関する情

報、福島県出身者との交流の場の継続、放射能

のリスクに関する情報、行政や民間による生活

支援に関する情報、保育施設等の子育て関連の

相談など、いずれもニーズの度合いが高いこと

は明らかである。当事者たちにとって、福島か

らの「避難」とは問題の解決ではなく、新たな

問題との直面を意味している。引き続き、避難

当事者同士のネットワークづくりの場が設けら

れるべきであることは言を俟たないが、そのほ

かにも、インターネットへのアクセス機会の確

保 8、特別な経済的支援の実施、行政につなぐ

ための民間窓口の拡充、子育てサポート体制の

充実 9、東電や政府による自主避難者への賠償

問題のフォローなど 10、視野に入れておくべき

課題はまさに目白押しである。

3.結びにかえて――「自主避難」に関する問

題提起

本稿の締めくくりに、原発避難者の現状に関

するこれまでの報告をふりかえりながら、そこ

からどのような問題提起ができるのかを考えて

みたい。

まず何よりも指摘しておかなければならない

のは、政府が避難指示に際して行なった線引き

と、避難当事者たちの現実認識との間に著しい

乖離が見られることである。たとえば、新潟

県の公表データが示しているように、警戒区

域外からの避難者は、実に避難者全体の 43%

にものぼっており、しかもいまだに漸増傾向

にある。周知のように、警戒区域外等からの

避難者たちはしばしば「自主避難者」という

カテゴリーの下で一括されてきた。しかし、

彼らは果たしてこの「自主」という言葉のニュ

アンスが想起させるような「選択の自由」を有

してきたのだろうか? 言うまでもなく、答え

は否である。自主避難者のなかには、警戒区域

内とほとんど変わらない高濃度の汚染に見舞わ

れた地域(郡山市、福島市などの「中通り」)

の出身者が数多く含まれている 11。当該地域か

ら避難した母親たちは、何としてもわが子の

被曝を避けたいというごく自然な気持ちに忠

実に従ったばかりに 12、様々な苦痛に満ちた避

難生活を余儀なくされてきた。避難先を転々

としたうえに、福島に留まる家族、親戚、友

人からも切り離され、社会的・経済的・精神

的に追い詰められた母子たちの孤独な現状は、

本稿でも再三に渡って確認したとおりである。

さて社会科学的な観点に立つなら、避難

1313

1928

414849

5460

8 多くの回答者たちに、携帯電話のみに頼って情報を入手しようとする傾向が見受けられた。

9 とりわけ、平時でも危うい均衡の上での暮らしを余儀なくされている障害児のサポートは、見逃しえない重要性を持っている。

10 新潟県には、自主避難者への賠償問題に強い関心を寄せる当事者が多い。

11 これらの汚染地域に「子供や妊産婦が長期にわたって居住していいのか」を危惧する専門家もいる。菅谷(2011)、児玉(2011)を参照。

グラフ⑤.今後欲しいサポート(複数回答あり)

Page 64: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

64

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

世帯の母親たちや、彼女たちを後押しした

父親たちの決断の根底に流れていたのは、

当人の自覚の有無に関わらず、「いかに将

来的な被害を事前に察知し、その予測され

る事態を未然に食い止めるか?」という予

防原則の精神だったと言ってよい。少な

くともこれまでの日本の環境政策においては、

近代以降の公害史の教訓を踏まえたうえで、

ほかならぬこの予防原則に基づく数多くの叡智

が醸成・蓄積されてきた。その一端は、以下に

引くような、公害の教訓を総括した有識者によ

る検討委員会の結論のうちに如実に示されて

いる。すなわち、「政府も、企業も、国民も、

環境問題に関する科学的知識が乏しく、ひとた

び被害が発生した場合のその内容や深刻さにつ

いても認識する力を欠いていた」、「一旦健康被

害が生じてしまえば、失われた健康や生命は取

り返しがつかない。仮に補償制度による補償給

付額を見てもその額は膨大となる。被害が発生

する前に対策を講じればその費用は少なくて済

み、手遅れになればなるほど、費用は増大す

る」、「もっと早期に問題を正確に認識し、先見

性のある対策を実行できていたとすれば、被

害の発生はもっと少なかったであろう」(日本

の大気汚染検討委員会、1997、120~5頁)と。

たとえば、環境基本法第 4条が、「環境の保全

は…(中略)…環境の保全上の支障が未然に防

がれることを旨として、行われなければならな

い」と謳いあげることになったのも、このよう

な反省の経緯があってのことである。この精神

に違わず、日本が世界でも有数の体系的な環境

法政策を整備してきたこと、そしてそうした法

体系の整備を通して、厳格に環境を監視するモ

ニタリング制度が飛躍的な発展を見たことは紛

れもない事実である。この意味で、今回の原発

事故はまさにそんな法的・政治的な叡智を結集

する恰好の機会にもなりえたはずだった。

ところが現実にはそうはならなかったのであ

る。これまでのところ、日本政府が、放射線被

曝による健康被害の拡大を回避するために何ら

かの予防的措置を講じた形跡はほとんど見当た

らないし、ましてや母親たちによる「自主的=

予防的」な避難の決断が、適切な形で政策課題

の俎上にのぼるような場面も皆無に等しかっ

た。事故後に発足した小規模の市民団体(子供

たちを放射能から守るネットワーク)や、少

数の NPO法人(地球の友、フクロウの会等)

が懸命に「避難の権利」の重要性を訴えてはき

たものの、現段階では原子力損害賠償紛争審査

会のなかで、かろうじて「自主的避難」に伴う

少額の損害賠償金額が提示されているに過ぎな

い。

ここで、乳幼児、若年層、妊産婦などが放射

線に脆弱な社会集団であることを思いだすな

ら、今回の原発事故のリスクは、まさに当の社

会集団に押しつけられているという理不尽な構

図が見えてくる。本来であれば、最も被害を受

けやすい母子たちこそ、真っ先に公的な保護の

対象とされるべきだった。しかし実際には、前

述の環境政策の原則がなし崩しにされ、リスク

回避の決断は母親たちの「自主」性に委ねられ

る結果となってしまった。福島の母子たちは、

「逃げるのか? それとも留まるのか?」とい

う踏み絵のような判断を強いられてきたし、

今もなお強いられつづけている。そして大きな

苦痛を伴わずにはおかないこの現状に対し、メ

ディアの関心は総じて希薄なままである。

上述のような状況下にあって、本稿で取りあ

げた新潟県の事例は特段の注目に値するだろ

う。自治体としての新潟県は、警戒区域の内外

いずれかを問わず、福島原発事故の避難者には

例外なく門戸を開いてきた。また避難世帯受け

12 安全・安心に出産し育児する権利は、「リプロダクティブ・ライツ」とも呼ばれ、チェルノブイリ災害時にも大きな問題として浮上した。代表的な先行研究として、上野(1996)を参照。

