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インドネシアの出産の近代化と医療化 松岡悦子 ( 奈良女子大学) インドネシアでは、ドゥクン・バイィ(dukun bayi)と呼ばれる伝統的助産者が長く出 産を介助してきており、現在でも一部の地域ではドゥクンを呼んで自宅で出産する人たち が存在している。それに対して免許を持った助産師はビダン(bidan)と呼ばれている。都 市部では病院出産が一般的であり、都市近郊では助産師の運営するクリニックやプスケス マス(保健所)での出産が多い。本調査では、中部ジャワ州ジョクジャカルタ市内の病院、 およびクラテン県村落部の助産所で調査を行った。インドネシアの特徴は助産師職がしっ かり根付いていることであり、出産の場が自宅から助産所あるいは助産師のクリニック、 さらに病院へと移行しつつある中でも、比較的正常な出産が保たれていると言えよう。 そこでまずインドネシア全体の出生統計を概観し、次に助産師職の歴史について述べる。 その後、ジョクジャカルタ市内の病院、およびクラテン県の助産所での調査をもとに、医 療化の実態を明らかにするとともに、医療化を促進する要因と抑制する要因について考察 する。 インドネシアの出生統計 インドネシアでは、現在も助産師のビダンが妊娠・出産の重要な担い手であることは、図 1 および図2から明らかである。図1は、妊婦健診の提供者別割合で、Praktek bidanPuskesmasPoskesdesPosyanduRB はビダンが開設するあるいは中心となる施設 であることを考えると、病院(RS 6.5)Praktek dr(4.3) 以外のほぼ 90%はビダンによる 妊婦健診を受けていることになる。また、図2は地域ごとの出産場所を表しており、イン ドネシア全体では 29.6%が自宅、残りは施設分娩となっている。また、インドネシア全体 での助産師数は 137,110 人とされ (Kemkes, 2013)、これは日本の就業助産師数(36,395 人、2013)と比較して多く、インドネシアでは人口 10 万対 55 に対して、日本の助産師は 29 とおよそ 2 倍になっている。 図1.妊婦健診の提供者の割合 (Riskesdas 2010) RS 6,5 RB 3,5 Puskesmas/ Pustu 16,6 Praktek dr/ klinik 4,3 Praktek bidan 52,5 Poskesdes/Pol indes 6,0 Posyandu 10,0 Lainnya 0,6 2015
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報告書(松岡②) 図2.出産場所 (Riskesdas, 2013) 助産師教育の歴史 インドネシア助産師会(IBI:Ikatan Bidan Indonesia)は1951年7月24日に設立され、

May 23, 2019

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インドネシアの出産の近代化と医療化

松岡悦子 (奈良女子大学)

インドネシアでは、ドゥクン・バイィ(dukun bayi)と呼ばれる伝統的助産者が長く出産を介助してきており、現在でも一部の地域ではドゥクンを呼んで自宅で出産する人たち

が存在している。それに対して免許を持った助産師はビダン(bidan)と呼ばれている。都市部では病院出産が一般的であり、都市近郊では助産師の運営するクリニックやプスケス

マス(保健所)での出産が多い。本調査では、中部ジャワ州ジョクジャカルタ市内の病院、

およびクラテン県村落部の助産所で調査を行った。インドネシアの特徴は助産師職がしっ

かり根付いていることであり、出産の場が自宅から助産所あるいは助産師のクリニック、

さらに病院へと移行しつつある中でも、比較的正常な出産が保たれていると言えよう。 そこでまずインドネシア全体の出生統計を概観し、次に助産師職の歴史について述べる。

その後、ジョクジャカルタ市内の病院、およびクラテン県の助産所での調査をもとに、医

療化の実態を明らかにするとともに、医療化を促進する要因と抑制する要因について考察

する。 インドネシアの出生統計 インドネシアでは、現在も助産師のビダンが妊娠・出産の重要な担い手であることは、図

1 および図2から明らかである。図1は、妊婦健診の提供者別割合で、Praktek bidan、 Puskesmas、Poskesdes、 Posyandu、 RB はビダンが開設するあるいは中心となる施設であることを考えると、病院(RS 6.5)と Praktek dr(4.3) 以外のほぼ 90%はビダンによる妊婦健診を受けていることになる。また、図2は地域ごとの出産場所を表しており、イン

ドネシア全体では 29.6%が自宅、残りは施設分娩となっている。また、インドネシア全体での助産師数は 137,110 人とされ (Kemkes, 2013)、これは日本の就業助産師数(36,395人、2013)と比較して多く、インドネシアでは人口 10万対 55に対して、日本の助産師は29とおよそ 2倍になっている。

図1.妊婦健診の提供者の割合 (Riskesdas 2010)

210

Gambar 14.10

Cakupan indikator ANC K1 ideal dan ANC K4 (ANC 1-1-2) menurut provinsi, Indonesia 2013

b. Tenaga dan tempat pemeriksaan kehamilan

Tenaga kesehatan yang kompeten memberi pelayanan pemeriksaan kesehatan ibu hamil adalah dokter kebidanan dan kandungan, dokter umum, bidan dan perawat (Direktorat Bina Kesehatan Ibu, Kemkes RI, 2009). Fasilitas kesehatan disediakan untuk meningkatkan cakupan pelayanan kesehatan ibu hamil dari rumah sakit hingga posyandu.

