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……あるさなする……
31

Miyazawa Kanji Neko no jimusho

Feb 19, 2016

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Miyazawa Kanji Neko no jimusho
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Page 1: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

猫の

事務

……ある小さな官衙に関する幻想……

宮沢賢治

Page 2: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所があ

りました。ここは主に、猫の歴史と地理をしらべると

ころでした。

書記はみな、短い黒の繻子

しゆ

の服を着て、それに大へ

んみんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記を

やめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれ

も、みんなそのあとへ入りたがつてばたばたしました。

けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人

ときまつてゐましたから、その沢山の中で一番字がう

まく詩の読めるものが、一人やつとえらばれるだけで

した。

Page 3: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

事務長は大きな黒猫で、少しも

﹅う

﹅ろ

﹅く

﹅してはゐまし

たが、眼などは中に銅線が幾重も張つてあるかのやう

に、じつに立派にできてゐました。

さてその部下の

一番書記は白猫でした、

二番書記は虎猫

とら

ねこ

でした、

三番書記は三毛猫でした、

四番書記は竃猫

かま

ねこ

でした。

竃猫

とい

ふの

は、こ

れは

生れ

付き

では

あり

ませ

ん。

生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中には

ひつてねむる癖があるために、いつでもからだが煤 す

Page 4: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

きた

なく、殊

に鼻

と耳

には

まつ

くろ

にす

みが

つい

て、

何だか

狸 たぬ

のやうな猫のことを云い

ふのです。

ですからか

﹅ま

﹅猫はほかの猫には嫌はれます。

けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもん

ですから、このか

﹅ま

﹅猫も、あたり前ならいくら勉強が

できても、とても書記なんかになれない筈 は

のを、四十

人の中からえらびだされたのです。

大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まつ赤

な羅紗

らし

をかけた

卓テ

ーブ

を控へてどつかり腰かけ、その右

側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と

四番のか

﹅ま

﹅猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、

Page 5: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

きちんと椅子

いす

にかけてゐました。

ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと云ひ

ますと、

まあこんな風です。

事務所の扉と

をこつこつ叩 た

くものがあります。

「はひれつ。」事務長の黒猫が、ポケツトに手を入れて

ふんぞりかへつてどなりました。

四人の書記は下を向いていそがしさうに帳面をしら

べてゐます。

ぜいたく猫がはひつて来ました。

「何の用だ。」事務長が云ひます。

Page 6: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

「わ

しは

氷河鼠

ひよ

うが

ねず

を食

ひに

ベー

リン

グ地

方へ

行き

たい

のだが、どこらがいちばんいいだらう。」

「うん、一番書記、氷河鼠の産地を云へ。」

一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答へ

ました。

「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であり

ます。」

事務長はぜいたく猫に云ひました。

「ウステラゴメナ、ノバ………何と云つたかな。」

「ノ

バス

カイ

ヤ。」一

番書

記と

ぜい

たく

猫が

いつ

しよ

に云ひました。

