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越後毛利・ 安芸毛利発祥の地 みなみじょう 南条 いに しえ 柏崎市北条地区コミュニ ティ振興協議会 949-3724 本白解議市メご昇メ Jな 93怪 郭也 1 電話0257(25)3355 FAX0257(25 E―malLc‐ ktajo@kashiwazak卜 cc net
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 · 2015-12-07 · Created Date: 11/8/2015 3:14:35 PM

Jun 11, 2020

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越後毛利・安芸毛利発祥の地

みなみじょう

南条いにしえロー ド

柏崎市北条地区コミュニティ振興協議会〒949-3724 本白解議市メご昇メJな田93怪郭也1

電話0257(25)3355 FAX0257(25)3354E― malLc‐ ktajo@kashiwazak卜 cc net

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錮 こ¨ 熟 強TEL 0257(25)4152

佐橋神社西隣

北条名産

つららなす

北条ふるさと料理1■子~さ

な,3iり

歩いてみませたか !歴史と支イヒのろろまちiヒ祭

鶴 い|ヽ Lえ ●―ト

■南条いにしえ□― ドヘのアクセス

北陸自動車道「柏崎 IC」 から北条駅まで車で15分

」R信越線「北条駅」から「南条いにしえ□―ド」一周徒歩約90分

越後毛利・安芸毛FIJ発祥の地

みなみじょう

南条いにしえロー ド

●長島いにしえ□―ド

●南条いにしえロード

●北条毛利いにしえ□―ド

柏崎市北条地区コミュニテイ振興協議会〒949-3724 柏崎市大字大広田93番地 1

電言舌0257(25)3355 FAX0257(25)3354E― maiLc― kitalo@kaShiWazak卜 cc net

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平安時代、この地方は佐橋庄とよばれ、皇室の所領であつた。

鎌倉時代の承久の乱 (1221)以後、幕府は南庄に地頭を置い

て支配し、稚 豫皇室が預ソ話 先置いて支配した。武士は南庄を

南 条といい、現在の南条は南庄の一部である。南条の初見は文

永 7年 (1270)の 毛利経光の相続状である。むかし、南条は馬

の放牧地であつたのか、駒岡村とよばれた。天和 3年 (1683)

検地帳に、上南条地内の松右衛門 (馬 場コトヱ家の人)の畑

地として 「こまおか」の名が残つている。江戸時代になると

ポT業う。道苗・電雷案を合せて南条村といつた。下南条は

本村、上南条は荒屋敷 (新屋敷)と よばれた。

元禄 (1688-1704)の ころ、新田開発により鯖石川沿いに無

民家の南条新田村が誕生した。同村は明治10年 (1877)に南条

村と合併。

同34年 (1901)の 町村合併のとき、県参事会は「南条村・北

条村 。小澗村・広田村 。長鳥村を合併して東鯖石村とする」とい

う意見であつた。これに対して郡参事会や県知事は「南条村は中

鯖石村に合併させ、北条・小濶・広田 。長島の4村を北条村とす

る」という考えであつた。最終的には、明治34年 11月 1日 、南

条村12フ戸は前記 4カ村と合併し、北条村が誕生した。

それから55年後の昭ll132年 (1957)10月 1日、町制施行に

より北条村は北条町になる。同46年 (1971)5月 1日 には北条

町は柏崎市に合併した。

文治 2年 (1186) 佐橋庄の名の初見 (吾妻鑑 )

宝治元年 (1247) 毛利経光が鎌倉から佐橋庄南条へくだる

文永 7年 (1270) 南条の名の初見 (毛利経光相続状)

正中元年 (1324)くびき かんじよう てんまんぐう

頚城菅原神社を勧請して天満宮を建つ

廻肇コ式2■三(1335) 毛利時親が曾孫元春を安芸高田市へ差し向け、吉

田庄への奪回をはかる

廻罰式3毎三(1336) 京都の毛利時親、南条の親衡が安芸へくだる (安

芸毛利の起こり)。 親衡の弟憲広 (道幸)が南条に

残り越後毛利を支配する

康13年 (1457) 南条城主南 条広信が専称寺に土地を寄進

がこ1泉 21三 (1559)にんなんぜん さ お しよう

普広寺フ世人安全佐和尚が正雲寺を創建する

ヌこIE1 01三 (1582)なんじょうかつひら うちじに

南条城主南 条 勝衡父子が魚津城で討死

慶≡fミ 3毎三(1598) 会津移封により南条城が廃城になる

寛永年中(1624-44)