Gambar 14.11 adalah proporsi pelayanan ANC menurut tenaga dan tempat menerima ANC. Bidan merupakan tenaga kesehatan yang paling berperan (87,8%) dalam memberikan pelayanan kesehatan ibu hamil dan fasilitas kesehatan yang banyak dimanfaatkan ibu hamil adalah praktek bidan (52,5%), Puskesmas/Pustu (16,6%) dan Posyandu (10,0%). Pola ini juga terlihat di semua provinsi.

Gambar 14.11 Proporsi pemeriksaan kehamilan menurut tenaga dan tempat mendapat pelayanan ANC,

Indonesia 2013

Proporsi tenaga kesehatan yang memberi pelayanan pemeriksaan kehamilan menurut provinsi dan karakteristik dapat dilihat pada buku Riskesdas 2013 dalam Angka. Masyarakat dengan karakteristik tinggal di perdesaan, pendidikan rendah dan berada pada kuintil indeks kepemilikan

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Puskesmas/ Pustu 16,6

Praktek dr/ klinik 4,3

Praktek bidan 52,5

Poskesdes/Polindes 6,0

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Lainnya 0,6

2015

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図2.出産場所 (Riskesdas, 2013)

助産師教育の歴史 インドネシア助産師会(IBI:Ikatan Bidan Indonesia)は 1951年 7月 24日に設立され、その 50 周年を記念して『インドネシア助産師会五十周年:未来へ向かう助産師』(2001)が編纂された1。ここではそれをもとに助産師会の歴史を概観する。 インドネシアの助産師教育は、オランダ領東インド時代の 1807年にすでにドゥクンに対する教育として行われたとの記録があるが、それは長続きしなかった。1849年にバタビア(現在のジャカルタ)オランダ軍病院(現在のガトット・スブロト陸軍中央病院)で助産

教育が開始されたが、それも継続しなかったようで、1902年にバタビアとマカッサルで助産教育が再開され、1911 年からはスマランとバタビアで 4 年間の看護教育が開始された。当初は男子のみを受け入れていたが、1914年からは女性をも受け入れるようになり、看護教育を終えた後に、さらに 2年間の助産教育を受ける女性たちもいた。1935年からオランダ統治政府は、ジャカルタのブディ・クムリアアン産科病院(RSB Budi Kmuliaann)やスマランなどの都市で助産学校を開校した。日本の統治期にもオランダ時代の看護・助産

学校が引き継がれた。そしてインドネシアが 1949年に独立して以降分娩介助者の必要性が増し、1950年~53年にかけて 3年間の助産師学校(PKE教育)が開校されるようになり2、これは 1976年に廃止されるまで続いた。 保健省は、医療に関する専門学校が多いのを整理するためとして助産専門学校を閉鎖し、

さまざまな医療業務を手掛けることのできる衛生看護学校(SPK)を開校した(1974 年)3。そのため、助産師の養成は 1984年まで停止され、1985年になって看護学校(SPR)と衛生看護学校(SPK)の卒業生を受け入れる PPBという 1年間の助産師教育プログラムが

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Gambar 14.17

Proporsi tempat bersalin menurut provinsi, Indonesia 2013

Gambar 14.18 menyajikan proporsi tempat bersalin di fasilitas kesehatan (RS, RB/klinik/praktek nakes, puskesmas/pustu) dan polindes/poskesdes serta di rumah menurut karakteristik. Pada kelompok ibu berumur risiko tinggi (umur ibu kurang dari 20 tahun dan umur 35 tahun ke atas) lebih banyak melahirkan di rumah yang mencapai 64,5 persen. Sedangkan ibu dengan tingkat pendidikan dan kuintil indeks kepemilikan teratas, bekerja sebagai pegawai dan tinggal di perkotaan paling banyak melahirkan di fasilitas kesehatan. Sebaliknya ibu dengan pendidikan rendah, tinggal di perdesaan dan dengan kuintil indeks kepemilikan terbawah memilih melahirkan di rumah.

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開始され(PPB/A)、卒業生は各地の村落に配属された。それらの助産師は国家公務員として処遇され、1996 年までにほとんどの村に 低 1 人の助産師が勤務していること(BBD: Bidan Di Desa村落助産師)が目標とされた。しかし、1年間という短期間の教育で母子保健の知識と村で人々とコミュニケーションをとる能力を培うことはむずかしく、助産師と

して十分な能力を身につけるプログラムとは言えなかった。また、その後 PPB/B(1 年間で PPB/Aの教師を要請するプログラム)や PPB/C(中学校卒業生を受け入れる一部の州でのカリキュラム)の他、いくつかの州では通信教育やさまざまの講習会が行われて、助産

能力の向上や更新が図られた。 現在、インドネシアでは助産師になるためには高校卒業が基本となっており、その後 3年間の専門学校か、あるいは 4年生大学で資格をとる道の2つがある。以下は、2001年時点で策定された 2010年の配置計画である。 表1.2010年の助産師の需要と教育資格(計画) 番号 職場 教育(学位)別 合計(人)

D1 D3 D4 S2 1 病院

―入院 ―分娩室、通院 ―サービスの担当者

760

2832 -

6078

13,572 2,484

760

3,544 3,004

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19,948 5,488

2 プスケスマス 5,773 17,319 - - 23,092 3 入院可能なプスケスマス 5,991 11,629 - - 17,620 4 補助プスケスマスの村落助産師 8,720 78,489 - - 87,209 5 教育機関 - 350 945 180 1,475 6 保健局と保健省 - 1,116 9,668 17 10,801 7 研究者助産師 PSW - - - 180 180 8 専門職協会 716 714 374 2 1,806 合計 24,792 131,751 18,295 379 175,217 これを見ると、D3という 3年間の専門学校を卒業する助産師の大半はプスケスマスで働くことが期待され、次いで病院で働くことが期待されている。それに対して数としては少