Page 7: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

「さう、ノバスカイヤ、それから何!?」

「フ

サ川。」ま

たぜ

いた

く猫

が一

番書

記と

いつ

しよ

云つたので、事務長は少しきまり悪さうでした。

「さうさう、フサ川。まああそこらがいいだらうな。」

「で旅行についての注意はどんなものだらう。」

「うん、二番書記、ベーリング地方旅行の注意を述べ

よ。」

「はつ。」二番書記はじぶんの帳面を繰りました。「夏

猫は全然旅行に適せず」するとどういふわけか、この

時みんながか

﹅ま

﹅猫の方をじろつと見ました。

「冬猫もまた細心の注意を要す。函館

はこ

だて

付近、馬肉にて

Page 8: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

釣らるる危険あり。特に黒猫は充分に猫なることを表

示しつつ旅行するに

非 あら

れば、応々

黒狐

くろ

ぎつ

と誤認せられ、

本気にて追跡さるることあり。」

「よし、いまの通りだ。貴殿は我輩のやうに黒猫では

ないから、まあ大した心配はあるまい。函館で馬肉を

警戒するぐらゐのところだ。」

「さう、で、向ふでの有力者はどんなものだらう。」

「三番書記、ベーリング地方有力者の名称を挙げよ。」

「はい、えゝと、ベーリング地方と、はい、トバスキー、

ゲンゾスキー、二名であります。」

「トバスキーとゲンゾスキーといふのは、どういふや

Page 9: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

うなやつらかな。」

「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについて大略

を述べよ。」

「は

い。」四

番書

記の

﹅ま

﹅猫は、も

う大

原簿

のト

バス

キーとゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本

づつ入れて待つてゐました。そこで事務長もぜいたく

猫も、大へん感服したらしいのでした。

ところがほかの三人の書記は、いかにも馬鹿

ばか

にした

やうに横目で見て、ヘツとわらつてゐました。か

﹅ま

﹅猫

は一生けん命帳面を読みあげました。

「ト

バス

キー

酋長

しう

ちや

、徳

望あ

り。眼

光炯々

けい

けい

たる

も物

Page 10: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

言ふこと少しく遅し、ゲンゾスキー財産家、物を言ふ

こと少しく遅けれども眼光炯々たり。」

「いや、それでわかりました。ありがたう。」

ぜいたく猫は出て行きました。

こんな工合

ぐあ

で、猫にはまあ便利なものでした。とこ

ろが今のおはなしからちやうど半年ばかりたつたとき、

たうとうこの第六事務所が廃止になつてしまひました。

といふわけは、もうみなさんもお気づきでせうが、四

番書記のか

﹅ま

﹅猫は、上の方の三人の書記からひどく憎

まれてゐましたし、ことに三番書記の三毛猫は、この

﹅ま

﹅猫の仕事をじぶんがやつて見たくてたまらなくな

Page 11: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

つたのです。か

﹅ま

﹅猫は、何とかみんなによく思はれよ

うといろいろ工夫をしましたが、どうもかへつていけ

ませんでした。

たとへば、ある日となりの虎猫

とら

ねこ

が、ひるのべんたう

を、机の上に出してたべはじめようとしたときに、急

にあくびに襲はれました。

そこで虎猫は、みじかい両手をあらんかぎり高く延

ばして、ずゐぶん大きなあくびをやりました。これは

猫仲間では、目上の人にも無礼なことでも何でもなく、

人な

らば

まづ

鬚 ひげ

でも

ひね

るぐ

らゐ

のと

ころ

です

から、

それはかまひませんけれども、いけないことは、足を

Page 12: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

ふんばつたために、テーブルが少し坂になつて、べん

たうばこがするするつと滑つて、たうとうがたつと事

務長の前の床に落ちてしまつたのです。それはでこぼ

こではありましたが、アルミニユームでできてゐまし

たから、大丈夫こはれませんでした。そこで虎猫は急

いで

あく

びを

切り

上げ

て、机

の上

から

手を

のば

して、

それを取らうとしましたが、やつと手がかかるかかか

らないか位なので、べんたうばこは、あつちへ行つた

りこつちへ寄つたり、なかなかうまくつかまりません

でした。

「君、だめだよ。とどかないよ。」と事務長の黒猫が、

Page 13: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

もしやもしやパンを喰べながら笑つて云ひました。そ

の時四番書記のか

﹅ま

﹅猫も、ちやうどべんたうの蓋 ふ

を開