Page 65: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

65

多文化公共圏センター年報 第4号

入れの実践的な局面においては、様々な地元の

ソーシャルキャピタルが大きな受け皿として機

能してきた。たとえば、新潟チームと共にママ

茶会を催した県内諸団体が、それぞれ独自の支

援プログラムを展開していることはその証左と

言えよう。このように官民をあげて前向きな姿

勢を示す新潟県の事例が物語っているのは、た

とえ国レベルでは自主避難者への支援が限定的

に留まるような場合であっても、自治体レベル

で既存の制度を運用することによって、それ相

応の内実を伴ったサポートを実現することは十

分に可能であるということにほかならない。事

実、本稿でも報告したように、新潟県における

民間借上げ仮設住宅制度は、身寄りのない自主

避難者にとって命綱そのものであったし、県内

の幼稚園や小学校が、住民票を移していない避

難世帯の児童をも快く受け入れ、分け隔てなく

学用品の提供を行なったことは、当事者たちに

とって大きな助けとなったのである。

他方、前段落で指摘したような既存制度の運

用、とりわけその条件改善の面において、避難

当事者たちの主体的な働きかけや、彼らの声を

集約して自治体に届けようとする「アドボカ

シー」活動などが大きく寄与してきたことも見

逃すことはできない。たとえば、2011年 12月、

福島県が各都道府県に対し、民間借上げ仮設

住宅制度の停止を検討するように要請した。

この突然の要請を受けて、新潟県と山形県が疑

念を提示したばかりでなく、ふくしま新潟県内

避難者の会もまた、山形自主避難母の会等と連

携しながら、制度停止(とその要請)を見送る

よう働きかけはじめた。その結果、福島県は先

の要請を撤回せざるを得なくなったのである。

ふくしま新潟県内避難者の会の中核を担ってい

るのは、新潟県避難者交流所ふりっぷはうすで

あるが、当事者みずからが動くことで政策対応

を引きだそうとする同交流所の活動方針は、ま

さに「アドボカシー」の先駆的なモデルとなる

のではないだろうか。

このように、新潟県における自主避難者への

公助、および自主避難者間の互助の事例は、

日本国内の避難者支援のあり方を根底から問い

なおすような新たな可能性を宿している。一度

は福島県の身寄りから分断された自主避難者た

ちが、相互につながりはじめたこと、さらにそ

こに新潟県の在来のソーシャルキャピタルが加

わり、いわゆる地縁を超えた緩やかな共感の共

同体が育ちはじめていることは、何よりもそう

した可能性を裏づけていると言えるだろう。た

だし、それにも関わらず、たとえば次のような

不安材料が残っていることも否定できない。

第一に、2年という年限の縛りを受けた例の民

間借上げ仮設住宅制度が、今から 1年後に満期

を迎えた後はどうなるのか? そして第二に、

福島県から避難した母子が元々のコミュニティ

から物理的・社会的・心理的に分断された現状

は、いつまで続くのか? このように考えてく

ると、いまいちど本来の原則論――国レベルの

公的保障・補償の問題――へと立ち返る必要が

あるように思われる。

あらかじめ結論めいた言い方をするなら、「自

主避難者」をめぐる問題は、彼ら当事者を受け

入れる地域社会に固有の政策課題として限定的

に位置づけられるべきものではない。すでに示

唆したように、かくも大量の「自主避難者」が

生まれたそもそもの原因は、国家による統治の

論理に基づいて、放射能汚染の実態にはそぐわ

ない線引きが為されたためである。言い換えれ

ば、この根拠薄弱な境界区分がひとり歩きした

結果、いつしか同じ原発事故の被害者であるは

ずの避難当事者たちの間に、様々なレベルの分

断がもたらされることになったのである。その

最たる例こそは、公助における分断であろう。

現に「警戒区域」等に指定された地域からの避

難者に関しては、十分かどうかは別にしても、

すでに金銭面での公助が出されているのに対し

Page 66: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

66

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

て、ほとんど同等の汚染をこうむった警戒区域

外からの避難者たちに関しては、損害賠償金に

せよ生活資金にせよ、本稿執筆現在の 2012年

2月時点でいっさい支払われていないというの

が現状なのである。不幸なことに、こうした恣

意的な待遇上の差別は、同じ福島からの避難者

同士の間にばかりでなく、福島から避難した者

たちと福島に留まる者たちとの間にまで社会

的・精神的な反目や軋轢をもたらす結果となっ

ている。日本政府は、早急にこれまでの公的保

障のあり方を再考し、放射能汚染の実態に即し

た公平な支援の具体策を提示する責務を負って

いる。

最後に改めて付言しておこう。母子のペア、

なかでも乳幼児と妊産婦は、ごく日常的な生活

環境においても、相応の社会的サポートを必要

とするような弱い立場に置かれている。避難生

活が長引くなかで、彼女たちの多くは、情報へ

のアクセスも政策決定へのアクセスも閉ざされ

たまま、きわめて無力な状態に追いやられてき

た。いわば社会的な無関心も手伝って、苦痛に

満ちた彼女たちの声を代弁しようとする回路が

存在してこなかったからである。これまでの日

本のエネルギー消費システムが、リスクを原発

立地地域に押しつけることで成立してきたこと

を思い起こすなら、私たちはそろそろこうした

無関心から脱却しなければならないし、原発事

故によってもたらされた物理的・社会的・心理

的な分断を超えて、信頼と共感とに裏打ちされ

た新たな絆を結びなおす必要があるのではない

だろうか。なるほど、日本の市民社会は小規模

な草の根レベルが主流ということもあって、

概して「政策提言なき」メンバーで構成される

傾向を宿してきたことも事実である 13。このた

め、彼女たちのように社会的に脆弱な当事者の

「アドボカシー」を切り開くことは今後も決し

て容易なことではないだろう。ともすれば見捨

てられがちな自主避難者たちへの公的なケアを

引きだすためにも、いかに当事者の声を政策プ

ロセスに反映させていくかという問いは、いま

最も真剣に問われるべき課題にほかならない。

謝辞

これまでの新潟チームの活動は、公益財団法

人稲盛財団「東日本大震災復興ボランティア助

成」、「東北関東大震災ボランティア活動基金」

(特定営利活動法人くびき野 NPOサポートセ

ンター、国際復興支援チーム中越、特定非営利

法人新潟 NPO協会による、共同運営)第二次・

第三次・第四次助成からいただいた助成金のお

かげで続けることができました。また、活動に

際しては、新潟県、新潟市、五泉市、新潟県立

大学人間生活学部子ども学科家族サポート研究

会、にいつ子育て支援センター育ちの森、子育

て応援施設ドリームハウス、すてきネット”

五泉”、新潟 NPO協会、新潟市避難者交流所ふ

りっぷはうす、社会福祉法人新潟市社会福祉協

議会、新潟県弁護士会、新潟県臨床心理士会を

はじめ、多くの組織や個人の方々にお世話にな

りました。この場を借りて心よりお礼申し上げ

ます。

参考文献等

<文献>

上野千鶴子、綿貫礼子編著『リプロダクティ

ブ・ヘルスと環境―ともに生きる世界へ』工

作舎、1996年.

児玉龍彦『内部被曝の真実』幻冬社、2011年.

佐藤寛『援助と社会関係資本―ソーシャルキャ

ピタル論の可能性』アジア経済研究所、2001

年.

菅谷昭「原子力災害と放射線被ばく~チェルノ

ブイリ事故医療支援の経験を通じて」『広報

まつもと』2011年12月号、pp.2-5.13 日本の市民社会における「政策提言」の契機の欠落に関しては、ペッカネン(2008)等を参照。

Page 67: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

67

多文化公共圏センター年報 第4号

田口卓臣、阪本公美子、髙橋若菜「放射線の人

体への影響に関する先行研究に基づく福島原

発事故への対応策の批判的検証 -なぜ乳幼

児・若年層・妊産婦に注目する必要があるの

か?-」『宇都宮大学国際学部研究論集』32

号、2011年9月、pp.27-48.

長岡市復興対策本部『中越大震災―自治体の危

機管理は機能したか』ぎょうせい、2005年.

ナン・リン著、筒井淳也他訳『ソーシャルキャ

ピタル-社会構造と行為の理論』ミネル

ヴァ書房、2008年.

新潟日報社特別取材班『原発と地震―柏崎刈羽

「震度7」の警告』講談社、2009年.

日本の大気汚染経験検討委員会『日本の大気

汚染経験』公害健康被害補償予防協会、1997

年.

ロバート・D・パットナム著、柴内康文訳『孤

独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と

再生』柏書房、2006年.

ロバート・ペッカネン著、佐々田博教訳『日本

における市民社会の二重構造 政策提言なき

メンバー達 現代世界の市民社会・利益団体

研究叢書 別巻 (7)』木鐸社、2008年.

松井克浩『震災・復興の社会学 2つの「中

越」から「東日本」へ』リベルタ出版、2011

年.

Christiaan Grootaert, Measuring Social Capital, An

Integrated Questionnaire, The World Banl, 2011.

Robert D. Putnam, Making Democracy Work, Civic

Traditions in Italy, Princeton University Press,

1993.

<インタビューリスト>

朝比奈均(新潟県防災局広域支援対策課政策

企画員)、新潟県庁、2011年7月8日・7月25

日・9月22日・12月19日。

阿部正(社会福祉法人新潟市社会福祉協議会ボ

ランティアセンターセンター長)、新潟市社

会福祉協議会ボランティアセンター、2011年

6月29日。

稲垣謙一(社会福祉法人新潟市社会福祉協議会

中央区社会福祉協議会事務局長補佐)、中央

区社会福祉協議会、2012年1月10日。

稲垣文彦(社団法人中越防災安全推進機構復興

デザインセンターセンター長)、中越防災安

全推進機構、2011年7月8日。

伊奈川正(新潟市中央区役所総務課安心安全係

見守り相談員)、新潟市中央区役所、2011年

11月22日・2012年1月10日。

稲田秀利(五泉市役所総務課防災係主査)、五

泉市役所、2011年9月20日・10月19日。

井上薫(たんぽぽ保育園園長)、たんぽぽ保育

園、2011年11月19日。

運上司子(新潟青陵大学大学院臨床心理学研究

科教授・青陵臨床心理センター長・臨床心理

士)、新潟県臨床心理士会、2012年1月8日。

江川潤(新潟NPO協会地域コミュニティにおけ

る災害避難者まちづくりモデル事業担当、新

潟市避難者交流所ふりっぷはうす運営)、

新潟NPO協会・新潟市避難者交流所ふりっぷ

はうす、2011年10月11日・10月24日・12月5

日。

小澤薫(新潟県立大学生活学部子ども学科講

師・新潟県立大学家族サポート研究会)、新

潟県立大学、2011年7月4日・9月6日・9月26

日。

角張慶子(新潟県立大学生活学部子ども学科講

師・臨床心理士・新潟県立大学家族サポート

研究会)、新潟県立大学、2011年7月4日。

小池由香(新潟県立大学生活学部子ども学科

准教授・社会福祉士・新潟県立大学家族サ

ポート研究会)、新潟県立大学、2011年7月4

日・9月6日・9月26日。

古寺利夫(新潟市市民生活部危機管理防災課計

画係長)、新潟市役所、2011年9月30日・11

月9日・11月22日・12月19日。

Page 68: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

68

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

小林勇(新潟県臨床心理士会被害者支援担当理

事・臨床心理士)新潟県臨床心理士会、2012

年1月8日。

椎谷照美(特定非営利活動法人ヒューマン・エ

イド22代表・にいつ子育て支援センター育ち

の森館長)育ちの森、2011年7月25日・9月12

日・9月22日・10月11日。

島崎敬子(新潟県立大学生活学部子ども学科教

授)、東区プラザ、2011年11月25日。

新保まりこ(子育て応援施設「ドリームハウ

ス」代表)、ドリームハウス、2011年7月

4日・7月11日・9月6日・10月18日・11月22

日。

鈴木秀明(看護師・赤ちゃん一時避難プロジェ

クトスタッフ)、湯沢町赤ちゃん一時避難プ

ロジェクト、2011年6月27日・7月15日・8月4

日。

鈴木秀子(新潟青陵大学・短期大学部ボラン

ティアセンターコーディネーター・臨床心理

士)、新潟青陵大学、2012年1月4日。

高橋桂子(社会福祉法人新潟市社会福祉協議会

西区社会福祉協議会事務局長補佐)、西区社

会福祉協議会、2011年7月4日。

中澤泰二郎(中澤泰二郎法律事務所弁護士)、

弁護士会館、11月21日・1月17日。

花岡慎治(特定非営利活動法人新潟NPO協会プ

ログラムコーディネーター)、新潟NPO協

会、2011年6月28日・8月2日。

樋口栄子(特定非営利活動法人ヒューマン・エ

イド22副代表・にいつ子育て支援センター育

ちの森副館長)育ちの森、2011年9月12日・9

月22日・10月11日。

細貝和司(新潟県防災局広域支援対策課課

長)、新潟県庁、2011年7月8日。

堀内一恵(すてきネット“五泉”代表・産業

カウンセラー・家族相談士)、五泉市図書

館・その他、2011年8月6日・8月17日・9月20

日・10月19日・11月16日。

村上岳志(新潟NPO協会地域コミュニティに

おける災害避難者まちづくりモデル事業担

当、新潟市避難者交流所ふりっぷはうす運

営)、新潟NPO協会・新潟市避難者交流所ふ

りっぷはうす、2011年10月11日・10月24日・

12月5日。

柳沼久美子(新潟市東区役所総務課安心安全係

見守り相談員)、新潟市東区役所、12月9 

山下浩子(すてきネット“五泉”事務局・五泉

市母子保健推進員)、五泉市図書館・五泉市

役所、2011年8月17日・9月20日・10月19日・

11月16日。

雪松迪(社会福祉法人新潟市社会福祉協議会中

央区社会福祉協議会中央区ボランティア・市

民活動センターボランティアコーディネー

ター)、中央区社会福祉協議会、2012年1月

10日

横山朋亜理(新潟市市民生活部危機管理防災

課計画係)、新潟市役所、2011年9月30日・

11月9日・11月22日・12月19日・2012年1月14

日。

吉原典子(子どもたちを放射能から守る会@新

潟代表)、関屋公民館・東区プラザ、2011年

11月14日。

渡辺光明(新潟市西区役所総務課安心安全係見

守り相談員)、新潟市西区役所、2011年9月

26日・10月16日。

<会議報告>

高橋若菜(2011年7月13日)「新潟における福島

から乳幼児・妊産婦さんのニーズと取り巻

く環境」福島乳幼児・妊産婦支援プロジェク

ト緊急報告会(於、宇都宮大学峰キャンパ

ス)。

高橋若菜(2011年10月4日)「自主避難する福

島乳幼児妊産婦たち~新潟県を事例に」特定

非営利活動法人とちぎ人権センター主催、第

Page 69: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

69

多文化公共圏センター年報 第4号

13回栃木県ヒューマンライツセミナー「東日

本大震災と人権~福島第一原発事故の影響と

課題~」(於、パルティ・とちぎ男女共同参

画センター)。

高橋若菜(2011年11月9日)「福島乳幼児・妊

産婦ニーズ対応プロジェクト(FnnnP)新潟

チーム」第一回新潟県避難者支援連絡会議

(於、新潟県自治会館)。

高橋若菜(2011年12月23日)「FSP&FnnnPに

おける福島からの若年原発避難者の把握状況

(新潟)」国際開発学会「原発震災から再

考する開発・発展のあり方」第1回研究部会

(於、東京外国語大学本郷サテライト)。

高橋若菜(2012年1月29日)「福島から新潟へ

の避難者世帯の現状」第四回子育て支援者の

ためのセミナー「避難されてきた方へ 今で

きる支援&現場支援者のためのセミナー」

(於、新津健康センター)。

高橋若菜(2012年2月20日)「新潟県における

福島乳幼児・妊産婦の状況・ニーズ」宇都

宮大学国際学部附属多文化公共圏センター

(CMPS)学長支援プロジェクト「福島乳

幼児・妊産婦支援プロジェクト(FSP)」

2011年度報告会(於、宇都宮大学峰キャンパ

ス)。

渡邉麻衣(2011年9月15日)「福島乳幼児・妊産

婦ニーズ対応プロジェクト新潟チームの活動

報告」、県外避難者見守り支援に係る会議

(於、新潟県自治会館別館)。

渡邉麻衣(2011年10月27日)「FnnnP新潟チー

ム報告~ふくしまママ支援」、―東北関東大

震災ボランティア活動基金第3回審査結果・

活動報告会(於、新潟ユニゾンプラザ)。

<関連報道>

新潟NPO協会(2011年8月23日)「ノンプロ

フェッショナルなひと 支援者と避難者のつ

なぎ役 福島乳幼児・妊産婦ニーズ対応プロ

ジェクト」

新潟県民エフエム( 2 0 1 1年 1 0月 1 7日)