市川喜七・佐兵衛が鯖石川沿いを開墾して南条新

田村 (18石 1斗 9升 2合)が誕生

天和 31= (1683) 最初の検地が行われる

正徳元年 (1711) 村 鑑に「追田村・荒屋敷村 (上南条)・ 本村の3

カ村を合せて南条村と申す」とみえる

'台

13年 (1880) 刈羽神社をはなれ、上南条は佐橋神社、追田は

十二神社を氏神様とする

明治34年 (1901) 県参事会の意見により北条・小澗・広田・長島・

南条の 5村が北条村になる (県知事は北条村を東

鯖石村と改称、郡参事会は南条村を中鯖石村に編

入するという意見であつた)

天海は曹洞宗の紛争解決に貢献した名僧である。

天保 4年 (1833)、 農家の 3男 として生まれ、

名を万治といつた。父は下南条の星野治兵衛、母

は上南条の関藤助の娘のりといつた。

9才のとき、柏崎市平丼の福勝寺、俊 龍 和尚

に入門。翌年得度し、幡龍といい、のち天海・半

雲などと称した。19才のとき、師匠の命で松之山

陽広寺大納愚和尚に従い、関東へ修行の旅に出る。

2フ才のとき、金沢市の名刹天徳院の変堂和尚 (の ちの永平寺買主)に

入門し、森田梧由 (のちの永平寺貫主)ら と学ぶ。34才のとき眼病を

再発し、帰郷。この15年間の修行で出世の道が開かれる。

明治 3年 (1870)37才 のとき、師匠俊龍の死亡により福勝寺住職と

かしいで

大正 4年 (1915)、 樫出長造 (屋号 :どばし)の 4男 として生まれ

た。航空兵にあこがれ、昭和 9年 (1934)、 定員70名 に対し、 2万余

名が応募した所沢の陸軍飛行学校 1期生に入学。同14年 (1939)、 ノ

モンハンでソ連機を5機撃墜した。その後、「隼」の搭乗員となり南方

に転戦したが、本土防衛に召還され、山□県の飛行第 4戦隊長になる。

戦闘機 「屠龍」に搭乗。同19年 (1944)、 本土初空襲。翌年、広島に

なる。その後、柏崎香積寺・村松町慈光寺の住職を歴任。同18年 (1885)

53才のとき、総持寺買主畔上楳仙の特選により神奈川県足柄山の名栄」

最乗寺 4世独住となる。同34年 (1901)69才まで16年間住職をつとめ、

平丼福勝寺に帰る。

明治25年 (4892)、 丼上馨が内務大臣に就任し、曹洞宗の内紛解決

に乗り出した。曹洞宗は、開祖道元が開いた越前永平寺と永平寺 3世

の弟子螢山が開いた能登総持寺が管長の座をめぐつて争つていた。翌

年、丼上は両派から秋田大円寺の服部発震L最乗寺の星見天海を選び、

管長代行に任命した。天海は「在山81日、他は東京往復、他行に費や

せり」といつて、両派の和解に奔走した。管長選任の争いが解決した

のは、丼上退任 2カ月後の明治27年 12月であつた。せいぞく

天海は仏道にきびしく、子弟の指導には情愛をもってのぞみ、聖俗

広く信望の厚い人であつた。大正 2年 (1913)81才 のとき、平丼福

勝寺で生涯を終えた。遺骨は平丼福勝寺、足柄山最乗寺、下南条墓地

に分骨埋葬されている。

原爆を投下したB29爆撃機は、驚異的な性能

をもつ空の怪物であつた。樫出はこれを26機

も撃墜し、米軍から「B29キラー」として恐

れられた。

同20年、陸軍初の武功章を授章し、世界の

撃墜王になつた。米国の「世界名パイロット

列伝」は日本人 3名を載せ、その 1人が樫出

であり、世界から「エースパイロット」の称号を贈られた。

晩年は柏崎の鹿島に住み、平成15年 (2003)88才 で亡くなつた。

曹洞宗の紛争解決に尽力した名僧

ほ し み て ん か い

星見天海

¨勇

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|~

・‐ ト

か り わ じんじゃ てんまんぐう

此橋颯返誌駒①

通称 「こまばし」という。

戦国時代、北条と善根の殿様は同

じ一族でありながら仲が悪かつた。

ifじ案 筒召等は娘を毛利矢獅

に嫁がし、婿入りと称して大万之助

を北条城に招いて風呂で殺した。善

根の城兵がこの橋まで迎えに来る

と、大万之助が殺されたことを知り、

駒 (馬)を引き返したという。

あいざわなんじょう

し量

ちギ元年 (1324)に コ

城の菅原神社の分霊を勧 詳

して創建 され、文明 41(1472)貿違禦籠藪こょリネ殿が再建されたという。妥の後、

み篭じ奨願対等Ъ農義

うける。菅原道真をまつり

竃曇寒竿喜奨⑬靱 馨墓摯予蕊;器

② 刈羽神社 (天満宮)

