現代東南アジアにおける人々のアイデンティティ を考える · 23 Gaya Kerudung untuk hijaber berkacamata. Penerbit PT Gramedia Pustaka Utama)。スカーフ(ヒジャブ

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民博通信 2017 No.15622

この共同研究は東南アジアにおけるポピュラーカルチャーを対象として取り上げ、人々の多層的で流動的なアイデンティティについて考えることを目的とする。共同研究は最終年度をむかえ、現在は成果公開に向けて準備中である。この論考では現代東南アジア社会におけるポピュラーカルチャーを検討する際の着眼点について記述する。共同研究では今日のグローバルな資本主義に巻き込まれて生きる東南アジアの人々がどのような文化を経験しているのかという点に着目し、公的な場面に限らず人々の日常的な文化体験についても重視してきた。この問題を考える際に近年見られる顕著な傾向として以下の 2点を挙げてみたい。第 1は情報通信技術の進歩やネットワークの拡がりによるメディアの発展、第2は中間層の人々が消費活動によって自らのライフスタイルや社会的位置づけを表現する主要な存在となりつつある点である。以下、筆者の研究対象地域であるインドネシアの事例を挙げてこれら 2点を考察する。

メディアの発展インドネシアの現代文化に関する論考の中でアリエル・ヘルヤントは、商業的テレビのネットワーク数が急上昇し国民の 90パーセントが主要な社会的文化的活動としてテレビの視聴を挙げていることから、人々の関心がメディア、とくにテレビに向いていることを抜きにして現代インドネシアに関する研究は難しいと述べている(Heryanto 2014: 9-11)。またメタ・アストゥティはインドネシアの人々の消費活動に関する論考の中で、年齢や社会階層を越えてあらゆる層にフェイスブックが普及していることを指摘する。フェイスブックは、たとえば町の景観に関する議論を引き起こし、また選挙に際してもツィッターや Youtube に投稿されたビデオメッセージなどとともに多く用いられる。フェイスブックを用いたビジネスを行う人も多く、扱われる商品は洋服、靴、ムスリム女性のヴェール、鞄、アクセサリーなどのライフスタイルに関わる商品であることが指摘されている(アストゥティ 2013: 196-204)。現在、多くの人々はメディア

の普及、小型化、低廉化によってさまざまな情報にアクセスすることができる。新聞や国営テレビ局のニュースなどのナショナルメディアが文化表現に影響を与える主たるメディアであった時代とは異なり、人々はメディアへの多様なアクセスを通して多くの情報を受け取るとともに自らの情報を発信していく双方向の活動を行っている。このように自らの価値観に基づく選択によって、情報の受容と発信に参入する現状が見られる。近年のメディアの発展がもたらしたものは、同質の趣味や関心や経済状況を持つ人々を、地域的枠組みを越えて結びつけたことだろう。とくに若者世代がメディアを通して地域や民族や国家の枠組みを越えたつながりを形成しながら自らの文化的なアイデンティティを希求するケースも顕著に見られる。また影響力のあるメディアは必ずしも欧米発のものに限らないという点も重要である。東南アジアでは文化の発展の歴史の中でインド文化や華人文化の影響が色濃く見られたが、現代においてもインド映画産業や華人による文化産業がその内容とともに人材や産業システムなどの面で影響を与えてき

た。近年では韓国の影響も顕著に見られる。

消費活動を通したアイデンティティ表現現在の東南アジアにおける文化表現や身体表象の発信と生産、受容と消費について考える際には、経済的に裕福ないわゆる新興富裕層の出現についても考える必要がある。ジャカルタの新興住宅地に焦点を当てて消費、ライフスタイルと社会的差異化との結びつきを考察したケン・ヤングは、家、職場、学校、モスク、映画館、ショッピングモールなどのさまざまな場で彼らが富裕層としてのライフスタイルの行動コードを提示し自分たちの価値観と社会的指向を他の人々と区別していると指摘する(Young 1999: 56-85)。ここで重要な点は消費活動が新興富裕層のアイデンティティを形成するという点である。倉沢愛子はこうした富裕層に加えて、住環境や経済力に見合わないライフスタイルや消費行動をとり、親世代より高い教育

ムスリム女性のスカーフとメガネとのコーディネートを提案する本の表紙(Nuvailia 2015. 23 Gaya Kerudung untuk hijaber berkacamata. Penerbit PT Gramedia Pustaka Utama)。スカーフ(ヒジャブ hijab)をつける女性たちは「ヒジャバー(hijaber)」と呼ばれる。

現代東南アジアにおける人々のアイデンティティを考える

文・写真

福岡まどか

共同研究 ● 東南アジアのポピュラーカルチャー―アイデンティティ、国家、グローバル化(2013-2016年度)

