Innovation Myopia : [付録] デジタルカメラの歴史とタイミング

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付録:デジタルカメラの歴史とタイミング

ちかふじりゅうちかふじりゅう

Innovation Myopia

デジタルカメラの歴史とタイミング

世界初のデジタルカメラは1975年にKODAKが

開発したが、商品化はされなかった.画像を

デジタルで活用する環境もニーズもなかった.

(*)世界初のデジカメと開発したDr. Steve Sasson (www.kodak.comより)

1980年

1985年

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1995年

2000年

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2010年

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1975年世界初のデジカメ開発(試作のみ)

80年代に入り、画像圧縮方式JPEGの標準化作業

が始まり、また、LSI LogicやZoran、C-Cubeな

どのシリコンバレー・スタートアップが映像処

理用LSIを開発、デジカメの心臓部が商用的に

利用可能となった.しかし、

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1975年世界初のデジカメ開発(試作のみ)

Zoran Corporation(1983)

C-Cube Microsystems(1988)

LSI Logic(1981)

圧縮方式JPEGの標準化作業開始(1986)

1975年世界初のデジカメ開発(試作のみ)

1980年

1985年

1990年 デジカメの商品化(業務用途)

1995年

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(*)オリンパスが1993年に市場投入したデジカメ.わずか38万画

素で本体価格が19万8千円、メモリーは2MBで4万3千円もした.

海上保安庁など特殊な業務用途だった.ちなみに、これでも当時

は破格の低価格だった.

1990年前後に各社デジカメを商品化したが、

パソコン市場も小さく、メモリーの価格は凄

まじく高く、当時、それは特殊な業務市場向

けの製品だった.

1975年

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1990年 デジカメの商品化(業務用途)

1995年

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Apple QuickTake 100 Photo courtesy of Jaquan, wikipedia

世界初のコンシューマ・デジカメは1994年に発

売されたAppleのQuikeTake100だ(*).しかし、

さっぱり売れなかった.

Apple QuickTake100 (1994)

世界初の民生用デジカメ

(*)実際の開発・製造は富士フィルム.なお、富士フィルムは1989

年に同社がリリースしたDS-Xが世界初のコンシューマデジカメと主

張しているが、試験販売でさらに価格が130万円もしたので、対象か

ら除外した.また、Dycam/Logitechが1991年に英国で500ポンドで販売した製品は、モノクロ且つ10万画素にも満たない低解像度だった

ので、これも対象から除外した.

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1990年 デジカメの商品化(業務用途)

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(*) Photo courtesy of Noische, wikipedia

ところが、翌1995年にカシオが市場投入した

QV-10はヒットする.Apple QuickTake100 (1994)

CASIO QV-10

最初に成功したデジカメ

CASIO QV-10 (1995)

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QuickTake100との機能的な大きな違いは液晶

ファインダーの有無だが、そのコストがこの

時期大きく下がったのが要因の一つだ.CASIO QV-10 (1995)

小型液晶パネルの低価格化が進む

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しかし、何と言っても、Windows95の登場で

パソコンが一般家庭、オフィスに広く普及し

たことが最大の要因だろう.CASIO QV-10 (1995)

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1997年にオリンパスは世界初のメガピクセル・

デジカメ(*)、CAMEDIA C-1400を市場投入する.

OLYMPUS CAMEDIA C-1400 (1997)

(+) Photo courtesy of Ra Boe, wikipedia

OLYMPUS CAMEDIA C-1400

(*)画素数が100万以上のデジカメを指す.

メガピクセルには意味がある.理論上130万画素

あれば高精細プリンタで6×4インチ(*)の紙に

印刷すると、視力1.5の人が50センチ離れて見た

時にフィルムカメラと解像度の観点から区別が

つかなくなる、という論理だ.

(*)フィルム写真をプリントする時に最も一般的だったサイズ.

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「写真画質」という言葉も使われたが、デジカメ

がフィルムカメラ市場を奪いにくる狼煙だった.

以後、デジカメはフィルムカメラの市場を蝕みつ

つ、画素数競争の時代に入るが、

(*) Photo courtesy of Ra Boe, wikipedia

OLYMPUS CAMEDIA C-1400

画素数競争の時代

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この背景の一つに高精細インクジェット・

プリンタの普及がもちろんある.

が、無視できないのは、

(*) Photo courtesy of Leo13, wikipedia

大ヒット製品のエプソンカラリオPM-700C (1996年末)

高精細インクジェットプリンタの普及

画素数競争の時代

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1980年代後半に登場したレンズ付きフィルムの

普及によって、「写真」を楽しむ文化が根付い

ていたことだ(*).