警鸞

南条の史蹟と解説

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みなみ じょう

き入

」ヒ′程|

玲難

星見天海の墓

マップイラス ト・表紙絵 :白 金寿弥

三余堂は文政 3年 (1820)藍澤南城が29才のときに開いた学

塾である。

I殖 重ぶ舅 l。 で W71嘉 角 覗「

已寵 雲 b「ξ

天は時の余りといい、これを三余と称した。冬・夜・雨天は読書

の好機であるとし、時間を無駄にせず学問に励むよう説いた。塾

舎は間□ 5間・奥行15間の総 2階建。寄宿舎があつた。修業年限

は予科年 。本科 3年。月謝は予科15銭・本科20銭。寄宿料は月 2

円40銭。学風は素朴で、家柄の差別はしなかつた。

ξξξξξ

南条いに

長者屋敷跡

十王堂跡

瘍鋏三曇寺跡

しtlみなみしよう

下南条

杖跡一梨く

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三余堂を開いた 藍澤南城

寛政 4年 (1792)に生まれ、幼名文蔵、名は

祇 、通称要輔といつた。

父は力]納 の人で号を][鎮`とぃぃ、母は南条

の関俊彦家の人で班という。父は力]納 の寺澤

石 城:江戸の片山兼山に学び、片員の朝陽館で

学問を教えた。南城 6才のとき父が病死し、父

の死後 4日 目に妹佐和が生まれた。母子は片貝

から南条に帰る。15才のとき江戸へ出て松下―

斉の葛山塾で儒学 (折衷学)を学ぶ。

文政 2年 (1819)28才 のとき帰京した。妹の説得で南条に留まり、翌年三

余堂を開いた。三余堂は明治 6年 (1873)、 学制施行まで53年間続いたJ江

戸復帰め夢を捨て、寒村の子供たちを育てようと決意して南城と号す。素朴・

中 庸ζ無差別を旨とする人柄を慕い、遠近千余人、県下最多の塾生が三余堂

で学んだ。万延元年 (1860)、 69才で亡くなる。

あいさわなんしよう ほ ひ

藍澤南城の墓碑八石山西麓高台に藍澤家の屋敷跡がある。その一

角に学塾三余堂があつた。三余堂から7、 8分ほど

登つた山腹に藍澤家の墓地があり、南城先生の墓も

ある。藍澤南城は母妹の仕送りで江戸遊学し、のち

三余堂を開き、遠近千余の門弟を世に送り出した3

蒲原の大野趾堂と並ぶ大教育者である。

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枇跡れ寺”一国〓

」正 :④

じゅうおうとうあと

十王堂跡

>:>

曹洞宗正雲寺は、永禄 2年

(1559)に 北条の普広寺 7世

人安全佐和尚によ り創建。

南 条 駿河守の祈願所とされた

が荒廃し、延宝 8年 (1680)に普

広寺の芳 秀 和尚が本堂・庫裡を

建立し、中興開山となる。境内

地は726坪。本堂は間□8間・奥行 5間 2尺。昭和57年 (1982)3

月、第21世毛利天正が僧籍をはなれ、長野県に転住し、廃寺となる。

開基は正雲寺14世佛海

大和尚。拮華庵といい、

通称、十王堂という。本

尊は釈迦牟尼佛、脇座は

十王佛10体である。

7世 円山 随 乗 尼、 8

世祖法梅岳尼、 9世祖岳

梅元尼、10世祖典梅 城

尼 (石□・曾地の人)が在庵した。梅城尼は2才 5カ月のときか

ら34年間在庵し、昭和41年 (1966)4月、自根の青蓮庵へ転住し、

廃庵になる。

しよっかんじ さ はしじんじゃ

藍澤南城の墓碑

く一一一一け

しえロード

綿

|

大城坊碑

じようしじゅんなんしゃ ひ

城址殉難者碑妙姫庵3代山岸貞順は明治31年 (1898)5月 に城址殉難者碑 |

を建立した。この碑は明治18年 (1885)に佐橋神社の境内から |

出土した頭骨を供養したものである。頭骨は北条城と善根城の争 |

いで犠牲になった人であろうと思われていた。平成9年 (1997)、 |

関俊彦家から祖父周三郎が大正12年 (1913)に 山□県毛利公爵 |

家へ送つた書簡の写しが発見された。それは周三郎が毛利経光 :