「ECHIGORIAN ~トキめき新潟人~」

新潟日報(2011年10月25日)「くつろぎ親睦深

める 新潟避難の母子が茶話会」

毎日新聞(2011年11月1日)「お茶会でママ支

援 福島からの避難者に情報交換の場」

新潟市西区だより(2011年11月6日)「“ふく

しまママ茶会”で癒しの時間」

五泉市民新聞(2011年12月4日)「福島から避

難の母親9人五泉で交流会 乳幼児の健康気

遣う日々ひとときの安らぎ」

朝日新聞(2012年3月8日)「連続インタビュー

考3・11髙橋若菜・宇都宮大学准教授 精神

的な『分析』に悩む母親たち」

Page 70: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

70

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

はじめに

本稿は筆者が 2011年 8月 10日に行った宇都

宮大学教員免許状更新講習「エスニシティと多

文化主義」の内容と受講生からのコメントをま

とめたものである。ほぼ同じ内容の講義は前年

度の国際学研究科の公開講座で「市民社会とエ

スニシティ‐ 多文化主義のジレンマ」と題し

た回でも行っている。二つの講義は筆者の近年

の研究が地域社会にどのように受け取られる

のかという関心に沿って組み立てた。「多文化

共生」が社会の課題として挙げられる現在、

文化人類学の近年のエスニシティ研究や、筆者

が行っている、ミクロネシアと、ハワイ、米国

本土の間を還流する移民の適応戦略や文化的ア

イデンティティ形成の研究が、地域社会にどの

ように受け取られるかに関心があったからであ

る。

講義では前半にエスニシティと多文化主義の

理論、後半に筆者のフィールドワークによる事

例研究を紹介した。基礎知識として、市民社会

/共同体、多文化共生、単一文化主義/多文化

主義、人種、国民、民族、エスニシティなどの

基本的概念を説明した後、エスニシティの文化

人類学における研究動向、国民統合における単

一文化主義と多文化主義の違い、多文化共生政

策と多文化主義の違いを解説した。この後、ミ

クロネシア連邦ヤップ州出身者の連邦首都ポン

ペイ島、及びグアム島への移民と当地での移民

のアソシエーション活動を報告した。

受講生にはエスニシティや多文化主義に関す

る理論、ミクロネシア連邦からグアム、ハワ

イ、米国本土への移民というトピック自体が身

近ではなかったと思えたが、筆者にとって貴重

なコメントを得ることができた。

1.新興国家とエスニシティ

「エスニシティ 1」という用語が知られるよ

うになったのは N. グレイザーと D. モイニハン

の『人種のるつぼを超えて (Beyond the Melting

Pot)』(1963) によってである。この著作はア

メリカ合州国の多様な民族から新たな統一的な

民族が生まれてくるという「メルティング・

ポット」神話を否定し、さまざまなエスニック

集団の特徴、利害がそのまま維持されているこ

とを指摘した。『人種のるつぼを超えて』はそ

の後の民族間の調和を図ろうとする「サラダボ

ウル」論、文化多元論への道を開いたことで著

名である。

エスニシティが先進国アメリカで「発見」さ

れたことは興味深い。近代化の進行した社会で

エスニック集団が主流派社会に同化せず、「原

初的な絆」が重要性を失わないからである。し

かしエスニシティが新興国家において重要な問

題であることは言うまでもない。

C. ギアツは、第二次世界大戦後のインドネ

シアなど、旧植民地の独立=新生国家建設の政

治統合を論ずる中で、社会・時代によって異な

る一方、自然で精神的な親近感から生じる愛着

「原初的な絆」の重要性を論じ、エスニシティ

の「原初論」者と見なされる (Geertz 1973)。一

「エスニシティと多文化主義」を講義して―ミクロネシア・ヤップ出身者の在外アソシエーションを事例として―

柄木田 康 之

1 研究者の数ほど定義の数があるといわれる「エスニシティ」概念であるが、講義では文化を共有する集団の社会文化的特徴としての意味と、少数派の社会文化的特徴の意味を紹介した。

国際学部教授

Page 71: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

71

多文化公共圏センター年報 第4号

方エスニシティをさまざまな社会勢力の利害を

アピールしたり正統化したりする際に政治的に

用いられる象徴ととらえ、決して永続的なもの

ではないと考える立場は「動員論」と呼ばれ、

F. バルトを出発点とする (Barth 1969)。バルト

の貢献は、エスニック集団が固定的な民族集団

の境界で閉じられているわけではなく、むしろ

越境や交流の中で境界が構築されることを説明

したことにある。しかし「原初論」と「動員

論」は必ずしも相互に対立するわけではない。

Rosald (2003) によれば、新興国家においては、

人々の近代性、物的安寧、政治秩序を保障する

国家への希求と、市民的アイデンティティを承

認する国家への希求が並存する。しかし近代

性、豊かさをアピールし、統一的国民的忠誠を

打ちたてようとする時、しばしば国家は特定の

集団を包含する一方、他集団を排斥する。この

ため多くの国家制度が特権と排除の闘争の場と

なり、統一的忠誠を覆す原初的感情が喚起され

るという。つまり国家制度の限られた資源をめ

ぐる対立において、エスニシティの原初的感情

が創造されるのである。

新興国の政治経済的諸問題の原因を未成熟と

される市民社会に求める、外部者の立場からの

批判は少なくない。オセアニアの諸国家は新興

国家であるばかりでなく、しばしば「強いられ

た国民国家」、マイクロ・ステートなどと呼ば

れる(小林・東 1998)。これらの呼称は、オセ

アニアの国家が植民地起源で、国家機構を維持

する政治的自立や国家財政を支える経済発展が

困難で、しばしば外部からの援助に依存しなけ

ればならないことに由来する。

伝統的には小規模社会からなるオセアニア地

域は、村落や島嶼を越える国民や国民意識をど

のように形成するのだろう。リプーマは、「国

民」は市民社会を通じて、国家に対するアクター

となり、市民社会=公共圏の形成が「国民」

創造の契機となると考えた(LiPuma 1997)。し

かし市民社会と公共圏の概念においては、個人

と政治共同体が永遠に対立するという極めて西

欧的な関係が支配的で、そこには家族、地域社

会、エスニシティなど、ローカルなアイデン

ティティの構成要素が入り込む余地はない。反

対に、オセアニアには一元的市民社会に対立す

る共同体への決定的な指向性が存在する。この

ため国家と個人の中間にある公共圏は地域、近

代的利害集団、そして国家の競争と交渉の領域

となる。このためオセアニアにおいては、国民

の成立には根本的な文化変容が必要である、と

リプーマは考えている。このような状況を、外

部のガバナンス批判者は、オセアニア国家が市

民社会を欠く状況と描くのであろう。

リプーマが援用する公共圏の概念は、「国家

に対抗する市民の開かれた討議の場」、とする

初期ハーバーマス (1994)のものだ。しかしこ

の公共圏概念はその分析能力がさまざまな角度

から批判されている。フレイザー (2003)はハー

バーマスの過度に規範化された市民的公共性の

概念は、市民的公共性がサバルタン的公共圏を

抑圧排除していること、を隠蔽すると批判して

いる。そうであれば「オセアニアには市民社会・

公共圏がない」という議論はサバルタン対抗的

公共圏を隠蔽する議論に加担してしまう危険性

がある。共同体的秩序が支配的な地域での公共

圏概念の有効性はしばしば疑問視される。共同

体指向の強いオセアニアには公共圏は存在しな

い。親族や地域、民族を越えた公共圏は困難で

あるという議論である。

ハーバーマスが論ずる公共圏においても、

理念的には自由な参加、アクセルが必須要件で

ある。しかし歴史的には市民的公共圏から排除

された存在、存在そのものが否定されるオルタ

ナティブな公共圏の存在が繰り返し指摘されて

きている。そうであるならば、オセアニアの公

共圏の地域、近代的利害集団、そして国家の競

争と交渉の領域という特徴は、むしろ、地域レ

Page 72: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

72

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

ベルから、中間カテゴリーをへて、国民にいた

る、重層的な集団的アイデンティティのあり方

や、中間カテゴリーの表象のありかたに研究を

移行すべきであることを示唆している 2。

2.単一文化主義3 、多文化主義、多文化共生

オセアニアの新興国家には市民社会や公共圏

がないとする議論は、単一文化論的国民統合を

前提とした議論である。ここでいう単一文化論

的国民統合とは、自由で自立した個人から構成

される国民を擁し、国民が一つの文化・歴史等

を共有し、地域、職業、宗教、民族等に基づく

中間集団の公的領域では認められず、個人の能

力に応じた地位の違いに基づいて国民が統合さ

れている国民統合である。

これに対して多文化主義的国民統合とは民

族、宗教、地域、言語等の中間集団の公的役割

が認められ、国民統合が国家の中間集団の調整

によって達成される国民統合である。この多文

化主義的国民統合は、対話=他者の承認に基づ

くアイデンティ形成を人間にとって根本的な問

題と見なし、これを政治的領域まで拡張したも

のである (テイラー 1996)。

多文化主義的国民統合に特徴的な政策は、文

化的少数者を国民全体に統合しようとする様々

な少数者優遇政策であろう。ただし単一文化論

的国民統合では少数派優遇政策が軽視されると

いうことではない。単一文化論的国民統合にお

いて、問題は文化の違いとしてではなく、私的

な問題から公的で社会に共有されるべき問題と

して公共化されるのである。

単一文化論的国民統合と多文化主義的国民統

合の対立は受講生にとっては馴染みの少ない概

念区分であろう。一方、近年の NPO活動と同

時に拡大している「多文化共生」の概念がより

身近なものであろう。ただし私たちの身の回り

で用いられる多文化共生の概念は、ここでいう

多文化主義とは異なる概念である。総務省「多

文化共生の推進に関する研究会報告書~地域に

おける多文化共生の推進に向けて~」 (2006)

は地域における多文化共生を「国籍や民族など

の異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合

い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会

の構成員として共に生きていくこと」(p. 5)と

定義している。この定義は多文化主義的国民統

合と似通って見えるが、幾つかの点で似て非な

るものである。その最大の特徴は「地域におけ

る多文化共生」は国民統合の原理ではなく、地

方自治体の在留外国人政策である点である。政

2 近年、コミュニティ概念を再考する一連の論考のなかで、田辺繁治も「国家に対抗する市民の開かれた討議の場」というハーバーマスの公共圏概念の限界を指摘している(田辺 2005:5-8)。田辺は「主観と主観のあいだ(相互主観性)の絶え間ない討議においては、慣習や共有された意味、しきたりや責任感覚などが絡み合ったコミュニティに基礎をおく公共的なるものへの接近は閉ざされてしまうだろう」と批判する。「これまでの慣習的な実践によって解決できない問題に直面して、人びとは必ずしもハーバーマスの言うような言説資源、あるいはギデンズが言うような専門家システムだけに依存するのではない。そうした公共空間のメディアあるいは資源となるのは、過去の生活についての記憶、さまざまな儀礼、協働的な活動、美的感覚と判断など、自分たちのコミュニティの生についての解釈学的知である。」