(+) Photo courtesy of Corpse Reviver, wikipedia富士フィルムのレンズ付きフィルム「写ルンです」

レンズ付きカメラによって写真を

楽しむ文化が根付く.

画素数競争の時代

(*)レンズ付きフィルムは富士フィルムの発明ではない.コダックが

1888年に”You Press the Button, We Do the Rest”のコピーで大ヒットしたビジネスモデルがその原型だ.この製品は、その後、当時の市場

では自分でフィルム交換できるニーズが高まり、消滅した。

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2000年頃、某大手調査会社はデジカメ総出荷

台数は年4千万台まで成長する、と予測した

が、この数値は過去のフィルムカメラ市場(*)

のピーク値からの類推、というか、そのまま

だった(実にいい加減である).

「デジカメ市場は、将来、出荷台数

ベースで年4千万台まで成長する!」

(*) レンズ付きフィルムは含まれない.

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実際には、レンズ付きフィルムで啓蒙された

潜在顧客は、予測値よりも断然多かった.

「デジカメ市場は、将来、出荷台数

ベースで年4千万台まで成長する!」

レンズ付きフィルムの啓蒙活動

予測値は、わずか数年で見直され、6千万台、

8千万台と立て続けに修正され、結局、2010年

の実績値では1億2千万台を超えた(*).

(*)CIPA(一般社団法人カメラ映像機器工業会)の資料より

当初のピーク予測

(*) 実際には、携帯電話、特にスマホは、カメラとして立派に活躍

しており、それを考えると、デジカメの市場規模は2015年に14億

台を突破している.市場調査会社の予測の30倍以上の規模でいま

だ成長している.

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ちなみに、レンズ付きフィルム市場のピークは

デジカメ黎明期の1999年であったが、

レンズ付きフィルム市場のピーク(1999)

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この巨大市場は、そのわずか数年後に崩壊する.

レンズ付きフィルム市場のピーク(1999)

コダック、1万5千人解雇(2004)

コダック、連邦倒産法第11章申請(2012)

富士フィルム、1万人リストラ(2005)

コニカ、フィルム事業から撤退(2006)

コニカ、ミノルタと合併(2003)

アグファ、破産申請(2005)

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2000年代前半は、ブロードバンドの浸透、メー

ルやブログ、画像共有サイトの普及もデジカメ

市場の伸びを後押ししたが、実はカメラフォン

の普及もデジカメ市場拡大に貢献した.

ブロードバンド接続の普及

ブログの普及、画像共有サイトの普及

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シャープが2000年末にJ-Phone(現ソフトバンク)

向けに世界初のカメラフォン、J-SH04をリリー

スした時、市場の反応は小さく、カメラメーカー

は、ひとまず胸をなでおろした.

(*) Photo courtesy of Morio, wikipedia

シャープJ-SH04(2000年11月)

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しかし、その半年後、J-Phoneは「そこまでや

るかよ」というぐらい徹底的なキャンペーンを

開始、市場を啓蒙しまくり、

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その影響は世界中の携帯関連の企業にも波及、

わずか1、2年でカメラは携帯電話の基本機能

になり、カメラメーカーは戦々恐々となった.

カメラが携帯電話の基本機能へ

ところが、恐れとは逆にデジカメの出荷台数は

カメラフォンに食われるどころか続伸した.

(*)CIPA(一般社団法人カメラ映像機器工業会)の資料より

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カメラフォンを通してデジタル画像の楽しさを

知ったユーザーがより良い画質を求めてデジカ

メを購入したからであり、さらに、ソーシャル

メディアの普及がそれを後押したからである.

カメラフォンがデジカメの「啓蒙活動」へ

ソーシャルメディアの普及

しかし、2007年のiPhone登場を待たずとも、

そのままでは、いずれ市場は携帯電話に蹂躙

されるのは明らかだった.

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業界全体としては移行準備のための「棚ぼた」

期間(*)は短くなかった.しかし、

カメラフォンがデジカメ売上を押し上げた

「棚ぼた」期間

(*) メーカーが乱立、業界4位以下は薄利多売で既に苦境だったが.

歴史は繰り返す.こんな短い期間でも.

1999年にピークを迎えたフィルム産業が、

デジカメの台頭で、そのわずか数年後に壊滅

状態になったように、デジカメ業界も2010年

のピーク後、スマホの台頭で惨憺たる状態に

陥り、現在に至る.

