- 1 -
瀧
迫
山
詩
第九子として生まれる
大正十二年(一九二三)四月二十四日、父
岡本清次(法憧)、母
モウ(しずえ)、の第九子
として生まれました。何分晩年の子であるために乳が出ないのです。そこで高価なミルクを買って
飲ませたら、一缶ペロリと平らげてしまったということです。そこで母親は一晩寝ないで考えたと
いいます。『今後どうしてこの子を育てようか』と。九子の内、男は長兄の義観だけで、後は皆女
子ばかりの兄弟であって、たまたま待望の男が生まれたのですから粗末にするわけにも行かず、と
は言え、ミルク代はとても経済的に無理であるというのであります。
麹餅という物があって、これをこしらえて育てたという事を聞いています。大変な苦労をかけた
子であったらしいです。幼少の頃は弱い子であって、度々風邪を引いた覚えがあります。
父は早くからお経を覚えさせてくれたので、小学校に上るまでにかなりの漢字が読めたのを覚
えています。
小学校に上がる前にテストがあって、漢字を読ませる事になりました。先生が指す漢字を読むの
であります。一学年の漢字はすらすら読めました。そこで二年生の漢字を読む事になりました。こ
れも難なくパスしました。更に三年生の漢字もパスしたので、女先生が困ってしまって、佐々木校
長に相談に行ったそうであります。
佐々木清一郎校長は浜田の人であります。『もう止めとけ、高慢ちきになっては困る』という事
であったらしいです。小生はもっと読めるのにと思って不満であった覚えがあります。
四月生まれですから、三月生まれの同級生とは一年の差があるわけで、あの年頃の一年は随分知
- 2 -
能に差があるわけで、これは当然の事であったと思われます。
そんな訳で学校の成績は良かったのでありますが、威張り散らして腕白であったらしいです。し
かし、小心者であまり人前に出たがらない性格でありました。学芸会で一人でお話をさせられた覚
えがありますが、随分どきどきした事を覚えています。
小原の分校は複複式で教室は二つしかなく、男の先生と女の先生二人で授業をしているのであり
ます。ですので、一年生の時に隣で二年生の授業もやるわけで、上級生の授業を聞いて覚えてしま
うのであります。一度跳び級で算数を受けた事がありましたが、難なく算数が出来るのに驚いた事
がありました。
分校は生徒の数も少なく、本校にはコンプレックスを持っており、時々本校に行っても隅のほう
で小さくなっていたのを覚えています。
しかし、本校に負けない事が分校の意地で、年度末の優等生の授賞式には必ず小生が代表で出る
事になっていました。それは校長の息子も優等生でありますが、校長の息子は贔屓されているとの
非難を避けるためでありました。
同級生に佐々木校長の長男がいて、いつもライバルでありました。成績では負けませんが、運動
会の駈足ではどうしても彼には勝てなかったのです。彼は戦死したので、気の毒な結果になりまし
た。戦後、佐々木校長が、私を見る度に息子の事を思い出していたのであります。
小学三年生の夏休みに、大阪の教導兄さんが千恵子姉と共に島根へ帰ってきました。晩年に生ま
れた末っ子は、甘やかされて碌な者には育てられないであろうという事になり、姉には子供がいな
かったので、大阪に連れて帰って育ててくれることになりました。
私には自転車を買ってくれるということで、自転車欲しさに大阪へ行く事になった次第でありま
す。しかし、担任の先生に相談もなくいきなり転校したので、後から問題になったそうですが、と
- 3 -
にかく、そんな経緯で大阪に行く事になったのであります。
大
阪へ
大阪では北八下小学校へ編入する事
になり、高落文先生が担任でありまし
た。三学期が終わり四年生になると、新
しい級長を選ぶ事になります。大阪では
学友の選挙で選ぶ制度でした。その結
果、小生が級長になることになりまし
た。その為に今まで級長を勤めていた織
田秋雄君が級長を譲ることになり、腹を
立てて転校してしまいました。
織田君とは後に堺中学でまた同級生
になりますが、成績はあまり良くありま
せんでした。
彼は蹴球のキャプテンを
していましたが、戦死してしまったので残念な事でありました。
大阪の小学生の同級生には色々の思い出がありますが、一々書く事もできません。その中で河合
の中瀬君はやんちゃ仲間の大将でありましたが、称念寺の門徒であり、成績も小生が上であるので、
いじめられる事はありませんでした。転校生はいじめられる事が多いのですが、成績がずば抜けて
いるため、誰もいじめる事は出来なかった様でありました。
森田君はおとなしい子で成績もよく副級長を度々務めて、助けてくれた親友でした。後年に一度
- 4 -
だけ同窓会を開いて、小生も呼ばれていった事があります。そのとき幹事長を勤めて歓迎してくれ
たのが森田君でありました。南花田の人でありますが、今は皆亡くなっているようであります。
教導兄は病弱で度々病気にかかっていましたが、四年生の時、腸の手術を受ける事になり、四十
日ほど入院をしました。その間一人で留守を守る事になりました。
四年生だから一人で留守をするのは怖くて夜が眠れないのです。それでも『大丈夫だ』とやせ我
慢を張って、誰にも泊りに来てもらわずに頑張り通したのであります。
冬のことであり、夜中に風の音がすさまじく、眠れないままやっと朝になり、一番鶏の声を聞く
と、安心してウトウトと眠るのであります。でも朝は早く起きて朝ごはんをつくり学校へ行かなく
てはならないので、安心して眠ることは出来ません。そんなある朝、向かい隣の中瀬のお婆さんが
丼一杯の茶粥を持って来てくれました。茶粥というのは番茶に薄い粥を炊いたものですが、その頃
の農家は一日に何回かその茶粥をすすりながら農作業をしたものでした。
そのときの熱い粥の美味しかった事は一生忘れられません。先日も称念寺に行ってあの話を若い
お嫁さんに語った事でした。
中学校に進学するのはどうするかという事になりました。同級生は皆長野中学に行く事になり
ました。小生は一人堺中学へ進む事になったのです。それは、当時中学に進む事は経済的に中々困
難な時代であって、誰でも簡単に中学へ入れてもらえない時代でありました。とても堺中へは入れ
ないであろうと思われていたので、もし堺中にパスしたら行かせてやろうという事であったので
す。
入学試験の日には、担任の高落先生が付いて来てくれて励まして下さいましたが、発表の日、先
生は長野中学の方へ行かれ、小生の発表は校長が見に来ることになっていました。ところがいくら
- 5 -
探しても校長はいないので、やむなく一人で見に行くことにしました。いくら探しても受験番号が
出てこないのです。やっぱり駄目だと思って帰ろうとしたら、最後のほうに番号が出ていました。
成績順に発表するので、成績の良いやつは早く出てきて喜んでいますが、成績の悪いものは後の方
に出ている訳です。それを知らぬから始めの方ばかり見ていた訳です。やっと番号を見つけました
が、誰もいないのだから仕方なく自転車で家まで帰ってきたのです。家では、どうであったかと聞
かれましたが、自信が持てないので、どうも通った様だと言うと、校長はどうしたというので校長
はいなかったと言うと、無責任な校長だと怒っていました。
校長は自分の身内のものが落ちたので、すぐ帰ってしまったらしいのでした。全く無責任な校長
でした。六年生の時に担任がないので校長が担任をしたことがありましたが、無責任な人であるの
でクラスのものがボイコットして担任を代わらせた事がありました。そんな怨みもあったのかも知
れませんが、とにかく、小学生一人で見に行ったので誰も責任を持つものがいなかったのです。後