  さらに社会科学では一般的なコミュニティ(共同体)と市民社会の二元論を批判し、田辺は「公共的なるものの根っこは対面的関係や対話のもつ親密性である」という。田辺の依拠する斉藤純一(2001)は、公共圏と親密圏は分析的には区別しうるが、実態としては重なると主張する。公共圏が人びとの「間」にある共通の問題への関心によって成立する一方、親密圏は具体的な他者の生への関心によって維持される。そして公共圏は人称性をもった他者の生/生命への配慮・関心から立ち上がってくるのである。

  田辺の問題設定は、国家vs.市民社会、市民社会vs.共同体などの異なるレベルの二元論を批判し、それぞれのレベルの関係の在り方や移行を描こうとしており、中間カテゴリーへの関心と相通じるものがある。 オセアニアの公共圏を規範的「公共性」の観点からではなく、国家と家族・村落の間にある中間カテゴリーの重層性の観点から研究することには少なくとも二つの意義ある。このような観点はサバルタン的公共圏の存在を明示しうるだけではなく、国家、(支配・市民的)公共圏、対抗的公共圏、親密圏と複数の層の明示とその関係の探究に研究を導くのである。

3 ここでは単一文化主義、共和主義、同化主義を特に区別しないで用いている。

Page 73: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

73

多文化公共圏センター年報 第4号

策の要点は、在留外国人に対する、「コミュニ

ケーション支援」と呼ばれる行政情報の母語に

よる提供、住居、就学、就業、医療福祉を中心

とした「生活支援」、地域・学校での国際理解

教育支援を中心とする「多文化共生の地域づく

り」の 3領域から成る。これらの政策の背景に

あるのは日本のグローバル化と少子高齢化に伴

い、在留外国人の増加が不可避なことであり、

これらの政策を必須なものであろうが、多文化

共生の概念自体は単一文化論的国民統合と多文

化主義的国民統合の対立とは異なる脈絡で用い

られているのである。

3.多文化主義論争

多文化主義と多文化共生は異なるものであ

る。したがって受講生にとっては筆者が経験し

た多文化主義論争の紹介は驚くべきものであっ

たかもしれない。多文化主義論争の代表的なも

のは公的教育に関するものであり、公的教育に

おけるカリキュラムの内容と高等教育へのアク

セスに関して激しい議論が戦わされた(センプ

リーニ 2003; 44-60)。

カリキュラムに関するエピソードの一つ

に、アメリカ「発見」500周年記念における歴

史教科書の見直しにおいて、米国史の中の少数

派の役割を評価した教科書が多文化主義最左派

の攻撃によって採用を見送られてしまった事件

がある。少数派の権利を擁護しようとする運動

が、最左派の激しい要求によって頓挫してし

まったのである。また大学教養科目の伝統的

英米文学科目が非ヨーロッパ系学生に批判さ

れ、エスニック・スタディーズ、ジェンダー・

スタディーズなどの新たな科目が設けられて

いった。これは単にカリキュラムの問題だけに

とどまらず、特定教員の地位の問題に波及して

いった。

少数派の大学への入学機会を保障するア

ファーマティブ・アクションも論争の機会と

なった。70年代から導入された少数派の人口

比に応じた特別入学枠は少数派の高等教育の機

会の拡大には貢献した。しかし特別入学枠に

よって入学した学生は結局のところ大学を去っ

てしまうことが少なくなかった。また特別入学

枠によって入学したという事実が学生の本来の

評価を貶めてしまったこともある。このように

公民権運動期には疑問がはさまれなかった少数

派の特別入学枠も今日では論争の火種となって

いる。特別入学枠の仕組み自体に問題があると

いう指摘がある一方、高等教育のカリキュラム

自体が多数派文化中心主義に過ぎなのかもしれ

ない。

多文化主義の主張の核心は他者の立場からの

解釈を尊重することと要約することができよ

う。しかしセクシャル・ハラッスメント事件に

おける親愛と性的暴力をめぐる当事者間の解釈

の違い、社会的弱者に配慮した「政治的に正し

い」用語と伝統的言葉に対する「言葉狩り」

の対立など、出来事の異なる解釈の中立点を見

出すことが困難な日常生活の脈絡は多々存在す

る。その結果、他者の立場からの解釈を尊重す

るという理念は、その理念とは裏腹にしばしば

法的手段に訴えざるを得ないのである。

多文化主義の考え方は近年広く受け入れられ

る一方、単一文化主義への回帰、また多文化主

義を新たな段階に高めようとする批判も始まっ

ている。多文化主義は一方で異文化を尊重する

文化相対主義の影響を受けているのだが、他方

で文化の間の差異を強調し、内部の均質性と外

部との境界を絶対視する本質主義に陥ってい

る。その結果、多文化主義は異なる文化間の交

流を理論化することが出来ず、異なる文化をも

つ中間集団を媒介しうるのは、国家でしかない

という落とし穴にはまってしまっている (竹沢

 2010: 148-9)。現状の多文化主義は単一文化

主義とコインの裏表の関係でしかない (センプ

リーニ 2003:167-9)。

Page 74: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

74

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

4.ミクロネシア・ヤップ出身者のエスニシテ

ィ 4

講義の後半では筆者の現在の調査を紹介した 5。

ミクロネシア連邦は独自の文化を擁する四つの

州からなる連邦国家であり、1986年に米国と

自由連合協定を締結し独立した。この協定はミ

クロネシア連邦市民に米国へのビザ無し入国の

権利を与えるもので、この結果 1986年以降、

ヤップ出身者には首都、州都での公務員として

の雇用機会と、グアム、ハワイ、米国本土での

非熟練労働者としての雇用機会が、拡大した。

一方、ヤップ州内での就学、雇用機会、医療サー

ビスは限られているため、移民が急激に拡大し

ている。自由連合協定の締結から 20年を経て、

首都を擁するポンペイ島、米国グアム島では

ヤップ出身者の移民のコミュニティが発展しつ

つある。

MIRAB経済論に代表される従来のオセアニ

アの移民研究は、移民を母社会からの労働力の

輸出、つまり現金収入源と捉え、これが母社会

文化の維持・変容に与える影響を考察してきた

(Bertram and Watters, 1984)。ミクロネシアの移

民研究ではこのような視点には限界がある。

ミクロネシア移民の仕送り等の経済的影響は限

定されているからである。しかし仕送りを超え

て、移民は母村と移住地に跨るハイブリッドな

生活世界を生み出している。ポンペイ島、グア

ム島のヤップ出身移民の社会文化的特徴は母社

会と密接な関係を維持することであり、ヤップ

出身者の教育、就労、結婚、出産、病、死といっ

た一連の生活サイクルは移民の存在抜きには語

りえない。人の人生の様々な出来事が、都市や

母社会への移動の契機となる。そればかりでな

く近親者の人生の出来事が移民の双方向への移

動の動機となるのである。

筆者の研究は、海外在住のヤップ人アソシ

エーションの民族誌的研究によって、ヤップ文

化を基盤とする脱領域的公共圏の構造を解明す

ることを目指している。脱領域的公共圏とは、

領域国家を超えて身近な人々の生活情報が共有

される市民の言説空間であり、人々の往来と

様々な通信手段によって維持されるヤップ出身

者の生活世界は、脱領域的な公共圏と特徴づけ

られる。国土の極小性と資源の限定性によって

政治経済的自立に困難が伴う極小国家では、中

産階級の台頭による市民社会の形成は困難であ

る。一方、脱領域的公共圏の生成と維持は、グ

ローバル化された世界を生きる極小国家の市民

社会の可能性を示すと考えたのである。

公共圏の研究では、しばしば身近な生活世界

のイディオムを用いて国家の公共性に対抗する

市民運動が研究の対象となる。筆者はヤップ出

身者が移民先で作りだしたアソシエーションに

注目し、ミクロネシア連邦ポンペイ島のアソシ

エーションと米国グアム島のヤップ人アソシ

エーションの比較を行った。ポンペイ島のヤッ

プ人社会は高い社会経済的地位にある連邦政府

職員を中心とする一方、グアム島のヤップ人社

会は、建築・サービス産業の非熟練労働者を中

心とし、その社会経済的特徴は異なる。しかし

ポンペイ・グアムの双方で、ヤップ人は教育・

医療のための同郷者の訪問に様々な便宜を提供

し、同郷者の相互扶助の中心となるアソシエー

ションを作っている。ヤップ社会が、文化的ア

イデンティティを維持した社会として存続する

には、経済的機会を提供するグアム島と政治的

自立を承認するポンペイ島との関係の維持は不

可欠であると思われた。

調査はヤップ人アソシエーションを対象に、

1) アソシエーションの成員権、役員、活動に

関する規約の収集、2) 会合の議事録、収支報

4 ヤップ州の移民、人口移動については柄木田(2000, 2010)を参照されたい。

5 調査は科学研究費補助金「ヤップ出身者の脱領域的公共圏の民族誌的研究」(基盤研究C 研究課題番号:20520701、研究代表者:柄木田康之)を受けて実施した。

Page 75: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

75

多文化公共圏センター年報 第4号

告書等の収集と役員のインタビューに基づくア

ソシエーション活動の把握、3) 参与観察に基

づくアソシエーション活動の把握を行った。ま

た会員家族の世帯調査とライフ・ヒストリー収

集にもとづくアソシエーション関係者の移住経

験と社会経済的地位の把握と同時に、 教会、移

民関連 NPO、学校関係者等、ホスト社会代表

者のインタビューとマスメディア資料の収集に

基づきホスト社会側の対応を把握した。

2008年度 8-9月の調査では、ポンペイ島とグ

アム島在住のヤップ出身者の情報を収集し、両

島在住のヤップ離島出身者のアソシエーション

活動への参与観察とメンバーの生活状況調査を

実施した。これを引き継ぎ 2009年 8-9月に米

国グアム島で、アソシエーション規約の収集、

役員のインタビュー、会員の世帯調査を行っ

た。2010年 3月にはポンペイ島に約 2週間滞

在しポンペイ島で実施される「ヤップの日 (Yap

Day)」の参与観察を実施した。2010年 8-9月に

はミクロネシア連邦ヤップ島、ポンペイ島、米

国グアム島に 4週間滞在し、2009年夏の調査

を継続すると同時に、グアム島においてグアム

政府ミクロネシア問題事務所で自由連合締結以

降のグアム政府のミクロネシア移民政策につい

ての聞き取り調査を行った。調査の期間中、ポ

ンペイ島、グアム島で在外ヤップ人の葬儀の参

与観察を行い、またヤップ人アソシエーション

に関するマスメディア資料を収集した。

現在のポンペイ島のヤップ出身者のアソシ

エーションは本島離島の一体の組織であるいの

に対し、グアム島では本島と離島のアソシエー

ションは個別の組織として存在している。グア

ム島に存在するアソシエーションには、ヤップ

州全体、ヤップ本島個別地区、ヤップ州個別離

島と、複数のアソシエーションが存在する。

アソシエーション活動は定例集会の開催と募金