(*) CIPA(一般社団法人カメラ映像機器工業会)の資料より

ピーク

『終わりの始まり』

遅くとも、この時点で市場崩壊は予測できた.

以上、現在までのデジカメ市場を簡単に振り

返った.お気付きのようにデジカメの成功も

極めてタイミングに依存している.

カシオのQV-10成功は、液晶パネル価格の急低

下やWindows95登場によるパソコンユーザーが

急増したタイミングであり、

メガピクセル・デジカメ成功は、レンズ付きフィ

ルムによる啓蒙(*)で多くの消費者が写真を身近

に楽しむようになり、さらに高精細インクジェッ

ト・プリンターが普及したタイミングだった.

(*)この啓蒙活動を牽引した富士フィルムが、その後、フィルム

市場の崩壊で大リストラを余儀なくされたのは皮肉だが.

2000年代前半は、ブロードバンドの普及とメー

ルやホームページ、ブログ、オンライン・プリ

ンティング(*)の普及がデジカメ市場を拡大し、

(*)主に欧米市場.

2000年代半ばから後半にかけてはカメラフォン

とソーシャルメディア、画像共有サイトが消費

者にデジカメによる新しいデジタル・ライフを

啓蒙した.

2011年以降も顧客視点ではデジカメ市場が縮小

した訳ではない.顧客視点ではスマホやフュー

チャーフォンも立派なデジカメだ.市場縮小は

旧来のデジカメ業界の視点だ.

(百万台)

(http://www.statista.com/ とCIPAのデータを参考に作成)

実際、新興のカメラメーカー(*)のGoProは、

この期間、売上を大きく伸ばしている.

(百億円) デジカメ業界の出荷金額推移

(百万ドル) GoProの売上遷移

(GoPro社アニュアルレポートより)

CIPA(一般社団法人カメラ映像機器工業会)の資料より

(*)「GoProはビデオカメラであり、デジカメとは別に論じるべき」

と主張される方は、是非、セオドア・レビット教授の名著、

”Marketing Myopia”を一読されることを勧める.下記、解説:

http://www.frombayarea.com/post/117893051191/marketing-myopia

GoProが伸び始めた2010年前後は、Burtonや

Quiksilverなどのスノボやサーフィン、いわゆる

エクストリーム・スポーツのブランド各社がソー

シャルメディア・マーケティングを本格化した

タイミングであり、

GoProの”Virtuous Cycle”モデル

(同社投資家向け資料より)

3D-Printer等の普及でカスタム・マウントを容

易に作れるようになり、さらにはドローンの

普及がGoProと相乗するタイミングであり、

(*) Photo courtesy of Kyle Martin Tech "GoPro Tips and Tricks", YouTube

(*) Photo courtesy of Don McCullough, wikimedia commons

何より、Selfie(自撮り)してシェアすることに

人々が羞恥心を感じなくなったタイミングだった.

技術は優れていたのにタイミングが悪くて失敗

したビジネスには枚挙にいとまがないが、

天才技術者渡辺誠一郎氏がシリコンバレーで

立ち上げたデジカメ向けASSP(*)のNuCORE

Technologyもその一つだろう.

(*) CCD/CMOSセンサーで取得した映像信号は、そのままでは画像

にならない.補間やノイズ除去、各種画像処理を施し圧縮して標

準ファイル形式にしてはじめて画像となる.同社のASSP

(Application-Specific Standard Product)は、これら一連の処理を施すLSIであり、デジカメの心臓部にあたる.

同社製品は、センサーからの信号をアナログの

段階で積極的に処理することで高速且つ高品質

の画像を得られるのが特徴だった.2000年代前

半、デジカメメーカー各社は、価格は少々高かっ

たが、実は同社製品を高く評価していた.

しかし、ファウンドリー・サービスやFPGA(*1)の

普及でファブレススタイル(*2)が電機メーカー以

外でも定着、2000年頃にはカメラ・メーカーで

も大規模なLSIを独自に設計、開発、製造が可能

になった.

(*1) Field Programmable Gate Array:書き換えられる専用回路.書き

換えられるので、量産する前に何度でも試行錯誤ができる.結果、

LSI設計をそれ以前に比べて格段に容易にした.

(*2) Fabless manufacturing: Fabとは工場のことであり、Fablessとは

工場設備を持たないビジネスのスタイル.一方、台湾のTSMCやUMCなどはFabless企業向けに製造サービスを提供するファウンド

リーと呼ばれる.かつては東芝や松下、エプソンも半導体ファウ

ンドリー・サービスを手掛けていた.