から確かめに行って、やっとはっきりしたのです。
中学時代
中学一年は、クラスで五十三名中四十五番でした。下駄箱も下の方で、扉が壊れています。それ
で教師に文句を言ったら、成績の悪いやつはそんなものじゃ、悔しければ上に上がれと言われまし
た。それでこんなことではつまらないと思い、上にあがる事にしましたが、さすが堺中は成績の良
い奴ばかりが来ているので、そんなに簡単には上に上がれません。そこで一年に十段ずつ上がるこ
とにしました。二年生では三十番台、三年生で二十番台、四年生で十番台というわけです。ここま
では計画通りに行きましたが、最後の五年生の時には、さすがに十番以内に入る事が出来ず、十二
番でありました。それは、もう嫌になってあまり本気で勉強しなかったのでもありますが、戦争が
- 6 -
激しくなって、担任の勝間先生が何度も言った言葉、『お前らは四十二回卒業生だから、戦争に行
って皆死ぬのだ。死に回だ』と言うのです。その事が次第に現実になって迫って来ていたからでも
ありました。
また、天王寺師範に入る事にしていましたが、堺中からは大勢行く事になっていて、勉強しなく
ても安心して入れるという事が分かっていたのです。結局、天王寺師範には、二十名位行ったでし
ょう。そのうち数名は小生と同じように、海軍予備学生に志願しました。
中学では、スポーツには自信がありませんので、お金のかからない図書部に入る事にしました。
お陰で図書館にある書物は全部五年間に読む事ができました。これは人生の良い資料になったと思
っています。
また中学時代の収穫は水泳であります。中学に入るまでは少しも泳ぐ事ができませんでしたが、
中学では水泳の授業があって、全員水泳をしなければなりません。赤帽から初めて次第に試験に合
格して、ついに十キロ遠泳に四年生の時合格して、五年生の時は遠泳補助員として、二回まで十キ
ロを泳ぎました。これは良い財産になり、師範では水泳指導員として、水練学校のアルバイトをや
り、随分お金を稼ぐ事ができました。
それから中学生はアルバイトをする事が許されており、年末には郵便局で年賀状のアルバイトを
やりました。
中学時代の最大の事件は、教導兄の病死でした。そもそも教導兄は能登の人で、長兄が京都で金
物の商売をしている関係で京都に来て、養泉寺の役僧をしていたのです。元々病弱な人であったよ
うで、度々病気をしていました。しかし、派手好きな人で、千恵子姉とはしょっちゅう喧嘩をして、
そのとばっちりが私に来るので、迷惑に思ったことでした。
準堂衆の資格を持っていて、声明については喧しい人でした。中学二年生の二月、結核で京都の
- 7 -
病院に入院しました。
今度も一人で留守を引き受ける事になりますが、もう中学二年生ですから、恐ろしいことはあり
ません。ところが、今度は退院する事ができず、死亡の知らせが参りました。
称念寺の本堂に遺体を連れて帰って、阿弥陀経を読むのですが、泣けて泣けてお経が読めません。
それを後ろにいる教導兄の長兄が、何度も何度もタオルで涙を拭いてくれたのを覚えています。こ
の長兄は、お金を要求して来たとかで、千恵子姉は悪い人だと頻りに私に訴えていましたが、私に
は親切にしてくれた人でした。その時一度だけ京都の長兄の家にいったことがありますが、その後
お店がどうなったか知りません。
教導兄のお母さんが、称念寺に来たことがありましたが、あまり好い印象は受けなかったように
思います。教導兄の家族についての思い出はそれだけで、その後は交渉が切れてしまいます。
二年ぐらいして、徳順兄が来てくれる事になります。この人はおとなしい方で、姉とのトラブル
はありませんでしたが、お金を貯めているという触れ込みでありました。ところが、真っ赤な嘘で
騙されたと姉が言っていました。
暫く職もなく毎日ぶらぶらしていて姉をやきもきさせていましたが、役場に職を見つけてもらっ
て、やっと安定した生活ができるようになりました。勿論相変わらず、台所は火の車であったと思
いますが、やりくり上手の姉の主導で何とか生活が出来たのであろうと思われます。
教導兄が亡くなって、中学に続いて行けるかどうかという問題がありました。勿論私は続いて行
きたい訳ですが、毎月四五〇円の月謝は大変な負担でありました。
姉はそれでも頑張ってくれました。薬学専門学校の女学生を下宿させたり、手内職をやったり、
随分苦労をしたのです。苦しいのは分かっていますから、毎月、月謝袋を出すのが苦痛の種でした。
中学を終わって、師範に入るころは大分楽になり、月謝も要らず生活費と通学費だけですので苦痛
- 8 -
が軽くなったように思います。
天王寺師範
天王寺師範は全国で東京の青山師範と肩を並べる優秀な学校でありましたが、成績は五〇人クラ
スで七番ぐらいでした。七組ですから四十九番ぐらいでしたでしょう。
師範では音楽部に入りピアノをやりました。しかし、ほとんど独学で教師がついて教えてくれる
のでなく、結局ものになりませんでした。
ところが教育実習に誰も嫌ってやらない音楽をやれと皆からけしかけられて、高等科の三年女子
を受け持って音楽の授業をやりました。無謀もいいところでしたが、ピアノも碌に弾けず、女子で
すから子守歌を教えました。碌な授業にはならず、冷や汗ものでした。
しかし既に昭和十八年の事ですから、卒業と同時に軍隊に入らねばならないので、学校の成績な
ど問題ではないという雰囲気で、放課後は専らグライダーの練習を続けていると言う始末です。
そんな時、海軍から飛行気乗りの募集が来ました。既に徴兵検査を受けており、乙種合格でした
が、海軍に入れば大学卒業はいきなり士官(将校)にしてくれるというのが魅力で、海軍に志願す
る事にしたのです。誰にも相談せず、独断で決めたのです。もう家族のものも反対する事は出来な
い様な時代でした。
昭和十八年の九月一日付けで、卒業式まで待つ事もなく三重海軍航空隊に入隊する事になりまし
た。随分乱暴な話ですが、そのような雰囲気の時代であったのです。その年の十二月には大学生が
一斉に軍隊に入るという、所謂、学徒出陣の命令が出される訳ですから、私たちは一歩先を行った
ことになります。
- 9 -
三重航空隊
軍隊に入ってからは大変な事になります。娑婆気を抜くという事がまず大問題であります。何し
ろ、娑婆気の真っ只中に暮らしていたものが、いきなり娑婆を捨てろという訳です。これには苦労
しました。
しかし次第に慣れてきて、海軍士官らしい風采になってきました。まだ外出は許されません。あ
の短剣を付けて外出がしてみたいと、夢にまで思ったことでした。
やっとその外出が許される日が来ますのは、入隊してから三ヶ月もたってからであったと思いま
す。
外出といっても、行動半径は決められていて、自由にどこにでも行けるわけではありません。
実家が近くのものは、家族がご馳走を持ってきてくれるのですが、大阪からは遠いのでそんな訳に
は行きません。それでも一度だけ面会に来てくれました。
外出の唯一の楽しみは食事です。指定の食堂に行って腹一杯食うのです。帰ってくれば、上官は
心得たもので、早速練兵場を駈足を命じます。散々駈足をやらされると、食うた物がうまくこなれ
てしまいます。
入隊後最初のショックは通信訓練でした。三重空は通信符号の訓練に、言葉を使いました。『イ
トウ、ロジョウホコウ』という具合にイロハ順に覚えるわけです。これを何日までに覚えておけと
いう事でした。しかし、簡単に憶えられるものでもないので、皆良い加減にしておいたのです。と
ころが、下士官がやってきて試験をすると誰も碌に覚えていないのです。するといきなり『いけな