活動を中心とし、活動が活発なアソシエーショ

ンは募金のために NPO法人登録を行う。募金

活動は単なる寄付の集積だけではない。アソシ

エーションの成員は洗車、清掃、昼食販売など

の小規模な経済活動を行い、利益を集積しアソ

シエーション活動の費用にあてる。アソシエー

ションの最も重要な年間活動は3月から4月に

開催される「ヤップの日」の開催であり、「ヤッ

プの日」の費用捻出が募金活動の主要な目的で

ある。「ヤップの日」の成功は母社会・ホスト

社会の双方におけるアソシエーションの承認に

つながる。

ポンペイ島のヤップ出身者は Yap Men and

Women Organization (YMWO)と呼ばれる。ポン

ペイ島のヤップ出身者アソシエーションの最大

の年間活動は3月に開催される「ヤップの日」

のポンペイでの開催である。「ヤップの日」で

は伝統舞踊が演じられ、バーベキューと同時に

伝統料理が振る舞われる。このように「ヤップ

の日」の成功が母社会・ホスト社会の双方での

在外アソシエーション成員のアイデティティの

承認の機会であることが確認された。「ヤップ

の日」の運営組織である YMWOはヤップ本島

と離島の出身者共通の組織であるが本離島の序

列、年長者/若者の序列が様々な場面で意識さ

れる。一方、アソシエーションはポンペイ州で

の NPO法人としての認証を求めており、アソ

シエーションの異種混交的性格が確認された 6。

グアム島のオレアイ環礁出身者のアソシ

エーションである Woleai Organization of Guam

(WOOG)はグアム島のヤップ州出身者のアソシ

エーションに代表を送っている。離島出身者の

集住地区は存在せず、人々は分散して居住して

おり、公共の場所やメンバーの住居でアソシ

エーションの会合は開催される。アソシエー

ションの会合の議事録とそれに基づくインタ

6 現在NPO法人登録されているのはグアム島のヤップ州アソシエーションのみである。しかしNPO法人登録は全てのアソシエーションが目指すものであり、アソシエーションは登録ために規約等の制定を目指している。

Page 76: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

76

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

ビューによれば、WOOGの主な活動は月例会

の開催、募金、クリスマス・イースター・感謝

祭の機会のメンバー内での会食の実施、会則の

制定と役員の選出であった。この中で募金活動

はアソシエーションの活動を評価する重要な基

準となっている。募金活動による現金の集積で

は、出身島嶼アイデンティティが喚起され、移

民と母社会の関係が強化されることが確認され

た。

在外ヤップ州出身者にとって葬儀はアソシ

エーション活動とは区別される重要な協同の機

会である。調査期間中、グアム在住のヤップ州

離島出身者の死が、グアム島での仮葬儀と贈与

交換、遺体のヤップ島への搬送、ヤップ島での

仮葬儀と贈与交換、出身島嶼への遺体の搬送と

葬儀と贈与交換という複雑な葬送慣行を生み出

していることが確認された。また遺体をともな

う葬送慣行に加えて、死が生じた場所にかかわ

らず、近親に死者が出た世帯は、その住居でカ

トリック・キリスト教のロザリオの祈りの集会

を 9日間催する。これが広範な親族・同郷者結

集の機会となっている。これら新たな葬送慣行

に関する経済的負担に備えるため、ヤップ州出

身者はさまざまな相互扶助の組織を立ち上げて

おり、在外ヤップ出身者アソシエーションも相

互扶助の重要な担い手であることが確認され

た。  

民族誌調査に基づき、本研究はヤップ出身者

の脱領域的公共圏における民族アイデンティ

ティの生成、リーダーシップの生成、社会的連

帯の生成についての、以下に要約する特徴を提

示しえた。

(1) グアム島のアソシエーションは、ヤップ

本島とヤップ離島のウルシー環礁、オレアイ環

礁、サタワル島と複数のアソシエーションから

なり、ヤップ本離島間に存在する伝統的序列を

反映することが確認された。ポンペイ島のアソ

シエーションは単一の組織であるがヤップ本離

島の序列は意識されている。脱領域的公共圏に

おける伝統的序列と教育、就労にもとづく地位

の相互作用が存在することを確認した。

(2) ポンペイ島のアソシエーションもグアム

島のアソシエーションも最大の年間活動は 3

月から 4月に開催される「ヤップの日(Yap

Day)」の開催である。「ヤップの日」では伝統

舞踊が演じられ、伝統料理が振る舞われる。

「ヤップの日」の成功は母社会・ホスト社会

の双方での在外アソシエーション成員の民族ア

イデティティの承認を意味することが確認され

た。

(3) アソシエーション活動は集会の開催と募

金活動を中心とし、活発なアソシエーションは

募金のために時に NPO法人登録を行う。募金

活動は単なる寄付の集積だけではなく、洗車、

清掃、昼食販売などの経済活動からの利益を集

積し、アソシエーションに活動にあてるからで

ある。

(4) グアム島のカトリック教会、市場経済と

消費生活との出会いは、葬送慣行の貨幣経済化

と拡大を生み出し、関係者の大きな負担となっ

ている。一方これらの負担は、アソシエーショ

ン成員間の相互扶助や島嶼を跨ぐ親族ネット

ワークを強化している。

結びにかえて

本稿は宇都宮大学大学院国際学研究科平成

22年度公開講座『国際化における市民の役割

 ―時代と地域を超えて―』に「エスニシティ

と市民社会‐ 多文化主義のジレンマ」と題し

た講義と宇都宮大学平成 23年度教員免許状更

新講習「エスニシティと多文化主義」で行った

講義を基にしたものである。筆者の講義の意図

は現在ミクロネシアからの米国移民について

行っている研究が地域社会にどのように受け取

られるのかを探りたいということにあった。た

だし教員免許状更新講習で受講予定者に対して

Page 77: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

77

多文化公共圏センター年報 第4号

行われた事前アンケートで、アメリカ合衆国の

多文化主義、エスニシティに対する関心が非常

に高かったので、文化人類学のエスニシティと

多文化主義に関する議論を大幅に盛り込むこと

となった。講義が、国家制度や市場社会の限ら

れた資源や承認をめぐる拮抗において、エスニ

シティの原初的感情が創造される過程理解の一

助になればと考える。

教員免許状更新講習の受講生には最終時限の

試験、アンケートで様々なコメントを頂いた。

受講生は 34名、小中高支援学校の現職教員で、

担当教科は地歴・公民が中心であったが、英

語、国語、理科、家庭等の教科も見られた。筆

者にとって興味深い感想の一つが米国の「人種

のるつぼ」論と「人種のサラダボウル」論の違

いである。中学校地理の教科書では「人種のる

つぼ」の記述が消え「人種のサラダボウル」

の記述に取って替わられていること、この講義

が教科書の記述の差し替えの背景の解説になっ

たとの感想を何人かの先生方から得ることがで

きた。また社会科教育における地理歴史融合学

習、地理公民融合学習、歴史公民融合学習の必

要性を指摘する感想があったが、小中高で学習

されることのない文化人類学の講義への導入に

際して参考としたいと考えた。

講義の直接の批判ではないが、多忙な校務の

中での教員免許状更新制度への疑問を呈する受

講生もいたが、筆者にとって講義は小中高現職

教員の筆者の研究に対する感想を聞くことがで

きたという点で貴重な機会であった。

参考文献

Barth, F. (ed.), 1969, Ethnic Groups and Boundaries:

the social organization of cultural differences,

Waveland Press.

Bertram, I.G. and R.F. Watters, 1984 The MIRAB

Economy in South Pacific Microstates. Pacific

Viewpoint 26:497-519.

フレイザー、N. 2003、『中断された正義-

「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省

察』仲正昌樹監訳 お茶の水書房。

Geertz, C. 1972, The Interpretation of Cultures,

Basic Books.

Glazer, N. and D.P. Moynihan, 1970(1963), Beyond

the Melting Pot; The Negroes, Puerto Ricans,

Jews, Italians, and Irish of New York City (2nd

ed.), MIT Press.

ハーバーマス、J. 1994、『公共性の構造転換-

市民社会の一カテゴリーについての探求』細

谷貞夫・山田正行訳未来社。

柄木田康之 2000 「メゾ・レベルとしての世

帯戦略とライフ・ヒストリー―ミクロネシア

連邦ヤップ州の離島からみた都市化―」熊谷

圭知・塩田光喜編『都市の誕生―太平洋島嶼

諸国の都市化と社会変容』219-250頁 研究

双書 No. 511 アジア経済研究所。

――― 2010 「ミクロネシア連邦オレアイ環

礁‐島嶼空間の持続・変容・拡張‐」熊谷圭

知・片山一道編『オセアニア』 朝倉世界地

理講座15巻、 236-46頁 朝倉書店。

LiPuma, E., 1997, The formation of nation-states

and national cultures in Oceania. In Foster, R.

(ed.) Nation Making, Pp 33-68, The University of

Michigan Press.

Rosaldo, R. 2003, Introduction: the border of

belonging, in R. Rosaldo, (ed.), Cultural

Citizenship in Island Southeast Asia, Pp. 1-15,

University of California Press.

Page 78: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

78

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

斎藤純一  2000『公共性』岩波書店。

センプリーニ、 A. 2003 『多文化主義とは何

か』白水社。

総務省 2006、 『多文化共生の推進に関する

研究会報告書~地域における多文化共生の推

進に向けて~』URL: http://www.soumu.go.jp/

kokusai/pdf/sonota_b5.pdf, 2012年1月31日閲

田辺繁治 2005、「コミュニティ再考」『社会

人類学年報告』31巻1-29頁。

竹沢尚一郎 2010、『社会とは何か‐システム

からプロセスへ-』中央公論新社。

テイラー、 C. 1996、「承認をめぐる政治」E.