いたところでしたが、それを見てすばやく立つて、弁

当を拾つて虎猫に渡さうとしました。ところが虎猫は

急にひどく怒り出して、折角か

﹅ま

﹅猫の出した弁当も受

け取らず、手をうしろに廻して、自暴

やけ

にからだを振り

ながらどなりました。

「何

だい。君

は僕

にこ

の弁

当を

喰べ

ろと

いふ

のか

い。

机から床の上へ落ちた弁当を君は僕に喰へといふのか

い。」

「いいえ、あなたが拾はうとなさるもんですから、拾

Page 14: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

つてあげただけでございます。」

「いつ僕が拾はうとしたんだ。うん。僕はただそれが

事務

長さ

んの

前に

落ち

てあ

んま

り失

礼な

もん

だか

ら、

僕の机の下へ押し込まうと思つたんだ。」

「さうですか。私はまた、あんまり弁当があつちこつ

ち動くもんですから…………」

「何だと失敬な。決闘を………」

「ジ

ヤラ

ジヤ

ラジ

ヤラ

ジヤ

ラン。」事

務長

が高

くど

りました。これは決闘をしろと云つてしまはせない為 ため

に、わざと邪魔をしたのです。

「いや、喧嘩

けん

くわ

するのはよしたまへ。か

﹅ま﹅猫

君も虎猫君

Page 15: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

に喰べさせようといふんで拾つたんぢやなからう。そ

れから今朝云ふのを忘れたが虎猫君は月給が十銭あが

つたよ。」

虎猫は、はじめは恐 こ

い顔をしてそれでも頭を下げて

聴いてゐましたが、たうとう、よろこんで笑ひ出しま

した。

「どうもおさわがせいたしましてお申しわけございま

せん。」そ

れか

らと

なり

のか

﹅ま﹅猫

をじ

ろつ

と見

て腰

けました。

みなさんぼくはか

﹅ま

﹅猫に同情します。

それから又五六日たつて、丁度これに似たことが起

Page 16: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

つたのです。こんなことがたびたび起るわけは、一つ

は猫どもの

無精なたちと、も

一つは

猫の

前あし

即 すなは

手が、あんまり短いためです。今度は向ふの三番書記

の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆がポロポロころ

がつて、たうとう床に落ちました。三毛猫はすぐ立て

ばいいのを、骨

惜みして

早速

前に

虎猫

とらねこ

のやつた

通り、

両手を机越しに延ばして、それを拾ひ上げようとしま

した。今度もやつぱり届きません。三毛猫は殊にせい

が低かつたので、だんだん乗り出して、たうとう足が

腰掛けからはなれてしまひました。か

﹅ま﹅猫

は拾つてや

らうかやるまいか、この前のこともありますので、し

Page 17: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

ばらくためらつて眼をパチパチさせて居ましたが、た

うとう見るに見兼ねて、立ちあがりました。

ところが丁度この時に、三毛猫はあんまり乗り出し

過ぎてガタンとひつくり返つてひどく頭をついて机か

ら落ちました。それが大分ひどい音でしたから、事務

長の黒猫もびつくりして立ちあがつて、うしろの棚か

ら、気付けのアンモニア水の瓶 び

を取りました。ところ

が三毛猫はすぐ起き上つて、かんしやくまぎれにいき

なり、

「か

﹅ま

﹅猫、きさまはよくも僕を押しのめしたな。」とど

なりました。

Page 18: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。

「いや、三毛君。それは君のまちがひだよ。

﹅ま﹅猫

君は好意でちよつと立つただけだ、君にさは

りも

何も

しな

い。し

かし

まあ、こ

んな

小さ

なこ

とは、

なんでもありやしないぢやないか。さあ、えゝとサン

トン

タン

の転

居届

けと。えゝ。」事

務長

はさ

つさ

と仕

事にかかりました。そこで三毛猫も、仕方なく、仕事

にかかりはじめましたがやつぱりたびたびこはい目を

してか

﹅ま

﹅猫を見てゐました。

こんな工合

ぐあ

ですからか

﹅ま

﹅猫はじつにつらいのでした。

﹅ま

﹅猫はあたりまへの猫にならうと何べん窓の外に

Page 19: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

ねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしやみが

出て

たま

らな

いの

で、や

つぱ

り仕

方な

く竈 かま

のな

かに

入るのでした。

なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいため

で、なぜ皮が薄いかといふのに、それは土用に生れた

から

です。や

つぱ

り僕

が悪

いん

だ、仕

方な

いな

あと、

﹅ま