い』とでかい声で怒鳴られました。それまでは遠慮して言わなかったのですが、そろそろ本音が出
てきたのです。これは驚きでした。
もし通信が出来なければ、戦争に役に立ちません。それだから必死になって覚えねばならないの
- 10 -
です。その事を身にしみて教えられた事です。皆必死になりました。
訓練の末、八十文字位まで受信が出来る様になりました。船舶では百二十字位で通信しています。
航空機では八十字位が実用範囲です。
もう一つ、カッター訓練があります。真夜中に非常呼集がかけられて、いきなり、カッターを出
せという命令が出ます。急いで身支度を整えて、カッター倉庫に走り、カッターを引き出して予定
の地点まで行って帰って来るのです。それを各班の競争でやるわけで、遅れた班はそれぞれの罰を
受けねばなりません。
何度もこれをやられた記憶があります。わが班はあまり器用ではなかったので優勝はしませんで
したが、そこそこうまくこなしていました。
『棒倒し』というものがあります。これは、海軍兵学校の有名な競技です。それをやりました。
これは各分隊毎に戦うのです。海軍で分隊というのは、百人位の人数です。まず三名が地元に座り、
棒の根元を支えます。それを三人、五人と棒を支え、最後に七人か八人で外向きに腕を組んでまも
り、更に肩の上に数人が上って棒を守るのです。残ったものは自由に動き回って敵を防ぐのです。
二組に分かれて戦うのですが、殴っても蹴飛ばしてもかまわないのですから鼻血を出すものもいま
す。敵の棒を倒すまで戦うのです。日頃の鬱憤を晴らすための格好の治療ですが、中々壮絶な競技
であります。それに負けた組は外出止めになります。
私の分隊は第一分隊でありましたが、分隊長も温厚な人であり、分隊員もおとなしいものが多か
ったので、棒倒しは苦手でよく外出止めを食いました。第八分隊は荒くれ者が揃っていて、いつも
優勝していました。勝てば棒に印を入れるのですが、いつも負けてばかりいる第一分隊は哀れなも
のでした。
軍隊の成績は良い方で、学校を卒業して、やっと試験から開放されたと思ったのですが、海軍は
よほど試験好きなところと見えて、やたらと試験をするのでがっかりしました。
- 11 -
海軍では成績順に番号をつけ、名前の代わりにします。それは電信に便利な為です。それで、こ
の電信番号が若い程上位になります。私はマニラに赴任する時、電信番号で先任にされました。先
任というのは、皆の代表をするのです
徳島航空隊
三重航空隊の次には、それぞれに分かれて実施部隊になります。私は徳島航空隊に所属を命じら
れます。いよいよ待望の飛行機に乗れるのです。徳島空は四国の徳島にあります。
昭和十九年の三月でした。大阪の港から船で四国に渡るのです。大阪で少し時間があり、久しぶ
りに称念寺に帰りました。出発前に船の出航に遅れたものは、最も重い罪になるという事を徹底し
て教え込まれていました。これを『出船、ようそろう、五分前』と申します。海軍精神の誇りです。
大阪から船で行くので、称念寺に寄ったのですが、充分時間を考えて家を出ましたが、市電が停
電で遅れるのです。気が気でありません。運転手のところへ行き事情を話すと、運転手も本気にな
って心配してくれました。その内やっと電気が通じて出航に間に合ったのです。随分やきもきした
ものでした。
徳島空での訓練は快調そのものでした。毎日瀬戸内海の上をゆっくり一回りしてくるのです。勿
論その間に色々の訓練がありますが、それはもうお手のもので、生涯で一番幸福な時間を満喫でき
たと思います。
通信訓練で徳島市内に分かれてお互いに通信を交わすのです。それを済ませて帰ってくると、大
変な騒ぎが起こっていました。それは、通信文に不届きなものがあると言うのです。お前もやられ
ていると言います。私のは、『眉山山麓、春宵迫る』と言う電文でした。前に呼び出されてこっぴ
どく叩かれました。それでも、これは名文であると今でも思っています。眉山と言うのは、徳島市
- 12 -
の名所の山です。その山麓に我々の電信基地
が在ったのです。これを発表した分隊長が、春
宵をどう読めば良いのか戸惑って居たことも
思い出の一つです。
徳島の外出詰め所は天理教の教会でした。
その頃天理教は海軍と仲が良かったのです。
日曜日に行くと、『待っとったんじょ』と言っ
て、数人の婦人の方が歓待してくれました。懐
かしい思い出です。
六月一日付けで少尉任官を命ぜられまし
た。待ちに待った任官であります。これで一人前の海軍士官であります。やがて実施部隊の配属が
決まります。私はマニラ勤務ということになりました。
長崎へ
まず長崎まで行き、そこから船で任地に行く事になります。七月中旬であったと思います。
長崎までの途中で、広島に光子さんがおりますので、今生の別れというので立ち寄りました。光
明団の本部です。皆さんが大変喜んで歓迎して下さいました。こちらは光子さんに会うのが目的で
したが、先生以下本部の人は、本部に挨拶に来たというわけで歓迎されたのです。本部の皆さんの
前で挨拶をしました。海軍軍人として、立派に役目を果たしますという立派なものでした。実際に
はそれ程お役には立たない軍人でしたが、その時は意気軒昂そのものの最中でした。
長崎に着いたものの、容易には船が見つかりません。仕方なく、佐世保海兵団に移り、召集兵
- 13 -
の訓練をやりました。そこには、四〇代から五〇代の召集兵が集められて海軍の訓練を受けるの
です。泳ぎが出来ないものがおります。海軍ですからこれは致命傷です。そこで水泳訓練をやる
のです。ところが、泳げないものを連れてきて、いきなり水深二メートルの海に突き落とすので
す。これにはびっくりしました。勿論、上で見ていて溺れそうになった者は引き上げるのです
が、これをやったら必ず泳げる様になるといいます。
こういう訓練を受けないままで戦地に
送り込まれた若い兵隊が、海に飛び込めないで船が沈むまでしがみ付いていて、最後に船ととも
に波に飲み込まれてゆく姿を映画で見ました。やはり、海軍の訓練は有効であったのだと思いま
す。 一
ヶ月ほどしてやっと船が見つかりました。台湾までこれで行く事になります。しかし、それか
ら先は飛行機で行こうという事になりました。既に台湾から先は潜水艦の攻撃が頻繁になっていた
からです。
一週間ほどで飛行機便が見つかりました。やっとマニラに着任です。
マニラに着任
現地に着いてみると、早速大目玉を食いました。戦地に来るのにそんな正装なんかいるものかと
いうのです。なるほど、正装などそれから一度も着ることなど出来ず、むなしくマニラに捨ててき
ました。
既に敗戦の色ははっきりしていましたが、それでもまだマニラは安泰でした。その安泰はまもな
く崩れるのですが、内地から来たものには想像さえ出来なかったのです。
マニラ着任が八月の始めですから、それから一ヶ月もたたない頃、マニラ奇襲にあいます。飛行
場の指揮所にいたら、突然バリバリという音が聞こえてきます。何事かと頭を上げてみると、目の
- 14 -
前を敵の戦闘機が機銃掃射をやりながら飛んでいます。それまで、空襲といえば警報のサイレンが
なってからとばかり思っていたのですが、戦地はいきなり弾が飛んでくるのです。初めて戦争の恐
ろしさを知りました。それから色んな事がありましたが、とても一々書けません。
イバという基地にいる時、奇襲を受けて飛行機は皆焼かれてしまいました。二十名足らずの基地
でしたから、引き上げる命令が出ました。そこでトラックに全員乗って山を越えてクラークまで移