ガットマン編『マルチカルチュラリズム』 

37-110頁 岩波書店。

Page 79: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

79

多文化公共圏センター年報 第4号

はじめに

昨年(平成 23年)9月に神戸大学で開催さ

れた「第 17回国立大学新構想学部教育・研究

フォーラム」に参加する機会があった。台風の

襲来を受け、予定されていたプログラムの半分

程度しか実施されなかったが、個人的には非常

に興味深いフォーラムであった。

新構想学部とは、簡潔に言えば、文系、理系

といった伝統的な枠組みや個別のディシプリン

(専門的学問領域)の枠組みを超えた学際的、

総合的、融合的な性格を持つ学部のことをさ

す。平成 7年から始まり昨年で 17回を数えた

このフォーラムに参加している国立大学は 16

大学であるが、このうちの 10大学の学部が平

成 4年度以降に設置されたものである 1。この

ような学部が近年誕生した背景としては、平

成 3年に「大学設置基準の大綱化」が制定され

たことが大きい。「大綱化」とは、「個々の大学

が、学術の進展や社会の要請に適切に対応しつ

つ、その教育理念・目的に基づく特色ある教育

研究を展開できるように、制度の弾力化を図る

ために 1991年に実施された学校教育法、大学

設置基準など関連法令の大幅な改正」(『高等教

育質保障用語集』)をさす 2。この大綱化によっ

て、いくつかの国立大学で教養部が解体され新

構想学部が誕生することとなった。我が国際学

部もこの 1つである。

当日のフォーラムでは、「新構想学部におけ

る評価」を全体テーマとして、報告と質疑が行

われた。このテーマ設定の趣旨は、以下のよう

に整理できる。新構想学部は、複雑化する現代

的課題を克服し新たな人間社会を希求しようと

する社会的要請と呼応しつつ、多様な学際的・

総合的な研究の芽を創出して、質量ともに一定

の成果を上げてきた。しかし、学部構成員の専

門分野は多岐にわたり、その特徴を活かした既

存学部との差異化は容易ではない。そして、

新構想学部の努力や成果は、既存領域を主な枠

組みとする評価システムの中にあって、必ずし

も正当な評価を受けていない。このような状況

のなかで、「大綱化」以降 20年という節目を迎

えた新構想学部は、昨今の大学評価に関わって

どのような問題を抱え、それを克服しようとし

ているか、この点について情報や意見を交換し

合って、新構想学部の今後を構想することが必

要である、と。

国際学と国際学部の課題-新構想学部と「グローバル人材」要請に関する議論を中心に-

田 巻 松 雄国際学部教授・副センター長

1 参加大学は、京都大学総合人間科学部(平成4年度)、名古屋大学情報文化学部(平成5年度)、神戸大学国際文化学部(平成4年度)、群馬大学社会情報学部(平成5年度)、岡山大学環境理工学部(平成6年度)、宇都宮大学国際学部(平成6年度)、静岡大学情報学部(平成7年度)、岐阜大学地域科学部(平成8年度)、佐賀大学文化教育学部(平成8年度)、長崎大学環境科学部(平成9年度)、広島大学総合科学部(昭和49年度)、東京大学教養学部(昭和24年度)、岩手大学人文社会科学部(昭和52年度)、三重大学人文学部(昭和58年度)、徳島大学総合科学部(昭和61年度)、福島大学行政政策学類(昭和62年度)である。括弧内の年度は設置年度を示している。

2 この大綱化によって、従来詳細に定められていた教育課程などの基準の詳細の部分が削除され、基準の要件が緩和された一方で、教育研究の質の保証を大学自身に求めるという方針の下、大学による自己点検・評価が努力義務と定められた。この大綱化の動きは、後の認証評価制度創設の契機となった(同用語集)。具体的には、従来の一般教育と専門教育の区分および一般教育内の科目区分(一般、保健体育、外国語)やそれぞれに必要な単位数が廃止され、各大学は4年間の学部教育を自由に編成できることとなった。

Page 80: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

80

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

私のディシプリンは社会学であるが、国際学

部に所属する教員として、国際学は学問的に体

系化できるのか、国際学部の特色は何か、国際

学部はどのような人材を育成しようとしている

のか、国際学部の学際性や総合性は学生のニー

ズとマッチしているのかといった問いに、様々

なタイミングで向き合うことになる。これらの

問いは、「国際学って何ですか」とか「国際学

部はどういう学部ですか」という学生や社会か

らの基本的な問いにどのように答えるかという

課題につながっているが、なかなか明解な答

えは見いだせない。フォーラムの議論を通し

て、新構想学部が直面している問題の共通性に

ついて少し理解が進むとともに、上記のような

問題を考えるヒントをいくつか得た気がする。

ただ同時に感じたのは、年 1回のフォーラムを

通じて議論されてきた内容が基本的にはフォー

ラム参加者の間で「閉じられてきた」のではな

いかということであった。学部の教授会など

でフォーラムの報告があったのかもしれない

が、正直、ほとんど記憶にない。フォーラムで

の議論はもっと多くの教員に共有されるべきと

強く感じた。

この小論の当初の目的は、過去のフォーラム

での議論を整理して、国際学や国際学部の現状

や今後を考えるための論点をいくつか導き出す

ことにあった。しかし、現時点で、収集できた

資料がわずかであったこと、レジュメやパワー

ポイントの形式で記載されている資料から報

告や議論のエッセンスを把握することは難し

く、十分な整理が出来ていないのが現状であ

る。フォーラムでの議論の整理は継続的な課題

として、ここでは、90年代末に刊行された新

構想学部に関する実態調査報告書と「グローバ

ル人材」育成に関連する最近の議論と関連づけ

ながら、国際学や国際学部の課題について考え

てみたい。国際学や国際学部の在り方について

は現在国際学部全体で活発な議論が交わされて

いるが、本論で述べることはあくまで個人的な

見解である。また、学部に関する議論に限定

し、大学院については述べない。

なお、今回のフォーラムの目に見える成果と

して、新構想学部の実態を把握、整理し、克服

のための方策を検討するための共同研究を計画

することで意見がまとまったことがあげられ

る。これは文部科学省科学研究費への申請とつ

ながった。私も研究分担者としてこの共同研究

に参加する予定である。

1.新構想型学部の実態調査より

科学技術庁科学技術政策研究所が 1998年に

『大学における新構想型学部に関する実態調

査』という報告書を刊行している。すでに 10

年以上も前の資料ではあるが、新構想学部の現

状や今後を考えるうえで興味深い調査結果が掲

載されている。いくつか要点を整理しておきた

い。ここでの整理では本報告書で使われている

新構想型学部という表現をそのまま用いる。

報告書は、文部科学省(当時は文部省)の

『学校基本調査』を使って学部入学志願者数や

学部入学者数などの統計データをまとめたもの

と、学部の実態に関して行ったインタビュー調

査結果の報告から構成されている。まず、『学

校基本調査』に記載されている大学から、学部

名に既存学部の枠を超える学際性や総合性を示

すと考えられる「総合」、「人間」、「情報」、「コミュ

ニケーション」、「環境」というキーワードを使っ

ている学部を新構想型学部として位置づけ、国

公立大学 15大学 16学部、私立大学 34大学 36

学部がそれにあたるとしてリストアップされて

いる。そして、このうちの 74%が平成 4年度

以降に設置されており、「大学設置基準等の大

綱化」が顕著な影響を与えたことが確認されて

いる。「国際」や「地域」はキーワードとして

取り上げられていないため、新構想学部フォー

ラムに参加している本学の国際学部や岐阜大学

Page 81: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

81

多文化公共圏センター年報 第4号

の地域科学部などはリストから漏れている。こ

の点も含め、学際性、総合性、融合性を特色と

する学部のすべてがリストアップされているわ

けではなく、また逆にリストアップされた中に

「新構想型」に該当しない学部も一部含まれて

いる。

49大学 52学部のうち、学部から卒業生が出

ている(又は出る)ことを条件として、7大学

8学部が選定され、「学部設立の経緯」、「学部

としての新たな試み」、「授業形態」、「学生の

質」、「学生の卒業後の進路」、「学部と学生間の

ミスマッチ」、「学生と企業間のミスマッチ」、「学

部の今後の課題」、「その他」の事項について、

インタビュー調査が行われた。以下のような実

態や問題点が明らかになっている。

(1)新構想型学部は学際領域の社会問題を解

決するという要請に応えようとするものであ

り、大きな期待が寄せられている学部である。

しかし、学際という新しい領域の学問をどのよ

うに発展させていくかについて学部内での理解

は十分ではなく、各学部が試行錯誤している状

況がある。

(2)新設された学部の多くは学際的な学部で

あり、その学際化の手法はマルチディシプリナ

リである。マルチディシプリナリとは、学部内

に大きな柱として何らかのテーマ(総合、人

間、情報、コミュニケーション、環境、国際、

地域など)を中心に据えて、それに関連する複

数の学問分野を関連付けたカリキュラム編成に

より、学生が複数の学問分野を学び、学生自身

の中でそれらを融合する手法である。これに対

し、1つの学部で学際の理念に基づいて複数の

学問分野を融合して教育を行うインタデーディ

シプリナリという手法があるが、これはまだ極

めて少ない。

(3)新構想型学部の学際の試みは 3つある。

1)在学中に出来るだけ多くの分野の学問を学

ばせ、卒業後、社会の変化に臨機応変に対応し

ていくことの出来る学生を育てる、2)学生自

身が問題意識を持ち、自分でその問題解決を行

うことが出来る問題解決型の学生を育てる、3)