﹅猫は考へて、なみだをまん円な眼一杯にためまし

た。け

れど

も事

務長

さん

があ

んな

に親

切に

して

下さ

る、

それにか

﹅ま

﹅猫仲間のみんながあんなに僕の事務所に居

るのを名誉に思つてよろこぶのだ、どんなにつらくて

Page 20: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

もぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞと、か

﹅ま

﹅猫は

泣きながら、にぎりこぶしを握りました。

ところがその事務長も、あてにならなくなりました。

それは猫なんていふものは、賢いやうでばかなもので

す。ある時、か

﹅ま﹅猫

は運わるく風邪

かぜ

を引いて、足のつ

けねを椀 わ

のやうに腫は

らし、どうしても歩けませんでし

たから、たうとう一日やすんでしまひました。か

﹅ま

﹅猫

のもがきやうといつたらありません。泣いて泣いて泣

きました。納屋の小さな窓から射さ

し込んで来る黄いろ

な光をながめながら、一日一杯眼をこすつて泣いてゐ

ました。

Page 21: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

その間に事務所ではかういふ風でした。

「はてな、今日はか

﹅ま

﹅猫君がまだ来んね。遅いね。」と

事務長が、仕事のたえ間に云ひました。

「なあに、海岸へでも遊びに行つたんでせう。」白猫が

云ひました。

「いゝ

やど

こか

の宴

会に

でも

呼ば

れて

行つ

たら

う」

虎猫

とら

ねこ

が云ひました。

「今

日ど

こか

に宴

会が

ある

か。」事

務長

はび

つく

りし

てたづねました。猫の宴会に自分の呼ばれないものな

どある筈 は

はないと思つたのです。

「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ。」

Page 22: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

「さうか。」黒猫はだまつて考へ込みました。

「ど

うし

てど

うし

てか

﹅ま

﹅猫は、」三

毛猫

が云

ひ出

しま

した。「こ

の頃 ご

はあ

ちこ

ちへ

呼ば

れて

ゐる

よ。何

でも

こん

どは、お

れが

事務

長に

なる

とか

云つ

てる

さう

だ。

だから馬鹿

ばか

なやつらがこはがつてあらんかぎりご機嫌

きげ

をとるのだ。」

「本たうかい。それは。」黒猫がどなりました。

「本

たう

です

とも。お

調べ

にな

つて

ごら

んな

さい。」

三毛猫が口を

尖 とが

せて云ひました。

「けしからん。あいつはおれはよほど目をかけてやつ

てあるのだ。よし。おれにも考へがある。」

Page 23: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

そして事務所はしばらくしんとしました。

さて次の日です。

﹅ま﹅猫

は、やつと足のはれが、ひいたので、よろこ

んで朝早く、ごうごう風の吹くなかを事務所へ来まし

た。するといつも来るとすぐ表紙を撫な

でて見るほど大

切な自分の原簿が、自分の机の上からなくなつて、向

ふ隣り三つの机に分けてあります。

「ああ、昨日は忙がしかつたんだな、」か

﹅ま

﹅猫は、なぜ

か胸をどきどきさせながら、かすれた声で独りごとし

ました。

ガタツ。扉と

が開いて三毛猫がはひつて来ました。

Page 24: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

「お早うございます。」か

﹅ま

﹅猫は立つて挨拶

あい

さつ

しましたが、

三毛猫はだまつて腰かけて、あとはいかにも忙がしさ

うに帳面を繰つてゐます。ガタン。ピシヤン。虎猫が

はひつて来ました。

「お早うございます。」か

﹅ま

﹅猫は立つて挨拶しましたが、

虎猫は見向きもしません。

「お早うございます。」三毛猫が云ひました。

「お早う、どうもひどい風だね。」虎猫もすぐ帳面を繰

りはじめました。

ガタツ、ピシヤーン。白猫

しろ

ねこ

が入つて来ました。

「お

早う

ござ

いま

す。」虎猫

とら

ねこ

と三

毛猫

が一

緒に

挨拶

Page 25: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

ました。

「いや、お早う、ひどい風だね。」白猫も忙がしさうに

仕事にかかりました。その時か

﹅ま

﹅猫は力なく立つてだ

まつておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふ

りをしてゐます。

ガタン、ピシヤリ。

「ふう、ずゐぶんひどい風だね。」事務長の黒猫が入つ

て来ました。

「お

早う

ござ

いま

す。」三

人は

すば

やく

立つ

てお

じぎ

をし

まし

た。か

﹅ま

﹅猫も

ぼん

やり