動し、味方と合流するのです。ところが、山を越えるのが大変です。こちらは少人数です、もし敵
に囲まれたらひとたまりもありません。随分緊張しましたが無事山を越えてクラークに着き、そこ
からは飛行機便でマニラに帰りました。パイロットという事で随分得をしたものです。よその隊で
もパイロットといえば、簡単に便乗させてくれるのです。
マニラからの引き上げ
だんだん戦況が悪くなり、米軍がマニラに近づいてきました。もうマニラで最後の決戦をして潔
く死ぬ事だと決心をしておりました。
その頃南方の搭乗員は、特攻隊となるために引き上げよという命令が出ました。その為、搭乗員
だけがコレヒドールに近いキャビテ基地に集結することになります。
その時、残るものは、『お前たちは内地に帰れるから良いなあ』とつくづく言いました。『内地
に帰っても、どうせ特攻隊で死ぬだけだ』と言うと、『同じ死ぬなら、せめて内地で死にたい』と
言うのです。これには返す言葉がなくて弱りました。
持ち物は全部残るものにやって、身一つで集結地に向かいます。ところが、迎えの飛行機が中々
来ないのです。毎日台湾を出たという知らせはあるのですが、途中で引き返すのです。何日も待た
- 15 -
されました。もう駄目だろうと思う頃やっと来てくれました。途中で敵の夜間戦闘機が待ち受けて
いるから生死の程は保障出来ないと言うのです。勿論、そんなことは先刻承知の事ですから、誰も
異議はありません。皆乗り込みました。
さて離水する段になって、九七水艇ですから当時日本で最新鋭機です。ですが、人間を積みすぎ
ているから重くて離水出来ないのです。このままだと向こうの山に突っ込んでしまうと思う頃やっ
と離水しました。
マニラから数時間かけて東港の基地に着きました。我々は九五四空を解散して、九〇一空に編入
されていましたので、九〇一空の水艇が迎えに来てくれたのです。
それから上海に移ります。この時も悲劇が起こります。私は第一便で無事上海に到着しましたが、
第二便が不時着して全員戦死してしまいました。これでマニラを脱出した者は半数になりました。
戦争というものは、随分無駄な事が起こるものであります。
特攻隊編成
上海から特攻隊を編成して、いよいよ沖縄戦に向かう事になりました。第一隊は新鋭の天山機で
したが、小生は、おんぼろの九七艦攻機隊の指揮官です。それでも勇躍大村基地に向かって発進し
ました。ところが、大村に着いてみると皆がなんと立派な飛行機だと感心するのです。もうその頃
は、日本にはまともな飛行機は無かったようです。大村基地を飛び出して、早速、鹿屋航空基地群
の中の串良基地に移ります。これが我々の特攻基地であります。現在は公園になっていて、昔の滑
走路がそのまま道路になっています。串良に着いたのが四月初旬であったと思います。それから約
一ヶ月あまりここで暮らす事になります。
- 16 -
四月二十三日ごろであったとおもうのですが、小林少尉に特攻命令が来ました。『俺が先か、貴
様が先か』と言っていた仲であります。彼は満州出身で、内地に誰も身内がいないのです。それで
特攻隊の日の丸の鉢巻がないと言うのであります。小生の鉢巻は長く作られていたので、これを半
分やるということになり、半分にして日の丸を着けて皆で準備をして送り出したのであります。
最後の晩に『何か食いたいものがあるか』と聞くと、『餅が食いたい』と言うのです。『それじ
ゃあ農家に行って探してみるか』ということになり、数人で手分けをして農家をあたってみること
になりました。幸い餅は見つかりました。そこで焼いてもらって、台湾から砂糖を持ってきていた
ので農家にもお礼として差し上げ、食べさせることになりました。暫く眺めていたが、『どうも食
べられない』と言うので、紙に包んでポケットに入れてやったのです。彼は恐らくそれをポケット
に入れたまま死んで行ったと思います。
特攻命令はどの様に発表されるかというと簡単なもので、隊長が指揮所に来て黒板に出発時刻
と、「一番機、誰と誰と誰」と、搭乗する者の名前を書くだけです、二番機、三番機、四番機、も
同じように名前を書くと、何も言わずに黙って帰ってゆくだけです。それを見ていた隊員は、これ
も何も言わず、名前が書かれた者の親しい友達が二、三人黙って着いて行って黙々と身の回りの品
を片づけてやるのです。そんな時何も言えるものではありません。
小林少尉の場合は、勿論、小生と他の二、三人で片付けてやりました。特攻機は電波管制ですか
ら通信はできません。しかし敵艦に突っ込む時に、『我敵艦に突入す』という合図をして、『ツー』
と言う音を発信するのです。その『ツー』が長ければ敵艦に体当たりしたということになります。
小林の場合は小生が受話器を握っていましたが、かなり長く電波を出し続けていたので、突入成功
と認められました。
しかし、人間が死ぬ瞬間を確認するということは異様なものです。それでも当時は何の抵抗もな
くそんなことが出来たのです。感傷などありません。いよいよ今度は私の番です。遂に死ななけれ
- 17 -
ばならない時が来たと、改めて覚悟を固めていました。
その頃、作戦本部で特攻攻撃の効果に就いて疑問が上がり始めたのです。特攻攻撃は始めの頃は
確かに成功していましたが、敵も座して死を待つ訳にはいきません。色々工夫してきます。特に物
質的に優れていますから、戦闘機を大量に用意して、虱潰しに特攻機を狙ってきます。おまけにこ
ちらは搭乗員の不足で未熟な搭乗員が借り出されていますから、格好の餌食です。次々とやられて
殆ど敵艦には届かない状態でした。しかし、対面上成功している風を装っていたのです。戦地の兵
隊はたまったものではありません。
その不満が吹き上がってきていたのです。そこで戦術を変えるという事になり。我々は元の魚雷
攻撃に戻ることになります。
魚雷攻撃とは、海面すれすれに敵に近づいて一万メートル手前で発射するのです。すると魚雷が
自力で海の中を走って敵に当たるのです。大体一発か二発で撃沈できます。不沈戦艦と豪語した大
和も、この魚雷攻撃でやられました。魚雷は凄い武器です。
いつでもそんなに上手くいくとは言えませんが、少なくとも低空で近づけるだけ成功の確率は高
い訳です。我々は最初からこれを主張してきたのですから、喜んでその作戦に従いました。
私達は元の魚雷攻撃に戻る事になりましたので、魚雷投下機を付け代える必要が生じ、暫く大分
工廠に移ることになりました。一週間の予定でありました。其の一週間も過ぎていよいよ基地に帰
るという日、雨の中を日が暮れてから大分を出発して大村に帰ることになりました。
墜落 我
々の基地は大村ですので、大村に帰れば専用の掩体壕があります。大分ではそれがありません
- 18 -
から、そのままでは夜間爆撃でやられます。その為、毎日大村から通勤していたのです。いつもの
通勤航路ですから、慣れたもので軽い気持ちで乗り込みました。
雨は降っているがベテラン揃いだから大丈夫だと言いながら出発したものです。定員三名に二人
だけ余分を乗せて四機で編隊を組んで出発しました。一番機が、小生と猿子大尉であります。
しかし途中で雨がひどくなったので、大分空に引き返す事にして、少しづつ左に旋回を始めまし
た。四機編隊の他のものは一番機に合わせて飛ぶことになっているので、予定を変更したことは分
かっていないのです、徐々に旋回を始めたので皆それに合わせて旋回をしていました。ところが、
二番機がいきなり五十メートル程上に吹き上げられたのです。エアポケットであります。これもい
つもの事で慌てる事はないのですが、其の時二番機が、急に横滑りを起こして、一番機のエルロン
にぶっつけたのであります。エルロンとは、昇降舵の事であります。