学部内の教員が具体的な社会問題を念頭に置い

て学際的な問題意識を持って共同で研究を行

い、その問題解決に取り組む。3)については

実際に行われている例は少ない。

(4)新構想型学部を志願する学生のタイプは

大きく 2つに分かれる。1)高校時代から明確

に大学では学際教育を受け、将来は学際領域の

研究や仕事を行いたいと思って入学してくるタ

イプ、2)高校時代には自分の将来について明

確な希望を持たず、受験テクニックや地の利、

新設学部としての魅力に惹かれて入学してくる

タイプ。2)のタイプが多いが、1)のタイプが

増えてきていることが指摘されている。

(5)新構想型学部の大きな利点は、特定の専

門領域にとらわれずに自分の視野を広げ、その

なかから自分のやりたいことを見つけ出し、そ

れについて学習していくことが出来ることであ

る。上記の 1)のタイプや在学中に進路につい

て意思決定出来た学生は新構想型学部の利点を

大きく生かせるし、多種多様な分野への就職が

決まっている。反面、意思決定できない学生に

は、この利点が不利になることもある。したがっ

て、学生自身の意思決定を支援するための対応

策を充実することが特に問われる。

(6)新構想型学部の実態が十分に理解され

ていないことに起因するミスマッチが存在す

る。学部と学生間のミスマッチとしては、学生

のインターディシプリナリな教育への期待とマ

ルチディシプリナリな学部が圧倒的に多い実態

との間で生じるものがある。学生と企業間のミ

スマッチとしては、就職活動時に新構想型学部

の社会的認知度の低さや企業の既存の文系・理

系といった縦割り構造的な考え方によって不利

を被る学生がいる点があげられる。

(7)新構想型学部の学生は複数の学問分野を

Page 82: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

82

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

学ぶ以上、特定の専門分野における学問レベル

がそれほど上がらない点はやむを得ない。学際

教育の専門性を追究するにはインターディシプ

リナリの学部の増大や学際教育が行える大学院

の存在が重要となる。

調査から明らかとなった以上のような実態と

問題点は、本学の国際学部の現状と課題を確

認し、考えるうえでいろいろと参考になる。

まず、国際学部の教育はマルチディシプリナリ

な手法に基づいている。30数名の教員の専門

分野は多岐に渡っており、学生は複数の専門分

野を学ぶことで幅広い知識を身につけることが

出来る。また、問題解決型の学生を育成するこ

とが学部教育の大きな目標であることは共通理

解されていると言える。学部教育が目指すのは

「ディシプリンの専門家」ではなく、「問題か

ら出発した専門家」の育成である 3。学生は、

研究する問題を発見・設定し、その分析のため

に複数のディシプリンの習得を目指すのであ

る。このような専門性の追求は新構想学部の教

育目標としてほぼ共通するものがあるであろ

う。したがって、教員は、このような学部のマ

ルチディシプリナリな性格を学生に十分理解さ

せる必要がある。

課題として、さしあたり 2点指摘しておきた

い。上記の調査結果で、インターディシプリナ

リな研究や教育は極めて少ないことが指摘され

ているが、国際学部も同様の課題を抱えている

と思われる。学部には多様な分野の専門家が集

まっているので、複雑化する社会問題をテーマ

として学際研究を行う基盤はある。学部として

の基本はマルチディシプリナリであっても、教

員自身がインターディシプリナリな研究に取り

組み、自身の専門領域拡大に向けた努力をする

ことが問われよう。また、「学際という新しい

領域の学問をどのように発展させていくかにつ

いて学部内での理解は十分ではなく、各学部が

試行錯誤している状況がある」との指摘も、

国際学部の現状に当てはまると思われる。国際

学という学問の体系化については、そもそもそ

れは難しいという意見も含めて、様々な意見と

立場があり、共通理解を図ることは容易ではな

い。しかし、ますます加速するグローバル化の

中で、国際学のあり方、意義、方法論などが改

めて問われるようになっていることは確かであ

る。

2.国際学部の歩み

国際学部は、国際化・多様化に伴って様々な

地域で生起する諸課題に対し、言語運用力を基

盤とする異文化理解能力に基づいて、学際的な

視点から分析・解決できる人材の育成を大きな

目標に掲げてきた。平成 6年度の学部発足から

10年後に、国際学部の教育成果を検証する作

業を行い、その結果を『国際学部の十年』とし

てあらわした。実施した卒業生へのアンケート

調査の質問項目「特に身についたもの」に対す

る回答では、異文化理解能力と言語・コミュニ

ケーション能力が上位を占め、教育目標がおお

むね達成されてきたことを示している。

しかし、国際学部の歩みの中で、いくつかの

課題が浮き彫りにもなった。その 1つは、国際

協力・国際貢献など「外の国際化」に対して「内

なる国際化」に対する関心が相対的に低かった

こと、および世界的な課題とともに「地域の国

際化」の課題を教育研究する体制の整備が不十

3 百瀬は、国際関係学や国際学という呼称のもとに日本で発展してきた研究教育体系の方法において学際性の獲得が決定的に重要だと捉えるとともに、その専門性を「総合の中の専門化」に求めている。既成の学問の専門性はディシプリンにあるが、総合的な科学としての国際関係学や国際学が目指すのは、問題から出発した専門家である。このような専門性の追究は新構想学部にほぼ共通してみられるであろう。なお、私が関わってきた社会学や地域研究もこのような特徴を強く有する学問である。これらは、多様な研究対象・目標・方法を持っており、認識主体である個人が自ら問題(対象・目標・方法)を設定しなければ研究自体が始まらないという特徴を共有している。

Page 83: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

83

多文化公共圏センター年報 第4号

分だったことである。この点を踏まえ、国際学

部は、平成 16年度から、宇都宮大学重点推進

研究として、栃木県における外国人児童生徒教

育問題に関する研究プロジェクトを本学部教員

の分野横断的な研究として開始した。本プロ

ジェクトは、国際化する地域の中で、外国人児

童生徒教育と日本人児童生徒の国際理解教育の

現状を認識し、その改善に向けた人材養成と地

域貢献を推進しようとするものであった。本プ

ロジェクトは、平成 19年度より、本学特定重

点推進研究として、教育学部との学内連携、県

内主要地域の教育委員会・小中学校との学外連

携の強化を軸に、研究内容を拡大・深化させた。

また、地域の拠点大学である本学の国際学部

が教育研究資源を有効活用し、地域の国際化に

応えるための教育研究拠点を構築することの必

要性が強く認識されるようになった。この認識

は平成 20年 4月の多文化公共圏センター(平

成 23年度より国際学部附属多文化公共圏セン

ターに改称)の設置に結実している。多文化公

共圏センターは、栃木県内外の自治体・教育

委員会・国際交流協会・市民団体等(NGO/

NPOを含む協賛団体)とネットワークを形成

し、実践的諸課題を解決することを目的に設置

されたものである。宇都宮市と日光市における

多文化共生に関する住民(日本人・外国人)意

識調査、「グローバル教育」の推進、多文化共

生と「グローバル化する世界の諸問題」に関す

る連続市民講座・シンポジウムの開催などに関

わる諸事業を精力的に行ってきている。

外国人児童生徒教育に関する研究プロジェク

トは、平成 22年度文部科学省特別経費プロジェ

クト「グローバル化社会に対応する人材養成と

地域貢献―多文化共生社会実現に向けた外国人

児童生徒教育・グローバル教育の推進―」(平

成 22~ 24年度)に採択され、現在、諸事業を

展開中である(通称 HANDSプロジェクト)。

特筆すべきは、HANDSプロジェクトが、「外

国人児童生徒・グローバル教育推進協議会」

(栃木県内 9市 1町の教育委員会と小中学校長

代表が構成メンバー)と「外国人児童生徒支援

会議」(県内外国人児童生徒教育拠点校 40校の

担当教員が中心メンバー)の 2つの全県的な規

模の組織での議論を軸に事業を展開している

ことである。HANDSプロジェクトは、国際学

部・国際学研究科の教育理念である多文化公共

圏(多様な意見を集約して合意を形成する場)

形成の実践例として位置づけられる。また、平

成 22年度には、国際・教育両学部の学生を対

象に「グローバル化と外国人児童生徒教育」と

いう名称の授業科目を新規に立ち上げた。

言語運用力を基盤とする異文化理解能力

の向上を目標とするプログラムとしては、

平成 21年度文部科学省「大学教育充実のた

めの戦略的大学連携支援プログラム」に採択

された「地域の大学連携による学生の国際

キャリア開発プログラム」(平成 21~ 23年

度)が特筆される。このプログラムは、白

鴎大学・作新学院大学との連携のもとで、

国際分野で活躍できる実践的能力を身につけ

るために、専門家からインスピレーションを

得て、自らの将来像を描き、それに至る階段

「キャリアパス」を明確化しながら、専門知

識を学ぶと共に実践的な英語教育を受け、国

内と海外でインターンシップ(実務研修)を

経験するためのカリキュラムを用意している。

これまで、全国 40を超える大学から学生が参

加している。

HANDSプロジェクトの諸事業や「国際キャ

リア開発プログラム」のカリキュラムは、国際

学部の教員が学内外の関係者との協力・連携を

基に、言語運用力を基盤とする異文化理解能力

に基づいて地元地域や国際分野で活躍する人材

を育成することと、地域の喫緊のニーズにこ

たえる地域貢献としての性格を持つものであ

り、インターディシプリナリな教育に近い性格

Page 84: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

84

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

を持っていると言える。このようなプロジェク

トを発展させていくことが今後ますます問われ

よう。

国際学の学問的体系化の遅れの問題は先に指

摘したが、この問題は、地域に関する研究が地

元地域、日本国内の地域、国家を超えた世界の

諸地域等を分断的に取り上げ、地域の国際化・

多様化の問題を体系的に捉える視点が希薄だっ

たことと関連していると思われる。私見では、

国際学と地域研究は現代世界を総体的にみるた

めの車の両輪である。国際的事象を学際的・総

合的視点からとらえる国際学的研究は諸地域と

いう具体的な場を通じて初めて可能になる。そ

して、地域研究は、ある地域の個別的・特殊的

性格を総体的に理解し、「相互理解」や「相互

の文化」を知ることを目的とする研究行為であ

る。この目的に照らした場合、本学部が追求し

てきた教育研究が国際学・地域研究のそれぞれ

の体系化と両者の関係についての理論的な整理

の面で不十分さを残してきたことは否定できな

い。また、「国際社会学科」と「国際文化学科」

の 2学科制をとってきたが、「社会」と「文化」

のそれぞれの定義と関係についての整理もやや

不十分で、このことも国際学と地域研究の総合

的な体系化を妨げる要因となってきたと考えら

れる。「国際」と「地域」並びに「社会」と「文

化」を融合する新たな学問体系とそれに基づく

教育カリキュラムの改善が強く求められている

と言えるだろう。

   

3.「グローバル人材」育成の議論

平成 22~ 23年にかけて、高等教育における

「グローバル人材」の育成が急務であると主

張する国レベルの報告書がいくつか刊行され

た。『報告書~産学官でグローバル人材の育成

を~』(産学人材育成パートナーシップグロー

バル人材育成委員会)が平成 22年 4月に、『産

学官によるグローバル人材の育成のための戦

略』(産学連携によるグローバル人材育成会議)

が平成 23年 4月に出された。次いで 5月に「グ

ローバル人材育成会議」が設置・開催され、関

係者による数度の協議を経て、6月に『グロー

バル人材育成推進会議 中間まとめ』が出され

ている。この会議の構成員は、内閣官房長官と

国家戦略担当・外務・文部科学・厚生労働・経

済産業大臣である。これらの報告書の認識や主

張には大きな差はないため、一括して「グロー

バル人材育成推進報告書」としておく。そこで

示されている人材像は、国際学部が目標として

きた人材像と重なるところがあり、学部の今後

の人材育成の目標を考えるうえで、それらの要

請に向き合うことは不可避の課題であろう。

もっとも、グローバル人材育成の課題は急に

浮上したわけではない。平成 12年 11月に大学

審議会が「グローバル化時代における高等教

育の在り方について(答申)」(以下、答申)

を出したが、この答申では、グローバル化する

時代において高等教育が目指すべき改革の方向

の 1つとして、「グローバル化時代を担う人材

の質の向上に向けた教育の充実」があげられて

いる。「グローバル化時代を担う人材」に求め

られるのは、「地球社会を担う責任ある個人と

しての自覚の下に、学際的・複合的視点に立っ

て自ら課題を探求し、論理的に物事をとらえ、

自らの主張を的確に表現しつつ行動していくこ

とができる能力」であり、「深く広い生命観や

人生観の形成、自らの行為及びその結果に対す

る深い倫理的判断と高い責任感を持って行動す

る成熟度」である。この能力を育成することが

教育活動の基本として位置付けられ、そのうえ

で、「自らの文化と世界の多様な文化に対する

理解の推進」、「外国語によるコミュニケーショ

ン能力の育成」、「情報リテラシーの向上」、「科

学リテラシーの向上」が必要とされている。参

考までに、答申は、これ以外の改革として、

「科学技術の革新と社会、経済の変化に対応

Page 85: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

85

多文化公共圏センター年報 第4号

した高度で多様な教育研究の展開」、「情報通信

技術の活用」、「学生、教員等の国際的流動性の

向上」、「最先端の教育研究の推進に向けた高等

教育機関の組織運営体制の改善と財政基盤の確

保」の 4つをあげている。

さて、グローバル人材育成推進会議(平成

23年 5月)の開催趣旨では、「我が国の成長を

支えるグローバル人材の育成とそのような人材

が育成される仕組みの構築を目指し、とりわけ

日本人の海外留学の拡大を産学の協力を得て推

進する」と書かれており、日本人の海外留学の

拡大が大きな課題と位置付けられている。この

点も含め、「グローバル人材育成推進報告書」

の主な内容と特徴をまとめておこう。

答申からほぼ 10年がたち、「グローバル人材

育成推進報告書」が出されたわけだが、「グロー

バル人材」の定義に大きな変化はない。「グロー

バル人材」とは、「日本人としてのアイデンティ

ティを持ちながら、広い視野にたって培われる

教養と専門性、異なる言語・文化・価値を乗り

越えて関係を構築するためのコミュニケーショ

ン能力と協調性、新しい価値を創造する能力、

次世代までを視野に入れた社会貢献の意識など

を持った人間」(『産学官によるグローバル人材

の育成のための戦略』3ページ)である。「グロー

バル人材」に求められる具体的な能力・要素と

しては、①語学力・コミュニケーション能力、

(2)主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・

柔軟性、責任感・使命感、(3)異文化に対する

理解と日本人としてのアイデンティティの 3つ

が挙げられている(『中間まとめ』7ページ)。

(2)の要素は「社会人基礎力」と言い換える

ことが出来る(『報告書~産学官でグローバル

人材の育成を~』33ページ)。(3)に関する能力・

資質は、『報告書~産学官でグローバル人材の

育成を~』では「異文化理解・活用力」と表現

されている。「異文化理解・活用力」は、「異文

化の差」を認識し興味・関心を持って柔軟に行

動することに加え、「異文化の差」をもった多

様な人々の中で自分を含めたそれぞれの強みを

認識し、それらを引き出し、相乗効果を生み出

して、新しい価値を生み出す能力とされる(同

上、32ページ)。異文化理解能力はこのような

活用力を含むべきとの主張は重要で、受け止め

るべきである。

「答申」と「グローバル人材育推進成報告書」

の大きな違いは、「グローバル人材育成推進報

告書」においては、日本企業と日本人(特に若

者)の現状に対する産業界と政府の危機感が色

濃く出ていること、また、期待される「グロー

バル人材」とは主に海外に進出した日本企業の

活動を支える人材としての位置づけが鮮明に出

されていることであろう。

まず、日本の国内市場の規模の縮小、内需の

限界、日本を取り巻く経済構造の変化のなか

で、「日本企業のグローバル化を推進すること

が、激しさを増す国際的競争環境のなかで日本

が生き残る条件」と捉えられる。そして、その

ためには海外市場(特にアジアの新興国市場)