ない 4 年生大学卒業の助産師は、保健局や保健省などの行政に携わることが期待され、続いて病院勤務となっている。都市近郊や村落部にあるプスケスマスに勤務することは想定

されていない。全体として 2010年の助産師数を 175,217人と見積もっていたが、現実には2013年の時点で約 13万人となっている。 インドネシア助産師会(IBI)の歴史

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『インドネシア助産師会五十周年:未来へ向かう助産師』の中で、インドネシアの助産

師の歴史の 初に記載されているのは、1945年にスラバヤで勃発したオランダ軍との戦いに、16名の準助産師が赤十字のもとに派遣されたことである。この 16名のうちの半数がその後も助産師を続けたが、この助産師たちのインドネシア独立への思いがその後の助産師

の結束と会の設立につながったとされている。オランダとの戦いに勝ち、1949年 12月 27日にインドネシアの主権が認められると、翌 1950年に助産師たちはジャカルタのブディ・クムリアアン産科病院で協会設立の協議を始めた。そして 1951年 7月 24日にはボゴールの大統領宮殿でスカルノ大統領に拝謁する機会を得たので、助産師たちはその日を設立日

と定めた。会の事務局はブディ・クムリアアン産科病院に置かれ、助産師会のシンボルが

定められた(図3)。このマークの円は助産師の団結を意味し、その中のザクロは豊穣を意味する。ザクロは伝統的に薬として用いられており、熟してはじけたザクロは成熟を意味し、

2枚の葉は男性と女性による生殖を表すとされている。

図3.IBIのロゴマーク 助産師会は結成と共に女性協議会に団体として加入し、女性のエンパワメントを担う国

の一角としての役割を果たすようになる。第1回インドネシア助産師会の大会が 1953年に開かれ、第2回 1955年、第 3回 57年、第 4回 62年、第 5回 69年、第 6回 74年、第 7回 78年、第 8回 82年、第 9回 85年、第 10回 88年、第 11回 93年、第 12回 98年と会を重ねている。1956年には国際助産師連盟(ICM)に加入し、1974年のスイス、1981年のイギリス、1996年のノルウェーなどの大会で研究発表をするとともに、1985年と 2000年の 2 回にわたって、ICM アジア太平洋会議を開催している。インドネシアは 2015 年の横浜で開かれた ICM アジア太平洋会議にも多くの参加者を派遣し、かつ 10 名近くが研究発表を行うなど、ICMにおいても大きな存在感を出している。 このように助産師会の組織運営は堅固に見えるが、約 60 年の活動の中で 10 年間にわたる助産師学校の閉校という危機的なできごとを経験している。1974年に助産師会は、助産師の専門性を高めるには看護学校ではなく助産師学校が必要であるとして、助産師学校の

存続を訴えたが、冷たくあしらわれ、ついに 1977年から閉校となった。そこで助産師会の役員たちは、会のあり方を変革する必要を感じ、2つの戦略をとった。一つは国内的に強い後ろ盾を得ることであり、もう一つは国内外の活動に積極的に参加することであった。そ

こで 1978年の第 7回大会以降、助産師会の会長以外に保健省大臣を後援者に加え、大学教

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授など数名を顧問に据えて中央委員会を構成することにした。また、1970年以降インドネシアが国家開発計画の柱として力を入れていた家族計画と母子保健に、助産師会として積

極的に貢献することを打ち出し、政策に積極的に協力する姿勢を見せた。さらに 2 つ目の国内外の活動を活発にすることについては、盲人の財団の設立、政府の母乳育児率の向上

のキャンペーンへの協力、国際助産師連盟での研究発表などにより、助産師会の存在を強

くアピールすることに成功した。そして 1985年から再び、助産師学校がいくつかの州で再開されるようになったが、その背後には助産師会が母子保健と家族計画の重要性を訴えて

国家家族計画調整庁(BKKBN)と共同し、かつスハルト大統領夫人の助力を得たことがあったとされる。 また、1982年に助産師会はブア・デリマという福利厚生のための財団法人を作り、1998年には企業活動のできる別組織として助産師会を側面から支えるようにしている。ブア・

デリマは、様々な団体から資金援助を得るほかに、助産師の行う事業に資金を貸し付け、

インドネシア助産師会病院、保育園を設立し、ベビーシッター事業や高齢の助産師のため

の老人施設を設立するなども行っている。 以上のように、インドネシアの助産師会は内部的にもまた国際社会においても、専門職

集団として確固とした地位を築いている。インドネシアの助産師が社会の中で力を持って

いるのは、独立以前にオランダが統治して助産師教育を開始したことと関連しているのか

どうかについてはよくわからない。しかし、先進国の中でオランダが も助産師に大きな

権限を与えている国であることを考えると、オランダによる植民統治が現在までのインド

ネシアの助産師職のあり方に影響を与えている可能性がないとは言えない。 APN(Asuhan Persalinan Normal 正常分娩ガイドライン)とビダン・デリマ(Bidan Delima) このようにインドネシアでは助産師の力が大きく、現在も助産師は妊婦健診の大半を行

い、人々の信頼を得ている。そして 75%の正常産を助産師が行い、残り 25%の異常産を医師が手掛けると公式には言われているにもかかわらず、現在急速に出産が助産師の手から