民博通信 2017 No.156 23

を受け上昇志向を持つ人々を「疑似中間層」と位置づけ、彼らもまた消費を行う主要な人々となっていることを指摘する(倉沢 2013: 6-7)。ヘルヤントは、都市部の新興富裕層にとって日常生活において現代的であることは、伝統的なネイティブ(たとえば村落社会の中で伝統的とされる生活を営む人々で、彼らは近代にとっての他者として位置づけられる)と自らを区別し、植民地時代の後進性に対しても自らを差異化することにつながると指摘する(Heryanto 2014: 18-19)。このように都市部の新興富裕層の人々が、村落部の伝統的価値観に根ざす生き方をする人々や同じ都市部でも経済水準の低い人々と自らを差異化する現象が指摘されている(Heryanto 2014: 19)。文化実践の価値や表現の是非をめぐる議論においては、新興富裕層をはじめとする中間層の多様なアイデンティティが複雑に関与し合っている現状が示されてきた。たとえばインドネシアでは近年、とくに都市部の中間層を中心としてイスラーム意識の高まりが見られるが、これは必ずしも宗教上の現象ではなく、上記の消費活動との結びつきも顕著である。イスラーム・ファッションの流行やイスラームをテーマとする小説・映画などの興隆にも中間層の消費活動が影響を与えている。また都市部中間層によって、宗教的な見地からさまざまな文化表現や身体表象に対して批判がなされるケースもあるが、これらの宗教上の価値観は、「現代性」の対立項である「伝統」や「後進性」へのネガティブなまなざし、また村落部に住む人々の生き方や価値観に対する侮蔑や軽視などと結びつくこともある。このイスラーム的価値観に基づく批判は、しばしば神秘主義や土着の信仰などに彩られた伝統的な文化表現に対しても向けられる。こうした事例においては宗教的価値観が、先進性・後進性に関わる価値観や社会階層の差異化に関する認識と密接に結びついている現象を見ることができる。

多層的アイデンティティ上記の例に限らず現代社会の中で生み出され消費される文化は、人々の集合的アイデンティティを形成するだけでなく個人の多層的なアイデンティティを確認するための場ともなり得る。インドネシアにおいて国民国家統一が希求されていた時代には民族的出自に代表されるような集合的アイデンティティが重視され、多様な価値観の相克については公的な場で議論されることは困難であった。個々の人々の間に見られる多様な差異は集団としてのアイデンティティに還元されていく傾向が強く、文化表現やメディア表象を規制する強権的政策の影響ゆえ多様なアイデンティティの表現は難しい状況にあった。だが本来、人々の帰属や特性は複雑な様相を呈している。言語、民族、宗教、ジェンダーなどの要素の他にも、居住する地域や育った時代の状況、家庭環境、教育環境、経済状況などに起因する多層的なアイデンティティが見られる。民主化を遂げ、さまざまな面で文化の商品化が進みつつある状況の中で、集合的アイデンティティに覆われていた個人の多層的アイデンティティが表面化していくようになり、文化の消費のあり方も多様化していった。アイデンティティの希求は人々の消費活動、メディアを通した情報交流、音楽や画像などの視聴、身にまとう衣服など

を含むライフスタイルのあり方に影響を与え、文化表現や身体表象やメディア表象などに同質性や差異を見出していくことにつながっていく。この背景には教育水準の高まり、メディア環境の変化、経済の活性化などの要因がある。とくに情報のグローバル化によって人々が自己の多層的アイデンティティを見出していく現状が見られる。人々のアイデンティティの多層的状況に着目することはポピュラーカルチャー研究に限らず広く現代社会における文化的動向を研究する上でも有効である。たとえば従来「伝統的」とされてきた文化表現が現在どのように人々に受け取られているのか、また移民コミュニティーを含む世界の他地域でいかに広まっているのか、という問題について考える際にも人々の多層的アイデンティティについて検討する必要がある。また政治状況の変化やグローバル化する情報網の変化を背景として、多層的アイデンティティは時間軸に沿って変化を遂げていくこともある。筆者が調査を続けている女形ダンサーは、この数年間で自らの華人系としての出自をアピールする多くの作品を発表している。これはインドネシアで華人系住民に対する同化政策が見られた 1990年代までは考えられなかったことである。アイデンティティの流動性の側面にも着目しつつ、ポピュラーカルチャーの生産・流通・消費を通して変化を遂げる東南アジア文化の現状を描いていきたい。

【引用文献】アストゥティ,メタ 2013「インドネシアにおけるフェイスブック現象」倉

沢愛子編著『消費するインドネシア』慶應義塾大学出版会 pp. 196-204.

Heryanto, Ariel 2014 Identity and pleasure: The politics of Indonesian screen culture. NUS Press in association with Kyoto University Press.

倉沢愛子編著 2013『消費するインドネシア』慶應義塾大学出版会。Young, Ken 1999 Consumption, social differentiation and self-definition of the

new rich in industrializing Southeast Asia. In M. Pinches (ed.) Culture and privilege in capitalist Asia, Routledge. pp. 56-85.

ふくおか まどか

大阪大学大学院人間科学研究科 人間科学専攻基礎人間科学講座教授。専攻は民族音楽学。インドネシアの舞踊研究を中心に東南アジアの上演芸術研究に従事。著書に『性を超えるダンサー ディディ・ニニ・トウォ』(めこん 2014 年)、『ジャワの芸能ワヤン その物語世界』(スタイルノート 2016 年)、『インドネシア上演芸術の世界 伝統芸術からポピュラーカルチャーまで』(大阪大学出版会 2016 年)など。

シンガポールのマレー文化遺産センターにてインドネシア・ジャワ島の影絵のワークショップに参加する人々(2016年 8月)。

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