に目を向ける必要性がある。しかし、企業のグ

ローバル化を推進する役割を担う国内の人材不

足が深刻化している。この背景には、低水準な

日本人の語学力と国際経験、低迷する若者の海

外志向、新興国での就労に対する低い受容性、

アジアや新興国での就労に関する企業側と学生

の意識の乖離といった諸問題がある。例えば、

TOEFL各国別比較(トータルな点数)では、

日本は、中国、香港、インド、韓国、シンガポー

ル、台湾に劣っている(データは 2009年)。平

成 16年以降、海外へ留学する日本人学生の数

は減少に転じている。海外勤務を望まない若手

社員は平成 12年には 3割程度だったが、平成

22年には 5割程度まで増加した。そして、企

業はアジアを重視したグローバル戦略を重視し

ているのに対し、学生が働きたい国・地域は欧

米中心であり、両者の間にミスマッチが見られ

Page 86: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

86

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

る。このような状況の中で、学校教育(特に大

学)と社会全体(特に企業と国)で「グローバ

ル人材」を育成する仕組みを構築する必要があ

る。若者の「内向き志向」は若者の志向のみに

起因する問題ではなく、海外に興味や関心を向

けさせる教育上の工夫が必要であるし、留学す

ることが様々なリスクにつながらないように企

業は採用活動や雇用慣行を抜本的に改善・充実

する必要がある。  

大学の最も重要な役割は、世界の学生にとっ

て魅力ある高等教育を提供することと、日本人

学生の海外留学を推進するとともに優秀な外国

人留学生を確保するための環境整備に求められ

ており、そのための具体的な方策が「国際的な

通用性を確保し、魅力ある教育を提供する」、「大

学自体をグローバル化する」、「日本人学生の海

外留学を後押しする」、「優れた外国人留学生を

獲得する」、「他国の大学づくりを支援する」と

いう事項のもとに整理されている。

以上のように、「グローバル人材育成報告書」

において、「グローバル人材」として育成が強

く期待されているのは、実質的に海外でのグ

ローバルな環境で企業活動の一員として「グ

ローバル・ビジネス」を担う人材である。この

ための最重要課題は、若者の「内向き志向」の

解消であり、海外でのグローバルな環境で活躍

するための語学力や異文化理解・活用力の育成

である。そして、最も重視されている方策の 1

つが日本人学生の海外留学を大幅に促進するた

めの環境整備である。

4.様々な地域におけるグローバル人材に育成

に向けて

語学力・コミュニケーション能力、社会人基

礎力、異文化理解・活用力を兼ね備えた「グロー

バル人材」の育成は今後ますます重要となるで

あろう。人文・社会科学系の教員で構成される

国際学部は、マルチディシプリナリな手法を基

本としながらもインターディシプリナリな教育

研究の拡大を図りつつ、特に異文化理解・活用

力育成の効果的・効率的な促進方策を検討して

いく必要が高いと思われる。ただし、「グロー

バル人材育成推進報告書」は日本経済の停滞と

日本企業の海外競争力に対する強い危機感を反

映しているために、「グローバル人材」育成の

必要性を、専ら日本企業のグローバル化を担う

「外向き」の人材という文脈で語っている。

国際学部の課題をこのような経済面での「外向

き」の人材育成に特化させることはできない。

国際学部は当初より、国際協力と国際交流分野

で活躍できる人材の育成に努めてきた。この分

野での「グローバル人材」育成の課題は今後ま

すます高まろう。そして、「グローバル人材」

の育成は、日本の地域社会でも同程度に求めら

れているということが改めて認識されなければ

ならない。

日本の地域での「内なる国際化」や多文化

共生の課題は、外国人労働者や外国人住民の

増加・定住化に伴って生じてきた。現在日本

には約 220万の外国人登録者がいる。厚生労

働省の「外国人雇用状況報告」によると平成

23年 10月末の外国人労働者数は 68.6万人で前

年同期比 5.6%増となっている。外国人労働者

数はここ 10年では 3倍以上の増加である。平

成 23年は東日本大震災の影響で一時的に外国

人労働者が減少した可能性があるが、その後

労働者数が回復したと思われる。かれらの労

働力なくして日本経済は成り立たないが、雇

用は不安定で労働環境は劣悪であるとの報告

が多方面でなされている。一方、文部科学省

「『日本語指導を必要とする外国人児童生徒の

受け入れ状況等に関する調査(平成 22年度)

の結果』について」 によると、平成 22年 5月

現在、74,214人の外国人児童生徒が日本の公立

学校に通っているが、そのうちの 3割を超え

る 28,511人の児童生徒が「日本語指導を必要

Page 87: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

87

多文化公共圏センター年報 第4号

とする児童生徒」である。就学義務が課されて

いないことや日本語のハンディのために、不就

学状態にある外国人児童生徒や、高校進学で

きない外国人生徒が相当数いると思われる。

不就学や高校進学できない子供たちの将来に安

定した雇用や生活を想像することは難しい。そ

れは、そのような人々を多く抱え込むかもしれ

ない日本社会のリスクに連なる問題でもある。

地域にともに暮らす外国人住民と日本人住民の

共生の問題もある。国土交通省の大規模調査か

らは、相互の交流を望む意識は、日本人住民の

ほうが外国人住民に比べてはるかに低いという

結果が出ている(国土交通省、平成 19年 3月)。

地域のイベントに外国人住民の参加を促し、か

れらのパワーの活用を図りながら、地域の活性

化や街づくりをともに進めようとする意識や取

り組みも全般的に遅れていると言えよう。まさ

に、このような目の前の地域の問題に向き合う

ことによって、地球社会を担う責任ある個人と

しての自覚の下に、学際的・複合的視点に立っ

て自ら課題を探求する能力や、「異文化の差」

をもった多様な人々の中で相乗効果を生み出し

て、新しい価値を生み出す能力が育成されるこ

とになるだろう。求められるのは、様々な地域

の諸問題に向き合うことが出来る「グローバル

人材」の育成である。

最後に、大学と初等・中等教育の接続に関し

て若干述べておきたい。「グローバル人材育成

報告書」でも、「グローバル人材」としての能

力や資質は大学 4年間のカリキュラムで完結す

るわけではなく、初等・中等教育からの積み重

ねが必要と述べられている。初等・中等教育で

「異文化理解・活用力」の育成に関わりが深い

のは国際理解教育であろう。国際理解教育は、

国際社会で「子どもたちが日本人としての自覚

を持ち、主体的に生きていく上で必要な資質や

能力を育成すること」を目的にした教育である

が、従来、外国の文化や歴史を学ぶといった「外

向き」の教育が主で、日本の「内なる国際化」

や外国人児童生徒の受け入れと関連付ける視点

は希薄であった。一方で、外国人児童生徒教育

は日本語指導・適応指導に重点を置くもので、

国際性の涵養という視点は希薄であった。外国

人児童生徒も将来の日本を担う「グローバル人

材」の候補生である。文部科学省は、「外国人

児童生徒教育は、日本人の子ども達の国際性の

涵養や学校そのもののグローバル人材の教育活

動の向上等にも資する」とし、「外国人児童生

徒と日本人児童生徒の交流や相互理解を深める

ような国際理解教育が期待される」と述べるに

至っている(文部科学省、平成 21年度『外国

人児童生徒の充実施策について(報告)』)。外

国人児童生徒教育と日本人児童生徒の国際理解

教育を関連付けて「グローバル人材」の能力や

資質の育成に資する体系的な教育を構想・開発

すること、このような研究を通じて初等・中等

教育を支援することも、大学の重要な役割であ

ると捉えるべきであろう。

 

文献・資料

・科学技術庁科学技術政策研究所、第一調査研

究グループ(吉田通治、神田由美子、前澤佑

一)『大学における新構想型学部に関する実

態調査』(調査資料・データ-53、1984年。

・厚生労働省「外国人雇用状況報告」(平成23

年10月末現在)http://jinjibu.jp/news/detl/6370/

(平成24年1月10日閲覧)

・グローバル人材育成推進会議『グローバル人

材育成推進会議 中間まとめ』平成23年6月

22日

・国土交通省国土計画局『北関東圏における多

文化共生の地域づくりに向けて』平成18年度

国土施策創発調査、北関東圏における産業維

持に向けた企業・自治体連携による多文化共

生づくり調査報告書、平成19年3月

・産学連携によるグローバル人材育成会議『産

Page 88: は じ め に - kokusai.utsunomiya-u.ac.jp · なのか、年報第4 号では「転換期における国際 学と公共圏」という特集を組み、2011 年とい う時代における国際学と公共圏の果たす役割に

88

Ⅰ 特集 転換期における国際学と公共圏

学官によるグローバル人材の育成のための戦

略』平成23年4月28日

・産学人材育成パートナーシップグローバル人

材育成委員会『報告書~産学官でグローバル

人材の育成を~』平成23年4月

・田巻松雄「多文化共生と共生に関するノー

ト」『国際学部研究論集』第26号、2008年10

・林正人「大学設置基準大綱化後の共通(教

養)教育のかかえる問題」2003年h t tp : / /

www.oit.ac.jp/japanese/toshokan/tosho/kiyou/

jinshahen/48-2/jin-sha_2/hayashi_masahito.html

(平成24年1月10日閲覧)

・文部科学省『外国人児童生徒の充実施策につ

いて(報告)』平成21年8月

・文部科学省「『日本語指導が必要な外国人

児童生徒の受入れ状況等に関する調査(平

成22年度)』の結果について」http://www.

mext.go.jp/b_menu/houdou/23/08/__icsFiles/

a� eld� le/2011/12/12/1309275_1.pdf(平成24年1

月10日閲覧)

・『第13回 国立大学新構想学部 教育・研究

フォーラム報告書』岩手大学人文社会科学

部、平成19年12月

・『第15回 国立大学新構想学部 教育・研究

フォーラム報告書』徳島大学総合科学部、平

成21年12月

・『第16回 国立大学新構想学部 教育・研

究フォーラム報告書』福島大学行政政策学

類、平成22年12月

・『第17回 国立大学新構想学部 教育・研究

フォーラム報告書』神戸大学発達科学部、平

成23年12月

 『高等教育質保証用語集』http://www.weblio.

jp/content/%E5%A4%A7%E7%B6%B1%E5%8C

%96(平成24年1月10日閲覧)