医師の手に移りつつある。出産の介助者が、しろうとの介助者から資格を持つ助産師に、

さらに医師へと移る過程はすでに多くの先進国で見られた変化であり、その意味でインド

ネシアも現在その途上にあると見ることができる。だが、助産師から医師への移行が生じ

た背景についてはそれぞれ個別の事情があり、インドネシアにおいては APNの導入が大きな影響をもたらしていると考えられる。APNとは、18項目からなる正常/異常の判定項目にしたがって、正常と判断された妊婦のみを助産師が扱うことを定めたもので、さらに正

常産には 58の踏むべきステップが定められている。 そこで APN導入の背景について、ジョクジャカルタの IBIの会長であるヌニック氏の話

を紹介する(2011年 10月 18日にインタビュー)。

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「APN は、インドネシアの妊産婦死亡率を下げるために保健省が導入したプログラムで、WHO とインドネシア産婦人科医会、インドネシア看護師会も協力して作成しました。

MDGs(Millennium Development Goals)では、 2015年までに妊産婦死亡率を 102に減らすことが目標になっていますが、2003年のインドネシアの妊産婦死亡率は 307,2007-2010 は 228 で、2010-2015 年に 100 まで減らすのは現実的にはむずかしい。分娩の 85%は正常で助産師が扱い、残り 15%は異常で医師が扱うべきで、APNにはその基準が書かれています。APN の目標は助産師の技術を向上することと、異常時には助産師と医師が協力して介助できるようになることです。

APNの認証は、10日間のコースで行います。前半の 5日間は講義、後半の 5日間で指定したクリニックで実習を行い、2件の出産を介助することになっています。ジョクジャカルタでは APNは 2005年から始まりましたが、ジャカルタではもっと早く 2000年か 2001年に始まっています。インドネシア全体で APN コースを受講した助産師は 20%ぐらいで、ジョクジャカルタでは約 1500人が受講しました。助産師が自分の職能範囲を理解し、扱ってはいけない出産については医師の協力を得ることで、死亡率を減らすことができるはず

です。 APNは助産師向けのガイドラインなので、医師への影響は特にないと思います。APNが

できたことで、医師との関係は良くなったのではないかと思います。以前は、医師に搬送

したときに「何でこんなに遅く送ってきたのか」と言われることがありましたが、現在は

ガイドラインを守っているので医師と助産師は協力してやっています。 ビダン・デリマは、開業助産師で高い技術をもっていることを証明する称号で、これに

なるためには APNのコースに合格していなければなりません。」 以上のように、APN はインドネシアの高い死亡率を減らすために導入され、助産師と医

師の職能範囲をはっきりとさせるためのものである。だが、これが単に両者の境界を明瞭

にし、その協力を促すという機能だけでなく、出産を助産師の手から医師の手に渡す効果

をもっていることについては後に事例をあげて紹介する。 助産師ムスリマトンー病院経営者になった事例 ビダンの社会的地位が高いことを示す一つの例として、ジョクジャカルタのヤヤサン・

サキナ・イダマン病院のオーナーであるビダンのムスリマトゥン氏(1953年生まれ)の話を紹介したい。聞き取りは 2012年 9月に病院で行った。 「私は 1976 年に助産学校を卒業し、1981 年までベテスダ病院で助産師として働き、そのあとは公務員として 2009 年まで国立病院で働いていました。その間の 1993 年に助産所

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(Bidan Praktek Swasta: BPS)を開業し、2年後の 95年には分娩件数が増えたので産科クリニック(Rumah Bersalin)にしました。」 ―― 初に助産所を開こうと思ったのはどうしてですか。 「私は公務員として昼間は病院に勤め、夜はさらに別のクリニックで働いていたのですが、

子どもが外で働かないでほしいと言ったのです。それで夫が助産院を開く手続きをしてく

れました。それで助産師をしながら、子どもの面倒をみることができるようになりました。

子どもは、男(32 歳)、男(28 歳)、女(16 歳)の 3 人で、上の2人は医師で、それぞれの妻も医師で、ここで働いています。」 ――分娩件数はどれぐらいでしたか。 「 初に助産所を開いた年には月に 2-3 件の分娩件数でしたが、95 年にクリニックにしたときには月に 50-60 件になっていました。クリニックにした理由は分娩件数が増えたことと、さまざまな症状の妊婦に対応するには、より医学的な対応ができる産科クリニックに

したいと思ったからです。助産所の場合は産科専門医と契約している必要はなくて、ただ

医者であればいいのですが、産科クリニックになると産科専門医と契約していなければな

りません。それでも病院と違って、この医者は常勤でなくてもいいのです。病院の場合は

常勤の専門医が必要になります。現在、このヤヤサン・サキナ・イダマン病院は産婦人科・

小児科専門病院ですから、常勤の産婦人科と小児科の医師が必要です。」 ――助産所を開業した当時は、どのような出産が一般的でしたか。 「その頃は家にビダンを呼んで出産するのが多かったと思います。ジョクジャカルタでは

ビダンを呼びますが、地方ではドゥクンを呼んだでしょうね。その次に多いのは、プスケ

スマスでビダンに取り上げてもらうことでしょう。病院で産むことはほとんどなかったで

す。今でもドゥクンを家に呼ぶ人はいますが、ドゥクンは産婦の体をさすって痛みをやわ

らげたり、励ましたりするだけで、取り上げるのはビダンがすることになっています。」 ――いつ、どうしてクリニックから病院にされたのですか。 「2006 年に病院にしました。その頃には、出産数は月に 75-100 件になっていました。病院にしたのは、施設をより包括的にしたかったからです。より高度な医療が必要な時に、