の頭骨ではないかと思い、毛利家に照会した書簡である。 |頭骨が出土した地点の杉の巨木 (伐採されて現在は切り株を

'

残すのみ)の年輪と毛利経光が年代的に合致するので、経光の:

頭骨であるかも知れない。 |

⑤ 毛利氏の城館址と佐橋神社八石山の西麓に杉林の丘陵がある。

古来、そこに佐橋庄を支配した地

頭毛利氏の居館があったと伝えられ

ている。戦国時代を迎えると、毛利

氏の子孫である南条氏がその跡に

居城した。

慶長 3年 (1598)、 南条氏は会津、

その後米沢へ移つた。地元の関俊彦

家の先祖が城跡の荒廃を恐れ、天和

3年 (1683)に 神明宮を建立してそ

の保護につとめ、庄屋八左衛門が保

管していた検地道具を奉納した。

天和 3年検地帳に、城跡は上畑 1反 2畝 4歩 (364坪 )、 地主は次五兵

衛と記されている。また正徳元年 (1711)南条村指出帳に「現在は畑になっ

ていて、本丸は東西10間、南北25間εニノ丸はない」とある。城跡の南

麓に刀砥ぎ場があり、南200mあたりには古屋敷 (天和検地帳に 1町 8反

26歩 c7,334坪)と称する水田がある。

慶応元年 (1865)、 前出の神明宮は佐橋神社と名を改めた。そうして

上南条の住民は明治13年 (1880)9月 から刈羽神社の氏子をはなれ、佐

橋神社を氏神様とした。

みょうきあんあと

妙姫庵跡弘化元年 (1844)、 藍澤南

城の妹佐和47才が得度して玄

妙と改め、妙姫庵を開いた。

佐和の父は加納の藍澤五三郎

の子要助 (北漠)。 母は南条の

関治五兵衛 (関俊彦家の人 )

の娘班。寛政 4年 (1797)南

城 6才 のとき父が亡くなり、

佐和は父の死後 4日 目に生まれた。母子は片貝から南条へ帰り、佐和は母

を助け、南城の江戸遊学の仕送りをした。玄妙 (佐和)は慶応元年 (1865)

69才で入滅。妙姫庵は初代玄妙 。2代妙真・ 3代貞順・ 4代厚順 。5代

良仙・ 6代仙宗が在庵し、通称観音堂とよばれた。初代 。2代・ 3代の墓

が庵前にある。仙宗が昭和46年以後に小出の柳原寺にうつり、廃庵になる。

堂は間□5間・奥行 4間 3尺。境内地は141坪。

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毛利氏は大江広元の4男季光が毛利庄 (神奈川県厚木市)に

住み、毛利を名のつたのが始まり。宝治の舌L(1247)の ときつねみつ さはじしょう

季光の一族が滅んだ。たまたま4男経光が生き残り、佐橋庄あ き

南 条へきた。彼は鎌倉幕府から佐橋庄南条と安芸吉田庄 (広

島県安芸高田市)の領有を許された。そして皇室領の佐橋庄北もとちか ときちか

条を長男基親に治めさせ、佐橋庄南条と吉田庄を4男時親に相

続させた。

幕府が減び、後醍醐天皇の新政権が成立すると、天皇は毛

利氏の吉田庄を近臣花山院師賢に与えた。やがて天皇と足利

尊氏の対立が起こる。毛利時親は曾孫元春を安芸へ差し向け、

足利氏の力を借りて吉田庄を取り戻した。元春の父親衡は越後

で天皇方 (新田氏)を支持して敗れ、建武 3年 (1336)に 元

春をたよつて安芸へ移つた (安芸毛利の起こり)。 このとき親

衡は越後の所領を弟憲広に託した。

憲広の嫡子元豊が石曽根 。南条の毛利の始祖。2男憲朝は新

しく得た鵜川庄安田条をつぎ、安田毛利となる。北条毛利は初

代時元の子・孫たちが天皇方新田氏に属して衰微し、惣領の座

が石曽根元豊に移る。宝治の舌しで族滅した毛利が、南条で復活きたしょうたかひろ やすたよしもと もうりもとなり

し、越後と安芸で発展して北条高広 。安田能元 。毛利元就ら

が出現 した。南条は厚木につぐ毛利発祥の地である。