(+) Fablessモデル確立への貢献で「Fablessの父」とも呼ばれた著名投資家のゴードン・キャンベル氏は、NuCOREの会長も兼任され

ていた.Fablessが確立した故にNuCOREのビジネスが可能になっ

た訳だが、同時に顧客であるカメラメーカーまでもが、LSIの自主開発に凝ってしまったのは、何と言おうか.

LSI設計に大きな部署まで組織してしまった各

社は、社内政治的にも(!?)心臓部たるLSI開発

は自社開発(*)せねばならぬ、という強迫観念

にも似た思い込みがあった.

(*) ローエンド製品へは各社OEMを使った.2000年台前半、富士

通のコストパフォーマンスの良いASSPを使った三洋のOEMデジ

カメが、オリンパスやニコンなどのローエンド機種で採用、一時、

カメラの中身の出荷台数シェアでは三洋のシェアが1位だった.

結果、当時としては破格の8千万ドル以上の

投資と顧客の関心を引き付けたにも関わらず、

大きな商談は成立せず.VCから送り込まれた

CEOはコスト優先に焦り、特徴であったアナ

ログ処理を捨てるなど経営が迷走した後、

出資額の半分にも満たない額で台湾のMedia Tek

に買収された.2007年、デジカメ業界が「棚ぼ

た」成長を続けている時期だった.

「たられば」になるが、もし、NuCORE設立が

あと1年早い1996年であれば、違う結果になっ

たであろう.

1997年、オリンパスが他社に先駆けてメガピク

セルを市場投入し、2000年代初めまでデジカメ

業界をリードできたのは何故か?

それは、富士フィルム、コダック、キャノン、

ミノルタ、ニコンの各社がフィルムの新規格、

APS(*)を何とかまとめ上げ、1996年にようやく

製品化にまで漕ぎ着けた翌年だったからだ.

富士フィルムのAPS製品フィルムに磁気記録面があり、撮影日時、プリントサイズ・

枚数指定、コメントなどを記録できる.

(*) Advanced Photo System

ようやくAPSに投じた資金を回収できると意気

込んでいた矢先、まさに絶妙のタイミングで

APSフィルム市場を脅かすメガピクセルが登場

した.APS陣営には招かれざる客だが、オリン

パスはAPS規格では蚊帳の外にされていた.

(*)この時期、市場をリードしていたもう一社はソニーであり、やはり、APS陣営には属していなかった.

このタイミングであれば、体制の整っていない

カメラメーカーをNuCOREの顧客にできた可能

性は十分あった.そして顧客の耳元で「デジカ

メの心臓部は映像センサー、脇役のLSIは我々

に任せて」と誘導することもできたであろう.

タイミングの妙で数奇な運命を辿った企業もある.

Googleの一部門となったAndroid, Inc.は、元々は

デジカメ用のOSを開発していた.2004~2005年、

同社は身売りを含めてデジカメ大手各社に売り

込みを掛けていた.

だが、デジカメ業界でOSが注目されるように

なるのはiPhoneが登場し、キャノンが独自OS

のDRYOSを発表した2007年以降だ.

もし、同社が売り込みをかけていた時期とデ

ジカメメーカーがOSに注目し始めた時期が重

なっていたら、Androidは地味なOSで終わって

いたかもしれない.

2004年、Appleは秘密裏にiPhone開発を始めるが、

この動きをキャッチしたであろう(*)Googleは翌年

Android社を買収、同社の命運が大きく変わった.

これもまたタイミングの妙であろう.

(*)秘密でも千人もの技術者、それも携帯開発経験者の採用活動は、

Appleで何が進んでいるのかバレバレであり、且つ、GoogleとApple

は社員の引き抜き防止の裏協定を結んだくらい社員の往来があり、

キャッチしてなかったと言う方が不自然だろう.

「タイミングが全てだ」

ー アンドレアス・ベクトルシェイム

デジカメにおいても、それは極めてコストの

問題だ.

液晶パネルやイメージセンサー、LSIなど技術

の実装にかかるコストは、製品の市場投入の

タイミングに大きく影響する.

デジカメの価値を高めるパソコンやプリンタ、

ブロードバンド、ソーシャル・メディアなどの

周辺機器・サービスの存在の有無も、デジカメ

のコスト・パフォーマンスに大きく影響する.

そして、顧客に写真やデジタル画像の楽しみ方

を啓蒙する活動は、本来、途方もないコストが

掛かったはずだ.

デジカメの歴史を振り返えると、メーカー側が

意図したかどうか別として、正しいタイミング

で投入された製品が成功した.

おしまい

付録編:

frombayarea.com

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