二番機はそのまま火を吹いて落ちていったのです。我々の一番機は操縦が出来なくなり、すぐさ
まスイッチオフしてエンジンを止め、滑空して堕ちる事になります。
『左の方に平野がある』と私が言いましたが、『左には曲がれん』と操縦士が答えました。下か
ら見ていると落ちるようには見えなかったということでしたが、上からは、真っ逆さまに地上に突
っ込んでいるように見えました。
ちょうど蓮行寺の上でした。徳順さんの生まれた寺です。蓮行寺の住職が見ていたそうです。一
番機が落ちた所は蓑草と言う所です。
後日、大分組、念相寺、住職、衛藤徹宣師(庄内町・大竜)の寺に研修会の講師で行きました。
事故の話をした所、その二番機はお寺の前の田に落ちたのだとの事で、驚くと共に奇しき因縁と思
い、現地に行きお経を上げました。
一番機は、操縦が猿子大尉で、偵察が私、通信が米谷上飛曹、便乗は坂田一飛曹と一ノ倉上飛曹
の五名であったと思います。猿子大尉は頭を打っていて初めから意識がなく、夜半に亡くなります。
- 19 -
米谷上飛曹は腰の骨が折れたらしく、痛い痛いと訴えていましたが、夜中の一時ごろに亡くなりま
した。一ノ倉上飛曹は初めから意識はなかったようでした。坂田君は軽症で一ヶ月位で退院しまし
た。小生は左大腿骨複雑骨折で、ギブスを巻いて治療する事になり一年ばかり掛かりました。
高度二千メートルで飛んでいたのですが、雲に入り暗くなったので、猿子大尉と相談して、大分
空に引き返そうという事になり、徐々に左に旋回しながら飛んでいたのです。二番機以下も順調に
旋回をしていたのです。
墜落の瞬間、右翼が松林に当たり吹き飛ぶのが見えました。それからは何も覚えていません。墜
落直後は、気絶していたものと思われます。
気が着いて見ると、お爺さんとお婆さんが走って来るのが見えました。そこで声をかけると『日
本人か』と言うのです。てっきりアメリカ兵だと思っていたという事で、それから村の人が出てき
て、農家に運んでくれました。農家は後藤利夫氏宅であったという事を、後に戸田富士男氏から聞
きました。(戸田氏は、熊本県牛深市牛深町二二八六在住、同じ隊で事故の様子を調べて、手紙を
頂きました。大変お世話になった方です)
年寄りの医者が来てくれましたがどうする事もできず、農家に寝かされたままで海軍病院からの
救援を待つ事になります。
長い時間が過ぎました。その間に、次々と死んでゆきます。線香の匂いがするのでそれが分かる
のです。
出血をするので、駄目だとなるまでは水を飲ませないでと言っていたのです。ふと気がつくと、
口の中に水が入れられていました。これが末期の水というものだと気がつきました。その水の美味
かったことは忘れられません。
大分を出発したのは、五月四日、午後七時ごろで、離陸後二十分位たっていたと思います。
- 20 -
明け方頃になってやっと車が来ました。それでも夜中に走り続けて来てくれたのです。別府海軍
病院で専門の医官の治療を受けやっと痛みも和らぎ、長い苦しい時間が終わりました。
後で反省したのですが、あの時思い切って千五百メートルまで高度を下げ、左に旋回していれば、
事故にはならなかったかもしれません。前方に千八百メートルの九重連山があるので、山にぶっつ
ける恐れがあって高度二千メートルで飛んでいたのです。
もし事故を起こさなければ、全員沖縄に特攻攻撃にいって戦死していたでしょう。戦地では人間
の死と生とは紙一重で分かれるのです。
終戦
病院では士官待遇です。海軍では士
官は優遇されます。思いもかけない平
和な、安楽な時間を与えられ戸惑った
ものです。六月一日付けで中尉に任官
しました。
戦争はまだ終わってはいません。沖
縄が陥落したというニュースが入り、
日本各地が空襲を受け、敗戦の色が濃
くなる様子をベットの中で聞いてい
ました。広島と長崎に新型爆弾が落と
されたという事も伝えられました。更
- 21 -
に、ソビエトが参戦した事を聞き、いよいよ覚悟を決めてギブスのままでも飛行機には乗れるので、
原隊に帰る事にして、院長に嘆願書を出しました。身の回りを整理して、遺髪を切って国許に送る
ことにし、本気で特攻隊の覚悟をしたのです。
その時、終戦になります。今までの緊張感が崩れてゆき、敗戦の悔しさと、もう死ななくて良い
のだと言う安堵感とが絡み合い、複雑な精神状態でありました。
敗戦であるから軍人は皆殺されるかも知れないという噂が立ち、とにかく、士官は危ないという
ので、急遽、退避する事になり、帰郷する事になりました。毛布を二枚支給されて帰ることになり
ます。途中同じように島根に帰る婦人に付き添われて汽車で帰りました。毛布はその付き添いの婦
人にお礼に上げました、その頃毛布は貴重品であります。
徳泉寺につくと、母が生きていましたから喜んでくれました。そのころ徳泉寺は、章子姉と日原
信誠さんが留守番をしてくれていました。私が戦死すれば、そのまま徳泉寺を継ぐことになってい
ましたが、生きて帰ったので、日原さんは矢上の寺に入る事になります。母は喜んでくれましたが、
大して親孝行もしなかった不孝な息子でありました。
一ヶ月位経つと漸く世状も落ち着き、病院から再入院してもよいという知らせが来て、再び別府
の病院に帰る事になりました。
再入院して、翌年の二月四日に母が亡くなります。不孝息子でありましたが、生きて帰った事が
せめてもの親孝行でありました。母親の死亡により島根に往複した為か、盲腸炎になります。病院
ですから手術は簡単ですが、新米の医官にさせたので中々盲腸が見つからず、散々繰り返した挙句
に見ていた上官が代わってやっと手術が終わりました。
全身麻酔ではなく下半身麻酔ですから、医師のやり取りが全て分かるのです。そんな事で腹膜炎
になり、腹が膨れてきました。そこで、『これはアメリカ軍がくれた新薬であるが、お前に使って
- 22 -
みよう』と言って、ペニシリンを使いました。えらい効果のある薬で、一発で腹膜炎が治りました。
医者も舌を巻く効果でした。このほか、アメリカ軍の新薬に『DDT』があります。白い粉で、女
の子は頭からかけられて居りました。ダニや虱、蚤に効くのです。そのお蔭で蚤も虱も絶滅してし
まいました。戦前は蚤と虱に苦労したものでした。
ところで病院の話に戻ります。戦後は食糧難で碌なものは無いのですが、それでも飢え死にしな
い程度の補給がされていましたので助かりました。盲腸炎をやったために、四十日ほど動かれない
日が続きました。それまでどうしても着かなかった骨が見事についたのです。これでやっと娑婆に
帰る事が出来る様になりました。
島根へ
既に昭和二十一年の七月になっていました。経過退院という事で、まだ杖は離されませんが、松
葉杖を突いて大阪に帰りました。とても教員は勤まりませんので、退職手続きを取りました。教員
には五年間の義務年限があります。師範卒業と同時に北八下小学校に就職した事になっていました
が、一度も職務についていません。足が悪いので教員は勤まらないというので同情され、何とか免
除される事になりました。
田舎に帰ってお寺の住職をする心算でしたが、その為には住職の資格が必要です。そこで試験を
受けるために、八尾別院の講習会に通います。見事に試験にパスして島根に帰ることになりました。
そのまま大阪の寺を継ぐこともできたのですが、千恵子姉では嫁がとても勤まらない事が分かって
いたので、思い切って島根にかえる事にしたのです。その頃はもう八重子さんを嫁にもらう決心を
しておりましたので、大阪で複雑な人間関係で苦労するより、田舎のほうが良いと思い、そのよう
な決断をしたのです。