立つ

て、下

を向

いた

まゝおじぎをしました。

Page 26: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

「まるで暴風だね、えゝ。」黒猫は、か

﹅ま

﹅猫を見ないで

斯か

う言ひながら、もうすぐ仕事をはじめました。

「さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアツクの兄弟

を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニ

アツク兄弟の中で、南極へ行つたのは誰 た

だ。」仕事がは

じまりました。か

﹅ま﹅猫はだまつてうつむいてゐました。

原簿がないのです。それを何とか云ひたくつても、も

う声が出ませんでした。

「パン、ポラリスであります。」虎猫が答へました。

「よろしい、パン、ポラリスを詳述せよ。」と黒猫が云

ひます。ああ、これはぼくの仕事だ、原簿、原簿、と

Page 27: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

か﹅ま

﹅猫はまるで泣くやうに思ひました。

「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて

死亡、遺骸

ゐが

は水葬せらる。」一番書記の白猫が、か

﹅ま

﹅猫

の原簿で読んでゐます。か

﹅ま

﹅猫はもうかなしくて、か

なしくて頰 ほ

のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいん

と鳴つたりするのをじつとこらへてうつむいて居を

りま

した。

事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になつて、仕

事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちら

つとこつちを見るだけで、たゞ一ことも云ひません。

そしておひるになりました。か

﹅ま

﹅猫は、持つて来た

Page 28: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

弁当も喰べず、じつと膝 ひ

に手を置いてうつむいて居り

ました。

たうとうひるすぎの一時から、か

﹅ま

﹅猫はしくしく泣

きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたり

やめたりまた泣きだしたりしたのです。

それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふ

やうに面白さうに仕事をしてゐました。

その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事

務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子

しし

の金いろの

頭が見えました。

獅子

は不

審さ

うに、し

ばら

く中

を見

てゐ

まし

たが、

Page 29: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

いきなり戸口を叩 た

いてはひつて来ました。猫どもの愕 お

ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそ

こらをあるきまはるだけです。か

﹅ま

﹅猫だけが泣くのを

やめて、まつすぐに立ちました。

獅子が大きなしつかりした声で云ひました。

「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴

史も要い

つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散

を命ずる」

かうして事務所は廃止になりました。

ぼくは半分獅子に同感です。

Page 30: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

底本

「宮沢賢治全集

」ちくま文庫、筑摩書房

8

1986(昭和

)年

月日第

刷発行

61

1

28

1

1996(平成

)年

月日第

刷発行

8

5

15

14

底本の親本

:「新修宮沢賢治全集

第十三巻」筑摩書房

1980(昭和

)年

月日初版第

刷発行

55

3

15

1

入力

:細川みづ穂

校正

:瀬戸さえ子

1999年

月日公開

3

8

2008年

月日修正

10

9

青空文庫作成ファイル

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫

Page 31: Miyazawa Kanji Neko no jimusho

(http

://www.aozo

ra.gr.jp

/)で

作ら

れま

した。入

力、

校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんで

す。