患者を他の病院に送らなければなりませんが、患者から『なぜ他の病院に移らないといけ

ないのか、ここではできないのか』と言われたことがあります。今、この病院は

PONEK(Pelayanan Obstetric Neonatal Emergency Komprehensif)です。今なら帝王切開でもここでできますし、他の病院に搬送しなくても包括的なケアを提供できます。患者に

とってはより安心できますし、私は 後まで患者のめんどうをみることができます。そし

て、病院内で手当てができることで、手遅れになることがなく、死亡率を減らすことにな

ります。」 ――ビダンが病院を開設することができるのですか。 「民間の病院ならビダンが開設できます。オーナーになれるということです。2006年には私が病院を開設し、院長でした。ですが 2011年に新しい規則が施行され、病院の院長は医

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師でなければならなくなったので、今は長男が院長になっています。助産師も法人として

病院を設立することができます。」 ――病院になり、医師が身近にいることで医療を使うことが多くなりませんか。 「いいえ。正常分娩の基準があり4、それを守るので不必要に促進することはありません。」 ――医師がいると、出産を早めようとして促進剤を使うことはないですか。 「いいえ、医師は 後の段階まで産婦の所には来ません。ずっと助産師が産婦のそばにつ

いていて、医師は生まれる直前にやってくるのです。ですから正常分娩であるかぎり、病

院になったからと言って促進が増えるわけではありません。ですが陣痛がうまく進まず、

パルトグラムに照らして処置をしなければならないときには刺激を与えます。オキシトシ

ンによる刺激ですが、これはしなければならない処置で、決してお産を早めようとしてす

るのではありません。それはマニュアルに書かれていることで、たとえば 4 時間経過しても進行が見られない場合は、オキシトシンで刺激するか帝王切開かを判断します。」 ――病院の帝王切開率はどのくらいですか。 「帝王切開率は、だいたい 20%です。助産師は 75%の出産をとりあげています。妊婦健診は、助産師も医師もどちらでもできます。ここでは、妊婦健診を助産師で受けた人は出産

も助産師が取り上げます。出生届には、取り上げた助産師の名前が記載されます。妊婦健

診に医師を選んだ人は、出産については医師が取り上げる場合と、助産師が取り上げる場

合があります。医師が取り上げる場合も、子宮口が全開大になって、赤ん坊の頭が見える

ようになる頃に医師を呼びます。異常がない限り、医師は助産師に呼ばれるまで来ずに、

助産師がずっとついています。だから医師が間に合わないこともあるし、医師はやってき

て会陰を縫合するぐらいです。」 ――ムスリマトン氏は、出産においてビダンが取り上げる方がいいと思いますか。 「はい、女性にとってはその方が快適だと思います。正常分娩なら助産師がとりあげるべ

きです。インドネシアでは、正常産はすべて助産師が取り上げるのがいいと考えています。

その方が安いですし。そうすれば、専門医は正常でない分娩に集中する時間ができます。

ここでは硬膜外麻酔もできますが、麻酔を使った出産は 1%もありません。私は、出産は麻酔なしで正常に産んだ方が良いと思います。薬には必ず副作用があるし、出産は自然ので

きごとですから。」 ――料金は助産師と医師とで違いますか。 「妊婦健診の費用は、助産師の場合どんなに長く話しても費用は変わりませんが、医師の

場合相談内容によってABCDEの 5つのランクがあります。 も低いグレードの相談でも、

助産師に相談するときの 6 倍の料金です。出産介助は、助産師は医師の料金の半分です。正常分娩だとしての話ですが。助産師がずっと 後までケアしていて、 後に医師がやっ

てきてとりあげる場合でも、医師が料金の 80%を受け取ります。これは医師が病院の従業員ではないからです。残り 20%が助産師のところに行きますが、これは助産師個人がもらうわけではありません。助産師は病院の従業員なので、病院の収入となります。」

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――女性の多くがビダンに取り上げてもらいたいと思っているとすれば、医師のいる病院

にする必要がありますか。 「妊産婦に異常があった時に、医師の助けが必要になるからで、異常は助産師には扱えな

いからです。患者も安心するでしょう。医師にお金をたくさん払わなければならないとし

ても、お金のためだけに仕事をしているわけではありません。仕事をする理由の 1 つは、出産まで患者を看たいということと、もう1つは利益を上げることです。だから、病院に

することで患者を 後まで看ることができて充実感があるのです。」 以上のように、助産師のムスリマトゥン氏は、助産所から産科クリニック、そして病院

へと規模を拡大し、地域に根差した医療施設を築き上げてきた。しかしそれは、助産師の

社会的地位が医師と同等だということではなく、助産師と医師との間には大きな差がある

ことが、妊婦健診や分娩料金の違いに現れている。また逆に言えば、人々が助産師に健診

や分娩介助を依頼するのは、助産師の方が医師に頼むよりもずっと安いからでもある。そ

うであるならば、将来健康保険が整備されて医師の値段が助産師と比べて大差なくなった

ときに、人々が助産師を選ぶかは疑問と言えよう5。 助産師インダルワティと APN の影響 インダルワティ(1959年生まれ)は、ジャワ島中部クラテン県ムランゲン村で助産所を開いている。彼女は 1991 年からムランゲン村のプスケスマス(保健センター)に配属されて出産を介助していたが、自宅でも助産所を開き、2006年にビダン・デリマの資格も得た。私は 1993年に始めてインダルワティに会って以来、現代まで断続的に彼女の助産所を訪問してきた。彼女は 90年代には地元のドゥクンと共に介助し、ビダンが赤ん坊をとりあげ、ドゥクンは助手兼出産後の産婦の世話や衣服の洗濯、生まれた赤ん坊の沐浴やマッサージ、