- 23 -
千恵子姉には申し訳ないと思いましたが、八重子さんの事を考えると、それが一番良い方法だと
思ったからです。
ここで、八重子さんの事を書かねばなら
なくなりました。彼女に初めて出会ったの
は別府海軍病院ですが、因縁はもっと前か
らあったのです。私がマニラに着任したの
は、昭和十九年八月です。八重子さんは十九
年の一月にマニラに赴任していました。始
めの頃は戦争もまだ勝ち戦で暢気なもので
あったと言いますが、九月の奇襲以来負傷
者が激増して大変な事になります。
愈々マニラが陥落する直前、最後の病院
船がマニラを離れる事になります。昭和二
十年一月の事です。私は隊の監視所にいま
した。ゆっくり病院船が出てゆきました。それを双眼鏡で追いながら、その頃は病院船も攻撃の対
象になっていましたから、無事に内地まで帰られるかどうか保障は出来ないのでありますが、内地
へ帰る最後の船というので感慨深く見守ったのです。まさかそこに未来の恋人が乗っているとは思
いもかけないのでした。
病院船は、何とか無事に、別府湾に帰ることが出来たという事です。私は別府病院の二病棟に入
院したので、そこで彼女に会う事になりました。それからの事は一々申されません。とにかく、好
きになり結婚することになりました。
- 24 -
海浜荘という所を海軍で借り受けて、病院の患者を収容していました。そこへ移ることになり、
彼女もそこの勤務となり、楽しい毎日を送る事ができたのです。
結婚後の生活は、貧乏との戦いで大変でしたが、誰も同じ様に貧乏でした。田んぼを七畝程分け
てもらって百姓をやりました。七畝の田んぼに長い畔が二十本も有る様な貧弱な田でありますが、
それを作って暮らすのです。こんな事ではとても子供を養う事も出来ないのではないかという不安
も隠せない有様でした。
その頃、小学校に勤めないかという声がかかりました。教員不足の時代でした。人生の岐路でし
た。どちらを選ぶか迷いました。武井先生に相談すると、暫らく考えておられたが、『貴方はお寺
も小さいから、教員をやったがよかろう』という結論でありました。
大森先生は、『お寺一筋で頑張れ』という事でした。結局二つの意見に分かれました。そこで気
がついたのです。これは私が一人で決めるしかないのだという事でした。
二人の先輩は、どちらも私の事を本気で心配して意見を出してくれている事はよく分かりまし
た。それでも二つに別れるのは、誰に相談しても駄目なのだ、自分で決めるしかないのだと分かっ
たのです。
そうして、一番苦しいであろうお寺専門の道を選んだのです。勿論苦しい日が続きましたが、世
間というものは有り難いもので、沢山の方のお力添えを頂いて今日があります。
その一つに本山の特別伝道講習会があります。三ヶ月、毎月二千円の支給をもらって、勉強させ
てくれるというのです。私は第二回目に参加しました。蓬茨祖運先生と仲野良俊先生が中心で指導
して下さいました。その結果、昭和三十五年二月に久留米駐在を受ける事になり、やっと収入が安
定する事になります。その後、昭和五十二年七月長崎教務所長を退職するまで本山の仕事をさせて
もらい、子供もしっかり育てる事が出来ました。有り難い事であります。
- 25 -
昭和五十八年七月二十三日山陰大水害で、本堂の畳の上まで泥水が上がりました。幸い家族は無
事で、私は修錬道場長をしていて京都にいました。テレビで水害を知り、明覚寺の若院と自動車で
帰りました。その為、道場長も辞めました。この災害は我が一生の内で最大の災難でありました。
しかし、土砂が上がって県道までの田んぼが複旧不可能と成り、境内地に買い上げる事になりまし
た。竹の花ももう耕作が出来ないので、喜んで譲ってくれました。今は車庫と経蔵が建っています。
黒瀬一郎さんが復旧工事に来られ、徳泉寺を事務所にされて、後で色々お世話になりました。大
きな石を運んで庭を築いて頂き立派に成りました。災
害のお陰です。この災害でも多くの方々から援助を頂
きました。藤井慶喜様ご兄弟や、安藤光子様や御同朋
からお見舞いを頂きました。また宗門の皆様からもお
見舞いを頂いております。
昭和二十二年十二月に長女小夜子が生まれ、二十四
年九月に次女和子、二十九年三月に三女玲子が生まれ
ました。三人も女ばかりでどうなるかと思いましたが、
それぞれ立派に育ち、結婚してくれました。特に、大
阪の称念寺を玲子が継いでくれて、千恵子姉にご恩を
返す事が出来て喜んでいます。何もかもうまくいった
人生で心残りなく死んでゆけます。
- 26 -
光明団
最後に、光明団について言わねばなりません。住岡夜晃先生は、昭和六年五月二十二日初めて徳
泉寺に来られました。私が八歳の時です。小学二年生で恥ずかしがりで先生の前に行く事ができず、
押入れの隅に隠れていると、其処まで先生が探して来て、絵本をお土産に下さいました。その絵本
は、親鸞聖人の一代記でありました。これは私の宝物として長く大事にしていました。その中に一
ページ、恐ろしくて見ることができない絵がありました。それは親鸞聖人が師法然上人にお会いに
なる前の煩悶を描いたものでありました。恐ろしい魔物が親鸞聖人を取り巻いているのです。其処
だけは、いつも急いで通過する事にしていました。これが私の先生とのご縁の始まりであります。
大阪から島根までは遠いので、小学六年の時と、中学三年生の時、父が亡くなる昭和十七年(師
範三年)計三回だけ夏休みに帰っています。
小学六年のときの記憶はありません。ただ夜行列車が長い時間かかった事と、江崎の姉のうちに
連れて行ってもらって、船で泳ぎに行った事、その時ボベご飯を焚いて食べた事だけ記憶していま
す。中学三年生の時は、益田の女学校を借りて県連講習会が開かれ、父と共に参加しました。色々
の思い出があります。師範の三年生の時は、父が病床にありまして、明覚寺で県連があり、始めて
講習会に本気で参加したのです。観経序分のお話で、度々『義坊、分かるか』と先生から言われ、
『半分位、分かります』と答えていました。最後の夜、『義坊前に出て来い』と呼び出され、『頭
を下げよ』と厳しく叱られました。それでもなぜ頭を下げねばならないのか解からず、大分抵抗し
ましたが結局形だけ頭を下げて許されました。父が十月に亡くなり、明年は軍隊に行くという時で
したので、先生も随分心配をしていて下さったのです。しかし、ついに信心決定にはならず、戦争
に行くことになりました。
軍隊は、佛も法も無い人殺しだけの生活です。あのまま戦死していれば、佛法のご縁は無いまま
- 27 -
で今生を終わる事になりました。不思議にも生きて帰ったので、佛法に値遇する事が出来たのです。
昭和二十一年九月、第十二回県連が徳泉寺で開かれました。それに合わせて大阪から帰りまし
た。当時県連を受けるのは大変な苦労がありました。布団を借り集めねばなりません。便所も準備
しなければなりません。野菜を集めて食事の仕度もしなければならないのです。そんな苦労は全て
日原兄にして貰って、講習会に参加したのです。八重子さんも来てくれました。その時はまだ何も
分からないままに終わったのです。しかし、本格的求道はその時から始まったと言えます。
翌年は、櫟田原の中屋敷が会場でありました。奥様の肝いりでしたが、奥様は準備の疲れで寝込
んでいられ、そのまま再起は出来なくて、冬に亡くなられました。
翌々年、昭和二十三年八月二十四日から二十八日まで、浜田顕正寺で夜晃先生の最後の講習会が
開かれました。信巻別序の講義でした。終わりの夜、例の如く感想発表が開かれましたが、終わり
頃になって、細川先生が、『それではやりましょうか』といって立ち上がり、『光明団の三字が抜
けておる』と叫ばれました。既に手筈が付いていたものと思われます。
突然の叱咤で会場は騒然となり、娘達は泣きだす始末でした。これは、大森先生が、本山に行か
れて曽我先生の講義を聞かれて、とても感激して戻られたのです。まだその頃は本山の動きが伝わ
っていない頃で、本山に行ってかぶれて戻るとは何事かという雰囲気があったのです。
柳田西信先生を中心とするグループと東本願寺の考え方との相異は、その後長く続いて遂に、柳
田先生の光明団離脱になりました。
東本願寺は、曽我、金子先生によって導かれて、従来の悪弊から脱出していたのです。その認識
が理解されていなかった時代の齟齬でありました。安田理深先生の薫陶もあって、細川先生を中心
とする現在の光明団の流れが確立して来たのであります。
- 28 -
であい
思えば、実に多くのよき人に出会い、念仏の教えの素晴らしさを教えられて今日があります。そ
の源は私に於いては夜晃先生です。しかし、その夜晃先生を教えてくれたのは父母であります。た
とい父が夜晃先生にお会いしていても、母が佛法に無関心であれば、子供は母に付くものです。母
の存在は大きいのです。私の場合父母が共に信仰が厚かったことが何よりの因縁であります。これ
は子供達に是非伝えておかねばならない事であります。
人間に生まれて佛法に遇わねば、何の意味もなく、人生空過に終わります。それを果たし得ただ
けで私の人生は大成功でありました。十方諸仏に感謝申し上げる次第であります。
それと共に、具体的な人生生活では、善き配偶者(八重子さん)に恵まれたことです。これは私
が見つけたのでありますが、不思議な因縁が背後にあったのであります。八重子さんは〔大正十二
年五月十五日〕、広島県壬生の生まれで、看護婦として勤めていましたが、海軍に招集され、南方
を志願したそうです。マニラ海軍病院から、最後の病院船で別府の病院に帰ってきたのです。しか
も、偶々二病棟勤務であったので、出会う事が出来たのであります。
結婚して、色々苦労がありましたが、その間愛し続ける事が出来て、なにの不足もありません。
共に佛法を頂いて、老後を静かに暮らす事ができました。今ここに、深甚のお礼を申し上げて置き
たいと思います。『母ちゃん有難う。良かったね』。
子
供の事
子供の事ですが、小夜子が疫痢にかかりました。小学校四年生のときだったと思います。続いて
- 29 -
和子もかかります。老人の医者で疫痢を保
健所に報告せず、内緒にしていたのが蔓延
の元でありました。小原でも既に死者が出
ていました。
夕方から元気がなくなり、夜中に具合が
悪くなり、朝早く医者に来てもらいました
が良くなりません。だんだん悪くなってコ
ーヒーのようなものを嘔吐し始めました。
もう駄目かという事になり。三隅の野上先
生に行きました。途中涙が出て泣きながら
野上先生の宅に飛び込み。『疫痢です。すぐ
来て下さい』と申します。先生は『よし』と言うなりスクー
ターで飛び出してくれました。
私は自転車ですから、帰りは押して歩いて上がらねばなり
ません。やっと家に帰ってみると。留守中に、八重子が吐き
出した薬をまた飲ませたのです。それが喉を越してくれまし
た。
オブラートに包んだ薬がオブラートの角が刺激して嘔吐す
るのです。とっさの機転で一度吐き出したものを又飲ませた
ので、うまく飲み込んだのです。薬が飲めたのでもう大丈夫
だろうという事で、野上先生はもう帰ってゆかれました。
- 30 -
和子は少し軽かったようでしたが、薬の飲ま
せ方がわかったので、二人揃って元気になりま
した。その代わり三十日間、外出止めを命ぜら
れましたが。それからは疫痢騒ぎも沈静しまし
た。これも今思い出して語っておくべき事であ
ります。更に玲子も疫痢にかかります。これは
壬生に行っている時の事です。壬生から疫痢に
かかったという電報が来ました。早速支度をし
て三保三隅の駅に行きました、もう汽車が出る
瞬間でありました。やにわに線路に下りて、動
き出した汽車にぶら下がったのです。駅員が危
ないと言って止めようとしましたが、それを突
き放しての軽業でありました。『子供が死に掛
けているのだ』と叫んで、汽車によじ登りまし
た。そのお蔭で浜田からの最終便で壬生につき
ました。夜中に病院に着いてみると、何とか峠
を越えたということでした。壬生の実家でも子
供が一人死んでいました。どうもおかしいとい
うので兄に病院へ連れて行って欲しいと八重子
が頼みます。兄は今夜はもう遅いから明日にせ
よといいます。ところがどうしてもというので兄がオートバイで連れて行ってくれたのです。その
為に命が助かったのです。後で兄が、ああすれば内の子も助かったのだと悔やんでいたそうです。
- 31 -
これも八重子さんの功績でありました。
戦後間もない頃は、知識もない上に衛生環境が悪く大変な時代でありました。そんな中でよくも
大きくなってくれた事と思います。八重子さんの看護婦経験と機知のお蔭で、今日があるのです。
徳泉寺の苦労話
もう一つ言って置かなければならない事があります。それは本堂の屋根の葺き替えです。何分、
戦時中手入れをしていない為、雨漏りがひどいのです。何とかしなくてはならないというので、度
々世話人会を開いて相談をしてもらいました。門徒が無いのですから、村内全体に寄付を募らねば
なりません。
屋根の裏地は竹で、その上に藁のこもを敷いて、その上に土を置いて瓦を葺くのです。山から赭
土を背負って来て、水を入れて足で練り、藁を入れて土作りをするのです。菰つくりを頼まねばな
りません。瓦も補充せねばなりません。大変な作業です。これにはくたびれました。
『身も疲れ
心も疲れ
疲れ果て
・・・・・』という歌を光輪に発表した頃です。
寄付を募って歩くのも大変です。それぞれの集落に世話人を頼み、その人と一緒に家々を回るの
です。快く寄付に応じてくれる家もあります。中にはこの際とばかり嫌味を並べる人もあります。
何を言われても頭を下げて、ひたすらお願いしますと言わねばならないのです。門徒の無い寺とは
こんなにも惨めなものかとつくづく知らされました。
海軍士官として、部下に命令を下していた時とは全く違った状況であります。それでなるべく寄
付は頼まないと決心したのです。徳泉寺はなぜ寄付を言わないのかと言ってくれる人も有りました
が、実情はそのような事です。
やっとの思いで屋根換えをしたのですが、瓦が悪いのと、土の上
に瓦を乗せたばかりですから、また漏り始めます。たびたび屋根に上って直すのです。八重子さん
- 32 -
も度々上っています。ある時、私が不在ですので、八重子さんが上がっていたら突然足を滑らせて、
ズルズルと滑り出したのです。あわや転落かと想ったら、やっと瓦にしがみついて助かったという
事もありました。
それでもう一度屋根換えをする事になります。今度は覚悟してかかりました。世の中も大分落ち
着いてきておりましたし、高度成長期でありましたので、前のように全村を回りました。又、山本
正子さんが、光明団のお同胞に語りかけて下さったお陰で、お同朋からも寄付を頂きました。西田
春子さんなど多額の寄付をいただいた事でした。
屋根換えと共に、内陣の修復もして立派になりました。七高僧と聖徳太子のご影は、江崎の姉の
寄付です。内陣の瓔珞は西田春子さん、打敷は本部の奥様、山本正子様、七条は伊藤義男様、お内
佛は山本正子様、本堂の修復と十三重の塔は杉山繁美様。杉山繁美様には大変ご苦労をお掛けしま
した。本堂のガラス戸や内陣の大工仕事、向拝の階段は藤井敬喜様。藤井敬喜様と藤井専一様には