儀式を担当し、非常にうまい協力関係を築いていた。産婦は産後 5 日間助産所で過ごし、その間毎日ドゥクンがやってきて赤ん坊の入浴とマッサージを担当していた。

1998年~1999年にインダルワティの助産所の分娩数を調査したところ、月平均 19件であった。さらに、2000年にムランゲン村の 20代~60代の女性 96人に質問紙調査を行い、その女性たちの 339 人の子どもたちの出生場所を調べたところ、病院出産はわずか 6 人(1.8%)であった(松岡 2006)。それに対して、図4は、1999 年以降のインダルワティの助産所に来た全妊産婦数と分娩件数と病院への搬送数を図にしたものである6。インダルワテ

ィのところで分娩した数と搬送数を足したものが全妊産婦数となる。2006年以前の搬送数がわからないため、インダルワティのところで分娩を終了した数をそのまま全妊産婦の数

と見なしているが、実際には何人かの搬送があったと考えられる。全妊産婦数を見ると、

年により増減はあるもののそれほど減っていない。しかし搬送される数は次第に増加し、

それと共に分娩件数は減少している。全妊産婦数に占める搬送割合をみたのが図5であり、

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2007 年には 25.4%であったのが、2013 年には 43.7%の女性が搬送されるまでになっている。

図4.インダルワティの助産所にやってきた全妊産婦数と分娩数、搬送数

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2007 2008 2009 2010 2011 2012-2013

搬送割合

図5.インダルワティの助産所の搬送率 また、搬送された数のうち帝王切開になった数を示したのが図6であり、搬送件数の増

加につれて、帝王切開数も増加していることがわかる。さらに図7は、病院に搬送された

数のうち帝王切開になる割合を見たものだが、30-40%が帝王切開になっていることがわかる。また、この帝王切開が全妊産婦に対して占める割合を見ると、2008 年には 7.4%であったのが、2013 年には 15.4%となっており、倍増している(図7)。インダルワティは、ビダン・デリマの認証をとって以降、厳密に APNの基準を守っており、助産師が扱ってはな

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分娩件数

搬送件数

全妊産婦数

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らないとされるケースをすべて病院に送っている。つまりこの数値は、APN に定められた基準に従って振り分けると、搬送割合が次第に増え、帝王切開率も増えていくことを表し

ている。それとともに、助産師が扱える出産、つまり正常な出産は減っていくことになる。

図6.搬送件数と帝王切開の数

図7.搬送された人に占める帝王切開の割合と、全妊産婦に占める帝王切開の割合 ただし、ビダンが忠実に病院に搬送するのは、インセンティブが設けられているからで

もあるようだ。ビダンが、前回帝王切開などの正常産のガイドラインに当てはまらない妊

婦を病院に転送した場合 5 万ルピア(100 ルピア 1 円として 500 円)が支払われ、陣痛開始後に助産師が病院に産婦を搬送した場合には 15 万ルピア(1500 円)がビダンに支払わ

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2008 2009 2010 2011 2012-2013

搬送件数

帝王切開数

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2008 2009 2010 2011 2012-2013

搬送件数に占める

帝王切開割合

全妊産婦に占める

帝王切開の割合

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れることになっている。だが、ビダンが 後まで分娩介助をした場合は、50 万ルピア(5千円)が国から支払われるので、搬送することがビダンにとっては収入減であることには

違いない7。 このことは、出産の担い手がしろうとのドゥクンからビダン、そして医師へと移行する

のは近代化の流れであるとしても、その流れを加速させるものとして APNが機能していることを示している。だが、APN が出産を助産師から医師の手に移し替えることになる可能性について、助産師は大きな危機感を見せておらず、IBIの会長のヌニック氏は、助産師の質の向上と医師との協力関係という積極的な面をむしろ評価していた。その背景には、ビ

ダンが医師との協力や近さを強調することで、しろうとであるドゥクンや技術の劣る助産

師との違いを明瞭にし、助産師職の地位を向上できるという考えがあるようだ。そして何

よりも、APN が妊産婦死亡率を減らすために導入されたという大前提があるために、助産師の方から APNの有効性や正当性を疑問視することは考えられないようである。 病院側からみた APN の影響 では、ビダンから病院への搬送は、病院側にどのような影響をもたらしているのだろう

か。2015年 3月にジョクジャカルタのヌルヒダヤ病院とサデワ病院の 2か所を調査した8。ヌルヒダヤ病院では、出産する女性の80%はビダンからの搬送であり、帝王切開率は約40%とのことであった。私が聞き取りをした産婦の2例ともビダンから搬送されて帝王切開に

なったケースで、1人は骨盤位、もう1人は予定日が 5日遅れたため誘発したが、陣痛が発来しなかったため帝王切開になっていた。病院に勤務するビダンに、帝王切開率が国の基

準の 20%を上回ることを指摘すると、困った顔をしつつも「基準に沿って対処するとこのような数値になるので、問題はないと思う。インディケーションがあるときにのみ、帝王

切開をしているのだから。」とのことであった。 サデワ病院では、ビダンから搬送された分娩件数は全体の約 40%とのことだが、図8を見ると、分娩件数が 2007 年以降急に上昇し、それにつれて帝王切開数も上昇し、2014 年の帝王切開率は 54%となっている。また聞き取りをした 4人の入院産婦のうち 3人が帝王切開で、その理由は前期破水、尿タンパクが出ている、予定日超過であった。以上の 2 か所の病院では、ビダンからの搬送がなければ出産数はヌルヒダヤ病院では現在の 2 割、サデワ病院では 6 割に減少することになる。つまり多くの女性はまずビダンの所に行き、プスケスマスや助産所での出産を予定しているが、APN の基準に従って振り分けられ、結果的に病院出産になっていると言える。この状況が果たして妊産婦死亡率の減少に寄与して

いるかどうかは、統計データを検証しなければならないだろう。しかし、搬送されたうち

の 3-4割が帝王切開になっている状況は、「前回帝王切開」という新たなリスクを産み出すことになっており、このことは今回の帝王切開自体がもつ危険性に加えて、次回の妊娠・

出産のリスクを作りだす点で大きな問題と言えよう。また、女性たちが病院で産みたいと

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思って病院出産をするのではなく、ビダンの元で産みたいと思いながら病院に送られる状

況は、女性たちの選択が尊重されていない点で問題だと言えよう。

図8.ジョクジャカルタのサデワ病院の分娩数と帝王切開数 医療化の要因と女性の健康への影響 インドネシアの出産について、いくつかの特徴を挙げた上で、医療化の要因と女性の健

康への影響を考えたい。 1.インドネシア全体では、助産師は妊娠・出産の担い手として社会の信頼を得ており、

妊娠中から産後まで助産師の介助を受けるのが一般的である。そこには、助産師が一般女

性の教育レベルと比較して相対的に高い教育を受けていること、助産師が開業して経済的

に安定した生活を送れることがある。このように村落部では助産師の需要は大きいが、大

都市においては出産は病院で行われるようになっている。助産師職の地位の高さは、助産

師会(IBI)が職能団体として安定した位置を占め、さらに国の中枢部とも強いパイプを持つことと連動している。そして、専門職としての助産師職の強さが、出産において正常産

の重要性を主張することにつながり、結果的に医療化を極端に進めるのを押しとどめる力

になっている。 2.助産師は、しろうとのドゥクンに対して距離を取り、その反対に医師との協力関係を

重視している。現在、医師と助産師の境界を明瞭にする APNが導入され、助産師は正常産/医師は異常産という職能範囲が明確にされつつある。APN によって、正常産は助産師が行うことが明確になるともいえるが、現実には助産師は分娩件数を大幅に減らし、病院の

出産件数は増えている。病院によっては、ビダンから搬送された例が全体の 80%を占めるところもある。また帝王切開率も、病院分娩率の増加とともに増えている。だが、出産が

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2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014

出産数 帝王切開数

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助産師から医師の手に移りつつあることに対する助産師の危機感は薄い。ある助産師は、

「APNのような基準がなければ、ドゥクンと同じだ」と述べて、APNの存在が専門職の証だと見なしていた。だが、今後助産師の介助率が半分以下になった場合には、助産師に危

機感が生じるであろう。そのときには、助産師と医師との間に、現代の先進国で見られる

ような緊張と競合関係が生じ、助産師の側から出産の医療化に対する批判が出てくるので

はないだろうか。 3.APN やパルトグラムの例に見られるように、助産師たちは基準やマニュアル自体を疑うことはないようだ。したがって、基準通りにしていると正常産が大きく減ってしまうこ

とに疑いを抱いておらず、基準やマニュアル自体に問題があるという発想はないようだ。

たとえば、オキシトシンをめぐるムスリマトンの発言にあったように、分娩の進行がパル

トグラム通りに進まないときにオキシトシンを使用するだけで、医師や助産師の都合で分

娩を進めるためにそれを使うわけではないと述べていた。そこには、パルトグラム自体を

疑う態度は見られない。インダルワティの事例から推測されるのは、APN のようなスクリーニングの基準を機械的に当てはめることは、意図せずして医療化を進める要因になると

いうことである。 4.病院においても産婦に付き添うのは助産師であり、医師は 後の所で登場するという

やり方が、病院における医師の過度の医療化を防いでいる。これは、助産師職が医師から

信頼されているからとも言えるし、同時に医師の数が少ないことにもよるであろう。また、

助産師のコストが医師と比べて安いことも、医師よりも助産師を用いることにつながって

いる。病院であっても,出産間際まで助産師が産婦に付きそう習慣は、医療化を押しとどめる力をもっている。 5.インドネシアは、助産師が産科医と看護師に置き換えられるという予想のもとに、1977年から 84 年まで助産師の養成を中断していたが、85 年に再開され、現在では毎年約 3 千人が新たに助産師になるとされている。助産師は医師と比べて安いコストですむことが、