水害の時にも大変お世話になりました。風呂は藤井専一様という風に、皆様のお陰で徳泉寺が立派
になりました。有難い事です。
もう一つ苦労話を付け足しますと、薪であります。今はプロパンガスと電気ですが、戦後はそん
なものは有りません。薪を心配せねばなりません。これも山が無いので、近所から炭焼きの後の小
枝を集めて、貰ってくるのです。山の高いところまで上っていって、束ねて背負って帰るのです。
家族総動員で出かけます。日原さん一家が帰られてからは、八重子さんと二人で背負いました。少
し離れたところに山があるのですが、そこまで行くのは大変なのです。でも度々徳泉寺の山にも通
ったものです。
薪の調達が大変なので、竈の改良にも苦労しました。新式の竈を幾つか買いましたし、据付の竈
も作りました。今も残っています。
- 33 -
それから、米作りですが、近所の方に教えてもらいながらの百姓です。裸足で田に入るのです。
ヒルが泳いでいます。牛を入れられない田ですので、アシナカと言うものを大工さんに作ってもら
ってそれを履いて田の中を歩き回るのです。畦をぬるのも大変でした。これは神武天皇時代の農法
だと言って居ました。それでもお米は六俵ばかり取れましたので、そのお陰で子供が育ったのです。
飲み水の苦労もあります。中谷の水を頂いて、竹の樋で家まで引いてくるのです。途中で樋が外
れたり、竹が駄目になって水が来なくなるのです。法座になると決まって水が来なくなります、水
がなくては食事の支度ができません。何度も修理に駆り出されました。それで、川の近くに井戸を
掘りました、ところが水が悪いのです。ついに三十メートルの打ち抜き井戸を掘り、やっと安定し
て水の苦労を忘れました。何分にも、三十メートルの底から上がって来る水ですから、素麺流しな
どには最高です。水量も豊富ですので心配なく使えます。
車庫の後ろに風呂を作りました。大工さんがどうしてこん
な大きな風呂を作るのかと言います。講習会をする為だとい
うと、風呂で講習会をするのではあるまいと言って笑ってい
ました。講習会を実際に引き受けた者でないとその苦労は分
からないのです。
苦労話はいくらでもありますが、この辺でやめて置きます。
苦労も有りましたが、多くの方の御好意のお陰で、晩年はと
ても幸福な生活を恵まれました。おまけに夫婦揃って九十一
歳まで長生きをさせて貰って、こんな有難い事は無いと感謝
しています。
壬生のお母さんにも随分お世話になりました。度々来ても
- 34 -
らって、布団造りや、色々の援助を頂きました。また壬生の兄夫婦にも随分お世話になったもので
す。
本部の講習会に行く時は、必ず壬生に子供を預けて行くのですから、兄夫婦が面倒を見て下さっ
ていました。母は御法を喜ぶ方で、聖典を買ってあげたらそれを大事にしていられました。
徳泉寺の歴史
徳泉寺は、元々四国の殿様が戦いに負けて石見に逃げてきて寺を建てたという言い伝えがある
そうです。昔は栄えた寺であったようです。しかし、住職が度々変わってついにいなくなり、門徒
も離散して荒れ果てていました。そこへ明覚寺の周布地の庵に岡本大喜という人が居り、そこへ養
子に入っていた父法憧さんが、入寺する事になったのです。
母は周布の醤油問屋の出であります。父母が早く亡くなったので、石浦の平田が叔母さんになる
のでそこに預けられていたのが、お嫁に来たのだそうです。
本堂が古くなっていたので、現在地に移転したのです。以前は向こうの山にありました。庫裏は
立派なもので、長く芦谷の民家に売られていました。また鐘楼は、三隅の浄蓮寺にいっています。
それらの建物は皆法憧さんが入寺する以前に、住職が売ってしまったのです。内陣の正面の欄間だ
けが残っていました。修復して懸けてあります。田舎には珍らしい立派な彫刻です。徳泉寺のかつ
ての面影を残しています。
本堂移転の跡地は、長く畑にしていましたが、昭和五十八年の災害で山が崩れて、今は檜林にな
っています。
法憧さんの苦労で現在地に再建したのですが、金が足りなくなって、押入れも作らず大変な家で
- 35 -
ありました。苦労して鋳た梵鐘も戦時中
に軍隊に召し上げられ、そのままになっ
ています。
しかし、光明団のお陰で念仏の寺とし
て立派に役目を果たして来ました。父法
憧さんの功績です。
徳泉寺再興の住職として大切に栄誉
を伝えたいと思います。法憧さんは、上
今明の農家の生まれで、兄弟三人の内の
三番目で、口減らしに明覚寺に小僧に入
れられたのであります。当時の事で小学
四年までしか行っていないという事でした。しかし立派な字を書
き、御花も池坊の先生の資格を持っていました。徳泉寺再興の住
職として大活躍してくれたのです。
長兄の義観さんは、当時住職の資格を取るためには、七年間夏
季学校に通わねばなりません。正楽寺の役僧をしながら、こつこ
つ貯めたお金で京都に通い勉強しました。
私が久留米に居た時、『貴方は島根県出身だそうだが、岡本義
観と言う人を知らないか』と問われて、『それは私の兄です』と
言うと、その人は、久留米の寺に養子に来ていた人でありました
- 36 -
が、播州の人で、『自分は、夏季学校で義観さんに大変お世話にな
った者です』との事で、懐かしいと言って、とても親切にして頂
いた事がありました。思いもかけぬ所で兄の余徳に預かったもの
です。
その兄は、自分が田舎で苦労したことを考え、大阪に拠点を築
くと言って大阪の寺に入寺したのです。それは、大阪の蜂屋賢喜
代先生を慕ってのご縁でありました。大阪に二つ寺の候補があり
ましたが、大きいほうは友達に譲って、小さい寺に入ったのです。
それが称念寺です。
ところが、運悪く腸チブスに罹り、医者の誤診で死んでしまい
ました。その時、兄の看護に来ていた千恵子姉がそのまま後を継
いだのです。そのお陰で、私の大阪での生活が始まるわけです。これも不思議な御因縁の巡り会わ
せであります。
以上は、日の当たる部分です。この他に、人間の一生には、誰にも言えない影の部分があるもの
です。それは内緒にして、地獄まで持って行く事になります。これで、永い一代記を終わります。
名付けて『瀧迫山詩(ろうはくざんし)』と言うことに致しましょう。
瀧迫山は徳泉寺の山号です。その昔、瀧の近くに寺が在ったのかも知れません。
- 37 -
境内にお墓を作りました。初めは向こうの山にありましたが、段々歳を取り近くに欲しいという
事になり、境内に移しました。徳泉寺一族だけで無く、広く誰でも入れるのです。既に、山本正子
さん、伊藤義夫さん夫妻、みのこし河野民代さん一家、豊田品代さん一家、等が埋葬されています。
墓石には、『従佛帰自然』と書きました。これは善導大師の法事讃の文です。佛に従って静かに
歩いて(逍遙して)自然の浄土に向かって歩む事が、念仏者としての生きる意味であります。この
墓に入る者は、皆念仏してお浄土まで共に歩みきらせて頂きたいとの願いをこめて書きました。称
念寺にも、同じ墓碑を書いて墓を作っています。
又、大きな石に『落ちて行く、無間の其処も、里の春』と言う句が彫ってあります。これは法憧
さんの辞世の句であります。『無間の其処』は、『底』と『其処』を掛けたものです。『其処』が
本当です、私が文字を間違えて『底』と書きました。御免なさい。この句碑も永遠に残る事と思い
ます。石は、黒瀬さん。石工は墓石と共に栗栖貞夫さんの彫刻です。良い記念になりました。
徳泉寺は、次女和子さんと英夫さんが継いでくれました。その次は大志さんと恵実さんです。何
卒宜しくお願い致します。
平成二十六年(二〇一四)五月三十日
岡本義夫
記之
- 38 -