国が助産師を保護する一つの理由だろう。 6.インドネシアは遅れて近代化をしつつある社会だが、韓国のように「圧縮された近代」

の形をとっていない。「圧縮された近代」の特徴を持つ社会では、医療化が急激に進み、帝

王切開率が高く、出産のほぼすべてが医師の手で行われるようになる。インドネシアが遅

れて近代化を始めたにもかかわらず、急激に医療化が進まなかった理由として、助産師が

正常産を介助するという考えが社会にしっかり根付いていることが挙げられる。このこと

は、助産師が女性たちの信頼を得ていること、指導的な地位にあることと表裏一体である。

言い換えれば、一般の女性たちの教育レベルがまだ低く、村落部が残されているために、

それとの比較の上で助産師の教育レベルや社会的地位が高く維持されているのである。つ

まり、インドネシアでは社会の近代化自体がゆっくり進んでおり、大都市では豊かなミド

ルクラス層が増えているものの、村落部の低所得層もまだ数多く存在する。したがって、

医療保険もまずは低所得層向けに導入され、そこでは「安い」助産師が介助することが前

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提になっている。全国民向けの医療保険が 2014 年から開始され、2019 年に皆保険をめざしているが、この保険の導入が出産場所の選択を大きく変える可能性をもっている。 では、以上のようなインドネシアの出産の状況が、女性の健康や女性の主体性にどのよ

うな影響をもつかを考えてみたい。 まず APNの導入によって、出産が助産師から医師の手に移りつつあることは、女性の健康にとってプラスマイナス両面をもっている。一つは,この基準が妊産婦死亡率の減少を目指して導入されたことに見られることから、女性の健康にプラスだとする見方がある。だが

その一方で、搬送の増加は帝王切開の増加につながり、前回帝王切開というリスクを新た

に作り出す可能性をもっている。その意味で、APNは女性の健康にとってマイナスである。 また、女性の出産場所の選択という面で、APN の機械的な適用は選択の幅を狭めることになっている。女性の多くが助産師による妊婦健診と出産を選択しており、 初から病院

を選ぶ女性が少ないにもかかわらず、結果的に病院出産になっている実態は、女性の満足

度や意志決定にプラスとは言えない。 出産の医療化は、何よりも出産の安全性を目指して行われているが、医療の使用が新た

なリスクを引き起こす可能性や、一つの医療がさらなる医療を必要として、医療の連鎖を

とめられなくなる可能性を考慮する必要がある。また医療化が、女性の選択権や自己決定

権をないがしろにする傾向があることも知っておかねばならない。したがって、死亡率の

減少という視点だけからでなく、出産の形が女性の健康を守り、正常な出産を増やしてい

るか、女性の自己決定を尊重しているかという観点から見ていく必要がある。 注 1.原文は 50 tahun IBI: Bidan Menyongsong Masa Depan (2001)、関むつみ氏による翻訳。 2.この学校については、(Penjenanga Kesehatan E 助産補助教育)と書かれており、助産補助の教育でしかなく、さらにその後 2 年間の助産教育を受けなければならなかったようだ。 3.政策が出されたのが 1974年だが、助産師教育は 1976年まで続いたようだ。 4.APN には正常分娩の 58 のステップが定められており、助産師はそれを守ることを指している。 5.インドネシアでは、2014年 1月から全国民を対象とする公的医療保険が始まった。これまでは貧困層を対象とした Jampersal という妊産婦用保険により貧困層の出産費用は無料になっていたが、軍人や公務員は支払わねばならなかった。また現在 9000万人の無保険者がいるとされるが、BPJS(Badan Penyelenggara Jaminan Social Kesehatan:医療保

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険実施機関)が実施する今回の保険では、2019年までにすべての人がカバーされることを予定している(鈴木 2014)。またこの保険にともない、医療人の確保と医療施設の拡充が課題になっており、鈴木によれば、専門医を人口 10万あたり 7.1(2011)から 2019年には 24へ、助産師を 52.6(2011)から 75(2019)へと拡充する計画で、さらに 2019 年までに病院を 150設立し、12万 5千床を増やす予定だそうである。このことは、国民皆保険により人々の病院利用率が上がり、出産においても病院出産の受け皿が大きく増えることを意味

している。そして上記の政府の計画によると、助産師の増加は 1.4倍を見込んでいるのに対して、専門医は 3.3倍を見込んでおり、助産師よりも医師を増加させる計画であることがわかる。したがってこの保険の導入と共に、出産がさらに助産師から病院や医師の手に移行

することが予想される。 6.2012~2013は、2012年 6月~2013年 5月の 12ヶ月の数字を用いている。2012年の1月~5月のデータが欠損し、かつ調査を行ったのが 2013年 8月であったためである。 7.村の産婦には、4回分の妊婦健診と分娩介助、24時間の入院、産後 42日以内の 3回の診察が無料となるそうだ。妊婦健診を 5回以上受けたい場合は、1回につき 1万 5千ルピアを支払い、産後については 1日 10万ルピアを支払えば 2日目以降も入院できる。多くの人は、産後延長して 5日間入院するそうだ(3食の食事が提供される)。 8.2か所の病院での調査については、両病院に勤務する Dr. Mahindria Vici Virahajuの紹介を受けた。 文献 鈴木久子 2014「インドネシアの公的医療保険制度改革の動向」損保ジャパン総研レポート (http://www.sj-ri.co.jp/issue/quarterly/data/qt64_5.pdf) 松岡悦子「ジャワ村落のリプロダクションの近代化-ドゥクンとビダンの協力と葛藤」『北

海道民族学』第2号 北海道民族学会 2006年3月 p.16-29。 松岡悦子「産むのも育てるのも大変-インドネシア・ジャワ島の近代化とリプロダクショ

ン」『民博通信』134、2011 9月 p.12-13、および 松岡悦子『妊娠と出産の人類学-リプロダクションを問いなおす』世界思想社 2014 年 5月。 P.1-272。